天球儀の内側 星が描かれた球体をくるくる回して 俺はここ、私はここと探し出す 気まぐれに訪れたアンティークショップの店先に飾られていた天球儀。 真っ黒な球体に定められたとおりに金色の星を描いて銀色の線で繋ぎ、さらに純白の小さな粒が銀河をなしていた。 見れば見るほどそれは綺麗で、思わず手を伸ばしたほどだった。 88ある星座のすべてを写し取ったその仮初の夜空に惹かれたのはなぜだったんだろう。そんなことをぼんやり考えていると人のよさそうな老齢の店主が微笑みながら瞬のそばまでやってきた。 「気に入ったかい?」 「はい。とっても綺麗で……なんだか落ちつきます。なんででしょうね」 「お若いのにこれで落ちつくかね。変わった娘さんじゃのう」 店主は買い手がつかない売れ残りだから安く譲ってあげると言ってくれた。 瞬はその言葉に甘えて購入した。 胸元のローズクオーツが優しく光を反射する。 「……買っちゃった」 亜麻色の髪の瞬が手に下げているのは小さな紙袋。その中に収まっている箱を見つめて瞬はにっこり笑う。 特別にほしかったわけでもなかったのだけれど、じっと見つめているうちについ惹きこまれた。 「不思議な天球儀……」 探せばどこにでもあるものなんだろうに、不思議と手に馴染んだ。 両手で包めるほどの大きさの天球儀だった。 瞬はその天球儀をしっかりと抱いて城戸邸に戻る道をひとりで歩いた。 「ただいまー」 「お帰り、瞬」 出迎えてくれたのは黒髪も麗しい紅顔の美少年、龍座の紫龍。 ここに住まう5人はアテナの聖闘士だ。彼らは最下級の青銅聖闘士でありながら常にアテナとともに最前線にあり、幾多の敵と戦ってきた。 だが戦いが済めば普通の人間に戻る。ここはそんな普通が溢れている場所だった。 瞬もそんなアテナの聖闘士のひとり、アンドロメダを拝命する青銅聖闘士だ。 「星矢は?」 「おまえがいないんでご機嫌ななめだよ」 紫龍は少し意地悪そうに笑う。聖闘士最勇のペガサス星矢も瞬の前にはただのやんちゃな男の子だ。 「おやつの時間には間に合ってると思ったんだけど……」 「腹を減らしているから不機嫌というわけじゃないんだろうさ」 リビングに入れば紫龍の言葉通り、不機嫌を背負った星矢が膝を抱えていた。 瞬は微苦笑して星矢にゆっくり歩み寄る。 柔らかな亜麻色の髪を揺らしてふくれっ面した少年の横に腰掛けた。 「ただいま、星矢」 「今までどこ行ってたんだよー」 「お散歩だよ。ちょっとひとりで歩いてみたくなってね」 お散歩日和のいい天気だよと瞬は笑ったが、星矢はむーとむくれたままだ。 「なんで俺に黙って行くんだよ」 「だって星矢、お昼寝してたじゃない」 星矢が、ぐ、と言葉を詰める。確かに瞬のいうとおりだ、だけど。 「起きてきて瞬がいなかったら、いやじゃん…」 「星矢……」 ぽふ、と膝に頭を乗せてきた星矢の髪を瞬の細い指が撫でた。昨日洗ってあげたばかりの髪が柔らかく指を滑らせる。 星矢の髪は少し茶色かった。 「ごめんね、おやつは……今日はムリだけど、明日は星矢が食べたいもの作ってあげるから」 「またそうやって甘やかす」 「紫龍だって人のことは言えないよ」 ついつい甘やかしてしまいたくなるほど、星矢は無邪気で、そして誰よりも傷つき倒れても立ちあがってきた。 それがアテナに愛された神馬ペガサスの宿命かのように。 「……私は、星矢のこと好きだもん」 「俺も瞬のこと好きだよ。紫龍も氷河も一輝もみーんな俺の大事なひと」 同じ時代に兄弟として生まれてきた友はいつも運命さえ等しくした。 たったひとりの少女の、特殊すぎるそれを除いて。 瞬の膝枕で横になっていた星矢はようやく機嫌を直したのか、にこにこと笑い始めた。 「俺さ、みんなと一緒ですっげー嬉しい」 「私もだよ」 「俺もだ」 幼いころから一緒だった3人は穏やかな笑みを浮かべて互いを見つめた。 