露と消えにし
伊勢物語 「二条の后」より


白玉か なにぞと人の 問ひし時 露とこたえて 消えなましものを



「なあ、聞いたか、音井の末の姫が入内するらしいぜ」
「へぇ、音井もそろそろ地盤固めってヤツかねえ」
このごろ都に流行るもの。それは今をときめく音井家の末娘の噂話。邸の奥深く住まう深窓の美少女はいまだ誰の目にも触れていない。その姫が入内することになったので、周囲は大騒ぎになっている。姫の入内は帝と間に皇子をもうけその子を次代の帝に据えるのが目的だと、誰もが知っている。古よりそうして権力を握ってきた王朝の歴史。その歴史の中にまた一人の女性が消えようとしていた。
「なぁ、オラトリオ、お前のことだ、その姫様、気になるんじゃねえの?」
「ばぁか、俺だって自分の首は惜しいよ」
同僚のご意見にひらひらと手を振ってから、いつものように何処かの女房をからかっているのは当代きっての遊び人オラトリオ。象牙色の直衣が包む長身はゆったりとした動作を見せる。きらびやかなその姿に今日も御簾の向こう側で何人かの女房が気絶していた。

―――音井の末姫の入内
気にならないことはなかった。大臣の掌中の珠といわれる姫君。約束された輝かしい栄光の者でも着物の下は生身の女。
『どんな女だって落としてみせる』
オラトリオの心中に形容しがたい何かが芽吹いた。
皇族に生まれながら政変に巻き込まれ、臣籍に甘んじなければならない我が身。そうさせたのは……いや、それ以上は言うまい。いつか時の流れの中でそれも終わりを告げるだろう。今のうちに泡沫の極楽を味わうがいい。

オラトリオは自室の文机に向かい手紙をしたためている。梅花誇れる枝に結びつけた手紙の送り先は―――
最初はほんの遊び心だった。


※ ※ ※

「ねぇ、シグナル、手紙が来てるけど…」
濃い桃色の髪を揺らしながらハーモニーがおずおずと手紙を差し出した。白と黄色の襲に緋色の袴がかわいらしい。
「私に? 誰なの? そんな無謀なことするの」
白魚のような指先で手紙を受け取る。紅梅がふわりと甘い香りを運んできた。輝くばかりに美しい紫色の髪を耳に掛け、枝から紙を抜き取って広げる。そこにはいきなり求愛の歌があった。シグナルの顔がみるみるうちに紅潮したかと思うと怒りと羞恥でわなわなと震えだした。
「どうしたのさ〜」
すっと覗き込んだハーモニーに手紙を押し付け、シグナルは立ち上がって外に向かって叫んだ。
「ばっかじゃないの? 私のこと知らないわけじゃないでしょう?!」
読みながらハーモニーはけらけら笑い出した。これじゃあねえ、と笑いを抑えきれないでいる。まだ笑い続けるハーモニーを尻目に派手に空色の襲を翻して、シグナルはぎゃんぎゃん怒鳴っている。
世人曰く、これを八つ当たりという。
「私は、来春には入内するのよ。知っててやってるとしたら見事だよ、オラトリオって男は」
「遊び人だって聞いてるしね」
ぱたぱたと手紙をたたんでまた枝に結んでいるハーモニーの指先を見ながらシグナルはまだ怒っていた。
「で、どうするの」
「え?」
ハーモニーの問いかけにシグナルは目をぱちくりさせた。そしてさっきまで怒っていたのがうそかのように座り込んでしゅんと肩をすぼめる。
「どうって…どうしたらいいのかな」
こういった経験はほとんど皆無に近かった。というのはシグナルの将来は帝の后と決まっているからだ。年頃の娘のように歌を交し合って結婚する必要などなかった。自由に人を愛することのできぬ我が身だからそれに応えるなんてもってのほかだ。かといって、上手いお断りの文句もこれといって知らなかった。これまでにもそういった類の手紙はなかったわけではない。しかし、それらは彼女の兄達の手によってすべて処分されていた。今回シグナルの元に届いた手紙は奇跡中の奇跡といってもいい。
とはいうものの、シグナルは片手で口元を覆って心配そうに考えこんでいる。慣れない事に戸惑いを隠せない。
「一応、パルスには言っておくよ。そういわれているからね」
「うん…」
頼りない返事に苦笑してハーモニーはシグナルの肩を軽くたたいた。
「返事しとく?」
「え?」
いたずらっぽく笑ったハーモニーは文机に向かって妙に達筆な文字でひとことしたためた。その言葉を見てシグナルもくすくす笑う。
「いいね、それ」
「でしょう?」
とってこさせた桂の枝に結びつけてハーモニーはこれを届けるように女童に言いつけた。
シグナルは檜扇の影でくすくす笑っていた。
「こっちはどうする?」
「手紙はともかく梅は飾っておこうよ。せっかく綺麗に咲いてるしさ」

