蟹と憎しみのハジマリ 



いくらカニだからって道楽がすぎる



「かったりぃ……」
石造りの宮に響くキーボードの音。咥え煙草でカタカタと無機質な文字をつづっていく。
ここはアテナの聖域、第四の宮・巨蟹宮。守護人の名前は蟹座のデスマスク。
彼は現在、五時間後に締め切りを控えた報告書を作成している真っ最中なのだ。
仮に黄金聖闘士、派遣されればきちんと仕事はこなしてくるのだが、報告なんて口頭でいいと常日頃から考えている彼はどうもこういった事務作業が苦手だ。
だが現在教皇職についている双子座のサガから毎日のように催促されては流石の彼も逆らえない。
「あー……俺も補佐が欲しい……」
銀色の髪をがしがし掻きながら新しい煙草に火をつける。
すでに煙草をひと箱空にしてしまっているデスマスクはそんなことをぼんやり考えながら数文字入力してはたと思いついた。
「いるじゃねーか! 奉仕好きなのが!!」
そーだ、あいつにやらせようとデスマスクは吸っていた煙草を灰皿に押しつけてもみ消すときっちりとデータは保存して巨蟹宮を出た。
あまり面識もないし、親しく話したこともないけれど周囲の評判は上々なアイツなら。
「俺って頭よくね?」
自分の考えを褒め称えながらデスマスクはある場所へ向かっていた。



そして連れてこられたのがひとりの少女。
亜麻色の髪も麗しい彼女の名は瞬。デスマスクの小脇に抱えられ、呆然としながら石段をあがっている。目の前に広がる景色を綺麗だ何て思えない、だって石畳だから。
途中の宮にいたムウとアルデバランも声をかけることが出来ないまま瞬を見送っていた。
瞬はおずおずと顔をあげ、嬉々として自分を担いでいる青年に声をかけた。
「あのー」
「あん?」
「何考えてるんですか?」
「何って、ちょっとした奉仕活動をしてもらおうと思ってな。アンドロメダは奉仕の精神溢れるお姫さまだろ?」
「……なんかアンドロメダを勘違いしてません?」
「うるせえ!! ずべこべ抜かすと積尸気にふっ飛ばすぞ!!」
「なっ……」
あまりに強引な物言いに何も言い返せないまま、瞬は巨蟹宮にドナドナされたのであった。
が、デスマスクはこのとき自画自賛状態であったため、アンドロメダの少女が置かれている現状をすっかり忘れていたのである。
「よっしゃ! ついたぞー」
巨蟹宮に着いたデスマスクは抱えていた瞬を降ろし、背中をばんと叩いた。
抱えられてたために足元が不安定だったために瞬がふらつく。
「なんだよ、聖闘士のくせに簡単に拉致されるし、ちょっと抱えられただけでふらつきやがって」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ。なんですか、八十八の聖闘士のなかでも最高位に位置する黄金聖闘士がわざわざ書類作成のために青銅聖闘士の、しかも女の子である私を拉致するだなんて何考えてるんですか!!」
「面倒なんだよ、報告書。ほら、さっさと行け。口述筆記な」
「いやです」
奉仕の精神はどこへやら、徹底的に争う姿勢を見せた瞬にデスマスクの目が釣りあがる。
「あんだと。黄金の俺に逆らおうってか」
「えーえ、逆らいますとも! 積尸気が恐くてハーデスの憑代なんてやってられますか!!」
「ぐっ……」
十も年下の少女に凄まれてデスマスクは思わず一歩後ろに引いてしまう。
そう、このアンドロメダ瞬は冥王ハーデスの今期の憑代だったのだ。この世界の奥底のある冥界の王として、瞬はその身に冥王の魂を移し、ほんのひとときだけではあったが君臨したという過去を持つ。
それだけで済めば瞬は戦いのない今は普通の女の子として、星矢たちと幸せに暮らしていただろう。
しかし王たる素質を秘めていたその魂を冥王は放ってはおかなかった。
何を思ったやら冥王様、黄金聖闘士をこの地上に戻し、冥界と自分の肉体の修復を終えたあと、突然ひとりで地上に現れた。そしてアテナ沙織と当人を前にして嫁に欲しいと言い出した。
かくしてアンドロメダの少女は冥王ハーデスに今度は嫁候補として狙われることになったのだが、話はさらにややこしい方向へと進む。デスマスクの住む巨蟹宮の隣にある双児宮の守護者であるジェミニのカノンまでもが瞬に懸想して追いまわしているのだ。
瞬は冥王とカノンの間に揺れている。デスマスクはそんな少女を自宮に引っ張りこんだわけだ。
「すっかり忘れてたぜ……」
腰に手を当てて小さな胸を張る瞬にデスマスクは渋い顔だ。
だがしかし。
「俺はお前がいないと生きていけねぇ! あと五時間で書類の締め切りなんだ!!」
「今の今までやらなかったあなたが悪いんじゃないですか、自業自得ですよ」
「やかましい! 積尸気冥界波で本当に吹っ飛ばすぞ!! 言っておくがどんな防御も効かないからな!」
「やってみればいいじゃないですか!! 書類が上がらなくてもいいんですね!?」
「はうっ……」
なんとか書類の作成を手伝ってもらわなければ、サガから最大奥義を食らってしまう。
そこでデスマスク、次なる手を思いついた。
「うわああ、痛ぇえええええええ!!」
「デスマスク?」
突然しゃがみこんで苦痛を訴えるデスマスクに瞬は驚いて彼のそばに近づいた。が、その心配も無駄で、しかも利用されている事を感づいて本当にこの場から逃げ出そうと思ったほどだ。
あからさまな仮病にも程がある。
「腹が痛ぇええー」
「……おなか痛いって言いながら頭抱えないでくださいよ、わかりましたよ、手伝えばいいんでしょ」
やれやれと諦めてため息をつく瞬を見てデスマスクはよっしゃあと拳を握った。
「はじめから素直に言うこと聞いてりゃいいんだよ」
「地面に額こすり付けて拝んでくださったら素直に聞いたかもしれませんよ」
「シャカかお前は」
そう言いつつもデスマスクは嬉しそうに笑っている。
瞬の薄い背中を押しながら蟹座の黄金聖闘士は書類を作っていた自室へと向かった。



