Long Way Home 神仏もなき恋ぞ 人 おもしろき ギリシア・聖域で一番はやく目を覚ますのが一番早く寝たアルデバランとアイオリアだというのは自明の理、というものだろう。獅子宮の主人であるアイオリアがふりふりのエプロンでアルデバランの腕に抱きついた。 「アルデバラン、今朝は何食べたい?」 「君が作ってくれるならなんでもいいよ」 「そういうの、難しい…」 アイオリアが上目遣いに言うと、アルデバランはすまない、と頭を撫でた。 「君の作るものはなんでも美味しいから。そうだな、トーストを1斤と、ステーキを。サラダにスープもいいかな」 「うん、まかせて!」 他が聞けば朝からそれかよ、と突っ込みたくなる食卓でも彼らには少し物足りない。 彼らはこの聖域一ほのぼのとしたカップルだがほのぼのするにもほどがある。 「じゃあ君がご飯を作っている間にシーツをかえてこよう」 「パジャマも洗濯しちゃうから、出しておいてね」 「ああ、わかった」 大柄なアルデバランが器用にシーツをかえる様を思い浮かべ、アイオリアはふふふと笑った。 「アルデバランがしてくれたほうがシーツ、綺麗なんだよね」 少し妬けちゃうな、と思いながらアイオリアはフライパンを温め始めた。 そのころ、お隣の処女宮の主人・シャカは寝ぼけながらも卓袱台の前に座っていた。 「起きなさい、寝ながら食べるんじゃありません」 「瞑想中…むにゃむにゃ…」 向かいあわせに座るのは白羊宮は牡羊座のムウ。最近トーストに塗るのは柚子のジャム。美味しいんですよと、薄紅色の少女に勧められて食してみたら美味だった。 「瞑想というか、迷走してるようにしか見えませんけどね」 花瓶にいけられた花は真っ赤なアキレギア。花言葉は『愚者』。 「ぐう」 「起きなさい、星屑を革命しますよ」 「起きた」 「よろしい」 ムウはしっかりと頷いて二枚目のトーストにジャムを塗り始める。 シャカはトーストの耳を取り始めた。 「またそういう食べ方をする、トーストの耳には栄養があるんですよ」 「材料が同じで、たまたまここが外だと言うだけで栄養に差があるとは思えん…」 「とにかく残さず食べなさい、貴鬼の教育にもよくありません」 シャカはもそもそとトーストを食べ始めた。 「ところで、瞬は戻ってきたか?」 「いいえ、まだ。今日で3日になりますね…」 「ふむ…」 言いながらシャカはふと天を仰ぎ見た。 瞬がこの聖域から姿を消して今日で3日、事の起こりはシャカの上を行く狂人によるもの。 冥王ハーデスの現代の憑代であり、今は恋人として懸想されているアンドロメダの聖闘士・瞬に双子座のカノンがちょっかいを出した事から始まった。 冥王とアンドロメダの恋を知ったのは同じ黄金聖闘士である双子座のサガが教皇に就任する少し前の事。 サガの教皇就任を要請しに聖域にやってきた瞬を冥王が追ってきたのがきっかけだった。 それを目にしたカノンが、何を思ったやらわざわざ日本まで出向いて宣戦布告。 事態が大きく動いた。 「君の言葉ではないが」 「なんですか?」 「私の上を行く者がいるとは、正直驚いた」 「あなたは自分が狂人だと言う自覚があるんですね」 「…ぐう」 「寝るな、シャカ」 その、冥王神話には続きがある。 主たるアテナ沙織と海皇ポセイドンがなんの嫌がらせか、瞬を聖域に押しこめる計画を立てた。 『冥王が地上に出るなら私も、ということで』 『そうすればヒロインの心得のある瞬のこと、イヤとは言わないでしょう』 そして瞬は地上の平和のためと言われてまんまとアテナ神殿へやってきた。 困ったのは冥王である。いかな神と言えども他の神が支配する聖域をそう易々と侵すわけにはいかない。 