素顔の君のままで ギリシアの聖域は戦神アテナの本拠地。十二の宮と教皇の間、それにアテナ神殿で構成されている。 そのいちばん最初の宮は白羊宮、牡羊座の黄金聖闘士が守護する聖域第一の宮だ。 そこに亜麻色の髪の乙女が一人でやってきた。 「こんにちわー、いらっしゃいますかあ?」 少女の声が白亜の宮殿に響く。その声に応えるように20歳の女性が出てきてくれた。淡い紫の髪を房飾りのついた紅紐で緩く束ねている。少女を見て、その女性はにこりと笑った。 「こんにちわ、ムウ」 「おや珍しい、私を訪ねてくるなんて」 「ええ、まぁ」 その少女の存在はムウを和ませる。いや、彼女だけではなくこの聖域に住まう女性たちはこの少女に在りし日の自分を重ねて懐かしむ。淡紫色の髪のムウはそっと手を差し伸べた。 「お入りなさい、瞬」 「はい」 瞬と呼ばれた少女は少し儚げな笑顔を見せて宮の中に姿を消した。 部屋に入ると若草色の長い髪の女性がいた。 ロングソファの上に仰向けになって通販カタログを見ている。その容姿は彼女を優しそうに、そして理知的に見せた。 白羊宮に住まうのはふたりの女性。似たような眉には何か呪術的な意味があるのか、珍しい形状に整えられている。 その女性たちは聖闘士の中でも特殊な技術を擁していた。 豊かな乳房を少し邪魔そうに揺らしながら瞬を見て笑顔になる女性は先代の牡羊座にして前教皇でもあったシオン。カタログに付箋をつけるとパタンと閉じてマガジンラックに放りこむ。 シオンは前聖戦の生き残りで、魅惑を通り越して超魅惑的な肢体を持っている。 まだ少女の身体を持つ瞬には憧れだった。 「アンドロメダではないか。よう来たのう。ほれ、ムウよ、客人には茶を淹れよ」 「わかってますよ」 「あっ、手伝います」 ムウの後を追おうとした瞬の手をその女性はぎゅっと握って引き止めた。強く握られているわけでもないのに柔らかいその手の感触が気持ちよくて動くが出来ない。 「シオンさん……」 「いいから座っておれ。そなたの話も聞きたい。なにやら面白い事になっておるようだしのう」 「面白いって……」 瞬はシオンが寝そべっていたロングソファに招かれた。シオンの横にちょこんと座ると瞬はまるで小さなお人形のように見えた。 彼女の言う面白い事とは、アンドロメダの少女を巡る恋物語。 自分が通信販売の代金を巡って天秤座の童虎と不毛な争いを続けている間に事態はどんどんステキで愉快な方向に動いているようだ。自分たちの時代にはなかった、いや、神話の時代から見ても稀に見る珍事だ。 ゆえに、とても気になる。 シオンはにこにこ笑いながらぎゅっと瞬を抱き寄せる。大きな乳房に埋められて瞬はもふもふと呻いた。 「く、苦しいですぅ……」 「ほほほほほ、じゃがふかふかしておろう?」 「……羨ましいくらいに」 シオンは瞬が可愛い孫であるかのように亜麻色の髪を撫でた。 瞬はアンドロメダを拝命する青銅聖闘士、女子の中では最年少だ。 その少女に思いを寄せる男がふたり、壮絶かつ抱腹絶倒、歌劇団も裸足で逃げ出す壮大な恋愛劇の真っ只中。 遠い東洋の島国に住まう瞬のもとに夜毎訪れると約束して愛を囁き続ける男はギリシア神話に名高いオリンポス十二神が一柱。 「冥王ハーデスとはもう寝たか? ん?」 瞬はシオンのいう『寝た』の正しい意味が分からずにきょとんとした。 「寝たって……毎晩添い寝はしてもらってますけど」 「添い寝! 添い寝とはまた初々しい! かーっ、冥王もそなたもなかなかじれったいのう。私はセックスはしたのかと聞いているのだ」 「せっ……」 あからさまな単語に頬を真っ赤にした瞬を見てシオンは彼女がまだ処女であることを確信した。 「なんと、ハーデスも奥手なことよ! アンドロメダはまだ清い身であったか!」 「けっ、結婚するまでしないって、あのひと言ってましたから……」 なにかされたわけでもないのに急に恥ずかしくなって、瞬は思わず胸元の布を握り寄せる。淡い薔薇色の鉱石がからんと揺れた。 「ふむ、それはそれは。だがアンドロメダよ、ときにはガツンと食うことも必要じゃ」 「はぁ……」 さすが前聖戦の生き残り、ありがたい教えだと瞬は時折赤くなりながら黙って聞いていた。 「お師匠、あんまり変なこと教えないでくださいよ。その子は近年稀に見る純粋な子なんですから」 3人分の茶を持って現れたムウがやれやれとため息をつくとシオンが反論する。 「なにが変なことじゃ。男女の営みについて正しいことを教えるのが先人の勤めであろう」 「お言葉ですがガツンと食う、という言葉のどこに正しさが見えるのでしょうか」 「身に覚えがないというか、ムウよ」 「はい、お茶ですよ」 「ありがとうございます」 ムウはちゃっかりと誤魔化し、瞬は見ざる言わざる聞かざるのお猿さんを背負った。 「そういえば瞬、何か私に用があったのではないのですか?」 スパイスの香りが独特のムウ特製チャイを飲んでいた瞬がそうだったと、自分の横に置いていた麻の袋を膝の上に置いた。 