素敵な犬とワルツを その日は大雨で、私は傘も持ってなかった。 私、シグナル。19歳の女子大生。当然、一人暮らし。両親のそばを離れて暮らし始めてもうすぐ一年になる春先のこと。私は一匹の犬を拾った。 たぶん、傘を持っていなかったんだと思う。すごく濡れてて冷たかった。 「よっこいしょ!」 この犬はすごく重たかった。生き倒れなのかな、ごみ捨て場に転がっていたのを拾ってきた。すごく重たかったからとりあえず床の上に転がしておいて、バスタオルで拭いてあげる。鈍い金色の髪、整った顔、長い手足に引き締まった体。立ったらきっと私よりずっと大きい。じーっと眺めていたら、この大きな犬はうーんと唸りながら目を開けた。私と同じ紫色の瞳で、ぼんやりとどこかを見つめている。 「ここ…どこだ?」 この犬は意外といい声をしている。私は犬の横に座って優しく話し掛けた。 「気がついた? よかった。ここは私の家だよ」 「いえ…」 「覚えてないの? この大雨の中、ごみ捨て場に捨てられてたのを拾ってあげたのよ」 「あー、そいつぁ悪かったね、お嬢さん」 そういうと犬は起き上がって自己紹介をはじめた。 犬の名前はオラトリオ。現在28歳の男性。身長はなんと210センチ。私より50センチも高い。 「んで、何してる人? どこに住んでるの? 家族は?」 私がそういうと犬――オラトリオは苦笑した。 「俺のこと知らねぇ?」 「うん。どこかで会ったっけ?」 あったことのある人なら覚えてる。けどオラトリオのことは知らない。オラトリオはちょっと困ったように笑って私の髪を撫でた。 「この日本で俺のこと知らないお嬢さんがいただなんてびっくりだな」 「そんなことはどうでもいいから私の質問に答えて。じゃないと追い出すからね」 「わーったっ! 言うから追い出さないでっ」 「じゃあ答えて」 するとオラトリオはすっとテレビのリモコンを掴んでスイッチを入れた。この時間はちょうどニュースをやっている。 ――まさかのこの人、悪い人? どうしよう!! けれどアナウンサーは他県で起こった殺人事件の犯人が捕まったことを告げると今度は芸能ニュースに切り替えた。よかった、犯罪者を拾ったんじゃなくて。ほっと息をつくと、オラトリオはまた苦笑してた。 「サスペンスじゃなくてごめんな」 「サスペンスじゃないほうがいいよ…」 そういって笑い返す。オラトリオはまたテレビに戻る。女性キャスターに入れ替わり、明るい音楽が流れる。いくつかのニュースのあと、CMをはさんでメインのニュースがあるらしい。 『続いて人気絶頂の男性デュオ<ORACLE>のヴォーカル失踪事件の続報です』 あー、そういえば友達がそんなこと言ってたなぁ。私がしみじみ思い出しているとCMが終わり、<ORACLE>のヴォーカルだっていう人の写真が出てきた。 「あ、あれ? これって…」 「俺だよ」 「…へ?」 「俺が、今失踪中の<ORACLE>のヴォーカル、オラトリオだよ」 私は唖然として声が出なかった。そういえばなんとなくどこかで見た顔だとは思っていた。それがまさか…あの、オラトリオ本人だなんて!! よく考えるとオラトリオって名乗った時点で気がつくべきだったのかも……私、芸能には興味ないから〜〜、どっちかっていうと格闘技のほうが好きだからな〜〜。 「…ほんと?」 「ほんと」 本物のげーのーじんだ!! うわぁ〜、友達に見せたら喜ぶだろうな〜〜。 「けど、こんなところで何してんの? お仕事しなくていいの?」 「…ちょっとな」 「ちょっとどうしたの?」 私が問い詰めるとオラトリオは泣きそうな顔で見つめ返してきた。 「…スランプなんだ。詞も書けないし、そーなると歌も歌えねえしな」 「だったら休業すればいいじゃない、何も失踪しなくったって」 「失踪したら、ネタになるんじゃないかと思って」 「…げーのーじんってたいへんなんだね」 「そーなの、大変なの」 オラトリオがすりすり擦り寄ってきた。邪険にするのも可哀想な気がして、大型犬にでもするように撫でてやる。それでオラトリオは安心したのか、ゆっくり離れてにっと笑った。 「匿ってくれない?」 「はぁ?」 「めーわくはかけないよ。俺はこのとおりキャッシュカードもちゃーんと持ってきたからお金の心配は要らないよ。