瞬会いたさに冥王は十二宮を順に回ることにした。そこで彼はさまざまな男女を見た。 (恋とは、こういうものなのか…) そして冥王様、神として最大のミスを犯す。 よりにもよってアテナとその直属の黄金聖闘士が揃う中で瞬への欲望をぶちまけた。 ムウは語る。 「あれはとても面白かったのですが、瞬にしてみれば人生最低の辱めですね」 シャカは語る。 「長いこと神仏と対話してきたが、神聖衣というものを、私は初めて見た」 あまりにストレート、それでいてなんという倒錯感。 いくらなんでもあんまりだと、瞬は羞恥と憤怒にかられ、珍しく激昂した。 可憐で華奢な容姿につい忘れそうになるが、瞬とてアンドロメダを拝命する聖闘士、しかも青銅最強を誇るあの一輝の同腹の妹で、聖闘士最勇の星矢の異腹の姉なのだ。 「マテ、瞬、余が悪かった、謝るから」 「私はね、ハーデス、あなたもよーく知ってると思いますけど…戦うのが大っ嫌いなんですよ、ええ。聖闘士になった今でも出来れば身を守るだけで済ませたいと思っています…」 もはや聞く耳を持たない。 薄紅色の乙女聖衣が小宇宙の高まりを受けて姿を変えていく。 「な、なにい!?」 「バカな! 青銅聖衣に一体何が!?」 「あ、あれは…」 ひらりひらりと舞い遊ぶ妖精の羽が、瞬の背中を彩る。 「これは…」 アテナでさえ、息を飲む美しさ。 黄金と女神の血を受けたアンドロメダの聖衣は乙女の純潔さをどこまでも高めて。 「アンドロメダの神聖衣!」 「ええーっ!!?」 そばにいたカノンでさえ、思わず身を引く熱さ。もう誰にも止められない。 「瞬、落ち付いて話そう、な?」 「私は、すごーく落ちついてます。それでね…」 「そ、それで?」 「その、身を守るときって言うのが、ちょうど今だなーって…」 じゃらじゃらっと鎖が鳴る。攻撃の角鎖と防御の円鎖は現在のご主人様である瞬に対し非情なまでに忠実だ。 「ネビュラ! さくっとやっちゃって!!」 ゼウスの雷光もかくや、鎖が描く迅雷がハーデスと、盾にされたカノンを容赦なく襲う。 「あれは、とても見事でした」 ムウは茶を飲む。 「それは…アンドロメダがか? それとも冥王がか?」 「どっちもです。許されるのならあの鎖、ときどき借りてみたいですね」 シャカはゆっくり茶を含んだ――何に使うんだね、とは問わず、問えず。 彼の脳裏に慌てふためく冥王の姿が浮かぶ。 冥王は盾にしていたカノンがあっけなく落ちたため、仕方なく素手でピンクゴールドの鎖を掴む。 「うわああああー!! 瞬の怒りが熱い!!」 「逃がさない、ハーデス!!」 円鎖を節穴な神の手首に巻きつけていた瞬はそのまま冥王とともに消えた。 そしてあれから3日が過ぎている。 ギリシアはほとんど雨が降らない、今日もいい天気だ。小鳥の囀りさえすがすがしい。 ふたりは紅茶をすすった。 「しかしまあ」 「なんです」 卓袱台に似合わないティーカップを置いて、シャカは薄く笑った。 「愚かな恋だ、冥王も…瞬も」 「愚か…ですか?」 シャカの言葉に、ムウが微妙に反応して見せた。シャカは小さく頷く。 「神と人、それだけでも困難な道のりだ。ましてや敵対していた者同士、うまくいくとは思えんが…」 「あなた、何を見ていたんです?」 神に近い男もどうやら節穴のようだと、ムウは首を振った。 「確かにかつては敵対した仲です、それは認めます。だけどね、シャカ。ハーデスが現れたときの彼女の顔、ご覧になりました?」 「いや、見ていないが…」 見ていないから、思い出す事もない。 ムウは少し微笑んで言った。 「とても、嬉しそうな顔をしていたんですよ…」 アテナ神殿において瞬の傍らにいたアフロディーテは語る――会えない時間が、とても寂しそうだった、と。 