StarDust Side:E



少女の手は星屑に届いたの?




冥闇の王は冷笑を浮かべてぐったりと項垂れる戦乙女の顎をつかんだ。
「……っ」
「十三年という年月は余にとって短い時間ではなかったが……待ちかねたぞ、我が愛しき器たる少女よ」
亜麻色の髪から覗く瞳はまだ銀河の輝くを無くさない。
紅水晶を思わせる甲冑を纏った少女の体はふわりと宙に浮いたまま、目の前にいる闇王を睨みすえていた。
「あなたが、冥王ハーデス……」
「――いかにも。余がハーデス、そなたとひとつになるもの」
互いの胸に光る星の約束が禍々しい光を放って王と少女を繋ぐ。
少女の体が冥神にそれに引かれるように近づいていく――少女自身も、彼に迫るように。
薄紅色の少女はにこりと、けれど冷たい笑みを浮かべた。
お揃いの、凍えるような冷たさ。
銀河を切り取って繋いだ鎖で神の手首を自分のそれと繋ぎとめた。
「……お揃いね、私たち」
「ああ、互いに鎖で繋がれた。もはや離れることもあるまい」
永遠にあなたのものと刻んだペンダント。
淡い薔薇色の銀河から与えられる星雲鎖。
「これでそなたは余のものだ……光栄に思うが良い、余の器となる幸せを味わうが良い……」
「……そうね」
男は少女の唇を奪う――深紅の口紅さえ知らぬ幼い唇を。
「多少の傷など、余の力で消してしまえる……いや、傷などというレベルではないな。今日までそなたを死なせずにきたのだから。覚えているか? 双魚宮でそなたを助けたのは余だ……」
「ええ、今わかったわ……私を殺していればあなたは、私を奪う事なんか出来なかったんだもの」
「賢いな、そなたは」
耳元で囁かれた少女の名は温かく僅かな光の姿。
少女は口付けを受けたまま喉の奥で笑った。
優しさも嬉しさもない、ただ奪い合うだけの口づけの奥で。
冥王はそっと少女を放した。
「なにがおかしい」
「……愚かな人。十三年も私を? もっと機会はあったはずなのに。私が聖闘士として育つ前に私を奪っておけば、……あなたは倒されずにすんだかもしれないのに……」
「なんだと?」
男の手首にまかれた鎖がぎちっと音を立てた。
「なんの真似だ!?」
「あなたの望むとおりに、私はあなたになってあげる……」
だけど。
私が人形じゃないんだってこと、忘れてたんじゃない?



冥王ハーデス――参界の王の一人にして、オリンポス十二神が一柱。
はるか神話の時代より軍神アテナと地上の覇権を巡って争ってきた冥府の王。
彼はクロノスとレアから生まれた美しい肉体が傷つく事を恐れて、地上侵略の折は必ず別の肉体を選んだ。
それもただの肉体ではない、その時代にもっとも清らかな魂を擁する肉体が必要だった。



「これで終わりだ! ペガサス!!」
「くそっ……!!」
冥界三巨頭の一人、ワイバーンのラダマンティスとアテナの聖闘士・ペガサス星矢の対峙に割って入った神聖で高圧的な声。ふたりは繰り出していた拳を思わず止める。
「……余は戦いを好まぬ、控えよ、ラダマンティス」
「し、しかし」
「余の言う事が聞けぬと言うなら致し方ない。ペガサスもろともそなたを討つ以外にはあるまい」
星矢はラダマンティスに命を下す少女の姿を呆然と見つめていた。
まるで人が変わったかのように冴え凍る瞳はいつも湛えている銀河さえ闇の奥底に隠してしまっていた。
「……瞬!!」
薄紅の聖衣を纏う瞬は星矢に向き直り、一瞬だけ別れの笑顔を見せ、そして。
滅びの煌きが少女の手から放たれると星矢の意識はここで途絶えた。
(……ごめんね、星矢)
最期の言葉を選ぶ事さえ許されず、少女は友を手にかけた。