「ところで瞬、その袋はなんだ?」 「ああ、これ?」 紫龍の指したそれを瞬は丁寧に持ち上げた。星矢も興味があるのかひょいと体を起こした。 「食べ物?」 「残念ながら食べられません」 僅かな苦笑を溢しながら瞬は袋の中から箱を取り出し、さらに箱から小さな宇宙を取り出した。 「なにこれ」 「天球儀だよ」 見たままの恒星の配置を球面上に記しているそれはまさに小さな宇宙であり、地球儀の更に外側だった。 ギリシア神話の神々は己の気の向くままに夜空に星座として様々なものを祭り上げた。 それは神自身だったり、人だったり、動物だったり、物だったりした。 「俺は、どこ?」 瞬の手の中にある天球儀を覗きこむように星矢は自分の星を探した。ペガサスは13の星からなる秋の星座だ。 つ、と星矢の指が星を探すがうまく見つけられないらしい。 瞬は天球儀をテーブルに置くとくるりと天球儀を回転させた。黄道十二宮のひとつ、水瓶座と魚座の近くにペガサスはあった。 「星矢はこれ。で、すぐ横に私」 瞬の綺麗な爪先がまっすぐにペガサスを示すと星矢は嬉しそうな声をあげた。 ペガサスとアンドロメダは88ある星座の中でも星を共有する珍しい姿をしている。ペガサスの描く四角形のうち、北東角にあるアルファ星がアンドロメダの頭部に当たる。 神話のせいか、あるいは星の姿のせいか、ペガサスとアンドロメダの聖闘士は遥か神話の時代から行動を共にすることが多かったらしい。 そして現代においてそれをはっきり体現して見せるのが星矢と瞬だ。 「となりどうしだね」 「紫龍は?」 「俺は……ここだ」 北の天頂を昇る龍の姿は夏がいちばん美しい。その龍座から左下にちょっと下がるとノーザンクロスの白鳥座が見える。竜座と白鳥座はともに夏の星座だ。 「兄さんはどこだろ」 瞬がくるくると天球儀を回す。ここに暮らす5人は腹違いの兄弟だが彼女が兄と呼ぶのは同腹の一輝だけだ。 「あれ、兄さんいない…」 「そんなはずないだろう」 貸してみろ、と紫龍が鳳凰座を探す。鳳凰座は黄道を挟んで南天に、天球儀から言えばアンドロメダからまっすぐ降りたところにあった。ほかの四人から離れてぽつんと、けれど妹である瞬を見守るように灼熱の羽根を広げた姿ですぐ近くにいる。 「兄さんらしいや……」 瞬はしみじみと言った。 群れるのを嫌う兄が、今はずっと一緒にいてくれる。それは離れ離れになっていた一輝と瞬にとって何よりも嬉しいことだ。 手にしていた天球儀をそっと置いて、瞬は星矢に笑いかけた。 「さ、おやつにしようか。昨日沙織さんがプリン置いてってくれたんだよね。賞味期限今日までだから」 「プリン!」 おやつと聞いた途端、星矢は子犬の笑顔になる。 キャンキャンと吠えて尻尾を振り、飼い主の頬をぺろりとなめる小型犬の姿を重ねて瞬はこっそり笑ったことがある。 瞬はトレイに3人分を乗せてきた。 「氷河のぶん、食べちゃってもいい?」 「ダメ。氷河に聞いてからね」 甘やかしはするけれど必要なときはちゃんと叱る。こういうとき瞬は姉、星矢は弟という構図がはっきりする。 「じゃあ氷河に聞いてくる」 「俺の分を勝手に食うな」 星矢の髪をわしわしと撫でるのが白鳥座の氷河だ。彼はロシア人の母を持つハーフで、金色の髪とアイスサファイアの瞳を持っている。おとぎ話から飛び出した貴公子のような男だ。少年でもないが、青年とも呼べない独特の雰囲気を醸し出す。 「珍しい。お昼寝の時間じゃないの?」 瞬がくすくす笑いながら氷河の前にもプリンを置いた。 「お前たちがなんか騒いでいるから寝れなかった」 「別に騒いでたわけじゃないよ」 瞬は最後のプリンに油性ペンで兄の名前を書きながら言った。甘いものが嫌いな兄だが取っておかないと怒るから面倒だ。兄の分はどうせ星矢の腹におさまる運命なのに、と思いながら冷蔵庫の手前にしまう。 