裸足の女神



君の手を汚さぬように
君に仇なすすべてを全力で葬ろう



亜麻色の髪をした、細面の少女が目の前にいる。
目の前にいる、と言うのは少々語弊があるかもしれない。けれど彼らにはそのように見えている。
薄紅色の聖衣を纏うその少女はそこが自分の墓場だとも知らずに手負いの白鳥を庇い、銀河の中に身を置いていた。
「私のこのネビュラは、敵に対して鉄壁の防御を敷くわ…それでも来るというなら来るがいい、双子座の黄金聖闘士…」
少女はアンドロメダの青銅聖闘士。銀河の輝きをわずかに切り取り『瞬』と名付けられた。
主たる少女を守る鎖は2本。左手に防御の円鎖、右手に攻撃の角鎖。
今は石畳の上に投げ出されたそれは美しくも強固な陣を敷き、敵の出方を待っている。
争いを好まぬ少女らしい戦い方。
だが。
(そのようなことで、俺たちは殺せない…死ぬのはお前だ、幼く愚かなアンドロメダ…)
薄く笑いながら、仮面の男は聖衣を動かす。
そこに実在しない彼らに、鉄壁の防御など愚の骨頂、無意味も無意味と笑い飛ばして。
ほかはどうでも、このアンドロメダだけはここで確実に殺す。
(…お前のために)
男の髪は、黒い。


男たちが愛し望んだ一人の女のために。


さあ、消えてなくなれ、アンドロメダ…


敵の存在に戸惑い、攻撃をしない角鎖。
鉄壁の防御さえ易々と超えて。
「そんな! 鎖が…敵に反応しないなんて!!」
鎖が教えているのは、敵がこの双児宮にはいないということだけ。けれど目の前に男は確実に自分に向かってくる。
「実在しない…敵はここにはいない…そうなのね、チェーン…」
困惑する瞬を他所に、双子座の聖衣は確実に彼女を殺そうと近づいてくる。
幻に、殺される。
「敵は…敵はどこなの!?」
目の前にいるよ、と黒髪の男は囁く。
だがそれと知らぬ間に死ね。
か弱い銀河を爆砕するには及ばぬ、ただ永久に異次元を彷徨うがいい。
この少女が死ねば、彼女を苛むものはなくなる。
「さあ、次元の彼方へ飛んでいけ!」
幻朧の闘士の手が棺の蓋を開ける――もう二度と、戻らぬように。



双魚宮にあって、女はふと上を見上げる。
教皇が瞑想に入ってしまったため報告が出来ないと雑兵どもが呟くのが聞こえた。
「…サガ」
薄い薔薇色に染めた爪を綺麗だと言ってくれた一人の男。だけど一つの体に二つの心を住まわせて。
それはどんな心地だろうと、柔らかな巻き毛を指に絡ませ、ひとつ涙をこぼす。
きっと誰にも、彼自身にも分からない。
「サガ…」
もう一度呟く、恋人の名。
もう二度と血で汚さないと、自分の名を呼んでくれた。
身も心も、命も魂も。
全部あなたのものよ、サガ。
ざああっと風が揺するのは命を奪う真紅の薔薇と、魚座の女の心だけ。



「くっ…なんなの……今の技は…」
鎖に助けられた瞬は時空の彼方に消えた氷河を案じながらも、床に叩きつけた体を起こしていた。
「…アナザーディメンション。つまりは異次元に世界に飛ばされたのだ」
「異次元!? じゃあ氷河は!?」
男は先ほどから薄く笑うだけ。
「小娘が! 他より己の心配をしろ。お前の棺の蓋、再び開けてやろう」
最愛の女のために、一人の少女を血に染める。
どんな防御もほら、薄皮の様に剥いでやろう。
「お前を守る鎖を断ち切って…」
生かしておくことは出来ない。
アンドロメダの少女は魚座の黄金聖闘士に仇なす存在。
師であり父と慕うケフェウスのダイダロスを殺せと命じた自分と、抹殺したアフロディーテとに。
殺せ殺せ殺せ!!!!!!
殺せ、と黒い男が吼える。
「さらばだ、アンドロメダ…」
鎖など、何も繋ぎはしないのだと思い知るがいい。
ぴしりと鎖にひびが入る。わずかな破片から銀星砂が零れ落ちた。
「う…くっ…」
瞬は残された左腕の鎖をしっかりと握り、異次元からの猛攻に耐えている。だが鎖に僅かな欠損が出た今、それもいつまで持つか分からない。
(こんなところで…こんなところで死ねないっ…)
少女の声が祈りになって届く。
(先生…兄さん…私に、私に力を!!)
「…終わりだ、愚かな小娘」
鎖が、千切れた。