だから十二宮すべてを越えて来てくれたハーデスの手を、瞬は取りたかったに違いない。 「案外、うまくいくかもしれません」 魂の奥底、生まれたそのときから約束されたふたりなら。 「まあそのあと、ハーデスが大ポカをやってしまったのでどうなるかはわかりませんけどね」 ムウはふふふと笑った。 「瞬も…」 「はい?」 「瞬も早く決めてしまえばいい、冥王か、狂人か。あれの優しさはときとして罪だ」 深暗なる冥府の王か、絢爛たる太陽の闘士か。 優しいが故にどちらも選べないというのは、相手も自分も傷つける諸刃の剣。 幼さゆえの、愚かさ。 ところがムウが反論する。 「それは少々酷というものですよ、シャカ」 「なぜだ」 「私たちが13、4だったころを思い出してください。あのころの私たちには、まだ恋をする余裕があったんですよ」 不穏な気配はあったけれど、まだ何も動いてはいなかったあのころ。 ジャミールで、ガンジスで、ふたりは恋を味わっていた。 それと同時期に100人の子供たちが聖闘士となる修行に出された。 星矢も、瞬も、紫龍も、氷河も、一輝も。 「聖闘士に…13、4になったばかりのあの子達に、私たちは一体何をさせました? 大の大人がごろごろと、邪悪の存在に気付いていながら何も出来ず、星矢たちばかりを苦しめた…」 サガの反乱、海皇ポセイドンとの戦い。そして冥王ハーデスとの対峙。 「誰かさんが『私の見た教皇は善ー』とか言ってなかったら…とか考えますよ、ええ」 「何が言いたい、ムウよ」 「いえ、別に。ただね」 「ただ、なんだね」 いやに突っかかるシャカに、ムウは再び問答無用の微笑を向ける。 「瞬はまだ、普通の女の子に戻ったばかりなんです。これから女の子としてたくさんの経験をするんです。これからなんですよ。まあ、彼女の場合はちょっとどころじゃなく特殊ですけどね。生温かく見守る事が先輩として我々に出来ることじゃないでしょうか」 「生温かく…ね」 シャカはずずっと茶をすする。 アテナ神殿に近い教皇の間に住まうサガとその恋人のアフロディーテは瞬の帰りを今か今かと待っている。 カノンに至っては未だに聖衣を脱いでおらず、ひとり臨戦体制のまま。 「すべての恋が、今から始まる…」 シャカはぽつりと呟いた。 「そういえばシャカ、ちょっと気になってたんですけど」 「なんだね?」 「あなた、瞬に対して随分辛辣ですけど、なんでです? 恋人として好きになれとは言いませんけど瞬は可愛い子でしょう? サガなんかはまるで娘のように可愛がっているとかいないとか。あなたもせめて妹くらいにどうです?」 ムウの問いに、シャカは黙った。 乙女座より乙女らしい瞬が自分よりも乙女座の聖衣を着こなすから、とは言わず、言えず。 「別に、理由はない」 「…そうですか」 のんびりとした空気が処女宮に流れる。 いつものようにこの宮の上を通過するデスマスクの断末魔が聞こえると、朝食の終わり。 さて、そのころの瞬はといえば。 「だから、ごめんなさいって言ってるじゃないですか…」 ハーデスの手当てをしながら瞬は何度目だろうと呟いた。 これから先はパンドラに聞かされたものである。 激昂した瞬は阿修羅の如く、冥府魔道を逃げ惑うハーデスを追いかけていた。 「瞬! だから話を!!」 「問答無用!! あんな辱めを受けたのは生まれて初めてです!!」 そんなこんなでハーデスと鎖で繋がったまま、瞬が正気を取り戻したのはジュデッカの玉座、半死半生のハーデスを見たときだった。 「きゃああああ!! ハーデス、ハーデスしっかり!! あれ、私なんで…あれ?」 