「なんて……なんてことしたのよ!!」
憤怒に燃える少女の瞳、細く小さな手が冥王の襟首を掴んで乱暴に揺すった。
彼はなんでもないかのように瞬を見つめていた。
「そなたが邪魔をしたから致命傷にはならなかったぞ。だがそれも時間の問題、ペガサスは死ぬ。誰であろうとなんであろうとここは既に戦場。敵の首を上げることに何の疑問がある」
「あなたには敵でも私には弟よ! 大事な仲間よ!!」
共有する星の名はアルフェラッツ。ペガサスとアンドロメダは共に同じ星を抱いて秋の夜空に輝いていた。
「……物言わぬ人形ならば良かったのにな」
「なんですって……!!」
「星が余とそなたを狂わせた……そのような星なら要らぬ」
じゃら、と音を立てながら冥王が右腕を上げると最高の防御本能を誇る星雲鎖は星屑のように、粒子のように小さく虚空に消えていった。
「なっ……!!」
「もう、要らぬ。そのように余とそなたを遮る聖衣など……」
肩に、腕に、背中に。
冥王の手が触れたところから聖衣は砂のように消えていく。
鎧わぬ魂は脆く儚く、けれどどんな物質も敵わぬ最高の美を持って輝いていた。
「ああ、とても清らかで美しい……さすがに余が選んだ魂と器だ」
残ったのは喉許の鎖と闇の星だけ。
永遠にあなたのもの――残酷な神の残酷な強制。
それは呪詛にも似た祝詞。
「さあ、来い。余とひとつになる覚悟は出来たのであろう?」
「ええ。あなたを倒すために」
「良かろう」
来るがよい、愛しい少女よ。
冥王は瞬の腕を掴んで引き寄せ、今度は乱暴に口づけた――運命も何もかも、奪ってしまうかのように。
それは愛にも似た魂の陵辱。
「愛してやろう、瞬……そなたの清らかな魂を……」
「ハーデス……」
闇色の衣が少女をゆっくりと包み込む。
死と引き換えに。



ジュデッカに集結していた三巨頭は突然現れた少女王に困惑を隠せない。
カーテン越しに見ていたあの姿はなんだったのかと思考を巡らせる。
「まさか、あの小娘がハーデス様でいらっしゃったとは……」
「うむ、敵とは言えあのアンドロメダの少女は歴戦の勇士という。そのような者が此処に至ってなぜハーデス様だなどと……」
美しい、人形のような少女。その外見に反して瞬はアンドロメダの聖闘士であったのだ。
散らばっている姫の聖衣はピンクサファイアのように清らかな輝きを見せている。
そのかわりに瞬は漆黒の法衣を纏い、ジュデッカの玉座に鎮座ましましていた。
深く眠っているかのように目を閉じているのは魂の奥底の、狂気なる交わりの故か。



少女の白く滑らかな肌を男の手が滑る。
壊さないように羽毛のように触れるその手の感触は氷の様に冷たくて、瞬は思わず身を捩る。
瞬の肌は穏やかな暖かさを持っていた。
「う…んっ……」
「やはり、男も知らぬ体か。よくも今日まで純潔を守ってこれたな。そなたの美貌なら引く手あまたであったろうに」
「あいにくとっ…んっ、聖闘士なもんでっ」
「すべて撥ね退けてきたか、流石だな」
「あなたがそうさせたんじゃないんですか?」
向かい合って触れていた冥王の手が止まり、乾いた笑いを瞬の耳元に響かせた。
「余の器たる魂は言う事が違う。面白い。ますます余のものにしたくなった。体だけ得て魂は壊すつもりだったが……余の許にある限り永久に愛でてやろう」
壊されたほうがいっそ楽だと思えるほどに。
「小さき乳房よな。まだ少女ゆえ仕方がないか……」
闇なる男の手が少女を愛撫という名の陵辱へと導く。
「くっ…!!」
冥王は逃がさぬとばかりに瞬の腰を抱き、胸元に唇を寄せた。桃色の果実はたった一度だけ魚座の女の唇を受けたに過ぎない。
「うんっ…やぁっ……」
乱れまいと必死に唇を噛めば鉄の味がした。
「こら、血を流すな。そなたが流すのは純潔……破瓜の証だけでよい……」
言うなり冥王は瞬の唇を吸うように奪い、さらに舌を滑り込ませた。
「んっ! んんっ!!?」
絡み合う、神と人。
混ざり合う、男と女。
「そなたの清らかな魂も今は……」
淫らに散る事を覚え始めていた。
その反応が面白くて、冥王は少女の背中を撫でる。ぐんと仰け反るその胸に再び口づけて、少女を追い詰めていく。
「は……あ…」
「よい顔、よい声……さあ、もっと曝け出して見せろ!」
男神の手が少女の脚を強引に開かせた。
何も知らない胎内への入り口に、男は静かに手を這わせた。
「!!」
そのときだった。
男を受け入れるのとは全く異質の灼熱が二人の間を流れて消えた。
「これは……」
不死鳥は、炎の欠片。
焔の片鱗は死の運命と相容れぬ。
冥王は少女を愛撫していた手を止めて薄く笑った。
「どうやらそなたの望みどおりになりそうだ。だが余は簡単には討たれぬぞ。そなたの手並み、見ていてやろう。とりあえず余が出るぞ」
だが冥王は瞬を手放す事はなかった。
黒衣の袖に裸体の少女を抱き、意識の最表面へ。