燃え立つ炎が不死鳥を描く。
「誰だ! 私の頭脳に直接邪魔をしたものは!!」
教皇が激昂して座を立った。
鎖が千切れても瞬は辛うじて双児宮に伏せている。
「う…あっ…ここは…もとの場所…。飛ばされなかったのね、私…」
ぐらつく意識を戻そうとするかのように瞬は頭を振った。
そしてその先に、光。
銀河を秘めた瞳に飛び込む柔らかな陽光に瞬は思わず目を細める。
「…迷路が消えてる。出口なんだ…」
そして遠くに感じる橙炎の小宇宙。
(もしかして…兄さん?)
瞬にはなにが起こったのか一切わからなかった。ただ幻朧の闘士も、異次元も、気がついたら消えていた。
今ならこの双児宮を抜けられる、星矢と紫龍を助けにいける。
だけど。
少女の足は戸惑った。
「氷河は…氷河はどうなるの?」
自分の放った技をもろに浴びて、気絶したまま異次元に果てへと消えた白鳥座の氷河。
手を伸ばしても守りきれなかった友。
だがその優しさが瞬を再び窮地に追い込んだ。
目の前に見えていた出口が干射玉の闇に変わる。
「その優しさが、愚かだと言っているのだ」
「ジェミニ…」
「戦場に友も身内もない。愛し愛されるもののないことを、なぜ理解しない」
男の言葉に、瞬はぎゅっと唇を噛んだ。
「それが、師の言葉だから」
「…なんだと?」
「確かにあなたの言うとおり。戦場に愛し愛されるものなんかいないんだわ。だけど…だけどそれじゃ、私たちは何のために戦うの? アテナの聖闘士は、地上の愛と平和を守って戦うんじゃなかったの!?」
瞬は再び鎖を握る。ちぎれたはずの鎖はいつのまにか銀河の輝きと強度を取り戻していた。
「殺すためだけが、戦いじゃない。私は守りたい」
「ならば何を守る? 師も友も守れぬお前が、何を守る?」
「…アテナを。我らが女神を」
少女は静かに言った。
誰かが倒れても越えていけと、約束したことを思い出す。
氷河を思い、ここに留まってはいけなかった。
けれど留まり、再び双子座と対峙した以上、逃げる事は許されなかった。おそらくこの幻も、瞬を逃がしはしない。
「私と、私のこの鎖は…何度でもあなたに向かっていく…」
さあ、教えて。
私はもう何も迷わない。
「角鎖よ! 敵は目の前の男じゃない! 何万光年離れていても必ず見つけ出して、倒して!!」
瞬の手から放たれた鎖が淡い紅赤色の光を帯びて稲妻を描く。
「バカな、この形は!?」
「角鎖が描く軌跡は稲妻。迅雷があなたを確実に捕えてくれる」
乙女を縛る鎖は時として非常さを兼ね備えていた。
「サンダーウェーブ!!」
あまねく銀河を打ち砕く雷光が異次元を超えて。
「追って! どこまでも追いかけて!」
少女の右腕から無尽蔵に現れる鎖。彼女の守護星座であるアンドロメダはその姿の中に銀河を抱いている。
そして鎖たちは彼女の闘争心が大きくなればなるほどその特色を顕著にする。


