風の墓標



亜麻色の少し長い髪を潮風に優しく包んで
少女は胸に白い花束を抱く――魂の安寧を祈る百合の花を




インド洋沖ソマリア諸島に属するアンドロメダ島。
その島にひとりの少女が降り立った。
誰も訪れないその島に眠る男のために立てられた墓標はとても粗末なもの。それは少女がその男をひとりで埋葬し、立てたものだった。
それからほんのわずかな時間が流れて。
「……ダイダロス先生」
物言わぬ十字架に少女は話しかけた。胸に抱いていた百合の花束をそっと捧げる。
「ダイダロス先生……お久しぶりです。私は……瞬は、14歳になりました」
そして墓の前にゆるりと腰を下ろした。
ふわりと裾の長い濃紺のワンピースは暮れていく空を得て黒く見えた。
このアンドロメダ島で暮らした6年という歳月を共に過ごした師、ダイダロスは厳しい中にも優しさを備えた男だった。
「私がはじめてこの島に来たときのこと、覚えてますか?」
瞬は自分の中に7歳の少女を甦らせた。



その7歳の少女は兄や友と引き離され、聖闘士になるためにアンドロメダ島へ送られた。
「兄さん…」
見知らぬ土地の寒さと未来への不安に怯えて泣いていた瞬。彼女のそばに13歳の少年がそっと近づく。
「瞬……と、言ったか」
「先生……」
瞬は上掛けのはしで涙を拭うと少し上目遣いに師を見つめた。まるで小動物のようなその姿にダイダロスは苦笑する。彼はそっと瞬の肩に手を置いた。
「…恐いか?」
瞬は小さく頷いた。
「…恐いです、なにもかも」
瞬の幼い瞳にまた溜まりはじめた涙をダイダロスは指でそっと拭う。
「死にたくなければ、この島の環境に早く慣れることだ」
「先生……」
「おいで。凍えないように」
「……はい」
ダイダロスの腕に導かれるように、でも瞬はおずおずとその胸にぽふと顔を埋めた。
師の体は温かだった。流していた涙もいつのまにか止まり、安堵の笑みさえ浮かべている。
「あったかい……」
「これが小宇宙だよ、瞬」
「……小宇宙?」
ダイダロスは顔を上げた瞬の亜麻色の髪を撫でながら微笑を浮かべて言った。
「そうだ。聖闘士にとって守護星座の聖衣とともに大事なものだ。瞬の中にもきっとある……」
「あたしのなかに…」
幼い瞬と14歳の瞬が同時に目を閉じる。



