I Believe…



信じることですべてが始まる



「沙織さんのいじわる…」
ギリシアに向かう飛行機の中で瞬は一人呟いた。
『瞬、悪いんだけど聖域行ってくれないかしら』
『聖域、ですか? いいですよ。で、いつからですか?』
『今すぐ』
そんなこんなで慌てて荷物をまとめる羽目になり、瞬は今空の上だ。
白いワンピースと空色のボレロは少女をよりいっそう細く見せる。ぱらぱらと書類を繰りながらもう一度ため息をついた。
瞬はこれでも歴としたアンドロメダの聖闘士である。
彼女はアテナの代理として聖域に赴く任を沙織から半ば強引に与えられた。
目的は新教皇の就任だ。今は双子座のサガが教皇代理を務めているがそろそろ正式に就任してもらいたいとの沙織の意志を伝えにいくのだ。先日兄の一輝が行って来たのだがはっきりいって人選ミスだと思う。
結局新教皇就任の受諾は得られず、逆に千日戦争になりかけて戻ってきた。
というわけで今日になって慌てて瞬が出向することになった。
結婚を前提にした恋人のハーデスが冥府に帰ったそのあとで瞬は城戸邸専用のジェット機に押し込められた。
『ちょっと!! 開けてください!!』
『いってらっしゃ〜い』
そういってハンカチを振る沙織を思い出し、瞬はまたため息をついた。朝早かったので向こうにつく頃には…ああ、時差なんか計算できない、と思う。
ハーデスに『ギリシアに行くからね』と言えないまま出て来てしまった。それが彼女の心に重く圧し掛かる。相手は神様だ、心配しなくても何とかなるだろうと思う反面、彼の神を裏切ったような気がしてたまらない。
「沙織さんのバカ…」
瞬はそう呟いて小さな窓の外を見た。
ギリシアの大地が眼下に広がっている。


聖域近くの闘技場に飛行機を止めてもらい、瞬はタラップを降りる。
着いてしまうともう何も考えないことにした。日があるうちについたのだからそこは安心してもいいと思う。
瞬は大きめの帽子をすっぽりかぶった。ギリシアは日差しが強い。
「えっと、誰かが迎えに来てくれてるはずなんだけど…」
「しゅーんー!!」
明るく華やかな声が聞こえてきて、瞬は声の主を探す。その人はすぐに見つかった。
ふわふわの巻き毛の先が豊かな胸元を鮮やかに彩る。20代前半というその女性は輝くような美貌の持ち主、しかしてその実体は黄金聖闘士、魚座のアフロディーテだ。
「アフロディーテ!!」
「わー。瞬だぁ。久しぶりー」
10も年の離れたふたりは抱き合って再会を喜んだ。
すべての聖戦が終わったあと、十二宮を守護する黄金聖闘士たちは誰も残っていないはずだった。彼らは冥府の最終地、嘆きの壁を破壊すべくその死力を尽くして散ったのだ。
ところが、である。妙な脱力感と浮遊感を感じて目を開けてみるとそこは自分の守護する宮だったというのだ。射手座を除く全員が気がついたら自分の守護する宮に転がっていました、というわけだ。まあ簡単に言えば生き返ってしまったようです、といったところだろう。どういうことかと訝しんでいたところにアフロディーテのひとことがあってそれで全員納得したという。
「何て言ったんです?」
「いーんじゃない? 別に。って」
「アフロディーテらしいですね」
瞬とアフロディーテはにこにこと笑いあった。
「みなさん、お元気ですか?」
「うん、元気。瞬も元気そうでよかったぁ」
アフロディーテは瞬をぎゅっと抱きしめた。豊かな乳房に自分好みの女の子と恋人を埋めるのは平気らしい。
「苦しいですー」
そういってもアフロディーテは瞬を離さなかった。
瞬とアフロディーテには因縁がある。アフロディーテは瞬の師、ダイダロスの仇だ。十二宮の戦いでも二人は対峙している。結果は相打ち同然だが、瞬が僅かに勝った。
けれどその後はあまり尾を引かなかったらしく、今では姉と妹のような仲だ。
「苦しいですってばぁ」
「やだ。せっかく捕まえたんだもん」
「アフロディーテ、もう解放してやれば…」
彼女に引きずられるようにつれて来られた青年がおずおずと声をかけた。アフロディーテはちらりと彼を見、そしてにやりと笑った。これ見よがしに瞬の頬に口づける。
「きゃっ」
青年は妖艶な笑みを浮かべるその女性のせいで幾度となく死線を彷徨う羽目になって久しい。薄紅色に頬を染める瞬から目を離せなくなっていた。
「羨ましいんでしょー?」
アフロディーテの言葉に青年はかっとなって声を荒げた。
「だっ、誰がっ!! 瞬、こいつに構うとろくな目に遭わんぞ」
「ひっどーい、なんて言い草。自分が出来ないからって八つ当たりしないでよねー!」
「煩いっ! さっさと行くぞ!!」
そういうと青年は魔女の手から瞬を引き離し、細い手首を掴んで歩き出した。
青年の名はカノン。双子座の黄金聖闘士で、サガの弟だ。
(あらら、手くらい繋げばいいのに)
奥手な男はどこまでもヘタレ。兄とはエライ違いだと思いながらアフロディーテはカノンから瞬を引き離した。何のことはない、ただの嫌がらせである。



