江戸紫恋語



男だったらひとつに賭ける 賭けて縺れた謎を解く
花のお江戸は八百八町
今日も麗し 恋の花咲く


「て、てーへんだあ! 親分!!」
「あんだよ、クイック、うるせえなぁ」
自身番に詰めていたオラトリオが蕎麦をすすりながら露骨にいやそうな顔をして見せた。クイックは最近雇ったばかりの岡引で小回りがきくのと熱心なのがいいところ、ちょっとおっちょこちょいなのが珠に傷、そんな少年だ。房のない十手を握り締め、息せき切って駆け込んできても、たいがいが夫婦喧嘩の仲裁だとか、食い逃げだとかを捕まえてくるので、オラトリオはちょっとだけうんざりしていた。仕事は嫌いではないが、どちらかと言うと綺麗なお嬢さんを守っているほうがいい。従ってクイックが持ってくる『てーへんだ』はあまり聞きたくはないのだが。
「蕎麦食ってる場合じゃないって! かどわかしだよ!」
「またまた、そんな冗談ばかり」
「冗談じゃないんですよ」
体格差のありすぎるふたりの漫才をいとも簡単に止めてしまったのは与力仲間のカルマ、その背後には筆頭与力のコードが冴え冴えとした表情で立っていた。着流しの小袖に黒の羽織りは与力同心の制服だ。与力は世襲も珍しくないが、基本は一代限りとなっている。この三人は親の代からの与力ではなく、新規加入の珍しい連中なのだ。これよりやや劣る石高で同心がつく。ここから下は町人が目明し、岡引と呼ばれる補助人のような役になる。公務員ではないため、賄いは上の同心や与力から戴く事になっているのだ。握る十手に房がないのがその印である。
「んで、浚われたのはどこのお嬢さんで?」
「お前は女以外、助けんのか」
「まあまあ、そんなことより」
カルマが袂から一枚の紙切れを差し出した。しわくちゃになったのは投げ込まれたときからだそうだ。妙に達筆で定番の文句が書いてある。

――『娘の命がおしかったら百両持って富岡八幡宮へ持って来い』

「富岡って行ったら今はほとんど人気はねえな」
「祭りは終わったあとだしな」
「だから下手人はここを指定したんでしょうね」
八幡宮と名のつくところは戦神を祭っているところが多く、参拝者も多いが、夜になると人通りはぷっつりと絶えてしまう。ただでさえ暗い江戸の町なので人目にはつかないだろう。
「最後の一文が気になりますね」
カルマの細い指が墨の滲むあとをなぞる。覗き込んでいたオラトリオの顔にふつふつと怒りの表層が現れる。
「いい度胸してるじゃねえか…」
「俺様たちに対する挑戦だな」

――『奉行所へ知らせてもかまわない』

こういうときは尻尾を捕まれないように「誰にも知らせるな」と言ってくるのが定石だが、下手人は敢えて己が犯行を誇示したいようだ。それほどまでに頭が切れるのか、はたまた背後に大物を抱えているのか。武家屋敷と寺社は支配違いなので手が出せない。それを知っていての挑発かと思われた。金の用意をするように指示してきたが、目的は金ではないようだ。場所は指定したのに時刻の指示がないのが変だとカルマは言う。
「あ、んでよ、どこの娘だ? かどわかされたのは」
先ほど聞きかけたことを再度問うとカルマはにっこり笑って娘の名を口にする。秀麗眉目なその顔に憧れているものも多く、最近ひそかに錦絵にもなったほどだ。
「深川の薬種問屋、音井屋の末娘ですよ。深川小町って言えば知らない人はいないでしょう」
娘の名はシグナル。当年16歳。色白で細身、紫の豊かな髪に紫水晶のような瞳が愛くるしい少女だ。美人の誉れが高く、嫁にと望むものも多いと聞く。おてんばだが心根は優しく、悪いやつは許さないという女長兵衛だそうだ。そんな少女がかどわかされたとなると一大事、嫁入り前なので変な噂がたつとあとあと縁談にも支障をきたすだろう。三人は極秘に探索をすすめることにしてめいめいの職務に戻った。