角鎖の先端が、男の頬を掠めた。


からん、と乾いた音が男の顔をさらした。
時空を超えてきた角鎖が仮面と冠を弾き飛ばしたのだ。
たかが青銅聖闘士の小娘と侮っていたが、アンドロメダの鎖にここまでの威力があろうとは思いもよらなかった。
薄く引かれた朱の線をなぞると、指先が染まる。
「おのれ、アンドロメダめ……小娘と侮っていれば小癪な……」
『よさないか!!』
「サガ…何故止める?」
男の髪が金と銀と、黒と――折衷して語る。
「アンドロメダは我らの敵だ。俺たちの女のために……殺しておかなければならないんだぞ? そうしなければ、アフロディーテは死ぬ。あの小娘に殺される。それでもお前はアンドロメダを生かすのか?」
甘いことだと黒の男は侮蔑する。
「もうとめられないんだ…13年前のあの日から。俺が、赤子のアテナを手にかけようとし、射手座のアイオロスを殺した時から…」
『お前がはじめたことだ、私ではない…』
「どっちも同じことだ。俺もお前もサガだ」
ちぎれたロザリオの赤い宝玉が足元に転がる。黒の男はアンドロメダの身代わりだとばかりに踏みつけ、粉々にした。
「いいんだな、アンドロメダを殺さなくても」
『…どうせ、どこかで死ぬ。我らが手を下すこともない…ましてや、アフロディーテのところへなど辿り着けるはずがない』
「だから甘いと言うんだ」
14になったばかりのアフロディーテを抱いたのは、サガ。
13になったばかりの瞬を殺すのも、サガ。
『私は……私はいったい何をしている?』
悪を拒絶する強さもなく、優しい恋をするだけの弱さもなく。
淡い金の髪が光を弾いて銀を奏でる、それは切ない香り。
「アフロディーテ…」
君を、死なせたくない。



遠く異次元に放たれていた角鎖が瞬の手元へ戻ってきた。
「そんなに遠くにいなかったんだ…」
思ったよりも早く帰ってくる鎖たち、だが瞬は手応えを感じていた。迷路が消えたことが敵へのダメージを証明している。
「ご苦労様、角鎖…」
先端の錘が戻ってきたそのとき、瞬の目に異物が飛び込んできた。
「なに……これ……」
鮮やかな宝玉で作られた首飾り。糸がちぎれてばらばらになりそうなそれを、瞬は丁寧に鎖から取り除いた。
ひとつ取り損ねて床の上に転がる宝玉を彼女は追わなかった。
「綺麗…」
手にした一連の宝玉たちは戦う少女の心をわずかに奪う。
でも、このロザリオから感じる悲しみは、なに?
「角鎖に絡まっていたってことは…敵がつけていたものか。これで正体がわかればいいんだけど…」
瞬はロザリオを見つめた。
やがてそれはばらばらに砕け散る。
「!!」
瞬の手の中で、砂になる。
彼女の背後にジェミニの聖闘士。瞬は困惑を隠せなかった。
「どうして…どうしているの!? あなたは幻じゃなかったっていうの!?」
まさか、と瞬は鎖を飛ばす。
角鎖はジェミニから一寸、ほんのわずか手前で止まった。
聖衣が、弾ける。
「やっぱり……幻」
装着状態をなしていた双子座の聖衣は背中合わせの双子、というシンボル形態に戻る。
陰と陽、併せ持ったマスクが瞬の心を揺さぶった。
「黄金聖衣はとても綺麗なのに……これはなんて悲しそう…」
だが聖衣に同情している時間はない。
一刻も早く教皇の間へ辿りつき、沙織の胸に刺さった黄金の矢を教皇に抜かせなくてはならない。
「氷河……ごめんなさい。私は先に行くわ」
あなたは白鳥だからその翼で異次元さえも超えられるはず。
「信じてる、氷河…」
瞬は後ろ髪を引かれる思いで双児宮を後にした。