「うう…し、瞬…」 「ハーデスしっかりして! 一体誰がこんなひどい事…」 逃げ惑う冥王と追いかける般若のアンドロメダを心配してジュデッカに集まった108の冥闘士と忠臣たる二柱。 彼らは『アンタだ! アンタ!』と総ツッコミ。 「瞬…」 「なんですか、ハーデス。死に水ですか?」 「…愛している」 がくり、とハーデスの首が傾いた。 「いやああああああああああああああああああああ!!」 泣きじゃくるアンドロメダと、気を失っただけの冥王ハーデス。 「おい、ヒュプノス。お前アレなんとかしろよ」 「無理言うなタナトス」 おろおろしているパンドラだけが実は一番の忠臣かもしれない。 ハーデスは自分の頭に包帯を巻く瞬の小さな胸元を眺めていた。 瞬が落ちついたことでアンドロメダの聖衣ももとの青銅に戻り、どこからともなく現れた聖衣箱のなかに安置されている。 彼女は淡い藍色のワンピースを着ていた。腰のあたりに幅の広いリボンベルトをしている。 「はい、終わりましたよ」 「うん…」 さすが神というべきか、あれほどの重傷を負いながらもハーデスはすでに玉座に腰掛けていた。 「ほかに、痛むところは?」 「…心」 そう呟いたハーデスの足元に瞬はゆっくりと座った。長い裾が花のように開く。 玉座の下に咲くヒヤシンスは、悲哀を意味して。 「私だって、恥ずかしかったんですよ。みんなの前であんな事…」 「すまん、本音がぽろりと出てしまった。アテナがいけないのだ、余が折角瞬に会いに来たというのに邪魔をするから…」 「確かにひどいとは思いましたけどね」 ハーデスは瞬を見下ろし、瞬はハーデスを見上げる。 ダークグレイの包帯にまかれた左手を優しく取って。 「7日も、あなたに会えなかったんです…どれだけ寂しかったか…」 「余も、だ。余も寂しかった。十二宮の恋人たちはとても参考になったが、その度に余はそなたに早く会いたくて仕方がなかった…」 みつめあう瞳は同じ、深く澄んだ湖の色。 争いを嫌う、美しい色。 「あなたはバカです」 いきなりのバカ発言にハーデスは目を丸くした。そりゃ確かにバカやったけど。 「余が? そなたのために特訓をしたのに」 「そんなの、いりません…」 瞬がハーデスの左手に顔を伏せた。 「瞬…」 「他の誰かがどうしてるかなんて、どうでもいいじゃないですか。私は…あなたがあなただから好きなんです。7日も私を放っておいて、一体なんなんですか…。毎晩口説くっていうのは嘘ですか」 「嘘ではない。それにそなたも…」 「ええ、アテナ神殿に篭ってました。でもそれはアテナの命で…あなたが私のそばにいるせいで他の神を刺激しているからって…」 そこでハーデスは気がついた。 何故あのタイミングで次兄神、海皇ポセイドンが現れたのか。 『謀られた…か』 要するにポセイドンとアテナは地上の平和を盾にして心優しき瞬を篭絡し、この冥府神をからかって遊んだだけのこと。 『おのれ、アテナにポセイドンめ。余を愚弄しおって…』 だが、過ぎてしまったことはどうしようもない。 今回の一件で黄金聖闘士たちの恋模様を手本に、というのも十分な成果だが、それよりも大変な事態になった。ただ自分は瞬を深く悲しませ、傷つけたということだけは十分理解できた。 幸せになりたいと、願っただけなのに。 「アテナもポセイドンも、余に嫉妬しているのだ」 「ハーデス?」 瞬はゆっくり顔を上げた。 亜麻色の柔らかい髪を、ハーデスの手が優しく撫でる。 「余がそなたを得て幸せになるのを、な」 瞬はゆっくり立ちあがった。ゆっくり立ちあがってハーデスに口付けた。 