「しっかし、深川の小町ちゃんがねぇ〜」
「やっぱり縁談の縺れかな」
「それを調べんのがお前の仕事。行って来い!」
オラトリオがクイックの背中を叩くと、クイックは転びそうになりながらも駆け出していった。その小さな背中を見送ってからオラトリオはいったん奉行所に戻ることにした。


※ ※ ※

「さっきカルマから聞いたよ」
北町奉行であるオラクルは、奉行とは思えないほど穏やかな顔でのんびりと茶をすすっていた。江戸の町は両奉行所が月番、つまり一ヶ月交代で治安を守っている。今月は北町が担当だからこの事件は自然に北町が探索することになる。南北あわせて八十余騎で江戸を守ってはいるものの手柄を争っているため、つまりは縄張り意識があるために決して仲はよくない。しかしオラクルはそんなことは気にしない。江戸の民が平穏に暮らせるなら手柄なんて関係ないと思っている。だからオラトリオたちもそんなにあせったりしない、悠々と、しかし真剣に見回りをし、治安を守っている。
「お嫁入り前なんだろ? 早く見つけてあげなくちゃ。親御さんも心配してるだろう」
「ああ、さっき寄ってきたらピーピー泣いてたぜ。よっぽど可愛がってたんだな〜」
奉行所へ戻る途中にふと思い立って音井屋に寄ってみると、火が消えたように静かになって…いなかった。主人に聞いてみるとシグナルは病気で臥せっていることになっていた。かどわかされたとは言わないのが親心だろうか。シグナルは三人兄弟の末っ子で上に姉と兄がひとりずついる。10歳年上の姉ラヴェンダーは裕福な医者のもとに嫁いで家にはいなかった。3歳年上の兄パルスはこの家の跡取り息子で将来は同じ薬種問屋から嫁をもらって身代を継ぐのだという。母親である詩織は憔悴しきっており、どうか娘を助けてくれとオラトリオの膝あたりに縋って泣き出す始末。一方では見舞い客が絶えず、番頭が面会謝絶だと言って追い返すなどてんやわんやの大騒ぎとなっていた。ほんとうに娘が誘拐された一家だとは到底思えない。ひととおり詳細を聞いてみると、シグナルはお琴の稽古の帰りに浚われたらしいことがわかった。
「で? 下手人の心当たりは?」
「ありすぎてわかんねえんだとさ」
要するに引く手あまたということだ。疑わしいやつはたくさんいる。その中から絞り込む必要がある。それと、シグナルの居場所も探さなくてはならない。
「オラクル、俺は廻船問屋の<クオンタム>が怪しいと思ってる」
「どうして?」
「そこの主、といっても、もう代替わりしてっけどな、クオータっていうのがシグナルにしつこくつきまとってたらしいんだわ」
正式に縁談も申し込んだそうだが、シグナルが嫌がったためにこれまたしかるべき筋を通して断ったそうだ。それでもクオータはせっせと付文をするし、シグナルが外出しようものならそのあとをつけたりしていたという。それがもとでシグナルは数日寝込んだそうだ。
「暇なんだねぇ。それで商売は大丈夫なのかい?」
「番頭のホーンってやつがしっかりしてるしよ、先代もまだ達者だからなぁ」
ふたりが静かに茶をすすると、涼やかな衣擦れの音が聞こえてきた。艶やかな緑の着物に、同じような緑の髪が映える。濃緑の帯には繊細な刺繍が施されており、決して贅沢なつくりではないが見るものを魅了する美しさを湛えている。彼女こそ、コードの妹、エモーションである。
「おくつろぎのところを失礼いたしますわ。オラクル様、オラトリオ様」
「やあ、エモーション」
「こんちわ、今日はいったいどういった御用で?」
「杏の砂糖漬けを持って参りましたの。それと、こちらはオラトリオ様へ。お兄様からの預かりものですわ」
「これは?」
「廻船問屋<クオンタム>に関係するものだそうです。そういえばわかるとおっしゃいましたので…」
エモーションの細い指が紫縮緬の風呂敷をはらりと開いた。中身は二冊の帳面だ。これが今回の誘拐事件とどう結びつくのかはわからなかったが、コードがよこした物だ、それ相応のものには違いなかった。そこでオラクルがはたと気がついた。
「そういえば、エモーションはシグナルと同じ琴の先生に師事していたっけね?」
「ええ、そうですわ。<A‐S>、ご病気だそうですけど…」
エモーションはシグナルが誘拐されたとは聞いていないらしい、単純に病気だと信じている。それはこの上も無くありがたいことだ。
「方向がまるっきり逆なので先生のお宅でお別れしましたの。元気そうにしてらしたのですが……あ」
「どうしやした?」
何かを思い出したようなエモーションの仕草にオラトリオは敏感に反応した。与力の本能、とでも言うべきか。
「そういえば、一度帰ったはずの<A−S>が戻ってくるのを見ましたわ。忘れ物でもなさったのかと思っていたのですけれど…」
「戻った?」
「ええ、私ずっとみておりましたの。<A−S>はあたりを窺うようにして帰っていかれましたわ」
エモーションの言葉にオラトリオはすぐに立ち上がって大小を腰に挿した。犯人はもう、間違いなくあいつだ。あとは証拠――これだけだ。