一輝はグラード財団主催のパーティーに出席する沙織の護衛に出ている。 「これは……?」 氷河の手が、ついっと天球儀を回す。 冷たい指先が水瓶座で止まる。 氷河の師は緋色の髪を持つ氷と水の魔女と呼ばれた、宝瓶宮は水瓶座のカミュだ。 「私が買ったの。なんか不思議と欲しくなっちゃって」 木製のアトラスに支えられる黒い球、今度は星矢が鷲座を辿る。 星矢の師は鷲座の白銀聖闘士、魔鈴――姉ではなかった、仮面の人。 さらに紫龍が黄道を辿り、天秤座を探る。 紫龍の師は黄金聖闘士、天秤座の老師――前聖戦を生き残った勇猛にして思慮深き虎。 最後に席に着いた瞬が王女アンドロメダのそばにいる父王ケフェウスを愛しそうに見つめる。 彼女の師は白銀聖闘士、ケフェウスのダイダロス――もうこの世にはいない、初恋の人。 広大な宇宙は水の惑星をその深い胸に抱いて今日もめぐり続ける。 命を運ぶ――だから、運命。 いつも一緒だから、と約束して少年たちは戦った。 手を離しても、口づけが一瞬でも、数奇な運命に弄ばれても。 「瞬……」 「もう食べちゃった?」 「うん」 しょうがないな、と瞬はひと匙すくって星矢の口元に運んだ。 「はい、あーんして」 「あーん」 「また始まった。瞬は本当に星矢を甘やかしすぎだな」 氷河が呆れながら言うのを瞬は面白そうに言い返す。 「紫龍と同じこと言うんだから。そんなに甘やかしてないつもりだけどね」 「瞬ー」 「もうダメ。私だって食べたいんだから」 「あとひとくちー」 「だーめ」 星矢はしぶしぶ引き下がった。あんまり駄々をこねると夕食に大嫌いなピーマンがどっちゃり、なんてことになりかねない。このへんは瞬のしつけが行き届いている。 「晩御飯はなにがいい? 今日は兄さんいないから星矢が食べたいもの作ってあげる」 うまく宥めたように見えたのも束の間、氷河と紫龍はやっぱりと心中深く囁いた。 でもそれが何故なのか、二人はちゃんと分かっていた。 星矢と瞬は幼い頃から仲がよかったし、瞬は星矢を弟のように可愛がっている。戦いの最中でもふたりは一緒にいることが多かった。 それにそう遠くない将来、瞬はここを離れることになる。 そうなってしまう前に瞬は彼女の持てるすべてで星矢を愛そうとしているのが分かるから、甘やかしていると分かっていてもそんなに強く止めることができない。 数奇な運命を持つ瞬はただの人間ではなかった。 瞬は冥王ハーデスの仮の器として選ばれた、いわば特異体質だったのだ。 地上侵略を目論むハーデスをアテナとともにこてんぱんに伸したはずなのに、現代の神の器たる少女のすべてを忘れられないと、冥王は夜毎に瞬に愛を囁く。 瞬も毎晩毎晩、律儀に付き合っている。 それだけで済むなら、瞬は冥王との特異な愛を育んで、時満ちれば彼の神の妻として冥府へ嫁ぐ事になっただろう。 だがそうはさせじと双子座の黄金聖闘士・カノンが冥王ハーデスに対して宣戦布告。事態は非常に面白い……いや、混迷を極める様相を見せている。 「そう言えば…」 「なんだ、紫龍」 「瞬が星矢を甘やかすのは以前からそうだが、ハーデスが来るようになってから拍車がかかったと思ってな」 天球儀を見つめ、紫龍が言う。 星はアンドロメダの少女に何を求めるのだろう、と。 「片付けていい?」 「ああ、頼むよ」 瞬が片づけをしている間、星矢はやっぱりこの天球儀を気に入ったのか、くるくると回して、牡牛座はこれ、双子座はこれ、射手座はこれと探している。 そして自分の守護星座であるペガサスとそのとなりに並んでいるアンドロメダを見つめて少年らしく笑う。 「俺、これ気に入った」 でもだからといってちょうだいとは言わなかった。 瞬が気に入って買ってきた天球儀は自分の手に余るような気がした。ときどき見せてもらえばいいや、くらいのお気に入り。