ただ明日のために




殺してください



「…本気で言っているのか?」
「本気だって言ったら、殺してくれますか?」
カーテンの向こうから差し込む月明りさえ、目の前の乙女を優しく包むというのに。
柔らかい唇から漏れるのは『殺してくれ』のひとこと。
男はそっと目を閉じた。
「正気とは思えぬ」
「正気ですよ、そして本気です」
乙女は俯いて、髪をかき乱しながら顔を覆った。
「…辛いんです。生きてるってこと…私が、私であるってこと…」
亜麻色の髪が悲しげに揺れる。
「瞬…」
「ハーデス、あなたにならできる。冥府の王であるあなたなら…」
「余に、妻殺しをせよというのか」
同じ色をした瞳が揺らめく。
夢にうなされた乙女を起こしたのがことの始まり。
いつものように夜の逢瀬に参じたハーデスは普通の人間の体を持つ瞬にあわせて深更には彼女を腕に抱いてベッドに入っていた。
彼女は変わらぬ笑みを浮かべてこの腕の中で穏やかに眠りについた。
亜麻色の髪を指に絡め、白い頬をなでる。
瞬はくすぐったそうに笑って、目を閉じた。
それなのに。
それからほんの数分後、瞬はうなされだした。
「…瞬?」
「…して…ゆ…る……」
懺悔のようなうわ言をいい、身を捩る。うっすらと汗をかき、ぽろぽろと涙を流す。
「んっ…」
「瞬、瞬!」
恋人のただならぬ様子にハーデスは慌てて彼女を揺り起こした。
「瞬…しっかりしろ」
「ごめんなさい…」
そう呟いて、瞬はゆっくり目を開けた。



死なせてください



「…できるわけがないだろう」
「どうしてです? あなたは冥府の王、死の神…」
「何故、死に急ぐ?」
ハーデスの言葉に瞬は顔を覆った。亜麻色の髪が何もかも覆い隠してしまう。
「夢に見るんです…」
「夢?」
瞬は僅かに頷いた。
「これまで、私が傷つけた人たちの…夢…」
彼女が聖闘士として神の名の下にふるってきた鎖と拳。傷つけたくないと言っていたのに何人も何人も傷つけた。
なんて偽善的で、愚かなアンドロメダ。
バルロンの鞭に巻かれた数が、罪の重さ。
瞬の声が涙に滲んだ。
「私…今とても幸せです。兄がいて、友がいて、大好きな人たちがいて…あなたに思われて。とても幸せです。でも…」
「でも…なんだ」
「私は、幸せになっちゃいけないんです…」
傷つけて、命を奪ってしまった人たちのために。
「聖闘士になんて、本当はなりたくなかった。普通の女の子として、誰も傷つけないで生きていたかった…。私は…私は…」
「生きていてはいけない、というのか」
「殺してください……この身体も魂も、すべて壊してください…」
ただそう哀願するだけの少女に、ハーデスはふうと息をついた。
「本当に殺してほしいのか」
「あなたにしかお願いしません」
「…愚かな」
ハーデスは瞬の肩をつかんで乱暴にベッドの上に投げた。そのまま馬乗りになり、彼女の首を絞める。
その瞳にはなんの感情もなかった。
「くっ…」
「そなたが望んだことだろう。楽に殺してやる…」
神の指がきり、と瞬の細い首を絞めた。
首、というよりも顎に近い部分に力を込めるだけでいい。
「かっ…はっ…」
「どうした? まだ逝けぬか」
「う…」
瞬の手は、無意識のうちにハーデスの腕を掴んでいた。
「何を逆らう。余はそなたの望むままにしているというのに」
だが、言葉とは裏腹にハーデスは安心さえしていた。彼女の奥底はまだ生きたいと願っている。
自分の腕に爪を立てられる前に、ハーデスは瞬の首から手を離した。
瞬は横たわったまま、肺の奥まで新鮮な空気を入れようと荒い呼吸をしている。
「すまぬ、瞬…」
「どうして、最後までやらなかったんです?」
「そなたこそ何故逆らう。そなたは余の腕に爪を立てようとした。そなたは死にたくないのではないか? だから余はやめた。もともとそなたを殺すなど、気が進まぬ」
ハーデスはそっと瞬を起こし、その胸に抱きいれた。そして涙でぬれている瞬の頬をその手で拭う。
「ハーデス、私は…」
「少し外へ出ぬか」
何か言おうとした瞬の言葉を遮るように、ハーデスは言った。
瞬はきょとんとしてハーデスを見つめた。泣いていたせいで視界が少し歪む。
「…どこに行くんです?」
「…宇宙(そら)へ」
言い終わらないうちに、ふたりの姿は消えていた。



