ろまんす





愛に気づいてください
ぼくが抱きしめてあげる
窓に映る切なさは 生まれ変わるメロディ


散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする、と言われたのは今から四十年ほど前のこと。頃は大正、華やかな東京の町に元気に響き渡る物売り、子供、女学生の声。
「エララさん、早く早く、今日はオラクルのところに英語を習いに行くんですから」
「ああ、待ってください、シグナルさん」
「ちょっと待ってよ、姉さま、シグナル〜」
先頭を切って走っているのが音井家の末娘、シグナル。つややかな紫の髪を紺色のリボンできゅっと飾っている。濃紫の矢絣にリボンと同じ紺色の袴がひらりと翻る。その後ろを並んで歩くのが双子の姉妹、カシオペア家の次女・三女、エララとユーロパだ。姉のエララはバラ色の矢絣、濃い桃色のリボンを亜麻色の髪に揺らす。妹のユーロパは紺色のショートヘアに花の簪を挿している。こちらは紺色の矢絣、濃緑の袴だ。三人は家が近いのと、年頃が似通っていたことでとてもなかがよかった。今も今で三人ともおそろいの巾着を下げてとある洋館に向かっていた。
そこはエララとユーロパの姉、エモーションの嫁ぎ先で、当代きっての文学者が住まう。
「こんにちは〜」
シグナルが勝手知ったるなんとやらで玄関のドアを叩く。すると、中からやわらかい声が響いた。
「おや、いらっしゃい、シグナルさん、エララさん、ユーロパさん。今日は英語のお勉強の日でしたね」
「うん、そうなの。オラクルいる?」
シグナルがそういうと、執事のカルマが少し困ったような顔をした。その背後で、部屋から出てきたらしいエモーションがこちらに気がついてぱたぱたと駆け寄ってくる。この時代にはまだ珍しい洋装だ、薄い緑色のワンピースの裾を華麗に翻す。妹たちと瓜二つ――いや、瓜三つと言うべきか――の緑色の瞳が妹たちを捉えたはずなのだが…。
「<A−S>、来ていたのですね!! 今日こそは私とおそろいのワンピースを作りましょう!!」
「い、いえ、あのう…オラクルは…」
たじろぎつつシグナルが本題に入ると、エモーションはつまらなそうに頬を膨らませ、カルマが微笑みながら応えた。
「オラクルならただいま来客中なんですよ」
本来なら『オラクル様』と呼ぶべきなのだろうがオラクル本人がそれを嫌がったことがあって、そう呼ばないことになっている。もちろん公式の場ではちゃんと主人らしく呼ぶのだが。シグナルは来客中と聞いて少々がっかりした。英語の勉強もさることながら、ここで出されるお菓子が半分くらいは目当てだといってもいい。今日はおやつにありつけないのだろうか。そう思っていると、先ほどエモーションが出てきた部屋から笑い声が聞こえた。ひとりはオラクル、もうひとりはエモーションたちの長兄、カシオペア家の跡取りであるコードだ。だが、もうひとりの声がわからない。
「エモーション、彼女たちとオラトリオを引き合わせたらどうです?」
「オラトリオ?」
可愛らしい仕草でシグナルが首をかしげると、エララたちがわぁぁと歓声をあげた。その声にシグナルが振り返る。紫色の髪がさらりと揺れてもう一度小首をかしげる。
「知ってるんですか?」
そういうと、ユーロパが掴み掛からんばかりの勢いでシグナルを捲し立てた。
「オラトリオっていったらオラクルと並んで有名な学者先生じゃない、小説も書いてるし」
「そ、そう?」
「新聞にもときどき載っていらっしゃいますわ」
「オラクルとは従兄弟にあたるんですよ」
「ほえー、そうなんですかぁ」
シグナルが素直に感心していると、エララはユーロパに引っ張られてしっかりあがり込んでいた。シグナルはカルマに勧められて応接間に入った。