おやつのあとのお茶を入れながら瞬は穏やかに笑って言った。 「星矢も気に入ったの? 少女趣味だって嫌がるかと思ったのに」 確かにその骨董的な造形ゆえに星矢のような少年はあまり好きではないかもしれない。 けれど星矢はその天球儀をそっと持ち上げた。 「だってこれ、みんな繋がってる……」 どこまで行っても途切れることなく、天球儀は星を表し続ける。 星矢の言葉が魂の奥に触れた。 天文を図に起こすにはいろいろな方法がある。だが地図と同じで平面に起こそうとすると中央の定め方によってはその中心から遠ざかるにつれていびつになったり、きちんと表されなかったりする。もっとも困るのはとぎれてしまうこと。利便性を求めたが故に途切れた地図では世界のつながりを感じない。 だけど、球は違う。 どこまでも繋がっていて途切れる事はない。ほんの僅かに球を支えている台座が邪魔をすることはあってもほとんど気にならない。 「そうか、だから私……」 アテナのもとに集う88人の聖闘士。現代においてそのすべてが集結することはなかったけれど、それでも地上の愛と平和のために戦おうとした心は時空を越えてひとつになった。 天球儀はそんな聖闘士たちを映し出す鏡。 その星座のひとつひとつが魂。 女神の深い御胸に抱かれ、果てしない刻を越えて美しき銀河は巡り逝く。 君と出会った奇跡を魂に刻んで。 瞬は星矢の隣に座り、天球儀をそっと抱き受けた。 「ほんとだ、繋がってるね……」 例えば、深秋の双魚と厳冬の双子星。 例えば、浅春の巨蟹と晩秋の山羊。 例えば、初秋の水瓶と盛夏の蠍。 季節の移ろいさえ関係なく望めば星はそこにある。 瞬は天球儀の北天にそっと唇を寄せた。 そこにいたのは、ペガサス。 対面にいた紫龍と氷河には見えなかった。 ただ切なそうに小さな星空を抱く少女の顔を不思議な感覚で見つめていた。 瞬はいつからそんな顔をするようになったのだろう、と。 「瞬…」 「なに?」 「俺それ好きだけどさ、それは瞬のだから。取り上げたりしないよ」 「分かってるよ」 瞬の僅かな憂いに気がつかない星矢は子供っぽい言葉で彼女の心を掬い上げた。 その幼さが場を救うこともある。 瞬は大事そうに天球儀をテーブルに置くと元気よく立ち上がった。 「さ、夕飯のお買い物に行こうか、星矢」 「行く行く。あー、でもピーマンは買わないからな」 「買います。絶対に買います」 「俺の好きなもの作ってくれるって言ったじゃん」 「それとこれとは別ですー」 リビングの外からひでーという星矢の声が聞こえてきて、氷河は微苦笑して見せた。 「一人くらい子供っぽいがいたほうがいいのかもしれんな」 「瞬のためにか?」 紫龍はその瞬が入れてくれた琥珀色の紅茶を見つめた。 「瞬にとって星矢が弟なら、それは俺たちにとってもそうだ。そして……瞬は俺たちの妹だ」 「氷河……」 ほんの少し先に生まれたから、一輝は15歳、紫龍と氷河は14歳。 そして星矢と瞬は13歳――そう、まだ瞬は13歳なのだ。 それなのにいい年をした冥府神と黄金聖闘士はそんなことはお構いなしとばかりに少女を愛し、困惑させる。 だが星矢のような無邪気な存在が瞬を普通の少女に戻している事実も否定できない。 瞬が表情をふっと変えるのはおそらく恋のためだと、僅かに年上の少年たちは察しをつけた。 「瞬がもう少し…せめて15くらいならすぱっと決められるのかもしれんがな」 「年齢の問題じゃないだろう。瞬は優しすぎるんだ」 聖闘士をやめさせたいと紫龍に思わせるほどに瞬は優しい少女だった。 それは氷河にも覚えがある。大恩ある師カミュの凍気によって仮死状態にあった自分を、我が身を省みることなく救ってくれたのは瞬だった。それもひどく傷ついている紫龍と星矢にはさせられないからと、ふたりを先に進ませて。 