花に願いを それは占いというよりももはや数学的理論の問題である 「余はそなたを妻として迎えたい」 アテナの聖闘士であるアンドロメダ瞬にベタ惚れの冥王様はなんとかして彼女の心を掴むべく今日も必死で策を講じていた。 かの聖戦のおりに定められていた神と少女の交わりの果てに、冥王様は瞬に恋をした。 同じ地上を思うその心に触れて、もっともっと話をしてみたい、見つめていたい、そして触れてみたいという想いが積もり積もって恋となり、ある日冥王は単身彼女のところに乗り込んだ。 が、女の子をどうやって口説いたらいいのか全くわからない冥王はとりあえずいきなりプロポーズから入ってみた。 対する瞬はといえば、当然といえば当然だが呆然とした。 地上の平和と引き換えにその身を捧げる覚悟を再び決めた瞬だったが、自身の間違いを指摘された冥王はその日のうちに訂正、今では夜だけ会いに来る友達以上恋人未満の関係になっている。 瞬は聖闘士とはいえその身その心は普通の女の子のもの。拉致監禁はお手の物の冥王も流石に二度も同じ手段を使う気はなく、毎晩彼女の元を訪れては切々と自分の思いを語る日々。 百日と期限を決められていないだけに日本古典に見られる深草少将よりも難儀だが神様である彼にとってそれはたいしたことではなかった。 が、やっぱりよい返事をもらえないのは寂しくて、冥王様はため息をつく。 「嫌われていないだけマシなのかもしれんが……」 言いながら冥王は第二獄のはずれの花畑で愛しい少女に贈るための花を手ずから選んでいた。 「さて、なにがよいかな。同じものばかりでは芸がないし……」 「お花をお探しですか、ハーデス様」 「ん?」 聞こえてきた、小鳥のような優しい声に冥王は顔をあげる。 そこにいたのは桃色の衣に身を包んだ砂金色の髪の少女と、水白銀の聖衣を纏った琴座の青年だった。 「オルフェとユリティースではないか」 彼らは聖戦終了後も神の御加護の元にこの第二獄へ留まることを許されている。ユリティースは石の呪縛から解き放たれ、この花畑を出ないという条件付ではあるが動く事が出来た。 しゃがみ込んでいた冥王はゆっくりと立ち上がる。 「……そういえばそなたたちは恋人同士であったな」 握り合っていた手を離すことなく、ふたりは照れながらもゆっくり頷いた。 そんなふたりを咎めるでもなく冥王は微苦笑して見せた。 「羨ましいことだ……」 冥王の呟きの意味を、二人は知っている。 この冥界に住まう孤高の王神は年端もいかぬ人間の少女に恋をしているのだ。その必死な姿に冥闘士たちも心打たれたのか、ミーノスあたりは生温かく見守っている。 オルフェもユリティースも冥王の恋のお相手には面識があるのでお花選びを手伝ってあげる事にした。 優しくて可愛らしい、可憐という言葉がよく似合う薄紅色の乙女。 戦うことが嫌いなのに戦士としての道を選び続けるアンドロメダの聖闘士。 それが瞬という少女だった。 「先日は薄紫の蘭を贈ったのだ」 「アガパンサスですか? 素敵な花をお選びになりましたね」 「そうか?」 「ええ、花言葉は“恋の訪れ”ですから。ああ、でもあまり気にしないで、彼女に似合うと思った花を贈ってもいいんですよ」 「そうなのか?」 ユリティースはにっこりと笑って頷いた。 「紫陽花の花言葉は“移り気なあなたに”ですけど、もらって嬉しくないってことはありませんから」 どんな言葉を持っていても女の子は可愛いものが好きなのだ。その辺の心情が冥王にはまだまだよく分からない。 「……そういうものか。ではあの花は可愛くなかったから瞬は黙っていたのだろうな」 「何を贈られたんです?」 