服だってちゃんと持ってきたし…一緒にバッグなかった?」 オラトリオがきょろきょろとあたりを見回す。私はオラトリオと一緒に拾ったバッグを出してあげた。彼は満足そうに笑った。 「そうそう、これこれ。まさかお嬢さんの服借りるわけにはいかないでしょ」 「貸すつもりもないです…」 「ごもっとも」 いい年して家出なんて…。それに… 「匿ってって…そんなことして私にメリットがある? ここだっていつ突き止められるかわからないよ? スキャンダルに巻き込まれるのは嫌だからね」 「メリットねぇ…うーん、そだ、俺がここにいる間家事をやる。お嬢さんは大学生だろ? 帰ってきてご飯が出来てたら楽じゃない?」 ご飯、という単語に弱い。自分でもそこそこできるけど疲れてるときは面倒で仕方がないからつい出来合いに頼っちゃう。実家にいたころは帰るとちゃんとご飯があった。お母さんが毎日毎日作ってくれてた。一人暮らしをはじめて、家事をぜ〜んぶ自分でやるようになって、お母さんの大変さがよくわかる。ひとりぶんだって嫌になるときがあるのに、お母さんは5人分――父と母、姉と兄と私――をこなしていたのだ。 「うーん、それは楽でいいけど…」 「俺は外に出ない。お嬢さんが材料買ってきてくれたら俺が何でも作ってあげる。掃除も洗濯もする。どう?」 私が家を空けている間、ご飯が出来てて、掃除もしてあって…なんて素敵。 「どう?」 オラトリオがにっこり笑う。一時的にしろ家事から解放される夢に私は頷いていた。 「わかった。じゃあ、今夜から匿ってあげる。けど、洗濯はしなくていいよ」 「なんで?」 「ベランダに出たら見つかっちゃうよ。それに…私の下着とか…」 「あ、そっか。じゃあ洗濯はしない。そーゆーわけでよろしく」 差し出された手は大きかったけど温かだった。それから私とオラトリオの奇妙な(?)共同生活が始まった。 私の部屋の間取り。玄関を入ってすぐ小さなホール。脇にお風呂と脱衣洗面所、トイレが別々に並んでいる。ホールを抜けると3帖ほどのDKがあってそれからその奥に6帖の洋室がある。それに収納スペースがついている。洋室の奥はベランダだ。一人暮らしの女子学生にしては贅沢な間取りだと思う。ちなみにここは5階だよ。 「綺麗にしてるな、流石」 「そんなことないよ、来たばっかりの頃は大学にもなれなくて片付けもできなかったんだから」 講義で使うテキストが机の上に散乱している。書きかけのレポートなんかも山積みだ。 「へぇ、夏目漱石なんてやってるのか」 「教養科目でね、日本文学受講してるの…って、見ないでよう」 「なんで、読んだっていいじゃん」 書きかけのレポートほど恥ずかしいものはない。オラトリオから奪い返そうとするけれど背の高いほうがこういうことは有利だ。下の階にご迷惑をかけるのでジャンプは出来ない。 「契約破棄…追い出してやる…」 「ああっ、ごめんなさい、もうしませんっ」 このとき私はオラトリオをしつけたといってもいいだろう言葉を得た。『追い出してやる』というとオラトリオは何でも素直にいうことを聞いた。 「で、オラトリオの寝床はどうしようか…」 210センチのオラトリオが私のシングルベッドで眠れるはずもなく。予備の布団はあるけれどこれも小さいだろう。あれこれ考えているとオラトリオはどこでもいいと言い出した。 「雨露がしのげればいいんだ。なんか上掛け貸してくれりゃそのへんにでも転がっとくよ」 「だめだよ、体壊しちゃう」 固い床の上で寝るだなんて。低反発のお布団がいいんだぞ。でもほかに寝るとこないし…どうしよう。 「じゃあ、一緒に寝るか?」 「なっ、なにいってるの?! だめっ、もっとだめっ!!」 恋人でもあるまいにもっとだめっ!! わたわたと手をふると、オラトリオはくすくす笑い出した。 「可愛いなー。まだ男知らないんだ」 「う〜〜、もう知らないっ!! 出てけっ!!」 「あっ、それだけはご勘弁を\(^ロ\)(/ロ^)/」 オラトリオは降参の白旗をふる。勝った…と思った。 「今度からかったら承知しないんだから…」 「わかりやした…」 とにかく、寝床。オラトリオには絶対に何もしないことを条件づけて、一緒に寝ることにした。 「変なことしたらたたき出すからねっ!!」 「わーってるよ。追い出されてもいくとこねーもん。