七つの優しい夜の下 中世ヨーロッパの深い森。その中にたたずむ城。この城に住むのは地方の領主様。そして、その領主様には愛らしい一人娘がいるという―――。 「今夜はここにしときますかね」 漆黒の闇にも似たマントを翻し、不敵に笑う長身の青年は月をバックに屋敷の様子を窺っていた。青年の影を月光が大きく照らし出す。ばさばさとマントをはたくと、それはこうもりの羽となり、彼の巨体を夜空に導く。そう、彼は吸血鬼―ヴァンパイアなのだ。すいーっと空を飛び、窓のあいている3階の部屋を目指す。飛んだまま中をのぞくと、部屋には女の子らしい調度品が並んでいた。あたりかな、と青年はにやついている。視点を変えると少女が机に向かってなにやらうめいていた。どうやら、うわさの一人娘らしい。 (ほう、これは、これは) 数多くの女性を見慣れているだけあって、彼の女性に対する審美眼は確かである。後姿だけで、この少女がどんな美人であるかは、わかったも同然だ。少女は目を引くような紫色の長い髪のサイドを三つ編みにし、後ろで束ねている。もう寝るのであろうか、装飾の少ない水色のワンピースが細い体に良く似合った。年のころは16歳前後か? (けど、やっぱりちゃんとお顔も拝んでおかないとね) 青年は音を忍ばせて室内に侵入し翼をマントに戻す。そして背後から少女に声をかけた。 「何をそんなに困っておいでです?」 突然声がして、少女はびっくりして振り返った。さあ、どんな反応をするでしょう。 ―――彼女は背後の人に、目をうるうるさせながら訴えた。 「このフランス語…よくわからないの…」 へ?青年は一瞬止まった。そして“おいおいおい!”と心の中で突っ込んだ。 (こーゆーときは“誰?”って怯えるもんでしょう?!) そうは思うのだけれど、少女の瞳は助けて、といっている。もちろんフランス語から。青年は少女が差し出す本を受け取ると一読してから訳のヒントを与えた。少女は素直にうなずき、辞書を片手に再びその言語に取り組んだ。そして10分後。できたーと少女が言うので、確認してみると、自分が教えたとおりの訳がなされていた。『よくできました』と頭をなでてやると、えへへ、とうれしそうに笑う。そこで少女はあれ?という表情で目の前の青年にこう問うた。 「あなた…誰?」 (おいおいおい!今ごろかい!) 青年は心の中で再び突っ込んだ。それでも青年は冷静に――いや、冷静さを装って対処する。 「俺はオラトリオ。今夜をあなたと過ごそうと思って参上しました」 胸に手を当てて最上級の礼をつくした。そのまま少女の手をとって口づける。 そしてゆっくり少女の顔を眺めた。雪のような白い肌に桃の花のような唇、ぱっちりとしたアメジストの瞳は穢れを知らないだろう輝きを携えていた。まさに…オラトリオ好み。 ふーん、という変に納得したような表情で、少女はさらに続ける。 「わたし、シグナル…どこから入ってきたの?」 「あの窓からですよ」 オラトリオは自分の入ってきた窓を指差す。きょとんとした表情で窓に視線を投げるシグナル。そして返ってきた反応は… 「すごいねぇ」 という感嘆の言葉とぱちぱちという小さな拍手。オラトリオは肩から脱力した。ここは3階、普通なら登って来れない高さだ。訝しがるだろうと思っていたのに、この少女は天然ボケなんだろうか。そんな疑問がオラトリオの脳裏をよぎる。 これはオラトリオの経験にはないパターンだ。たいていは見ず知らずの人間に怖がって怯えるか、好き者の侍女あたりが誘うように寄ってくるかだ。だが、この少女はどちらにも属さない。オラトリオは血を吸うタイミングを失いつつある。心の中で必至に整理をつけようとしているとき、少女が眠そうに目をこすっているのがわかった。 「眠いんですかい?」 オラトリオの問いかけに少女はうなずく。これはチャーンスとばかりにオラトリオの目が光る。寝かせてしまえばこっちのもんさっ! 一緒に寝ようかと誘うとシグナルはうれしそうに反応する。