こんこんこん。
中から返事が聞こえたのでカルマが扉を開けた。並べられたソファに主人たるオラクルと、主人同様に振舞うコード、そして先ほどから話題のオラトリオが座っていた。
「オラクル、シグナルさんたちがお見えです」
「やあ、みなさん、どうぞ」
こうしてシグナルたちと、オラトリオが引き合わされた。立ち上がったオラトリオは稀に見る長身で――オラクルよりも少しばかり高い――かなり見上げなければならない。握手をかわした手はかなり大きくて熱い。鈍く光る金色の髪に濃紫の瞳が男くさい顔にしっかりとはまっていた。
「初めまして、オラトリオ様。ご高名はかねがね聞き及んでおりますわ」
「お会いできて光栄です、お見知りおきを」
エララとユーロパが令嬢らしい挨拶をし、今度はシグナルの番になった。何か言わなくちゃとどぎまぎしているシグナルの手をオラトリオがすっととった。
「初めまして、お嬢さん。オラトリオと申しやす」
ぞんざいな言葉遣いに安心したのか、シグナルもにっこり笑って手を握り返す。
「初めまして。シグナルと申します」
「シグナル? もしかしてあーた、音井教授の娘さん?」
一瞬きょとんとしたシグナルはすぐに頷いた。シグナルの父、音井信之介は帝大で化学を教えているこちらもれきとした教授なのだ。シグナルの姉、ラヴェンダーは父の助手のもとに嫁ぎ、兄であるパルスは現在海外に留学中だ。それはそれとしてなぜオラトリオは自分のことを知っているのだろうか。不思議に思っているとオラトリオがまじまじと自分を見つめているのに気がついた。なんだか品定めをされているようで落ち着かない。しばらくそうしていると、オラトリオの口からとんでもない言葉が飛び出した。
「いや〜、俺の許婚がこんな可愛い子で安心したよ」
「……許婚ぇぇぇぇぇぇぇ??!!」
その場にいたオラトリオ以外の全員が驚きのあまりの声を上げた。


※ ※ ※

「お父様! お父様!」
「お嬢様〜、教授は書斎ですが、本当に行くんですか〜」
「だって、私は聞いてないわよ!」
足袋裸足で屋敷の廊下をとたとたと歩く。シグナルに仕えている女中のハーモニーがその後ろをおろおろしながらついてくる。シグナルがノックもせずに父の書斎のドアを開け放つと机に向かって書き物をしていたらしい父・信之介と、茶を持ってきていた母・詩織がびっくりしてそちらを向いた。が、母である詩織はすぐに気を取り直して、袂から扇を取り出すとシグナルの頭を軽く叩いた。
「いたっ」
「シグナルさん、女の子は礼儀正しくしなくてはいけませんよ。やり直し」
「はーい」
シグナルは一度引き下がってからドアをノックした。ようやくお許しが出て中に入ると、今度はふたりとも笑顔で迎えてくれた。
「何かな、シグナル」
「お父様。今日、オラクル様のお屋敷でオラトリオ様にお会いしました」
「ほう、帰ってきたのかね」
「見目形のいい殿方でしょう? まあ、殿方は見た目ではありませんけどねぇ」
詩織はドイツへ留学する父の下へ押しかけ女房した剛の者だ、只者ではない。言いながらその視線の先は常に愛しい信之介が映っている。
「どうして教えてくださらないのです!! 私に許婚がいたなんて!!」
シグナルがそう問い詰めると両親は顔を見合わせて頼りなく笑った。ハーモニーはおろおろとシグナルの後ろに立っていた。
「あなたには後でちゃんと言うつもりだったのよ〜、まさか先に会ってしまうだなんて〜ねぇ?」
「そうだな〜」
あははは、おほほほと緊張感なく笑いあう両親にうんざりしながらもシグナルは自室へ下がった。

「ハーモニーは知ってたの?」
結い上げていた髪を下ろし、踝まである豊かな髪をハーモニーに梳らせながら問う。ハーモニーの顔が一瞬ぎくっとしたのを、彼女は見逃さなかった。
「…知ってたのね?」
「別に口止めされてたわけじゃないんだけど、教授が自分で言うからって〜」
「それって口止めじゃん」
「そうとも言うねぇ〜」
ハーモニーは自分が幼い頃から姉妹のように育った中だ。いちばん上の姉、ラヴェンダーとは年が離れすぎていたし、三つ年上の兄は一緒に遊んでくれなかったから、彼女にとってハーモニーは心許せる存在なのだ。そのハーモニーも知っていて黙っていたのだからシグナルは悲しくなってしまう。シグナルが俯いてしまって、ハーモニーは慌ててとりなした。
「ああ、大丈夫だよ〜、オラトリオってさ、有名な学者先生じゃん。小説も書いてるし、オラクルの従兄弟だから身元は確かだよ」
「そういうこと言ってるんじゃないの!!」
シグナルがきっと振り向く。紫水晶もかくやの瞳は言い知れぬ怒りを湛えていた。
「身元なんてどうだっていいのよ! 私だってさ、女の子よ? こう、燃えるような恋とかしてみたいじゃない、それなのに……それなのにぃぃぃ」
「要するに今流行の『ろまんす』を体験したかったわけね?」
「それにさぁ、なんか、私のこと品定めするみたいにみてさぁ。なんか軽そうだった」
こうして、夜遅くまで喧喧囂囂とオラトリオ批評が始まった。これが記念すべき第一回となることにふたりはまだ気がついていなかった。


