あなたの胸の片隅



春の夜にあでやかに舞う桜の花の
散り際は本当に美しいですか



「そなた、なかなか大胆だな」
2階にある自分の部屋の窓からひらりと身を躍らせ、塀を乗り越えて。
まだ13歳の少女は亜麻色の髪を風に躍らせながら振り向いた。
「大胆…ですか?」
そういって少女は己が身を見回した。彼女自身と彼氏が極端な肌の露出を嫌うのでいつもきっちり着込んでいる。
「いつもの服ですよ?」
「そうではない、真夜中だというのに部屋を抜け出して男とふたりで外出など」
非難めかしている割に青年も楽しそうだ。少し先を歩いていた少女の手をとり、青年は隣に並んで歩き出した。
少女はアンドロメダの聖闘士、名を瞬という。
青年は闇を統べる冥府の王、名をハーデスという。
ごく非凡なふたりは現在ごく非凡な恋をはじめたばかりだ。
日没から日の出まで――ふたりの決めた時間は春という今、徐々に短くなりつつある。
「どこへ行くのだ、瞬」
「とっておきのところですよ。普通の人間じゃまあ行けないような所です」
瞬の笑顔はいつも花のようで、けれど今日はほんの少しいたずらっぽさをにじませて。
どんなに大人びて見えてもたった13年しか生きていない。
繋いだ手をどちらともなくぎゅっと握り締めた。
「行きましょう、もたもたしてると夜が明けちゃいます」
ハーデスは夜空を見上げる。闇の夜に集う女神たちは今の自分をどう見ているだろう、と。
神としての実力を行使しないで、正々堂々と。
愚かな恋だと、笑っているだろうか。
だがそれでもいい、彼女さえそばにいてくれるならどんなに愚かでも構わない。
「…そなたのとっておきか、さぞ面白いものだろうな」
明るい地上の闇に溶ける事のない冥王はその姿をしっかりと浮かび上がらせた。
「面白い…というか、私は好きなんですよね。きっと気に入ってもらえると思いますけど」
「ならば早く行こう」
夜道を少し足早に歩きながら、ふたりは幸せそうに笑っている。



「ここ…なんですけど」
「確かに、普通の人間には無理だな」
鋭く切り立った崖の上に、一本の大きな桜の木。誰の手に触れる事もなく悠久の刻をすごした桜が闇の中に凛として咲き誇っている。この桜は遠くからしか臨めないまさに高嶺の花だった。
ふたりは難なく桜の木の下に立つ。
方や聖闘士、方や神。
ハーデスが瞬を抱き上げてふわりと昇っていっただけの事。
「これが、そなたのとっておきか」
「つまんないですよね、桜なんて。そこら辺にも咲いてるし…」
言いながら瞬は上目遣いにハーデスを見つめた。
ハーデスは何も言わずにただ桜を見つめている。 
「ハーデス?」
「そなたのとっておきだろう。美しいな」
その白い掌にひとひらの白を乗せて。
ハーデスは笑って見せた。
「花とはこのように穏やかに愛でるものだ」
そう言って笑ってくれた冥王に、瞬は安心して寄り添った。
「他にも桜は咲いてますけど、私この桜がすごく好きなんです…」
「そうなのか」
「ひとりぼっちで寂しそうに見えるけど、でも命を紡ぐ事を投げ出していない」
花が咲くのは、次代の命のため。
優しい笑顔を見せて人を和ませる。
桜が咲き、やがて散り、実をつけて。
その実が次代の桜となってまた命を繋ぐ。
「孤高の桜、か」
ハーデスはぽつりと呟いた。
「古来から、散る姿が美しいとされたのは桜だけなんですって」
「だろうな。他の花ではこうはいくまい」
ひらりひらりと舞い落ちる、花弁。
瞬の手元にも、一枚。
「余はどんな命の終わりも醜悪だとは思わぬ」
人は老い、獣は裂かれ、花は枯れて。
けれど彼は手にした花弁をぎゅっと握ってそういった。
「命が命を支え、繋ぐ。花が散るのは次の命のためだ…精一杯生きて、そして…」
生きるために捧げられた命。その命のための祈り。
「人間だけが、それを忘れてしまったのかもしれませんね…」
優しい少女はそういって瞳を伏せた。
「…私は」
「そなたは何も忘れてはいない。もしそなたがそれを忘れて拳を振るい続けていたのなら余はそなたを見初めたりしなかった」
争いを好まないのに戦う運命に生まれた少女。
体の傷は癒えても、心に残る深い傷。
薄紅色の魂はときに深い悲しみの色を得て淡く輝く。
まるでこの桜のように。
ハーデスはそっと瞬の頬に手を添えた。
「瞬…」
名を呼ぶだけでいい。名を呼んで、抱きしめるだけでいい。
誰にも渡さないと決めた、自分だけの乙女。
「ここは本当にとっておきだな」
「なんでです?」
腕の中の瞬は不思議そうに呟いた。
ハーデスは瞬と額をあわせ、ふふふと笑って耳元に囁いた。
「誰も来れないから、誰も余とそなたを邪魔しない」
「あ…」
黒い絹がさやと瞬を包む。
けれど瞬を惹きつけるのは絹の感触ではなく、目の前の男の瞳。
同じ色をした瞳をそっと伏せて交わした口づけがひっそりと夜の闇に溶けていく。
「余はそなたが愛しい…」
胸の片隅にそっと重ねられる、言葉。