はやくはやくとオラトリオの腕をとって天蓋の中に導くシグナル。そのあどけなさに狂いっぱなしの思考回路、オラトリオがベッドに入るとシグナルがその胸に飛び込んできた。 「ん〜、あったかい。おやすみなさい、オラトリオ」 シグナルのまぶたがゆっくりと閉じられる。すうっと大きく息を吸ったかと思うとすやすやと寝息を立てた。 (寝つきのいいやつ…) 幸せそうに眠るシグナルを抱いたまま、オラトリオも目を閉じる。 「今日は…まぁ、いいか」 夜明け前。オラトリオはそっとベッドをはなれた。シグナルが眼を覚ます前に、ここをはなれるつもりだった。なんせ吸血鬼の身の上、日の光にあたろうものならこの身は灰と化してしまう。窓からでていこうとしたとき、背後から声をかけられた。そこにはまだ眠っていたはずのシグナルが、淋しそうにマントのすそを握って立っていた。 「もう…行っちゃうの?」 上目遣いの視線は淋しさでいっぱいになっている。オラトリオはそんな彼女に微笑みかけ、額に口づける。 「また、夜になったら来るよ」 「本当?」 「ああ」 短い返事に満足そうにうなずいてから、シグナルは、絶対だよ? ここ、あけておくからね、と念を押した。それに微笑みかえすことで返事とする。シグナルの前なので翼を開くわけにはいかないが、この程度の高さは彼にとってはなんでもない。桟を越えて飛び降り、スタッと軽やかな音を立てて着地する。見上げるとシグナルが静かに、でも元気良く手を振っていた。オラトリオもそれに応えるように片腕を上げるとさっと茂みの中に姿を隠した。 「今夜…また…」 同じことを思いながらも、オラトリオは彼女の血をいただくことを思い、一方のシグナルは自分が好色ヴァンパイアに狙われていることなど知らずにうれしそうにもう一度眠りについた。 夜の秘密の逢瀬はその日から6日間続いた。オラトリオが血を吸おうとするたび、彼女は持ち前の天然さで切り抜けた。もっとも、彼女にはその自覚はないだろうが…。結局、オラトリオは彼女に血を吸うことはできなかった。 そして7日目の夜。同じようにオラトリオが部屋を訪ねると、いつもと違って憂いに満ちた表情のシグナルが一人掛けのソファに座っていた。声をかけると、シグナルは作ったような表情で応対する。心なしか、顔色が悪い。気分が優れないのだろうか。 「ああ、いらっしゃい、オラトリオ」 立ち上がってオラトリオに歩み寄る。そしてそのまま体全体をオラトリオの大きな胸に預けてきた。うつむいたまま何も言わないシグナルに戸惑ったが、そこは百戦錬磨のオラトリオのこと、どうしやしたか、と気軽に尋ねる。 「わたし…結婚するの…もう、16だからそろそろって…」 オラトリオの表情が変わる。 (この…シグナルが結婚? そんな…そんなこと絶対に許さない!) 同時にオラトリオははっとする。自分は今、何を思った? シグナルの結婚をいやだと思った? 他の男に取られたくないと? 馬鹿な、シグナルは目をつけていたえさにすぎない。恋愛感情だなんて… レンアイカンジョウ? オラトリオは自分がこれまで必死に否定してきた感情を肯定せざるを得なくなった。 (自分はシグナルを愛している) これは答え。ごまかしようのない本心。妖魔であるこの身にもそんな感情があったのかと、オラトリオは少し自嘲気味になる。 「オラトリオ…」 自分に向けられる紫色の美しい瞳。穢れを知らぬその輝きが何かを訴えていた。 気がつくと、オラトリオはシグナルを盗み出し、自分が住まう森の古城へと急いでいた。夜が明けるまでにはまだ間が合ったが、シグナルを抱えているし、翼を使うわけにはいかないので、自分の足で走るしかなかった。ときどき、体が痛んだ。 (まだ…ダメだ…) 湖のほとり。深い森に囲まれた古城。オラトリオはシグナルを抱きかかえたまま、大広間へと向かった。扉を開け、シグナルをおろす。そこで―――ぶっ倒れた。 「オラトリオ? オラトリオ?!」 シグナルはオラトリオを抱き起こし、名前を呼ぶ。顔が…オラトリオの顔が青い…。 