君とかき氷と8月の休日 8月はとぼけている とぼけた記憶の中にいる君はまだ幼いままで だけど確実に成長している君もいて 8月は間違いなくとぼけている 「あ、そーだ、オラトリオ」 「あんだよ、お袋」 夕食の席で思い出したように呟いた母親にオラトリオはお新香をかじりながら問うた。見かけは恐ろしく若いが25歳の自分を生んだ母は当然にして40代の半ばである。そして笑顔の絶えない人でもあった。ニコニコ笑いながらオラトリオを見つめ、箸を動かしている。 「母さんね、明日から父さんとハワイに行ってくるから」 「ふーん、ハワイねぇ…ってハワイ!? なんでまた…」 驚きのあまり箸からポロリと沢庵が落ちる。父親は黙ったまま、煮魚に手をつけていた。 「んふふー。あのねぇ、懸賞でぇ、当たっちゃったの」 「懸賞…ねぇ」 先ほど落ちた沢庵はご飯の上にナイスキャッチされており、オラトリオはそれをぽりぽり噛んだ。 「んで、なんで明日なんだよ、随分急じゃん」 「荷物は前からまとめてたのよ。父さんの休みがまとめて取れたからね♪」 「ふーん…」 「そういうわけで留守番よろしくね。一週間くらいで帰ってくるから」 「へいへい」 食事を終えたオラオトリオはさっと自室に下がった。彼の職業は小説家、しかも売れっ子である。両親は実に淡々とした人で、自分の食い扶持を稼ぐのに悪事に手を染めない限り何をしてもいいという――すなわち職業に貴賎はないという思考の人たちだったために定職にはつかず、日々パソコンに向かっている次第である。 「ハワイねぇ…」 パソコンの電源を入れながらオラトリオは目を閉じた。――白い砂浜、輝く太陽、マリンブルーの海、きれいなおねーさんたち…。 「おっと、最後のは余計だったな」 起動したパソコンは今からなにするのとばかりにオラトリオを待っている。先ほどまで書いていた小説の続きを書こうとファイルを開く。そして手が無意識に煙草を探しているのに気がついて苦笑した。 「煙草はやめたんだっけね」 もともとそんなに好きじゃなかったし、なにより周囲にやめろといわれたのがきっかけでもあった。そのうちひとりは禁煙に成功したあかつきには結婚を考えてもいいとさえ言ってくれた。 「どーしてるかな、シグナルちゃん…」 音井さんちの末娘さんは今年16歳の女子高生。踝まである長い髪は偏光する紫色で陽光をきらきらと弾く。紫水晶のようなぱっちりした瞳が白い顔にはまっていて、ご近所でも評判の美少女だった。9歳年下の彼女が生まれたときから知っているし、一人っ子の自分にとって妹のように可愛い存在だった。その美少女の恋人がこのオラトリオなのである。 今彼女はちょうど夏休みの真っ最中なはずだ。 愛しい少女の姿を思い浮かべながらオラトリオは流れるようにキーボードを叩いた。 「じゃあ、行ってくるからね」 「おう、気をつけて」 「お土産は何がいいかなぁ」 「いいから行ってこいって。飛行機間に合わなくなるぞ」 朝も早くからはしゃいでいると思ったのに出発直前までのんびりした母を急かす。自宅から空港まではタクシーで行く。それからハワイ行きの直行便に乗るらしい。タクシーから無邪気に手を振る母親に苦笑しつつ、オラトリオは自室に下がった。うだるような外の暑さがまるで嘘かのようにここはクーラーが効いている。 これから一週間、独りで暮らす。25にもなって寂しいわけではないけれど違和感は拭えない。学生時代も自宅から通っていたからあまり独りになったことがなかった。 ただ、小説を手がけるようになってからは一人になりたいと思うこともある。気分が乗っているときに母親が無邪気にもご飯なんて呼びに来るもんだからアイディアが遥か彼方に逝ってしまったこともしばしばだ。放っておくと食事もしないで書き続けていそうからと心配されるのはありがたいのだが。 オラトリオがほっと息をついたのも束の間、ピンポーンと甲高いドアベルが聞こえてきた。 キーボードを叩こうとした手が止まる。無視しようかとも思ったが一度気がついてしまったものを無視できないのがオラトリオという人間の性格なのである。彼はゆっくりした動作で立ちあがると頭の後ろを掻きながらインターフォンを取った。 仕事の都合上、自室にも取り付けてもらったインターフォンの画面に人の姿が映る。 「ほーい、どなた?」 『私ー』 明るい声に穏やかな笑顔は間違いなく彼女だ。 「シグナルちゃん♪ はいはい、今開けるよ」 オラトリオはにこにこと階段を降り、ドアを開けた。立っているのは可愛い恋人のシグナル。