ジュデッカの玉座に捕らわれたままの黒衣の少女。
控え居るのは黒髪の淑女、パンドラ――この世に災厄を解き放ってしまった最初の女と同名の、そして同様の女。
その前に焔の闘士、まだ少年だった。
淑女の声がほんの僅かな困惑を持って凍てつく王前に響いた。
「ただいま第五獄よりテレポーテイションさせました……攻撃的な小宇宙を発していたのはこの男にございます」
炎の翼を纏う少年は眼前の少女に声を荒げた。
彼女は妹――命ある限りこの手で護ろうと手を握り、息を切らして駆け抜けてきた大切な大切な妹。
その妹が何故あのような姿で、冴え凍るような瞳をしてそこに座っている?
駆け寄ろうとした不死鳥の少年を淑女の雷電が襲う。
「動くな!!」
「うおっ!!」
伸ばされる少年の手は空しく王の前に地に果てる。妹は微動だにしない。
「気安く声をかけるでない。あのお方はもうお前の妹ではないのだ」
「な、なんだと……?」
不安定な世界の不誠実な公式を蹴散らす兄と、それらを認めさせる淑女。
十三年前の記憶の名称は“悲哀なる運命の序奏”
神の魂と少女の姿をした器は相容れることなく、ただ星屑の約束のみを残して。
「一輝よ、あのときの誓いをハーデス様は果たされた。お前の妹も」
「バカな事を。瞬はアテナの聖闘士としてこの地上に生を受けた! 断じてハーデスになるためではない!!」
十三年後の追憶の本性は“不遇なる宿命の破壊”
少女の胸元の鎖を壊したとて、それは偶像の破壊に過ぎない。
だがそれで魂と魂を結ぶ絆が少しでも弱まるのなら。
兄の拳は最愛の妹である瞬の肉体に向けられる。
「ハーデス!! 瞬の体から出て来い!!」
「身の程知らずが、これ以上ハーデス様に近づくでない!!」
神殿に響く反女性主義の渇いた音。頬を打たれて転がるパンドラ。
動きを封じられた彼女は敵対する炎の闘士と主君たる少女を見守ることしか出来ない。
「眼を覚ませ、瞬……!!」
兄の手は妹の頬を打つ。だがそれが徒に彼女を傷つけているに過ぎなくても、一輝にはそれしか出来なかった。
「瞬!!」
「愚かなことよ……もはや人の手ではどうする事も出来ぬというのに」
魅惑の星々が直列に並んで世界は終焉を迎えるのだ。



傍らに少女を抱いたまま、冥王は相変わらず乾いた笑いを浮かべる。
冷徹にして冷酷な闇はじわじわと少女を侵食していく。
「そなたの兄はなかなか過激だな、瞬」
腕の中でぐったりと項垂れる少女に冥王は優しく笑いかけた。
頬に、肩に、首筋に口づけの雨を降らせては卑劣な愛を囁く。
「う……」
「もはや抗う力もないか。無理もない。人間であるそなたのこの肉体は二つの魂を留めておけるほど頑丈には出来ていない。そなたの計略も、刻の経過と共に終える。残念だったな」
小さな乳房に手を這わせながら冥王は喉の奥で笑った。
「もう諦めて余のものとなれ――この身も、魂も。余の器であった事を鑑みて、余のそばにおいてやる。飽きるまでな……」
愛撫されるままに瞬は身を捩る。
だが力尽きようとしているのにその瞳はまだ輝きを失っていなかった。
「なんだ?」
「あなたは何も分かっていない。私はアテナの聖闘士よ? 何をされても、何があっても決して諦めたりしない。あなたの自由にはさせない」
「……そなたになにが出来る?」
冥王の指が瞬の陰部に触れた。僅かに湿った音を立てたその場所にそろりと、ごく浅く指を差し入れる。
「ああっ!!」
「今は捕らわれの姫……まさにアンドロメダの宿命だな」
「……愚かな人、哀れな神様。あなたは何も知らない」
「言わせておけば!!」
男の手が瞬の亜麻色の髪を乱暴に掴み、そのまま空いた片手が腹部を打ち据えた。
「がっ!!」
強烈な痛みに瞬の銀河の瞳が大きく見開かれた。
衝撃を和らげようにも髪を掴まれたままなので身を屈める事が出来ない。
「人間の分際で、なにが出来る!? 余を倒すだと!? はっ、出来ると思っているのか!? 今のそなたに!!」
「……た、確かに…今の私には無理だわ。だけど、アンドロメダの宿命だと、あなたは今そう言った」
「――何?」
瞬は口元だけで笑って見せた。
それが気に入らない冥王の奥歯がぎりっと鳴る。
「アンドロメダは鎖に縛られて生贄になった姫の姿。私はその宿命に殉じるのよ!!」
どこにそんな力が残っていたのか、少女の細く小さな手が冥王の手首をつかんだ。
「何をする!?」
「あなたをこの体に封じる……それが今の私にできること!!」
頭を掴んでいた腕をぎりぎりと締め上げる。冥王は思わず手を離したが、空いていた片手は瞬の細い首を過たずに鷲づかみにしていた。
「離せ!!」
「ぐっ……は、離さない!! 諦めないっ!!」
神は迷わずに人を殺す。
妹は最愛の兄を殺さない。