おろおろしていると一つの影が視界に飛び込んできた。見上げるとそこにはオラトリオと同じような顔があった。 「…誰?」 シグナルの問いにその人は答える。 「私はオラクル。この森に住まう者、この森の主だ。…お前はシグナルだね」 「なんでわたしのこと…ううん、そんなことよりオラトリオが…」 オラクルは跪いてオラトリオを診る。そしてあきれたようにため息をつく。 「何日だ?何日食事をしていない?」 「今日で…7日…かな?」 荒い呼吸の中でオラトリオは答える。オラクルはさらにあきれる。 「馬鹿な、それは自殺行為ではないか」 言われてオラトリオは手を伸ばす。シグナルの膝枕で横になっていたオラトリオの手がシグナルの白い頬に添えられる。 「なんか…いやだったんだよ…こいつを食うのは…」 どういうこと? シグナルははじめて怖くなった。食事をしていない? 私を食べる? 何気なく夜のうちにあっていたこの人は… 「オラトリオ、あなた…まさか…」 「…黙ってて悪かった。俺は吸血鬼…ヴァンパイアなんだ」 そんな、そんなこと。優しくて暖かなこの人がヴァンパイア? うそ…誰かうそだって言って! シグナルは必死に否定する。混乱する頭の中で一つの現実がよぎる。 「もしかして…わたしとずっと一緒だったから…」 血を吸えなかったの? そう続けようとしても言葉が出ない。夜の間、ずっと自分のそばにいてくれた。一緒に眠ってくれて…ずっと抱きしめててくれた。ということはオラトリオが食事をしていないのは自分のせい―――。シグナルの白磁の頬に涙が伝う。 「オラトリオ…」 「…いいんだ、シグナル、俺はお前をヴァンパイアにはしたくなかった…」 涙が止まらない。オラトリオは死んでしまうの? わたしのせいで? いやだ、そんなのいやだ! 死なないで、オラトリオ。 そして告げられる真実の言葉… 「愛してるよ。シグナル…」 シグナルの中に熱いものがこみ上げてきた。 アイシテル…アイシテル… オラトリオがわたしを? 愛してる? たった7日の、それも夜の間しか一緒にいなかったというのに…わたし、何もしてないのに…いっしょにいて、それだけでうれしかった。楽しかった。結婚が決まったとき、正直、いやだった。だってオラトリオに会えなくなるから。オラトリオの顔を見たらほっとして、ついあんなことを口走ってた――― 『わたしをさらって』 わたしも…オラトリオが好き。大好き。 「わたしも…愛してるよ。だから死なないで、オラトリオ…」 「お前の血は吸えない…」 「…愛してるっていったじゃない、わたしを一人おいて逝く気なの?」 そういわれると返す言葉もない。 シグナルは涙を拭いて、精一杯の笑顔でオラトリオに言い募る。 「いなくなるなんて…やだ。悲しいよ。わたし…オラトリオが好きだよ。同じヴァンパイアになるのなんて…平気だよ」 オラトリオはシグナルを見つめた。涙の向こうの強い意志に惹かれるように。 ああ、この人はなんて眩しいのだろう。日の光を見ることのできぬ自分にあたたかい光を、愛をくれる。 オラトリオはゆっくり起き上がると膝立ちになってシグナルの首筋に顔を埋めた。背後をオラクルが支える。 このぬくもりを感じよう 愛しいという想いにのせて そして 今 誓う 恋人を決して悲しませまいと 「…じゃあ、少しもらうぞ」 「うん」 そういうとオラトリオはシグナルの肩をあらわにした。自分の体を正面からはシグナルが支えている。その白い肌にやさしく口づけてから、オラトリオは己が牙をつきたてる。 「あっ…あ…あああっ…!」 シグナルの顔が苦痛にゆがみ、体をのけぞらせる。オラクルはオラトリオをそのままにしてシグナルを支えた。もしかしたら、彼女は耐えられないかもしれない。首筋から血が抜け出ていくのは決して気持ちのいいものではあるまい。小刻みに震えて、小さく叫んでいる。それでもシグナルは、この苦痛に耐えていた。気を失うまいと必死だった。自分を愛しているからこそ、血を吸わなかったヴァンパイア。