ユリティースの横にいたオルフェが白い花を手に尋ねると冥王は表情も変えずに言った。 「うん、ラフレシアをな。とても貴重でしかも世界最大だというから、余は思いの大きさの証として贈ったのだが……瞬は何故か絶句していてな」 「………………」 ひとことも発しない二人に冥王はかの名台詞をアレンジして言った。 「オルフェにユリティース、そなたらもか……」 なんと言ったらいいのかわからずふたりはただ乾いた笑いを浮かべるしかできなかった。 「で、でも瞬は優しいから受け取ってくれたでしょう?」 「いや、贈る前にパンドラが駆けつけてくれてな。間違っても女性に贈る花ではないと。それで急遽贈ったのがアガパンサスとやらだったのだ」 紫君子蘭の別称を持つその花はその名のとおり高貴な姿で初夏に咲き誇る。 対するラフレシアは確かに世界最大、熱帯にしか咲かない希少な植物だが、花というにはその姿はあまりにもグロテスク。しかも寄生植物に分類されるあげくに最悪にも悪臭を放つ。 「そのラフレシアはどうなさったのですか?」 あまり知りたくないが、好奇心は何でも殺す。世界最大の醜悪な花の行方を尋ねたのはユリティースだった。 「冥闘士数名に担がせていたのでそのままもと咲いていたところに戻してやろうかと思ったのだがそれも面倒だったのでカードをつけて忌々しいあの男のところに放り込んできた」 「あの男というと……」 「蟹座のカノンだ。まったく、余の瞬にちょっかいだしおってからに。瞬が殺してはならぬというから余は鉄壁の理性をもって我慢しておるが……まあ、『敵に塩を送る』ではないが、たまにはよいかと思ってな」 カノンは蟹座ではなく双子座だが、冥王は嫌がらせにそう呼んでいる。 余談だがその際に下の白羊宮と金牛宮の住人に迷惑をかけないようにラフレシアに結界を張ってから双児宮に放り込んだということを明記しておこう。 純然たる嫌がらせにご満悦の冥王様はフフフと笑いながらも瞬への愛が溢れんばかりの笑顔を見せている。 ユリティースはさりげなく話題を変えた。 「ところでハーデス様、花占いはご存知ですか?」 「花占い? いいや、知らぬ。なんだそれは」 崇高な神という存在に占いなどと一笑に付すことなく、冥王は与えられる恋の知識を真綿が水を吸うように吸収している。 ユリティースはそばにあった花をそっと摘みあげた。 「花びらを一枚ずつ摘んで、残った花びらに与えられた言葉がその結果なんですよ」 言いながら彼女は黄色い花弁を白魚の指先で丁寧に取り始めた。 「オルフェは私のことが好き、嫌い、好き、嫌い、好き……」 好きと嫌いを繰り返しながら散っていく花びら、残った言葉は“好き”。 冥王はおおと声を上げた。 「オルフェは私のこと好きなのね」 「ああ、変わらずに好きだよ」 オルフェは照れながらもユリティースの肩を抱いて微笑んだ。彼女も幸せそうに微笑む。 ならば余もと冥王様、手元の花を掴み、瞬との恋を占ってみる。 「瞬は余のことを好き、嫌い、好き、嫌い……」 重ねていく裏返しの感情、残った言葉は呪詛のような“嫌い”。 愕然とした冥王様は今のは無しと自身にやり直しを要求、再度花を散らしたが思うような結果は出なかった。その横でユリティースは今度は好きと嫌いに大をつけたものを加えて占っている。 「オルフェは私が好き、嫌い、大好き、大嫌い……きゃあ、大好きですって」 「よかったね、ユリティース」 「ええ、私とっても幸せだわ」 微笑ましい恋人たちの横でずーんと暗い空気の冥王様。何度やっても嫌いと出るらしい。 「何故だ……何故なのだ!! 余と瞬は添い遂げられぬ運命なのか!!」 