肩からスポーツバックをかけ、手にはコンビニの袋を下げていた。 「やっほー、オラトリオ」 見れば彼女は制服である。半そでのカッターシャツに大き目のリボンが愛らしい。スカートはタータンチェックでオラトリオに言わせると少し長い。白くて細い脚を黒のロングソックスで包んでいかにも夏の女子高生といった感じだ。踝まである長い髪を二つのわけ、三つ編みにしている。 「よお、どしたの?」 と、オラトリオが問えばシグナルはずいっとコンビニの袋を差し出した。 「差入れ」 「…は?」 「おばさんに頼まれたの。多分ご飯も食べないで仕事してるだろうからって」 気がつけばもう昼の青空で、自宅の鳩時計がおりしも12時半だと鳴いている。母親はこれを見越してシグナルをよこしたのだ。 「そ、そっか……まいいや、上がれ」 オラトリオはそれでもにっこり笑ってシグナルを招き入れた。シグナルはお邪魔しますとあがっていく。 「で、何を持ってきてくれたのかな」 「えっとね、暑いからおそば持ってきたの。それとかき氷買ってきたから。あ、冷凍に入れてくれる?」 シグナルが差し出したかき氷はカップアイスで、オラトリオはそれを受け取ると冷凍にしまいこんだ。 「なんで二つあんだ?」 「私の。せっかくクーラー効いてるからちょっと勉強してこうかと思って」 「なんだよ、夏休みじゃねーの?」 母親から今日中に飲むように言われている麦茶を入れてシグナルの前に置く。彼女はありがとうと呟いて手をつけた。 「今日まで夏季講習だったの。終業式の次の日からだよー、夏休みなんてあんまりないんだー」 「まだやってんのか、夏季講習…」 「明日から一週間だけ夏休みなんだぁ」 シグナルはオラトリオの遠い後輩になる。もっともそれは学区上の都合もあるわけなのだが。彼女の通う高校は界隈でも屈指の進学校だ、夏季講習はおろか冬季講習ももれなくついている。 「で、わざわざ来てくれたわけね」 「そ。とにかく外あっついし、でも学校にクーラーはないし…もうバテバテ〜〜」 「ま、ゆっくりしてけや」 珍しく元気のない彼女を気遣ってオラトリオはシグナルの差入れをいただいた。 それからオラトリオの部屋で彼は小説の続きに、シグナルは出された課題にそれぞれ取りかかった。 「わからないところあったら聞けよ」 「うん、でも出来るだけ自分でやってみる」 涼しいところにきたのと、おなかが満たされたことでシグナルはいつもの元気娘に戻っていた。オラトリオは微苦笑してパソコンに向かう。そして記憶の中に小さいころの彼女がよぎる。一度も宿題を見てやったことはないが、きっと扇風機の前で朝の涼しいうちにドリルに向かっていたに違いない。そういえば自分が夏季講習を終えて帰ってくるころに彼女は麦藁帽子をかぶって元気に遊びまわっていた。 「よう、もう遊んでんのか?」 「あー、オラトリオお兄ちゃん。今日の分はちゃんとやったの。だから遊んでるの」 「そっかー。車に気をつけるんだぞ」 「うん♪」 そういって駆け出していく女の子はすっかり女性らしくなって自分の背後においてあるもうひとつのデスクで課題をやっている。この机は担当編集がオラトリオを待っている間に使うものだが、時々はこうやってシグナルが使っている。おいてある辞書も勝手に使っているがオラトリオは気にしていない。シグナルは時々手を止めて考え、またペンを走らせている。オラトリオはキーボードを叩く手を休めない。 そうして数時間が過ぎたころ、シグナルが背伸びをして立ちあがった。そのまますっと部屋を抜ける。オラトリオは気がついていない。 「オラトリオ♪」 ぴと、と冷たいものが触れてオラトリオははっと振り向く。シグナルが諌めるように微笑していた。 「なんだよ、冷てーな」 「少し休まないと」 そういって昼に冷凍庫にしまったかき氷を出してきた。 「甘いの苦手でしょ。だから宇治にしてあげたよ」 「そいつはどうも」 そういうシグナルの手にはイチゴがある。シグナルに勧められるままオラトリオはカップのふたを開けた。 「シグナルちゃんは小さいころからずーっとイチゴだな」 「そんなことないよ。レモンだって食べるもん」 「でも俺はイチゴ食ってるとこしか見たことねぇよ」 「…そうかな」 シグナルは小首をかしげる。 「しかし、お袋いつの間にシグナルに繋ぎとったのかね…」 「一昨日だよ」 「一昨日…」 自分が両親のハワイ行きを聞いたのは昨日だった。身内よりも近所の女の子のほうが先だとは…。 