漆黒の淑女は目の前に広がる破局的叛乱を呆然と見つめていた。
瞬を取り戻しにきた鳳凰の生命の翼を砕こうと攻撃を重ねてきたハーデスが突如として動かなくなった。
「これは……どうしたことだ!? 瞬の肉体がハーデス様の叛乱を起こすとは……」
目の前の事象を信じられないとばかりにパンドラは眼を見張る。
だが兄の一輝は合点が言ったとばかりに苦悶の表情を浮かべて妹を見つめた。
「瞬……お前はやはり……」
「なんだと……まさか瞬はこういう機会を狙ってハーデス様に身を任せたというのか」
「そうだ、瞬はその守護星座のとおりに」
姫たるその身に留めたのは母の傲慢と悲嘆、そして海神の怒り。
地上の平穏のために我が身を捧げたアンドロメダ。
流転する時を超えて、姫の決意は少女の中に秘められた。
「瞬はハーデスになるために生まれてきたわけじゃない!!」
一輝の力強い声が瞬の魂を揺り動かした。



瞬の首を絞めていたハーデスも同様に苦しみ始めていた。
「どうしたことだ、これは……」
「……あなたは私、私はあなた。首を絞めれば締まるに決まっているじゃない」
苦悶の中に浮かべた嘲笑、激昂する王は紅潮。
首筋に込められる力が徐々に弱くなっても瞬は冥王の腕を掴んだまま離そうとはしなかった。
「離せ!!」
「……くっ……は、離さないって言ったはずよ! 兄さんが私ごとあなたを殺すまで邪魔はしないでもらうわ!!」
「おのれ……っ! ならば離さぬともよい!! お前の兄に神殺しが出来ても、果たして妹殺しが出来るか!!」
「兄さん! 早く!! 早く私を!!」
星々を連ねて作られる銀河、だけどその実体は遠くに生きる星の群れにすぎない。
鳳凰の翼はあまねく星の瞬きを消さぬように生きてきた。
そして黒絹の淑女も自分のせいで亡くしてしまったなにかにために少年の背中に槍をつきたてた。
だが炎のような鮮血さえ、その闘志をとめることは出来なかった。
「これしきの傷、瞬の苦痛に比べれば……なんということはない!!」
「だが、ハーデス様に手出しはさせぬ!! アンドロメダこそ仮の姿なのだ!!」
そしてこのパンドラの愛しい愛しい――。
「死ね!! 一輝!!」
淑女の細腕が構えた槍は再び炎の闘士を貫こうと。



「この期に及んでまだそなたは!!」
「あなたは本当に目だけじゃなくて耳も悪いのね。何度も言わせないで……私はどうなっても構わないの。ここであなたを殺せるならそれで」
兄による妹殺し、背中を押すのは妹本人。
瞬は薄く笑みを浮かべた。
「どこまでも節穴な神様、世界は綺麗ごとだけで動いているのに、どうしてそれに気がつかないの」
薄紅色の銀河が一輝を守っていたのはほんの一時の出来事だった。
とうに脱ぎ捨てたはずのアンドロメダの鎖が護るのは、彼が彼女を殺すための存在だから。
「私の魂が清らかですって? 笑わせないで。私は地上を守るためならなんだってするの!! 傷つけたくないっていったこの唇で嘘をつく、護りたいと願ったこの手で何人も殺す!! そして今、兄を背徳へ導く……すべて地上のためよ」
「その一途すぎる想いこそ清らかだと、そなたは気がつかぬのか」
「な……」
「“清らか”であるということは穢れなきこと。地上を思うそなたのその心こそが美しいのだ。その結果を得るための過程など些細な逸脱にすぎぬ。罪を罪と認めて苦しむその姿さえもな」
くくく、と笑う声にまだ絶望を感じたくなくて。
「だからなんだって言うの。どっちにしてもあなたはここで死ぬ! 私と一緒に!!」
「ふむ、そなたのように美しい娘と心中するのも悪くはないかもしれぬ。よかろう、最後の余興だ」
冥王は瞬の首を締めていた闇の左手を放した。 
「逝くがよい。兄に最後の別れを告げてこい……」
「……負けを認めるのね?」
「余興だと、言っただろう?」
姫の名を負う少女は冥王の首を掴んだままで、兄に呼びかけた。
――殺すことをためらうな、と。
それはかつて自分が言われ続けてきた事。