師の小宇宙はとても温かくて大きくて安心できた。父母を知らず兄の庇護下で育った瞬にとってダイダロスはもうひとりの兄であり父であった。
「父……は、言い過ぎですね。あのとき先生はまだ13歳だったんですから」
瞬は苦笑した。けれど父と慕ったことは否定しない。
そっと、薄い唇をなぞる。
「私の初恋は、先生だったのかもしれません……」
幼かったあの日にはわからなかった。でも14歳になった今なら、恋をしている今ならわかる。
生きるために――私が私であることを迷わないように封じ、殺してしまった思い。
「……押し殺したんです、私」
いつか伝えることが出来るその日までさよならと告げた淡い心。
思い出して、ひとつ。瞬の瞳が真珠をこぼす。
「ダイダロス先生……」
思いを伝えられないまま、ダイダロスはこの世を去った。逆賊として誅殺されてしまったのだ。
刺客は、教皇の勅令を受けた黄金聖闘士・魚座のアフロディーテ――今は姉とも友とも慕う美女。
彼女は大切な人のために自身が血で汚れることを厭わなかった。
「私は……今ならわかるんです、アフロディーテの気持ち。私もアフロディーテも同じです」
守りたいと願い、戦った女たち。
彼女にとって教皇であるサガこそがすべてだった。そのサガのためにアフロディーテはダイダロスを葬った。
「――先生。私は先生を殺したアフロディーテを恨みました。誰も傷つけたくないなんて言って、本当は誰かの血を流すことなんて、恐くないんです…」
ああ、やっぱり同じだ、と瞬は頭を垂れた。
「あのとき間に合っていたら……いいえ、間に合わなくても私がアフロディーテを殺していました」
ダイダロスが誅殺されたその瞬間を、駆けつけた瞬は目の当たりにした。彼女は間に合わなかったのだ。
倒れていく師の体を受け止めることも出来ないで、瞬は立ち尽くした。
『いやああああああああ!! 先生!! 先生ぇええええ!!』
泣き叫ぶことしか出来なかった――倒すべき敵を目の前にしていながら。
そんな瞬を愚かで哀れな小娘と一瞥して、アフロディーテは去った。
一輪の白薔薇を残して。
その薔薇を、なぜか墓に供えてしまったのは。
今は砂に帰っただろう薔薇を瞬は探すように目を細めた。
「私は先生が好きでした。好きだったから、殺しました」
アテナを奉じて乗りこんだサガの十二宮で瞬はアフロディーテを殺す決心をしていた。
敵わなくてもせめて一矢。報いることが出来れば師のあとを追ってもかまわない、と。
「…ということは、あのときの私は星矢に嘘をついてしまったんですね」
必ずあとから来いよと、お守りのように口づけてくれた星矢。
わずかな時間しか残っていなかったのではなく、彼に人殺しを見せたくなかったわけでもないのかもしれない。
「邪魔をさせたくなかっただけ……」
瞬が、珍しく自虐的に笑う。
「私をこんなふうにしたのは先生、あなたです。私はあなたが好きでした……」
恋と名付ける前に消えてしまったあなたと、そして私。
6年という時を永遠には出来ない。
そして瞬は今の我が身を振り返ってまた笑った。
「私の運命を知っていたなら、先生は私を生かしてはおかなかったでしょうね。先生はアテナに忠実だったから……」
ダイダロスはその忠実さ故に教皇に不信を持ち、殺された。
そして誰も知らなかった、兄の一輝でさえ忘れていた瞬の運命。
少女の体は冥府神の器、そしてギガスの末子の美味たる贄。
ダイダロスはそんな瞬を7歳から13歳までの6年に渡って育ててくれた――星がどこまで少女に犠牲を求めたのか、知らないままに。
「この状況を、どうご覧になります?」
巡る生命の秩序を闇の底で支配する黒衣の男神、冥王ハーデス。
海と陽のふたつの運命を併せ持つ黄金の闘士、双子座のカノン。
このふたりから望まれる我が身、我が心よと、瞬は己が体を撫でる。
「笑い事じゃないんですよ、先生。大変なんですからね」
言いながら瞬の手から白銀の鎖が現れてゆるりと広大な銀河を描いた。
瞬は聖闘士――遥か神話の時代、鎖によって身を縛り我が身を生贄として海皇に捧げたエチオピアのアンドロメダ。
星座の中に抱いていた銀河を、武器を嫌う女神は特別に鎖に変えて下賜した。
あなたの守るべきものを守るために、と。
瞬はゆっくりと墓に、大地に身を横たえた。そして唇を地面に当てて囁く。
「あなたが、好きです……」
聞こえているなら伝えたい――私の恋心、鎮魂歌。永遠を確かに感じたかったと。



だから。



「来ないで!!」
鮮やかな日没が紺碧に支配される逢魔が時。
少女に近づこうとした青年の足が止まる。
瞬はふせたまま、振り返らずに言った。
「……来ないでください、ここは私の…私だけの聖地です。いくらあなたでも私の思い出の邪魔はさせない…」
じゃら、と瞬の周囲に展開した鎖状の銀河が蠢く。けれど黒衣の男が臆することはなかった。
ひとつため息を溢し、深き水底の瞳を伏せる。長いまつげに星の輝きを捕らえた。
「……邪魔はせぬ。心行くまでそうしているがいい」
瞬は応えなかった。
鎖によって描かれた銀河の中に死んだように伏せる少女と、それを見守る男。
「……そなたが近づくなというなら近づきはせぬ。余はそなたが望むようにしたい」
それが青年にとっての愛だった。
神話の時代から望んでこの時代にやっと出会えた乙女を失いたくなくて。
やがてアンドロメダ島は冴え凍る極寒へとその姿を変える。
少女は地に伏し、男は立ち尽くす。その奇妙な光景は誰の目に触れることもないまま、時間だけがすぎた。