外見から人間性を想像するなかれ。
デスマスクの部屋は煙草の匂いはするものの意外とこざっぱりしていて、掃除から始めなければと思っていた瞬の覚悟を吹っ飛ばした。
「うわあ……」
「意外って顔してやがるな。いいからそこ座れ。パソコンは使えるだろうな」
「……ええ、まあ」
瞬はパソコンの前に座ってキーボードの配列を確認した。
「あ、このソフトなら大丈夫です」
「よし、じゃあ俺の言うとおりに打ち込めよ」
「ゆっくり言ってくださいね」
「分かってるよ。じゃあ始めるぞー」
デスマスクが言うままに瞬はキーボードを叩いた。
瞬のタイピングはデスマスクが思っていたよりも早かった。やはり彼女を連れてきて正解だったと、デスマスクはにんまり笑う。
三十分ほど作業をしたところでデスマスクが席を立った。
「よし、じゃあ一旦そこでデータ保存しろ。休憩入れようぜ」
「……いいんですか?」
「……お前、俺をなんだと思ってやがる。コーヒーでいいよな」
「は、はい」
瞬は言われるままにデータを保存した。
「ほらよ」
「ありがとうございます」
デスマスクが差し出したマグカップを受け取って両手で包んだ。濃い琥珀色の、少し苦い香りが鼻腔をくすぐる。濃い目に入れられたコーヒーは瞬には少し苦かった。
「あ、砂糖要ったか」
「いえ、平気です」
女の子らしい仕草でコーヒーを飲む瞬に苦笑しながらデスマスクも同じように飲み始めた。
「しかし、意外なほどタイピング早いな」
「沙織さんの仕事を手伝ってますからね、なんとなく覚えちゃったんですよ」
「あー……そういうことね」
主たるアテナ沙織に対して高飛車に笑う小娘のイメージしかないデスマスクはどこか納得したかのように天を仰いだ。だが、かの沙織と今目の前にいる瞬とが同じ十三歳の少女だというのが信じられない。
瞬はアンドロメダを拝命する青銅聖闘士。
こうしてそばにいても分かるほど、彼女は穏やかな少女だった。
おおよそ聖闘士には向かない性格と容姿を持っている。戦場でさえ甘いことを言うと、カノンが苦笑を交えつつ彼女を評したのを思い出した。けれどその優しさを女神は愛したのだろうとも彼は言った。
地上の愛と平和のために戦うのが聖闘士――優しさを捨てることはないと女神は少女に手を差し伸べたのだろうか。
力こそが、正義。
弱いものなんか、要らない。
そう思っていたデスマスクの考えを少しだけ変えたのがアテナとそのそばにいた青銅聖闘士たちだった。
もちろん、力は必要だ。
傷つけたくないからと自分が傷ついていれば命がいくらあっても足りない。
ただその力を無益に戦うだけでなく護るために使うこともあるのだと、デスマスクは苦笑して見せた。
「どうしました?」
「いや、別に。休憩終わりだ。残り四時間、がっつり仕事してもらうからな」
言われて瞬は残りのコーヒーを慌てて流し込んだ。
空になったマグカップをそのままにデスマスクの言葉を瞬がそのままタイピングする。
「えーっと、そこで俺は……」
「ちょっと待ってください、それじゃ前項の記述と矛盾します」
「お、そうか? ちょっと見せろ」
瞬の横に座っていたデスマスクが煙草の火を消しながらパソコンの画面を覗き込む。ふわりと漂う煙草の匂いに瞬は僅かに顔をしかめた。
それは嫌悪ではなく、大人の男の匂いに覚えた懐かしいようなくすぐったいような気持ち。
少女の細い指先がパソコンの画面に触れないように文章を示した。
「ほら、ここです。これじゃ紛争の解決策を模索しに行ったはずなのに煽りに行っちゃったみたいに聞こえますよ」
「あーそりゃまずいな。んじゃ、糸口を見つけたみたいに聞こえるように書き直しとけ」
「はい……って、それじゃダメじゃないんですか!?」
「そんな簡単に見つかるかよ。あのな、解決策があるんなら端から紛争になるわけねーだろ!」
デスマスクの言葉に瞬がびくっと肩をすくめた。
キーボードを叩く手が思わず止まる。
彼は新しい煙草に火をつけ、細く長く紫煙を吐き出した。
「聖闘士だって、たったひとりの人間には違いねぇ。その一人の人間になにが出来るよ? 根本的な解決にならねーんだけど、武力で鎮圧するのが簡単なんだぜ。ま、俺はさ……さくっと片付けたほうが、長引かせないほうがいいかと思ってたんだけどな」
「デスマスク……」
「いつまでも終わらない会議続けてる間にも、紛争はどんどんひどくなる。人間もどんどん死んでいく。女も子供も、年寄りも、無差別に、な。だから俺は戦ってきたんだ。巻き添え食ったやつもいたけど、もっと多くの人間を死なせるくらいなら、ちょっとの犠牲くらいって思った」
瞬は静かに目を閉じる。
今こうしている間にもどこかで誰かが殺されて、世界が憤怒と怨嗟と悲哀に満ちようとしている。それを少しでも止めようと頑張っている人もいる。
だけど世界はどこに行こうとしているのか、それさえ人は気づいていないのかもしれない。
「俺たちの戦いは無駄かも、なんて思うんじゃねーぞ」
「え……」
「無駄な戦いなんて、ないんだ。戦う事で護れるものもあるし、学ぶこともあるってこった。過去の戦争だってそうだろ。侵略戦争は国家の威厳を保つためにはよかったけど、結局世界を混乱に陥れた愚かな行為だって、そこで人間は改めて知ったんだ。お前だって」
「私?」
デスマスクは瞬を横目で見て、煙草をふかした。
「俺たちアテナの聖闘士とハーデスとが戦って、んであの神さんはお前に出会って、ぼこられてもなお恋をする楽しさを知ったんじゃねーか? そのおかげでハーデスとは不戦状態にあるわけだし」
「でもハーデスは私と地上の平和とは引き換えにしないって」
「お前らにそのつもりがなくても結果としてそうなんだよ。あの小娘がどう考えてるかは知らねーけどさ」
デスマスクの手が瞬の亜麻色の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「……俺の今回の任務は視察なんだ。紛争の解決そのものが目的じゃねー。解決には……俺か、別の誰かが行くんだろうさ」
「解決しなくちゃいけませんよ。苦しむのは力のない子供たち……私たちみたいな孤児はひとりでも出さないほうがいいに決まってます」
「……だから。ちゃんと報告書作ろうぜ。続き続き」
「……なんかうまく利用されちゃってる気がしますけど」
「気にすんな。そこはほら、うまい具合に直してくれりゃいいよ」
「ご自分で直してください!」
瞬がさっと寄越したキーボートを苦々しく受け取って、デスマスクはちょこちょこと文章を直した。