ああ、シグナルちゃんが天使に見える…」 そういうとオラトリオはふっと目を閉じた。すやすやと寝息を立てている。きっと、久しぶりに落ち着いて眠っているんだと思う。 翌朝――普通に目を覚ました。いや、覚ましたかった。 ぼんやりした視界をはっきりさせると、なんとオラトリオが私を抱っこして寝ていたからだ。 「おはよう、シグナルちゃん」 「な・ななななな」 「俺は何にもしてないからな。シグナルちゃんが抱きついてきたんだよ」 確かに覚えはある。昨日の夜はちょっと寒くって、何か手近なものに抱きついた覚えが。もっとも寒かった原因はオラトリオに上掛けを半分取られていたせいでもあるのに。 「起きるの早いんだな、今日は1時間目からか?」 「ううん、今日はお昼から。でも起きるよ、朝はちゃんと食べないと」 「おっ、えらいねぇ」 「三食きちんと食べなさいってお母さんが言ってたもん。ほら」 私は起き上がってオラトリオに布を差し出した。オラトリオは何かと受け取る。それはフリーサイズのエプロンだ。 「…なんだよ、これ」 「何って、エプロン。入ると思うけど」 「これで何せよと?」 「契約。ご飯作って。ほら」 「そーでした…」 よいこらせと起き上がるオラトリオは、ミュージシャンには見えなかった。嬉々としてキッチンに立ち、朝食に支度をする姿もまた然り。 オラトリオの腕は流石に自分から家事をやるというだけあってよかった。目玉焼きが完璧な目玉になっているのに感動さえしてしまう。 「うわ〜、目玉だぁ…(´д`)」 「コツを覚えれば簡単だぜ、今度教えてやるよ」 「うん♪」 いつもひとりぼっちの朝ご飯が、今日はすごくおいしかった。 出かける前にこまごまと言いつけておく。 「もし…その、出かけるんなら、これ…」 「なんだ?」 「この部屋の予備の鍵。渡しとくから。使わなくても持ってて。何があるかわからないでしょ」 銀色に輝くそれをオラトリオはぎゅっと握りしめた。オラトリオの気が変わって出て行くかもしれないときのため。あるいは、見つかって連れ戻されるときのため。もしくは、緊急時――オラトリオの身内に何かあったとき。いろいろ考えて、渡してあげた。 「まあ…な。使わないで済むならいいけどよ」 哀しそうに微笑んでいた。まるでおいていかれる捨て犬みたいに。私はなんとなくあやさなきゃいけないような気がした。 「終わったらすぐ帰ってくるから…何か要る物あったら買ってくるけど」 すると私が気をつかったのがわかったのかオラトリオはすぐに笑った。 「今は挿し当たってないよ。夕飯作って待ってる」 「材料、あれでいいの?」 今朝はなんとなくごはん作らせちゃったけど、冷蔵庫の中にはろくなものが入ってなかったはず…。 「充分。冷蔵庫の中もちゃんと整理されてるし、キッチンも使いやすい」 「じゃあ、大丈夫ね。いってくる。あ、これ、携帯の番号とメアド。なんかあったらここに」 「わかった。いってらっしゃい♪」 返事が返ってくるのが、なんとなく不思議だった。オラトリオはにこにこと私を見送っている。 「ねえ、<ORACLE>ってどんなの歌ってるっけ?」 私が問い掛けると友達のひとりが私の手をぎゅっと握った。 「ようやく目覚めてくれたのね!! 可愛い顔して格闘技好きだなんてもったいないと思ってたのよ〜〜」 「そ、そうかな」 「MD貸したげるから!! 存分に堪能するのよ。ハードロック調の応援歌から甘く切ないバラードまで!!」 目を輝かせる友達は、水色のMDをわざわざプレイヤーから抜いてくれた。そのヴォーカルがうちにいるよ、なんて言わないけど。 ハードロック調の応援歌から甘く切ないバラードまでを歌い上げるテノールのヴォイス、それを引き出すギターの音。<ORACLE>には、それだけ。ベースもドラムもキーボードも、いない。<ORACLE>が信頼を置くものだけが、その楽曲に参加できる。 今私の目の前で嬉々としてハンバーグなんぞを焼いている人は、一体何があって失踪劇を演じているのだろうか。 「なに聞いてんだ」 振り返らずにオラトリオが聞いてきた。私も、何とはなしに答える。 「…友達に借りたの。<ORACLE>のニューアルバムだって」 「…この前出したやつだな」 「うん、またミリオンセラーだったんでしょ」 いくら芸能界に疎いからってちゃんとテレビはみてるし新聞だって読む。