「冥王と、カノンと……瞬は分かっているんだ。だから辛いんだ」 「星矢のことも、だろ」 「自分がどっちを選んでも、星矢を置いていく事になるからな……」 いつか離れなくてはならない姉弟だと分かっていても、今の瞬にそれは出来ない。 「星矢だけの瞬じゃないんだ」 瞬だけの瞬だから。 友として、兄弟として年若い少女の幸せを願うのなら。 「瞬離れさせないといけないんだがなぁ……」 「当分は無理だな」 「……もうひとり。させないといけないぞ」 紫龍の言葉に氷河がああと頷いた。 浮かんだ顔は同じ顔――鳳凰座の聖闘士、瞬の同腹の兄、一輝。 「ただ、な……」 紫龍の絹のような黒髪がさらりと揺れる。その指先が天球儀を回して秋の北天を氷河の前に向けた。 「ペガサスとアンドロメダを引き離すのは、容易ではなさそうだ」 「……なるほど」 氷河はソファの背面に背中を預けて天を仰いだ。 その星の描く姿は瞬に無邪気に抱きつく星矢の姿に酷似していた。 季節が春から夏へ、少しずつ変わっていく。 夕食とその後片付けを済ませた瞬は天球儀を持って自分の部屋に戻った。 ベッドサイドに飾っていた白い花を退けて天球儀を置く。 日が完全に落ちないので、冥王はまだやってこない。 「繋がってる……か」 首から提げていたローズクオーツのペンダントをはずし、架空の宇宙のそばに置く。 淡い薔薇色の鉱物が恋の守り石だと教えてくれたのは魚座のアフロディーテ。彼女も14歳のとき、同じ黄金聖闘士である双子座のサガと恋に落ちた。 アフロディーテは言う。 『ふたりの男を愛する事は罪じゃない。大事なのは自分の気持ちに素直であること……』 サガの中に住まっていた正義の彼と、邪悪の彼。 そのどちらも愛し、愛さざるを得なかったアフロディーテは瞬の恋を羨ましいとさえ言った。 そのときもらった黄色い薔薇の花言葉は『嫉妬』。 深い意味はないよと彼女は笑ったけれど。 『結局私はどっちのサガも救えなかった……ううん、救おうとさえしなかったのよ』 何を持って救済とするのか、それさえも分からない。 たとえサガがアフロディーテの存在に救われたと言っても彼女自身はそう思わない。 ただ彼のそばにいて、彼の言うままに動いた――それが愛だと信じた。 正義の彼を愛したから、黄金聖闘士でいた。 邪悪の彼も愛したから、彼の邪魔になるすべてを壊した。 『でも後悔なんかしてない。それが私には愛だったんだもん……』 瞬の中でアフロディーテの言葉が蘇る。 「私の、愛……」 私は一体、誰を愛しているんだろう。 一輝兄さんも星矢も紫龍も氷河も、愛してる――それは兄弟愛。 黄金聖闘士のみんなも――それは敬愛、そして同志愛。 アフロディーテがサガに捧げたその純粋で強い愛と同質のものを、私は一体誰に向けるんだろう。 そしてその相手を選んだとき、一輝は、星矢はどうなるんだろう。 「…………っ」 瞬は両手で顔を覆った。 分からない思いでいっぱいになった心から溶けた涙が瞳からあふれ出した。 そんな瞬を冥王はゆっくり抱きしめた。 「瞬……」 耳元に囁かれた己が名に、瞬の体がびくりと震えた。黒い衣の裾で彼女の涙をそっと拭う。 「……何を泣いている」 「分からないことが…っ……多すぎてっ…」 瞬はハーデスの腕の中でくるりと方向を変え、顔を見られないように強く抱きついた。 濡れていく胸元も構わずに神たる男は少女を宥めるように抱きしめた。 瞬の小宇宙が、小さく悲しく弾けたのを他の三人も感じていた。 「瞬……」 心配そうに席を立とうとした星矢の腕を掴んだのは紫龍。 「なにすんだよ」 「瞬のところへ行く気か?」 質問を質問で返されたのも気に入らないが、それ以上に瞬のところに行くなというのが気に入らなくて、星矢は紫龍の手を強引に振り払った。 「落ち着け、星矢」 「でも瞬は女の子なんだぞ」 「だがひとりの人間だ」 若き龍の瞳が星矢を鋭く射抜いた。