※ ※ ※

寝起きは最悪だった。昨日の許婚騒動(?)が尾を引いたのか、シグナルはろくに眠れなかった。しかも、あの男は夢の中にまで現れて自分を追い回した。恐るべき根性である。げっそりした顔で起きてきたシグナルに詩織は何処か悪いのかと訊ねたが、なんでもないと答えておいた。夢心地に、要するに半分眠りながら朝食を終え、ふらつきながら学校に向かうため外に出ると、見慣れたくない影が待っていた。思ったよりも長い髪を下ろし、白いカッターシャツにきっちりネクタイを締め、ツイードのスーツがよく似合っていた。
「よう♪」
「げげっ」
シグナルは一瞬だけ、思いっきり困惑したが、それを気取られ、からかわれるのがいやだったので引きつりそうな笑顔を作ってご挨拶をする。
「おはようございます、オラトリオ様」
「おはよう、シグナルちゃん、オラトリオでいいよ」
「いいえ、殿方を呼び捨てにするわけには参りませんわ。お父様なら書斎におられますが」
「いえ、これから仕事なのでね」
「私も学校に参りますの。失礼いたしますわ」
そう言いながら一礼し、足早に去っていくシグナルにオラトリオはすぐに追いついた。袴とズボン、動きやすさは歴然としているだろう。シグナルの少し後ろを歩きながらオラトリオは鼻歌でも歌いそうな勢いでにこにこと歩いている。一方のシグナルは今にも神経が一本どころではなく切れそうな野を一生懸命こらえ、一見すると穏やかな表情で俯き加減に歩いている。
先に話し掛けたのはシグナルだった。
「あの〜」
「なんでしょうか、お嬢さん」
「お仕事に行かなくてよろしいんですの?」
「ちゃんと行ってますよ」
「はあ?」
言いながら、オラトリオはとうとう校門まで着いて来た。シグナルが挨拶をすると、同級生、上級生を問わずに挨拶の嵐が吹き荒れる。シグナルはその容姿のためか「藤の君」「桔梗の君」など、まあ、紫色の花を数多くあだ名に持つ校内でもアイドル的存在なのだ。
「おはようございます、シグナルさん」
「おはようございます、エララさん」
「やあ、昨日お会いしましたね」
ぬっと現れた影にエララは小さくまぁ、と驚いて、それから何事もなかったかのように頭を下げた。
「おはようございます、オラトリオ様」
「おはようございます、エララ嬢」
「どうしてオラトリオ様がここに?」
エララの問いにオラトリオは笑ってみせた。
「それはあとでのお楽しみ♪ またな、シグナルちゃん♪」
そういうとオラトリオは校舎の中へ姿を消した。周囲は見慣れぬ大男と、その男が言った「シグナルちゃん」という言葉が気になって、教室に入ってからもシグナルは質問攻めだった。
『まさか、許婚だなんていえない…』
第一自分はあんな男が許婚だなんて認めてもいない。シグナルは(みんなもうとっくに知っている)オラトリオの経歴を簡単に話した。当然のように級友からは反論が飛んできた。
「そうではなくて、先程、オラトリオ様はあなた様を『シグナルちゃん』とお呼びになったではありませんか、私たちでもそうお呼びするのは恐れ多いのに、いったいどういったご関係ですの?」
「えーっと、それは…」
「こらこら、おしゃべりはそれくらいにして席におつきなさいな」
この声は服飾(今で言う家庭科)のみのる先生の声だ。校長の娘ということだが、そんなことを鼻にかけたりしない、気さくでよい人なのだ。蜘蛛の子を散らしたように一同がわらわらと席についたことでシグナルは迫る来る恐怖の影から救われたようかのように見えた。
「えーっと、前から言っていた新しい先生を紹介するわね、どうぞ」
みのるの声に入ってきた新任の教師にシグナルは愕然とした。誰かが狙ってやっているのではないか、そんな気さえしてくる。くらくらと眩暈を覚えながらもシグナルは気丈に意識を保った。ここで倒れてしまってはアイドルの名が泣こう。
「このクラスの担任になります、オラトリオ先生です。有名な方だから皆さんご存知よね。国語を担当していただきます。それでは…級長の音井さん」
こう見えてもシグナルはこのクラスの級長なのだ、名前を呼ばれても返事をしないシグナルを、隣の席の生徒がつついた。シグナルは慌てて立ち上がる。
「はいっ、なんでしょうか」
「あとで、先生にいろいろ教えて差し上げてね。では先生」
「お任せください」
からからから、と軽やかな音を立てて扉が閉まり、みのるが去っていくと、オラトリオは真面目腐った態度を一変させて気楽に授業を始めた。
「さぁって、誰に読んでもらおうかな〜」
教科書を片手にオラトリオはにやにや笑い出す。シグナルにはわかっていた。目が合おうが合うまいが、オラトリオは絶対自分を指名してくる! それでも目が合うよりは断然ましだったので、シグナルは教科書を盾にして顔を覆った。手は小刻みに震えて、しっとり汗をかいていた。
「えーっと、まだ全員の顔と名前が一致してないからな〜。わかりやすいところで音井、読んでくれ」
きたぁぁぁぁぁ!! シグナルは心の中で叫んだ。かといって先生であるオラトリオを睨みつけるわけにはいかず、黙って立ち上がり、流暢に教科書の文字を追う。何処か上の空に聞こえる朗読に一同が不安になったのはいうまでもない。シグナルが教科書を読んでいる間、オラトリオは黙ってシグナルを見つめていた。