嗚呼、嗚呼、悲哀を抱いては逝けない。
妹は兄のために、兄は妹のために。
逝かせるのならせめて妹が苦しまぬようにと一輝は拳を握り締めた。
逝くのだからせめて兄を苦しめぬようにと瞬は鮮やかに微笑を浮かべる。
「哀しまないで、兄さん。私は嬉しいの。私ひとりの命で地上の多くの人たちの命が救われるんだもの……兄さん、お願い。ためらわないで……迷わないで」
「――よく言った、瞬! それでこそこの一輝の妹……それでこそアテナの聖闘士だ!!」


さあ、始めようか――兄と妹の麗しい幻想物語。
神殺しは冒涜だと知るがいい。


「瞬!! お前の命、地上を救うためにもらったぞ!!」
一輝の拳が瞬の胸を撃つでしょう。そしてその生命を奪っ……て。


それは血の呼び声、同じ時代に同じ父と異なる母をして生まれてきた兄弟達は少女の死を知る。
光を奪還することを信じ、それを見届けることなく死んで逝く少女は幕引く。
平和を遵守することを誓い、そのゆえに妹を手にかけた少年の慟哭。
その幕間にとんだ道化だと、笑うのは誰?
――何故? 何故なの!?



炎さえ拒絶する氷の世界にひとりの少年が首から下を埋葬されていた。
失っていた時間を取り戻すように周囲を見まわせばそこに物言わぬ骸たち。
「あれは……あれはなんだったんだ!? 一輝が瞬を殺して……そして……」
瞬の胸にめり込んだ一輝の拳は涙と血に塗れていた。
その手に掴んだのは温かい妹の心臓と、邪悪なる神の魂と、そしてどんな未来だったのだろう。



「くくく……ははははは……!!」
「あ……あ……」
冥王の腕に引き戻された瞬はがっくりと肩を落とし、ぽろぽろと涙をこぼした。
「とんだ道化であったな、瞬よ。面白い座興であった」
少年はすでに愛しい少女を失っていた――最愛の妹によく似た少女を。だから彼はもう殺すことが出来なかったのだ。
弐度目の喪失は狂っても飽き足らぬほど彼の精神を壊すだろう。
そんな少年とは逆に眼前の終端は悔しいほどに清清しい笑みを浮かべる。
瞬は冥王をありったけの憤怒と憎悪で睨み据えた。
「余はなにもしてはおらぬ。そなたの兄が愚かなほどそなたには甘かったというだけのこと」
「……兄さん」
兄の天秤は神からすれば至極当然なほど、少女から見れば狂おしいほどに傾いていた。
「何十億の命よりそなたひとりが大事とは。これで≪偉大なる日食≫を止めることも≪冥神殺し≫も出来なくなったな」
瞬の視界に映るのは冥王ではなく、兄一輝の苦渋の姿。傷ついた拳から流れる血が緋色の珠となって落ちていく。
「偽りの余の魂を砕く幻想はどうだったかな……くくく、ははははははは!!」
「!! 離せ!! 離して!!」
「もう無駄だ、そなたはもう、余と同じものを見ている。ほら、言の葉さえも」
「……ほら、言の葉さえも」
瞬は思わず口を手で覆った。自分の意思と関係なく言葉が漏れている。
「そこまで余とそなたは同化したということだ。もう少し唇を解放してやろう。なにか言っておきたいことはないか?」
望む言葉を、瞬は心の奥底から吐き捨てた。
「哀れで、愚かで節穴な神様!! あなたは昔からこうやって奪うことしか出来なかった!! 低脳で無能な神様!! 誰も愛さなかったんじゃない、愛したくなかったのよ、あなたなんか!!」
「――黙れ!!」
冥王の黒い槍が瞬をまっすぐ貫いた。
少女はゆっくりと血を流す。
「あ……あ、ああああああああああああああああああ――――――っ!!」
「これで余とそなたは完璧にひとつになった。髪の毛の一本一本にいたるまでな!!」
瞬の清らかな魂も今は鮮やかな真紅、そして深暗の闇へ。
大きな瞳をさらに大きく見開くのは破瓜の苦痛ゆえに。
魂の奥から奪われた純潔、漏らす悲鳴は誰にも聞かれない。
そう、彼女の処女を奪った冥王にさえも。
「うぐっ……うっ……くああああっ!!」
「もう少し優しい言葉を吐いていたなら余とて慈悲もあったのだが」
ぐいと体を進めて少女の胎内に闇を吐き続ける。
愛を知らぬ冥王に些かの容赦もなかった。
「あ……あ……」
男を支配するのは狂気、少女を絞め殺すのは恐怖。
萎縮していく瞬の魂――それは消滅さえ意味しているの?
大地に揺れる麦のような亜麻色の髪が闇の炎に燃え落ちる。      