そして締め切り十分前。
データをしっかり保存し、いざ印刷しようという時になってプリンターは音を立てて止まった。
「デスマスク、プリンター動かないんですけど……」
「あー? ケーブルはちゃんと繋がってんだろーな。コンセントも……繋がってるよな」
「紙詰まりじゃないですしね……壊れたんじゃないですか?」
「時間がねーのに!!」
というわけでデスマスクはすぐ下の双児宮にいたカノンからパソコンとプリンターを借りて印刷し、表紙に階級と名前を自筆で記名して飛び出していった。
教皇宮までの道のりを激走するデスマスク、その横に瞬はいない。
「なんであのタイミングでプリンターが動かねーんだよおおおおおお!!」
この書類はあくまでデスマスクが作成したものなのだ。
デスマスクが教皇宮へ行っている間に瞬はいろいろ片付けてくれている。
思い出してふっと笑った。
「あいつは恋人向きじゃねーな」
無理やりとはいえ仕事を手伝ってくれた瞬を思い出し、デスマスクはふと自宮を振り返る。
「まだまだちっこい女の子だしな」
だけど、と言いかけてデスマスクはまた走り出した。
教皇の間に着くとデスマスクは執務室の扉を叩く。中からくぐもった入室の許可が聞こえてきて、彼はそっと扉を開ける。
不機嫌そうな教皇・サガが顔をあげてデスマスクを睨んだ。
「遅いぞ!」
「間に合っただろーがよ。十三年のつきあいじゃねーか、そこんところ大目に見ろや」
「付き合いの長さと職務とは別問題だ。黄金聖闘士がそんなことでは他に示しがつかないではないか。白銀聖闘士など帰還した次の日には報告書を提出する者もあるというのに……」
サガが盛大にため息をつくのをデスマスクはまあまあと宥めた。
誰のせいだといわんばかりにサガは書類をひったくる。
一ページずつ目を通しながら彼は今度は感歎の声を上げた。
「いつになく整っているな、デスマスク。毎度このレベルで提出してくれればありがたいのだが」
「本気出せばこんなもんだぜ!」
「そうだな、瞬が本気を出したらな。彼女は私の仕事も手伝ってくれているので、書式などは完璧だ」
巨蟹宮に置いて来たはずの瞬の名が出て、デスマスクの背中がぎくっと強張る。回れ右して逃げようとした彼の首根っこをむんずと掴んで、サガは喉の奥で笑った。
デスマスクがさっと青ざめる。
「な、なんであいつがいることを……?」
「知りたいか?」
こくこくと頷くしか出来ないデスマスクの前に薄紅色の銀河が現れる。そしてそこから銀色の円鎖がひょこっと顔を出した。
「な、なんだこりゃ」
「なんだって、アンドロメダの星雲鎖だ。彼女の鎖は時空を越えてどこまでも行くことが出来るという。さらにこの円鎖はお利巧でな、巨蟹宮のシンボルマークを書いたんだ」
「なんだと!?」
「彼女にしてみればほんの意趣返しなのだろうな。ま、書類はこうして届いたのだからよしとしよう。今度は期限よりもっと早く出してくれよ、デスマスク」
サガが彼を解放すると同時に円鎖も消え去った。