シグナルの部屋に一輪の紅梅がちょこんと鎮座した。


※ ※ ※

「オラトリオ様、お手紙です」
自分より少し年上の小間使いが部屋の外から呼びかけた。小春の日和にうたたねしかけたオラトリオが待ってましたとばかりに受け取った手紙はなんてシンプル。それでもきちんと結びつけられた手紙をるんるん気分で紐解く。目をやった先に書かれていたのはこれまたシンプルな文字。オラトリオは苦笑した。
「そりゃ、まぁ、そうだろうね」
笑いながら控えていた男に出所を聞くと東の五条、と帰ってきた。男を下がらせてからオラトリオは食い入るようにその文字を見つめた。
したためられていたのはたった二文字のひらがな―――『ばか』
きっと相手のお姫様はこれを見た自分がどんな反応をするか想像して面白がっているに違いない。そこはオラトリオのこと。たとえ『ばか』としか返事をもらえなくても、たとえそれが代筆でも決してめげたりしない。そんなことで諦めていては遊び人の名が廃る。
オラトリオはせっせと手紙を送りつづけた。
許されるはずのない恋に遊び人の名をかけてーーー


※ ※ ※

「で、どうするのだ、パルス」
「だからあなたに相談しているのだ」
ふむ、と小さくうなずいたコードの影が燭台の明かりに照らし出される。縹藍の直衣の下に月草襲がちらちらと闇を彩った。雷色の瞳が桜色の髪の隙間から正面斜め下を見据えていた。山と積まれた紙の束が今回の議題である。
「まさかと思ったがあいつか…」
「あいつならやりかねません」
ほうと溜め息をついた人はすべてを黒で覆っている。白い肌に紅玉のような瞳がきらと光る。射干玉の闇にも似た髪は長く、肩のあたりでしっかりと括られている。
風が吹いて庭に木々がさらさらとゆれた。二人はまた、溜め息をついた。
「シグナルは女御として入内することが決定している。いまさらどうなるとは思わんが、用心に越したことはない」
その一言でパルスは何かを決心したように頷き、立ち上がった。その様子を見ていたコードはゆるりとした手つきで扇を広げると口元を隠してつぶやいた。
「あの阿呆が…」


※ ※ ※

かたり、と音がした。
小さな物音にシグナルは浅い眠りから覚めた。帳台の中でうにゅうにゅと目をこすっている。見回すとあたりはまだ真っ暗だった。常備されている燭台の明かりだけが頼りなく揺らめいている。
「誰? ハーモニーなの?」
返事がない。まさか泥棒? 並みの女性より女性らしくないシグナルは急いで単を纏うと、格子を空けるために使う棒をつかんで相手の出方を待った。するすると衣擦れの音がする。眼を閉じて、耳を澄ます。視覚を敢えて断つことで音がはっきり聞こえるようになる。ふと、音が止まった。扉から入ってくるらしい。シグナルは今ごろになって恐怖で震えだした。が、今さら後にも引けなくなってしまった。
きぃぃと音を立てて開かれる扉の向こうの人間を確認もせずに殴りかかった。
が、それはあっさりと受け止められ、叩き落される。その衝撃に少しだけ手がしびれた。
「乱暴なお姫さんだな」
尺を口元に当てて笑っている男をシグナルはきっと睨みつけた。あふれんばかりに長い紫色の髪に白磁の頬。紫水晶もかくやの瞳は警戒だけをたたえていた。
「誰なの」
淡々と問うその唇は桃の花を思わせた。すわり込んで手を抑えたままのシグナルのそばに男がそっと歩み寄る。
「来ないで」
そう言って後ずさりするよりも先に男がシグナルを抱きしめた。突然のことにシグナルは一切の抵抗もできずに固まってしまった。その顔は桜色を通りこして真っ赤になっている。
「会いたかったぜ、お姫様」
耳元で囁かれた言葉で我に返ったシグナルはこの男が誰なのか解った。
「オラトリオ…」
「ご名答」
わずかに唇の端をゆがめているオラトリオからなんとか離れようと力いっぱい押し返したが大きな体格差のためかびくともしない。シグナルの目の前には象牙色だけが広がっていた。
それでもこんな男の腕に抱かれてのんびりゆっくりうっとりできる自分ではない。オラトリオも知らないはずはないだろう。
「人を…呼ぶよ」
「呼びたいならどうぞ」
余裕綽々のオラトリオにシグナルの怒りは頂点に達した。呼んでやる。人を呼んでやる。大声で叫んでやる。そう思うのになぜか声は出なかった。
こんなやつ、さっさと追い出してしまいたい。自分は入内を控えた身の上。こんな遊び人にあしらわれるほど安くはない。自分を誰だと思っているんだろう。