くず折れて地面を拳で叩く冥王を哀れに思ったのか、オルフェがそっと花を差し出した。 「……なんだ?」 「この花で占ってみてください。大丈夫、きっといい結果が出ますよ」 「本当だな?」 請合うように微笑んだオルフェに冥王はその花を受け取ってむしりだした。 「瞬は余のことを好き、嫌い、好き、嫌い……す、好き!? 好きだ!! イヤッホーイ!!」 花びらが一枚残っていた茎を投げ捨てて、たかが花占いに冥王は狂喜乱舞。 もう一度やってみようと花を掴みかけた神の手を琴の弾き手は繊細なその手で止めた。 「お待ちください、どれでもいいというわけではありません」 「何故だ?」 「この花占いは……実は結果はある程度捏造できます」 「なんと!?」 神の御言葉も金次第、花占術の結果は単純な数学理論次第だという。 「よろしいですか。欲しい結果は好きか嫌いかの二つ、すなわち偶数になります。好きを最初に持ってきた場合、好きという結論を導き出すためには偶数足す一、すなわち花弁の数が奇数であればよいのです」 「!!」 衝撃を受けた冥王、思わず手元の花弁の数を数えてから再度チャレンジしてみた。 「……瞬は蟹座のカノンが嫌い、好き、嫌い、好き……おお、嫌いと出よった!!」 わかっていた結果とはいえ、それでも憎き恋敵の結果が悪ければ笑わずにはおけない。 「ん? ということは……オルフェよ、もしかしてあの娘は」 「……瞬時に花びらの数を数えてさりげなく選んでおります」 「……聖闘士では」 「いえ、彼女は普通の人間です、多分」 恋に生きる女は怖いと、冥王と琴弾きのオルフェはユリティースを見つめるのだった。 「どうしたんですか? お花選びましょう?」 「ああ、そうだね」 「うむ。大事な瞬のためにな」 花占いは当てには出来ぬと冥王様は白い花束を胸に抱いて地上へ向かうのだった。 選んだ花は梔子の花。ガーデニアとしても知られるその花は独特の強い、それでいて風雅な芳香を持っている。その梔子をベースに花弁の細いスプレー咲きの白い花と霞草をあわせて清楚なブーケを作る。 ハーデスが地上に出るとまだ日が沈んで間もないのか地平の向こうはうっすらと金色に揺らめき、その反対側に白銀の月が満たされぬ想いで浮かんでいた。 まもなく満月を向かえる、月。 夜は原初の女神たちが織り成す時間、いかに生命を司る冥神と言えども覆す事の出来ない摂理。 夏の夜の短さを呪うようにハーデスはそっと空を見上げた。 「誰かを望み、愛するということは楽な事ばかりではない、か……」 短い時間だからこそ大事にしていたい――瞬がそう言ったのを思い出し、冥王は闇の瞳を伏せた。 そして短い沈黙を経て愛しい少女の下へとその身を走らせた。 彼女はいつものように部屋で静かに待っていた。 くせのある、けれど美しい亜麻色の髪に手を入れ、そっとかきあげるその仕草にハーデスは思わず見惚れてしまう。 ふと瞬がゆっくりと振り向いた。 「あ……いらしてたんですか。……おかえりなさい」 「……ただいま、瞬」 まだ他人なのに他人行儀な挨拶はいやだと駄々をこねた結果のやりとりは地上で生まれて地上で育った二人のためのもの。 瞬はふわりと微笑んで冥王を迎え入れた。 「? どうかしました?」 「あ、いや。なんでもない」 いくら愛していると言ってもまだ十三歳の少女に見惚れていたとは言えず、冥王は手にしていた花束をそっと差し出した。 「これを、そなたに」 すると瞬は笑顔を寄り鮮やかに、その白い花束を受けとった。その笑顔は花さえ霞ませてしまうほどに可憐なのに、先ほど見せたあの仕草は不思議なほど妖艶だった。 