「にゃろう……」
首を擦りながらデスマスクは教皇宮を後にした。瞬に書類の作成を頼んだことは当の昔にばれていた、ということだ。巨蟹宮への帰り道、やはり煙草をふかしながら歩く。
争いが嫌いなのに聖闘士として戦い、今は冥王と双子座の黄金聖闘士に愛される少女の顔を思い浮かべる。
「アンドロメダが望んだ世界は……」
世界から戦争がなくなる日はおそらくやってこない。
きっと一瞬で、何も分からないまま世界は終焉を迎えるのだろう。
だから、平和のために戦う事は無駄なのかもしれない。
それでも人は足掻き続けるのだ、争いのない平和な世界を目指して。
「平和っていうのはあるもんじゃねぇ。なくならないように護るもんなんだ……」
永遠に答えを見ない矛盾の中、人は、世界は。
デスマスクは煙草の煙と共に苦笑を吐き出した。
「世界の半分は優しさで出来てます……ってか」
カツン、と靴音も軽やかに、デスマスクは再び歩き出した。



巨蟹宮に戻ったデスマスクは瞬をとっ捕まえると首根っこを押さえてこめかみをぐりぐりと押し回した。
「てめぇ! サガに告げ口しやがったな!!!」
「痛いっ、痛いです!! 私はただ、サガにあなたがそっちに行ってるって言っただけです!!」
「同じことだろーが!!」
さらにぐりぐりとやられて瞬はじたばたと暴れだした。
「痛い〜〜〜〜〜」
「激しく反省しろ」
デスマスクはぽんと瞬を放った。瞬はこめかみを押さえながらデスマスクを睨みつけたがどこ吹く風。これ以上逆らってみせてもバカみたいだし、ここに留まる理由もないので帰ろうときびすを返したとき、腕をつかまれた。
「な、なんですか」
「どこ行くんだよ」
「どこって、帰るんですよ。もう用はないでしょう?」
瞬は離してもらおうと腕を引いたが相手は黄金聖闘士、びくとも動かない。
「離してください」
「メシ食いに行くぞ。今日の礼にな」
「へ?」
一瞬何を言われたのか分からずに呆ける瞬の肩をぽんと叩いて正気に戻す。
「……二度も言わねぇ。ついて来い。さっさと行かねーとお前の神様がくるだろーが」
「別に私のじゃないですよ」
「何でもいいから来い。うだうだ言ってると」
瞬は諦めた。
「積尸気、ですね」
「ものわかりがいーじゃねーか。俺は素直な女は好きだぜ」
からからと笑いながらデスマスクは瞬の背中を押した。
小さくて薄い背中に少女は大きすぎる運命と愛を背負っている。だが死ぬその瞬間までそれを下ろす事は許されない――彼女だけでなく、この世界に生きるすべての存在が、だ。
聖域を出るためにふたりで連れ立って歩く姿は珍しい。珍しすぎて下の宮の住人はやはり呆然と見送ったのだった。瞬に思いを寄せるカノンさえも。
デスマスクは瞬の歩幅など気にせずに歩みを進める。瞬も遅れずについていく。
「で、なに食べさせてくれるんです?」
「あー……パスタでいいだろ。お前、酒は……」
「飲んだことありません。日本じゃ二十歳になるまで飲んじゃいけないことになってますから」
「……お前の兄貴は飲んでるじゃん」
瞬は同母兄である不死鳥の彼を思い浮かべた。自分より二つ年上の十五歳……のはずだ。
「……兄さんは特別なんです」
「ま、酒が飲めないならまだまだお子様ってこったな」
「いーじゃないですか、まだ十三歳なんですし」
さくさくと歩くデスマスクの隣を、瞬はぴょこぴょこ跳ねるように石段を降りる。
デスマスクはふと立ち止まってすっと手を差し伸べた。
「ん」
「……なんですか?」
「十三歳のガキでも女は女だからな。俺の出身地のイタリアじゃ女を大事にしねーやつはいねーよ」
「……意外」
どこからどう見ても悪人っぽいのに意外と紳士なデスマスクの一面に驚きながらも瞬はその手を取った。
いちいち口答えする瞬を殴って黙らせようかとも思ったデスマスクも、案外素直な少女の反応に毒気を抜かれてしまう。
瞬の手はその容姿と性格に反する事のない感触だった。
柔らかくて温かい、握っていると妙に落ち着くのに気がついた。
(やっぱりこいつは恋人向きじゃねえなぁ……)
お目当ての店まで連れ立って歩きながら、デスマスクは瞬の旋毛ばかり見ていた。