中から取り出したのは線対称にふたつになった白銀の仮面、目元に赤い隈取が見られる。 それは既に形骸化して久しいが今でも女性の聖闘士には必ず付与されるもの。 本来女人禁制とされた聖闘士の世界に足を踏み入れた女性が、その性を捨て去るためにつけていた。 「それは……そなたの仮面か」 瞬は黙って頷いた。 「私の師であった白銀聖闘士、ケフェウスのダイダロスが下さったものなんです……」 少女は静かにそう言った。 ケフェウスのダイダロスの名が出て、シオンもムウも押し黙る。 インド洋はソマリア沖に浮かぶ孤島・アンドロメダ島でふたりの少女を聖闘士として育てていたダイダロスはたったひとりの男の狂気の犠牲になってしまった。 わずか6歳で白銀聖闘士となった彼が教皇であった自分の前に現れた日のことをシオンは懐かしく思い出す。 そしてぎゅっと胸元に拳を当てた。 厳冬の双子星のひとつが海に消え、そしてまたひとつが夜の闇に染まっていたのに、なにも、どうする事も出来なかった1 3年前のあの日。 その後の動乱は少年少女に過酷な戦いを強いることになってしまった。 「……形見に、なってしまいました」 瞬がそっと仮面を抱いた。もう忘れようと思った初恋の師をどうしても思い出してしまう。 アテナ沙織が邪悪を燻し出すために開催した銀河戦争の五日目。 ユニコーン邪武をこてんぱんに伸していた最中に現れた実兄の手によって、彼女の仮面は真っ二つに割られてしまった。瞬の身代わりにデスクィーン島へ修行にやらされ、鳳凰星座の聖闘士として戻ってきた兄、一輝。彼は阿修羅と化し、実妹である瞬も、ほかの異母兄弟たちもすべてを抹殺しようとしていた。 からん、と音を立てて剥がれ落ちた仮面の下の素顔は悲しいほど美しかった――涙と傷による血が流れていなければ悲しいと思うこともないほどに。 それからの戦いで、瞬は仮面をつけることはなかった。 最愛の兄と、大切な仲間たちの前に隠すものは何もなかったからだ。古い掟に従って仮面の下の素顔を見た星矢たちを愛することを選んだといってもいい。 そんな中、瞬はふと胸騒ぎを覚えてひとりアンドロメダ島へ急いだ。 消えていく師の小宇宙と命の灯火を海の上で感じながらたどり着いたときにはもう遅かった。 真紅の薔薇の葬列に送られて、ダイダロスは砂地に背中から倒れていった。 「この仮面は修業を終えて日本に帰る私にくれたんです」 細い指先が綺麗に割れたラインをなぞる。 今になって思えば仮面が割れた事はダイダロスと自分を引き裂く何かを暗示していたのかもしれない。 「瞬……」 ムウがそっと瞬の隣に座り、その肩を抱いた。 彼女が泣いているように見えたからだ。 「……その仮面、どうする?」 誰が師を殺った、とは聞かなかった。聞かなくても分かっていた。 瞬はすべてを知り、理解したうえで今でも笑顔でいられるのだとシオンもムウも感じていた。 だからこっそりここに来たのだ、と。 「……手放そうかとも思ったんですけど、やっぱり捨てられなくて」 初めての恋を捧げられないまま逝ってしまった師。 優しさと厳しさを教えてくれたダイダロス――少女の胸に住まう永遠の男。 その男がこの世に残したのはジュネと瞬と、それぞれの仮面。 「……修復をお願いしたいんです」 シオンとムウは静かに頷いた。 「どれ、私が久々に修復してやろう。聖衣ではないから自分でくっついたり、ということはないからのう。ムウ、いつもの用意じゃ」 「はい」 ムウは言われるままに銀星砂とコルクで蓋をされた水差しを持ってきた。 中身はオリーブ油だという。 「ただのオリーブ油ではないぞ。神話の時代に我らが戦神アテナが海皇ポセイドンとアッティカの地を巡って争ったときに生じさせたオリーブの木からとったものじゃ」 銀星砂を小さじにひと掬い、それを陶器に盛り、同じくひと匙のオリーブ油をかけてよく練る。 シオンはそれを銅製のへらに取り、切断面に丁寧に塗りこんだ。 左右とも均等に塗り、あわせる。 「瞬……」 「はい?」 シオンは穏やかに呼びかけると瞬を仮面の正面に立たせた。 「仮面の上に手をかざし、小宇宙を燃やせ。深く強く、祈るように……」 「はい」 瞬は深く息を吸うとその白い手を言われるままに仮面の上にかざした。 (先生……ダイダロス先生……) ぽおっと燃え立つ穏やかな薄紅色の小宇宙。淡い銀河はアンドロメダ大星雲、聖衣においては星雲鎖と呼ばれる。 やがて小宇宙に呼応するかのように銀星砂が仮面に馴染む。 暁の光が月光を染めていくようにみるみるうちになだらかになり、やがてひとかけらの粒も見えなくなった。 「もうよいぞ。修復は終わった……」 シオンの声に瞬の小宇宙がすうっと消えた。 目を開けると師にもらったままの状態で仮面が蘇っている。白銀の仮面が光を粒子状に弾いた。 瞬の顔が笑みに満たされる。 「ありがとうございます、シオンさん、ムウ」 「なんのこれしき。可愛いそなたのためじゃ」 シオンにとって若き闘士たちはみな愛しい存在だった――たとえ何があっても。 