生きていたいんです



「もう目を開けてよい」
ハーデスに促されて瞬は恐る恐る目を開ける。
足下に地はなく、頭上に空はない。
あるのは浮遊感――はるか彼方から古の光を放つ星々が無数に見える。
「ここは…」
「宇宙(そら)だと言っただろう」
ハーデスの腕の中で瞬は驚きを隠せないままあんぐりと口を開けた。
「あの…私、平気なんですけど…」
宇宙は真空、何の装備もなくここにいれば呼吸はおろか肉体の保持すら出来ない。
「そなた、余が神である事を忘れてはおらぬか?」
「…忘れてました」
瞬が素直に白状するとハーデスは苦笑して見せた。
「まあよい、余はそなたのために神として出来ることをしないと決めたのだからな」
ハーデスの手が、泣き濡れた瞬の頬をなでた。すっと涙の後が消え、白磁の頬が蘇る。
「気持ちいいです…」
「ん?」
「あなたの手、冷たくて気持ちいい…」
火照った顔に優しい感触。瞬は小さく微笑んだ。
「やっと笑った」
言われて瞬はあっと小さく声を上げた。そして少し恥ずかしそうに口元を覆う。悪夢にうなされて、困惑して、死にたいと願ったことを急に恥ずかしく思った。
「ごめんなさい、ハーデス…」
「落ち着いたなら、よい…」
ハーデスはゆったりと着流した黒衣に瞬を包み込んだ。額をこつんとあわせ覗き込めば瞬はさっと顔をそらした。
まだ幼い少女はそのように見つめられる事になれていない。
しかも先ほどの醜態のあとではたまらない。
けれどハーデスはそんな彼女の動向を小さく微笑んで忘れる事にした。
「気持ちいいとは生きたいということだ」
見よ、とハーデスの指先がある星を示す。この太陽系で水を湛える唯一の惑星、命の星・地球。
「あそこにどれだけの命があると思う。人間だけで60億だ。動植物まで数えるとそれこそ人間の言う天文学的数字というやつだ。瞬……あの星に生きるものの中で罪をひとつも犯さずに生き、そして死んでいく命がいったいいくつあると思う?」
「それは……」
「そなたやアテナの受け売りではないぞ。いいか、ひとつとしてない。どんな生き物も罪を犯さずに死ぬものなどない」
「だけど、私の罪はそんなものじゃない! 私はこの手で……命を奪った。手を汚した……」
「この手のどこが汚れている」
ハーデスは瞬の手に口づけた。
「白く柔らかく……そして犯した罪を悔いることが出来る、祈りの手だ……」
「ハーデス……」
「本当に汚れた手、穢れた魂とは、自身の罪を罪と思わぬもののそれを言うのだ」
冥王ハーデスは死の神だ、死者の魂を裁くのが彼に与えられた神としての役目だった。
だが死者すべての罪を暴きはするが、すべてに重罪を与えているわけではない。些細な罪は些細な罰を持って洗い流し、次の命へと送り出す。
瞬にそこまで話さないのは彼女がただの人間だからだ。
巡る命の果ては神の領域。
ハーデスが瞬に見せているのはごく僅かに過ぎない。
「そなたは自分の罪をちゃんと受け止めている。そしてその身が滅んだとき、罰は甘んじて受け入れるとルネの前で言ったな」
「はい」
冥府の奥にいたハーデスは近づいてくる器の気配を感じながらそのすべてを見つめていた。
「……そなたの罪は余がすべて洗ってやる。だから安心して嫁いで来るがよい」
「なんでいきなりそうなるんですか」
「それが余の願いだからだ。いいだろう、宇宙でプロポーズなどそんじゃそこらの男には出来ぬぞ」
「そりゃそうですけど……」
それでも瞬にはうれしかった。気にするなとも忘れろとも言わず、その罪の意識を大事に生きろと言ってくれた彼の言葉が何よりの慰めだった。