「あなたは優しい神様、私がいちばんよく知ってる…あなたをこの身に受け入れた、この私が…」 そのときは、我が身を犠牲にしてでもハーデスを倒すためではあったけれど。 「幸せになりましょう、ハーデス」 「…カノンより、余を選んでくれるか?」 「さあ、それはまだ決めていません。だけどあなた次第です。カノンより頑張っているとは思いますよ」 ただ好きだと言っただけの、あの人よりは。 「…一からやりなおすということはなさそうだな」 「でも三くらいからですね」 「…減点か?」 「ええ、減点です」 瞬はにこりと笑って闇の髪をなでた。 「…また夜に、お会いできるのを」 「…ああ。すまなかった」 瞬は地上に戻ることにした。 聖衣箱を背負ってジュデッカを出ると冥界三巨頭のラダマンティス、アイアコス、それにミーノスが待っていた。ハーデスの命を受けて、これから瞬を聖域まで送る役目を仰せつかったのだという。 瞬はアイアコスとミーノスのふたりとは初対面だ。 「あなた様がフェニックスの妹とは、とても信じられなかったのですが…十分納得させていただきました」 ミーノスは女性でありながら三巨頭の一角を担う。黄金聖闘士に勝るとも劣らない美貌の持ち主だ。 「我らが王神は、あなた様を深くお望みです。どうかご理解を」 「はい…」 「では参りましょう」 ミーノスに手を引かれ、瞬は冥府をあとにした。 「…暑い。そしてカノンがうるさい…」 ギリシアの暑さを嫌う水瓶座のカミュの横で蠍座のミロが檜の扇を振っている。木の香りが少しでも涼しさを運んでくれると、瞬がわざわざ送ってくれたものだった。 「あの子は弟子の氷河より優しい…」 送られてくる風に目を細めながら、カミュは呟いた。 「まだ帰ってこないって、カノンが騒いでんのな。昨日もほら、いい感じの時に人んちのドア、ガンガン殴って。冥王よりタチ悪い」 「アンタレス15発撃ってやればよかったんだよ、ミロ」 飲みかけだがよく冷えたラプサンスーチョンをミロに手渡す。彼はほんの少しだけ口に含んだ。 「まあ、あの冥王が瞬に惚れる気持ちが、わからなくはないな…」 緋色の髪をかきあげながらカミュは言う。 「シュラが言ってたよ、あの子はデスマスクにも優しい、貴重な娘だって」 「それは貴重だ」 宝瓶宮に優しい笑い声が満ちた。 「瞬が帰ってこないよー」 この世界のどこにも彼女の小宇宙を感じないと、アフロディーテもサガに訴えた。訴えたところでどうなるものでもないがとにかく訴えた。 「落ちつきなさい、アフロ。君が瞬を妹のように可愛がっているのはよくわかるが、いい子だからカノンみたいなこと言わないでくれ」 サガはまだ聖衣を着てガチャガチャと煩い、同じ顔の弟を思い浮かべてげんなりと肩を落とした。 「カノンといっしょにしないで。でも心配で…はっ、まさか…」 「まさか…なんだ?」 キャミソールから乳房がこぼれそうなほど前かがみに、アフロディーテはにやりと笑う。 「今ごろ、仲直りにってベッドの中で仲良くしてたりして…」 「ああ、ありえない話じゃないな」 「ありえてたまるか!!」 バン、と教皇の間の扉が開かれる。どかどかと入りこんできたのは海闘士シードラゴンではなく、ましてや蟹座でもなく、双子座のカノン。 「ここに入るときは取次ぎを介するように言ってあるだろう、お兄ちゃん本気で怒るぞ」 「そんなに心配ならほら、そこに黄金の短剣があるから喉ついて冥界に行ってくれば?」 言いたい放題の兄と兄嫁にカノンはキレる寸前だ。 そこに、ほんわりと温かい薄紅色の小宇宙。 「あ、瞬の小宇宙…」 感じ取ったアフロディーテがほんのり呟く。カノンの姿はすでにない。 