IN THE LIFE 自分という存在を作り為してくれた、祖なるあなたへ 長い黒髪が秧緑色の中国服にさらりとかかった。まだ少年のはずなのにどこか落ち着いて見える彼の容貌には誰もが信頼を寄せてやまない。 彼の向かいにいる少女もその一人だった。 「紫龍にお茶入れてもらうの、なんだか久しぶりだね」 「そうか?」 「うん」 紫龍と呼ばれた青年の前に亜麻色の髪の少女、彼の優雅な手つきをうっとりと眺めている。 森林浴を思わせる独特な香りが周囲を満たすと少女はそれだけで穏やかに目を閉じた。 「いい香りだねぇ」 「瞬のように香りも楽しんでくれると茶も生きるというものだ。他の連中は花より団子だからな」 「特に星矢はね」 そう言って笑う少年と少女。彼らは同じ父を持つ異母の兄妹だった。 初夏の気配が漂い始める今日この頃。梅雨空のせいで少し冷える今、グラスに鮮やかな緑の茶葉が舞う。 「どうぞ」 「ありがとう、紫龍」 瞬は口の広い少し大振りなグラスを受け取る。伝わる熱さに瞬はちょっとだけ手を引いたがそれでもこの温かさがほしくてゆっくりと両手で包んだ。 「熱かったか?」 「ううん、大丈夫」 心配そうな紫龍ににっこり笑いかけて、瞬は茶を口にした。 芯を包み込んだまま摘まれたその茶葉はさわやかな香りと柔らかな甘さを持っていた。 「……美味しい。これなんていうの?」 「開化龍頂というんだ。中国でも比較的に新しい茶葉らしい」 「へぇ……」 瞬がしげしげとグラスを見つめると紫龍も同じように見つめた。彼は十四歳とは思えぬほど渋く、茶の似合う男だった。 「ねぇ、紫龍」 「なんだ?」 「……今度の日曜日、お墓参りにいく?」 瞬は誰のとは言わなかった。紫龍も聞かなかった。 けれど紫龍はゆっくりと頷いた。今度の日曜日は六月の第三日曜日、つまり父の日だった。 ただ瞬はグラスの淵を細く白い指先で撫でて苦笑する。 「父親だなんて思ったことはないんだけどね」 「ああ、俺たちの誰も……彼を父親だなんて思ったことはないさ。ただまぎれもない事実だからな」 「うん……」 城戸光政という男がいた。彼はグラード財団の前総帥で、既にこの世の人ではない。 その男は百人の子供の父親だった。そしてその子供の中に紫龍と瞬がいる。 このふたりだけではない、星矢も氷河も母親の違う兄弟だった。同じ母を持つ兄弟は一輝と瞬だけだ。 そして光政は百人の子供たちすべてを実子として認知する事はなかった。それどころか神に敬虔であった彼は子供たちを地獄とも呼べる僻地に追いやった。 ――アテナの聖闘士のするために。 わけも分からぬまま百人の子供たちは聖闘士となるべく世界各地に派遣され、そして死んだ。 辛い修業を耐え抜いて生き延びた子供は僅かに十人、瞬にいたっては女子の中で唯一の生き残りだった。 「父親だなんて最近まで知らなかったんだもん」 その事実を聞かされたのは瞬の同母兄である一輝が阿修羅のごとく瞬らに敵対してきたときのことだった。 自分たちに影のような存在であると思わせ、さらには地獄へと突き落とした男が実の父親だと知った一輝の憤怒は同じ母親を持つ瞬にさえ向けられたのだ。 だが今ではその敵対した過去を忘れて仲の良かった兄妹に戻っている。 「でもね、私はちょっとだけ感謝してるの」 「感謝?」 紫龍の呟きに、瞬は小さく頷いた。 「だってあの人がいなかったら兄さんやみんなには会えなかったんだもん……」 「……そうだな」 彼女らしい考え方に紫龍は伏せ目がちに言った。 確かに自分たちは親には恵まれなかった。だが師父や友らに出会えた。