それなのに…

シグナルの心の中に怒りとは別の感情が芽生えはじめた。
そして思う。未来のこと、自分のこと。
相思相愛という形で結婚するわけではない。心を消し、この身をもって家の命運を繋ぎとめる。そのための『道具』。

『自由に誰かを愛することはできない』

そう思うとシグナルは急に悲しくなってオラトリオの直衣をきゅっとつかんだ。思わぬ反応にオラトリオはそっと髪を撫でる。さらさらと紫の川がゆれた。
「……私のこと、好きなの? 遊びなら帰って」
うつむいたまま、それでもしっかりと言葉を紡ぐ。その言葉の裏側に潜むもう一人の自分。

『ほんの少しでいいから 誰か 真剣に 私を愛して』

「最初は遊び心だった。でも…こうして出会った今は…抑えられないね、この気持ち」
言いながらオラトリオはシグナルをゆっくりと横たえて、その上に覆い被さった。細く白い首筋に顔を埋めてそこを柔らかく啄むとシグナルの唇から小さな悲鳴が漏れた。
「愛してる……姫…」
「……シグナル」
「え?」
「私は…シグナル」
煌く瞳は強い意志を秘めていた。
もう…後悔はしない。これが運命なのだから。



許されぬ恋路は夜の闇の中に消えていく
たった一夜の夢と お忘れなさい―――




※ ※ ※
 
月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして


あの人との逢瀬はいつだっただろう。もう遠い昔の事のような気がする。
再び邸を訪れたときはもうもぬけの殻だった。造作はすべて撤去され薄い色の檜だけが彼を迎え入れた。彼女のぬくもりはどこにもない。彼女は何も言わずに消えてしまった。
いや、消されてしまったのだ。彼女の兄達の手によって。

解っていたはずだ。いつか必ずこうなる――と。解っていても、それでも彼女を愛したのは彼女が音井の姫だったから? 
それとも…

「シグナル…」
床板をしなやかな指で撫でる。あの人を抱いたのはちょうどこのあたり。自分の腕の中で紫苑の光が舞ったあの夜。声を押し殺して自分を受け入れた少女の顔が忘れられない。
人伝に聞いた場所も自分には近づくことさえできなかった。