「おばさんがね、オラトリオは私のいうことなら聞くからって」 「あ・そ…」 さすが、お袋。オラトリオはそう思った。 それからシグナルは短い夏休みをオラトリオのためにせっせと通ってきてくれた。そうめんを茹でてくれたり、お弁当を作ってきてくれたりと至れり尽せりの一週間はあっという間に過ぎようとしていた。 今日はその最後の日。課題もとっくに終わらせたシグナルは買ってきた雑誌をめくりながらオラトリオの部屋にいた。締め切りぎりぎりに小説を書き終えたオラトリオはいつもの伊達男ぶりはどこへやら、髪はぼさぼさで目が多少血走っていた。それでも終わってほっとしたのかシグナルには優しい笑顔を向けている。 「ねぇ、オラトリオ」 「ん?」 「しばらくお仕事お休みだよね」 「んあ? そーだなぁ…締め切りは昨日過ぎたし…」 昨日は雑誌連載の締め切りが2つも重なって、シグナルがマネージャー代わりに編集さんに対応してくれたのでとても助かったのだ。おかげでなんとか締め切りに間に合った。疲れ果てたオラトリオのかわりに家事をやってくれたりもした。 「悪ぃなぁ、せっかく夏休みだったのに」 「ううん、いいの。おばさんに頼まれてたから」 「…俺のためじゃなくて? せっかく恋人なのに」 そういうとオラトリオはそっとシグナルの肩を抱いた。シグナルは真っ赤になってうつむく。今思い返してみるとここ一週間のあいだシグナルと過ごした時間は未来予想図のようだった。頼まれたからとはいえ、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた彼女はオラトリオにとってさらになくてはならない存在となっていた。 「で、休みが何だっけ?」 「あ、そうだった。あのね、明日近所の神社でお祭りがあるの…」 「もうそんな季節かね〜〜」 「一緒に行かない?」 真っ赤になったまま、シグナルはちらっとオラトリオを見た。そんな仕草が可愛らしくてオラトリオはつい力を込めて彼女を抱きしめてしまう。 「可愛いっ」 「うにゃあぁ〜、苦しいっ…」 「たまら〜ん、可愛い〜〜」 「ちょ、ちょっとっ!!」 シグナルを抱きしめたままのオラトリオはあろうことかそのままシグナルを押し倒した。シグナルは必死に暴れ出す。 「や、やだっ…」 シグナルは知らなかったが、オラトリオがこれまでお付き合いしてきたお嬢さんがたもこうやっていただいてきたオラトリオなのである。だんだん冷静になってきたオラトリオは自分の体の下で泣きながら暴れるシグナルを見てぱっと退いたが、もはや後の祭だピーヒャララ。 「し、シグナルちゃん…」 おろおろとその名を呼んでみるが、シグナルは瞳を薄く潤ませてオラトリオをきっと睨み付けた。 「…らい」 「へ?」 「オラトリオなんか、大っ嫌いっ!!」 「ああっΣ( ̄◇ ̄lll) シグナルちゃん!!」 ふえーんと泣きながら走り去っていくシグナルを呆然と見送りながらオラトリオは自己嫌悪に陥る。 「俺ってやつは…」 忘れていた――シグナルはキスひとつで真っ赤になるような純真無垢な女の子だということを。ファーストキスだって返せ返せないで騒いだくらいなのだ。もちろん、そんな性急にシグナルを欲しかったわけじゃない、だけどあんまり可愛かったから。 「男の本能なんだよなー」 はっきり言ってあれは自分が悪かったが、かわいいシグナルにも罪がある、と思う。 だけどそう思ってもシグナルはすっかり臍を曲げてしまったわけで、どう取り繕っても許してくれそうにない。 「さて…謝りに行きますかね」 とにかく謝らなければ。未遂で終わったけれど――いや、別に無理やりどうこうというわけでもなかったけれど、彼女を深く傷つけたことに変わりはない。 オラトリオは手櫛で髪を整えると数軒離れたシグナルの自宅へと足を向けた。 あそこが、シグナルちゃんのお部屋だ。 レースのカーテンがかかっている、2階の端のほう。 怒っているかな、泣いているかな――多分、泣きながら怒っている。予想がつくだけにオラトリオは深くため息をついた。全面降伏以外にどの道を行けというのか。 「シグナルちゃーん」 外から呼びかけてみて無反応。 「シグナルちゃーん…」 再びチャレンジ、再び無反応。 「ありゃりゃー、完全に怒ってるってわけか…」 部屋にいない可能性は考えなかった。最初の呼びかけのとき、シグナルがちらと窓の外を見たのをオラトリオは確認していたからだ。 素直に家人に呼び出してもらえばいいのだろうが事情が事情だけにそれはまずいだろう。