vacation map 「なぁ、シグナルちゃんよぉ」 「なあに?」 「俺さぁ、山のほうに行くつもりだったのよねー」 「うん…」 シグナルの短い返事にオラトリオはちらりと窓の外を見てため息をついた。 「なーんで海に着いちゃうのかなぁ」 「…さぁ?」 窓の外に広がるのは陽光を浴びて煌く濃青の海だった。 話は数日前までさかのぼる。 「よう、シグナルちゃん。今帰りかぁ?」 「あ、オラトリオ」 紫苑色に光る長い髪を翻し、振り向いた顔に紫水晶のような瞳がぱっちりとはまっている。この色白の美少女が音井さんちの末娘シグナルである。 「オラトリオはお仕事なの?」 「そ、ちょっと打ち合わせに出版社まで」 「小説家も大変だね」 「これがお仕事だからな」 そういった青年は周囲よりも頭ひとつ背が高い。職業は小説家、最近著書がベストセラーになったのをきっかけにして出版業界では一目置かれる存在になっている。シグナルとは家が近かったこともあって顔見知りだ。彼女も小さいころは実の兄がいるにもかかわらず『お兄ちゃん』と呼んでいたし、オラトリオのほうもシグナルのことが妹のようにかわいかった。 そんな関係が最近変わってきた。兄妹からはなれて、互いを男女の関係で見たとき、突然のように恋が芽生えた。9歳も年が離れていたけれどそういうことはまったく気にしなかった。『愛だけがすべて』――オラトリオはそういった。けれどこの年齢差が、実は互いの生活のリズムを刻んでいることを失念していた。そう、休日がまったくかみ合わないのだ。現在高校1年生のシグナルは基本的に土日が休日なのだがオラトリオはそうではない。基本的に毎日が休日のように見える。その反面締め切りが近づいてくると缶詰になってしまい、天気のいい日曜日でも部屋にこもって寂しくかつ厳しくパソコンと向き合っている。 「シグナルちゃん、今度の日曜はお休み?」 「うん、大丈夫だよ。ほかに約束とかないし…」 シグナルがぐっと顔を上げる。210センチのオラトリオを見上げるためにはかなり顔を上げなくてはならない。そんな仕草もオラトリオには可愛らしく映る。 「じゃあさ、おにーさんとデートしないか?」 「デート?」 「そ、久しぶりに休みが取れるんだ。ドライブいこ。な?」 「うん、いいよー」 あっさりとしたシグナルの返事に、オラトリオは内心でガッツポーズを決めた。 片や学生、片や売れっ子小説家という二人の休日がようやくかみ合った今日という日。 オラトリオはテレビでやっていた新緑がきれいな高原に行こうと思っていた。大まかにルートはわかるのだが細かいところがよくわからなくてナビを使おうとスイッチに手を伸ばす。それをシグナルにとめられた。 『私が地図見てあげる』とにっこりされれば断るわけにも行くまい。シグナルはダッシュボードを開けて入れっぱなしになっている地図を取り出した。 「…ナビがあるよ、シグナルちゃん」 「ナビなんか目じゃないって。いいから任せてよv」 「そっかぁ?」 オラトリオは半信半疑だったのだがシグナルの天使顔負けスマイルにほだされて結局ナビを使わなかった。後で知ったことだが、シグナルは『ドライブに行くときは女の子が地図を見るもの』という妙なルールを持っているらしい。 案の定、目的地である山とはまったく反対方向にたどり着いてしまったわけだが。 ざざーん。潮騒が聞こえてくる。 シグナルはまだ地図とにらめっこしている。 「どこで間違えちゃったのかな〜」 「ナビ任せろって言ったよなぁ」 「…ごめんなさい」 シグナルは口の中でもそもそと謝った。うるうると瞳を潤ませ、かつ上目遣いのシグナルを見てオラトリオは再びため息をついた。 「ま、いっか。シグナルちゃんとデートするのが目的なんだし」 そう言ってオラトリオはにっと笑って見せた。それでもシグナルはまだ不安そうに彼を見つめている。 「…怒ってない?」 「別に」 その笑顔にシグナルはようやくほっと息をついた。 「でも現在地は確認したいから、ナビつけるぞ」 「うん」 オラトリオが起動させたナビはここが臨海公園だと言っていた。近くには駐車場もある。 「じゃ、ここに車停めてしばらく歩こう。で、ここにレストランがあるからそこで昼食な」 「はーい」 シグナルの返事にオラトリオは微苦笑して車を転がした。 目の前に広がる海は白くたゆたう海神を打ち寄せる。きれいに整備されていて、砂浜は少なくなっていた。