その想いに応えたい。それならば…こうすることで恋人が助かるのなら…どんな苦痛にも耐えよう。その一心で、オラトリオに血を捧げる。…大丈夫。きっと助かる、わたしが助けてみせる。 ―――愛してるもの… ようやく、牙が抜かれた。止まらない血を惜しむようにオラトリオの舌が傷口をちろちろなめると見るほどなく血は止まり、傷が消えた。 「助かったぜ、シグナル。オラクルもサンキュな。」 「そう…よか…った…」 シグナルの体がふらりとゆれる。そのまま前のめりとなり、先ほどとは逆にオラトリオに支えられる形となる。見ると、顔面蒼白で、息も絶え絶えといった様子だ。血を与えたのだから当然だろう。それでもシグナルは笑顔を見せる。心配させまいとして―――。 「今度はわたしの番だね」 「ああ」 シグナルを抱きなおし、少し寂しげな顔でオラトリオはうなずく。ヴァンパイアに血を吸われた人間は同じようにヴァンパイアになる。夜の闇にしか生きられず、血を求めてさまよう魔物。そのうちシグナルは己が血の変化に耐え切れずに叫びだし、牙を生やし、漆黒の闇にも似た翼をその背にまとう。 彼女には日の光が良く似合うだろう。それなのに… 3人は時を待った。この少女が妖化するそのときを――― しかし。待てど暮らせど、シグナルに変化はない。蒼白な顔色はそのままだが、口を開かせても、牙らしいものはなかった。いったいどうしたことか。不安になって、オラクルがオラトリオに訊ねる。 「妖化しないじゃないか」 「そーなのよねー」 「もしかして…わたし死んじゃうの?」 「いや、そんなことはないんだが…」 オラクルがふっと思い出したようにシグナルに優しく問いかけた。 「シグナル、もしかして体の何処かに5枚の花びらのようなあざはないかい?」 言われて二人はきょとんとした。 「う、うん、ここに」 そう言ってシグナルは右腕をめくってみせた。ひじの内側の柔らかい部分にそれが認められた。オラクルは微笑む。その意味がわからないオラトリオは博識な森の精に問いただす。 「このあざがなんだよ」 オラクルはこのあざについて説明をはじめた。それによれば―――シグナルの持つあざは『アンリミテッド・ホワイト』の証だという。『アンリミテッド・ホワイト』とは、限りなき白―魔を払う力の一種で、低級な魔物を寄せ付けなかったり、襲われてもその身を守ったりする力のことをいう。普通の人間との結婚によってその力は薄くなってはいるが、まだ持っている人間がいてもおかしくはなかった。 「シグナルの場合は、自覚して使えるほどのものじゃないだろう」 それほどまでに力は弱くなっている、とオラクルはいう。 「これは遺伝するんだ。シグナルの先祖はこれの持ち主だったんだろう」 ということは。 シグナルが『アンリミテッド・ホワイト』の持ち主だということは… 「ヴァンパイアにならなくてすむんだ。よかったな、オラトリオ」 オラトリオは破顔する。愛しい少女は妖魔にならない。シグナルは夜の闇には染まらない。そのまま、日の光の下で暮らすことができる。 「シグナル…」 「オラトリオ…」 オラトリオの腕の中でうれしそうに微笑む。その幸せそうな笑顔につられるように、オラクルも微笑む。まだ力の戻らないシグナルの細い体を抱きしめてオラトリオは自分の目が少し潤んでいるのを感じた。 「ちょっと残念だなぁ」 「何が?」 「オラトリオと二人で、夜空を飛んでみたかったな」 「…馬鹿」 オラトリオの眼からこぼれる銀の雫。それに気づいたシグナルの指が、目尻にたまった涙をぬぐった。そしてそのままゆっくりとしばしの眠りについた。 「寝ちゃったかい?」 「ああ」 軽い体を抱き上げて、二人はシグナルを客間へ運んだ。 「明日には何処かいい部屋を見繕っておくよ」 どうせ一緒に暮らすつもりなんだろ、と珍しく意地悪な笑みを浮かべる森の主に、そうだよ、と短く答えて、オラトリオはシグナルの額に口づける。 おやすみ、愛しい人 二人は静かに部屋を去った。 こうして、森の住人が一人増えた。