それからしばらくハーデスとカノンについて談笑し、多少余計且つ重要な知識を与えられたところで瞬は白羊宮をあとにした。 「……あの子は私と同じ」 「お師匠様?」 シオンは何杯目だか分からないチャイをぐいっと飲み干した。 「……大事な人と引き離された。星の運命のもとに」 シオンは天秤座の童虎と弟子のムウと。 瞬はダイダロスと。 「星が流れたのを知っていながら何も出来なかった……それが私の罪か」 シオンはそっと我が手を見る。 自分は童虎や弟子のもとに戻ってきたのに、瞬の師であるダイダロスは戻ってこなかった。 「だからお師匠は瞬の仮面を修復したのですか? いつもなら仮面くらいつばつけとけって仰るあなたが」 「……こんなことで許されるとは思わぬがな、まあ気は済んだ」 あの笑顔をそのまま守れるのは冥王か、それともカノンか。 「のう、ムウよ。おぬしはどちらに賭ける」 テーブルの上のカップを片付けながらムウが言う。 「私はハーデスですね。こまめに贈り物もしているようですし、初心者同士うまくいくのかもしれません」 「なるほど。手馴れたカノンではちと分が悪いところもあるかのう」 まだ13歳の少女の恋人となるためにはぐいぐいと引っ張って押し倒すよりもゆっくり丁寧にそばをそっと歩いたほうがいいのかもしれない。 彼女がどちらを望むか、にもよるが。 「瞬は乙女座の生まれだったか」 「ハーデスもですけどね」 「恋に臆病且つ慎重、遊び半分の恋に無縁の乙女座、か」 瞬の胸で揺れていたローズクオーツのペンダントは自身の罪に泣いていた彼女の魂の安寧を祈って冥王が捧げたもの。思い出してシオンはふむと頷いた。 「神に捧げものこそすれど逆に捧げられるとは瞬も恐ろしい娘よ」 シオンはふふふと笑って再びソファに仰向けに寝転ぶ。読みかけの通信販売カタログの続きを読むためだ。 「先生……やっと、直しました」 仮面を修復する必要も暇もなかった。この時代におけるすべての聖戦が終わった今、瞬は失くしかけた初恋を再びその手にした。いつか別れる、いつか離れるこんな思いでも、たったひとつダイダロスとの間に残した淡い思い出。 陽光煌く南欧の海に、あのひとはいない。 彼がいるのはここからもっと東のインド洋、たったひとりで眠っている。 「先生……」 瞬はそっと仮面をつけた。 もう二度とすることもないと思っていたその仮面に師の顔が浮かぶ。 「あなたを殺した人と、私は笑ってる……だけど、恨んでないんです。恨めないんです……」 優しさとか、そんな陳腐な感情じゃなくて。 「それが愛だったから」 同じだと分かった瞬間、すべての感情が消えた。 「愛ってなんでしょうね、先生……」 海も空も、何も答えてはくれなかった。 シフォンの柔らかい布を風が優しくそよがせるだけ。 「ここにいたのか」 凛として響くテノール、同じ声でも瞬は間違えない。 「サガ……」 振り向く前に瞬はさっと仮面をはずしたが、サガがそれを見逃すはずはなかった。 だがサガは見覚えのあるその仮面には触れなかった。気になるのは瞬もサガとカノンを間違えないこと。 「……どこで私とカノンを見分けるんだい?」 「小宇宙がぜんぜん違いますよ」 瞬は仮面を隠さずに言った。 「どう違う?」 「ご兄弟なのに分からないんですか?」 瞬はちょっといじわるそうに笑う。彼らは双子でありながらも自分と一輝ほど、わかりやすい兄弟を演じていない。 ただ魂の底で互いの存在を否定しないだけだ。 サガとカノンは容姿も声も、まるで鏡の中からもうひとり現れたかのようにそっくりだ。 だが持ち合わせた運命はまるで違った。 「雨があがったばかりの曇り空」 「ん?」 「雨が上がったばかりの曇り空の隙間からこぼれた陽光みたいな小宇宙がサガです」 「じゃあカノンは?」 「この風景みたいに、海と空の青を併せ持った小宇宙です。そこに一羽の白い鳥が飛んでる……そんな感じ」 少女が抱いたその感覚があまりにも詩的で、サガは微苦笑して見せた。かつてそのように表現した者はいない。 「自分の小宇宙って、意外とどんなふうに見えてるのかわからないですよね。そんなこと気にしたこともなかったですし」 「カノンは……薄紅色の可愛い小宇宙だとしか言わなかった。アレは君の本質をわかっていないな」 「じゃああなたにはわかるんですか?」 少女の顔に僅かに見えた刃物のような鋭さ。 サガは動じなかった。 「君の小宇宙は薄紅色。穏やかで……そう、花開く前のハナミズキのような」 恋から愛へという花言葉を持つハナミズキ。瞬は今まさにその状況に身を置いている。 まだ自分の愛を向ける誰かがわからないから、咲きかけ。 「でもそれじゃやっぱり可愛いだけじゃないですか」 「そしてその中に抱く銀河が……」 サガは自分の目の下にそっと指を這わせる。今はもうすっかり消えて痕もないが、彼女の渾身のサンダーウェーブが掠めたのはこのあたり。 「君と、君の大事なものを守ろうとする強さを秘めている」 瞬の手の中の仮面が僅かに震えた。 「……私は何も守れない。