その愛しさを重ねられたら、あなたを愛しいって思えるの?



「そなたは、余を愛しいとは言わぬな」
帰り道、喧騒が近くなる。
繋いだ手は離さないままハーデスがそう言った。
「でも好きですよ」
「カノンよりもか?」
立ち止ったハーデスに強く引かれる形で、瞬も立ち止まった。
カノンは双子座の黄金聖闘士。現教皇サガの双子の弟。
彼もまた薄紅色の少女に恋をした。
深遠なる闇の王と、絢爛なる黄金の闘士。ふたりは瞬をめぐる恋敵だ。
そのカノンと比べろと冥王は言う。
「困ります、そんな事聞かれても…」
「だが余は他の男に負けたくない。そなたを妻にしたいと何度も言ったはずだ」
「だからって…」
きっと順番は関係ないから。
でも約束をきちんと守って毎夜自分のもとを訪れてくれるハーデスの努力は認めてもいいかもしれない。
寂しい時や辛い時に慰めてくれる。
星のない夜にそばにいてくれる。
抱きしめて口づけて、何度も好きだと言ってくれる。
多分、刷り込みによく似てるかもしれないけど、恋なんてそんなものかもしれない。
瞬はため息をこぼした。
「比べる事は出来ません。あなたはあなたで、カノンはカノンでいいところがありますから。でも…」
「でもなんだ?」
「あなたが私を思ってくれているのは嬉しいです。今日もあなたは私を慰めてくれた、それで十分です」
「それではつまらぬ。いつものことではないか」
路上の痴話喧嘩に目を止めるものもない。
黒衣の冥王は目の前の愛しい少女を困らせている事に気がついていない。
(このひと、変なときに変にピントが合うんだから…)
「そのいつもが嬉しいんですけど、ダメですか?」
亜麻色の髪の乙女はまたしても上目遣いに冥王を見つめた。
「う…」
なんだかよく分からないがこの視線のあげ方は妙な説得力を持っていた。ハーデスは返す言葉もないまま頷いた。
「そ、そなたがそれでいいなら、余は構わない…」
「はい、ありがとうございます」
とどめににっこり笑うと冥王は完全に黙った。
「私はあなたのこと好きですよ」
「だがやはり好きだけでは物足りぬ…」
未練たらしく呟くハーデスの手をしっかりと握って、瞬は黒衣の王を見つめる。
「毎晩私を抱きしめて、口づけて…今日はこうやってこっそりお散歩にも出たじゃないですか。今日はあなたのために過ごしたんですよ。それじゃ足りませんか?」
「余のため…」
歩きながら思い出す。
いつものように日没に訪れ、瞬の仕事が終わるのを待つ。
今日は窓から抜け出し、わざわざ塀を乗り越えた。ふたりっきりで桜を見て、その木の下で口づけて。
ずっとずっと手を繋いでいた。瞬は一睡もしていない。
彼女が自分のために割いてくれたほんの僅かな時間。
「…これは」
「はい?」
「これはデートとか言うものだな? 瞬」
ハーデスの言葉に瞬は小さく笑って頷いた。
「そうですね、デートですね」
「カノンとした事は?」
「…ありません」
それだけ聞くとハーデスは高らかに笑いたくなった。真夜中とはいえ瞬が自分を思ってくれたことが嬉しいのだ。
そしてそれがかの憎き恋敵には為されていないのならいっそ気分がよいというものだ。
「なに笑ってるんです?」
「なに、余は幸せだと思ってな」
曙の女神よ、聞こえているならどうかもう少しだけ。
余のためにほんのわずかでいい、まだ朝を呼ばないでくれ。