元気でいるだろうか 彼女は―――。

梅の花は変わらず咲き続けている。                                                                   



※ ※ ※

「ねぇ、これでもう五日目だよー、病気になっちゃうよ〜」
ハーモニーは膳の前に座ったままおろおろと訴えていた。最初は引っ越したせいで気分が優れないんだろうと思っていた。だからそっとしておいた。しかし、流石に三日四日と日を重ねるうち、どうやら癇癪を起こしているらしいと察して必死で食事をするように説得を続けた。そのたびに返ってくるのは「やだ」のひとことである。誰に似たのか、頑固な紫苑の姫君は言うことをきいてくれない。とうとうハーモニーは匙を投げた。
その匙を拾ったのはシグナルの兄パルスとその師であるコードだった。
二人はつかつかとシグナルの部屋に入ってくる。その姿を見止めてハーモニーはほっと胸を撫で下ろした。逆にむっとした表情でシグナルはさっと几帳の影に引っ込んだ。やれやれ。妹姫を見つめながらパルスは腰をおろした。今回は膳がひっくり返っていないだけまだましである。いつもなら足の踏み場はないのだから。
コードはそのとなりに陣取った。回りくどいことはせず、パルスは単刀直入に話を切り出した。
「どうしたのだ、食事をしないそうではないか。病気になってしまうぞ」
「いいもん」
「いいもんじゃない!」
コードが愛刀『細雪』に手をかけるのをみて、ハーモニーは慌ててコードに縋るように押しとどめた。パルスもぎょっとしてシグナルを几帳ごとかばうようにコードに向き直った。そういって斬ったためしのないことを知っているシグナルは実に淡々としていた。
落ち着いたコードにハーモニーが耳打ちする。
「ずっとこんな感じなんだよ」
「わがまま姫が」
ぼそりとつぶやいたコードの言葉が聞こえたらしい。シグナルの声がさらに怒りを帯びた。
「どうせ私はわがままよ」
男ふたりは溜め息をついた。わがまま姫の言うことならそのわがままを聞いてやればいい。できる範囲で。いつもそうやってご機嫌をとりむすんでいたのだ。それがこんな形で悪用されようとは。ともあれ、この姫の要求をかなえなければ自害してしまう恐れもある。そうなっては大変だ。
「お前はいったいどうしたいのだ」
諦めいっぱいのパルスの言葉に待ってましたとばかりにシグナルは一首詠んだ。



―――人知れぬ 我が通い路の 関守は 宵々ごとに うちも寝ななん



その歌だけで三人はすべてを理解した。

「解った。だが、一度きりだぞ。ハーモニーもつける。それでもいいか」
「…いいよ」

それでもいいからあの人に会いたい。会ってちゃんとお別れが言いたい。
それなのにパルスたちは会わせてくれない。
たった一つのわがままくらい、きいてくれたっていいじゃないか。
シグナルの抵抗は効を奏した。




※ ※ ※

月のない夜の芥川。許されぬ恋路の終着点。
手に手を取って逃げたふたりはどこへ行くのだろう。

シグナルの手を引いてオラトリオはゆっくりと歩いていた。



許された 最後の逢瀬

決して結ばれぬ二人 

それならばと合意の上で連れ出した。

見上げれば満天の星。ささやかな光が二人を導いた。わずかな川のせせらぎだけが周囲を包んでいる。
しばらく歩いていると不意にシグナルの足が止まった。動かないシグナルに気がついてそっと振り向く。シグナルは明後日の方向を見ていた。
「どうした?」
「あれなに? きらきらしてる」
「ああ、あれは露だよ」
「へぇ、あれが。白玉みたいだね」
「そうだな」
無邪気な笑顔につられて微笑んでしまう。が、こんなところでのんびりしている暇はない。こうしている間にも追っ手はどんどん迫っているだろう。
シグナルを促してふたりは夜の川辺を必死で歩いた。

鬼は―――――もうそこまで来ているというのに

川辺に建ちしあばらなる蔵。しばしの休息もかねて二人はそこに落ち着くことにした。
露ですっかり濡れてしまっているが、そんなことはどうでもいいとばかりにどちらともなく抱きしめあった。
冷えた体にあなたの心だけが温かい。
「シグナル…」
優しい呼びかけにゆっくりと顔を上げると柔らかな微笑みがそこにあった。
「後悔…しないか?」
「後悔? なんで?」
シグナルはなんでもないように笑ってみせた。紫の髪を梳きながらオラトリオは言葉を続ける。
「お前には約束された未来がある。俺なんかときてよかったのか」
なんだそんなことかと自嘲するように唇をゆがめる。
「あんなの、約束された未来なのかしらね。私は帝の子を産む道具。お兄様たちにとってはそれだけよ。そんなことより私は真剣に愛されるほうがいい。たとえば…あなた」
シグナルの白い手がオラトリオの頬にふれ、紫水晶の瞳は細められる。
今まさに口づけようとした瞬間。