双子座の聖衣の意味。
今まだ遠い双魚宮で知ることになろうとは、夢にも思わずに。



「サガ…大丈夫?」
金とも銀ともとれる美しい髪の男が、玉座にいる。
傍らに、女性。魚座の黄金聖衣を纏い、海色の髪を優雅にそよがせる。
おおよそ闘士とは縁遠いような美貌はキプロスの女神の名を冠するにふさわしかった。
玉座のサガはアフロディーテの頬に手を添えた。
「アフロディーテ…すまない、アンドロメダを殺せなかった…」
「……そう」
アフロディーテは静かに呟いた。
「すまない…」
淑女はいいえと首を振る。
「……ありがとう、サガ。私のために」
「アフロディーテ……」
純白のマントがさらりと揺れ、アフロディーテはサガの頭を抱きしめた。
「ごめんね、聖衣つけてるから柔らかくなくて……」
「いや、十分だよ」
応える様に、サガはアフロディーテの腰を抱き、引き寄せた。
近づいたからわかった。彼の顔に引かれた赤い筋。
「なにこれ」
「アンドロメダにやられた。大した傷じゃない」
サガがそういうと傷は綺麗に消えた。黄金聖闘士にとってこれくらい、小宇宙で治癒できる。
けれどアフロディーテは激昂した。
「許さない…許さないわ」
「アフロディーテ」
「私のサガを傷つけるなんて、許せない!! 必ず殺してやる!! サガにつけた傷、何万倍にもして……ズタズタにしてやる!!」
魚座の淑女の瞳が、怒りに燃えた。
けれどサガと目があうといつもの穏やかさを取り戻した。
「サガ…あなたが私の手を汚さないようにってがんばってくれたこと、すごく嬉しい。だけど、そのせいであなたが傷つくのはイヤ。あなたが傷つくくらいなら、私はいくらでも血に染まる。その覚悟は、あなたに抱かれたときにもう出来た」
アテナの聖闘士の称号を、あなたのために。
「身も心も、命も魂も。全部あなたに捧げたのよ、サガ……」
男は、女を見つめる。
「魚は水に、花は大地に。アフロは、あなたに帰ります」
ふと、男の手を解いて。
さよならは言わない。だって帰るって言ったから。
「教皇様、ピスケスは双魚宮を死守します。あなたのために」
「信じているよ……だが、侮ってはいけない。アンドロメダは君と同じだ」
「……私と?」
サガは大きく頷いた。
「君が私を思うように、彼女にも深く強く守りたいものがある……もし君のところまで来たら、だが」
それを捧げる対象がまったく違うものでも、その心は同じもの。故に見せる強さに気をつけろとサガは言った。
「…負けない、そして死なない」
アフロディーテは愛しい男に背を向けた。
「死ぬな…」
「……あなたのために。ここにアンドロメダの死体を持ってくるわ」
約束は果たされることなく。



巨蟹宮にデスマスクが
獅子宮にカシオスが
処女宮にシャカと一輝が
磨羯宮にシュラと紫龍が
宝瓶宮にカミュと氷河が


壮絶に散った。



残る黄金聖闘士は魚座のアフロディーテのみ。
対する青銅聖闘士はペガサス星矢とアンドロメダ瞬。
13歳の少年と少女は友の屍を乗り越えて双魚宮までやってきた。
「ここで最後か…」
「……ねえ、星矢」
「ん?」
先を走っていた星矢が呼び止められて止まる。瞬は星矢を見つめて言った。
「星矢は先に教皇の間へ行って。双魚宮は私一人で戦う……」
瞬の言葉が星矢にすぐには理解できなかった。けれど銀河の瞳が強い輝きで少年を見つめる。
星矢は少し困惑気味に瞬の肩を掴んだ。
「瞬……なんでだよ! 二人でかかればすぐにでも」
「時間がないの!!」
瞬が叫んだ。優しい瞬が、なにかを振りきるように叫んだ。
「見て、あの火時計…」
じゃら、と鎖を鳴らして示す先に、わずかに残る魚座の炎。残りは1時間を切った。
それは女神の命の灯火にも似ている、と瞬は思った。
「私が魚座の相手をする。その間に星矢は抜けて」
「でも…」
「星矢」
なおも言い募ろうとする星矢の手を、瞬はしっかり握った。
「瞬…」
「……もう少し、一緒にいたかったね」
幼いころを共に過ごし、聖闘士となってからも一緒に戦ってきた。異腹の姉と弟とわかってもそれが変わることはなかった。
そして、兄と友を失って、ここまで来た。
「私、星矢が大好きだよ」
「瞬…」
「だから行って。お願い、星矢」
大好きな星矢。
君に、私が人殺しをするところなんか見せたくない。
「星矢…」
強く握った手を、約束の指きりがわりにした。
「わかったよ、瞬」
少年は少女の頬を優しく包み、そしてそっと口づけあう。
離れていくのが恐くてこぼれそうな涙をこらえた。
「それ、お守り。瞬は一人じゃない。俺も……紫龍も氷河も一輝も…みんないるから」
「ありがとう、星矢……」
秋の夜空に星を共有するペガサスとアンドロメダ。
幼い二人は繋いだ手を離した。