城戸邸別館の塀の上から瞬がひょっこり顔を出す。
「行けるか、瞬」
「誰もいません、大丈夫です」
「なら行こう」
かなり高い塀を軽々と乗り越えたふたりはまっすぐあの窓の下を目指す。
そしてまたハーデスが瞬を抱き上げて2階の、彼女の部屋へ。
テレポートすれば済むことでもそれじゃ楽しくないからとわざわざ冒険めいた事をする。
「楽しかったですね」
「うん、ただ…」
「ただ、なんです?」
瞬を腕に抱いたまま、ハーデスは静かにベッドに腰掛け、亜麻色の髪をすいた。
「眠らなくて平気か? 余のために何かしてくれるのは嬉しいが、そなたが体を壊しては何にもならぬ」
おおよそ死の神とも思えぬ発言だが、それでも自分を気遣ってくるのがやっぱり嬉しい。
「心配してくれるんですね」
「恋人の心配をするのは当然だ」
生命を慈しむからこそ、その秩序のために正当な死を与える。
誰よりも地上が好きで、だからこそこの世の腐敗が許せない。
暗い冥府で生きているからこそ、眩しい恋に身を焦がしてもみたい。
元来が優しくてお人よしのこの神の頬を、瞬は優しくなでた。
「優しいんですね。でも大丈夫です、一晩くらいなら眠らなくても。それにあなたがくる前にお昼寝しましたから」
「…そなたの肉体的な大丈夫ほど信用できぬものはないとキグナスが言っていたが」
(氷河…いつの間に余計な事を…)
瞬はそれとは言わずにハーデスに微笑みかけた。
「本当に大丈夫です、心配しないで」
「そうか? それならいいが…」
そういったハーデスの背後からきらりとこぼれる金の光。
「…夜が明けるようだ」
冥府へ、戻らなくてはならない。
日没から日の出まで、ニュクスの夜はこれからどんどん短くなる。
「ハーデスこそ、無理しないでくださいね」
「ん?」
「毎日、冥府からここまで大変でしょう?」
瞬の声に、ハーデスはぎゅっと彼女を抱きしめた。
「やはり余の目に狂いはなかった。そなたはこの世でいちばん清らかで愛らしくて優しいな」
「なんか増えてません?」
「気のせいだ。ああ、このまま約束など違え連れて帰ってしまいたいがそうもいくまいな」
「ええ、そうはいきません」
瞬はくすくす笑うと、それでも名残惜しそうに冥王の腕から離れた。
「気をつけて」
『余は神であるぞ』とは言わずに、冥王は瞬に背を向けた。見つめていればほんの一時でも離れるのが辛い。
「また来る」
「お待ちしています…」
そういってハーデスは暁の空気に溶けた。見えなくなるまでずっと見つめて、瞬は空を見上げる。
だんだん明るくなる空、もっとあの人と過ごせればいいのに、と。