「あの…これ着るんですかぁ?」
「そーだよ。瞬は聖闘士なんだから聖衣がいーんだけど、今回はアテナの使者だからやっぱりこういうかっこしないと」
さらさらと絹が鳴る音に瞬は少し戸惑った。沙織のお供をしてパーティーに出ることもあるからドレスには慣れているつもりだがそのときは地味なものを身につけている。
けれど今回は違う。肌が見える部分は多いし、裾はいやに長い。踏んづけて転んでしまいそうだ。
「ちなみに兄さんはどんな格好で来ました?」
瞬が問うとアフロディーテは顔を背けた。どうも思い出したくないらしい。
これにはカノンが答えた。
「ぼろぼろのシャツとジーンズで、問答無用と叫びながら十二宮を駆け抜けていった」
「…ご迷惑をおかけしました」
「ま、それはそれとして早く着替えて。カノン、いつまで見てるつもり?」
言外に出て行けといわれてカノンはちっと舌打ちして外に出た。
言われなくてもわかっていると言いたかったのか、もっと見たかったのかは分からない。
「これはね、私が瞬くらいの年に着てたものなの。でももう着ないから処分しようかと思ってたんだけど瞬が着てくれるなら嬉しいな」
「アフロディーテ…」
瞬は思い切って袖を通した。彼女が瞬の年に着ていた物ならもう10年は経っているはずだ。けれど上等の絹は時を重ねれば重ねるほどその独特の色合いを増す。美しい飴色になったドレスが瞬を優しく包む。
「あれ、これはえっと…」
「これは首の後ろで結ぶの。結んであげるね」
「すみません…」
瞬は少し俯いて、胸元を押さえた。
結び終わったアフロディーテが違和感を感じて首をかしげた。
「あれ、なんか長いなー」
「あーそれは多分私のせいで…」
「ん?」
瞬が胸元を押さえていた手を退けたことでアフロディーテは納得した。瞬とアフロディーテでは胸の大きさが違うのだ。こういう服になると差が歴然としてくる。
「大丈夫だよ、瞬はこれからだって。それに胸の大きさで女を判断するような男はダメだよ、瞬」
「はい」
言いながら瞬はアフロディーテの胸に目がいってしまう。いつか自分もあんなふうになれるのかな、とか考えてしまう。やはり同じ女性としては気になるところだ。
「あのー」
「ん?」
「牛乳とか飲んでました?」
「いやー別に。勝手に育ったから」
期待していた返事が得られずに瞬はちょっとだけがっかりしたが仕方がない。
大粒の真珠をあしらったイヤリングをつけ、小粒の真珠と珊瑚で作った髪飾りを乗せる。
「さ、薄くお化粧もしよっか」
そういうとアフロディーテはご自慢のメイクセットを取り出した。けれどもとから色が白く肌が綺麗な瞬に派手な化粧は必要ない。
「…口紅だけでいいなんてつまんない」
アフロディーテはまずリップライナーで輪郭をとるとそこにコーラルピンクのルージュをブラシで丁寧に塗った。さらにごく薄い白桃色のグロスを重ねてつややかな唇を作る。
最後にエナメルで出来た白いローヒールのパンプスを履かせた。
「んー、我ながら完璧だわ!」
そういうとアフロディーテは瞬を姿見の前に立たせた。
「うわぁ…」
「すっごいステキ。私と一緒でもとがいいから」
まだ少女の体型の瞬だがそれでもアフロディーテに引けを取らない。
「さ、行こうか」
「え、でも、アフロディーテは何を着るんです?」
出て行こうとした彼女を呼び止めて、瞬は思わず裾を踏みかけた。
「私? 私はもちろん」
聖域を訪れる来賓をもてなすために作られた館から出たアフロディーテは黄金の輝きに包まれていた。
「私はもちろん、黄金聖衣よ。教皇の前に出るんだもん」
さあ、と手を差し伸べられて瞬はゆっくりと歩み出た。柔らかい彼女の手をとって静々と歩く。
アテナの使者は一番下の白羊宮から順に昇っていくしきたりだ。介添えは魚座のアフロディーテが勤める。『瞬の介添えは絶対私がやる!!』と駄々をこねたからだ。
金牛宮、双児宮と抜けて巨蟹宮にたどり着いたとき、アフロディーテは露骨に嫌な顔をした。
「どうかしたんですか?」
「んー、私ここあんまり好きじゃない…」
瞬は聖域における黄金聖闘士の関係を詳しくは知らない。
「とりあえず行かなきゃですよね?」
「うん。蟹避け持ってきたから」
「蟹避け…ですか?」
やっぱり黄金聖闘士はなにかちがうな、と瞬は思った。
そのあとは特に何もなく通ることが出来た。途中の人馬宮でアイオロスの遺書に祈りを捧げ、また歩んでいく。最後の双魚宮を抜けると教皇の間はすぐそこだ。
白いバラが階段の脇に避けられている。瞬が歩きやすいようにしておけと教皇代理に言われたアフロディーテが素直に返事をした結果が明らかだ。
「そういえば、黄金聖闘士の皆さんがいらっしゃらなかったような…」
瞬の言葉にアフロディーテが微笑む。
「そんなの決まってるじゃない」
アフロディーテが教皇の間の扉を開けた。
溢れるようなまばゆさに瞬は腕で顔を覆う。
そこに、太陽の様に輝く聖衣を纏った黄金聖闘士がすべて集結していた。