その力に圧倒されるかのように星矢はもといたところに腰を下ろす。 泣いている女の子を放っておくこと出来ないと、ましてや瞬が泣いているのならと星矢は気が気ではない。 「……お前が瞬を心配しているのは分かる。それは俺たちも同じだ」 紫龍の視線の先にいた氷河も頷いた。 「瞬だって女だ、お前の言うとおりにな。だからいつか離れていく」 「氷河……」 「そして俺たちも。いつか自分だけの愛する人を見つけて、その人と共に生きるんだ……」 「紫龍……」 13歳の少年に酷な事を言っているのかもしれないと、ふたりは思った。 だけどこのままでは瞬は星矢を思い続けて、誰とも幸せになれないかもしれない。 そして星矢自身も瞬を女として幸せにすることは出来ないまま終わる。 姉弟として甘え、甘やかすのは構わない。 だけど大人としての未来はそれを許さない。 「……俺は、瞬にとって邪魔なのか?」 「そうじゃない。そうじゃない星矢。お前も瞬を好きなら今はそっとしておけと言っているんだ」 永久に別離を知らぬ星でいられたら。 けれど時の流れと共に星図は移ろい、星は命を終えて姿を変えていく。 「瞬……」 星矢はそれだけ呟くと膝を抱えて俯いた。その両脇に紫龍と氷河。 「朝御飯に好きなもの作ってやるから元気出せ」 「お前が作るんじゃないだろう、氷河。作るのは俺と瞬だぞ」 紫龍のツッコミに星矢は少しだけ笑った。 珍しく嗚咽をあげて泣く瞬に、冥王は正直なところ戸惑った。 抱きつかれたので抱き返した。それしか出来なかった。 (ふがいない……神なのに) 最愛の少女が泣いているのに慰めの言葉一つ出てこない。 (ええい、うろたえるな冥王……) そう自分に言い聞かせて、ハーデスは瞬をそっとそっと抱き上げて、自分の膝の上に座らせた。 「瞬……」 彼女は答えず、ただぽろぽろと涙をこぼしつづける。 その涙の理由さえ教えてもらえれば何か出来るかもしれないけれど。 「瞬……」 呼びかけにやっと答えてくれたが、胸元の布をきゅっと握ったまま、瞬は顔をあげようとはしなかった。 ハーデスはその手にそっと自分の手を添えて握る。 何度も何度も深い玉音で呼びかけて、細い肩を抱いた腕を放さないで。 そうしてどれくらい経っただろう、瞬がやっと口をきいてくれた。 「ハーデス……」 「ん?」 「私は、本当は誰も愛せないのかもしれない……」 「瞬……」 瞬はまたぽろりと涙をこぼした。 「私が……誰かを愛して、その誰かと一緒にいたいと願ったら……そしたら、残される人はどうなるんだろうって……」 「だから誰も愛せないというのか」 「いっそ、愛さないほうが楽かもしれない……」 瞬の呟きに冥王は少女を支えていた腕に思わず力を込めた。 「痛っ……」 「確かに、愛さないほうが楽かもしれぬ。誰も……自分自身さえ愛さずにいれば、な。だがそれはいちばん悲しいことだ。そなたの周りの誰が、そなたにそのような悲しいことを望むと思う」 「ハーデス……」 冥王の深遠なる闇の瞳に瞬の姿が映る。揺れる心を見出すかのように。 「余は誰にも愛されなかった。父にも……王位が揺らぐ事を恐れた父に飲まれて……ゼウスに助け出されてからも余は冥府という闇の中で暮らし続けた。暗く寂しい地の底で、生と死を見つめて今日まで来た。余は……寂しかった。死の神と忌み嫌われても、命の輪廻を守るのが余の役目だったから、耐えた」 ぽつりぽつりと語られる冥王の心。 瞬はいつの間にか泣くのをやめていた。 「愛さないということは悲しいことだ」 「でも……でも私は」 「傷つかない愛などないのだ」 冥王の細い指が瞬の眦をそっと撫でた。僅かな涙が彼の指を濡らす。 「傷つかない愛も、傷つけない愛もない。そなたが余を選べばカノンは傷つく。カノンを選べば余は寂しい。