まもなく日没を迎えようかという店内は夕飯を取るための客で少し込み合っていたが席は空いていたので難なく座る事が出来た。デスマスクお薦めという野菜をふんだんに使ったトマトソースのパスタとガーデンサラダを瞬は笑顔で頬張る。
「美味しいですね」
「ここは俺のお薦めの店なんだ。聖域のやつらも結構来てるぞ」
そう言われればと、瞬は周囲を見渡す。見覚えのある顔が数名いるのに気がついたが、それぞれに楽しんでいるようなので瞬は向かいのデスマスクに視線を戻した。
「お前は食が細いな。それで足りんのか?」
「小さい頃からそうなんです。ろくに食べてなかったせいかこれくらいでも大丈夫になっちゃって」
「だから細っこいんだよ。一人前の体になりたきゃ、ちゃんと食え」
そう言ってデスマスクはふたりでとりわけようと注文していたピザを瞬のほうに差し出した。
「気にしてることをズバッと言いますね」
「気にしてたのか……って、フォーク向けるんじゃねぇ!!」
まだ少女の体つきも数年経てばどうなるか分からない。瞬とて努力を怠っているわけではないのだ。
デスマスクに向けていたフォークをそっと下ろし、瞬は再びサラダに向き合う。
「恐ろしいな、お前は」
「フェニックス一輝の妹ですからね」
「……なるほど」
「余もときどき、ちょっと怖いと思う時がある」
突然現れた青年にデスマスクは声を上げたが瞬は慣れているのか驚かない。
「どわっ! どどどど、どっから沸いてでやがった!!」
まるで虫のように言われた青年はむっとしながらも瞬には優しい笑顔を向けている。
「瞬の小宇宙を辿る事など余にとっては児戯に等しいのだ。蟹座よ、余の瞬をこのようなところで口説いておるとはそなたもなかなか命知らずよな。伊達に積尸気を駆使するわけではないのだな」
「誰が口説くか! そんな危ねー真似するのはカノンくらいなもんだぜ」
「ふむ、それもそうよな」
デスマスクと瞬の間に座る青年は冥王ハーデス。
今日はいつもの法衣ではなく、そこらへんの青年のようにオフホワイトのシャツと黒のデニムで現れた。これでも周囲に気を使っているらしい。胸元に光るペンダントだけはいつも手放さないという星型の約束だ。
「まったく、神たる余が人間にあわせねばならんとはなんという本末転倒」
「でもカッコイイですよ」
「あー、センスは悪かねぇ」
そういうとデスマスクはさりげない仕草で店員を呼び、冥王のためにワインをグラスで注文してくれた。
「酒、飲めんだろ?」
「デュオニソスの狂気なる水か。よかろう」
ハーデスは運ばれてきたグラスを手に取ると軽く揺らして口に含んだ。
「ふむ、なかなか小憎らしい味わいだな……余を試したのか」
「ワインの味が分かるとはね。悪かったよ」
瞬にはデスマスクとハーデスのやり取りが分からない。きょろきょろと双方を見て、とりあえず争うようなことにならないように気を揉んでいる。そんな彼女の視線に気がついたデスマスクがふっと笑った。
「さっき冥王に飲ませたのはこの店でもいちばん安いもんさ。粗悪品とまではいわねーけど、まあ酔いたいために飲むには十分なんだけどな」
「余がアホだと思っておるだろう、そなた」
「アホだなんて思ってねーさ。ただちゃんと飲める口がどうか知りたかっただけさ。ワインは香りを味わうもんだからな」
「へぇ……」
ピザに手をつけていた瞬は血の色にも似たそのワインを興味深く見つめている。
「お前にはまだ早いよ」
「分かってます」
ミントの葉を添えたアールグレイは美しい琥珀色をしている。
「瞬と酒を飲めるようになるにはまだ時が必要だな」
ハーデスは改めて運ばれてきたグラスに手をかける。口にしたワインは辛口で、それでもするすると喉を通った。あとからふわふわと熱いものがあがってくる感覚はまさに酒だ。
「よい香りだな」
「おっ、いけるね」
相手がかつて敵対した冥王であるという事は抜きにして、デスマスクはグラスを傾けた。
男の太い喉が嚥下のために動く。
グラスでは足りないと、男達のためにボトルが運ばれてきてもやはり瞬は口にしない。
なんとかピザまで食べ終えた瞬はテーブルに置かれたジェラートに目を見張る。
「あの、これ」
「食っとけ。俺らが飲んでる間、暇だろ? 甘いもんは別腹って言うじゃねーか」
「ほー、そうなのか」
「どんなにおなかいっぱいでも甘いものだけは食べられるって意味ですよ」