正しくは13人いる黄金聖闘士のうち、11人がそこにいることになる。
射手座のアイオロスは戻らなかった。天秤座の老師こと童虎は現役を退き、とある女性とどこかの山奥で暮らしているという。このふたりの聖衣は教皇代理の左右にある。
そしてサガが教皇代理として座に着き、残る10名は左右に別れて一列に並んでいる。
ここまで瞬を伴ってきたアフロディーテも列についた。
黄金聖闘士が見守る中、瞬は道々アフロディーテに教わった作法を思い出していた。
まず、少し俯き加減に歩いてくること。所定の位置まで来たら止まり、右膝をつくこと。
両方ともに軽く拳を握って床につくこと。口上はゆっくりはっきりということ。
瞬はひとつひとつ言われたとおりに動いた。
裾を踏まないように気をつけながら歩き、決められた位置に跪拝した。
そして澄んだ声で口上を述べた。
「青銅聖闘士、アンドロメダ瞬。アテナの名代として教皇代理に拝謁しに参りました」
瞬は許されるまで頭を垂れていなくてはならない。
サガはなかなか声をかけなかった。今目の前に跪拝している少女があの一輝の妹などとはとても信じられなかったからだ。
青銅一の美貌を誇るこの少女の兄が一輝、といっても、同じことなのに恐らく信じられないだろう。
「面をあげよ」
許され、ようやく瞬は顔をあげる。亜麻色の髪に隠れた深遠なる闇の瞳を凛としてこちらに向けてくる。
神話の時代からあの悲劇の王女が鎖から放たれて現代へ。
見紛うほどに清く、気高い。
衣装や化粧のせいではない、彼女自身が幾多の戦いを経て得て来たすべて。少女らしさをそのままに、けれどどこか大人びた面差しに変えて。
瞬はサガを見つめた。
「…よく来た、アンドロメダ。アテナよりの親書、拝読した」
「アテナは現教皇代理でいらっしゃいます双子座のサガを教皇に御指名です。これまで再三に渡って要請してまいりましたがいずれもよいお返事をいただけず、アテナもお困りになっていらっしゃいます。今日こそよいお返事をいただいてくるようにと厳命されてまいりました」
言われてサガは薄く苦笑して見せた。
天秤座の老師が『わしはもう引退するから。じゃ!』と言い置いて去っていってから数ヵ月。代理として立ったはよかったが過去の憂いが彼をこの座に座らせようとはしなかった。アテナ自身から何度も就任するように言われても応じられなかったのはそのせいだ。
自分に聖闘士を束ねる教皇になる資格があるのかと自問する。
その答えはこの少女が持っている気がした。
「私の過去を知った上で、就任せよとの仰せか」
自虐的なその言葉にアフロディーテだけがぎゅっと拳を握った。
けれど瞬は顔色ひとつ変えずに微笑んだままだ。
「過去は過去。どんなに祈り、泣き叫んでも戻るものではありません。アテナは今のあなたに教皇をお願いしたいと」
穏やかな風が駆けぬけるようだった。
それは誰にも言えること、そう、そう言った瞬自身にも。
強くあろうとは思わず、ただ争いがキライだと言って兄の背に隠れ、気がつけば兄の手は戦う手になっていた。
瞬はふっと俯いた。カノンだけが、それに気がついた。
「アンドロメダよ」
「はい…」
「…アテナの御下命、謹んで承るとお伝えしてくれ」
サガの決断に一同ざわついたがそれは一瞬の事だった。瞬の顔は満面の笑みをたたえ、再び礼をとった。
「御英断と承ります。慎んでお伝えいたします」
謁見の儀式は瞬が退席して終わる。
瞬はサガに背を向けてゆっくりと歩き出した。背中を大きく開けたホルターネックのリボンがふわふわと揺れている。まるで背中に小さな翼が生えているかのようだ。
彼女が教皇の間を抜けると、扉が重厚な音を立てて閉じられた。
一同ほうっと息をつく。
「やっと教皇が決まりましたね」
ムウの言葉にサガは深く腰掛けて息をついた。
「牡羊座のシオンの弟子であるムウがやればよかったんだ。何故君がやらなかった?」
サガの問いにムウはにこりと笑った。
「だって面倒くさいじゃないですか、教皇なんて」
「…そんな理由でか!」
拗ねたようにそっぽ向いたサガにアフロディーテだけが微笑んだ。
「どっちにしてもサガ。これから教皇って呼んでいいんだよね」
「…ああ」
律儀な彼はアテナからの正式な勅書をもらうまで教皇代理を貫いた。