※ ※ ※

「こんなところで私をどうする気よ?」
柱に縛り付けられたままじたじたと暴れている少女を青年は楽しそうに見下ろしていた。髪と目は同じ紺色で、その容姿はオラクル・オラトリオとそっくりだが親戚ではない。ただ冷たい狂気を湛えた瞳が揺れる。少女は泣きもせずにただ暴れて何とか縄をほどこうと試みたが無駄だった。
「つれないですねえ。うんと言って下さればすぐにでもお帰ししますよ?」
「誰があんたなんかと夫婦になるもんですかっ! 死んだってお断りよっ!!」
あばらやの壁から月明かりが漏れていた。それがふたりを淡く照らし出す。ふくれてぷいと顔を背けられても、ただ笑っているだけだ。男――クオータがシグナルの顎を掴んで強引に自分のほうを向かせた。
「っ!」
その行為に怒りだけを覚えて、シグナルはあらん限りの憎悪をもってクオータを睨みつける。紫水晶の瞳は燃える炎を宿して揺れた。
「いい目だ、とても扇情的で…私は貴女をこんなにも思っているのにどうしてわかってくださらないのです?」
「わかりたくないっ! 一度きちんとお断りしたはずだっ!」
「私にもわからないんですよ。貴女はどうして私を拒むのでしょうか? 幸せにすると言っているのに?」
「…それ以上私に何かしてみなよ、舌噛んで死んでやる!!」
「おっと、それは困りますね、大事な花嫁に死なれては大変だ…」
そういうとクオータはシグナルに猿轡をかませた。布から漏れる呻き声は恨み言だが、その言葉さえ愛しいと思えるほどに、この子にはひきつけられる。
「また明日、お会いしましょうね」
そういってクオータは見張りもおかずに帰ってしまった。どうせ、シグナルはここから逃げられない。淡い月明かりだけがそこに残る。ぼんやりとした暗闇の中でも、怖くも寂しくもなかった。クオータがいなくなったから。
『――狂ってる…』
夜が明けるまでシグナルは一睡もしなかった。