愛してください



聖闘士として生きる自分だから。
「これからも、生きていく限り罪を犯していくんですね……」
「もっとも愚かな罪は神を敬わぬ事、意味もなく命を奪う事、自ら意味もなく死を望む事……」
「ハーデス……」
「生きろ。余は生きているから……命あるからそなたを愛した」
瞬はきゅっとハーデスに抱きついた。
冥王も瞬を抱き返す。
「あとはなにが見たい? せっかく宇宙(そら)に来たのだ。見たいものを見せてやるぞ」
急なデートになってなんか嬉しそうな冥王に瞬は少し考えて言った。
「M31」
「……なんだそれは」
「わかりませんか? アンドロメダ銀河ですよ」
「メシエ番号で言うな。一瞬何かと思ったぞ」
「すみません」
男女の恋の駆け引きには滅法弱いくせにさすが神様、メシエが何たるか心得ておいでだった。
冥王は瞬をしっかりと抱き寄せ、目を閉じる。
少女の小宇宙と同調する銀河の位置を地球と太陽の位置関係から正確に割り出した。
「行こう、そなたの銀河へ」
冥王の腕の中の少女はこっくりと頷いた。ハーデスは小さくけれど優しく微笑みかける。
「余はそなたのために何でもしたい……」
許され、望まれ、そしてあなたが幸せになれるすべてを。
そして自分が望んでもいいなら、ほんの少しでいいからお返しをしてほしい。
笑顔でも、キスでも。
大いなる意志のもとに定め、出会った神と少女。
最高の片思いを、いつか永遠より永い未来へと続く愛へ。
冥王は翔んだ――背中に漆黒の翼を見せて。
「翼があったんですか?」
「気分だ。このほうが宇宙(そら)を飛んでいる気がするだろう」
何かから守るように自分の袖に瞬を包んだ。
瞬には冥王の黒衣しか見えなかったが、それだけで十分だった。高貴なる神の鼓動はアテナの血と同じように瞬を少しずつ解きほぐしていく。
「嘘みたいですね……」
「何がだ?」
「あなたが私をのっとって、私があなたを殺そうとしたこと……」
「余は本気で地上を滅ぼすつもりだった。余は世界を愛していたから……壊れていくのが許せなかった。けれどそなたはそんな地上でも愛そうとした、まだ守る価値があると。そなたの体内にいて、余はそれを強く感じた。一時はそなたたちに敗れはしたが……余は愛たるものを得た。それだけでも価値はある」
「それは私も一緒です。あなたが私の中にいたとき、あなたがどんなに世界を愛していたか知りました。だけど……」
「聖闘士であるそなたと相容れる事はなかったな」
「じゃあなんで、今はこうしているんです?」
「言ったであろう、余は愛を得た、と。そしてそれをそなたに向けたいと思った。そなたの優しく暖かい魂に」
体は所詮、器。見せ掛けの仮住まい。
だけど魂は違う。
戦うためだけに触れ合った魂だけど、時を越えて結びつくには十分すぎる出会い。
「そなたのすべてを忘れられなかった」
「ハーデス……」
「だからもう、死にたいなどと言うな」
犯した罪を悔い、流す涙を強さに変えて。
瞬はハーデスの体に回していた腕にほんの少しだけ力を込めた。
不思議なほどこの神にだんだん心惹かれているのに気づく。
いつも全力で盲目的なほどに自分だけを見つめてきて、ときどき子犬のような目で寂しいと言う。
だけどその寂しさに同情するのは愛じゃない。
戦士として自分が持っている苦悩に彼が同情こそすれ、甘やかしはしなかったように。
「着いたぞ、そなたの銀河――アンドロメダ銀河だ」
「これが…」
アンドロメダ銀河は神話の王女を縛る鎖として星図の中に描かれ、人の手によってM31と名づけられた。
鎖状銀河の代表例として秋の夜空に名高い。
生命の奥底から湧き上がる小宇宙と目の前に広がる銀河がリンクする。
瞬の薄紅色の小宇宙に呼応するかのように銀河が咆哮した。
「おいで」
ハーデスの腕の中から瞬がすっと手を伸ばす。その細くたおやかな手に握られた白銀の鎖は銀河の欠片、アンドロメダの星雲鎖。銀星砂を煌かせながら主たる少女に身を寄せる。
その美しい姿には冥王でさえも目を奪われた。
戦うことを拒めなかった少女はその鎖でその手に抱えられるすべてを守ってきた。
「……美しいな、瞬」
「ハーデス……」
瞬は鎖から手を離し、銀河に戻した。
「美しい。生きて、そうしているそなたは誰にも負けぬ」
ハーデスの言葉がどんどん染みて、瞬はまた泣きたくなった。
でも泣かなかった――笑おうと、思ったから。
戦うことが辛いから、生きていくことは罪だから壊れたい、死にたいと願うことは自分を愛し、守ってくれた人たちに対する最低の侮辱だ。
「そういえば……」
「ん?」
「カノンも言ってました。戦いの真っ最中で疲れたとかぬかすなって」
「カノンか」
恋敵の名が出て冥王はむっとして見せた。
悪かったかと思ったけれど、でもカノンの言葉も真実だからと瞬はそっと冥王に寄り添った。
「生きることは罪の連続だけど、その罪に押しつぶされないように戦うことでもあるんですね……綺麗事かもしれないけど」
「よいではないか、綺麗事でも」
何度も何度も、抱きしめて、そして囁いた。
「生きろ、瞬……」
「はい……」
「余はそなたが何よりも愛しい……」
互いに抱き合って、ひたすら最高の瞬間を慈しむ。