「緊張しましたよ、黄金聖闘士が勢ぞろいなんて…」
来賓用の館までやってきた瞬はアフロディーテが入れてくれたアイスティーで喉を潤した。
「お疲れ様。でもすっごく綺麗でかっこよかったよ」
「そうですか?」
瞬のイヤリングと髪飾りをはずしてやりながらアフロディーテは彼女の横に座った。
「なんか、幸せそうな顔してる。いいことあった?」
アフロディーテの指摘に瞬はさっと顔を赤らめた。アイスティーを飲んで誤魔化そうとしたのだが彼女には通用しなかった。
「やっぱりあったんだ。分かるよー、うん。前に会ったときより絶対可愛くなったと思ったもん!」
「アフロディーテ…」
自覚は全くなかった。超次元的に捻じ曲がった恋人との夜だけの逢瀬が自分をどれだけ女性らしく変えたかなんて気がつきもしなかった。
逢瀬というよりは躾、という感覚でもあったわけだし。
アフロディーテはそんな瞬をやっぱり可愛いと思った。なんだかんだ言ってもまだ13歳。
浮いた話の一つや二つあってもまだ混乱しているのかもしれない。
(私もそうだったもんね…)
あの頃はサガがすべてだった。今もそれは変わらない。
「疲れたよね、夕食まで少し休んで。今日は双魚宮でみんな集まってご飯にしようって話してたんだ」
「ありがとうございます。あ、服は…」
「あとでいいよ。じゃあ呼びに来るからね」
「はい…」
そういうとアフロディーテは瞬の頬に軽く口づけて去っていった。
「…汚さないうちに着替えようっと」
ホルターネックの服なので首の後ろで結んだ紐を解くと胸元から腰までするりと落ちた。
そしてぴたぴたと自分の胸に触ってみる。
「ぺたんこ…」
さすがにちょっと膨らんではいるがすとーんとしていて、なんだかなーと思う。
「さて、どれ着ようかなー…」
誰もいないから下着姿で荷物をあさる。着てきた白のワンピースではなく、持ってきた薄紅色のパフスリーブのミニワンピに白のカーディガンをあわせてみた。女の子らしいラインの服はまだ慣れない。
「これでいいかな…」
「瞬、夕食の件なんだが…」
ノックもせずに入ってきたのはカノン。アフロディーテに蹴飛ばされて伝令役にされたのだ。
「え…」
瞬は鏡の前でワンピースを合わせているところだった。合わせているだけでまだ着ていなかった。
要するに下着だけである。ホルターネックの服であったこととまだ小振りな胸のせいで乳房を覆ってはいかなった。
カノンも瞬も固まってしまう。
「あ…」
「す、すまないっ!!」
ばたんと大きな音を立ててドアは閉じられたが、瞬はまだ固まっていた。
そして一拍おいて聞こえてきた悲鳴が聖域を揺るがす。
「瞬? どうしたんですか?」
いちばん近い白羊宮のムウが駆けつけて来て混乱している瞬を宥めた。
「カノン! あんた何やったの!?」
ハリセンを持っていたなら確実に殴っていそうなアフロディーテはカノンに突っかかる。
「事故だ、私は何もしていない!」
「女の子の部屋に入るのにノックもしないなんて…ありえないです」
「あんたバカでしょ、真性のバカでしょ」
「バカバカ言うな!!」
ムウにちくちくいじられ、アフロディーテにはど突き飛ばされて。
カノン、いいとこなし。