※ ※ ※

「結局手がかりは無かったな〜」
あちこち聞き込みをしてわかったことはシグナルがかどわかされたのが事実だということを印象づけることばかり。八丁堀にあるオラトリオの役宅でクイックが茶を入れながらぼやいた。シグナルとクイックは家が近かったこともあって小さい頃から仲がよかった。瓜二つでまるで姉弟のような間柄だっただけに人一倍心配している。
「こっちも収穫無しだぜ」
オラトリオも同じようにぼやく。シグナルの行き先は霧の向こう側だ。わかったことはシグナルの評判がいいこと――例えば困っている人を見ると助けずにはおけないのだとか。絡まれて困っている女性を助けたり、堀にはまって溺れかけた子供を助けたり。おおよそ大店のお嬢様とも思えない行動であるが、気風のよさに一目置いている親分もあるという。何でも永代あたりを取り仕切っていた元締が腹痛を起こして困っていたところを助けたのがシグナルで、それを縁にして今でも音井屋に一大事あるときは命懸けで、とばかりに忠義をつくしているらしい。今回の誘拐事件は音井屋の旦那から秘密裏に聞いているらしく、こちらもシグナルの将来を思って一切他言無用と子分たちに言い聞かせている。
「あっしらがついていながらこの不始末、お詫びのしようもねえや」
といいながら頭を垂れる元締には流石のオラトリオも絶句した。シグナルが白といえばすべてが白になりそうな、一種独特の雰囲気がある。
「俺様は廻船問屋の<クオンタム>をあたってみた」
ここはオラトリオの家であるはずだが、本来主人が座るべきところにはコードがふんぞり返っていた。ちゃぶ台に湯飲みを置いてから探索の結果を報告する。
「クオータもおかしな評判は無い。人当たりはいいし、子供にも優しいそうだ」
廻船問屋<クオンタム>の先代は身代をそっくりクオータに譲って隠居している。その期待にこたえるかのように順調に売上を伸ばしているという。どういう儲け方をしているのか、急成長だそうだ。まだ独り者だということだが懇ろにしている女もいないらしい。いつかある縁談のうち、薬種問屋・音井屋の末娘との話には妙に乗り気だったということを周囲から聞き出した。
「深川小町との縁談ですからね〜。俺だったら盗んでも添い遂げたいですね」
「…クオータもそうしたんだろうな」
コードの冷ややかな突っ込みにたはーと笑って見せると、クイックが何かを思い出したように立ち上がった。
「どうした?」
「シグナルが言ってたことがあるんだ、もし自分に万が一のことがあったら行ってほしいところがあるって」
クイックが慌てて走り出そうとしたのをオラトリオとコードが追いかけた。
「そういうことは早く思い出さんか!!」
拳を振り上げながらコードが怒鳴る。オラトリオも同じ気持ちだっただろう。コードは藍色の、こちらは蚊絣の着流し、オラトリオは薄い黄色に染められた絣の着流しで、裾がちらちらと足先を見せている。クイックは薄茶の格子柄の着物を尻がらけにして走ってゆく。ついたところは江戸のはずれ、川のほとりだった。
「なんだよ、ここは」
「俺、一度シグナルにつれてきてもらったことがあるんだ。クオータと見合いしたときにここに来たんだって」
おそらくは「あとは若い方だけで」ということになり、散歩という名目できたに違いなかった。しかし、万が一のときにここに来いとはどういうことなのだろうか。シグナルは自分が浚われるかもしれないとわかっていたのだろうか。いやな予感がして、オラトリオは周囲を見回す。日差しがきらきらと水面に輝いていた。

そのとき。
がさっと言う音がして、三人は緊張して振り返る。そこにはにこやかな笑顔でカルマが立っていた。
「なんだよ、脅かすんじゃねえよ」
「別に脅かすつもりはありませんよ。あ、そうそう、シグナルさんの足取りがつかめましたよ」
「なんだって?!」
カルマの探索の結果、シグナルがこの辺にいるらしいことがわかった。それというのもこの辺に店を出している夜鳴き蕎麦の親父が証言してくれたのだという。親父の言うことにはその日は人通りも少なかったのでそろそろ店をしまおうかと思っていたところに駕籠が通りかかったそうだ。しかもその少し後ろを歩いている男を見たらしい。暗がりだったのでよくわからないがかなり上背のある男だったので覚えていた。
「オラトリオよりも小さいですか、コードよりは大きい方だそうですよ」
ということはこのふたりを足して二で割った人物ということになる。さらに親父の証言によればそれはオラトリオに似ていたという。広い江戸で七尺もあるオラトリオはある意味ではかなり有名である。それに似ているということは、下手人は間違いなくクオータということになる。ただ、今のところ状況証拠ということになる。確証を得るためにはクオータがシグナルと接触している現場を押さえる必要があった。
四人はシグナルが捕らえられているだろう場所に出向いた。あばら家の中はがらんとしていて何もない。ゆえに柱に縛り付けられているシグナルはひときわ目立った。結い上げた島田髷に淡い水色の鹿の子が飾られている。平打ちの簪がちらちらと揺れていた。身につけている着物も藤紫に染めた友禅の中振袖でそれなりに品がいい。しばらくじっとして、じたじたと暴れて、またじっとしては暴れる。どうやら縄をほどいて自力で逃げようとしているのが見て取れた。
「ほお、可愛いじゃん」
オラトリオが素直な感想を漏らすと、コードにどつかれた。
「なにすんですか、師匠〜〜。俺は正直な感想をですね」
「じゃかあしいや! この色情魔が!!」
「まぁまぁ、とりあえず夜を待ちましょう」
すっかり調停役になったカルマはクイックをその場に残して立ち去った。つなぎにはクイックの兄でもあるクワイエットを使う。