<ORACLE>が先日リリースしたばかりのアルバム『TWIN』は発売たった2日でミリオンという記録を打ち立てた。 「みーんなファンのおかげだね」 「そうだよ、感謝しなくちゃ」 「へいへい。ご飯だよ」 「はーい」 MDを止める。テレビをつける。<ORACLE>の曲はいろんなところにタイアップしているらしくて、どこかのチャンネルをつければ流れてくる。今流れているのは『TWIN』に収録されている『君がいなけりゃ』という曲…だと思う。自信なし。 ――あなたがいなかったらこんなに心乱されることはないのに、あなたがいないとまた心乱される―― 「世の中にたえて桜のなかりせば、ってやつだよ」 「ふーん」 <ORACLE>の楽曲の中ではじめて和楽器とコラボしたというこの曲はドラマの主題歌でもある。桜の木の下で儚く舞う花弁を見つめながら歌う人は私の横で幸せそうにご飯を食べている。本当に同一人物なのだろうか。 「私この曲、好きだな」 「そーか?」 「うん。誰にだってそーゆー人いるよね。いたらいたでうるさいけどいないとなんか寂しい人――お父さんとか、お母さんとか」 なんとなく、思い出しちゃった。ホームシックってわけじゃないけど、急に家が恋しくなった。するとオラトリオがげらげら笑い出した。 「なによ、なんか変なこと言った?」 「いや、そーゆー解釈するのもありだなって。一応恋人同士の歌だからな」 「あ…」 そうよね、恋愛系ドラマの主題歌だから恋人同士の歌か。身近な人を歌ったわけじゃないよね。変に恥ずかしくなってスープをすする。綺麗に澄んだオニオンスープはとてもおいしい。むう、おいしいじゃない。箸が止まってしまった私をオラトリオは面白そうに覗き込んだ。 「紅くなっちゃってる」 「スープのせいだもん」 「そんなに熱くないはずだけどな」 またからかう。そんなときは『出て行け』とか『追い出すぞ』って言えばいいんだけど、そのときは言わなかった。ご飯のときは喧嘩しない――実家の家訓だ。 「けどまぁ、歌ってやつは聞く人それぞれで印象が変わるんだ。お前が家族を思い浮かべてもそれはお前の感性だしな」 「そんなこと考えて歌作るの?」 「いや、俺は俺で、俺の経験とか思想――ってほど高尚じゃないけれど、まあそんなものを踏まえて作る。どう解釈するかは聞くやつ任せさ」 「ふーん」 グリーンサラダをはむはむとほおばりながら、オラトリオの話を聞いてた。スランプだって言ってたけどそうは思えない。ドラマなんかだと仕事の話を聞くのだって嫌っていうの、多いじゃない。けどオラトリオは違う。素人の私にもわかるように話してくれる。 夜になるとオラトリオは芸能界の裏話をたくさんしてくれた。もちろん、オフレコだよ。話題になっている俳優のNさんと女優のSさんが実は離婚寸前だとか、グラビアアイドルのYさんと人気アイドルグループメンバーのTさんは交際してるだとか。格闘技も好きらしくて、この前武道館でやった試合の結果なんかで盛り上がった。 「そうそう、やっぱり決め技はパイルドライバーよね!」 「仕掛け技としてはキャメルクラッチが基本だろ」 「でもあれ体のやわらかい人には効かないのよね」 オラトリオが隣で寝ていることも、あんまり気にならない。なんか実家の兄とは違った感じのお兄ちゃんがそばにいるみたいで…。オラトリオは短期間に『拾った犬』から『お兄ちゃん』に格上げされた。決め手は夕飯のハンバーグ、お母さんが得意で、私が大好きだった。 オラトリオを拾って一週間が過ぎた。おいしいご飯に舌鼓を打ち、芸能界の裏話を聞いて、夜になると寄り添って眠る。 「ただいま〜」 「よ、おかえり」 出迎えてくれる人がいると家に帰るのが楽しい。オラトリオは家を一歩も出ない。日長一日本を読んだり、テレビを見たり。ときどき作詞をやってるみたいだけどそれはうまくいかないみたい。 「悪ぃ、レポート用紙ちょっと借りたわ。……ちょっとって量じゃなかったけど」 みると丸々一冊分が丸められて転がっていた。呆れている私に、オラトリオは素直に謝った。 「弁償する…」 「いいよ、別に。歌作ってたの?」 「……お前が戻ってくるまで暇だったから」 オラトリオは申し訳なさそうにゴミと化したレポート用紙をひろってゴミ袋に入れていた。