しかし状況は好転しているようでシグナルが窓辺をちょろちょろしているのがわかる。こちらを伺っているのだ。 夏の日没は遅く、それでも日が傾いたのと風があるせいかだいぶ涼しい。 そこへ灼熱の残骸がやってきた。ぽつりぽつりと落ちてきたと思ったらとたんにバケツをひっくり返す。 通り雨だ! そんな可愛いものじゃない、これはスコール並だぞ! 「ひえ〜、ついてねぇ…」 雨宿りする場所のないオラトリオは仕方なくシグナルの家の軒先に入る。タオルはおろかハンカチもないわけで、このまま自宅に戻るしかないか、と思ったそのとき。オラトリオの背後で重たい音がした。扉の開く音だとオラトリオは振り返る。 「オラトリオ…?」 「…よう、シグナルちゃん」 Tシャツにショートパンツという出で立ちのシグナルに見とれている場合ではない、オラトリオは自分が何をしにきたのかを思い出した。 「さっきはごめんな、シグナルちゃん。わざとじゃないんだ、ただシグナルちゃんがあんまり可愛かったから…」 「もう言わないでよ、恥ずかしいんだから…」 怒ったように赤くなったシグナルはずいっとタオルを差し出した。オラトリオは遠慮なく受け取る。 「ありがとう…もう怒ってないってことだよな」 「うん…謝りに来てくれたから、一応ね」 「本当にごめんな」 「もういいってば」 わずかに頬を染めて顔をそむけたシグナルに微苦笑して、オラトリオはがしがしと髪をふいた。普段はきれいに撫で付けている髪はぬれたせいでまとまらず、思ったより長い前髪がはらりと目元を隠した。 「オラトリオってさー」 「あん?」 「そーしてると別人みたいだね」 「そーか?」 「うん、若く見えるよ」 シグナルはくすくす笑っている。誉められているのか貶されているのかいまいちよくわからないが、まあ彼女の機嫌が直ったのでよしとしよう。 いつのまにか雨が上がり、ぱあっと日が差してくる。二人はそろって顔をあげた。 「…晴れたね」 「そーだな」 「ねぇ…明日のお祭り、一緒に行ってくれる?」 「…もちろん」 オラトリオはにっこり笑ってタオルを返した。シグナルは嬉しそうに受け取る。 「なぁ…約束のキスしようか」 「…ちょっとだけだからね」 シグナルはそう言ってきゅっと目を閉じた。オラトリオはそっと彼女を抱き寄せるとそのままゆっくり口付けた。そしてどんな形であれ彼女を求めている自分に気がついた。応じてくれているあたり、彼女も自分の好意を抱いているのだと信じたい。 だから、本当は離したくない。 でもちょっとだけだと約束したのでオラトリオは内心しぶしぶ唇を放した。 「じゃあ、明日な」 「うん…あ、あの、迎えに行くから」 「わかった」 オラトリオはちゃっとサインをきって自宅に戻った。途中で再び幼いころの彼女が脳裏をよぎる。 そういえばシグナルは小さいころ朝顔模様の可愛い浴衣を着て少し大きめの下駄をカラコロ鳴らしながらやってきた。 「オラトリオおにーちゃん」 「よう、シグナルちゃん。どーした?」 「お祭りいこー」 「…おねーちゃんがいるだろ」 「まだお家に帰ってきてないの」 10歳年の離れた姉は高校生で、小学生のシグナルとは生活時間が違う。 「お兄ちゃんは?」 「おいて行かれちゃったの…」 3歳年上の兄はシグナルがお昼寝しているあいだに出かけてしまっていた。 「しぐね、オラトリオお兄ちゃんと行きたい」 「なんでだ?」 「お兄ちゃんおっきいっから、肩車してもらったら花火に届くもん」 シグナルは元気に両手を広げて花火を表現して見せた。あんまり無邪気なので少々脱力したが暇なのでつれていってやることにした。 承諾し、準備して出てくると彼女の周りにわらわらと子供たちが集まっていて愕然とした記憶もある。その面子の中に同い年の従兄弟であるオラクルがいた。 「や、オラトリオ」 「なんだよ、おめーも行くの?」 「エモーションにせがまれてね」 みればカシオペアさんちの4人も揃っている。シグナルはニコニコと笑いながらオラトリオの手を引っ張った。 「そーいやぁ…」 その夏を最後に、シグナルをつれていった記憶がない。彼女が成長するにつれて彼女自身の交友関係を持つようになり、つまりは友達同士で出かけるようになったのだ。もちろん自分も女連れだったことは否定しない。 ということは今年の夏ははじめてシグナルと二人で行くということになる。 「…なんかいいことありそうだ♪」 早く明日になればいいと子供じみた願いに苦笑しながら自宅に戻ったオラトリオは帰ってきていた母親のお土産に乾いた笑いを浮かべることとなった。 