今夜が勝負になる。
八丁堀は久々に緊張していた。


※ ※ ※

新月の夜に明かりは無い。満天の星が瞬いたが、足元を照らすほどの明かりは得られない。
クイックがずっと張り込んでいると、やがてオラトリオたちも駆けつけてきた。しっかりと装備をし、手には朱色の鮮やかな房を飾った十手を握っている。捕り物において刀剣を使うことは許されていないために十手裁きが鍵となる。もちろん、三人とも剣術はおろか体術さえも習得している。
「よう、変わったことはないか」
「あ、オラトリオ。うん、今さっきクオータが来たよ。中に入っていったんだ。知らせに行こうと思ったらちょうどよく来てくれたね」
「まあな」
「それで、今どんな按配だ?」
コードが訊ねるとクイックは慎重に頷いた。筆頭与力であるコードじきじきの捕り物も珍しいが、与力がこれだけいるというのもまた珍しい。野次馬がいないのが奇跡的だった。
「クオータが入っていったきりだよ」
「ひとりか?」
「ひとりだよ」
「けっ、ずいぶん余裕じゃねえか。舐めたまねしてくれるぜ」

「いやあ!! 放して! 放してったらぁ!!」
あばら家の中からシグナルの悲鳴が聞こえた。その声にクイックがいち早く反応し、駆け出していく。誰も止めなかった。シグナルに何かあってからでは遅いのだ。クイックが破れ障子を開け放つと、シグナルを手篭めにしようとしているクオータの鋭い視線に出会う。
「シグナル!!」
「クイック!!」
クオータが一瞬手を緩めた隙をシグナルは逃がさなかった。力の限りクオータを跳ね除けるとあわててクイックの後ろに逃げこんだ。横目でそれを確認し、クイックは僅かに微笑んだあと、きっとクオータに向き直った。クオータは着物の乱れを直しながら余裕綽々でクイックを見下ろす。
「おやおや、クイックじゃありませんか、どうしたんですか?」
「どうしたじゃない! シグナルを誘拐しただろ!! 大人しく縛につけ!!」
「証拠があるんですか? 証拠が」
「今手篭めにしようとした、それだけでも十分だぜ?」
その声にクイックの後ろに隠れていたシグナルがふっと顔を上げた。僅かな明かりに照らし出される顔はクオータとよく似ていたのに不思議と怖くなかった。その人は自分を見つめてにっこりと笑う。場違いなはずなのに安心できた。シグナルはぼおっとして見つめていた。
「お助けにまいりましたよ、お嬢さん。さ、クイック、早くシグナルを連れて行け」
「うん!!」
さぁ、とクイックがシグナルの手を取って走り出す。追いかけようとしたクオータの前にオラトリオ、カルマ、コードの三人が立ちはだかる。クオータは小さく舌打ちするとその顔にあからさまな嫌悪を表した。
「全くもって残念なことだ、折角シグナルさんとの祝言がまとまりかけていたというのに」
「男の嫉妬は醜いぜ」
「しかたありません、死んでいただきましょう」
どこに隠し持っていたのか、クオータが匕首を抜いて斬りかかってきた。矢鱈目鱈と振り下ろされる匕首の軌道は一定ではない。それを三人がかわるがわる受け止める。決定打が与えられないままに剣戟の音だけが空しく響いた。すさまじい剣の舞に下がっていたクイックとシグナルも目を見張る。互いにかすり傷を負いながらもなんとか止めを刺そうと躍起になる。舞台はいつしかオラトリオとクオータの一騎打ちになっていた。
「てめえみたいなやつにシグナル嬢はもってえねえや」
「五月蝿いですよ、不浄役人の分際で」
「おめえこそしつこいんだよ、嫌われてるのを自覚しろよ」
「! おまえなんかにシグナルは渡さない!!」