ほんのちょっと驚いただけ。聖闘士なのに気配に気がつかないなんて不覚。
ふわふわのワンピースにようやく袖を通した瞬はソファの上でとろとろと眠りかけていた。
ギリシアは温暖なところだ。
フライトと時差、謁見、さっきの騒ぎで瞬はくたくただった。
それも睡魔を呼び寄せる一因となった。
「眠い…」
それだけ呟いて、瞬はすうっとまぶたを落とす。
夜の恋人の臣下であるヒュプノスが軽い眠りを与えているかのようだった。


海が紅く染まり始める頃、水の神話から生まれた星座を守護星座に持つ山羊座のシュラ、水瓶座のカミュ、魚座のアフロディーテは3人連れ立って瞬を迎えに下の館までの道のりを歩んでいた。
「瞬ってば本当に可愛くなってたよねぇ」
「んー…可愛くなったっていうか…私は綺麗になったと思ったけど」
「あの年頃の子はみんな変わるでしょ」
カミュとシュラも一様に彼女のよい方向への変化を認めてくれた。
「ご飯大丈夫かな」
「アイオリアとアルデバランの腕は信じていいでしょ。ミロがつまみ食いさえしなければ」
「はぁ、弟子といい友といい、どうして私の周りはあーゆーのばっかりなんだろうな…」
「あはは。それは…うん、しょうがないよ」
とシュラが慰める言葉にカミュはさらに嘆きを深くした。
そのときだった。
聖域のごく近くに得体の知れない気配を感じて、黄金聖闘士全員がはっとその方向を見た。
「なにこれ…」
「この感じ…どこかで…」
「うあっ…」
水の淑女たちが全員その場に蹲った。
「大丈夫か、アフロディーテ!」
現れたのはサガ、彼はアフロディーテを助け起こすと続いてカミュとシュラも立たせた。
「サガ…これって…これって…」
「アフロディーテ…」
心配そうに自分を見つめるアフロディーテの髪をサガは優しく撫でた。
「大丈夫だ、私が早く伝えていればよかった…」
「何を…?」
サガは懐から一枚の紙を取り出した。
「アテナからの親書は教皇就任要請だけではなかったのだ」
アフロディーテは差し出された紙をじっと見つめた。カミュとシュラも痛む頭を押さえながら覗き込む。
『瞬の取扱説明書』と題されたその書類に一同驚嘆の声を上げる。
「うそっ…」
「まじ!?」
「瞬…恐ろしい子っ」
淑女たちは驚きのまなざしで瞬のいる館を見つめていた。