守ろうと頑張るふりをしていたのかもしれない」 仮面の送り主はもういない――守りたかったのに守れなかった。 「誰も傷つけたくないなんて言って、私は何人も倒してきた」 「双児宮で君と戦っていたのは私だ。双魚宮で瀕死の君に止めをさそうとしたのも」 「知っています。あなたに会ってすぐにわかりました。あなたが私の師の仇のひとりであることも」 じゃら、と音さえしなかった。 瞬の手に握られていたのはアンドロメダの星雲鎖。 右手に攻撃の角鎖、左手に防御の円鎖。あの日サガを傷つけたのは角鎖のほうだった。 東洋神話に見られる天女の羽衣のように鎖が瞬の周囲を柔らかく舞う。だがほっそりとした右腕にしっかりと巻きつき、さらに手から先はまっすぐサガに向けられていた。 先端に鋭角三角形のプレートを持つ角鎖はまるで剣のようにまっすぐに瞬の手元にある。 我が身を守り、遠くの敵を討つだけでなく、鎖は様々に姿を変えて主たる少女の剣となり盾となる。 ぴたり、とサガの喉元につきつけられた。 瞬の闇の瞳に映る銀河が冷たく冴える。 「本当の仇はアフロディーテじゃなくて……あなた。教皇だったあなたに不信を抱き、召集に応じなかったというだけで、あなたは我が師ダイダロスを殺させた」 「……そのとおりだ」 サガはなんの弁明もしなかった。 自分の中にいた悪という名の闇に負けて犯した罪の数々――ダイダロス抹殺指令はそのひとつだ。 その命令に応じたのが魚座のアフロディーテ、彼女はサガの大切な人だった。 彼女はサガのために血に汚れることなど、厭わなかった。 そして今目の前で鎖を構える少女も、愛した師のために拳を振るうことに躊躇しなかった。 「私を殺すか?」 「死ねといったら死んでくださいますか?」 引けばぐっと喉を突く、進んでもこれ幸いと刺し貫く。紙一重のところで鎖は留まっている。 サガは静かに目を閉じた。 自分のそばで、二人いた自分のそばで罪を重ねるたびに泣いてくれたアフロディーテの顔を思い浮かべる。 やっとこの手で守ってやれる、生涯一度の激しい恋をした女性。 ゆらりと燃え立つ蒼金の小宇宙はその決意も新たに少女の鎖をぴりっと震わせた。 それだけでよかった。 「だが死んであげるわけにはいかないな」 「ええ、そうでしょうとも」 瞬はにっこり笑って鎖を引いた。 「触らなくて正解です。敵意を持つものが触れると一万ボルトの電流が流れます」 もういいわ、と瞬が鎖を撫でるとそれらは銀の光となって虚空に消えた。 瞬は仮面を見つめて言う。 「……私はもう笑えるんです」 「瞬……」 その言葉通り、少女はいつもの微笑をサガに見せた。 「みんな同じなんです。守りたいものがあって、そのために戦っている。力こそが真の正義だなんて思わないけれど、守り抜くには力が必要だった。あのときの私にはそれがなかっただけ……」 砂地に倒れていくダイダロスの姿に叫ぶことしか出来なかった。 その場で仇を討つこともなく、泣きじゃくるだけだった。 この細く弱い指で大地を掘り返し、師の亡骸を葬り、また泣くしかなかった。 「あなたこそ、本当に私を殺そうと思えば出来たはず」 「……そうだな、殺そうと思えば」 サガの手が、瞬の首にかかる。 「私と、アフロディーテのために……」 小鳥の首をしめるように、きゅっと。 少女は美しい声で鳴いて死に逝くだろう。 「だが殺せなかった。何故なのかそれは今でも分からないよ」 さら、と瞬の亜麻色の髪がサガの手に触れる。風によってさらされた首元に見える赤い痕は所有の印。 それをつけたのが誰かは残り香のようにそこにとどまる小宇宙が教えている。 瞬は冥王ハーデスに魅入られた、神の器としての運命をも持って生まれた少女だった。 「予感さえも、なかったな」 「当の本人である私だって知らなかったんですよ」 首に回されたサガの手に瞬の指先が触れる。かつてその指は、髪は冥王ハーデスのものとして冥界に君臨した。 だがサガも瞬もアテナの聖闘士、そう易々と冥王の軍門に下りはしなかった。 もしあのときサガが本気で瞬を殺していたらどうなっただろうと、ふたりして怖いことを考えて笑う。 サガはすっと手を離した。彼女の首に残るのは温かい感触だけ。 その温かさはやはりカノンのそれとよく似ている。 でも似ているだけでやっぱり違う。 サガの手はすでに守るべきものを知っている。けれどカノンの手はまだそれを探して彷徨っている。 「……君が笑ってくれるなら」 青年の髪がさわと風に揺れた。 太陽の光を切り取り、月光の儚さを飾る髪。 暁の空の瞳。 「君が笑ってくれるなら、それだけで私たちは救われる……」 「サガ……」 「……すまなかった」 もう戻らない、君の大事な人のために。 そのひとことが瞬の手から仮面を落とさせた。まるで彼女から淡い恋をはがすようにからんと冷たい音を立てて。 「っ……サガっ……」 優しさと未熟さで形作られた世界の何かが崩れたとき、少女はその欠片を涙にして泣くのだろう。 「アフロディーテを亡くしたとき、私は君の気持ちが分かったよ」 「もうやめて!!」 