瞬はアイススプーンをとると三つ並べられたジェラートを掬い上げた。冷たい感触に僅かに身を竦ませる。
「美味しいっ」
やはり女の子だと笑いながらデスマスクは冥王を見る。
冥王が選んだ少女は世界で一番清らかな魂を持っているという。
争いを好まない少女と神は同じ思想を持っていたのに進む道があまりにも違いすぎた。
地上に愛はない、もはや人はいらぬと破壊を目論んだ終端の王神が冥王ハーデス。
一握りの愛を信じて、人の可能性にかけたのが軍神アテナとその聖闘士たち。
そして少年は拳を、少女は鎖を握って戦いあった。
その冥王は年頃の少女らしく微笑む瞬を見つめて幸せそうに笑っている。
「……食べます?」
「よいのか!?」
「ええ、どうぞ」
冥王は信じられないほどキラキラしい笑顔で瞬からジェラートを食べさせてもらっている。
「おーお、見せつけてくれるねぇ」
カノンが見ていたなら問答無用のギャラクシアンエクスプロージョンが飛んでくるだろうと、デスマスクは思わず振り返ったが、背後には誰もいなかった。
「どうかしました?」
「いや、別に」
デスマスクは再び正面を向き直る。ただ冥王には察しがついていたようで、瞬には見えないように口元を歪めた。
(こいつ……分かってやがる)
冥王はやっぱり冥王だとデスマスクは苦笑した。
しばらくして瞬が席をはずした時、彼は冥王に尋ねてみた。
「……なぁ、神様」
「ん?」
「アンタさ、アンドロメダの何がよかったんだ? 確かに見目は悪くねーけど、まだ子供じゃん。夢見がちの乙女街道まっしぐらだぜ?」
「夢見がちの乙女、か。確かにな。そのあたりはアテナと同じだ」
「ほお……」
冥王はその手の中で紅色のワインが注がれたグラスをくるりと回した。
「はっきり言おう。この地上は遠からず滅びる。神々が手を下すまでもなく、人間は自滅への道を辿るだろう。まあ当然だな、人間は我ら神が作りしもの。争いに争いを重ねて今の地位にある我らから生まれた人間が争いをしないで済むわけがないのだ。血で血を洗う、人の時代……」
紅も、緋も、同じ血の色――このワインのように。
冥王が飲み干したその雫をデスマスクは黙って見つめていた。
「そなたにも、覚えがあろう」
「……ああ」
かつて巨蟹宮にあった多くの死人の顔、顔、顔。
地上の正義のために多少の犠牲はやむを得ないと殺し続けた命。
アンドロメダの望んだ世界は、と振り返った空の向こう。
「瞬が望む世界はやってくることはない。今のままでは……な」
「だからアンタは……」
「そうだ。だから地上を、というより、人を滅ぼすことに決めたのだ。だがアテナと瞬たちに教えられた、まだ地上に救いがある、とな」
「それがアンタには恋だったわけか」
「飛躍しておるが、まあそうだ。地上の人間にはまだ愛なるものがある、と。それを教えてくれた瞬が余には煌いて見えた。瞬のように争いを好まぬ者もいる以上、もう少し様子を見るのもよい、とな」
「アンドロメダに嫌われたくねーからじゃねーのか? 神様」
ハーデスのグラスにワインを注ぎながらデスマスクはにやっと笑った。
「まあ……それもないとは言わぬ。ふたりっきりの世界がいいなら作ろうかと言ったら怒られたからな」
「……怒ると怖ぇーからな、アンドロメダ」
「うむ、神である余でさえも恐ろしいと思う」
ふたりは黙ってワインを見つめ、そしてほとんど同時に飲んだ。
「ところでなんで瞬は聖域におるのだ。そしてなんでそなたと食事をしておる」
「突っ込むの遅いぞ、神様。ちょっと仕事手伝ってもらったんだよ、んでそのお礼にな」
「そうだったのか。余はてっきり口説いておると」
「口説いてねぇ!! 俺はあんなおこちゃまに興味はねぇ!! たいだいアンドロメダは恋人向きの女じゃねえ」
「では何に向いておる」
否定の言葉を並べ立てて、デスマスクは自分の考えている事をちょっとだけ冥王に言ってみた。
するとハーデスは声を立てて笑うのだった。
「なに話しているんです? 楽しそうですね」
戻ってきた瞬が席に着くのを見届けてデスマスクがにんまりと笑った。
「男同士の話だぜ。ま、聞かれて困るような事は話してねーけどな」
「うむ。かなり有意義な話だった」
「そうですか、よかったですね」
そう言って笑う瞬は恋人として最適なように見えるのだが、と冥王は不思議そうに彼女を見つめていた。