死は邪ではなく輪廻の終焉であり端緒
生は善ではなく転生の終着であり起源



溶解してしまいそうなほど甘美、とは言えない交わりの中で少女はただうめくことしか出来なかった。
「う……くっ、ふああああっ!!」
「可哀想にな、逆らうことなく余のものとなっておればこんな苦痛を味わわずに済んだものを……だが余を閉じこめ、楔となろうとした、その覚悟だけは誉めてやろう。さあ、溶けて逝け、快楽へ……」
「まだっ……まだよ、まだあなたを殺す機会をなくしたわけじゃない」
「まだ言うか!! 減らぬのはこの口か!!」
「ぐっ!?」
少女の唇はもうなにも紡ぐことは出来なかった。冥王が彼女の言葉を完全に奪ったのだ。
「ぐ……う……」
「……嬌声だけあげておれ。泣き叫ぶのが今のお前に出来ること。さあ、存分に余を楽しませろ」
冥王の闇が唸るように瞬の最奥をえぐり込んだ。瞬は激痛に身を反らせて叫んだ。
「くっ!? う、うああああああああああああああああああああ!!」
男を知らない未熟な少女の体が激痛に震えた。同時に燃えてしまいそうなほどの業火に灼かれる。
「あ……」
深く刺し貫かれて、瞬の魂は息絶えた。



そこに救済はあるのか?



物言わぬ少女の魂を見つめ、冥王は悲しげに抱き寄せた。
「何故だ? 何故そこまでしてそなたは地上を護ろうとする? いや、地上ではない、人間どもは守る価値があるというのか? 母たる大地と大海を汚し、あまつさえ父なる宇宙にまで手を伸ばそうとする。どこまでも破壊への道を辿るのみ」
抱いた少女は凍るほど白く、美しく、そして脆く。
「そなたの望んだ世界はどれほどの時を過ごそうともやってくることはない」
この世界の秩序も、最高神と呼ばれる存在でさえ、争いの先に生まれきたもの。
それは親子の、兄弟の、男女の係争の歴史でもあったのに。
そしてそこから生まれてきた人間が果たして神よりも孝敬を尊ぶ存在であっただろうか。
「その答えは否だ」
代を重ねるごとに人はますます愚かになっていく。≪最初の女≫がもたらした快楽と災厄は世界の隅々までも完全に覆い尽くし、最後に残った希望でさえ、自分たちで芽を摘んでいく。
「分からぬ」
冥王の瞳に、淡い涙が僅かに溢れた。
「余にはわからぬ。いっそ壊してしまったほうが……≪箱舟を生んだ洪水≫のように。壊してしまったほうがよかったのではないのか?」
問うても答えは返らない。
神は少女を殺してしまっていたから。
「……もう遅いのか。さらばだ、瞬。せめて魂に最高の安らぎを……」
そして冥府の神は永久に忘れないだろう。
自分を罵り、諭し、そしてどんな理由であれともに死のうとしてくれた少女がいたことを。
……く・れ・た?
そう、これまで選んできた代用品はすべて自分を拒絶することはなかった。
最初は戸惑いこそすれ、世界の不運をすべて背負ってきたかのように生きてきた彼らは簡単に傀儡となり、地上の制覇に乗り出せたのに。
だが瞬は最後の最後まで自分に逆らってみせたのだ。
その名のとおりに穏やかで、それでいて儚い美しい姫の死に。
涙するのは何故だろう。
「瞬……」
躯の主の腕の中で、瞬の魂は砂になる。
男は欠片も残さずにそれを集め、黒曜石の眞珠に封じた。
「パンドラよ」
終端の神は傍らの淑女と力尽きた少年に語りかけた。
「その男の体を丁重に始末いたせ。余は……余は、しばらくここで休む」
「はっ、かしこまりました」
黒い絹の音も清かすぎると、王は静かに目を閉じた。
この細い少女の体に負わせた宿命のままに、男は女を犯し殺した。そして自分の魂で封じ込めた。
「そなたの白い魂も今は……」
深く暗い闇の底――海の雪さえ降ることのない永久の黒の中に。
「何故だ、何故こんなにもそなたが愛しいのだ……」
未熟なる想いの先に戦略の崩壊。
冥王の過ちは瞬の魂を完全に消去しておかなかったことにある。
そうとも知らぬ傲慢な神はどうしても瞬の魂を完全に消すのに忍びず、ずっとずっと抱きしめたまま。
ただ体だけ、何も言わずにジュデッカの玉座に座っていた。