「お戻りでしたか、ハーデス様」
「うん、たった今な」
ジュデッカの玉座のそばにはいつもパンドラがいてハーデスの帰りを待っている。
「いかがでございますか、アンドロメダは」
パンドラの問いかけにハーデスはにこりと笑った。おそらく、こんな笑顔は他では見ない。
「うん、日に日に愛しくなっていく。そなたの言ったとおりにしてよかった」
奪わずにただ熱心に口説くこと。
地上の平和と引き換えにせず、ただ愛しいと奏で続ける。
どんなに遠回りに見えても、それが優しい未来への道。
それが、冥王の恋。
「なかなかに大変だが…楽しいものだな、恋というものは…」
玉座にゆったり腰掛け、目を閉じる。
桜の下の亜麻色の乙女は彼の脳裏で優しく微笑みかけていた。
「ハーデス様、御髪に…」
「ん?」
失礼しますと声をかけ、パンドラは細い指でそれをそっとつまみあげた。
それは小さな薄紅色の花弁。
「桜の花びらでございます、いかがいたしますか?」
「…捨ててはならぬ。余の体についていたものなら、それは余のものだ」
この冥府において彼の命令は絶対だ。パンドラはその花びらを壊さぬように丁寧にハーデスの掌に乗せた。
その花びらを、ハーデスは身じろぎ一つせずに見つめている。
「愛しきものにございますね」
「うん…余の大事なものだ」
ふわり、と彼の手の中で小さな花弁が舞い上がる。ハーデスはそれを真円で包み込んだ。
ころり、とその珠が彼の手に落ちた。透明なそれはほんのりと温かい。
地上からやってきたその花びらは彼の手で永遠を約束される。
ハーデスはそれをしばらく掌で転がしていたが、すぐに神殿に仕舞いこんだ。
また日が落ちるまでの時間が、いやに長い。
「春は嫌いだが…瞬が一緒ならまあよいかもしれぬな…」
「ハーデス様は本当にアンドロメダにご執心でございますね」
「これまで何度も憑代を選んできたが、あのように清らかで愛らしくて優しくて温かくて心地よい憑代はおらなんだ。憑依を許しながら拒絶されたのも初めてだった。だから是非とも妻に迎えたい。そのために…本当は手段など選んではおれぬのだ。蟹座のカノンとかいうのがでしゃばってきおったからな」
「ハーデス様、おそらくは双子座かと思われますが」
パンドラの控えめな突っ込みにハーデスはちらと彼女を見、ため息をついた。
「肩書きなどどうでもいい。とにかく邪魔だ。瞬が殺すなというから殺しはせぬが…攻撃するなとは言われなかった」
要するに目に見える争いをしなければいいということだと、ハーデスは自分勝手に解釈した。
見せつけるかのように瞬の肩を抱いて一緒に部屋へ入る。それだけでも十分ダメージを与えるのだ。
とどめとして『いい匂いがした』とか『柔らかかった』とか言うのも効果的だ。
「余が瞬の体を隅々まで知っておるのは紛れもない事実だ、なあ、パンドラ」
「御意にございます」
黒髪の女性はハーデスが瞬に憑依したそのすべてをちゃんと知っている。
瞬の肉体がこの世に生まれ出てすぐにパンドラはハーデスの魂を抱いて追い掛け回した。
おそらくそのときからこの恋は始まっていたのかもしれない。
「余は、ロリコンではない…」
「は?」
「幼い少女を愛好する者をそういうのだそうだが…余は幼女は好まぬ。ただ偶然にも愛した瞬がまだ13歳で、さらに偶然にもアンドロメダの聖闘士だったというだけだ」
パンドラは言葉を繋ぐ事が出来なかった。
ただ、誰だよハーデス様にいらんことを吹き込んだのは、と思っていた。
大体神話の時代から生きてる神様にむかってロリコンはないだろロリコンは、とも。
「…いい気になりおって、蟹座のカノンめ…」
「双子座にございます、ハーデス様…」
「もう蟹でよい。そなたも折があれば蟹と呼んでやるがよい」
「はぁ…」
蟹座の聖闘士は確かデスマスクとか言ったはずだが、この冥界で以下略。
「とにかく、余は瞬を愛している。妻としてこの冥府に迎えたい…何をしても、な」
許され、望まれる限りのすべてをして。
「恋とは楽しきものだ、そなたもしてみるがよい。そうだな…フェニックスあたりなどどうだ? そなたフェニックスに惚れておろう?」
「ハーデス様っ!」
パンドラはかあっと頬を染めて、何も言わずに退室してしまった。
やはりこの冥王様に瞬以外の女性の心理を理解しろといっても無理のようだ。
「パンドラはなにを怒ったのであろうか…」
ハーデスは自分の言葉と、彼女の態度を冷静に推察してみた。
そしてぽんと手を打つ。
「図星であったか!」
最近の冥王様は妙なところでピントが合う。