私は慌てて止めた。 「なにすんだよ、ゴミだろ」 「見せてよ。いいじゃない、私のレポート覗いたんだしぃ。見せてくれなきゃ…」 「わかりました…」 観念したオラトリオは残りを拾わなかった。私はひとつ摘み上げて開いてみた。男らしい文字でなにかを書いては消してある。ラブソングらしい歌詞がなんとなく読めた。作詞なんてはじめてみるからわくわくする。 「書けてねえだろ」 「ううん、結構面白い」 「面白い?」 「うん、男の人ってこんなこと考えてるんだなあって」 オラトリオはびっくりして私をみていた。釈然としないオラトリオは片膝をついて座り込んだ。 「敵わなねえなぁ」 「なにが?」 「お前と暮らしてちょっとなのに、前よりは書けるようになった」 スランプが解消されたみたいだとオラトリオは笑った。ぐりぐりと私を撫でる手は、相変わらず大きくて温かだった。 「よかったね」 それなら、オラトリオは帰っちゃうのかな――帰るんだよね、もう、歌えるんだもん。 なんとなくぼんやりとそんな事を考えていた、そのときだ。 ピンポーンと、ドアベルが鳴った。誰だろうと思ってとことこ出て行く。 「はーい、どちら様?」 ドアを開けるとオラトリオそっくりの人が顔を覗かせた。ドアチェーンをしていたからその人は入って来れなかった。私が思いっきり怪しんで見せるとその人は両手をわたわたと振って否定した。 「妖しい者じゃないよ、私はオラクル。<ORACLE>のギターリストのほうだ」 「<ORACLE>の?」 ああ、来るべき時が来た。ここが、つきとめられたんだ!! 「あの、そんな人がどうしてここに?」 「オラトリオが、いるね?」 私は首を振った。 「そんな人、いません! 帰ってください」 「いるんだろ、ここに」 「いませんってば! オラトリオって誰です? 何でそんな人がうちにいなくちゃならないんですかっ!!」 ドアを閉めようとした私の手を、オラトリオが背後から止めた。オラトリオは、すべてを覚悟していたようだ。 「オラトリオ…」 「オラトリオ、どうしてっ?」 「もういいんだ、シグナル」 もういいって、何が? どうしてここにオラトリオがいるってわかったの? わからない… 「騒ぎになると困るから、こいつ入れてやってくれ」 私は言われるまま、ドアチェーンをはずしていた。オラクルが――静かに入ってくる。 「どうぞ…」 「あ、お構いなく」 お茶なんてだすの、久しぶり。お客様だってあんまりこないのに。オラトリオとオラクルは本当によく似ていた。違うのは髪と目の色くらいで。背はオラクルのほうが少し低い。けどほんの少しであって、私なんかよりはずっと高い。のほほんとしたこの人が、バラードはともかくあんなハードなロックまでこなしているのが信じられない。 「オラトリオがお世話になっちゃって…なにかされなかった?」 「オラクル! それじゃ俺が見境なしに女に手ぇだしてるみたいじゃんかっ!」 「事実だろう?」 オラクルの突っ込みにオラトリオは黙った。 「あの、私は別に…」 「そう? それならよかった」 私がオラトリオとの関係を否定すると、オラクルはほっと胸をなでおろしていた。オラトリオはぎりっと彼を睨む。 「この子はそーゆーんじゃないよ。俺を拾って、面倒みてくれたの!」 オラトリオって、もしかして女性問題が絶えないのかな? でもそんなことより、もっと大事なことがある。私はおそるおそる口を開いた。 「あの…」 「なに?」 「どうしてここがわかったんですか?」 オラトリオがここにいるなんて…オラトリオは一歩も外に出なかったのにどうしてここがわれたんだろう。私が疑問に思っていることをオラクルに問うと、オラクルは困惑したように私とオラトリオを見つめた。 「あの、それはね」 「俺が連絡したんだ」 「…オラトリオが?」 オラトリオは優しく私を見つめた。菫色の瞳が鋭い色をしている。 「ここが、マスコミにかぎつけられそうだった。このまま俺がいるとお前に迷惑がかかる。だからこいつに連絡したんだ」 「そうだったの…」 だから同じ<ORACLE>のギターリストが迎えに来たのか。私はようやく納得できた。 「お前のおかげでなんとかスランプも脱出できたしな」 わしゃわしゃと、髪を撫でる。