「ん…」
瞬はソファの上で目を覚ました。とろとろと眠りについたのはぼんやりと覚えている。
「今何時くらいなんだろ…」
カーテンを開けて外を見る。朱色の夕日がゆっくりと海の向こうに姿を消していた。夕方というより夜に近い。
「もう日が沈んだんだ…」
寝起きの瞬はぼーっとしていた。しばらく窓の外を見つめてはっとする。
「夕方!? っていうか日が沈んだの!?」
瞬は慌ててカーディガンを羽織ると外に飛び出した。
まるで魂の奥底から引き寄せられるように彼女は走っていた。
(何でピンポイントで来ないんだろ…)
彼女の疑問は彼に会えば解消される。
黒衣の王は聖域のはずれにある花畑の中に一人でぽつんと立っていた。
彼は恋人を探しているのかきょろきょろしていたがそこから動くことはなかった。
(聖域中を回って探すことも出来るが…)
王は夜空と同じ瞳を伏せた。
「ハーデス!!」
自分の名を呼ぶ声に、彼ははっと顔を上げた。
彼らしくなく、気がつかなかった。
瞬は走ってきてくれたらしい、乱れた息を整えながら近づいてくる。
冥王は瞬が手の届くところまで来ると細い手首を掴んでぐっと引き寄せた。
「きゃっ…」
「…会いたかった。会えないかと思った」
なんて彼らしくない、と瞬は思った。
超次元にねじれてはいるけれどとても優しくて温かで、素直な神様。死者の王とは信じられないほど甘えん坊で、でもしっかりと自分を持っている男のヒト。
「ハーデス…ここを動かなかったんですね」
「ここはアテナの小宇宙が満ちている。こんな結界壊すのは簡単だが…それをしたらそなたに怒られるような気がしたのだ…だから呼んだ。思いの限りそなたを呼んだ」
瞬は目尻がじんわりと熱くなるのを感じた。
「おりこうさんでしたね」
「うん、余はおりこうなのだ」
瞬は手を伸ばしてハーデスの背中を撫でた。すると彼は幸せそうに笑ってくれた。
「…嫌われたかと思った」
「え?」
「余を嫌ったから、聖域に逃げ込んだのかと思った」
ハーデスの声は不安を滲ませながら瞬に届く。
「そんなことは…」
「試されているのかとも…な」
瞬はぎゅっと、ハーデスに抱きついた――彼の不安をかき消すように。
「ち…違います。あなたを嫌いになったわけでもないし、試したわけでもありません…。本当に、本当に急に聖域に行くことになったんです…沙織さんに言われて…。あなたが帰ったあとすぐ。あなたにギリシアにいくって言えなかったこと…私も、辛くて…」
ぽろりと、涙がこぼれた。
それがハーデスの黒衣をぬらす。彼は驚いて瞬を覗き込んだ。
「瞬…瞬…」
「ごめんなさい…」
ハーデスはおろおろと首を振った。抱きしめても髪を撫でても彼女は泣きやまない。
「ごめんなさい、ハーデス…」
「泣くな、泣くでない瞬。余が悪かった。そなたを責めるつもりではなかったのだ…瞬…」
何故か、ハーデスは瞬を抱いてゆっくりと腰を下ろした。彼女を膝の上に抱き上げるようにして座ると瞬の頬を優しく撫でた。
「泣くでない。余はそなたの笑顔が好きなのだ…」
「…ハーデス」
「笑ってくれ、瞬」
瞬は小さく鼻を啜るとゆっくり目をこすって、それから笑って見せた。
「これで、いいですか?」
「瞬はおりこうさんだな」
ハーデスが瞬の亜麻色の髪を撫でる。
その手が妙に心地いいのはお互いを信じあっているから。



「あ、頭痛治まったみたい…」
「私も…」
「ハーデスが瞬に会えたんだろう。しかし瞬、本当に…」
サガはもう一通の親書を読み返した。
日没から日の出まで、瞬のそばに珍客が訪れること。その珍客は瞬が躾をしているので無害であること。
その珍客は冥王ハーデス――瞬とは結婚を前提に付き合っている、らしい。
「可愛い顔をして、恐ろしい子だ」
神でさえ手玉に取り、その掌で転がす。
女は怖い、とサガは思った。