それでもコバルト煌く海にシグナルは感歎の声をあげる。 「うわー、きれー」 「天気よくてよかったよ」 遠く霞む短い水平線に一艘の船が見えた。 「ねぇ、オラトリオ」 「ん?」 「海も空もさー、同じ青なのに違う青だよね」 「お。なんか哲学的表現」 「そうかな」 シグナルは海を見つめながらブルーのスモッグシャツにブラックのロングスカートで整備された道を行く。オラトリオはその後ろを着いていく。ゆっくり彼女の後を追うのが今はなんとなく楽しい。 潮風にゆれる偏光紫の髪は道標。シグナルは時々立ち止まってオラトリオが追いつくのを待った。 「ねぇ、まだ怒ってるの?」 「何が」 「海に来ちゃったこと。本当は山に行きたかったんでしょー」 そう言うとシグナルは手近な小石をつかんで海に投げた。小石はきれいな放物線を描いて落ちたがその姿も落ちる音も波にかき消されてしまう。 オラトリオは彼女のそばに立つと同じように視線を海に投げた。 「怒ってないって。言ったろ、シグナルちゃんと一緒なら海でも山でも、どこでもよかったんだから」 「…それならいいんだけど」 「気にしてんのか?」 「…だって、隣歩いてくれないから」 「…そいつは失礼」 晩春の陽光はきらきらと暖かい。オラトリオはぽんぽんとシグナルの髪をなでた。 そんなふたりの耳に犬の声が聞こえた。みると二匹のレトリバーがじゃれ合いながら走っている。飼い主とおぼしき人はほほえましそうにその後をついて行く。 その様子を見ながらオラトリオがむうと唸った。 「どしたの、オラトリオ」 「俺たちも負けてらんねえな」 「なにがぁ?」 と問う間もあればこそ。オラトリオはシグナルの肩を抱き寄せた。そのままおんぶお化けのようにシグナルの背後に抱きつく。彼女は小さな悲鳴を上げてオラトリオを振りほどこうとしたが50センチという身長差の前に徒労に終わる。 「もー、210センチなんて反則だよっ!!」 「しょーがないでしょ、育っちゃったんだから」 「もう…」 結局シグナルは脱出を諦め、オラトリオのしたいようにさせた。この腕の中の居心地は悪くない。むしろいいほうだ。何度言ってもやめない煙草や、整髪料のにおいも気にならなかった。オラトリオという一人の人間が持つ世界にたった一人とらわれている――特別だと思える感覚が彼女をおとなしくさせていた。 「あー、シグナルちゃん良いにおいがする…」 「何にもつけてないよ」 「んー、これはフレグランスじゃないな、フローラル系のシャンプーだな」 「…よくわかるね。確かにそうだけど…」 「シグナルちゃんのことなら何でもわかる…」 まるで花束を抱いているようだ、と思った。この花ならうずもれてしまってもいいとも思えた。これまでいろんな女性とお付き合いしてきたけれど、なぜか満たされることはなかった。むしろ空虚の中を漂うような虚脱感だけを感じていた。 ――誰のことも、愛しいとは思えなかった。 でも、今この腕に抱いている花束だけは、失いたくないと思った。もし、この花が枯れ落ちてしまったら、自分はいったいどうなるだろう。 「…トリオ」 自分を呼ぶ、この声さえ――ひどく愛しい。 「オラトリオったら!!」 シグナルの声に、オラトリオははっと我に返った。見ればシグナルが心配そうに自分を覗き込んでいる。 「大丈夫? 仕事で疲れてるんじゃないの?」 「んー、いや。シグナルちゃんがあんまり抱きいいから、うっとりしてたのよねー」 「もう、馬鹿ばっかり」 嘘だ。いや、あながち嘘でもないだろうが本当は離したくなかった、それだけのこと。 「ねぇ、オラトリオ」 「何かな」 言うや否や、彼女はオラトリオの腕を飛び出していく。オラトリオは慌てて彼女を押さえようとしたが羽のようにすり抜けていく。伸ばした手が、一瞬届かないような気がした。でもそれはほんの一瞬で、オラトリオは駆け出そうとした彼女の腕をつかんでいた。 「お、オラトリオ…?」 シグナルはびっくりして自分の腕をつかんでいる大きな手を見つめていた。なぜか泣き出しそうなオラトリオがそこにいる。 「あ…あの…」 「危ねぇだろ、急に走ったりして」 「ご、ごめん。でも、あっちのほうも見てみたくて…」 困惑するシグナルをよそに、オラトリオはまだ腕を放さない。それどころかシグナルを引っ張って自分の胸に収めてしまう。小さな悲鳴を上げたときにはすっぽり埋まっていた。 「もう、何する…」 文句を言おうと顔を上げたとき、言葉はすでに奪われていた。 ―――オラトリオに、キスされてる… 不思議と、シグナルは抵抗しなかった。さっきの抱擁とは違う感覚が彼女を包む。 ―――なんで、泣きそうな顔するの? さっきまでとても楽しそうだったのに…。 「…だよ…」 「え…」 「好きだよ、シグナル…愛してる…」 そう言うとオラトリオはくず折れるようにシグナルを抱きしめた。あの豪胆な彼はここにいない。ここにいるのは悲しみだけに彩られた大きな抜け殻。 「ちょっと、オラトリオ。いったいどうし…」 「愛してる。それだけだ」 「オラトリオ…」 どう、したらいいんだろう。正直さの内側は『オラトリオの気持ちに応えたい』と言っている。オラトリオのことは嫌いじゃない、嫌いだったら恋人になんかならなかった。でも、どう言えばオラトリオは納得してくれるだろう。シグナルはおろおろと考えた。 視界にふと、海と空。 『同じ青だけど、違う青だよね』と、自分でそう言った。 きっと同じことだと思う――伝える気持ちはきっと同じなんだ…『好き』でも『愛してる』でも、言葉が違うだけで。 それでいい。あとは信じるだけ――自分を、そしてこの恋人を。 『愛』がなんなのか、まだよくわからないけど…。 「大丈夫だよ、オラトリオ。私も、オラトリオのこと…好きだよ」 「…シグナル」 「好きだよ、気がすむまで何度でも言ってあげる。好きだよ。好き。いっぱい好き」 シグナルはオラトリオにぎゅっとしがみついた。 「まだ足りない?」 「…足りない」 「しょーがないな」 そう言うとシグナルはにっこり笑って背伸びした。オラトリオの耳元にもう一度『好きだからね』と囁くと、今度は両手で頬を挟んでやさしく口付けてあげた。ちょっと触れるだけの短いキスでオラトリオはようやく笑ってくれた。 「元気出た?」 「…おう」 「よかった」 二人はにっこり笑いあった。 「どうしちゃったのさ」 「んー、ちょっとな」 「言ってよ、気になるじゃない」 「シグナルちゃんがあんまりかわいいから、心配になっただけ」 「はあ?」 よくわかんないとばかりにシグナルは首を傾げた。そんな彼女に苦笑しながらオラトリオは歩いていく。 「ほら、あっちのほうにも行ってみたいんだろ? そんなところに突っ立ってると置いてくぞ」 「なによう、自分で引き止めといてぇ!!」 シグナルは歩きながらぽかぽかと意地悪な恋人を叩くけれどオラトリオはどこ吹く風。すっかりいつもの二人に戻っていた。 「もー、ファーストキスだったのに〜〜」 「あれ? そーだったの?」 「しまっ…」 自分でばらしてしまっておいて、シグナルは再びぽかぽかとオラトリオに八つ当たり。 「そーかそーか、初めてだったのか〜。そりゃどーもご馳走様」 「ご馳走様じゃないっ!! 返してよ〜〜」 「無理ゆーなって。いただいちゃったもんはしょーがないでしょ? お昼ご飯おごってあげるから」 「一緒にしないで〜〜、返して〜〜」 「そんなに言うなら返しちゃる」 「ほえ?」 言うなりオラトリオはシグナルの唇に自分のそれを押し付けた。シグナルはまたしてもオラトリオに唇を奪われたのだ。 「返したからな」 「かっ……返してない!! また持ってった〜〜」 「はいはい」 遠くでウミカモメが鳴いている。 それから数日後のある日。 またしてもシグナルは学校帰りの駅でばったり出くわしたオラトリオにつかまった。 「よう、シグナルちゃん」 「オラトリオ…こんなところで何やってるの?」 「シグナルちゃんを待ってたのよん」 言うなりオラトリオはシグナルのバッグを取り上げてさっと歩いていく。その後ろを、シグナルはとことこついて行く。 「どこ行くのー?」 「ちょっとお話があるんだよ。いいから付き合えって」 「でも晩御飯がー」 「お家まで送ってあげるから」 と、オラトリオは駅前の駐車場に停めてあった車に乗るように言いつけた。しぶしぶ車に乗りこむと、オラトリオはエンジンをかけ、そのまま車を出す。 「ねぇ、どこまで行くの?」 「いいとこ」 オラトリオは笑うだけで何も教えてくれない。シグナルはむうとむくれて助手席に座っている。 「何考えてるのよー、誘拐だよー、これ」 「だめだめ。話が済むまで帰してやんないから」 シグナルは知らない、今日の逃避行にオラトリオがどれだけの気持ちを隠しているのかなど。能書きと冗談で隠しながらたどり着いたのは先日のデートで訪れたあの公園だった。