こうして地獄のような一時間目はベルの音とともに終わった。終業のチャイムがこんなに清々しく聞こえるのはテスト以来ではなかろうか。しかし、緊張を解きかけたシグナルに追い討ちはこれでもかといわんばかりにかかる。
「音井級長!」
「はいっ!!」
シグナルが勢いよく立ち上がったのでオラトリオはちょっと引きながらもシグナルに声をかける。
「放課後に職員室に来てくれ、いいな」
「はい…」
シグナルがゆったりとすわると、今度は級友からの質問攻めに会う。朝の続きらしい。
『もう勘弁してぇ〜』
続く授業もシグナルは何処か上の空。昼食もほとんど習慣的に飲み込んだ。

そして放課後。級友たちがそれぞれ自宅や宿舎に戻っていく頃、シグナルはひとり職員室に向かっていた。オラトリオに呼ばれたのだ。なんだって私ばっかり…。心の中で愚痴りながらもその手は優雅に職員室のドアを叩く。
「失礼いいたします。オラトリオ先生がお呼びと聞き、伺いました」
優雅な一礼をし、職員室を見回したがにっくきオラトリオの姿はない。おかしい、からかわれたかと疑心暗鬼に陥っていると、卑怯にも(?)背後から声をかけられた。
「よう、来てくれたか」
『にゃあああああ!!』
口の中で猫のように叫び、さらに口から心臓が飛び出しそうになるのを必死で押さえながら顔だけは優雅に取り繕った。幸せになりたかったら背中にえさの要らない猫を飼いなさい…とは母、詩織の言葉である。要するに猫を被って大人しくしていなさい、ということだ。
「お呼びでしょうか、オラトリオ先生…」
「ああ、ちょっとな、教室、いいですかね?」
オラトリオが他の教師に問うと、それにはアトランダムが答えた。この学校の武術を担当している教師である。アトランダムがもう授業はないからと、つまりは勝手に使っていいのだというと、オラトリオはシグナルを連れて教室に戻った。
「お言葉ですが、オラトリオ先生?」
『先生』にやたらと力をこめて言うと、オラトリオは苦笑を交えながら返事をする。それがまた癪に障って気に入らない。
「なにかな、シグナルちゃん」
「…ここは校内です、その呼び方はやめて下さい。それと、教室に戻るんでしたらわざわざ職員室に呼ばなくてもよかったのでは?」
「別に職員室でもよかったんだけどさ、二人っきりになりたくてさ」
「そういうことなら帰ります」
くるっときびすを返しかけたシグナルの二の腕をオラトリオがはっとつかんだ。思わぬ行動にシグナルは真っ赤になって抵抗する。あんまり派手に暴れられると困るのでそのままくるんと抱き込んでしまう。オラトリオの鳩尾にシグナルの頭がちょうど来る寸法だ。オラトリオが愛しそうにシグナルの髪を撫でると、シグナルは絵に描いたようにさらに真っ赤になった。我に返ってオラトリオを押しのけようとしたが、違いすぎる体格差のために、一切が無駄に終わる。
「そんなに俺が嫌いか?」
「え?」
「だから、授業中もずっと睨まれてなきゃならんほど、俺を嫌いか?」
「そんな、睨んでなんか…」
「でも、怖い顔してたな」
「それは…」
まだ、出会ってから一日で好きも嫌いもあったもんか、ばかじゃないのか。シグナルはそう言おうとしてふと顔を上げた。そこには、真摯に自分を見つめる双眸がある種の炎をたたえていた。射抜かれるように見つめられて、シグナルは言葉を飲み込む。とりあえず…
「あの、とりあえず、放してもらえますか?」
「ああ、そうだな」
こんなところを誰かに見られたらふしだらだと思われるだろう、オラトリオは惜しむようにシグナルを解放する。当のシグナルは抱きしめられるという経験は皆無なために戸惑いを隠せないでいる。自分の体が自分のものではないような錯覚さえ覚えていた。
「ま、昨日今日で好きになれって言うほうが無理だな」
にやっと、意地の悪い笑みを浮かべてオラトリオがシグナルの頭をぽんぽんと叩いた。不思議な感覚を持って伝わる温かさが何となく心地良い、そんな気がした。
「覚えといてくれな」
「何をですか?」
「俺は、お前に一目惚れしたんだ、名前を聞く前にな♪」
もう帰っていいぞ、というオラトリオの背中に何故か懐かしささえ覚えているシグナルははっとして後を追った。是非とも聞いておかねばならぬことがある。
「先生! ひとつ教えてください」
「なにかな、音井さん」
その顔はもう、教師のものだ。
「その…先生はどこにお住まいなんですか?」
それだけなのに、オラトリオは質問の意図を察したらしい。ただ一言『オラクルんち』と答えて職員室に消えた。