「いい天気…」
日当たりのいい場所に洗濯物を干しながら瞬は空を見上げる。
瞬は少し前にハーデスに尋ねたことを思い出した。
なぜ、夜に来るのかと。
すると彼はいくつかの理由を挙げた。
日に当たると溶けると言うわけではないが冥府での暮らしが長いため明るさになれないこと。
ゆえに、日没から日の出までが最適である事。
一日中地上にいて他の神を刺激しないように気をつけていること。
冥府の秩序と王としての威厳を守ること。
そして最後に彼はこういった。
『夜のほうがロマンチックであろう?』
思い出して、瞬は小さく笑った。
美容と健康のために寝るようにと、ハーデスは言うのだ。寝てしまえばロマンもへったくりもないではないか。
それでも彼は構わないと言う。
『余のすべてをかけて、そなたのすべてを愛したい…』
笑顔も、寝顔も。
傷も、痛みも。
夢も、希望も。
ただ一緒にいられればそれでいいと、彼は言った。
出来れば早めに婚姻についての決断をしてほしいとも言った。
カノンも、自分を好きだといってくれた。
そこまで深く思われて、自分は何を迷っているのだろう。
でも迷っているのはカノンのせいじゃない。彼とのことがなくったって、きっと結婚のことは迷ったはず。
(私は、どうすれば…)
いつかは、差し伸べられた二本の腕のどちらかをとらなくてはならない。