シグナルはここの生活にも慣れ、日の光が森を照らす間はオラクルと、月光がきらめく夜はオラトリオと過ごした。昼間はオラクルを手伝って森を見回ったり、家事をしたりする。最近は料理ができるようになった。はじめのうちこそ台所は半壊状態で、煙の中から煤にまみれて半泣き状態のシグナルが出てきたのだが、一週間もすれば、そこそこ作れるようにはなっていた。相変わらず、満身創痍ではあったけれど―――。 オラクルと二人でテーブルを囲んでいる間、オラトリオはお預け状態でおとなしく…待っていた。 「シグナル〜、ま〜だ〜?」 「まだだよ、わたし、まだ食べてるもん」 「はらへったよ〜」 「もうちょっと待ってろ、だいたい2日に一度でいいんだろう。何で毎日吸うんだ」 「腹減るから」 くりかえされる言い合いがシグナルはなんとなくうれしかった。屋敷にいた頃は、大勢の使用人に囲まれて、口をきくこともなく一人で黙々と食べていたから、こうやって話しながらする食事がおいしくて。ここにきてよかったな、なんて考えている。それでもほっておくと掴み合いのけんかに発展しかねないので、彼女は二人の間に割って入る。 「オラクル、わたしは大丈夫だから、オラトリオももう少し待っててね」 天使のごときシグナルの微笑みに二人は弱い。オラクルは食事を続け、オラトリオはそのままおとなしく待っていた。椅子に座ってシグナルを待つ様子は小さい子供のようで…はじめてあったときからそんな感じだったと思いながら、最後の一切れを口に運ぶ。 「ごっはん、ごっはん」 「まだ、片付けが済んでからって約束したでしょう」 たしなめられて、オラトリオはしゅんとする。はらへったよー、目で訴えてみるけれど、皿を抱えて台所に下がってしまったシグナルに、それは効かなかった。皿を洗って、磨き上げる。ごしごしきゅっきゅっ、ぴかぴかぴか。リビングではまた二人の言い合いが続いてた。二人とも毎日飽きないなー、と思っているシグナルではあるが、彼女がいない間に二人が自分を取り合っていることなど知らないシグナルは丁寧に皿をふきあげる。 これでよーし。食器を戸棚に仕舞い、エプロンをはずしながら、先ほどから空腹を訴えている駄々っ子のもとに向かう。 「おまたせ、オラトリオ」 「待ってたよ〜ん」 近づいてきたシグナルを膝の上に乗せて、肩を少しはだけさせる。 「はい、どうぞ」 「いっただっきまーす」 かぷり、ちうちうちう。オラトリオが血を吸っている。最初の頃は痛くて、ひどい時には目を回して倒れ、自分の部屋に担ぎこまれたりしたけど、ようやくそれにも慣れた。最近は甘噛みされたり、ぺろぺろなめられたりするほうが多いので、くすぐったくなっている今日この頃である。 「オラトリオ、くすぐったい」 オラトリオは細い首筋にちゅっちゅとキスしている。それを見ていたオラクルは怒らないはずはない。朝からご馳走様だな、とばかりにまだいちゃついている二人を引き離す。反省、とばかりにすまなそうな顔のシグナル、いいところなのにと不満顔のオラトリオ。どうしてシグナルはこんな男がいいんだろうと、オラクルは頭を抱えた。 「だいたいなんで、首に噛み付くんだ。腕からだって吸えるんだろう?」 「そっちのほうが色っぽいじゃん」 色っぽいなんていわれたことのないシグナルは真っ赤になってそうだったんだ…とつぶやいている。 (こいつ…) 返す言葉を失い、森の主様はこんな男を自分の森に住まわせていることを少しだけ後悔した。 そんな、楽しい毎日が続いた。 夜。月の周囲を星々が彩る頃にオラトリオは散歩に出る。日中は黒いカーテンで締め切られた部屋の中で過ごしている。本当は、昼間外に出てシグナルと一緒にいたいと思うけれど、それは叶わぬこの身だからこそ、夜に森を散歩する。3人で行くときもあるし、シグナルと二人っきりでゆっくりすることもある。そういうときは大抵シグナルが先に寝入ってしまうので、おぶって帰ってくることになる。