(なんて愚かな恋。二人とも死ぬのに…)
それは恋と呼ぶにはまだ幼すぎる思いだったかもしれない。
アンドロメダはこのアフロディーテが。
ペガサスは猛毒の赤い薔薇が。
「蒼天駆けるペガサス、お前の背中に翼はない……」
双魚宮に乗り込んで来た星矢と瞬、ふたりは約束通りに動いた。
「……ペガサスは死ぬ」
「……死なせない。あなたを殺して、私は彼のあとを追う」
冷徹な美貌の闘士は満身創痍の少女を見下す。
「殺す、と。聞こえたようだけど」
「そう言ったわ」
向かうアフロディーテからゆらりと立ち上る小宇宙は薔薇色。
少女の抱く銀河は薄紅色。
「あなたは、我が師ダイダロスの仇…。そうでしたよね?」
「……そうよ。そしてあなたに白薔薇をつきつけた。見逃してやったのにわざわざ死にに来るなんて……」
「死にに来たんじゃありません、仇を討ちに来ました。いいえ、それさえも本当の理由ではありません」
「…へぇ」
アフロディーテの手に、情熱の紅い薔薇。甘美な陶酔のうちに死を呼ぶ魔宮薔薇(デモンローズ)。
「じゃあ何しに来たの?」
「…アテナのために。アテナとともに地上の平和を守るために…」
私はここで死にますと、瞬は覚悟を決めて星矢を先に進ませた。
「なるほど。確かにあの人の言ったとおりね。やっぱり殺しておくんだった。あなたを見逃したのが私の最大の過ちだった」
アンドロメダ島はケフェウスのダイダロス。
その死に際に現れた一人の少女。師の亡骸にすがり、声をあげて泣いていた――泣くしか出来ないのかと思った。
『あなたが…あなたが先生を?』
『逆賊を誅殺したまでのこと。望むと言うならダイダロスの後を追わせてあげる』
アフロディーテは白薔薇を投げようとした。嘆く少女を苦しまぬように死なせるのも慈悲、とばかりに。
でもやめた。
自分の帰りを待ってくれている人がいたから。
アフロディーテはその少女に白薔薇をくれてやった。
あれからどのくらい経ったのだろう。
あの時の少女が目の前にいる。
瞬はゆっくりと言った。
「でもやっぱり、あなたを殺すためなのかもね。ここに来れば、あなたに会える…そして」
――殺せる。
「私がもう少し早く着いていれば、もしかしたら先生は死なずにすんだかもしれない……」
「無駄なことよ。結局あなたも死んだ」
アフロディーテのまわりに真紅の薔薇が乱れ飛ぶ。
「お喋りはここまでよ、アンドロメダ。せめて…せめて優しく殺してあげる」
そしてお前が死んだあと、あの人とふたりで弄ってやる。
美しく死なせてたまるもんですか。