少女は恋を得て女との間を揺れ始めている。 「ありがとうございます、いい香り……」 亜麻色の髪の乙女は白い花がよく似合う。 ソファに座ったハーデスはいつものように自身の左側に瞬を座らせようとした。 が、瞬は片腕に抱いた花を庇うようにして花瓶を持っていた。 「活けてあげないと枯れちゃいます。折角命を分けてくれたんだから長生きしてもらいましょう?」 すぐ戻ってきますからと冥王の頬に口づけ、瞬は部屋を出た。 こういうとき花を贈る良し悪しが出てくると彼は思った。一緒にいる時間は短いのにどうも自分で首を絞めているような気がしてならない。今度は花ではなく別のものにしよう、ではなにがいいだろうと真剣に考えること数分。約束どおり瞬はすぐに戻ってきた。 「お待たせしました。ほら、花瓶に活けてあげたら元気になったみたい」 短い命の花は花瓶の中でどれくらい生きられるだろう。 目を楽しませるために、愛の証のために切り取られた命のためにもこの恋は成就させねばならぬと冥王は密かに拳を握った。 「その花はガーデニアとか言うんだそうだ。余は花の名には疎くて、よく分からぬ」 「ふふふ、そう言うと思って」 瞬はテーブルの上に置かれていた一冊の本を取った。 「なんだ? それは」 「花言葉の本ですよ。あなたがいろんなお花をくれるから気になっちゃって」 言いながら瞬の指先は早くもガーデニアを探し始めていた。 「あ、あった」 ふたりで同じページを覗き込めば顔が近づく。冥王の黒絹の髪がさらりと彼の肩を流れた。 「ガーデニア、あ、梔子の花なんだ。この花なんだ」 「知っていたのか?」 「この花の実が黄色の染料になるんだって紫龍が言ってましたから」 「龍座は博識だな」 他の男の話になっても目くじらを立てないのは紫龍が瞬の異母兄だからだ。流石に冥王はそこまで大人げのないことは言わない。 「花言葉は“私は幸せ”……」 唇からこぼれた言葉を留めるかのように、瞬はそっと指先で触れた。 女神のもとに集う兄弟たち、仲間たち、そして世にも珍しく神様が恋人。 囲まれて、今は本当に幸せだと思う。 でも、この幸せはいつまで続くのだろう。 平和はあるものじゃない、守るものだのだと――だから私は聖闘士をやめないのだ。 そんな少女の思いに気がついたのか、冥王はそっと肩を抱いた。 「ハーデス?」 「……幸せとは一体なんだろうな」 「あなたは神様なのに」 苦笑する瞬にそっと頬を寄せつつ、冥王は囁いた。 「神か。万能であるならとっくにそなたを妻にしておる」 冥王は神としての力を使わずに、ただの男として彼女を迎えたいと誓った。奪う事もせず、無理強いもしないと決めたのはひとえに略奪の空しさを知っているからだ。 言うなりハーデスは瞬の膝の上に倒れこんできた。少女の細い腿の上に頭を乗せて仰向けに向き直る。目が合うとお互いに小さく笑った。 こんなことも自然に出来るようになったのならとハーデスは瞬の頬に手を添えた。 「幸せとは何か」 「何なんでしょうね。少なくともひとつの確たる定理は無いような気がします」 「ほう……」 まだ十三歳の少女の言葉にハーデスは感歎のため息を漏らす。 瞬は横たわって甘えるハーデスの髪を梳きながら言った。 「それぞれなんですよ。生命の数だけきっと幸せの形もある……例えば健康で長生きすることは幸せですけど、愛する人が誰もいない世界でたった一人だとしたらそれは幸せなんでしょうか」 「なるほど……」 「小さな幸せをたくさん欲しいんです」 「では、そなたの幸せとはなんだ?」 愛する少女の願いをすべてかなえてやれる、それだけの力が自分にはあると冥王は自信を見せる。