ただ明日のために



瞬はゆっくり目を開けた。
いつものように冥王の腕に抱かれてベッドの上にいた。
窓の外に朝の気配は見えない。
(夢……だったのかな)
もぞもぞと体を動かし、ハーデスの胸元に身を寄せる。背中に回されていた手がぐっと自分を引き寄せた。
「きゃっ」
「ふふふ。夢ではないぞ、瞬」
ごく近く、唇が触れそうなほど近づいてきた冥王の顔に瞬は思わず身を反らす。
「こら、逃げるでない」
「すみません、思わず……」
優しいキスなら何度も交わしてきたのに、と瞬は思う。だけどベッドの上ではそれも何か気恥ずかしい。
「何が夢じゃないんです?」
「宇宙(そら)のデート」
そういうと冥王は寝そべったままごそごそと身をあさり、小さな石を取り出した。
「なんです、これ」
「拾った。そなたの銀河の一部。余のそばから離れたがらないのがおってな、思わず連れて来てしまった」
これが瞬ならどんなにいいだろうと、冥王は密かに思う。
その冥王の言葉が嘘ではないことが瞬にはすぐに分かった。確かにそれはアンドロメダ銀河を為していたもののひとつ、瞬の小宇宙に反応するかのように淡く薄く紅色を放つ。
瞬は彼の隣に寝たまま、それをじっと見ていた。
「これは余が持つ。そなたが嫁いでくるまでこれをそなただと思うことにする」
「なんか最近、プロポーズが強引じゃありません?」
「押して押して押しまくれと本物の蟹座が教えてくれた」
本物、と銘打たれたということはそれは間違いなく蟹座の黄金聖闘士であるデスマスクを指す。冥王は何の嫌がらせかそれとも天然なのか、カノンのことを蟹座と間違えている。
カノンは双子座の黄金聖闘士で、現教皇であり同じ双子座の黄金聖闘士であるサガの双子の弟だ。
(多分、嫌がらせだ……)
いくら恋敵でもちょっとひどくないかと思いはするがたしなめたところで冥王のこと、分かったと頷くだけで改めはすまい。
「ねえ、ハーデス」
「んー?」
「あなたの翼、もう一度見せてくれませんか?」
瞬の言葉に、冥王はちらと彼女を見てから一緒に起き上がった。
「望むなら」
ほわっと冥王の黒衣の一部が浮き上がり、美青年の姿をした神の背中に翼を作る。
漆黒の羽根が6枚、それが冥王ハーデスの翼。
ばさ、と動かすとふわりと羽根が落ちた。瞬がそれを拾い上げる。
「綺麗……」
瞬がそっと羽根を撫でるときらりと光を弾いた。その羽根を抱いたまま、瞬が冥王の胸に飛び込んだ。
「その翼で包んでもらえます?」
「容易いことだ」
ふわりと優しい音を立てて、冥王の翼が瞬を包む。
瞬はうっとりと目を閉じた。
「……気持ちいい」
冥王ハーデスは本来とても優しい神で、それは神話の端にも見える。
ただ人が己の罪を認めずに彼の科す死後の罰を恐れ、最終的には彼自身を『死』として畏れることになったのだ。
たった、それだけのこと。
アテナの聖闘士でありながら冥王を擁護するなどと、それはあるまじき姿なのかもしれない。
けれど命あるもの故に冥王と彼の住まう冥府と、命の輪廻から逃れることは出来ない。
「こうしてあなたの翼から出たら……きっと生き返ったような気分ですね」
「余は卵を孵す親鳥か」
「うまいこと言いますね。そうかもしれません」
兄の腕は鳳凰の翼、熱くて激しい、けれど逞しい炎の翼。