月が二人を清かに照らす。瞬の白い肌が月光を受けてよりいっそう青白く見えた。
「ん……」
慣れたはずの寒さに身をふるわせ、覚醒がしっくり来ない頭を振って、瞬はゆっくりと起きあがった。
鎖がじゃらじゃらと鳴って乙女を銀河から解き放つ。
顔を上げてあたりを見渡せば少し離れたところにぽつんと立っている黒衣の王神の姿。
「あ……」
「……気は済んだか、瞬」
冥王の瞳はただひとり、その少女を見つめる。
男の名を呼ぼうと、瞬の唇が動く。
「ハーデス……」
黙って待っていてくれたのかと思えるほど、彼は微動だにしない。
瞬はゆっくり立ちあがって服の砂を払うと冥王の元へ歩み寄った。彼の表情が僅かな歓喜に緩む。
「…もう、抱きしめてもよいか?」
「いいですよ」
許されるとすぐにハーデスは瞬をそっと抱きしめた。今日の彼女はともすれば壊れてしまいそうなほど繊細で儚い、硝子細工のようだった。冷えた肌を温めようと背中をさするが慣れていないせいか、瞬がくすくす笑い出した。
「なにやってるんですか、くすぐったいですよ」
「ここはひどく冷える。そんな薄着で」
アンドロメダ島の夜の寒さはシベリアのそれにも匹敵する。だが雪が降らないだけまだましといえるだろう。
瞬はそっとハーデスの背中に手を回す。
「大丈夫です、私はここの寒さには慣れています。でも……そうやって心配してもらえるのは嬉しいです」
いつもの笑顔だ、とハーデスは思った。
けれどその笑顔にどこか寂しさを感じたことも否定できない。
太い枝を十字に括って作られた墓に視線を投げた。
「……そなたの、想い人だったのか?」
冥王は瞬にまつわるほとんどのことを知っている。けれど完全に彼女を掌握する前に瞬自身とアテナによって体から放逐されたために知らないことがほんの少しだけある。
ダイダロスのことは、そのほんの少しの秘密だった。
瞬が苦笑した。
「……大切な人でした。恋人だなんてとんでもない……でも、確かに好きでした。私はその想いを何と呼ぶのか知らなかったけど」
少女の手がぎゅっと黒衣の胸元を掴んだ。
泣くのかもしれないと構える冥王はそんな瞬の手をそっと包む。
「瞬……」
名も知らないまま押し殺した幼く淡く儚い想い。少女の中に眠る大切な男には、現存するどんな男も勝てないのかもしれない。
「瞬、余はそなたが愛しい……だが、思い出には勝てぬ」
「でも今私を抱きしめているのは間違いなくあなたです……私がほしいのは、今私を抱きしめてくれる人」
瞬は再び冥王の背中に回し、腕にふっと力をこめた。
「瞬……」
「もっと強く抱いてください。ここは寒いんだって、あなたそう言ったじゃないですか」
「うん……」
許され、望まれることのすべてをするのが、冥王の愛の形。
「壊さぬように抱くのは、難しいな」
「私は簡単には壊れません。それはあなたがいちばんよく知っているでしょう?」
「だが今日のそなたは違う。一つ間違えば簡単に壊してしまいそうだ…」
互いに滅ぼしあうために存在した男と少女は、今は不思議と、そっと触れ合っている。
「……壊してみます?」
溶けてしまいそうな穏やかな温かさ。
師のダイダロスがその死と引き換えに瞬に残したのはあの日の想い。
(先生、私……今なら言えます)
あれは間違いなく恋だった、と。
瞬はそっと顔を上げてハーデスを見つめた。
「あなたが好きです」
「うん、余もそなたが愛しい」
もう少しできっと愛しさに届く。
「だから余はそなたを壊せぬ」
「殺せって言ってるんじゃないですよ?」
「どう違う?」
冥王の問いはときとして微妙に事の本質を突く。瞬はハーデスの首に自分の腕を絡めた。そして伸びあがって口づけた。
「瞬!」
驚きを隠せない冥王にいたずらっぽい笑みを見せて、瞬は再度口づけた。
薄紅色の小宇宙に幽冥たる闇紫の小宇宙が混ざり合う。
(先生…私、結構幸せにやってます。だから心配しないで……)
角度を変えながら何度も何度も触れ合ううちに少女の姿が闇の衣の中に消えた。