世界中どこを探しても必ず君に会いに行こう



「あの…瞬…」
夕食の時間に双魚宮に現れた瞬に一同がなんとも言えない表情をして見せた。
正直『置いてきたのかい!』と突っ込みたい心境であったろう。連れて来られても困るのだが。
そんな心中を察したのか、瞬はにこりと笑った。
「ご迷惑をおかけしてすみませんでした。夕食に行ってきていいって言われましたから。それにもし動いたらどうなるかはちゃんと分かってるはずだから大丈夫ですよ」
そういってにこにこ笑う瞬に一同様々な感想を抱いたが深く考えないことにした。
「んー、じゃあ夕食にしよ。せっかく瞬も来てくれたんだし」
「そうだね」
双魚宮に黄金聖闘士12人が瞬を囲むために集まった。
「ねぇ、その…ハーデスって、食事しないの?」
「ええ、神様ですから」
「結婚を前提にしてるって本当?」
「ええ、まぁ…」
「どこまで進んだの?」
「…どこまでって…なんですか?」
アフロディーテらしい問いかけにサガは苦笑したがその横でカノンが聞き耳を立てている。
「お前…」
「なっ、なんだっ」
サガはカノンを引きずって部屋の隅へ行った。
「瞬の裸を見たそうだな。せいぜいハーデスに殺されないように気をつけろよ」
「!!」
カノンは思わず声に詰まった。というか死の神からどうやって自分を守れというのか。
「神さえ恐れないお前だから、平気だよな?」
「お前、黒サガだな? 黒サガだろ?」
「黒言うな」
サガとアフロディーテ、ミロとカミュ、シャカにムウ、アイオリアにアルデバラン。そしてシュラ、カノン。
それぞれに思いあう人がいて、思われて生きていく。
自分にとってのそれがハーデスなのか、それとも違う誰かなのか。
まだ分からないけど、とりあえず今はあのヒトと。
瞬のために用意されたアイスティーを飲みながらふと気づく。
「あれ?」
「どうかした?」
ひいふうみいと数えながら瞬は首をかしげた。
「なんか、誰か足りなくないですか?」
「えー? みんないるでしょ?」
そこにムウが自慢のナンを片手にやってきてさらりと言った。
「ところでどなたか、デスマスクに声をかけたんですか?」
かなりの沈黙の後、誰もが首を振った。そうだ、デスマスクがいない。



「ごちそうさまでした」
「朝食も一緒に食べようね」
「はい、おやすみなさい」
そう言って瞬は双魚宮をあとにし、途中で巨蟹宮によって折り詰めに詰めた夕食を届けた。詰めてくれたのはアフロディーテとカミュとシュラ。瞬は中身を知らない。
それから来賓用の館に戻った。
「ただいまー」
瞬が部屋の中に入るとハーデスはご主人様を見つけた子犬のように嬉しそうな顔をして瞬に抱きついた。
「瞬、瞬…」
「寂しかったですか?」
「うん。でもちょっとだから余は我慢した」
言うなりハーデスは瞬を軽々と抱き上げてソファに座った。
「うわっ、ちょっと」
「寂しかったから、今日はたくさんそなたを抱っこするぞ」
まるで子供のような物言いに瞬は小さく笑みをこぼした。
「寝かせないつもりですか?」
「眠りたければ眠ればいい。でも余はそなたを放さぬ」
ほお擦りしてきた冥王の髪の毛が瞬の胸元も擦る。
「やだ、くすぐったいです…」
「だめだ、離さぬからな」
「いやー、くすぐったい〜〜」
瞬の反応が楽しかったのか、ハーデスはずっと彼女にほお擦りを続けた。