「あーそうだ、オラトリオ。シグナルちゃん来てくれたでしょ」 「わざわざ呼びつけといて来てくれたはねーだろ」 ハワイというとマカデミアナッツ。オラトリオは遠慮なく開けて口に放りこんだ。 「…融けてる」 オラトリオは無言でふたを閉めるとそのまま冷凍にしまいこんだ。 「変なことしなかったでしょうね」 「するかよ」 未遂で、かつ先ほど謝りにいったことも伏せておき、なに食わぬ顔で返事をした。グラスに麦茶を注ぎながら母親をちらと見る。母親は不審のまなざしを向けつつもさっと土産の分別に戻った。 「それならいいけど…ねぇ、シグナルちゃんのお土産、これでいいかな」 オラトリオは母親の差し出すものを手にとって見た。軽い雰囲気の母親だがセンスはいい。 「いいんじゃねぇ? シグナルには明日会うし、渡しといてやるよ」 「えーっ、母さん自分で渡したいのに〜〜」 「…じゃあ、来たら呼んでやるよ。明日来るから」 「ほんと?」 「ほんとほんと」 自分の娘でもあるまいに…と思ってふと待てよと立ち止まる。将来シグナルと結婚すれば自動的に彼女は母にとって義理の娘になるわけだ。 「なるほど…そういう親孝行なら悪くはないかな」 ともあれ、明日のデートが楽しみなのには違いない。 時間というものはあっという間でオラトリオがキーボードを叩いているうちにその日の夕方になった。 実はシグナルは何時に迎えに来るからと確約しなかったのである。おそらく、出来なかったのだろう。今日びの女子高生はなにかと多忙を極める。 まだかな、まだかなと待っているのもなかなか楽しいものだ。 しかし先ほどから玄関先で聞こえている声は何なのだろうか。オラトリオは気になってそっと窓から覗いてみた。すると浴衣姿のシグナルが母親につかまって話し込んでいるではないか! オラトリオは慌てて降りていく。 「こらっ、お袋っ」 「あら、オラトリオ。今呼ぼうと思ってたのよ」 「やっほー、オラトリオ」 がくっと肩を落としかけたもの束の間、オラトリオはぱっと顔をあげた。濃紺に薄く菖蒲を染め抜いたシックな印象の浴衣に黄色の帯を締め、手には同じ柄の巾着を持っている。紫色の髪をくるんと結い上げて花簪で飾っている。薄く化粧をしているのか白い肌がさらに白く、でもほんのり赤く染まっているところがまた愛らしい。 「可愛いわね〜、シグナルちゃん」 「ありがとうございます」 にっこり微笑むとまた可愛い。オラトリオは理性を総動員していろんなことに耐えている。 「じゃあ、行こうか」 そのままシグナルを連れて行こうとしたオラトリオを止めたのは母親だった。 「…その格好で?」 「…だめか?」 「シグナルちゃんが浴衣なのにあなたが普通の格好だなんてバランス悪いわ」 と、強引な母親に連れ戻され、シグナルを待たせること10分。 「悪い、待たせたな」 「ううん、そんなことにない…よ…」 シグナルはびっくりしたように呆けている。 「どした? 似合わないか?」 なれた感じで着流しているのは同じ濃紺の博多絣できりっと帯を締めている。髪は撫で付けずにおろしたままだ。この出来に母親はいたく満足しており、二人を見てほうと感歎のため息をついた。 「我が子ながら男前ねぇ。シグナルちゃんと並んでも恥ずかしくないわ」 「へいへい、美男に生んでくださって感謝してますよ。じゃ、行ってくるわ」 「気をつけてね、途中でシグナルちゃんに変なことしちゃだめよ」 「わかってるって!!」 シグナルはさっと後ろを向いて見ないふり、聞こえないふり。多分それは自分にも向けられた言葉なのだと察している。 「ったく、自分の子供をなんだと思ってるのか」 「前科もちのくせに…」 「…昨日のことは言ってねぇよ。だいたい言えるわけねぇだろうが」 「私だって」 カラコロと鳴る下駄の音が夕暮れの涼を添える。神社に近づくにしたがって人が増えていき、オラトリオはそっとシグナルのそばによる。 「相変わらずすげー人だかりだなぁ」 「大丈夫だよ、小さい子供じゃないんだし、携帯も持ってるしさ」 「それじゃデートになんねえだろ?」 そう言ってそっと彼女の手を取った。柔らかい温かさが不思議と心地いい。シグナルははにかみ、でもその手を離さなかった。 「…行こう」 「おう」 そういって二人はまず社殿に向かい、参拝を済ませ、それから参道へ向かって歩き出した。道々にたくさんの夜店が出ている。 「あんまり変わらないね」 「シグナルちゃん、かき氷食べるか?」 