オラトリオが帰っちゃう――いなくなっちゃう。私はひとりで目覚めて、ひとりでご飯を食べて、ひとりで学校に行って、ひとりで戻ってきて、ひとりで寝なくちゃならない。変わらない、オラトリオを拾う前の日常に戻らなくちゃならない。 ――変だな。拾った当初はべたべた触るし、うろうろするし、なにより図体がでかくて邪魔だと思った。でも、ご飯はおいしいし、話してて楽しいし、レポートも手伝ってもらった。結構楽しかったのにな。 「世話になったな」 「ううん、私も…ごはんおいしかった」 オラトリオは微苦笑してた。私はオラトリオを見送ってあげることにした――泣かないで。 「…あとで、CDとか送ってやるな。お前全然持ってないから」 「うん…」 「じゃあな…」 「元気でね」 オラトリオはオラクルに連れられて帰っていった。 なんだかあっけない。拾ってやった恩も忘れて、出て行くときはあっさり出て行った。 「――恩知らず」 ドアの向こうに消えたオラトリオに宛てて。 「――拾ってやった恩も忘れて…ばか。ばかばかばか」 好きに、なってた。甘えん坊で、女誑しで、図体がでかくて――そんな大型の犬を。私は好きになってたんだ。 「明日からどうしろっていうのよ、冷蔵庫の中身―っ」 たくさん買っちゃったんだぞ、オラトリオは図体どおりにご飯食べるんだから。しかも結構凝ったものをつくるから私はめったに使わない調味料までそろえたんだぞ、馬鹿オラトリオ〜〜。私ひとりで食べられるわけないじゃない、全部冷凍には出来ないんだぞ、腐っちゃうぞ。 「ばかぁ…」 「そんなにばかばか言わなくったっていいだろ」 何で…なんでオラトリオの声がするの? 私はそっと後ろを振り向いた。オラトリオが薄く微笑んで立っていた。ドアを背にして立っていた私は思わずバランスを崩し、オラトリオに支えられる形になった。 「オラトリオ…なんで?」 「ちゃんとお別れのディナーしなくちゃと思ってな」 オラトリオが言い終わらないうちに、抱きついていた。オラトリオの大きな胸は私をすっぽり包み込んでしまう。 「〜〜〜ばか」 「…ごめん」 見つめる、瞳。同じ色――紫。もっともっと近づいて――ここで、キスして。 オラトリオが作ってくれた晩御飯を食べ終え、いつものようにおしゃべりをして、夜がふける。 今夜は、私の一生でいちばん特別な夜になった。 「シグナル…」 間近に私を見つめる瞳が熱かった。目をそらしたくなったけれど、それは見つめられるつらさじゃなくて、なんとなく恥ずかしかったから。 「オラトリオ…私…」 「わかってる」 オラトリオは優しく優しく、触れてくれた。 「ん…」 「大丈夫か? あんまりきつくしなかったと思うけど」 「大丈夫だよ。オラトリオ、優しかったもん…」 月が部屋を青白く照らしてた。オラトリオの腕に抱かれてふわふわした気持ちで横たわる。みんなこーゆー経験してるのかな…。なんかちょっと恥ずかしい気もするけど、オラトリオはどうかな。当然初めてじゃないだろうけど。小さく伸び上がってオラトリオを見つめたい。するとオラトリオがぎゅっと私を包んだ。 「…俺さ、本当の恋ってしたことないんだ」 「本当の恋?」 突然の告白に私は身じろぐ事も忘れて、ただ抱きしめられていた。 「デビューする前から女には不自由してなくってさ。それこそひっかえとっかえ。だから本気で惚れたことなかった」 「…でも、あんなに綺麗な恋の歌、歌えるのに」 「歌うだけならな。けど全部本気じゃねえ。オラクルは気がついてたみたいだったけど」 そういってオラトリオは、そっと私の髪を撫でた。私の髪は生まれつき色素が薄くて、しかも紫色だった。日の光に当たると虹色に輝いちゃう。月明かりに淡く光っているかもしれなかった。 「綺麗な髪だな…」 「生まれつきなの」 「…女神様みてーだな。さしずめミューズってところか」 「…9人もいないけどね」 私が笑うと、オラトリオも笑ってくれた。 「やっと本気で歌える――お前のために歌うよ」 もう一度、私たちは抱き合っていた。 それからまた一週間。<ORACLE>のふたりから私宛に小包が届いた。中身は<ORACLE>がデビューしてからこれまでにリリースしたマキシシングルやアルバム、それとライブの様子を収録したDVDがはいってた。 