今は夕日が海を金色に染め上げている。 「ふわー」 「この前はこの時間までいなかったもんなぁ」 「それでわざわざつれてきてくれたの?」 夕日を見ていたシグナルがくるりと振り返る。大きめに誂えられた胸元のリボンがふわっと落ち着く。制服のままひっさらってきたのでそれはそれなりにまた新鮮だ。 制服姿もまたいいなー、なんて思っている場合ではない。オラトリオはポケットに隠した小箱に手を伸ばした。 「なぁ…シグナル」 「なあに?」 「これ…受け取ってくれないか」 シグナルは差し出された小箱を素直に受け取った。 「私…誕生日ならまだだいぶ先だけど?」 「いや、そーゆーんじゃないんだ。ほら、このまえシグナルちゃんがファーストキス返せって言ってたからさ。ま、それは返してあげられないけど、これで」 「そーゆーのなら要らない…」 「とまぁ、それは冗談だけどな」 オラトリオはシグナルに握らせた小箱を開けさせた。中には小ぶりに光るアメジストの指輪が鎮座ましましていた。 「うわー、かわいい…」 「元気付けてくれたお礼だよ。それならもらってくれる?」 「そういうことなら……えへ。ありがとう」 なんだかんだ言いながらシグナルもやはり女の子だ、恋人から指輪をプレゼントされれば嬉しいには違いない。オラトリオは指輪を取ると彼女の左手薬指に通す。 「オラトリオ…そこは」 「結婚してください…」 そしてそのまま、腕の中に。自分たちだけの世界に。突然のことにシグナルはブルーヴェルベットの小箱を取り落とした。 「オラトリオ…正気?」 「正気。そして本気」 「私…まだ16歳だよ…」 抱きしめられたまま、シグナルはもそもそと言った。 「もう16歳だよ、民法上は何ら問題ない」 「でも…」 「…好きだよ、シグナル。ずっと…ずっと一緒にいたいだけなんだ」 「オラトリオ…」 そうだ、いつのまにか、強く深く惹かれてた。そんな気持ちが怖かった。惹かれあって好きになって、失っていくとき。 でもそんなことを恐れていたら何もできない。シグナルはオラトリオの胸元をきゅっとつかむと、そのまま伸び上がって目を閉じた。 手元から、胸元から、そして彼女を見つめて…。オラトリオは額に、瞼に、そして愛を紡ぐ唇へと己が唇で触れた。 「煙草…」 「ん?」 「煙草やめてくれたら…考えてあげる」 真っ赤になって照れているシグナルは上目遣いにオラトリオを見上げた。 「…わかった」 オラトリオは最上の笑顔を見せた。これまで誰にも見せたことのない、飛び切りの笑顔を。 「さて。お姫様を送っていかねーとな」 闇の帳がそろそろと降り始める。夕焼けと夜の境に星がひとつ瞬いた。 「さー、ついたよ」 「うん、またね、オラトリオ」 「おう、じゃーなー」 シグナルを自宅まで送り、オラトリオは車を走らせる。彼女がいつまでも自分を見送ってくれているのをバックミラーで確認したら、ますます彼女が愛しくなった。 「かわいい娘見つけちゃったなー」 と、片手で煙草を取り出し、咥える。火をつけようとして、ふと彼女を思い浮かべた。 『煙草やめてくれたら、考えてあげる』 そしてやめた。家に帰ったら煙草もライターも灰皿も処分しよう。もともとそんなに煙草は好きじゃない。 彼女と、そして我らの未来のために――すぐやめよう、と思った。 「プロポーズされちゃった…」 自室でクッションを抱きかかえ、シグナルはうーんと唸っていた。指にはキラリとアメジストが光っている。 「これって、婚約指輪のつもりなのかな…」 ダイヤのほうがいいな、とは思わなかった。そんなことよりも、今の彼女にはプロポーズされたという事実のほうが大事なのである。 「どーしよう…」 きっとどうしようもない未来が自分を待っていたとしても、彼はきっと、ずっと自分のそばにいてくれる。 「責任…とってよね」 きっと何事もなかったかのように笑って、いいよって言うんだから。 波間に見える白い泡沫をブーケに 煌く水面をベールに 未来への地図を描こう とりあえず明日は休日 どこへ行きましょう―――vacation mapを広げて ≪終≫ ≪海より深く反省の時間≫ ひさしぶりにTSに戻ってきたのに…感覚がまだ戻ってませんね〜〜。タイトルは緒方恵美さんの『vacation map』より。 私、兄妹ってちょっと苦手なのでOt×S♀やるときはまったくと言っていいほど『他人』で設定してますな。そのへんは私の中に残っている唯一の理性なのかも。 |