言うなればアンドロメダの条件によるもの
それは姫であること――エチオピア王ケフェウスと王妃カシオペアの間に生まれた娘。
それは生贄であること――母の慢心により海神の怒りを買って生贄として供された事実。
それは英雄の妻であり、祖であること――夫の名はペルセウス、子孫の名はヘラクレスという史実。


そう、アンドロメダに救済はある。



灰褐色の髪の女神は神に近くとも神ならざる男とともにジュデッカに現れた。
退廃していく地上に一握りの愛を信じる愚かな処女神が彼の前に跪いた。
「どうか、どうか貴方の御力で≪偉大なる日食≫を止めていただきたいのです」
「まさか神話の時代から相争そってきた貴女に手をついて頼まれるとは……だがもう遅い。≪偉大なる日食≫は数分の後に完成する。もう余ですら止めることはできぬ。止めたとしても闇となった地上はもう荒廃から立ち直ることはあるまい」
神の御声は男と少女のそれを重ねた叙唱。
「地上を人間の手から取り戻す。そして理想郷を創るのだ……」
余と、そなたの――神と、少女の。
望んだのは争いのない楽園。
自分の前に膝をつくだけの無能な女神より、死の神を細いその身に受け入れて心中を謀った戦士のほうが、冥王にはとても愛しく想えた。
「どうしても、止めていただけぬと?」
「くどい。もはや余にもどうすることも出来ぬと、言った筈」
「ですが……」
「そうか、ならばそこなるシャカよ。この槍を持ってアテナを突き殺せ。アテナの命を持ってして≪偉大なる日食≫を止めてみせよう」
「なっ……!!」
神の厳命に神ならざる男は困惑する。主神たるアテナを冥王の槍で突き殺すなど、彼に出来るはずはなかった。
何故なら彼は人だったから。
苦悩の呻きを唇から漏らした彼は逆手に握っていた槍を構えなおし、まっすぐに投げた。
アテナではなく、敵たる冥王に向かって。
「喜んで刺しましょう、ハーデス!! 貴方を!!」
「いけません! シャカ!!」
シャカの飛ばした槍は冥王の胸元に届く前にアテナによって止められた。
彼女の目的はあくまで≪偉大なる日食≫をとめることであり、冥王の、ましてや瞬の命を奪うことではない。
そして神に槍先を向けた罰をとシャカに差し向けられた鋭い切っ先の前に女神はなおも立ちふさがった。



さあ聞け、今は闇に封じられし戦乙女よ
女神の声が、その尊い霊血が
地上を守るために戦った貴女のすべての
証を立ててくれるでしょう



シャカも瞬も。
そして生きとし生けるものすべてを守る使命を負って生まれた女神は冥王の繰り出す槍を素手で掴んでいた。
「どうした? その命、余に差し出すのではなかったのか?」
「≪偉大なる日食≫を中止するのが先です! さあ、はやく≪偉大なる日食≫を止めなさい!」
流れ出した血が槍を伝うに至って、冥王の中で何かが動き出した。
「うおおお!! 熱い!! アテナの血がまるで火のように熱い!!」
「か、感じるわ……瞬……」
女神が呼ぶ少女の名。