が、それを誇示しないのはそんなことで彼女を得たくないからだ。 深闇の王の問いに瞬は苦笑して見せた。 「私は人で、しかも女ですから、地上のどんな生き物より欲深いですよ?」 「古来からそうだと決まっておるから気にはせぬ」 「ひどいなぁ、それ」 絹のような感触にうっとりと目を細め、それでも瞬は唇を開いた。 「私の幸せは……」 それさえ叶うなら幸せだと思える願いとは。 「そうですね、地上が平和で、その平和のために争うことも無くて、そして私自身は沙織さんや兄さんたちと自分の命数が尽きるまで一緒にいられること……かな」 そう言って照れくさそうに笑う瞬を見つめて、冥王は穏やかに口元を緩めた。 「壮大なんだか素朴なんだかわからんな」 「いいじゃないですか。これが私の願いであり幸せなんですから。じゃああなたの幸せって?」 「もちろん、そなたが余のそばにいてくれることだ。探せばほかにもあるだろうが今はそれがいちばんの願いであり幸福なのだ」 問うことさえ愚かだとも思えるような冥王の願い。 三界のひとつを支配する黒神はたったひとりの少女の心を願ってやまない。 「なあ、瞬」 「なんですか?」 冥王の髪を梳いていた瞬はむっくりと起き上がった彼の背中を見つめている。が、それも僅かなこと、ハーデスは瞬に向き直るとその両手をしっかりと握って言った。 「そなたはまだ十三歳、将来のことなどあっさりと決められぬであろう。それはよく分かる。余も無理強いはせぬ」 「は、はあ……」 それは二回目のプロポーズのときからさんざん聞かされてきたことだった。彼の優しさ、誠実さが伝わってきて、だから瞬も毎夜の逢瀬を受け入れている。 「だが現状に満足できぬのもまた事実」 蟹座(ではなく双子座)のカノンまでもが瞬に懸想してちょっかいを出し、瞬の兄である不死鳥の一輝が目を光らせ、異母弟のペガサス星矢までもべったり甘えて離れないという、冥王にしてみれば歯軋りしたいような現実。一輝と星矢は身内なので仕方がないとしてもカノンだけははっきり言って邪魔だ。 「そこで余は考えた。今すぐ結婚しようなどとはいくらなんでも言わぬ。そこまでアホではないぞ」 「はあ……」 「せめて婚約だけでもせぬか?」 「はあっ!?」 ちょっと待て、それじゃ結婚前提じゃないか。いや、この恋そのものは結婚を前提にしているのだから今更という気がしなくもないのだが。 そう突っ込みたいところなのだが冥王は至って真面目だ。 「婚約って……」 「結婚を前提に交際しておるのだからこの際かまうまい!」 ずずいっと迫ってきた冥王に気圧されるように、瞬はあくまでうっかり頷いてしまった。 「婚約だな? 婚約を了承すると言うのだな!?」 「えっ!? あっ……」 今更うっかりだとも言えず、瞬は冥王の腕の中に封じられた。 「うわっ、ちょっと!?」 「これまでは婚約未遂だったわけだがこれで余は正式に瞬の婚約者となったわけだ。婚約指輪はちゃんと作ってあるから心配しなくていいぞ」 「作ってるんですか!?」 「うむ、サイズまで抜かりは無い!」 勢いで惑星まで直列させてしまいそうなくらい喜んでいる冥王、思わずあの笑いが出る。 「ウハーッハッハッハ!!」 双子座のカノンから少女だけでなく笑い方まで奪うハーデスに、瞬はただただ苦笑するしか出来なかった。 (ま、いっか……) 瞬はそっと冥王の胸元の布を握る。 愛を知らなかった冥王にほんの少しでも愛というものを教えてあげられるのなら、そういう一生もまたいいかと思いながら。 「あの、ハーデス?」 「ん?」 