さよなら、私の初恋



砂の上に少女をそっと組み敷くと亜麻色の髪が乱れた。
「瞬……」
冥王の白い手が頬にかかった髪を払い撫でれば、少女はふと笑う。そしてすれ違うかのように瞬の手が冥王の頬に添えられる。
「…いいのか?」
「ええ、かまいませんよ」
数回の軽い口づけの後、冥王は静かに瞬の耳元に唇を落とす。少女の体がびくんと震えた。耳朶を甘く噛み、そのまま首筋をつと舌先でなぞる。
「…っ!」
生暖かい感触にほんの少しだけ怯えながら、それでも瞬は黙って彼を受け入れようとした。
声も上げず、名も呼ばず。
ただ波音だけが遠く近く聞こえている。
鎖骨の辺りを強く吸われても、体だけ反応した。
「んっ……んんっ…」
縋るものが欲しくてハーデスの黒衣を強く握る。ほんのわずかな時間、目を閉じる。ふと視線をそらしても飛び込んでくるのは砂と星空だけ。
ハーデスの優しい口づけは瞬の柔肌に紅い刻印を残していく。
「瞬」
小さな胸元に頭を埋めていたハーデスが、静かに呼びかけた。
瞬は小さく息を呑む。
ハーデスの指先がすっと布の上から乳房に触れようとしたそのとき。
「……やめた」
彼はそういって瞬から離れた。
横たわったままの瞬を珍しくも抱き起こすことなく、背中を向けて立っている。瞬はぎこちなく起き上がった。
「……なんでやめちゃうんですか?」
きゅっと胸元の布を握る、その頬にはうっすらと赤みが差していた。
島の夜風にニュクスの衣を切り取ったかのような髪をなびかせる冥王は美しい青年だった。
その形よい唇が呟く。
「そなたは、寂しいだけであろう。余をその男の身代わりにするな」
びくり、と瞬の体が強張ったのをハーデスは見逃さなかった。
「……図星か」
「私はっ…そんなっ…」
「余を見くびるのもいい加減にしろ!」
ごくわずかに怒りを含んだ声。
その神聖さと威厳の前に瞬は顔を上げることもできなかった。
「そなたも所詮は人の子だ」
寂しくて悲しくて辛くて――誰かに縋って、誰かをよりどころにして生きていく。
アテナの聖闘士として、神の器として、そして生贄として。少女は神に近づきすぎたのかもしれない。
だけど、だけど恋しい。
その思いは神も人もとめることができない。
「ハーデス……」
「……余はそなたが愛しい」
ハーデスはその場に座ったままの瞬を自分の膝に抱き上げた。
「身代わりは、いやだ。余は余としてそなたを愛し、愛されたい……」
「っ……ごめんなさい…」
瞬はハーデスの胸にすがり、静かに泣いた。彼女の泣き顔は嫌いだが、ハーデスはずっと瞬の背中をさすり続けた。
「今宵は泣きたいだけ泣くがよい。そして忘れろ……」
一時の寂しさを紛らわすために身を投げ出した事を。
そっと口づけたその吐息の中に冥王は柔らかな眠りを潜ませる。
「ハーデス……私は……」
「眠れ」
それは大いなる神の小さな願い。
瞬は逆らう事が出来ずにとろとろと眠りに落ちた。



白い頬に残る涙の後をそっと袖で拭く。
濡れた袖先を見つめて冥王はぽつりと呟いた。
「…悔しいな」
眠る乙女に冥王は再び唇を落とす。神の眠りを与えられた少女は身じろぐことさえない。
「思い出には勝てぬ。おそらく、余だけではあるまいが……」
あの憎き恋敵でさえも瞬の中に住まう男を越えることはないだろう。
そばにいたのが自分ではなくカノンだったとしたら、と冥王は考えて笑う。
「身代わりとも知らず、愛されたのだと思うのかもしれんな、あの愚かな男は…」
本当の理由に目をつぶって偽りの行為にふけるか、それともそれと知って拒否するか。
「余は間違っていないはずだ」
そう問いたくても瞬は答えてくれない。
王位に固執する父神によって疎まれ、その腹の中で過ごした幼少期。三人の姉妹とひとりの弟神を抱えて、闇の中で過ごした。父の腹から脱出し、ゼウスが王位を継いだあとも自分は冥府という闇の中で暮らしつづけた。
ほしかったのは、光。
愛らしくて生き生きとした生命。
ペルセポネという冠をその頭上に頂く乙女。
それがハーデスにとって『瞬』だった。
「瞬……余はそなたが愛しい。何度も言う、愛しい……」
四粒のざくろで縛ることもしない。