双魚宮で――花が舞い、鎖が踊る。



「う……」
真紅の薔薇は遅効性。じわじわと感覚を奪い、陶酔のうちに死ぬ甘美な毒。
漆黒の薔薇は即効性。触れるものすべてを砕く無慈悲な闇の華。
このふたつを受けた瞬の身に鎖はおろか、聖衣さえなかった。
「だから言ったでしょう、あなたはどうあっても死ぬんだってね。私が優しかったうちに死んでいれば」
アフロディーテはうつぶせに横たわる瞬の脇腹を蹴り飛ばした。
「ぐあっ…!!」
石造りの床の上を瞬の細い体が数回転がった。
「苦しまないですんだかもね」
アフロディーテは苦痛に呻く瞬の髪を掴んで仰向けに寝かす。そして馬乗りになると強引に瞬の細腕を引き伸ばし、掌に黒薔薇を撃って床に縫いとめた。
「!! うああああああああああああああ!!」
「さあ、こっちも」
容赦なく掌を撃ちぬく薔薇に瞬が叫ぶ。その声さえどこか甘美で…縊り殺したくなる。
「うっ…な、なにを……」
「いったい何度言わせるの。殺すのよ」
じわじわとね。
アフロディーテの柔らかな唇が瞬のそれに落とされた。
「んっ…!!」
まるで噛みつくように少女の口内を蹂躙する。飲みきれなかった唾液が瞬の口角を汚した。
「は……」
「いい顔。ますます……殺したい」
そのまま舌でつつ、と首筋をなぞれば、少女は抵抗してみせる。いやいやと頭を振り、アフロディーテを拒む。けれど彼女はなんの容赦もしなかった。瞬の亜麻色の髪を掴むと強引にあごをあげさせる。
「ぐっ!!」
「バカな娘……ここを噛みきられたら死ぬのよ……」
アフロディーテの唇が、喉元で止まる。そこを噛みつくように食めば少女は目を見開いて仰け反った。
「あ…ああ…」
浮かべる微笑がひどく冷たかった。
アフロディーテの爪が、今度は瞬に残されていた薄い布を剥いだ。
現れるのは白く、まだ男を知らない未熟な体。
ごくわずかな胸元の膨らみの先に桃色の小さな果実。
冷たい感触に怯えつつ、幼い少女はこれから身に起こる事象を想像できないでいる。
「…可愛いわね、まだ誰にも触れさせていない……」
綺麗な指先で、瞬の体を撫でる。未知の感覚に瞬の体がびくりと震えた。
面白そうに続けるアフロディーテの手。けれどその目には侮蔑の色しかない。
胸元を飾る果実に唇を寄せ、こりこりと歯で噛んだ。
「んっ…ぅ…」
「残念だわ。私が男だったら……ぐちゃぐちゃにしてやるのに」
あの人に傷をつけた、これがその報いよ。
「許さない…」
お前を、許さない。
いつのまにか手にしていた黒薔薇の茎が鋭く切断されていた。その鋭利な茎が瞬の肌を切り刻む。
「うああああああああッ!!」
突き刺し、深く深く突き刺し、肌を肉を滑る。幼い体に無数の切り傷を刻んでも刻んでも飽き足らない。
「くあっ…がっ…うぐっ…」
「顔だけは、傷つけないでいてあげる。女同士のよしみでね」
「あ……」
苦痛にさえ恍惚の表情を浮かべる淫靡な少女。生贄たる乙女の純潔がこれかと、笑わせてくれる。
残酷な女神はそれがおのれのテーゼとばかりに、その手に白薔薇を握った。
「これで最後よ。この薔薇があなたの血を吸い尽くしたら…」
白薔薇の茎の先で、果実を弄る。
「っ…」
「あなたは死ぬ」
す、と高く掲げられた死の薔薇。
それを遮る、薄紅色の小宇宙。
アフロディーテは思わず瞬の上から退かざるを得なかった。
「なんなの、この期に及んで!!」
満身創痍のアンドロメダから溢れる小宇宙。楔なる黒薔薇さえ、吹き消した。
「…私をここまで追い詰めてしまった、あなたの罪よ…」
「なんですって?」
傷だらけで、血も足りない体を叱咤して、アンドロメダの名を持つ戦乙女は立ちあがる。
「私は…私はみんなと約束したの、最後まで諦めないで戦うって。あなたを殺すまで、私は死なない…」
「愚かな、そんな体でなにが出来るって言うの?」
アフロディーテが高らかに笑う。けれど瞬は静かに立ち尽くしていた。
ふと、気付くのは彼女の周りに落ちていた薔薇の花びらがくるくると舞い始めたこと。
アフロディーテはなにもしていないというのに。
花びらのいくつかは小さな炎を上げて燃え落ちた。
「なんなの…なにをした! アンドロメダ!!」
「…言ったはず。私を鎖から解き放ってしまったあなたの罪だと……」
瞬の細い指先、姫の手がくるりと小さな輪を書いた。
「ネビュラ…ストリーム…」
だが、なにも起こらなかった。少なくとも、そう見えた。
「ネビュラストリーム…? ふっ…いったいそれはどんな…な、なに…」
薔薇を構えようとしたのにまるで見えない何かに縛られているかのように体が動かない。
「…何をした」
「私は、出来ることなら生身の拳は使いたくなかった。だって鎖ほど自制が効かないもの…」
死にかけた少女の体から燃え立つ小宇宙が風となって花を燃え舞わせた。
戦うことを避け、守ることに徹してきた少女の最後の抵抗。
「気流が嵐になったら、私でも止められない。誰か死ぬまで…」
「くっ……」
アフロディーテがもがいても、わずかに動くことが出来ただけ。気流は徐々に激しさを増し、彼女を拘束していく。
「この小娘が…」
「……もう、謝ってもらおうなんて思いません。あのときあなたは私に言った。あなたは自分の大切な人のために戦うんだって。そのためならなんでもするって…」
「……ええ、覚えてるわ。私には私の命より大事な人がいる」
その言葉に、瞬はにこりと笑った。
「それは、私だって同じです。私にとって師も、兄も、友も……そしてアテナも……みんな大事です。私は…私を愛してくれる人のために戦います……それが、今なんです……」
アテナに愛され、許されて聖闘士になった今だから。
「…さよなら、アフロディーテ」
「バカにしないで!! これくらいの気流で黄金聖闘士である私の動きを封じたとでも思っているの!?」
アフロディーテがぐっと力をこめる。彼女の周囲の気流がその気迫に耐えきれずに流れを変えた。そしてその変化が瞬にそのまま返って来る。
「うっ…ここまで高めた気流を破るなんて…」
「見くびらないことね、小娘の分際で!! さあ、とどめよ!!」
アフロディーテが薔薇を構えた。
「死ぬしか、ないんですね…」
瞬の気流が嵐に変わり、そして。