「苦しいです……」 「ああ、すまぬ」 きつく抱きしめていたことに気がついた冥王は腕の力を弱めたが、彼女を解放することはしなかった。 「花言葉どおりの夜だな」 「……幸せですか?」 「ああ、余はとても幸せだ。そなたは?」 「愛されるってことは幸せなことなんでしょうね」 そう言って冥王の胸に顔を埋める瞬は、本当に幸せそうに微笑んでいた。 父母の愛を知らず、兄や友の庇護の下に育った瞬にこの温かさは特別だったのかもしれない。 瞬の出生やこれまでの人生は知っていてもそういう機微がわからない冥王はそれでも笑顔の瞬につられる様に微笑む。 「なんか引っかかるな。そなたは余が嫌いか?」 「いいえ、好きですよ。でも男の人からこんなふうに望まれたことはありませんでしたから」 微笑みながら冥王の腕に安住する少女の髪を柔らかく指に絡ませる。 少女の心の天秤は冥王の度重なるアプローチに徐々に傾きつつあるのだが、瞬自身はそれにまだ気がついていない。今こうしている時間が互いに温かくて優しいことに満足する、ただそれだけだ。 「瞬」 「はい?」 短く、ごく自然に、それでいて和やかに笑う冥王の姿。 導かれるままに瞬は静かに目を閉じた。 触れ合うのは唇、紡ぎだす約束。 同じ思想を持ちながらも敵対しあった神と少女はこうして心を重ねながらひとつの道に向かって歩き出そうとしている。 離れていく刹那さえ、どことなく愛しくて。 「必ず幸せにする。そなたが幸せだと思えるような努力をしよう」 死を総括する神であるハーデスは邪悪なそのイメージに反して誠実で温和、職務に関しては厳格だ。 ゆえに彼は深い闇の底にあっても、死神と忌み嫌われても、与えられた役目を放棄する事は無かった。 そしてそれはこうして夜毎触れ合う瞬にもきちんと伝わってた。だからこそ、たとえうっかりでも瞬は彼との婚約に頷いたのかもしれない。 うっかりだったと婚約了承を翻せばいいのにそうしなかったのは彼があんまり幸せそうに笑うからだ。 「あなたって本当に……」 「ん?」 「死神のイメージからは遠いんですねぇ」 「元来死を司るために生まれたわけではないのだ」 ゼウスとポセイドンと彼による覇権抽選の結果、彼は死国冥界を司ることになったに過ぎない。そんな中でも彼の性格が変わることはなかったわけだ。 そしてこの時代に聖戦を通じて神と少女は出会った。 出会いは最低最悪、そのあとも戦いの中にその道を別ったはずだったのに、今こうして優しく触れ合うことが出来るのはそこに愛のごく小さな欠片が落ちていて、それを知らぬうちに拾い上げたからなのだろう。 「瞬……」 「はい……はっ、えっ、ちょっと!!!」 座っていたソファの上に婚約者たる少女を押し倒しかける冥王と必死に抵抗する瞬。 「よいではないか、婚約したのだから! ちょっとだけだ!!」 「ちょっとってなんですか!! 調子に乗ると婚約破棄しますよ!!」 「それはイヤだ」 愛の前に神も人もなく、ただ素直に生きることだけ。 瞬は自身の胸元をきつく寄せながらじとーっとハーデスを見つめた。 「……何もせぬ。したいが、何もせぬ」 少女の左の首筋に顔を埋め、静かに囁く冥王の吐息に瞬の身体が甘く震える。 「やっ……な、何もしないってっ、んっ……」 「これは以前からさせてくれたではないか」 「んっ…でもっ……」 鎖骨の辺りに吸い付く冥王の唇は妙に温かくて。 (やだっ……なんか急に恥ずかしい……っ) 「フフフ、やはり可愛いな、そなたは」 「もうやめてくださいよぅ……」 十三歳なのに軍神アテナと冥神ハーデスとに愛されたばかりに普通の少女としての暮らしを許されない、瞬という存在。 うっかりでも婚約は婚約。 