瞬は地上にあって――『ハーデス』と。
ハーデスは冥府にあって――『瞬』と。


クロノスの支配する刻の中、時空をこえて呼び合う名は魂の奥底に響いて。



この庭先に植えられた桜も花を咲かせ、そして役目を終えたものから散っている。
瞬はゆっくりと桜のもとへ歩んだ。
「教えて、知っているなら…」
私は、どうすればいい?
薄紅色のその花は恋の答えなど知るはずもなく、ただただ涙の様に花をこぼす。
しばらく佇んで、瞬は苦笑した。
「そうだよね、誰かに決めてもらおうなんて虫が良すぎるよね」
自分から望んだ恋ではないけれど。それでも思われた以上は心持つ人間として、応えねばなるまい。
亜麻色の髪を風にさらわせても、心までは。
桜はそう教えてくれたのかもしれない。
「瞬? どうしたんだ?」
「うわあっ!?」
ひょい、と背後から声がかかる。振りかえると茶色がかった髪の毛が現れた。瞬は驚いて思わず後ろに引く。
「なんだ星矢、びっくりした…」
星矢はずっと樹の上にいたらしく、逆さまになって瞬の前に姿を見せた。器用に体をひねって飛び降りる。
「桜の樹に登っちゃダメだって言ったでしょ、星矢」
桜の木は思った以上に傷みやすい。俗に言う『桜折るバカ梅折らぬバカ』とは、桜の生育に関して言われてきた事だ。
瞬に叱られて星矢は肩を落とす。
「実がなってるかと思ってさ」
「…おなかすいたの?」
星矢はこっくり頷いた。
「だったらそういえばいいのに。それにこの桜、実はなっても食べられないよ」
「えっ、そうなの!?」
ソメイヨシノと呼ばれる品種は主に観桜用で、食用ではない。
星矢はまたがっかりと肩を落とした。
「食べられないのかぁ。瞬は何でも知ってるんだな」
「気になって調べただけだよ」
舞い散る花弁を見つめて笑う少年と、傍らに微笑む少女。
ふたりは青銅聖闘士の中でもいちばん幼い13歳、並べばまるで姉弟のよう。
「そういえばさー、瞬、夜中にどこ行ってたんだ?」
星矢が桜から瞬に視線を移す。真直ぐな瞳を、瞬は鮮やかに見つめ返す。
「ハーデスとふたりでお花見」
「…お弁当持って?」
「手ぶらで」
やっぱり星矢は花より団子だと、瞬は小さく笑った。星矢はそれ以上のことに興味がないのか、ふーんとだけ呟いた。
「…瞬は、ハーデスのこと好きなのか?」
「そうだね…嫌いじゃないよ」
花を愛でる事を厭わない。散っていく桜を醜悪だと言わない。
答えを出さない少女を責めない。
そんな冥王をまだ『愛している』わけじゃないけれど、どこか憎んだり恨んだり出来なくて。
「…瞬は難しい言い方するな」
「どこが?」
星矢の手が落ちていく花びらを掴む。聖闘士にとってそれはなんら難しい事ではない。
先ほどの会話のどこが難しいのかと瞬はゆっくり考えた。考えても分からなかったので星矢に聞いてみた。
「ねぇ星矢。さっきのどこが難しいの?」
花びらを手のひらから解放した星矢がふっと瞬を見つめる。
「俺は好きかって聞いたのに、瞬は嫌いじゃないって言った。好きと嫌いじゃないってどう違うんだ?」
「星矢…」
それはおそらく言葉のあや。好きという直接的な表現を避けると『嫌いじゃない』になる。
けれどなんにでもまっすぐな星矢は『嫌いじゃない』と言う言葉がなんとなく気に入らないらしい。
「そうだね…『好き』と『嫌いじゃない』ってどう違うんだろうね…」
少年と少女の心を浅く乱した桜が、ひらりひらりと土に還る。
「瞬…」
「おなかすいたんだったね。おいで。ホットケーキ焼いてあげる」
「やった!」
駆け出す星矢の背中を穏やかに見守って。
一体いつまで星矢を甘やかしてやれるだろう。
自分はいつか結婚して星矢とはなれることになる。それはきっと星矢だって同じこと。
いつまでも姉と弟ではいられない。
「瞬、早く早く」
「おなかが空いているわりには元気だね、星矢」
キッチンの戸棚からホットケーキ専用の粉を取り出す。星矢のためだけに常備されているそれを兄一輝は惰弱だと嘆いた。
「瞬、お前星矢を甘やかしすぎじゃないのか?」
「いいじゃないですか、星矢は可愛いんだし」
カウンター式のキッチン、その向かいに星矢と一輝。
瞬はボウルの中の材料をかき回す。
「それに、兄さんほど甘やかしてはいないと思いますけど」
「俺がいつ星矢を甘やかした?」
温まったフライパンにちょうどいい量の生地を流し込む。兄の鋭い視線もなんのその。
「星矢が兄さんにこっそりピーマンを回してたの、私が知らないとでも思ってたんですか?」
一瞬ぎくっとこわばる兄の背中。しかし不死鳥も負けない。
「お前が夜中にあの節穴神と出かけたのを、俺が知らないとでも思っているのか?」
ギン、と瞬の目が兄を見据える。
薄紅色と黄橙色の小宇宙が燃え上がる。流石同腹の兄妹、小宇宙までよく似ている。
「いーじゃないですか別に。やましい事はありませんから」
ぽんと手首を使って返されたホットケーキはおいしそうな狐色。
星矢はおおと声を上げた。
「どうやら別れる気はないようだな」
「ええ、今のところは」
瞬は2枚目、3枚目と手際よく焼き上げる。3枚重ねて、バターを乗せて、蜂蜜をかけてから星矢の前に出す。
「はいどうぞ」
「うまそー、いただきまーす」
大きく口をあけてかぶりつく星矢に、瞬は満面の笑みを向ける。
「美味しい?」
「サイコー」
「そう、よかった」
この妹を敵に回す恐怖は兄である一輝が誰よりもよく分かっている。
分かっていながらなんだかんだとつっかかるのはやはり最愛の妹だから。
自分が守れなかった6年という時間。
取り戻すように兄と妹でいたかったのに、よりにもよって妹にはデカイ害虫が2匹もついた。
そのうちの1匹が瞬を嫁にと言い出した。
「早く別れればいいのに…」
「なんか言いました?」
「いや別に…」
瞬は兄の湯飲みにそっと茶を継ぎ足した。
彼女だってちゃんと知っている――兄が思うのはいつだって妹である自分のことだということ。
だけど、恋人だけは自分で決めたくて。
「兄さん」
「ん?」
「私はずーっと、兄さんの妹ですよ」
花のように微笑む瞬の笑顔に、一輝はああとだけ呟いた。