「というわけでさぁ〜」
「へえ、なんか運命だねえ。これって『ろまんす』かな?」
「だとしたら神さまって意地悪…」
今日起こった出来事のうち、シグナルは親に言っていいことと自分の中に閉まっておくことと分けて話した。教室で抱きしめられたことは当然のように後者に分類した。いくらハーモニーでもこればかりは話せない。いつものように髪を梳いてもらいながら第二回目のオラトリオ批評が始まる。
「でもよかったじゃん、これで輿入れ先は確定したねえ」
「冗談じゃないわよ、誰があんな男のところっ!」
「まだ出会って間もないのにもうそんなこと言ってるの?」
「う……」
梳き終わった髪は三つ編みにしてリボンでしっかりと止める。献上博多の帯に藤色に染めた絣の浴衣を着て、あとは眠るだけなのだ。鏡に映るのは確かに自分の顔で、こんな顔をオラトリオは真摯に見つめる。思い出しては真っ赤になっているシグナルに、ハーモニーは笑いを隠せない。
「何がおかしいのよぅ」
「ごめん、でも、やっぱり気になるんだね、オラトリオのこと」
「うん…」
強がっていてもやはり女の子なんだな、と妙な安心をしながらハーモニーは三つ編みを終えた髪を軽く叩いた。
「ま、あせらずにゆっくりやることだね」
「ねえ、ハーモニー」
「何?」
「一緒にお輿入れしよ〜〜、おそろいの花嫁衣裳着てさ〜〜」
「ばかなこと言ってないで早く寝なさい」
「うにゅう〜」
ハーモニーが去ってしまうと、急に寂しくなって、シグナルは早々に布団に潜った。