女たちの戦いが終わった。



消えた小宇宙に、サガがはっと顔を上げる。
「アフロ……ディーテ?」
薔薇の香りも、彼女の気配も、何もかもが消える。
それは愛しい女性の死を意味していた。



それはまさに花葬。
瞬の柔肌を貫いて、心臓に咲いた白い薔薇。
アフロディーテの聖衣を貫いた、銀河の錘。
爆発した嵐のなかで互いの心臓を刺し貫いて、女たちは倒れた。
「アンドロメダ……」
粉々に消し飛んだはずの鎖は瞬の闘争心に反応する。先に蘇っていた角鎖がアフロディーテの心の臓を過たず撃ちぬいていた。
「サガ…あなたが言ったのは、これだったのね……」
守ろうと願う心が同じだと、彼は言った。
喉を上がってきた鮮血を吐いて唇を紅く染める。
「サガ……サガ……」
教皇の間へ向かって。
最後の一輪を捧げて。
「ごめんなさい、サガ……」
アフロディーテは絶命した。
だが瞬も無事ではない。心臓に刺さった白薔薇がどんどん血を吸っている。
もはや立っていることもままならず、彼女は背中から倒れた。
「…星矢……ごめんね、星矢」
君の後を追うって言ったのに、行けそうにないや。
口元だけで微笑んで少女はそっと天に向かって手を伸ばす。
「兄さん…紫龍…氷河……私も、逝くわ……」
星矢ひとり残して逝くのは辛いけど。
「驚かないでね、血まみれだけど」
ぱたり、と手が落ちる。
その手を男が踏みつけた。
「お前が双児宮で殺していれば良かったんだ…俺の言ったとおりになった。アフロディーテはお前のせいで死んだ!!」
もはや物言わぬ少女を無残にも蹴り上げて、踏みつけて。
胸に刺さる薔薇を、何度も何度も突き刺しなおした。
「サガ! お前が殺したんだ!!」
水に遊ぶ裸足の女神を。
「お前の甘さが、浅はかさが!!」
そのすべての憎悪を、少女の死体にぶつける。
『よせ!!』
「…これ以上、何を止める」
『その娘はもう死んでいる。これ以上いたぶるな』
「…お優しいことだ。ペガサスは、殺すぞ」
これ以上、邪魔はさせない。
女を亡くしたから、地上だけは手に入れる。
本当はその傍らに女王として君臨してほしかった。
「アフロディーテ……」
サガは彼女の死体のそばに膝をついた。紅く染まったマントで遺体を包み、ゆっくりと抱き上げる。
「魚は水に、花は大地に。そして君は私に帰る……」
その名を呼んでも応えない。
知っているのに何度も呼びつづけた。