冥王のそれは闇の色、命の底を巡る深き真実と元始たる胎の闇。
瞬の手が、冥王の頬に触れた。
「あなたには慰めてもらってばかり。私のこの手でなにが出来るわけじゃないのに」
「それは心配には及ばぬ。そなたが嫁いできたときにまとめて余を慰めてくれればよい」
こんなふうに、とハーデスは雛のように身を丸める瞬の額や頬に唇を当てた。
長い黒髪がさらりと瞬の頬を擦り、唇が雨のように降ってくる。
「やだ、くすぐったい……」
「そなたはいつもくすぐったいと言うな」
「あなたの髪が首もとをくすぐるんですよ」
「そうか」
ふと首筋に見えるのは消えかけた刻印。だいぶ薄くなったと指先でなぞる。
「……つけ直します?」
「……よいのか?」
「今日のお礼に」
そういうと瞬は少しだけ襟元を寛げて、それから腕を伸ばして冥王の頭を抱いた。
「どうぞ」
「うん……」
ささやかな情事を隠すようにハーデスは翼を大きく広げて自分ごと瞬を隠した。
随分大胆な礼だとは思うがここで引き下がっては神が廃ると、冥王はそっと首筋に口づけた。瞬の体がぴくんと揺れた。怖がらせないように、怯えさせないように腰の辺りをしっかりと抱いて優しく食んでいく。
乱暴にする必要はない、愛しいから愛しいと刻む印には優しさがあればいい。
「んっ……」
押し殺したはずなのに漏れそうな声を隠すように握られた拳を口元に当て、小刻みに震える瞬はまだ少女。
それを忘れてはいけない。
これまで重ねてきたすべてを時に被せて、瞬という存在を少女から大人へと揺らめかせる――清らかな可憐さと危うい妖艶さを併せ持って。
ほしいと望むのは簡単、奪ってしまうのも簡単。
けれど今はまだその不安定さを可愛いとも思うから、冥王は持てる限りの理性を持って瞬を抱かない。
抱かない代わりに愛しいと囁き、抱きしめ、口づける。
冥王はそっと唇を離した。
そして少女を閉じ込めていた翼を開く。
左側に口づけたのはそこが心臓を、心を通るから。
「もう、いいんですか…?」
「ああ……またしっかりつけた」
ぺろりと舌先でやめると、瞬がひゃんと声を上げて身を竦めた。
そんな瞬がやっぱり可愛くて、ハーデスはそっと襟元を直してやる。
「余が好きか?」
「嫌いなら一緒にはいません。私は……あなたが好きです」
「それでよい。神とは往々にして欲張りだが、余はそなたに嫌われたくないから、それでよい……」
「ハーデス……」
「我慢も大事だと蠍座が言っていた」
冥王は音もなく翼を元の黒衣に戻した。
「もう少し眠ってよい。朝はまだしばらく先だ……襲わぬから」
「そのへんは安心してます。あなたは優しくて律儀だから」
瞬は小さく笑みをこぼすとハーデスの頬に軽く口づけてそっと横になった。冥王を見つめる瞳にほんの少しのイタズラっぽさを含ませる。
「おやすみなさい……」
「う、うん…」
もしかして試されているんだろうか、と冥王は思う。瞬は目を閉じた途端すやすやと寝息を立て始めた。
(これはなかなかに試練だな……)
でも瞬の悲しく乱れた魂はいつもの穏やかさを取り戻し、ろうそくの炎のように健やかに煌いている。
「瞬……」
亜麻色の髪をそっと撫でて、冥王は言う。
「余はそなたが笑ってくれるならそれでいい……」
今はまだ深更、生命は眠りの中で明るい未来を夢見ている。