「うん、食べたい♪」 そういうとオラトリオは二つ、注文してくれた。何にするのかと問われたシグナルは迷わずイチゴと答えた。 「やっぱりイチゴなんだな」 「…いいじゃない、好きなんだもん」 スプーンストローで氷をがしがししながらシグナルは少し先を歩いた。いつも一緒に並んで歩くシグナルが珍しいことだと思いながらオラトリオはその後を追った。 「どしたの、シグナルちゃん。なんか怒った?」 みぞれのオラトリオは心配になってそっとシグナルの顔を覗いてみた。すると彼女は怒っているわけじゃないといった。 「あのね、あっちに友達がいるから…からかわれたくないの」 だからちょっと離れて歩くんだと、シグナルは言った。オラトリオは安心したような、寂しいような気持ちになる。彼氏だって紹介してくれたっていいのにな、と思う。自分はシグナルを彼女だって言いたい。 「…認めてもらってないのかねぇ」 「そんなことにないよ」 うまく友達をやり過ごしたシグナルがそっとオラトリオの横に戻っていた。 「だってさ、紹介してくれたらいいじゃん」 「それはなんだか恥ずかしいもん……あ、オラトリオがっていうんじゃないよ、本当にからかわれるのがやなだけだから」 「じゃあ、俺のことちゃんと彼氏だって思ってくれてる?」 「…思ってなかったら付き合わないよ」 そういって上目遣いの頬を染めるシグナルにオラトリオの理性は徐々に衰退していく。何を思ったのかオラトリオはシグナルの手をつかむと彼女を引きずるようにして連れて行く。 「ちょ、ちょっとどこ行くの?」 「ほら、落ちついたところでかき氷食べたいだろ? いいとこ知ってるから」 さすがに人通りが増えてきたからオラトリオが言った事は本音だったわけだがシグナルはそうとらなかった。なにより彼の母親からさりげなく言われた言葉が脳裏をよぎったらしく不審な目でオラトリオを見ている。 「…変なとこじゃないでしょうね」 「社務所の裏だよ、知ってんだろ?」 変に取り繕ったような印象があるものの、やっぱり人通りが気になってきたシグナルはオラトリオの提案に従うことにした。 「うん、そこなら…」 「じゃあ、行くぞ」 「オラトリオっ、痛いっ!!」 「ああ、ごめん」 シグナルの手を掴んでいたオラトリオは慌てて手を離す。二人はしばらく歩いて社務所の裏までやってきた。ここは喧騒から逃れるように静かだった。 「…誰もいないね」 「…大丈夫だよ、本当に何にもしないから」 なんていいつつ、オラトリオは座れそうな場所を見つけて腰掛けた。横にシグナルもちょこんと座る。 「だいぶ溶けちゃった」 「しゃーないさ、まだ暑いからな」 食べる、というよりはほとんど飲むに近いが、それでも二人は黙ったままかき氷を食べていた。 「…なぁ、シグナルちゃん」 「なあに?」 「不思議だよな」 「なにが?」 シグナルが見上げるオラトリオは不思議と穏やかな表情をしていた。さっきまでのあの性急な感じは何だったんだろうと思う。 「おまえのことは小さいころからずっと知ってるのに、なんだかな、急に何かが始まったみたいに感じるんだ」 「オラトリオ…」 オラトリオはふっと瞳を細めた。自分でも不思議なくらい穏やかなのがわかる。 小さいシグナルと中くらいのシグナルと、大きいシグナルとが記憶の中を駆け巡り、にっこり微笑んでいる。 「…好きだよ」 「…うん」 迷わず、オラトリオはシグナルをそっと抱き寄せた。シグナルも逆らわずゆっくりと胸元に落ちつく。彼女の中のオラトリオはいつも大きかった。大きくて優しくて温かだった。愛を打ち明けられたあの日から、恋人になったそのときから“ふたり”が始まっていた。 「ねぇ、オラトリオ」 「ん?」 「なんか…不安なの?」 胸元のシグナルが不安そうに声をあげるのを、オラトリオは何でもないように笑って見せた。 「不安…ねぇ。そうだな…」 「あるの?」 「あるよ。シグナルちゃんは可愛いからほかの男に攫われないか、とかさ」 「他には?」 「…俺のこと、好きかな、とか…」 さらにきゅっと抱きしめらたシグナルは反動で顔を下げたがすぐにあげてオラトリオを見つめている。 「…私、オラトリオのこと好きだよ。今は、誰よりも好き」 「…今は?」 「うん、今は。だからさ、私が気を変えなくてすむように頑張ってよ。あ…その…け、結婚の約束だってしてあげたんだから」 煙草をやめたら、という約束だった。オラトリオはすんなりと煙草をやめた。 「じゃあ、信じる力をいただけるかね」 「どうやって?」 