やめて、と、瞬は膝から崩れ落ちた。 「もう……もう戻ってこない!! ダイダロス先生は戻ってこない!!」 ハーデスでさえも所在を掴めなかったダイダロスの魂。 幾千億という生命が生まれ逝き、混沌たる世界を時の流れに乗って巡る。 瞬が師を思う、それに嫉妬したハーデスが故意に隠しているわけではないということは彼女にも分かっていた。 「私に残ったのは、この仮面だけっ……」 目に見えて残った思い出は、この白銀の仮面。 『瞬、君は女性の聖闘士だから、これを』 『……綺麗』 『掟については先日教えた。つけるつけないも君の自由だ、どうする?』 ダイダロスに言われる前から、瞬の心は決まっていた。 『つけます』 兄と、友と、そして大好きなあなただけが私の顔を知っていればいいから。 「その仮面は私がダイダロスに与えた」 「え……」 「ダイダロスが少女を弟子に取ったと報告があったから……アテナの名の元に教皇として私が与えた」 ダイダロスは修行を始めたばかりの瞬を置いてこれないからと聖域には来なかったから雑兵に命じて届けさせた。 サガがすっと仮面を取る。 彼もまた、瞬とは違った意味で仮面をつけていた男だった。 正体を知られぬように、善と悪の間に揺らめく顔を見られないように。 それを見せたのはアフロディーテにだけ。 「誰しも守りたいもの、秘したいものを持っている。君はこれから探すんだ」 サガの手が瞬の肩をつかんで、そっと起こした。 瞬は泣き顔を隠さなかった。 「そして、間違えないように。私やアフロディーテのように間違えてはいけない。けれど選んだ以上、その選択を後悔してもいけない」 「……サガ」 「私が間違えたのは、アテナの聖闘士としての生き方だ。アフロディーテを愛したことは何ら間違っていないと、生涯信じぬくよ」 「それが、愛ですか?」 「私にとってはそうだ」 瞬は袖で涙を拭った。 その少女の手にサガはそっと仮面を握らせる。 「大事にしなさい。その思いも……」 瞬はまだ少女なのに、もう思い出に生きることを余儀なくされている。 そしてそうさせた愚かな大人たちを、瞬は誰一人として責めない。 アテナの戦士として生きるのに青年も少女もないから、戦場には恋も愛もないから。 友の屍さえ越えてゆけと、教えられてきたから。 けれど魂の奥深くにいる少女はときどき手を伸ばして叫ぶ――返して、と。 「行こう、アフロディーテに叱られる」 「え?」 「お茶の時間だから呼んできてと言われたんだ」 サガは瞬をゆっくり立たせると膝の砂を払ってやり、目元にそっと指を当てた。 「目を閉じて、じっとして……」 瞬は言われるままに目を閉じた。サガの温かい小宇宙が涙のあとをそっと消していく。 うっすらと赤みの差す、笑顔の優しい少女が戻ってきた。 「泣き顔のまま連れて行ったら、何を言われるやら……」 魚座のアフロディーテは瞬を妹のように可愛がっている。瞬も彼女を姉のように、母のように慕う。 それぞれの星を抱いて生まれた女たちはそれぞれに守るべきもののために戦った。 「ねぇ、サガ」 「うん?」 「あなたは私が笑ってくれれば救われるって言いましたけど、それは私も同じですよ」 幼かった恋心の復讐を果たした少女は、だから分かりあえたのだと微苦笑して見せた。 サガは何も言わなかった。 ただ瞬の手を取り、導く。 自分が奪ってしまった少女としての時間を大事に過ごしてもらいたいから。 ブルーベリーのガレットを口にし、瞬はおいしいと笑う。 そんな瞬を見て、よかったとアフロディーテが笑う。 サガはカップ一杯だけ茶を飲んで仕事に戻る。瞬は時間を取らせてしまったようで心苦しかったのだがサガが気にするなと言ってくれたのでその言葉に甘えることにした。 「ねぇ、瞬」 「なんですか?」 ガラスのティーカップの中で踊る真紅の花弁を見つめながらアフロディーテが言う。 「私はね、あなたには何でも教えてあげたい……お料理もお化粧も、それから恋も……」 山桃桜色に塗られた綺麗な爪先、カップの縁を拭うアフロディーテの指。 その爪の色は瞬にはまだ馴染みの薄いネイルエナメルのもの。 「私はね、サガがいればそれでいいの」 「アフロディーテ……」 艶めく唇に塗られているのはクリスタルピンクのリップグロス。 彼女の手の中に現れた薔薇は黄色――花言葉は、嫉妬。 瞬の向かいに座っていたアフロディーテは静かに瞬の横に席を移し、棘のないその薔薇を少女の亜麻色の髪に挿した。 「深い意味はないわ。ただ、あなたが羨ましいだけ……」 「どうしてですか? 私はその……まだ誰を恋人にって決めてもないし、胸だってぺたんこだし……」 この世の何よりも大切なサガがそばにいて、女性としての美貌も持っているアフロディーテがいったい瞬の何を羨ましいというのか、まだ13歳の少女には分からなかった。 アフロディーテが少し寂しそうに笑う。 「だって、これからなんだもん。瞬はこれから恋が出来るんだもん……」 「アフロディーテだって出来るじゃないですか。