店を出た二人と一柱は石畳を並んで歩きながら聖域の入り口までやってきた。さすがにここまで来ると一般の人間は全くと言っていいほどいない。
が、それは自分たち聖闘士や冥王にとっては大事な事だった。
「ごちそうさまでした」
「いや、仕事手伝ってもらったし、いいってことよ。んじゃ、神様。あとは頼んだぜ」
「言われるまでもない」
仲良く肩を並べる瞬と冥王を見て、デスマスクは何度目だか分からない苦笑をもらす。
アンドロメダの鎖は冥王さえ繋いでおけるらしい。
「気をつけて帰れよ」
「はい!」
「では、行こうか」
「……はい」
冥王は瞬の肩をそっと抱いて虚空に消えた。それを見送って、デスマスクは煙草に火をつける。
「……アンドロメダが適任なんだよな」
言いながらデスマスクはハーデスに言った自分の言葉を思い出していた。
「アンドロメダは恋人向きじゃねーんだよ。ありゃ、女房にしとくのにいい女なんだ」
世話を焼くのが好きで、でも自分という存在をしっかり持っていて、自分のやるべきことをちゃんと分かっている少女、それが瞬なのだ。
まだ十三歳の幼い少女は冥王から妻に、と望まれている。
だからハーデスの着眼点は決して悪くはないと思う。
「聖闘士と神様、前代未聞だけどなかなか面白れーじゃん」
なんとなくほくほくとした笑顔をこぼしながら、自宮である巨蟹宮を目指すデスマスク。
煙草の煙だけが彼の背後にゆれて消えていった。