「ん? 簡単だよ。キスしてくれたらいいのさ」 オラトリオがいたずらっぽく微笑むとシグナルは真っ赤になった。が、真っ赤になった上目遣いのままで細い指先を頬に添えてきた。そのまま目を閉じ、彼女の出方を見る。ゆっくりした動作で、シグナルは自分の唇に触れてきた。柔らかな感触と甘い味覚がふわっとした力をくれる。 離れていく刹那さえ愛しくて、オラトリオはゆっくり目を開けた。 「…これでいい?」 「ありがとう、シグナル」 「よかった」 にっこり笑ってくれたもの束の間、彼女は再び赤く頬を染めてうつむいた。細い指でオラトリオの浴衣の胸元をきゅっと握っている。 「…どしたの?」 「やっぱり…ちょっと恥ずかしいな…わ、私から……キスするの…」 消え入りそうな声でそう言ったシグナルがますます可愛らしくてオラトリオはそっと抱き寄せる。 「…俺は恥ずかしくないよ。おめーのこと、愛してるからな」 「ばか…」 「本当に可愛い…」 あっちの茂みで自分たちよりもっとすごいことをしているカップルの存在に気がついていたオラトリオだったが、それは敢えて言わなかった。わざわざそれを伝えて怒らせるのは得策ではない。それに今自分が置かれている環境のほうがはるかに幸せだと感じた。 ―――自分が一番大事な人と心と心を重ねている これ以上の幸せがこの世にあるだろうかと思えるほど。もちろん、先に進んでみたいと思わないでもない。でも、今はこれでいい。いつか彼女が全面的に自分を受け入れてくれる日が来るまで待っていようと思う。 そこでオラトリオははたと気がついた。いつから自分はそんなに待てるようになったのだろう。ほしいと思った女性は躊躇わずにものにしてきた。別れるときも後腐れなくさっぱり別れたし、傷になんかしなかった。でもシグナルにだけは違う。ほしいと思うし、手も出しかけるけど結局我慢してしまう。もしも別れるなんてことになったら深く傷ついてしまうだろうし、もしかしたら生きることさえ放棄してしまうかもしれない。 これまでそんなふうに感じた女性はいなかった。 ということはやっぱり。 「おめーは、『運命のヒト』なんだろうな〜」 「運命のヒト?」 「そう。俺の一生で一番大事な女の子なんだよ」 「…他の人にもそう言ってない?」 「言ってないって」 「…ならいいけど」 そっと寄り添う二人の頭上で大きな音が弾ける。かなり小規模だけど花火大会が始まったのだ。やおら立ち上がったシグナルは慌てて音のほうへ駆け出す。 「オラトリオ、花火始まっちゃった」 「待てって。花火は逃げねーよ」 「逃げないけど終わっちゃう!」 「…そりゃそーだ」 言うなりオラトリオは何を思ったのかシグナルを抱き上げた。世の女性方が夢見るお姫様抱っこだ。 「きゃあっ」 姫を上げるシグナルににっこり笑いかけ、オラトリオはしっかりと彼女を抱きなおす。 「そいじゃーお姫様、全速力で参りますか」 「…へ?」 オラトリオは下駄のまま、さらにシグナルを抱き上げたまま信じられない速さで移動をはじめた。 「降ろしてっ、自分で走るよっ!!」 「いいからいいから、お兄さんに任せなさいって」 「オラトリオおお〜〜〜〜」 そして翌日――今日は日曜日。 「ばかっ!!」 開口一番ののしられたオラトリオは目をぱちくりさせている。 「何怒ってんだよ」 「何怒ってんだよ、じゃないよっ!! 昨日のあれ、友達に全部見られてたよ〜〜」 「ああ…あれね」 昨日、シグナルを抱き上げて全力疾走したあれはご近所でも評判になってしまっている。お似合いねとか、羨ましいわねとか、私ももう少し若かったらとか。臆面もなくいちゃいちゃしているわけではないのでみな温かくふたりを見守ってはいるが当のシグナルはそうではない。ご近所のおば様方に出会えば挨拶もそこそこ顔を真っ赤にして逃げ出している。けれど恥じらいがあるだけ可愛らしく映るのだ。 「昨日ちゃんと謝っただろうが」 「謝ればいいってもんじゃないのっ! うちの母さんなんかお赤飯炊くなんて言い出すし…」 シグナルの母親はおめでたいことと勘違いしているらしい。 「オラトリオのせいだからねっ!」 「…わーったよ、じゃあどうしてほしいわけ?」 オラトリオはふうと諦めたようにため息をつき、息巻いているシグナルの前に立った。210センチのオラトリオは160センチのシグナルにしてみれば壁のようだ。迫力もある。文句だけ言ってはみたものの、別にどうする気もないシグナルはちょっとだけ困った。が、怯むわけにもいかない。 「えっ…」 「え?」 