そしてどちらを選んでもフェニックスとペガサスを置いていく。他の兄弟も置いていく。なあ瞬。余がそなたに言った事を覚えているか?」 「なんですか?」 「そなたの優しさはときに罪だ、と」 瞬は体を起こして、ハーデスの横に座りなおした。それでも彼は瞬の肩をやさしく抱いたままだった。 「そなたの周りのすべてを愛そうとする、それは優しさだ。けれどその優しさで自分を縛ってなんとする。確かにフェニックスもペガサスも、そなたがそばから離れれば寂しいには違いない。けれどそれはほんのいっときのことだ。そなたが余を選んで幸せになるように、他の兄弟も自分だけの誰かを選んで幸せになる……」 どさくさにまぎれてのプロポーズにも気づかないで瞬は彼の話に聞き入っている。 「そして、そなたたちは兄弟なのだろう、どんなに離れていても……」 「あ…!」 瞬の脳裏に星矢の顔が浮かぶ。天球儀を手にして星はどこまでも繋がっていると言った弟の顔。 ハーデスの手にいつのまにか瞬の天球儀があった。 ふわりと浮いて、くるりと球が回る。 正面にアンドロメダとフェニックスを据え、反時計回りにくるくると回す。 天球の季節を逆行させて星を探す、愛しい少女の愛しい兄弟たち――ペガサス、キグナス、ドラゴンを。 「アンドロメダとペガサスのことは余もよく知っている。小憎らしいほどにそばにおるな」 「あなたが私に憑依したときも、そばにいましたよ」 「フェニックスもすごい剣幕でそなたを取り戻しに来た」 ハーデスは再び瞬を抱き寄せた。 「あのときは、そなたを愛してはいなかった。だが今度は違う。余はそなたを愛している。愛しいと思う。その……順番は恐ろしく間違えたし、至らぬところもあるとは思うが……」 「ありがとうございます……」 「瞬……」 瞬はそっとハーデスの胸元に、今度は穏やかに身を預けた。 「思い込んでたんです、繋がってるから離れられないんだって。でもそうじゃない。繋がってるから、離れても大丈夫なんだって……」 優しさという鎖で我が身を縛りかけた少女を救ったのはペルセウスではなく、冥王ハーデス。 「ありがとう、ハーデス……」 鮮やかな薄紅色の小宇宙が穏やかに銀河を巡らせる。 少女は冥王にそっと口づけた。 闇の中ひとりで生きるのと、大事な人と離れるのと いったいどちらが寂しいのだろう 「おはよう、紫龍……」 ほんの少し寝坊した瞬は亜麻色の髪を手で整えながらキッチンにやってきた。既に日は昇っていた。冥王ハーデスは黙って帰ったらしい、彼女が目を覚ましたときにはもういなかった。 ただ、瞬の手に小さな星を握らせて――それは新しい約束。 少し赤い瞬の目元を気にするかのように、紫龍は手を伸ばす。 「大丈夫か」 「うん、大丈夫。ありがとう紫龍」 なにをすればいいのかと、瞬は紫龍の隣に立つ。まだはじめたばかりだからと瞬と紫龍は献立を決める事にした。 「……星矢が心配していた」 「うん……」 「瞬、星矢は」 「大事な弟だよ。大丈夫、分かってるから。私たちはそれ以上でもそれ以下でもないの。姉弟だって感覚がほとんどなくて育ったから……でも星矢もそう。私もそう。分かっててじゃれてるの」 「瞬……」 瞬は少し俯き気味にたまねぎの皮を剥いている。 また泣くんじゃないかと紫龍は瞬を見つめていた。 「多分、お嫁に行っても大丈夫だと思う。星矢はちょっと寂しがるかもしれないけど……でもその寂しさもすぐ忘れると思う」 この広大な宙に煌く星はそこに輝く限り永久の絆を約束している。 「いつだってそうだったじゃない。私たちはいつだって死に別れる覚悟をしてきたじゃない」 「……そうだったな」 戦神アテナを守護する聖闘士として幾多の戦いを経てきた。その中で彼らは何度も死に別れても兄弟だと誓いを立ててきた。 「死ぬわけじゃないの……私が誰を選んでも」 モイラたちが運命の糸を断ち切ってしまうその日まで。 