松明の光がふたりを照らし出した。
「シグナル! オラトリオ!」
 
鬼が―――――姫を奪いにきた。

「とんでもないことをしてくれたな、オラトリオ」
パルスとコードが見たことのないような顔で怒っている。シグナルはひしっとオラトリオの直衣をつかんだ。いつの間にか涙があふれている。
「シグナル、来い、戻るんだ」
「いや…いやよ…」
コードの呼びかけにシグナルはぶんぶん首を横に振った。長い髪が遅れてゆれた。
「シグナル…」
誰ともなしに呼びかける。涙に濡れた瞳でシグナルは兄達を睨み据えた。
「私のこと心配して探しにきたんじゃないでしょう。私が…女御にならないと困るから…大事な……どおぐ…だからっ…!」
しゃくりあげながらも紡がれる言葉は非難めいて、それもまた事実だから誰も反論できなかった。言い終わるとシグナルはわっと泣き出してオラトリオの胸に顔を伏せてしまった。
そっと、コードが近づいた。
「シグナル、このままでは俺様たちはオラトリオを追捕せねばならん」
「追捕…」
コードの言葉にシグナルが反応した。ゆっくり上げられた顔は涙でぐしゃぐしゃで、それでも手はオラトリオの直衣をぎゅっとつかんで離さない。
わからないといった表情でシグナルはコードの雷色の瞳を見つめた。
「そうだ。大臣家の姫を盗んだのだからな。罪人として捕らえられれば只ではすまない」
パルスもコードの言葉に付け加えた。
 
追捕……罪人……只ではすまない……

シグナルはそっとオラトリオを見た。彼は諦めたように悲しい微笑みをみせた。
『楽しかった。さあ、もう行け』
無言でそう言ってるのが解った。

「オラトリオを助けたいと思うなら…このままそっと戻ってくれ」
コードの優しい提案にシグナルの心は揺らめいた。

この人ともっとずっと一緒にいたかった。所詮はかなわぬ夢なのか――と。
ならばせめて この人を傷つけぬように それで事が収まるのなら……




さよなら 愛しい人



うつむいたままシグナルはオラトリオのそばを離れた。シグナルは振り返らなかった。
お願い。呼ばないで…。決心が鈍ってしまうから……。

「ごめんなさい」
パルスの前に頭を垂れるシグナルの肩をコードがそっと抱いて連れて行った。




迎えの牛車の中にはハーモニーが待っていた。泣きはらしただろうその目は真っ赤になっている。
そんなハーモニーをみて、シグナルは心配そうにパルスに向き直った。
「心配するな。ハーモニーはこのままお前に仕えてもらう」
コードも牛車に乗り込んで邸に戻ろうとしたそのときだった。





歌が   きこえた。




あの人の   歌 が





パルスは静かに供人たちを制した。
これで本当に最後。
二度とまみえることのない切ない恋人達を思う。





白玉か なにぞと 人の問いしとき

露とこたえて 消えなましものを




シグナルはこらえきれずに泣き出した。
歌はまだやまず、さらさらと風がさえぎっているだけだった。
隣にいたパルスが慰めるようにそっと肩を抱いた。黒い直衣の胸にシグナルの拳が何度たたきつけられてもパルスは黙ってそれを受け入れた。
そっと目配せをすると、コードが牛車を出発させた。



※ ※ ※

露とこたえて…


そこにはもう誰もいなかった。愛しい姫も、鬼も…。
夜の川風にさらされて 自分だけが取り残された。

歌が 途切れた。

かわりに自嘲するような笑い声だけが夜の闇に木霊した。
我知らず流した涙は露とともに消えていく。




知っていたはずだ。 彼女は自分のものにはならないと。


それでも



「失えねえよなぁ」





消えてしまえばよかった ふたりで 露になって




もう二度と会えないのなら



「東下りでもしてやるかっ」
自分がいなくても宮中は動くのだ。涙を拭いてオラトリオはひとり、邸に戻っていった。





さよなら 愛しい人




露とこたえて 消えなましものを







≪終≫



≪舞台裏&あとがき≫
オラトリオとシグナル♀による平安時代物です。今回は珍しく悲恋なんですよ。
モチーフに使わせてもらったのは『伊勢物語』の在原業平と藤原高子のお話です。通称『二条の后』です。この後彼女は天皇に嫁いで皇子を産み、さらにその子が天皇になります。藤原氏の栄華の礎となったわけですが、私はこのお話好きです。姫泥棒ってなんかよくない?(←変な趣味…)まあ、いつもラブラブのオラシグなんでたまにはいいかなあ…と思ったわけです。

注: 文字用の領域がありません!

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