※ ※ ※

とりあえずシグナルは朝、学校へ行く。見たくない顔がちゃんと家の前で待っていていやでも学校までご一緒する羽目になる。国語の授業がない日でも担任という立場を利用して事々にシグナルを呼び出す。それが普通の級長としての仕事である場合はよいのだが、あからさまにそうでない場合が多い。ほとほといやになって仮病を使って学校を休んだりしたみたものの、効き目はなかった。今度は学校帰りに花束を抱えて見舞いに来るのだ。病身だから会いたくないといっても許婚なんだから平気だとかなんとかいって部屋に押しかける。ひととおり今日のことなんかを話していると、担任としての役割を果たしているのかと思ってちょっと安心する。しかしそれは間違いであった。帰り際にオラトリオはこういった。
「仮病使うんならもっとうまくやれよ」
ばれてる!! 仮病だって思いっきりばれてる!! オラトリオが笑いながら部屋を去っていく。その後ろ姿を睨むように見つめながらシグナルはしっかりと布団を握っていた。
そういうわけでシグナルはほとんど諦めながら学校へ行く。級友たちに「ご病気はもうよろしいの?」と聞かれるたびに、オラトリオが笑いをかみ殺しているのがわかって余計に腹が立ったのだが、校内なので怒鳴り散らすわけにはいかない。笑顔が引きつりそうになるのを懸命に堪えながらシグナルは小鳥が囀るような美声で
「ご心配をおかけしました、もう、大丈夫です」
と言ってのける。死んだって「オラトリオに会うのがいやで仮病を使って休みました」とは言えないのだ。
こうして学校での一日が終わり、オラトリオからも解放されて帰るはずだったのに、今日に限ってオラトリオと下校すら共にしてしまった。まだ仕事してなさいよ、と思ったのだが間違っても口には出さない。煮え返りそうな腸を寸でのところで押し止め歩いていると、オラトリオが急にシグナルを路地に引っ張っていった。
「ちょっと、なにをするんですかっ!」
「ん〜? いやね、ちょ〜っとおにいさんと付き合わないかと思ってさ」
「…下校中の寄り道は禁止されています。先生なのにご存知ないんですか?」
シグナルの冷ややかな抵抗もオラトリオには通用しないのだろう。そんなことは百も承知とばかりにオラトリオはシグナルの手を引いてずんずんと路地を進んでいった。半ば引きずられるようにして辿り着いた先は甘味屋だった。いつもエララたちと行くのはおしゃれなカフェだが、こういう場所のほうがシグナルは好きだった。
「ここな、結構うまいんだぞ」
「だからっ! 寄り道はいけませんってば! しかも先生と一緒なんて…」
「いいじゃん、許婚なんだし♪」
ためらうシグナルとは対極にオラトリオは陽気に戸を開けた。からから、と表戸が開く音がする。シグナルは覚悟を決めた。あとはもうどうとでもなれ。見つかったら見つかったで後はオラトリオにすべてをなすりつけて逃げてしまおう、そう思って席についた。オラトリオは自分が表に背を向けるようにして座った。シグナルが表から見えてしまうかというとそうではない。オラトリオの姿にシグナルが隠れてしまっている。これなら級友や先生が入ってきてもシグナルがいるとはすぐにはわかりにくいだろうというオラトリオなりの配慮なのだ。
「何、食べます?」
「…おまかせします」
当然、オラトリオがここの勘定を持つ。高いものを頼んでもよかったのだが、それをネタに強請られるのもいやだったのでシグナルはオラトリオに任せた。オラトリオもそこは読んでいたらしく、微苦笑するとあんみつとところてんを注文した。人のよさそうなおばさんが下がっていくと、オラトリオはにこにことシグナルを見つめる。その視線が何となく居たたまれなくてシグナルはさっと俯いてしまった。
「病気のほうはもういいのか?」
「知ってらっしゃるくせに……」
仮病だと知っていてこう聞いてくる。それでもオラトリオは表情を変えずに言葉を返す。
「まあな。でも本当はすっごく心配だった」
「どうしてですか?」
僅かに顔を上げてシグナルが問うとオラトリオは真剣な顔で「あなたが好きだから」と言う。
「会ってみてすぐ仮病だってわかったけどな、会うまでは大病だったらどうしよう、医者にはみてもらったのか、治るのかってな」
自嘲したように話すオラトリオをシグナルは奇異の目で見つめていた。信用できないと思いつつも、その真摯な瞳をみれば嘘ではないことがわかった。いつか抱きしめられたときのように自分だけに見せるその炎にシグナルは急に申し訳なくなった。
「…ごめんなさい」
「…なにが?」
急に謝られるとわけがわからないものだが、オラトリオは今まさにその状態にある。シグナルが何に対して謝っているのかわからないのでつい聞き返す。シグナルはときどきちらと視線だけ上げながらぽそぽそとしゃべり始めた。
「だって、先生は用もないのに私を呼ぶんですもん。毎朝迎えにも来るし、授業中だって私ばかり指名するし、だんだん腹が立ってきちゃって…」
「それで?」
「それで、仮病を使ったんです。なんとなく、会うのがいやになっちゃって…」
「そいつは…悪かったな」
「でも、そんなに心配してくれてたんだって思うと、なんだか悪いなって思っちゃって…」
話はそれきりになった。おばさんが運んでくれた品をほとんどしゃべらずに平らげる。おいしいはずなのに何となく味がわからなかった。
店を出ると、日が傾きかけていた。家まで送るという申し出にシグナルは素直に頷いた。さっきの話がまだ終わっていない。歩きながら、何となく口にしてみる。
「シグナル」
「なんですか?」
誰もいないときだけ彼女のことを呼び捨てにする。それはオラトリオが彼女のことを特別に思う瞬間でもある。思ったよりも長いまつげを伏せがちにしてオラトリオはシグナルを見つめた。
「…好き、なんだよ。許婚とかそういうことを抜きにしても。言ったろ? 一目ぼれだって。情けねえけど俺、一目ぼれはあなたがいちばん最初だよ」
九つも年のはなれた妹のような女性に一目ぼれして、それが許婚だとわかったときは天にも昇るような心地だったという。そして赴任先の学校がシグナルの通う女学校だったのは本当に偶然で、さらに担任になったことは奇跡のような出来事で。
「…俺は、あなたが好きだ。愛してる…そう言ってもいいかもしれない」
「愛…」
すちゃらかで、横柄で、何となくいけ好かなかった男の告白にシグナルは混乱して、何となく足元がおぼつかなかった。ふらふらしながらなんとか自宅に辿り着く。
「じゃあ、また明日。迎えに来るからな」
「――待ってます…」
そういうのが精一杯だった。もう来ないで、とは言わなかったことが自分でも衝撃だったらしく、まだふらふらしながら門をくぐったシグナルの背中を見送ってオラトリオは満足そうに笑いながら下宿先であるオラクル邸に戻っていった。