「幸せになってほしいの。星矢にも氷河にも紫龍にも……一輝兄さんにもね」 「うん……」 「ちょっとだけ忘れてたの。『幸せ』のこと」 いちばん寂しがっていたのは自分だったと、瞬は苦笑して言った。 それを思い出させてくれたのが冥王だったのは流石に意外だったけれど。 「安心して泣ける人って実は意外な人で、それも意外とそばにいるよね」 「……俺はときどきお前が怖いよ」 「なんで?」 何でってお前、と紫龍は言葉を飲み込んだ。 おそらくどころではなく確信だが、昨夜瞬が縋って泣いたのは冥王その神に間違いないからだ。 神であるハーデスにその神としての力を行使させずに愛を注がせる、そうさせるだけの瞬という存在。 アテナの聖闘士でありながら冥府神ハーデスともつながりを持ち、そう遠くないだろう未来に冥府の女王になるかもしれないこの少女の何が恐ろしくないだろう。 だが瞬はハーデスと結婚を前提に交際しながらカノンの求愛を受け入れるか拒むかで悩み、それでいて星矢をたっぷり甘やかす。 瞬は今、女の子全開で生きている。 「紫龍、お味噌汁煮えちゃう……」 「あ、ああ……」 とは思いつつ、紫龍は安心していた。 起きてきた星矢に優しく笑いかけ、顔を洗いに行かせる瞬はいつものとおりだったからだ。 いつものように朝食を終え、それぞれが動き出す。 瞬は洗濯物を干していた。その隣に星矢がいて、今日は珍しく手伝っている。 「どういう風の吹き回し? おやつならリクエストにお応えしてクッキーの用意してあるけど?」 手伝いと言っても星矢は瞬に洗濯物を渡しているだけだ。 「瞬が心配だったんだ……昨日の、瞬の小宇宙、すっごく悲しかったから」 「星矢……」 「瞬はやっぱりハーデスが好きなのか?」 「……好きだよ」 春のあの日のように誤魔化さなかった。瞬の心は確実にハーデスを好きになっていた。 まだ『愛している』かどうかは分からなかったけれど、素直な心は彼を好きだと言った。 「私はハーデスが好きだよ。そして星矢も好き。紫龍も氷河も、兄さんもね」 「俺も、瞬が好きだよ。お嫁に行っても瞬が好き。瞬は俺のお姉さんでお母さんだから……」 「お母さんまでいっちゃいましたか」 「だっておいしいものいっぱい作ってくれるもん」 「その理屈でいくとお父さんは紫龍かな」 そばにいないひとつ年上の彼の顔を思い浮かべて二人はこっそり笑った。確かに紫龍は旦那さんかお父さんにしたい男性に違いない。 「俺、瞬には幸せになってほしい。だから寂しくても我慢する。ペガサスとアンドロメダはずっと一緒だから」 「……そうだよ、ずっとずっと一緒」 お互い遠く離れて暮らしても、心は絆はずっとずっと繋がっている。 星の定めたもとに、彼らは兄弟としてこの世に生を受けた。 「星矢がお嫁さんをもらっても、私は寂しいかもしれないね」 「なんで?」 「だってもう星矢を甘やかしてやれないもん。それは星矢のお嫁さんの仕事だね」 「気にしなくてもいいのに」 星矢はどこまでも子供っぽく笑う。瞬もどこまでも少女のように微笑む。 ふたりはやっぱり姉弟だった。 手を繋いで大人の階段を上って 登りきったら手を離して 天球儀の中に秘めたのは絆 永遠より永い未来へと願いを込めて ≪終≫ ≪とどのつまりのあとがき≫ 冥王×瞬で、青銅組。ひっそりといろんなカップリングを潜ませつつ、冥王×瞬であり、星矢×瞬だったりします。 なんか瞬が『自分がお嫁に行ったら…』って心配する娘だな、と。 今回は冥王様が男前だ、アホじゃない(コラ)。星矢はこれからもっといい男になればいいよ、うん。 もはや定番となりつつある紫龍と瞬の台所姿にも我ながら萌えてきた。 冥王様、あともうひと押しって感じだけどそうはさせない自分が小憎らしい今日この頃(*゚д゚)クワッ |