だから。



「そばにいてほしい…」
きゅっと抱きしめた。
なにも奪わないから与えてほしい――愛にはなんの代償も伴わないなんて、嘘だ。
「余のすべてを持って、瞬、そなたを愛そう」
だから迷うことなく応えてほしい――独占欲は愛じゃないと知っていても。
愛し方を知らないから一緒に学ぼうと言ってくれた、その笑顔だけでよかった。
奪い、閉じ込め、永久にこの手の中で弄ぶ、そんなことも出来るけれど。
「間違えたのは順番だけだ」
いきなり求婚、それから告白、今は結婚を前提にした交際中。それ以外はなにも間違えていない。
今宵、この瞬間も。
愛のなんたるかは筆舌に尽くしがたく、その答えは神を持ってしても知ることはない。
ただ自分に出来ることをしようと、冥王はそれだけを少女に約束した。
「神とは往々にして欲張りなのだ……」
ハーデスはちら、と墓を見た。この小さな島に眠る男の魂は今どこにいるのだろう。
「もはや冥府にはおらぬかもしれぬが……」
何万何億という生命の輪廻を知っているのはハーデスだけ。ただ数が多すぎていちいち把握はしていない。その魂の行方を追うことは神の御業、けれどやはり容易なことではない。
「聞こえているといいと思う……ケフェウスのダイダロスとやら。瞬は余が必ず幸せにしてみせる。だからなんの心配もするな…」
ハーデスの言葉に答えるように風が吹き、波が岩場に砕けた。



どれくらいそうしていただろうと、瞬は目をこすった。
「起きたか?」
僅かな朝の気配とともに解けるようにしかけられた眠りから覚めた瞬はぼーっとハーデスを見ている。
「せん…せい?」
「誰が先生だ」
ぺちっと額を叩かれて瞬はやっと目を覚ました。昨夜ハーデスの腕に抱かれて眠ったことを思い出す。
そして小さく笑った。
「ごめんなさい、夢を見ていたから」
「夢?」
瞬はこっくりと頷いた。
「先生が夢に出てきて『おまえのことはなんの心配もしていない、自分の道は自分で選びなさい』って言ってくれたんです……」
「……そうか」
声は聞こえたかと、ハーデスはゆるりと目を閉じた。
「余は、そのダイダロスとやらに似ているのか?」
「いいえ、外見はぜんっぜん似てません」
「そんな力いっぱい言わなくても……」
ちょっと困惑してみせたハーデスに瞬はいつものように笑いかけた。
「外見は似てませんけど、優しいところはそっくりです。あなたは昨日、寒いだろうって私を抱きしめてくれましたね」
その優しさがそっくりだと瞬は言った。
「余は、優しさには自信がある。そしてそなたを思う気持ちも、誰にも負けない自信がある」
「その自信はどこからきてるんです?」
「そなたから」
聖闘士だろうが、出会ったときは13歳の少女だったろうが、彼女がまだ赤子の時から追っかけ回そうが、なにも迷わなかった。
ただ愛しいと奏で続けることが大事なんだと悟った、彼女との最初の夜を思い出す。
「そういえば、こうやって夜の逢瀬を重ねて一年がすぎたんですね…」
そんな二人の背後に太陽の欠片が現れた。
「もう朝か……無粋な太陽めが」
「そんな言い方しないの」
お返しだといわんばかりに瞬はぺちと冥王の額を打った。
「やったな」
ハーデスは瞬をぎゅっと抱きしめ、その柔らかな頬に自分の頬を摺り寄せた。長い髪が少女の体をくすぐる。
瞬は冥王の腕の中でじたばたと暴れた。
「いやだっ、くすぐったいですっ」
「余は何ともない」
いつまでもこんなふうにじゃれあっていられたら。
そんな日がそう遠くないことを信じて。