冥王は夜毎やってくる。
「瞬、会いたかったぞ」
春の夜は徐々に短くなっていく。冥神たるハーデスがどんなに望んでも変えることが出来ない神々の摂理。元始の神が決めた世界の理にはハーデスも逆らう事が出来ない。
瞬は冥王の手をとった。
「こんばんわ、ハーデス」
「…そのような他人行儀な挨拶はつまらぬな」
「じゃあなんて言えばいいんです?」
逆に問われたハーデスは瞬に手を握られたままうーんと考え込んだ。
「おかえりなさい、が良いな」
「…なんで」
「なんでって、余は冥府できちんと仕事をして、そなたのところに来ているのだ。妻が夫を迎えるのだからおかえりなさいだろう?」
「いつの間に妻になったんですか」
流石は神、都合の悪いことは聞こえないらしい。彼は黙ってじーっと瞬を見つめた。
「…分かりましたよ、おかえりなさいって言ってほしいんですね?」
瞬は諦めたかのようにため息をついた。
ハーデスと星矢は、どうやら似ているらしい。ついつい甘やかしてしまうのはきっと同じようにまっすぐ見つめて来るからだと思う。素直なところも本当にそっくり。
「…おかえりなさい、ハーデス」
「うん、やはり心地いいな。ただいま、瞬…」
長い黒衣の袖でくるりと少女を包み込んで、ハーデスはその額に口づけた。
愛しいと囁かれるたびに、蕩けそうになる心。
冥王と聖闘士である少女の恋、まだまだ前途は多難だけれど。
「瞬…余はそなたが愛しい。なによりも、愛しい…」
心地よい響きで伝わる愛しさを今はなによりも大事にしたくて。
だから交わす口づけもいつの間にか自然になっていく。
「ねぇ、ハーデス」
「ん? なんだ?」
「私を、ずーっと大事にしてくれますか?」
「無論だ」
きっぱりと言われたので、瞬はなんとなく嬉しくなった。
「さ、眠る支度をするがよい。今宵も添い寝をしてやる」
「起きててもいいんですよ?」
ハーデスはちょっと考えた。昨夜の冒険めいたデートはとても楽しかった。だけど瞬は聖闘士といえども生身の人間、やっぱり心配だ。
「真夜中のデートは、ときどきでよい。もちろん毎夜に越した事はないが…余はそなたの寝顔も好きだ」
優しさを自負する冥王は我慢もちゃんと知っている。
誰かがやられねばならぬなら、閉ざされた冥府にあっても神としての役目を果たすのだと聞かされたとき、そう語った彼の顔を思い出して。
そんな優しさに甘えるのも悪くない。
「この世界にあなたとふたりだったら、いくらでも甘やかしてあげるんですけどね」
「そーゆー世界がいいなら今すぐ作るぞ」
「ほんとにやったら怒りますよ?」
「…冗談だ」
一拍おいた台詞に瞬は一瞬本気だったろうと察した。





それほどまでに望まれる、自分という存在。





桜が教えてくれるのは結局なんなのだろう。
そんなことを考えながら、瞬は今宵も冥王の腕で眠りにつく。





≪終≫




≪深く反省≫
ときどき忘れそうになる一輝兄さんをさりげなく封入。星矢×瞬も混ぜられていやっほーい。
桜の下の星矢と瞬、ハーデスと瞬を書きたかっただけという野望は達成されたので満足だ(*´д`)
なーんかあれだな、カノンがな。うん。
今度はカノンとデートだ、うん。注: 文字用の領域がありません!

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