朝が来た。ハーデスは腕の中で眠る瞬を見つめる。
「もう、行かねばならぬ…」
日没から日の出まで。腹心であるヒュプノスとタナトス、それにパンドラと決めたことだった。
冥王たるハーデスが地上に入りびたりでは冥府の秩序は保たれない、と言われたからだ。
瞬の白い頬をなで、そっと口づける。
彼女はゆっくりと眼を覚ました。
「…夜明け、ですか?」
「うむ、余はもう帰らねばならぬ。離れたくないが…仕方がない」
ハーデスはもう一度瞬に口づけた。
「また夜になったら会えますよ」
「そなたが余のもとに嫁いでくればもっとずっと一緒だがな」
そう言って笑ったハーデスに、瞬は頬を赤らめた。さりげなく求婚するのはちょっとずるいと思う。
けれど瞬も負けてはいなかった。
「頑張ってくださいね。私が嫁ぐかどうかはあなた次第ですよ」
「…瞬はずるいな」
「お互い様です」
外はまだ暗かった。けれど東の空がうっすらと暁の色に染まり始めている。
「また来る。また夜に来る。そなたがどこにいても必ず…」
「…お待ちしています」
握った手を、ゆっくりと離して。
ハーデスは暁の闇に溶けるように冥界へと戻っていった。
残された瞬はしゃがみこんで彼が立っていた場所をそっと撫でた。
「私…あなたを愛してるかどうかまだよく分からない。でも、大好きですよ」
聞こえているなら、伝えたくて。


それから数時間後、瞬もギリシアを離れることになった。
サガの教皇就任という成果を携えて彼女は日本に帰るのだ。
「とっても楽しかったわ、今度は観光に来てね。いっぱい案内してあげる」
「はい、楽しみにしてます」
瞬とアフロディーテは微笑みあい、握手を交わす。
「アフロディーテも日本に遊びに来てくださいね」
「うん、行くね。みんなによろしくね」
「はい、それじゃ」
瞬はタラップを上り、飛行機に乗り込んだ。
遠く空の彼方へ消えていく白銀を眺めながら、アフロディーテはカノンの足を踏んづけた。
「いっ…!!」
「アンタさ、恋愛ナメてるでしょ」
「何のことだ」
アフロディーテはもう一度カノンの足を踏みつけた。聖闘士に同じ技は二度と通用しないはずなのに。
「あんた、誰も気がついてないと思ってるわけ? あんたが瞬のこと好きなのはバレバレなの。とうの昔にみんな知ってんの!!」
「なっ…」
「図星なわけ」
「お前には関係ないだろ」
唇を噛むカノンを見つめ、アフロディーテはため息をつく。同じ双子なのにどうしてこんなに手がかかるんだろうと思う。サガは自分のことをまっすぐに好きだって言ってくれたのに。
それなのに。
「瞬はね、とっても優しい子。優しくて強い子だよ」
「そんなことは知っている」
アフロディーテはきっとカノンを睨みつけた。
「知ってても分かってない。あの子は神様だろうと普通の男だろうと自分で自分の恋人を決める子だよ。縛られているように見えたってあの子はちゃんと自分で歩いてる。いつまでもアンドロメダ扱いしてるのはあんたとあのバカ兄だけよ」
この場合のバカ兄はサガではなく一輝を指す。
「好きだって想いは、伝えなきゃ意味がないんだからね!」
それだけスパッと言いのけて、アフロディーテは聖域に戻っていた。
カノンだけが、ぽつんと取り残された。
きつく拳を握る。
黄金聖闘士と呼ばれながらこの体たらく。年下のアフロディーテにあそこまで言われようとは。
けれど彼女を恨む気にはなれなかった。彼女の言葉はすべて真理だ。
真理は世界中どこにでも落ちている。
「瞬…俺は…」
一筋の飛行機雲の向こうに消えた瞬。カノンはいつまでも追い続けた。




信じることですべてが始まる
世界中どこにいても会える
あなたが思っていてくれる
信じることはすべての力







≪終≫





≪冥王様がんばる≫
聖闘士星矢、冥王×瞬にカノン。
黄金オニャノコは⇒ムウ、アイオリア、アイオロス、シュラ、カミュ、アフロディーテ。シオンも。
んで、デスマスクが不幸担当www 落ち詰めの中身はご想像にお任せしますですwwww
アフロディーテがすっごい活き活きしているのは私の趣味です。
さあ、カノンはこれからどうする? ヘタレ返上できるのか?

とっても楽しくなってきましたですwwwwww
注: 文字用の領域がありません!

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