「余は冥府へ戻るが……そなたはどうする?」
「私も城戸邸に帰ります」
「ならば送っていこう。ちょっと寄り道するくらい、大丈夫だ」
さあと差し伸べられた手を、瞬は迷わず取った。
そしてほんの少しだけ、後ろを振り返る。
「先生、また来年来ます…」
「…余も、来ていいか?」
「そのころもまだ一緒にいれば…ね」
「いる。絶対に一緒にいる」
ハーデスは約束だと言わんばかりに瞬の手をぎゅっと握った。
瞬は微苦笑する。
この人の言うとおり、自分は寂しかっただけなのかもしれない。
城戸邸には兄がいて、友がいて。
聖域には黄金の闘士たちがいて若い戦士たちを導いてくれる。
そして深い闇の夜にひょっこり現れる冥王ハーデス。
寂しい事なんてどこにもなかったはずなのに何故か感傷的になっていた。
「…瞬」
「なんですか?」
見ればハーデスの手の中に幅広のリボン状の布があった。柔らかそうな絹のそれを、ハーデスは優しく瞬の首に巻きつけて軽く結んだ。そして小さく笑う。
「そのように痕を残していたらフェニックスがうるさいだろう」
「あ……」
ハーデスの腕に中にいた瞬がぼっと顔を赤らめた。
首筋と鎖骨に残るそれを兄一輝は激しく咎めるだろう。何をどこまで説明したら納得してもらえるのか、その自信がないなら隠してしまえばいいのだ。ハーデスの言う事は正しい。
「昨夜のそなたはとても艶かしくて……正直参った。余が理性ある神でなかったら本当に襲っていたぞ」
「やだっ…言わないで…」
「事実を言ったまでだ。行くぞ」
ふわり、と持ち上がる体と心。
冥王の姿は愛しい少女のそれとともに暁の空に溶けた。
そして入れ違うようにアンドロメダ島に雪――いや、白い薔薇の花びらが降ってきた。



鎮魂歌は謳わない
ただ明日のために捧げる白は魂の安寧を祈る色
そして黒は深い哀悼を示す色



城戸邸に戻り、ハーデスと別れた瞬は自分の部屋に戻って着替えた。
さらと首の布を取り、丁寧にたたんで仕舞う。
細い指で赤い痕に静かに触れる。感じるのは優しいほのかな小宇宙だけ。
消えそうにないそれを隠すのに当分は苦労しそうだと苦笑して、瞬は首筋のわかりにくいハイネックのシャツに袖を通した。
もともと明るい色の服を好む瞬にとって濃紺のワンピースは喪服代わりだった。
その日から瞬の雰囲気が少しだけ変わる。
少女らしさの中にごく僅かに見せていた大人の部分がよりいっそう色鮮やかに浮き出るようになった。
髪をあげる仕草ひとつ、どこか遠くを見つめる視線さえ儚い。
(先生……)
瞬は初恋と別れた。
そしてこれから一緒に歩んでいく伴侶を選ぶ岐路に立つ。
冥王は夜毎に愛を囁く。
バカのひとつ覚えのように『余はそなたが愛しい』と言うのを待っている自分がいる。
あの甘やかで、でも純粋な思いが徐々に心に降り積もる。




波音が聞こえる――あの日の恋心を揺り覚ますように
迷うのもいい、まだ少女だから
けれど自分の足で立って歩き、自分で答えを見つけるの
それだけは間違えない



(――ダイダロス先生)




実らなかった初恋を風に
新しい恋を夜に




風の墓標が幼い恋の終わり





≪終≫




≪冥王様の理性≫
冥王×瞬で、ダイダロス先生と瞬の思い出話。ちっちゃい瞬を書けて満足です(*´д`)
瞬の初恋はダイダロス先生だと信じてるけどもはやそれは定説なんだろうかと思わなくもない。
今回は理性たっぷりの冥王様。瞬と交際をはじめて一年経ってるのが今回の時間軸。かなーりいちゃいちゃしてます、どうしたカノンwwwww
また13歳瞬とか、16歳瞬とか書いてみたいんだよね、というわけでゆきのんはがんばってみたりします。注: 文字用の領域がありません!

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