瞬はたったひとりで双魚宮に残された。
上半身は傷だらけの裸体。舞い散った花びらの上に崩れるように倒れている。
(…まだ、死んではならぬ)
ふわり、ふわりと蝶の姿を借りて現れた黒の魂魄。飛ばされた星をそっと拾い上げた。
「…惨いことをする」
蝶はやがて男の姿となり、瞬の体を抱き上げた。

双魚宮にその男あり、物言わぬ少女に語り給えり――愛しき器よ 還り来よ

白く冷たい唇にそっと口づけ、男は口移しに小宇宙を送る。
瞬の指先がぴくりと動いた。
「…だ、れ……」
力なく動く唇がそういった。
男は再び口づける。
「時は、まだ満ちていない。そのときまで、さらばだ……」
傷も薔薇もそのままに、けれど星だけ丁寧に繋ぎなおした。
“YOUR'S EVER”
あなたは永遠に私のもの。
「……愚かなことだ」
ばっと、黒衣を翻す男は死の先を逝く者。
横たわる少女に憐憫の眼差しを向けた。
「神の器を傷つけるとは……だが、その代償は大きいぞ」
ニュクスの夜を飛ぶ、まやかしの王。
「ただでは済まさぬ…」
その慟哭を、余のために。
死してのちもその魂、いたぶり続けてくれよう。



教皇の間に、二人の男。
諸悪の根源であり今回の騒乱の張本人、ジェミニのサガ。
たったひとり、友の死を越えて来たペガサス星矢。
「よくぞここまで来たものだ……だが、ここがお前の墓場だ、ペガサス」
「俺は、ひとりじゃない。お前なんかには絶対に負けない!!」
アテナに愛されたペガサスはその翼でどこまでも高く舞いあがる。
「ならばその翼を砕こう」
サガの指先が、星矢の背後を示す。
「お前の後ろに、だれか着いてきているか? フェニックスも、ドラゴンも、キグナスも……そしてお前が愛したアンドロメダも先ほど死んだ」
「瞬!」
星矢が後ろを振りかえる。振りかえっても、双魚宮が見えるはずもなかった。
小宇宙を全く感じないが、死んだとは思いたくない。
『必ず後から行くからね…』
そう言って微笑み、口づけた瞬の笑顔が儚く甦る。
星矢はかぶりを振った。
「…嘘だ! 瞬は死んでいない!! 瞬だけじゃない、みんな…みんな必ず」
星矢の拳が怒りに燃えて煌く。
来るがよい、聖闘士最勇・蒼天のペガサスよ。
「全力で、お前を殺そう」
出会いは13年前、愛したのそのすぐ後。
蜜月とは呼べない戦いの日々の中、男は女を、女は男を愛した。
男も少年も激昂していた――大事な人を亡くして。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
悲しみと怒りに彩られた拳が互いを切り裂く。



男達の戦いは今、その火蓋を切って落とした。




愛していた――深く強く。
いつまでもどこまでも一緒だと信じて。




君がいない世界じゃない――君といた世界だから。
心から微笑んでくれた君のために。



愛しい君の名を、魂の奥から叫び続ける。




≪終≫





≪激しく反省≫
サガ×アフロに星矢×瞬。書いておきたかった。
書きながら『俺はいつから瞬にひどいことが出来るようになったんだ…』と激しく反省。でも楽しかった(*´д`)。
サガ×アフロと星矢×瞬は俺の中では似てると思うカップルです。
アフロも瞬も大事な誰かのために戦う女性。サガと星矢はそんな彼女を心配そうに見守りながら、でもなにも出来ない、そんな感じですかね。それが書けていればいいと思う。
中途半端に複線も引いてみた。おそらくこの出来事がきっかけだと思うんだ俺は(*゚д゚)クワッ。
そんな感じです。
最後に謝らせて……痛い思いさせてごめんね、瞬たん…。注: 文字用の領域がありません!

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