がつっ、かららん。

オラトリオの手から十手が弾かれた。痺れる右手を押さえながらオラトリオがうずくまる。肩口にうっすら血が滲んでいる。コードが慌てて、しかし優雅に襲い掛かる白銀を止めた。頼りないほど細い体のどこにそんな力があるのか、簡単に匕首を跳ね除け、殴りかかる。壁にしたたかに後頭部を打ちつけたクオータは唸りながらコードを睨みつける。そんな視線を冷ややかに返しながらコードは十手を突きつけた。
「あとはないぞ、観念しろ」
コードが顎で指示をすると目明しが縄を用意して近づく。縄をかけようとしてクオータを乱暴に起こすと、弾かれたかのようにクオータが飛び掛った。コードが十手を構えて防ごうとするその背中に高らかな女性の声がかかる。
「どいてっ!!」
ほとんど紙一重、それでも反射的にコードが脇に飛ぶ。カルマもすっと避けて目を見張った。どこから持ってきたのか、太めの木の棒を構えた……シグナルがクオータに向かっている。そして気合一発、それをなぎ払う。
「たああああああああっ!」

どす。

かなり鈍い音がして、クオータの体が崩れ落ちる。シグナルがクオータの胴を思いっきりぶん殴ったのだ。カルマとコード、そしてクイックがあっけにとられている。捕縛されていくクオータを見ながらシグナルが大胆に啖呵を切った。
「深川小町に手を出そうだなんて五十六億年早いわよ! ったく」
シグナルがくるっと振り返ると、固まっている与力たちが目に入った。しまったとばかりにえへへと笑ってみたが、説得力がない。
「あは、あははは……」
クイックが乾いたように笑うと、コードも豪快に笑い出した。カルマもにこやかに笑っている。とりあえず一件落着したわけだから。
「いんや〜、すごいねぇ〜」
肩口を押さえながらオラトリオがぬっと現れた。五尺三寸のシグナルは背後から聞こえる声にふっと反応した。大きな指の隙間から血が流れているのを見て取ると、シグナルは急いで長襦袢を裂いた。伸び上がってオラトリオの肩にぐいぐい巻きつける。白魚のような指にオラトリオの血が滲むのを見て、オラトリオは慌てて彼女を止めた。
「お嬢さん、いいですよ、汚れますよ」
「そんな、私のために怪我をなさったんですから…」
応急処置をしながら見つめあうふたりにこれから訪れる春。今は誰も気がついていなかった。


※ ※ ※

「って言ってきてるんだけどねえ」
「よろしいのではありませんか? お忍びということで」
今日ものんびり北町奉行所の一室でオラクルとカルマがお茶をすすっている。手紙を封にしまいながらオラクルはニコニコしている。
「しかし、オラトリオが珍しいですねぇ」
「ああ、本当に。まあ、癖が治ってよかったんじゃないかな」
「そうですね」
青々と広がる空を見ながらふたりはほのぼのと微笑んでいた。

「ごめんよ」
薬種問屋・音井屋の暖簾をくぐるとばたばたばたとかけてくる音が聞こえる。店先では主人である信之介が快く出迎えてくれた。廊下の先でぶつかりそうになったパルスが溜め息をついてその背中を見送る。
「走ると危ないぞ!」
「ごめーん、でも、オラトリオ様が来てるんだもん♪」
もうすぐ嫁に行くというのに娘気分の抜けない妹に苦笑しながらもパルスは珍しく笑っていた。彼女と入れ違うように彼もまた嫁を迎えた。同じ薬種問屋の末娘でクリスという。二つ年下の気が強いが、しっかりしたところのある女性だ。パルスが自室に下がると、またもにぎやかなシグナルの声が聞こえてくる。この声はもうすぐ聞けなくなるのかと思うと少し寂しい気がした。
「早く早く、とっても綺麗なんだから」
「わかったから、そう引っ張るなよ」
通された部屋には純白の花嫁衣裳がこれでもかといわんばかりの白を湛えていた。そのほかにもたくさんの嫁入り道具が所狭しと並んでいる。
「これ、全部置けるかね〜」
「もうちょっと減らしたほうがいいかもって言ってるんだけど、お母様が持っていきなさいって」
「道具よりも着物が多いほうがいいんじゃねえ?」
「でも、もう間に合わないよ?」
「祝言、明後日だからな」
「うん♪」