この世に生を受けるという、その種をまいた光政に感謝すべきはそこだけだろう。 「まあ、俺にとっては老師こそが父親のようなもの……っ」 言いかけた紫龍がはっと口を噤んだ。そんな彼の視線に気がついた瞬が微笑する。 「気にしないで、紫龍」 「すまん……」 瞬の師である白銀聖闘士、ケフェウスのダイダロスは既にこの世の人ではなかった。彼はサガの叛乱で命を落とした、犠牲者の一人であった。白銀聖闘士でありがなら黄金聖闘士に匹敵する実力を持ち、人望も厚かった彼は聖域に仇なすものとみなされ、勅令のもとに誅殺されていた。 そして聖戦が終わり、黄金聖闘士が蘇ったにも関わらず、彼は瞬の元に戻っては来なかった。 「私にとっても先生は父親みたいなものだったよ。出会ったときは先生も十三歳だったから父親っていうか、お兄さんみたいな感じだったんだけどね。でも温かくて優しい人だった……」 父と呼ぶには幼いと瞬は笑ったが、それでもダイダロスを師父と仰いだ事は否定しない。 「お花……」 「ん?」 「お花、菊の花でいいかな」 「そうだな……」 梅雨特有の大粒の雨がやんで、日が差してきた。 窓の外に広がる新緑の光景はきらきらと輝いていた。 城戸家前総帥の墓はその地位にふさわしく立派なものだった。 「父親だーって言われてもピンと来ないよな」 「だが事実だからな」 梅雨の合間の晴れというやつで、今日は天気が良かった。照りつける太陽の光を氷河は片腕で遮った。 墓前に供える花を捧げ持っていたのは瞬、手桶と柄杓は紫龍が持っている。星矢はばらばらにしないように気をつけながら線香を持たされている。 墓は常に清められているのか、綺麗だったので一行は花と線香を供えるだけに留めた。 一同屈んで墓前に手を合わせたが、氷河だけはその意味は分からなかったのか、祈りの形に手を組んだ。 しばらくそうしていたのだがじっとしているのが苦手な星矢と、湿っぽいのが苦手な一輝が先に立ち上がる。 「瞬の言うとおりだよなー」 「星矢?」 名を呼ばれた瞬がすっと顔をあげて星矢を見つめた。 星矢は墓に刻まれた名を見つめている。 「このじーさんがいなかったら、俺たちはこの時代に生まれて、出会うこともなかったんだよなぁ。瞬たちだけじゃなくて、黄金聖闘士のみんなとも会えなかったんだし……」 「……そうだね」 望まない戦いの中に身を投じなければならなかったのは辛かったけれど、それでも大切な仲間を得られた事は救いだった。瞬がゆっくり立ち上がって星矢の手を握る。 「出会えるって、奇跡だよね」 「ああ」 紫龍も立ち上がって、地につかないように肩に重ねていた髪を背中に払った。 「父親、か」 氷河がぽつりと呟いた。 それぞれに思うところはあっても、結局星矢たちは兄弟であり仲間だった。 ふと瞬が星矢の手を離す。 「それじゃ、私はそろそろ行くわ」 「ああ、気をつけて」 紫龍だけが理由知りに瞬を見送ろうとする。星矢はきょろきょろとふたりを見比べた。 「なんだよ、ふたりで内緒事か? 瞬、どこに行くんだよ」 星矢はふたりに詰め寄ったが隠す事でもないのでこれには瞬が答えた。 「もうひとりの、私のお父さんのところ」 「瞬のお父さん?」 初夏の風がざああっと少女の姿を浚う。星矢の目の前から瞬がいなくなっていた。 「瞬……?」 星矢はわけが分からずに紫龍に説明を請うた。彼は口元だけで笑って彼の栗色の髪をくしゃっとかき回す。 「……師に会いに、アンドロメダ島に行ったんだよ」 「あ……」 星矢は思いあたったのかのように小さく呟いた。 