「…DVDプレイヤー、買おうかな」 うちにはプレイヤーないのに…ビデオ送ってくれたら見られるのにな。 あとは手紙。ふたりの直筆だぁ、わーいわーい、元気そうでなにより。手紙はお世話になったからってお礼状だった。そしてよかったらライブにも来てほしいって書いてあった。他になにか入っていないかと箱をあさるとレポート用紙が3冊入っていた。きっとオラトリオだ。律儀だなぁ。 オラトリオは私の家を出て行った。食材の使い方もちゃんと聞いて、また会う約束をして。 その後、何事もなかったようにオラトリオは歌番組にでていた。記者会見とか、週刊誌の記事にもいろいろ書いてあったけど、私の事には触れてなかった。オラトリオとオラクルが、あるいは<ORACLE>そのものがマスコミを封じてくれたおかげだと思う。オラクルは私がマスコミの餌食になるんじゃないかって心配してたからきっとそのせいだね。 ちらりと時計をみて、私は立ち上がる。部屋の真ん中に置いた箱は、あの日床に転がしたオラトリオみたいだと思った。 「さて。聞くのは帰ってきてからだな〜」 じゃあね、オラトリオ。 『気をつけてなー』 耳に残る優しいテノールが私の背中を押してくれる。 ある日の夕方、急に雨が降ってきた。 「やだなもー、傘持ってきてないのにぃ〜」 ばしゃばしゃと水溜りになりかけた道を蹴って走る。マンションの前まで来て、見知った人影に出会う。その人はさっと近づいて傘を差し出してくれた。 「よう、今帰りか」 「おっ…」 名前を呼びかけて、その人はすっと唇に指を当てた。そっか、名前を呼んじゃまずいよね。 「おっ…お兄ちゃん」 「久しぶりだな」 「どうしたの、急にくるなんて」 「可愛い妹がどうしてるかなと思ってね」 これはお芝居。オラトリオが出入りしてるのがわかると何かと面倒だもんね。だからお兄ちゃんと妹のふりをする。 また、あの雨の日に戻ったみたい。 「あ、CD聞いてくれてんだ」 「せっかく送ってもらったんだもん。でもDVDが…」 「あ、そっか。プレイヤーがないんだな。悪ぃ、気がつかなくて…」 「ううん、買うつもりだったから」 「そっかぁ? 悪いな」 「いいってば。ところで何しに来たの?」 まさかまたスランプになって逃げ出してきたわけでもないと思うけど。オラトリオはぽんと手を叩くと持っていたバッグをごぞごそとあさった。とりだしたのは一枚のCD、ケースがプリズムして光る。 「あ、そうそう。今度ニューアルバム出すんだ」 「じゃあ、詞が書けたんだね」 「おうよ、ぜーんぶお前のために作ったんだぜ♪」 そういうとオラトリオはできたばかりだというアルバムをくれた。発売日はなんと一週間後。すごい、こんなものもらえるなんて!! 「オラクルもよろしくって言ってた」 「ありがとう、今聞いてもいい?」 「ああ」 デモじゃなくてできたてを失敬してきたのでビニールに入っていない。あれ? CDってどこか工場みたいなところで作ってるんじゃないの? どっからもってきたの、これ? 販促用かな? まあいいや。 アルバムのタイトルは『Muses』。ジャケットには淡く輝く紫色の髪をした女性が花束を持って微笑んでいた。 「これ…私?」 「そ。今度のジャケット、オラクルが描かせろってきかなくって」 「これオラクルが描いたんだ…」 すごい…ギターだけじゃなくて絵も描けるだなんて…。才能のある人たちなんだと改めて感心する。 「オラクルも、お前のこと気に入ったみたいでな」 「へぇ、なんか照れるな」 オラトリオは、なんだか不機嫌そうに言ってた。 アルバムは全9曲。アルバムにしては楽曲が少ないけどオラトリオ復帰後一作目だからこの数にしたんだって。――ミューズは9人いるからな……オラトリオの言葉が蘇る。そっか、だから9曲しかないんだ。 流れる優しいメロディ。最初のナンバーは『wisteria』――オラトリオの、本気の恋。 3曲目に『SIGNAL』――優しい、仲間向けのナンバー。 最後の9曲目は『子犬のワルツ』――オラトリオと私の恋物語。 「子犬って?」 「俺のこと。拾ってもらったから」 「…オラトリオが子犬?」 どう見たって大型犬じゃないの。訝しんでいるとオラトリオがヘッドロックをかけてぐりぐりしてきた。 