「帰ってきたんだ、よかった」 「だが、小宇宙はひとつだけじゃないな…」 他に、闇から這い出してきたような強大な小宇宙が三つ。 「行こう、アフロディーテ。面倒ごとになる前に」 「聖衣は?」 「要らない。いざとなったらカノンをぶつけなさい」 「はーい」 双魚宮へ戻る道とは別の、教皇だけが知る抜け道。サガはアフロディーテに内緒だぞと囁いて降りていった。 そこは白羊宮から少し離れた聖域専用の闘技場。星矢はここで天馬座の聖衣を手に入れた。 冥闘士の三人が直接聖域に行って余計な混乱を招くのを避けるために瞬はここを選んだ。 「送ってくださってありがとうございました」 一度聖衣箱を下ろし、瞬は深々と頭を下げた。 「ハーデス様の命です、お気遣いなく」 ミーノスの声が柔らかく響く。瞬は少しはにかんだ。 「…また冥府へいらしてください、ハーデス様がお喜びになります。そして…いつかで結構です、いつかハーデス様の妃となってくださいますよう」 「…善処します」 瞬の言葉に、今度はミーノスが微笑んだ。 「それでは、我らは」 「待て、ラダマンティス」 帰ろうとした三人を呼びとめるテノールに、瞬ははっとした。 煌く太陽の輝きをふんだんに浴びた黄金の聖衣を纏う青年がひとり立ってる。 「貴様…カノン!!」 「蟹座?」 「蟹座?」 「双子座だ!!」 ハーデスの嫌がらせとも言うべき間違いがどうやら冥闘士の間には広がっているらしい。 「アンドロメダ様、お下がりを」 「えっ、えっ」 カノンは同じアテナの聖闘士。聖域から来たお迎えかもしれないのに三巨頭は瞬を庇うように立っている。 「蟹座のカノンには指一本触れさせるなと厳命されておりますので、どうか」 「双子座だと言っているだろうが!!」 掛け声なし、アクションなしで放たれたギャラクシアンエクスプロージョンを、ラダマンティスが受けとめる。 「やっぱり…」 「こうなったわね…」 物陰からサガとアフロディーテが覗いていた。それに気がついた瞬が、くいくいとミーノスの袖を引っ張った。 「なんですか」 瞬がこっそり指差すほうを見て、ミーノスはああと頷いた。どうやら本物の保護者が迎えに来たらしい。 バカらしい争いを続けるカノンとラダマンティスを他所にミーノスは未来の王妃を連れて行った。 「アンドロメダ様の保護者の方でいらっしゃいますか?」 「教皇のサガです、一応はまあ、保護者です…」 88の聖闘士を総括するのが教皇の仕事のひとつだから、サガが瞬の保護者でも間違いではない。 「確かにお返しいたしました」 「どうも。…ああそれから」 「なんですか?」 瞬との再会を喜ぶアフロディーテが、ミーノスになにやら耳打ちするサガを見つめている。ミーノスはちょっと考えて頷いた。 「わかりました」 「よろしくお願いします」 「なに言ったの、サガ」 「んー…」 そばに瞬がいたので、サガはなにも言わなかった。願いはおそらく、冥王と同じ。 「もー、心配してたんだからねー」 「すみません」 少し熱めの風呂に入れてもらいさっぱりした瞬は濡れて頬に貼りついた亜麻色の髪を丁寧にはがした。 「私もあんまり覚えてなくて…二日くらいハーデスを追っかけまわしてたらしいんですけど…」 瞬の髪を乾かしていたアフロディーテの手がわずかに止まる。 「でも、それだけ怒るってことは逆にそれだけ好きってことなのかもね」 「そうなんですか?」 「だって、あれは場所もタイミングも言い方も悪かったけど、ふたりっきりのときにもうちょっと言葉を選んで言われたらどう?」 「それは…まあ、嬉しいとは思いますけど…」 「でしょ?」 誰かを愛するための努力を重ねることを、アフロディーテはステキだと思う。 だからあの冥王にも、なんとなく手を差し伸べてみた。