それから数日後。
某国で捕えられた異星人もかくやの格好で石畳を登っている瞬の姿があった。左右を取り押さえているのは乙女座のシャカと蠍座のミロだ。瞬は真ん中で呆然と吊るされている。
「な、なんなんですかっ! 黄金聖闘士ふたりがかりなんてっ」
「君が面倒な書類を捌いてくれると小耳に挟んだのでな」
「カミュはシベリアに帰ってていないんだ。頼むよ、今度はちゃんとやらないとサガとカミュに叱られるんだ」
居丈高のシャカとどこか憎めないミロに挟まれて瞬はドナドナされて行った。
途中の巨蟹宮でデスマスクがけらけら笑っている。
「よう! いいカッコだな、アンドロメダ」
「デスマスク〜〜、あなたの仕業ですね!?」
「なんのことだよ。俺はただお前がちゃんと仕事できるいい女だって言っただけだぜ?」
一向にやめる気配のない煙草の煙がゆらゆらと揺れている。
「くっ……」
十も年上の男に言葉で敵うはずもない瞬は諦めたかのようにがくっと頭を垂れた。
「ちゃんと終わらせた暁にはカレーなど食べさせてやる。終わればな」
「んじゃー俺はお菓子! 美味しいお菓子!!」
「がんばれよー」
ずるずると引きずられていく瞬を見ながらデスマスクはにやりと笑う。サガに密告された意趣返しを果たしてご機嫌なのだ。
「さて、と。あとでコーヒーでも持ってってやるかね」
見上げた六月の空はさわやかに澄み切っていた。
デスマスクは銀の髪を風にそよがせながら目を閉じる。
「世界はどこにいくんだろうなぁ……」
それぞれの愛、それぞれの正義を持って世界は回り続ける。
少なくとも神々は愚かなる人間たちの祈りの言葉を聞いてくれるようだ。
そしてほんの少しの偉大なる可能性を残されたこの地上のために、今は聖闘士として戦い抜くのみ。
平和のために戦う男と、争いをなくすために鎖を取る少女と。
愛に可能性を見出す女神と、愛することを覚えた終端の王神と。
「まあ、そんな遠いかもしれない将来よりおもしろいもんがある、か」
獅子宮を挟んで向こうの処女宮から聞こえてきた爆音に唖然として振り返りながらも、デスマスクは笑った。
「せめて生暖かく見ててやるよ、アンドロメダ。お前の恋の結末をな……」
魂の清らかさと性格の激しさは別物らしい。
空になった煙草の箱を握り締め、蟹座の男は自宮に消える。




≪争いのない世界≫の存在が許されているなら
誰だって≪恒久なる平穏≫の中で生きていたい
この手で少しずつでいい、造ることを許されているなら
世界を≪僥倖の楽園≫に変えてみたい



彼らなりの正義を持って





≪終≫





≪誕生日! 誕生日!≫
蟹座のデスマスクのお誕生日をお祝いしようと目論んで書きました。タイトルはB'Zの『愛と憎しみのハジマリ』のパロディです。

デスマスク……実はあんまりピンと来てなくて、んーまあ書いてみようかなって思ったらすっごく書きやすかった!! 瞬と対比させるとこんなにも分かりやすい。瞬は『争いは嫌い、被害は最小限に』って子だからね。
そして我が家ではカノンと並んで煙草の似合う男だと信じております。
これからちょいちょい出番が出来るかもしれないwwww 冥王と酒が飲めるのは彼とミロくらいだしなwwww

デスマスク、お誕生日おめでとう(*゚∀゚ノノ☆ パチパチ

注: 文字用の領域がありません!

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