ただあなたのために



翌朝、冥王はいつものとおりに冥府へ戻った。
その手にしっかりと銀河の欠片を握っている。
「流石に宇宙(そら)はサービスしすぎたか……」
惑星を直列させるほどのことではないし、ましてや地上から飛んだ。そして自分は神だ。しかし冥府で長いこと寝ていたハーデスは久々の宇宙に少し疲れたようだ。
それでも足元はよろめくことなく、彼は玉座に腰を下ろす。
傍らに現世の姉であるパンドラが控えた。
「お戻りなさいませ、ハーデス様」
「うむ、今戻った……が、パンドラよ、余はしばらく神殿で休む。誰も近づけるな、よいな」
「はい……神酒などご用意いたしましょうか?」
疲れた様子を見せるハーデスを心配したパンドラが不安げに問う。ハーデスは微笑した。
「いや要らぬ。心遣いだけもらっておこう」
それだけ言うと、冥王はパンドラに微笑みかけて消えた。
エリシオンにある自身の神殿に着くと、彼は石造りの棺を見つめた。触れるととても冷たい。
「余はここで、ずっと瞬を待っていた……」
前聖戦から243年。出会えるその日を今か今かと待っていた。
13年前、瞬が生まれたときにその肉体を奪うはずだったのだが失敗した。
そしてやっと出会って、憑依して、でも拒絶されて、でもやっぱりと今度は恋をした。
彼女の温かさを知ってしまった今となってはこの棺で寝るのがとても辛い。
「瞬……」
独占欲だけではどうしようもないと分かっていても独り占めしたいと思わずにはいられない。
迷惑だろうがなんだろうが、愛してしまったのだからしょうがない。
ハーデスは蓋がしてある自分の棺に腰掛けて連れて帰った銀河の一部をそっと撫でた。
「これも、大事な思い出だ……」
春の桜の日に自分の髪に期せずしてくっついていた薄紅色の花弁も冥王の手で永遠を約束されてこの神殿に飾られている。
ハーデスの手がその宙石を透明な真球で包み込んで永遠を約束した。
それをじっと見つめて、愛しい少女の名を何度も囁く。
「愛しいのだ……愛しすぎてどうにかなってしまいそうだ……」
殺してほしいと泣き、あなたが好きだと笑う。
ハーデスはそっと目を閉じる。次の日没までそう遠くない時間なのにまさに一日千秋の思い。
さらに瞬を妃に迎える日となると。
「それは余の努力次第でどうにでもなる」
冥王はよしっと拳を握ると棺から降りて急いでジュデッカに戻った。
「パンドラよ!!」
「はいっ! なんでしょうか」
慌ててやってきたらしい冥王にパンドラは少し驚きながらも応えを返した。
「すぐに女性冥闘士を呼んでくれ。瞬への贈り物を選ばせる」
「かしこまりました」
初めての恋で何をしたらいいのかよく分からない冥王はパンドラをはじめとして女性冥闘士の意見を聞く事も多い。
未来の王妃を得るための作戦会議といったところだろう。
パンドラはゆったりと玉座に座る冥王を見て不思議な気持ちになった。先ほどほんの少しだけ見せた疲労の様子はどこへやら、今は煌々しい笑顔さえ見せている。
恋というものはこんなにも誰かを変えてしまうのだろうか。そして我が身を振り返るに、自分もそうだったのかもしれないと胸元に拳を握る。



優しい未来のために



ハーデスが選んだ贈り物は紅水晶のペンダント。
ローズクオーツと呼ばれるその石は恋の守り石。女性らしさを呼び、さらに劣等感や自己否定に苛まれた魂を救うとされている。
「喜んでくれるとよいが……」
「ハーデス様はどのような想いを込められます?」
「愚問だな、パンドラよ。瞬への愛しさに決まっておろう」
紅色のリボンを結んだ小箱を持った冥王は凛々しい笑顔で玉座を立つ。
「行ってくる」
「いってらっしゃいませ。ごゆるりと」
「……ゆるりとしたいが、夜は短い」
寂しそうにそれだけ言い残して、冥王は今宵も愛しい少女のもとへ。




乙女は胸に白い花束を――魂の安寧を祈って
男は背中に漆黒の翼を――望めばどこへでも行けるように



そしてゆるりと歩んでいこう――永遠より永い未来へ、ふたりで。
今はただ、明日のために






≪終≫





≪ただ私のために≫
私はいったい冥王様を何だと思っているんだろうと猛省する次第であります。
けど神様なんで何でもできる、このあたりは楽だと思う。うちの冥王様は瞬にベタ惚れです。
我慢することを覚えた理性の神です、冥王様。
『理性がある〜_| ̄|○ノシ』と笑われる冥王様ですが俺は愛してる。
こんなハーデス×瞬だけど喜んでいただければ惑星直列食らっても嬉しいです(*´д`)
注: 文字用の領域がありません!

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