なんにも知らない二人だからこそ、迷わないように誰かが標となるのも悪くない。 ただ冥王様はとんでもなく捩れてはいたけれど。 「瞬は言ったよね、会えなくて寂しいって。カノンもそばにいたのに…」 「いたんですか…」 少し長めのバスローブの袖で口元を隠しながら、瞬は呟いた。ハーデスをいろんな方向に思うあまり、彼女はカノンの存在に気がついていなかったのだ。 (もうムリなんじゃないかしら…) 瞬がすでに聖域に入ったことも知らず、カノンはまだラダマンティスと戦い続けている。 「とにかく、瞬が無事でよかったわ。みんな心配してたんだからね…」 「すみません…」 「さ、髪は乾いたわ。今お茶持ってきてあげるからソファにでも座ってて」 「はい…」 言われたとおりに、瞬はソファに腰掛けた。柔らかな光と鮮やかな薔薇の色、穏やかな香り。 地上に帰ってきたんだ、と。 あの暗い冥府の玉座であの人は今ごろ何をしているんだろう。傷を痛がっているだろうか、それとも。 (私との未来を、夢見ているのかな…) そんなことを考えて、瞬はふうと息を吐いた。 「お待たせー、お茶入った…あらら」 トレイにカップとポットを乗せて戻ってきたアフロディーテは静かに瞬に歩み寄る。 「寝ちゃってる…疲れたのね」 アフロディーテは華やかな笑みを浮かべる。トレイをテーブルに乗せ、いつもサガが使っている仮眠用のブランケットを持ってきた。 瞬をそっと抱き、自分の膝に頭を乗せる。まだ少し暖かい亜麻色の髪を梳けば、優しい香りがした。 「もう気がついてるんでしょ、瞬。あなたが誰を選んだのか…」 眠る乙女は答えない。 目覚めの口づけを許されたのは、きっと。 そしてとっぷり日も暮れて。 ムウが言う。 「日が暮れましたね」 シャカが言う。 「ということは、かの冥府神も来ていると言うことか」 ふたりはずずーっと茶をすすった。 聖域のはずれにある花畑で、瞬は冥王を待っていた。 ちなみにここは闘技場とは真反対に当たる。カノンはまだ戦っていた。 細く白い肌を淡い藍色のワンピースに包み、軽く髪をかきあげて。 「瞬…」 名を呼ぶ声も、心地いい。 瞬がゆっくり振りかえると、腰のリボンが遅れて揺れた。 「ハーデス…」 「瞬…」 冥王の右手に、白い花束。彼はゆっくり両手で差し出した。 「抱きしめる前に、これを。先日は本当にすまなかった」 「もういいんですよ」 「…パンドラにもこっぴどく叱られたのだ。持っていけと言われた」 「言われたから持ってきたんですか?」 まるで子供の遣いかのように言われたハーデスはおろおろと狼狽し始めた。 「いや、そうではなくてな、余ももう一度ちゃんと謝ろうとだな」 「ふふふ、わかってますよ」 瞬はイタズラっぽい微笑を浮かべて、花束を受け取った。ハーデスがほっと息をつく。 「いじわるだな、そなたは」 「アテナの聖闘士ですからね」 「…なるほどな」 あとはもう、言葉なんか要らなかった。花束ごと抱きしめ、額にそっと唇で触れる。 胸に白い花束を抱く亜麻色の髪の乙女を膝に抱くのは、深遠にして高貴なる黒衣の冥王。 二人を結ぶのは赤い糸ではなく、薄紅色の鎖。 「アンタは、ちょっとだけハーデスに似てる」 「ハァ!? どこが!? 俺はロリコンじゃねえぞ!」 まだ宵の口、飲み始めたばかりの磨羯宮でデスマスクが抗議の声をあげた。 「そりゃ、アンドロメダも見た目は悪かねぇけど、俺はもっとこう、バーンとしてるほうがだな」 「アンタそれ瞬の前で言ってごらん。この間のアレ、もう忘れたの?」 う、とデスマスクの声が詰まる。 人生最低の辱めに激昂した瞬の恐ろしさを、あのときその場にいた黄金聖闘士の誰もが痛感したはずだ。 