恋は一生出来るんだって教えてくれた……」 空と海の柔和な青だけを持つアフロディーテの髪と目が優しく瞬を見つめた。 「そうよ。私は毎日サガに恋してる。毎日毎日……毎日変わっていくあの人に恋をしてる」 「だったらなんで……」 「私は、サガを救えなかった」 「アフロディーテ……」 「救えなくて、ただそばにいるしか出来なくて……あなたの師を殺した」 ぽろりと、アフロディーテの目から涙がこぼれた。 「アテナの聖闘士として、私はサガを討たなきゃならなかったんだわ。シオン様を殺して教皇を騙ったあの人を、私は殺すべきだったの……でもしなかった、出来なかった…………愛してしまっていたから」 邪悪に負けて苦しむ正義のサガ。 正義の心を嘲り笑う事の出来ない邪悪のサガ。 その葛藤を、アフロディーテだけが傍らで見てきた。 彼が望むならこの身この心すべて捧げて、もうどうなってもいいと思った。 それがアフロディーテの愛だった。 「サガと、それを話していたのね……」 瞬はゆっくり目を閉じ、黙って頷いた。 アフロディーテもそうと呟く。 あの日双児宮から、教皇の間から感じた敵対する小宇宙と同じものをこの双魚宮で感じながら、アフロディーテはひとり。 「後悔も何もしていない。私はサガを愛したの……」 瞬はゆっくりと立ち上がるとアフロディーテを抱きしめた。 「すみません、ぺったんこだから柔らかくなくて…」 「何言ってるの、十分だわ……」 何が出来るわけではなかったけれど、そうしなくてはいけないような気がした。 「お互い、これからですね……」 「そうね……」 人として、聖闘士として、そして女として。 アフロディーテはサガと。 瞬は――これから見つける愛すべき誰かと。 昼下がりの双魚宮にふたり。 進むべき道は、隣を行く男こそ違えど、全く同質のもの。 そしてその日はやってきた。 教皇としての仕事を終えたサガはいつものように双魚宮へやってきた。 が、誰もいなかった。 となりの宝瓶宮もその先の磨羯宮も無人。はじめっから無人の人馬宮に天秤宮も閑散として、処女宮も獅子宮も、巨蟹宮でさえも誰もいない。 「……これは……ストなのか?」 買い物に出ているならアフロディーテが騒がないはずはないし、自分が仕事中だということを考慮したならメモくらい残していくはずだ。 「うーん、これは……」 誰もいない理由が全く分からない。とりあえず弟でも捕まえてぶん殴ってみようと、サガは双児宮へ向かう。 すると双児宮からはなにやら賑やかな声が聞こえてきた。 そこにひょっこり顔を見せたのが聖闘士最勇、蒼天駆ける銀翼のペガサス星矢。 「あ」 星矢はサガの顔を見て慌てて双児宮に逃げ込んだ。すると中は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。 「な、何をやっているんだ……」 「……俺も、昨日から追い出されたまんまなんだ」 「カノン……」 まったく同じ姿の弟が豊かな髪を掻き揚げながらやれやれとため息をついた。 聞けば昨日の昼間にやってきたアフロディーテと瞬に出て行けと蹴飛ばされたのだと言う。 「余は、入れるだろうか……」 そんな双子の後ろに不死なる者の声。サガとカノンの背中がピリッと逆立つ。 「げっ」 「冥王……まだ日没には早いのでは」 瞬を妻にと願う冥王はカノンの恋敵。彼はいつもの法衣姿で現れた。これでも略装らしい。 そんな冥王は何を思ったかいきなり瞬にプロポーズ、今は結婚を前提に夜だけのお付き合いをしている。 「うん、日没には早いのだが今宵だけは特別だと瞬が言ったのだ」 「何故に」 警戒心剥き出しのカノンと違って、サガは穏やかに彼と話すことが出来た。 危害さえ加えなければ冥王はいたって普通の青年に見えた。 ハーデスは少し考えて言った。 「……理由は、口が裂けても言うなと言われた。しゃべったら今後一切の付き合いを絶つと。余はそんなのいやだから、言わぬ」 まるで母親からの厳命を守る子供のようだと、サガはこっそり笑った。 神といえども恋の前には手も足も出ないらしい。 「瞬ー、余だー」 呼びかけるとぱたぱたと足音が聞こえてきた。やってきたのは瞬で、彼女は冥王を見てにっこり笑うと何も言わずに双児宮の中へ導いた。 「ちょっ、瞬……」 「ハーデス、早く」 「うん」 困惑する双子をおいて瞬が中に消える。 それからさらに10分後。 優しい飴色のドレスに身を包んだアフロディーテがサガを。 裾の長い穏やかな桜色のワンピースを来た瞬がカノンを。 「お待たせしました」 華やかな笑顔で手を取って、双児宮へといざなった。 今日はあなたが生まれた日 「誕生日おめでとー!!」 星矢の元気のよい声と共に鳴り響くクラッカーに、舞い踊る紙吹雪。 サガもカノンも、兄弟揃っていて忘れていた誕生日。 黄金聖闘士全員にシオン、貴鬼。それに主力の青銅聖闘士たち。アテナ沙織と冥王ハーデスまでご臨席だ。 「これは……」 「やだ、サガったら。自分の誕生日も忘れちゃった?」 