「えっ…駅前のレストランでやってるケーキバイキング…」 「ケーキバイキング?」 「お・おごってくれたら許してあげる…」 そう言えば8月31日までの期間限定でケーキバイキングやるってチラシが入ってたよなぁ…と、回想するオラトリオをシグナルは上目遣いにきっと強い視線で見つめていた。そんなことで済むならとオラトリオはふんと鼻で笑った。 「いいぜ。そんなんで済むなら安いもんだ」 「…私だけじゃないからね。友達もいれて4人だからね」 「一人1500円だろ。大した額じゃねぇな」 「…本当にいいんだね?」 「かまわねえよ」 余裕綽々のオラトリオだったが、ケーキバイキングに連れて行く日になって愕然とする。 「は? この時間、料理一切なし? マジ?」 「申し訳ございません。この時間はケーキバイキングのみとなっておりますので…」 「だから言ったじゃない、いいのかって」 はめられた…そう思ってみても後の祭、シグナルたちは嬉々としてケーキを選んでいる。甘いものが苦手なオラトリオにとっては苦痛でしかない。しかも客のほとんどが女性で男性客はほとんど見当たらない。いたとしても女性客と同じように楽しそうにケーキを選んでいたりするからはっきり言ってオラトリオは居たたまれなくなる。自分が口に出来るのはドリンクバーのコーヒーか紅茶くらいなものだ。 女の子達はオラトリオがげんなりするくらいのケーキを平気で平らげている。 「美味しい〜、幸せ〜〜」 「ダイエットしてるけど食べちゃう〜〜」 「オラトリオさんは食べないんですか?」 「お嬢さんがたの幸せそうな顔でおなかいっぱいだよ」 そう言ってにっこり笑ったところをシグナルがテーブルに下で蹴り飛ばす。しかしオラトリオはじっと我慢して笑顔を作っていた。 誰しも満足したところで店を出、シグナルの友人たちはそれぞれに帰っていった。ふたりになったところでシグナルはくるりとオラトリオに向き直る。 「…ごめんね」 「…何謝ってんだよ」 「ちょっといじわるが過ぎたかと思って」 「…まあな。でもまあ、いいさ」 オラトリオはぽりぽりと頭を掻いた。 「なんで?」 「シグナルちゃんがさ、俺のこと彼氏だって紹介してくれたから」 「ばれちゃったのに隠し立てすることもないでしょ?」 「それでも嬉しいんだよ」 自宅へ向かって歩きながらオラトリオはふとシグナルのバッグに目をやる。キラリと何かが光ったからだ。 「あー、シグナルちゃん、それちゃんと使ってんだな」 「これ? うん。だっておばさんがくれたんだもん。どこにつけよーかなーと思ったんだけどここがいいかなって」 バッグからちょこんとはみ出した携帯電話のストラップ。その中に淡い紫色の水晶が光っている。オラトリオの母親が土産にとシグナルにくれたものだ。 「可愛いから気に入ってるんだぁ」 「お袋がきいたら喜ぶよ」 帰る道々いろんなことを話しているとあっという間にシグナルの家に着いた。 「…今日はありがとね」 「どういたしまして」 「じゃあね」 「おう」 と、シグナルは家に入るかと思いきや、慌てて戻ってきた。 「オラトリオ、待って」 「どうした? シグナル」 「忘れ物したっ」 「忘れ物?」 何だろうと思うオラトリオにシグナルはかがんでくれと言った。わけがわからないが、とりあえず言われたとおりに彼女に視線を合わせる。するとシグナルは間髪いれずにオラトリオの頬にふわっと口付け、そのまま真っ赤になって逃げるように家に入った。 何が起こったのかわからないオラトリオはしばらく呆然とし、そしてようやく理解できるとにんまりと笑った。 「…すっげー可愛い」 不覚にも自分が口付ける前に逃げられたがこれも一歩前進だと思い、そのまま帰路につく。 確かな未来がそこまでやってきている気がして、オラトリオはこの幸福を逃がしたくないと本気で考えていた。 最初は小さな君とかき氷 8月の休日はまやかし、あるいは幻。 始まりはいつも君とふたり ――君とかき氷と8月の休日 ≪終≫ ≪なんて取り留めのない≫ Ot×S♀で、IF…です。『Vacation map』という作品の設定でオラトリオが小説家でシグナルが女子高生でした。 夏祭り系統の話はあんまり書かないようにしてたんですがやっぱり書いてしまいます、楽しいから。祭りだらけの博多に住んでいて書かないっていうのは手落ちだよねぇ、と思ったわけなのです。しかしまあ取り留めのない話になっちゃって申し訳ないと思ってます。 いつものことだけどね。いいんだ、別に…。 |