「けど…」 「私が言いたいのは、あんたもハーデスもまめだってこと。アンタは毎朝私に蹴り倒される、ハーデスはああして毎晩通う。朝か晩かの違いだけ」 「ああ、そういうことか…」 シュラの言いたいことがわかって、デスマスクはほっと息を吐く。グラスに残ったビールをあおり、手酌で次の一杯を注ぐ。 「瞬みたいな女の子には、それが有効かもしれないわね」 珍しくちびちびと口をつけながらシュラは思う。 もしあんなふうに冥王に愛されたのが自分だったら、あの人は必死に守ってくれるだろうか。 愚かな問いだと、シュラは苦笑する。 「…ありえないわね」 「なあ、シュラ」 「んー?」 「もしハーデスがお前をほしいって言っても、俺は絶対にやらない。そんだけ」 デスマスクの言葉に、シュラはきょとんとした。 おそらく、かつてない反応。 シュラはデスマスクをくしゃくしゃと撫でた。 「なんだよ」 「私のとっておきのワイン、開けてあげる。ビールのあとだけど、平気よね?」 「あ、うん…」 結局誰しもが、恋の前には愚かなのかもしれない。 そしてさくっと日が昇り。 ムウの蹴りが決まる。 「起きなさいと言っているでしょう、朝ですよ」 シャカが答える。 「新しい朝がキター」 ムウはもう一度シャカを蹴り飛ばした。 「ラダマンティスはいつまでやっておるのだろうか…」 「カノンもいつまでやるんでしょうね」 ギャラクシアンエクスプロージョンとグレイテストコーションがギリギリのところで拮抗している。 「まあよい、ラダマンティスがカノンを足止めしてくれたおかげで余は瞬とゆっくり出来たわけだし」 ハーデスがそう言ったので、瞬はにこりと笑った。 「瞬…」 「はい?」 「余はそなたが愛しい」 もう何度も聞いた、囁き。 答えたくても、口がうまく動かなくて。 「ハーデス…私は…」 言いかけた瞬をさえぎるように、ハーデスは彼女の頬に触れた。 「まだ、『好き』でもよい。だがいつか『愛しい』と言わせてみせよう」 後朝のように、口づけ一つ残して。 「また来る」 「ハーデス…待って」 「ん?」 振り返るハーデスの唇に、少女のそれが触れている。 「瞬…」 「…あなたが、好きです」 まだ、これしか言えないけど。でも自分から好きだといったのはきっとこれが初めて。 一輝に対するものとも違う、星矢たちに向ける『好き』でもなくて。 あなたを恋人として『好き』。 「瞬…そなた…」 「…日が昇りますよ、ハーデス」 「…うん。その真意はまた夜にでも聞こう」 いつものように暁の宙にふわりと、ハーデスの姿が消えていく。 思わず、手を伸ばした。 「ハーデス…私…私…」 (あなたを少しずつ、思い始めたんですよ…) 祈りの形に手を組み合わせ跪く瞬は乙女座の聖衣にも似ていた。 そんな幼くも美しい恋の横に、無粋な男たちの意味不明な争い。 華やかなるかな、闘神アテナの聖域 咲き乱れる恋に新しい小さなつぼみ いつか鮮やかに薄紅色の花を咲かせ 愛され愛すべき人の胸に飛び込む やがてあの闇の彼方から 君を優しく手折る神がやってくる? ≪終≫ ≪和菓子と洋菓子の間には≫ このSSは楠本要様が私の誕生日SSとしてくださった『それを愛といわずしてなんと言う!?』の続きみたいなものです。 そちらを先に読んだほうがこちらの壊れ具合もわかります。 基本的に青銅組担当の如月ですが、冥瞬ではカノンが絡んでくるため、どうしても黄金が出張ってくる、と言うことになります。こっそりシュラ(・¬・)ウマーにしてみましたがいかがでしょうか? 和菓子こと楠本要様、ありがとうございました。 いつまでも和菓子でいてください。 如月幸乃 |