「それでね、けっこう、いい人だと思うの」
「ふんふん、なるほどね〜」
第…何回目になるのかわからないほど繰り返してきたオラトリオ批評会はもうすぐ大詰めだと言うことに気がつかないまま、今日も始まった。ふわふわと柔らかいシグナルの髪を梳きながらハーモニーはシグナルが日に日にオラトリオに傾いているのを確実に感じていたひとりである。これが始まった頃には薄情そうだとかいけ好かないとかとにかく悪評ばかりだったのが、最近は優しいとか、温かそうとか、よい方向に向かっている。
「…嫁いでもいいかも」
思いがけない(?)シグナルの発言にハーモニーは思わずブラシを落っことした。シグナルも自分が言った言葉を慌てて取り消す。
「今のなし! 今のなし! 冗談! 冗談よ!!」
「許婚なんだから別に…ねぇ?」
気を取り直してハーモニーがブラシ片手に話し掛けると、シグナルは真っ赤っかになっていた。

季節はもう夏に向かっていた。


※ ※ ※

それから毎朝、オラトリオは迎えにきた。平日は学校に、休日はデートに。もっとも、この時代に夫婦、親子兄弟でもない男女が一緒に歩いているのは不謹慎だ、不道徳だと罵られるので必然的に集団デートとなるわけだが。それでもオラトリオは満足だった。シグナルの何気ない笑顔をみるだけで満たされてゆく自分が確実に存在していることに気がついていた。
シグナルもシグナルで、だんだんとオラトリオに好意をもっていった。始めのうちは兄みたいだったけど、最近はようやく恋人に昇格した。学校では先生と生徒を演じ、自宅に戻ってからは人目を忍んでふたりっきりになるように努めた。なんとも器用な二束の草鞋であることよ。