アンドロメダ島に眠るもうひとりの父の墓標は粗末なものだった。浜に打ちあげられていた拳ほどの太さの木を十字に組んだだけのものが建てられているに過ぎない。 建てたのは瞬だった。 小さな胸に抱く百合の花は魂の安寧を祈る白、瞬はそれをそっと捧げた。 「今日は父の日なんですよ、先生……」 応えない師と話す瞬は潮風に亜麻色の髪をそよがせた。 砂地にゆっくりと腰を下ろす。 師父と仰いだダイダロスは瞬より六歳年上の十九歳だった。ただひたすらに幼く弱い瞬を聖闘士として育ててくれた彼は厳しくて優しい人だった。 「先生、私は元気です。みんなとも仲良くやってます……」 仲良くしている人たちの顔を思い浮かべて、瞬は少し俯いた。 ダイダロスを殺した魚座のアフロディーテと、その勅命を下した双子座のサガ。 彼らとは師の件について瞬の前に頭を垂れる事も謝罪する事もなかった。地上の平和を守るために僅かな犠牲はやむを得ないと彼を手にかけたことを悔やんではいないのだ――それが彼らの正義だったから。 けれど女神の戦士として地上に戻ってきた彼らはダイダロスの忘れ形見とも言える瞬を大切に思っている。 それが彼らなりの償いだった。 瞬自身も師の敵は討ったし、ふたりのその思いを受け入れて微笑む事で師への冥福へと変えた。 憎しみや恨みからは何も生まれない。 確執はもう要らない――聖闘士として、やっと分かりあえたんだから。 「先生がいないのは正直言って寂しいですけど……でも私には兄弟も友もいます。女神もいます。それからえっと……恋人……っぽい人も……」 思い浮かべた二人の男は瞬の脳裏でさえも火花を飛ばす。 瞬はたははと苦笑した。 「だから心配しないでくださいね、先生……」 木製の十字架に微笑みかける少女は風に溶けてしまいそうなほど儚くも強かにも見えた。 「先生……ダイダロス先生手」 心配しないで、と言った唇に相反するかのように銀河の瞳からは涙がぽろりと零れ落ちた。 が、涙は真珠ではない。一時として形を留めることなく砂地に落ちて消えた。 師の事ではもう泣くまいと決めていた瞬は慌てて目を擦った。 思い出すことはあっても泣かない、泣けば誰かを苦しめるということを知っているからだ。 瞬はゆっくりと顔をあげた。 その顔は少女のものではなく、一人の女の顔。 「先生……好きです。ずっと……」 抱いていたのは師父に対する尊敬の念と、そして一人の男に対する淡い想い。 瞬はゆっくりと立ち上がった。 「おやすみなさい、先生。また来ますね……」 潮風にあなたを感じながら――瞬は目を閉じ、島を後にした。 夕暮れより少し前に、瞬は一人で城戸邸に戻ってきた。 そんな瞬を見つけて真っ先に飛びついたのは星矢だった。 「おっかえりー瞬!!」 「ただいま、星矢。重たいよ」 同じ十三歳同士、じゃれあう姿は子犬と子猫。窓の外のふたりを紫龍は微笑みながら見つめている。 「相変わらずだな、あのふたりは」 紫龍は隣に立った氷河の手を叩く。彼の手から唐揚げが転げ落ちた。 「摘むな。数がおかしくなるだろう」 「数えてるのか、紫龍」 「星矢がうるさいからな」 同じ大きさの唐揚げを同じ数だけ盛り付けながら紫龍は庭先のふたりを呼んだ。 そして日没。日が落ちればアンドロメダの少女の身柄は冥王ハーデスが独占する。 「ただいま、瞬」 「おかえりなさい……慣れましたね、この挨拶」 「うん、なんかこう、日に日にそなたが近づいてくる気がする……」 そういって微笑む冥王を見て、これがかつて敵だと思った神かと瞬は本気で思った。それほどまでに彼は変わり始めている。 