それじゃダメだと、眠いのを一生懸命こらえているシグナルもまた愛らしいな、と思う。昼間は昼間で、大量のろうそくを抱えて遊びにくるから退屈はしていない。シグナルが来てから、ここも明るい雰囲気になったな、とオラクルと話したこともあった。 「あの子には何かを変える力があるのかもしれないね」 と、オラクルは言う。本当にそのとおりかもしれない。 ある夜。オラトリオは散歩に行かなかった。今夜はなぜか、そういう気分じゃなかった。 「どう反応するかな」 あれこれシミュレーションしているとコンコンとドアが鳴った。どうぞ、と声をかけると、予想通りに心配そうな顔をしたシグナルが入ってきた。 「どうしたんだ?」 「…散歩行かないから、具合でも悪いのかと思って」 日光を嫌うヴァンパイアならではの暗い部屋の窓を開け、月明かりを招き入れている。月光に照らし出される闇の恋人の美しさに、シグナルはしばしの間、見とれた。 「心配させちまったか。わりぃな。」 「ううん、大丈夫なら、いいの」 そのまま去っていこうとしたシグナルを、オラトリオは呼び止めた。言われるままに彼のそばに歩み寄った。彼の見ているほうに視線を向けると漆黒の夜空に淡い半月が浮かんでいた。さえぎるものなど何もない。日の光の代わりに優しい光を恋人にくれる月にシグナルは静かに微笑む。 「きれいだね」 偏光紫に月光を浮かべてきらきら光るシグナルの長い髪に口づけてオラトリオは背後から縋るように抱きついた。 「どうしたの? 具合悪い? それともおなかすいた?」 甘えているわけではないだろうと思い、おずおずとオラトリオを見上げる。男くさいその顔は最上級の微笑みを携えていて、シグナルはちょっぴりどきりとした。 あんまり最上級すぎたから、耳元で囁かれたその言葉の意味をすぐには理解できなかった。 「結婚しようか…」 「けっこん…」 ついひらがなになおしてしまうほど唐突だったその言葉。じわりじわりとこみ上げてくる想い。とてもうれしい。すごくうれしい気がする。 背後にオラトリオを抱えたまま、シグナルはこれまた最上級の笑顔で答える。 「いいよ、オラトリオ、結婚しよう」 その言葉に二人は向かい合って口づける。 ああ、そうか。今夜の優しい月明かりは恋人達への幸せの予言 人であるものと人にあらざるものを結びつけたのは ほかならぬ夜の闇と淡い月 出会いはそこから始まっていた 「さあって」 「にゃ?」 オラトリオがシグナルの細い体を抱き上げる。意地悪そうに笑う恋人の顔を見て、なんとなく。なんとなくだけど、これからする行為がわかってシグナルはちょっぴり照れた。 そんな彼女のすべてが愛しい。 シーツの上の彼女を降ろして、オラトリオは彼女に再び口づける。そして、誓う。 「愛してるよ、ずっと」 「わたしも…愛してるよ、永遠に…あなただけ」 二人はもう一度キスを交わす 永遠を あなたと「誓いのキス」 もう離さない 一度は死ぬことを覚悟した我が身を救った愛しい人よ もう離れない わたしの血を 心を捧げた この世で最も愛しい人よ 白い雪の上に燃える炎は愛の証 もう離さない 離れない ふたりはずっとずっと いっしょだから 「ミイラ取りがミイラになっちゃったかな」 シグナルが戻ってこないところをみると、二人は本格的に結ばれたんだろうな、と思う。 少し悔しい気はするけど、それでも彼女が幸せならば、それも一つの道なのかもしれないとも思う。 「これは…結婚のお祝いってことになるかな」 そんな独り言を言いながらオラクルは暇つぶしにはじめた絵に取り組んだ。そこに描かれているのは幸せそうに笑う恋人達の風景。 我らが住まいし深き森の 我らが愛しき紫苑の天使のために ≪終≫ ≪海より深く≫ 反省します。居候どうしがラブラブカップルになんてなられた日にはオラクルだってキレるでしょうに。ごめんね、オラクル。 今回は中世ものってことで。 女の子シグナル好きって方はどんどん食べちゃってください。どんどん生産しますので(本当か?)←お約束しかねます。 |