そして恋人が婚約者に格上げされたのはその日のことだった。
梅雨の晴れ間にふたりはなんとなしに公園を歩いていた。今日は「散歩中の学者」と「お稽古帰りのご令嬢」が「偶然出会った」という設定だ。しっとりと濡れた紫陽花が太陽の光をあびてきらりと光る。初夏を彩るこの花にちなんでシグナルは今「紫陽花の君」呼ばわりである。少しぬかるんだ足元をオラトリオは紳士らしいふるまいでシグナルをリードした。
こんなふうに優しい、こんなふうに温かい。
始めは頑なだった心がいつしかオラトリオに傾いていて…この人だったら、一生を任せてもいいかな、なんて思ったりして、ハーモニーと笑っていたことがある。
シグナルはふと足を止めた。紫陽花の花がどう影響したものか、シグナルは決心を固めていた。オラトリオはシグナルがついてこないのに気がついて、慌てて顔を覗き込んだ。
「どうした? 具合でも悪いか?」
「…オラトリオ」
シグナルが真摯に自分を見つめてくる。いつもと違う強さを秘めた瞳に言い知れぬ戸惑いを感じながら、オラトリオは応えを返す。
「なんだ?」
「…オラトリオは、私に一目ぼれだって言ったよね」
「ああ、そうだ。一目ぼれだったんだぜ」
「……最初はすっごくむかついた。オラトリオってば、品定めするみたいに私のこと見るんだもん」
「…そいつは悪かったな、んで?」
「…最近は、それもいいかなって思ってる。オラトリオの傍にいたいって…」
シグナルの言葉を、オラトリオは人差し指一本でやんわりと封じた。柔らかい唇にそっと触れる。そしてにんまりと笑った。心中では盆踊り大会、その横では酒池肉林の大宴会だ。そんなことはおくびにも出さずに続きはしっかりと紡ぐ。
「そういうことは女の子から言うもんじゃねえぞ」
「…じゃあ、オラトリオが言って」
促されるまま、望まれるまま。どうぞ、あなたの御心のままに――。
「俺の、唯一の人になってください。いついかなるときも、死がふたりを別とうとも、ずっと一緒にいてください」
「はい…」
静かに誓われた愛は誰にも見咎められることはなかった。

「あ、それとね」
「あん?」
「式は…さ、あとニ年待ってくれる? ちゃんと女学校卒業したいから…」
「…待っててやるよ。許婚だからな♪」
清らに晴れ渡る空の向こうに麗しい未来を感じながらふたりはそれぞれの帰路についた。


※ ※ ※

そして、約束の日。桜の梢に揺れる蕾はまだ固い。
今日は女学校の卒業式だ。講堂から流れる『蛍の光』にすすり泣く声が聞こえてくる。級友との別れがシグナルの胸にもじーんと響いていたが、これから広がる新しい未来にわくわくしたのもまた事実で。長ったらしい校長の話、なんて思わないで丁寧に拝聴しよう。卒業生総代で登壇するのはやはり我らが麗しのシグナルだろう。妹のように可愛らしく、また、今日から自分の妻となる少女の晴れ姿に思わず涙がこぼれそうになる。
卒業式終了後、級友たちはそれぞれの進路について語り合う。その中でもやはり話題はシグナルだろう。卒業したら輿入れするのだということは噂に聞いていたが、相手が誰だかわからない。シグナル本人も『内緒』と言って花も綻ぶ笑顔でごまかしてしまうため、とうとう聞けずじまいになってしまった。
「た、大変よ!!」
とある女学生が乱暴に教室の扉を開け放つ。その音に一同が目を見張った。
「まあ、どうなさいましたの? 如月様」
彼女は息を整えながらも、何かを言っている。そこが聞き取れたものはいないだろう。ようやく落ち着いた彼女の言葉に、教室中から溢れんばかりの叫び声が聞こえた。
「ええええええええっ〜〜〜〜!!」

「ああ、やっぱり騒ぎになってる…」
「騒ぐなって言うほうが無理だよなぁ…」
「だからって帰るわけにはいかないし…」
「担任の挨拶もせにゃならんし。行くか?」
「行かなきゃいけないでしょ。級長だもん」
ふたりが扉をくぐった瞬間、たくさんの拍手に迎えられた。



これから激動の時代、血塗られた時代がはじまる。
うねるような時の流れに翻弄されながらも、ふたりは手を取り合って幸せに暮らした。




愛に気づいてください ぼくが抱きしめてあげる
何もかも忘れて 君を求めていた
誰も知らない世界で ぼくがささやいてあげる
窓に映る切なさは 生まれ変わるメロディ


ぼくの君の届けたい 生まれ変わるメロディ


≪終≫




≪あとがきでございますぅ≫
ども。今回は大正ろうまんすです(笑)。だからタイトルもひらがなで『ろまんす』でしょ? 本当はもっと、オラトリオを突っぱねるシグナル君とか書きたかったんですけど、まあ、そんな力はないってことで、お目こぼしくださいませ。ちなみにシグナル君は160センチ、50キロに設定してあります。シグナル君が女性として登場するときはこうなんですけどね(笑)。んで、なんで大正ロマンかというと、私が最近卒業式でそういう格好をしたから、と言う単純な理由。覚えているうちに書いとけってことで。あはは( ̄□ ̄;;)。
 
注: 文字用の領域がありません!

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