「やーん、痛いぃ〜〜」 「どーせ子犬って面じゃねえですよーだ」 オラトリオがすねて、私を放した。本当のことだと思うんだけど。完全にすねたらしくって、私は背後から抱きついた。 「すねちゃったの? オラトリオ」 「〜〜〜しぐなるっ」 「にゃあぁあぁあぁっ!」 すねたオラトリオを宥めようとしたところで、オラトリオに腕をとられ、抱きつかれ、押し倒された。 「好きだ、大好き。愛してる――本気だ。お前のこと歌にしちまうくらい……」 「うん、知ってる」 あの夜の告白、私は一生忘れない。恋をすることを知ったときほど、そーゆーもんだと思う。 「あのなぁ〜〜」 わかってる――本当はオラトリオも好きだって言ってほしいんだよね。そんなところは変に甘えたがるね〜。 「冗談だよ、私もオラトリオのこと好きだよ」 「…脅かしやがって」 オラトリオはほっとして私を抱きしめた。私も、オラトリオの背中にすっと手を伸ばす。 「お前がいると、ほんと、なんでも新鮮だよな…」 耳元に囁かれて体を竦める。優しい口付けの前にもう何もいらないような気がしてた。 <ORACLE>最新のアルバム『Muses』はまたミリオンセラーだった。それから私も、オラトリオとの恋を秘密裏に育んで… 「用意は出来たか?」 「うん、でも…緊張する〜」 某ホテルの控え室で、私はどきどきしてた。 「俺も。何度も記者会見はやったけどこれはな〜」 オラトリオも珍しくスーツを着てうろうろしていた。その後ろを、オラクルがにこにこと歩いている。 「今更おどおどしたって仕方ないだろ、行ってこい!!」 ばんと背中を押されて、私たちはフラッシュの前に突き出された。 オラトリオと出会って3年。大学を卒業したその年の春――私シグナルは22歳、オラトリオは31歳になっていた。オラクルとマネージャーさんの声がなんとなく嬉しそうだ。マネージャーさんは『オラトリオが女遊びをしないだけで薬の種類が減る』って言ってた。 「えーでは、ただいまより<ORACLE>のヴォーカル、オラトリオの婚約会見をはじめさせてもらいます」 そう、私たちは婚約したのだ。3年も付き合っていてマスコミにかぎつけられなかったのは兄妹を完璧に演じきっていたためだと思う。もちろん、ちゃんと私の実家に挨拶に行ったよ。お父さんはあんぐりしてて、お母さんははしゃいでた。いつもはポーカーフェイスの姉と兄もどう対応したらいいのか困ってたみたいだった。オラトリオのご両親はすでに亡くなっていて、私たちは墓前に手を合わせた。 そんなこんなで私の両親は結婚を認めてくれた。オラトリオの急な婚約にマスコミ一同は度肝を抜かれたという。 『マスコミ連中の驚いた顔ったらなかったぜ』 オラトリオは楽しそうだった。これまでやみくもにオラトリオを追っていたリポーターが歯軋りして悔しがっていたとあとでオラクルから聞かされて、げーのーかいは怖いところだと改めて知った。 「えー、ではふたりの出会いからお願いします」 記者さんが質問を投げかける。オラトリオはいつもの営業用スマイルでこなした。私はおろおろどぎまぎし、時折オラトリオに助けられながら嵐のような1時間を乗り切った。あとでオラクルが(記者会見の時間が)短かったね、と笑っていた。仕方ないじゃない、私は素人だもん、慣れてないもん。 私がぶすーっとしていると、オラトリオが肩を抱いてくれた。 「しゃーないだろ? こいつはすっごくかわいいんだから目ぇつけられないうちにひっこめないと」 そういって額にキスしてくれた。なんだか嬉しくてぽえぽえしてきた。『ごちそうさま』と呆れてるオラクルももう目に入らない。 その後<ORACLE>は精力的に作品を発表し、不動の地位を築いた。私はオラトリオとの間に子どもも生まれて幸せに暮らしている。 それは春雨がふるゴミ捨て場から始まった。 ――素敵な犬とワルツを踊ろう ≪終≫ ≪ひゅーほー≫ ……はっ、寝てたΣ( ̄□ ̄川) 今回はOt×S♀で、オラトリオがスランプで逃げ出したミュージシャンで、シグナルがそれを拾ってあげるというありがちな話です(やれやれ)。オラクルとデュオを組んでいただきました。もちろん、モデルになったのはB'Zです。いろんな設定の都合上、年齢がプラス3歳です。 いいなぁ、幸せそうだなぁ〜〜(←ど、どうしたの、幸乃さんっ!!) |