黒い眞珠に滴り落ちた真紅の血。
それは少しずつ闇を溶かし、力尽き眠るように倒れていた少女の唇を染めた。
「う……ん……」
瞬の傍らにひとりの女性。薄紅の柔らかい衣を纏い、左右の腕に鎖を巻いていた。
その高貴なる女性は瞬を優しく抱き上げると、崩壊をはじめた闇珠から飛び出し、冥王の前に現れた。
冥王はその姫を驚愕の眼差しで見つめることしか出来なかった。
「そなたは……」
姫は瞬を小脇に抱えたまま、冥王と対峙する。強い意志を秘めた姫の瞳は瞬のそれと同じ色と輝きを持っていた。
「もう、瞬をあなたの好きにはさせない。瞬は私が現代に認めたアンドロメダの聖闘士。貴方の器じゃない!!」
「アンドロメダ……貴様っ」
「貴方はもう、私たちに触れることは出来ない……」
瞬を片腕に抱き、アンドロメダは血と鎖の結界を周囲に張り巡らせる。
冥王はなおも瞬を取り戻そうと足を踏み入れようとした。
「愚かな! このようなものっ」
だが冥王は足先はおろか爪先さえ瞬に触れることは出来なかった。
「くっ……」
「我らが女神は瞬を愛しておられる……女神の降臨からほどなく地上に生を受けたこの乙女を……」
八回繰り返された朝と夜、生まれた赤子は光の名を持っていた。
「そう、闇の名ではなく……」
「何故だ! 瞬はこの時代に余の器となるべく定められていたはず!!」
瞬の内外で同じ声が木霊する。
「さあ、アンドロメダの星座を持つ希望の聖闘士よ!! 今こそ冥王の呪縛から解き放たれなさい!!」
「くそっ……もうこの肉体に留まっていることは出来ぬ!!!」
何故だ、何故だ、何故だあああああああああああああああああああああああ!!
理解不能の叫びをあげながら冥王は瞬から遠ざかっていく。
その黒い姿を見つめながらアンドロメダは安堵の笑みをこぼした。
「アテナ御自身がペルセウスになられた……」
生贄たる王女は解き放たれたそのときのままに微笑を絶やさない。
そして瞬をそっと抱きなおすと、その柔らかな唇に自身のそれで触れた。
神の血を介して甦る心と魂。
「さあ、生きましょう。我らが女神とともに……」
王女はひとつ微笑みを向けると横たわる瞬に覆い被さるように溶けていった。



何故だ……何故なのだ……。
冥府から楽園へ。
敵なるアテナに追われるように超次元を抜ける冥王は先ほどまで憑依していた少女のことばかり想い返していた。
彼女はこの時代に自分の肉体として生まれてきたはずだった。
女神曰く、それは余が一方的に選んだとのこと。
時代を間違えたとは思わない、あの小娘の封印はこの時代にこそ解けるものだったのだから。
「一方的……か」
確かにそのとおりだった。
だけど、一方的にするしかなかった。
だって誰も自分を愛してくれなかったから。
好んでこの闇の中に生きてきたわけではないのに――世界の覇権を決めるあの忌々しい抽選さえなければ。
「余は地上も人間も愛していた……なのに、なのに余が≪死なる冥府≫へ居るというだけで誰も……」
死の静寂、生の躍動。
愛していたのに。
「……瞬となら、分かり合えるような気がしたのに……」
絶望に彩られたかつての骸たち。
希望を抱きしめた現代の憑代――瞬なる少女。
冥王の溢した涙は海にも星にもならない。ただこの次元を永久という刻の中に彷徨うのみ。



同じ想いを抱いていたはずなのに、その方向はあまりにも違いすぎて。





やがて少女は天馬の翼を借りてこの楽園へやってくる。
その楽園の扉を開いたのは十二の眩い闘士たち――その、生命をかけて。



わかりあえないのなら、いっそそのままでいい。
背中合わせの永遠はふたりを遠ざけていくだけ。
ふたりを繋いだはずの星は未来永劫――神と少女がひとつになることはないのだと教えていた。




少女の手は星屑を掴んで
奉じる女神とともに冥府の王をその鎖で葬るのだろう





≪終≫






≪楽園へ帰りましょう≫
…………インスパイア。もしくはインスパイヤ。もう氏ね自分。
タイトルはSoundHorizonの『StarDust』から。もうそのまんまだよ、氏ね、自分。
おそらく憑依前〜憑依中はこんな喧嘩……って言うか、まあ揉めたというか、戦ったというか。とにかく半端なかったと思うのでそれを書いてみた。
≪グレイテストエクリップス≫を≪偉大なる日食≫って書いたのはカタカナ面倒だったから、というのは内緒だ!
すみません、やらかしました。どなたか撃ち堕としてくれませんか(まだ言うか)注: 文字用の領域がありません!

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