再び刻まれた所有の印は乙女の口に入れられた石榴の様に赤かった。 翌朝の冥府。 第二獄の花畑に住まう恋人たちは地上から戻ってきたハーデスに遭遇した。 「ねえ、オルフェ、あれってハーデス様かしら?」 「ああ、この冥界であの御衣装、ハーデス様だろう」 墨染の法衣を纏う長身の男は誰あろう、この冥界の王なる神。その神はうきうきと鼻歌を歌いながら一路ジュデッカへの近道を歩いている。 「でも変ね、いつもまっすぐジュデッカまでテレポート……っていうの? なさるからこんなところ歩いているはずが無いのにね」 ユリティースはオルフェの腕に自分の腕をそっと絡ませて幸せそうに寄り添う。 「ん? オルフェにユリティースではないか」 「お珍しいですね、このようなところをそぞろ歩いておられるとは」 青年の澄んだ笑顔に冥王も満面の笑みで返した。 「うむ、今日はなんか幸せを噛み締めたい気分なのだ。そなたたちも幸せに暮らせよ!」 神様とは思えないほどフレンドリーに去っていくハーデスにふたりは唖然としつつ顔を見合わせた。 「……頭に花でも咲いたのかしら」 「ユリティース!!」 さらりと怖いことを言う恋人をオルフェはそっと嗜めるのだった。 そのころのハーデスはジュデッカにある自分の玉座に戻るために石段を登っているところだった。 傍らにはすでにパンドラが控えていて彼の帰りを待ってくれていた。 「お戻りなさいませ、ハーデス様」 「うむ」 法衣の裾を優雅に捌きながら腰掛け、背もたれに身体を預けて息を吐く。 そして冥王はくくくと小さく笑いをもらした。 「どうなさいました、ハーデス様」 どことなく嬉しそうな冥王を見ればパンドラとても同じように嬉しいのだ。 ハーデスはこの時代に生まれてくるために彼女の弟妹の誕生を利用し、彼女の周囲にいたすべての生命を奪った。憎い神であっても、それでも彼女にしてみれば幼い頃をともにした大事な弟妹には違いなくて。 聖戦終了後もこうして生きていられるだけで満足なのは彼女も恋をする乙女に相違ないからだ。 「なにか進展でもございましたか?」 「察しがよいな、パンドラよ!」 「お褒めに預かり光栄でございます。して、どのように?」 「瞬が余との婚約を了承してくれたのだ。これまでお友達のようなものだったが、これであの邪魔な蟹座を出し抜いたのは言うに及ぶまい」 冥王の言葉が終わるや否や、パンドラはその場にくず折れた。 「いかがいたした!?」 「申し訳ありません、感極まりまして……うっ……」 喜んでくれるパンドラに冥王も嬉しそうに頷いた。 「今度はそなたの番だな、はやくフェニックスを落とすがよい」 「はい……って、はあ!? は、ハーデス様っ……!!」 「ははははは、黙っておっても進展せぬぞ。なんなら今すぐ拉致ってくるが」 「おやめください!!」 顔を真っ赤にして法衣に縋るパンドラの髪を撫でて、冥王はなおも笑みを絶やさない。 「恋とはほんによいものだな」 瞬の婚約を巡って地上で大騒ぎになっていることも知らず、冥王はただただ幸せを噛み締めていた。 奇数の花弁を散らして願う幸せ 偶数の石榴の粒に込めた誓い ――ほんのわずかでもいい、応えてくれるのなら 「余は全力でそなたを愛そう……」 花は咲き、やがて実をつけ 生命は未来へ ≪終≫ ≪花占いの真実≫ うっかり婚約ですよ、ご婚約。ご成婚はいつだろう(*゚д゚) まあなんですか、言いたい事はたくさんおありでしょうが石投げないでください。俺の中ではもう冥王×瞬は確定なんです。ウハーッハッハッハ。 あー、オルフェとかはじめて書いたよ、もう! 振り返ってしまえ!! |