あの事件の後、廻船問屋<クオンタム>はシグナル誘拐に加えてなんと抜け荷が発覚。証拠もしっかり押さえられた。家財没収の上、クオータは市中引き回しのあと打ち首獄門と決まった。処刑はすぐに行われた。
一方のシグナルは誘拐されたことが広がってしまったが、縁談に支障はなかった。しかしシグナルは片っ端からお断りした。心配した両親がある夜シグナルを呼んで問いただした。
「どうしてお断りしているんだい? 中にはいいお話もあると思うんだがね」
「そうよ、シグナル。それとも、誰かお心に決めた人でもあるの?」
優しく問い掛けられるとシグナルは俯いてもじもじしながら畳を毟りつつこういった。
「…オラトリオ様のところに嫁ぎたいんです」
両親が驚いたのはいうまでもない。よくよく話を聞いてみると今回の事件をきっかけにして二人は急接近したらしい。町で出会おうものならシグナルは顔を真っ赤にしてしどろもどろしゃべっている。いつもはきはきとものを言うシグナルの珍しい姿に町中が注目しているくらいだ。オラトリオはオラトリオで、お琴の稽古帰りにも偶然通りかかったような振りをしてシグナルを家まで送り届ける。先日はオラトリオから銀細工に珊瑚をあしらった蝶の簪をいただいたとかで。シグナルはそれを丁寧に引き抜くと両親の前に差し出した。
武家から商家へ、商家から武家へ嫁ぐのは珍しくはない。しかし商家からの嫁入りとなると身分を取り繕う必要があった。相手は奉行所与力である。与力というものは石高そのものとしては高いほうではないが、各藩邸から藩士が不祥事を起こした場合は穏便に済ましてくれるようにと付け届けが多い。したがって実高よりも見入りがよいのが実態だ。シグナルが嫁入りしても金銭的に困ることはないと思われた。それはそれとしてオラトリオの気持ちを確かめておかなければならない。
事件解決のお礼がてら両親が挨拶に行く。そこでオラトリオに頭を下げられた。
「本来なら俺が…いや、私めがお伺いしなくてはいけないんですが」
と前置きされたところで
「どうか、お嬢さんを下さい!」
と相成った。とんとん拍子に話は進み、シグナルはとある旗本の養女となってオラトリオのもとに嫁ぐことが決まった。そして三日前に養親のはからいで実家に戻ってきている。やはり嫁ぐ前に本当のご両親と過ごしたほうがいいだろうという優しい心遣いだ。

「ねえ、オラトリオ」
「あん?」
「…幸せになろうね」
「…おう」
部屋の前で入りそこなっているクリスが茶の載った盆を持ったままうろうろしていたのを詩織は面白そうにみていた。



たかさごや このうらふねに ほをあげて……。



男だったらひとつに賭ける
賭けて惚れたら添い遂げる
花のお江戸は八百八町
これにてめでたく大円団





≪終≫




≪反省でござります≫
今回は「えどむらさきこいがたり」と称してオラシグ時代劇でございます。今回はね〜、辻褄を合わせようとするとあわないんだよ〜。まず与力と奉行が若すぎる!コードなんて偉そうだというだけで筆頭与力なんだよ。まだ20歳なのに〜〜(i_i)。クイックも小さすぎるんだよねぇ。小僧さんにしとけばよかったかな〜。と反省点はたくさんあるんですが、まぁ、書いてて楽しかったです。

注: 文字用の領域がありません!

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