「カノンも、忘れてたんですか?」 「……祝ってもらったことなど、ないから」 これまでサガの影として生きる事を強要されていたカノンは思わぬ事態に瞬の手をぎゅっと握った。 冥王はイマイチ気に入らない顔をしたが、今日がカノンの誕生日だからとしっかり植えつけられたせいか、じっと我慢している。それでもひとりぼっちでいるよりはだいぶましなのだ。 そんな冥王の思考をよそに星矢がにこにこと二人の前に立った。 「今日が誕生日なんだってな。おめでとーだな」 「……ありがとう」 ふいに熱くなる目頭をサガもカノンもじっと堪えている。 泣かれては面倒と、シオンが大きく手を打った。 「今日はめでたい日じゃ。ミロ、デスマスク!」 待ってましたと、ご指名のふたりがグラスを配る。うっかり一輝に酒を渡しても誰も何も突っ込まない。 それぞれにグラスがいきわたったところでシオンが高々と自分のグラスを上げた。 「では。ふたりの幸福なる未来を祝して、みなのもの、乾杯じゃ!」 「かんぱーい!!」 チン、とグラスの鳴る音が四方から響く。 カノンは瞬とグラスを合わせた。 「ハーデスはいいのか?」 「今日はあなたの誕生日ですよ、カノン」 気にしないでと少女は笑う。それでも瞬の周囲をうろうろして警戒を怠らない冥王も随分と盲目だ。 まだどちらか決めかねているのは傷つけたくないという優しさと、恋をはじめたばかりだという未熟さ故のこと。 それを愚かだというものもあるけれど、それでも構わない。 少女はいつまでも少女のままではいないから。 カノンにとっても、冥王にとっても、瞬は初恋だった。 だから、渡したくない。 「喧嘩しちゃダメですよ?」 「ああ……」 「うん、分かっている」 日付が変わったらどうなるかは知らないが、と男ふたりこっそり拳を握る。 「よーし!! 座興じゃ!! 童虎、紫龍!! 舞え!!」 早くもすっかり出来上がったシオンがばんばんと傍らのふたりの背中を叩いた。 「仕方ない、いくか紫龍よ」 「はい、老師」 金の虎と銀の龍を刺繍した中国服を纏う二人は天秤座の聖衣から剣を取って合い構えた。 そろりそろりと、古式ゆかしく剣舞を披露する。紅顔の美男子ふたりが舞うさまに女性陣から感歎の声が上がった。 流石は師匠と弟子、一度も舞を合わせたことがないとは思えぬほど見事なものだ。 続いてカミュと氷河が水と氷のイリュージョンを見せる。アシスタントはミロが勤める。弟子の氷河を氷の中に閉じ込めて異次元に送ったはずなのにどこからともなく現れました、と一同大盛り上がり。キラキラと舞うダイヤモンドダストにまたも感歎の声が上がる。 さらにデスマスクとシュラによる情熱のカルメンが場を盛り上げた。 いつの間にか、瞬の横にシオンがいた。 「……よい顔をしておるな、アンドロメダ」 「……はい、いろいろすっきりしましたから」 瞬はそう言ってにっこりと笑った。シオンもそれは上々と、持っていたグラスの中身を煽る。 「よし、ならばそなたも舞え」 「ええっ!?」 「舞え。前教皇として命じる。舞わねばこの場で裸に剥くぞ」 「ご冗談を」 「私は冗談は言わぬぞ」 目が据わっているシオンに瞬はただならぬものを覚えて座を立った。いくらなんでもこの場で裸に剥かれるのはたまらない。 覚悟を決めて、瞬は進み出た。 その手に銀の鎖を握る。 しゃららんと軽やかな音を立てる鎖をまるで薄布のように操って、少女は舞った。 なんの歌謡も音曲も要らなかった。 風のように颯爽と、水のように清らかに。 花のように柔らかに、星のように綺羅綺羅しく。 鎖は少女の意のままにその姿を変えた。 瞬が舞うたびに鎖が鳴る。桜色のワンピースの裾がふわりとあがり、細く白いすねを露わにしても何も気にならなかった。 瞬は気の向くままに鎖を繰り続けた。 そこに舞い降りた、ひとひらの白――アフロディーテの白薔薇だった。 その美しい姿に誰もが言葉をなくす。 常に前線で共にあった少年たちでさえも、瞬はこんなに美しかったかと目を見張る。 そんな少女を変えていくのは恋だと、その場にいた女性たちは舞姫を見つめる。 最後に瞬はさっと鎖を投げ上げた。 銀の鎖は過たずに少女の周囲に銀河を作る。 しゃん、と音を立てて瞬の舞は終わった。 一拍おいて、拍手が鳴る。星矢は大興奮で瞬の手を引き、すげーすげーと誉め続けた。 これにはシオンもご満悦だ。 戻ってきた瞬を見て、サガが微笑んだ。 「すみません、踊ったことなんてなかったから……」 「いや、とても見事だったよ」 「うん、とっても綺麗だったよ。アフロの薔薇も綺麗だったでしょ?」 言葉の後半はサガに向けられたものだった。サガはにこりと笑う。 「ああ、君の薔薇はいつでも綺麗だ……もちろん君も」 「ありがとう、サガ」 サガはそっとアフロディーテの肩を抱き寄せると彼女の髪を耳にかけ、こめかみにふわりと口づけた。 瞬はそれを羨望のまなざしで見ている。 いつか、あんなふうに誰かとまるで呼吸するかのように口づける日が来るのだろうかと、乙女心は淡い夢を見る。 