胎の底、冥闇の中でひとり眠り続けたハーデスがやっと見つけた愛しい光が瞬なのだ。 冥府の神様とアテナの聖闘士という前代未聞の恋模様も時が経つにつれてよい方向に進もうとしている。 「そういえば瞬、今日はそなたから祈りのような小宇宙を感じたが何かあったのか?」 「ええ、今日は父の日だったので、お墓参りに」 「父の日?」 「お父さんに日ごろの感謝を伝える日なんですって。私に父と言えば……」 瞬が少し伏せ目がちに自分の隣に座ったのを、ハーデスは黙ってみていた。 ハーデスは彼女の生い立ちから憑依したその日までの人生をほとんど知っている。だから彼女の父親が誰で、どういう男なのかもちゃんと分かっている。 「あ、そういえば」 「なんだ?」 「ハーデスにも父親いますよね? どんな神様でした?」 「んー……」 愛しい少女の問いにハーデスは少し考えて言った。 「最低最悪な父親だったな。余は母上の胎内から出た瞬間に父の腹に飲まれたのだ。飲まれたのだぞ!?」 珍しく激しい口調で言うハーデスに驚きながら瞬はその背中を撫でた。 「今思い出してもぞっとする……自分の王位を脅かすからと、生まれたばかりのいたいけな余を……」 ハーデスにいたいけな時代があったかどうかは別にして、とにかくハーデスにとって父神は鬼門のようだ。 瞬は余計な事を聞いたようでいたたまれなくなり、背中や髪を宥めるように撫で続けた。 「ま、あとでボコボコにしたから良いのだがな!」 きっぱり言ってのけたハーデスに瞬は言葉をなくし、彼に触れていた手を離した。 父神クロノスとゼウスらオリンポス神族との戦いは神話に言うティタノマキアである。 「どうした?」 「いいえ、別に……」 瞬の手が離れてしまった理由がよく分からなかった冥王はそっと少女のほうに身をよせ、細い肩を抱いた。 「ハーデス?」 「……余は、良き父親になれるだろうか」 「……だいぶ飛躍しましたね」 まだ恋人っぽい存在だというのに冥王様はもう父親になる夢を見ている。 それは瞬を愛するが故の絶対の自信に裏打ちされた未来予想図。 「余は大真面目に考えているのだ。そなたによく似た女の子が良いなーと」 言いながら微笑む冥王はそれ以上瞬に触れようとはしなかった。触れない、と約束したからだ。 奪う事は簡単、でも奪って得たものはいつか離れていく。 この時代に仮の肉体として選んだ瞬に叛かれたのが良い例だ。 「……瞬」 「はい?」 返事を返したと同時に瞬はハーデスの腕の中に抱き入れられた。 「ハーデス……」 「好きだ、瞬……余はいつまででも待つから、この思いに応えてほしい」 「……はい」 瞬はゆったりと目を閉じ、ハーデスの腕の中に安住した。彼女の左右に絹のような黒髪が広がって覆う。 視界に入るのは終端を司る闇の王。 「瞬……」 そっと顔を上げる、近づく、唇。 触れ合えばそこに、優しい、未来。 ただ静かに抱きしめあって。 ああ、今ここにいるということ 命として存在しているということ 胎なる母と種たる父とに 今、捧げるのは感謝の言の葉 ≪終≫ ≪父の日企画≫ 無駄に父の日! 父の日!! IYH。 おそらくだがもう光政について書くことはないだろう。ダイダロス先生に関してはこれからも書くけどな! あ、俺的にはダイダロス派なんです。アルビオレはなんかイケメンすぎてさー、うん。ダイダロスのほうがいいな。 さらに個人的な見解だけどハーデスはきっといいお父さんになれると思うんだ。 このへんはメッセとかでよくしゃべってる、うん。 いつかハーデスジュニアとか出してみたい。うん、出してみたいwwwwww |