「私……ふたりに会えてよかった」 「瞬?」 少女はただにこりと笑うだけだった。 ふたりに会わなかったらきっと、自分がずっと持ち続けた淡い感情の正体も知らぬままいたかもしれない。 世界はほら、こんなにも色鮮やかで。 復讐の仮面を、偽りの仮面を被り続けていたらきっと見えなかった。 「瞬……」 「はい?」 隣にいるカノンはほんのりと頬を赤く染めている。少しずつ酔い始めたようだ。 「カノン?」 「俺は……君が好きだぁ……」 カノンはパタンと瞬の膝の上に倒れこんだ。膝枕をしたことがあるのは星矢と兄の一輝くらいなもの、瞬はどうしたらと周囲を見回すが誰も応えてはくれない。 そう、誰もが関わる事を避けるその理由は明白だ。 「余は……余はまだ瞬の膝で寝た事がないのにぃいいいい!!」 「ウォッカ一気飲みで酔うとは、カノンもまだまだ子供よのう……」 「いやあああああ!! 私の…私のウォッカが…大事にしてたのに……」 カクテルに使うのはほんの少し。まさか一気飲みされるとは思わなかったらしいカミュがよよよと泣き崩れた。 「カミュ! しっかりしろ!」 「案ずるな、カミュよ。ウォッカくらい私が通信販売で買うてやるゆえ」 シオンはテキーラ片手にまたラッパのみ。今度はデスマスクが崩れ落ちた。 「ちょっと、カノン……」 「う〜〜〜」 そのままカノンは瞬の膝枕で寝てしまった。星矢が羨望の、一輝と冥王が憤怒と憎悪のまなざしでカノンを見ている。 瞬はふうとため息をついた。 「ちょっと重いけど……誕生日ですもんね」 ここは戦場じゃないからと、瞬はカノンの髪を撫でた。 戦うことに疲れて生きる事を放棄しようとした自分を叱咤してくれたのがカノンだった。 男女の恋の駆け引きに疎い瞬を驚かせるような事もいっぱいするけれどそれでも嫌いにはなれなくて。 「欲張りは女の子のたしなみ……」 瞬はそういってふふふと笑った。 翌朝、双児宮は戦場さながらだった。 瞬の膝枕で寝てしまったカノンはアルデバランが運んでくれた。ゆえに彼はその後の動乱を知ることなく幸せな誕生日を過ごす事が出来た。 痛む頭を押さえてカノンがのっそり起き上がる。そして宴会場となっていた双児宮をみて一気に酔いが冷めた。 動いているのは瞬ひとりだけだ。 「いったい何が……」 「あっ、おはようございます。大丈夫ですか?」 見ればあちこちに転がっている聖闘士たち。瞬の足元には冥王ハーデスまでもが転がっている。 いないのはアテナ沙織と、アルデバランとアイオリア、それと貴鬼。彼らは昨夜10時の時点で就寝時間だからと先に帰っていた。アイオリアが早寝なのは周知の事実なのでみな快く送り出した。 そのあとは戦場と化した。 例によってシオンが急に飲み比べをはじめたのだ。 真っ先にシャカが倒れると続いてカミュが倒れた。あまり強くないアフロディーテもダウン、誰もシオンに勝つ事が出来ずにばたばたと酒に倒れた。 「それでなんで星矢たちまで……」 「星矢は匂いに酔っちゃったんです。紫龍と兄さんは飲まされてました。氷河はイリュージョンの後遺症で飲む前にもう寝てました」 最後まで残ったのが冥王ハーデスだったというのだから、さすが神というべきか。 瞬が無事でいられたのは倒れた犠牲者の介抱をせよと命じられたためである。 これでいいのかアテナの聖域――カノンはちょっとだけそう思った。 それでも今この場に瞬とふたりだと思うと、カノンはそっと彼女を抱きしめた。 「ありがとう、瞬。最高の誕生日だった……」 「カノン……」 これは礼だと口づけようとしたカノンの唇を瞬はそっと指で押さえた。 「……お酒臭いです。抜いてからにしてください」 だけど、と瞬はカノンの頬に軽く口づけた。 「これから次の誕生日まで、幸せでありますように。ね、カノン」 「……君が幸せにしてくれれば、これ以上のものはない」 鎖を羽衣のように操って舞い踊る姫の姿にカノンは恋心を新たにした。 女には不自由しなかったけれど、恋をしていなかった少年時代。 聖域を離れて海の底から見つめた地上という世界、そこにいた、薄紅色の少女。 「君が好きだよ……」 「はい……」 どうしたらいいのかわからないのはお互い様。 酒の匂いは我慢しろと、カノンは瞬に口づけた。 そっと、仮面を置く――どんなに祈り、泣き叫んでも戻らぬ過去へ ずっと、あなたを思う――私が私である限り きっと、いつか巡りあう――運命の人に だから素顔のままでいよう 世界のすべてを見渡せるように それぞれの星を抱いて まっすぐ見つめていこう 恋はまだスタートライン ≪終≫ ≪ハッピーバースデー≫ 5月30日は双子座サガとカノンの誕生日。前半はサガが、後半はカノンがメインだな。 ふたりは瞬に対してこうも違うんだな、というのは書いてて楽しかったです。 異様に長くなったのは誰のせいでもない、私のせいです。 ああ、理性ある冥王で悪かったよ! 酒豪なシオン様でごめんなさいだよ! とりあえずなにかあったら連絡ください、ジュデッカでお待ちしています。 |