猛暑論〜13歳の君と神様の夏休み



日本の気象において摂氏25度を越えれば夏日、30度で真夏日、35度で猛暑日と定められている。




「ふええ、暑いなぁ」
情熱的な赤いシャツの袖を肩まで捲り上げた星矢が天を仰いだ。地上に光をもたらす太陽もこう暑いとどこか憎らしく思えてくるから人間という生き物は傲慢だ。
そんな少年の横で亜麻色の髪をポニーテールにした瞬がくすっと小さく笑った。
「そうだね、聖闘士といっても暑いものは暑いよね」
「なんだ、暑いところで修行してきたお前達でも暑いのか」
そう言ったのは黒髪も麗しい龍座の紫龍、彼は長すぎる黒髪をやはり高いところで束ねており、さながら幕末の志士のようでもある。けれどなんの違和感も感じないのは眉目秀麗すぎる顔立ちのせいかも知れない。
紫龍の言葉に星矢も瞬も反論する。
「だって、ギリシャはからっからだからさ。こんなにじめじめっと暑いと辛いぜ」
「一日中暑いもんね。アンドロメダ島は夜はマイナス40度だよ。寒いなんてもんじゃなかったもん」
額の汗を腕で拭いながら星矢はじろっと紫龍を見た。
「紫龍は暑くないのかよ」
「フッ。心頭滅却すれば火もまた涼しと言うだろう」
「要するにやせ我慢してるんだね、紫龍」
三人は並んで歩きながら袋の中身を確認した。
「やばっ、アイスとか溶けそう!」
「野菜が煮えちゃいそう……お魚とか傷んじゃうよ」
「急いで帰ろう。氷河と一輝のふたりにしておくとなにやら不安だ」
この紫龍の言葉が遠からず現実になろうとは、このときはまだ誰にもわかっていなかった。
ただ、ビニールの袋を提げて楽しそうに笑う彼らが普通の少年少女に見えるだけだった。



城戸邸別館に住まうのは少年が四人と少女が一人。13歳から15歳までの五人が暮らしている。
彼らは全員アテナの聖闘士――ギリシャ神話に名高い処女神にして軍神アテナとともに地上を守護する希望の戦士たちである。現在は戦いもなく、一応は平穏に普通の少年少女として暮らしているのだが、幼少期を聖闘士になるための修行に費やしたせいか、ときどき普通では考えられないこともやってしまう。
「紫龍は抹茶好きだよねー」
「そういう瞬はいっつもイチゴだよな」
「いいの、女の子だもん」
いたずらっぽく振りかえるその仕草も眩しくて、星矢は思わず頬を緩めた。
瞬はやっぱり可愛いと思う。
厳しいけれど鮮やかな日の光の下で穏やかに笑う三人、その長閑な風景も邸内から聞こえてきた爆音に一瞬にしてかき消された。
「な、なに? 敵襲!?」
「そのわりには小宇宙とか感じないけど行ってみようぜ!」
それでも買い物袋を捨てない三人は慌てて爆音の発生源へと急ぎ、そして唖然とした。
現場はリビングだった。
見ればエアコンから煙が立ち昇り、その近辺の壁を煤で黒く染めているではないか。火を吹かなかっただけでもましと言うもの。あっけに取られる瞬と紫龍をよそに星矢はいそいそと冷凍庫にアイスを仕舞っている。
エアコンの横で煤けているのは張本人と思われる白鳥座の氷河と鳳凰座の一輝だ。一輝は瞬の同母兄になる。
氷と焔の相容れぬ運命のように、彼らはまた何かぶつかったらしい。
「兄さん、氷河。一体何をやったらこんなことに?」
すると兄一輝がなんでもないとばかりに鼻で笑ってみせた。
「フッ、俺は聖闘士たるものこの程度の暑さでだらけていてどうするのだと言っただけだ」
一輝の発言に今度は氷河が反論する。
「聖闘士は身体が資本だ、体調管理も大事だろう!」
「はいはい、建前が立派なのは分かりましたから、具体的にお願いしますよ」
王女の星宿を持つ少女は時として兄を凌駕する。ふたりは顔を見合わせた。
「……エアコンの設定温度を上げようとしたらこいつが氷点下まで下げやがって」
「そこまでは下げていない、五度くらいにしただけじゃないか!」
要するにふたりの設定温度が決まらずに上げ下げを繰り返したということらしい。そしてエアコンはどちらに従ったものかわからずに真間の手児奈のように自ら命を絶ったようだ。
このクソ暑い最中にとんでもないことをしてくれたものだと、瞬は頭を抱えた。
城戸邸別館の空調は全館に及んでおり、メインスイッチはリビングにあった。もちろん各部屋において設定温度や湿度などの調整が出来るのだが、このメインスイッチをやられてしまうと当然のように各部屋も被害を被る事になる。
聞いていた星矢が窓を開けながら不満の声を上げた。
「なんで今日に限ってリビングのエアコンで揉めるんだよー」
「修理には一日かかるそうだぞ」
本館のほうに連絡を取っていた紫龍もため息をついた。流石に彼も暑いらしい。
「今夜は熱帯夜だって言ってたよね、そういえば……」
王女の冷たい一瞥を食らって鳥たちは押し黙るしかできなかった。
そこに一計を案じた天馬の少年が口を挟む。
「そーだ! シベリア行こうぜ! あそこなら暑くないし!」
「寒いような気もするけどね」
星矢の考えを即座に採用したい一同だったが、これには氷河が異を唱えた。
「今シベリアには我が師カミュとミロが休暇を過ごしているはず。邪魔をするのはどうかと思うのだが」
氷河から珍しく真っ当な意見が出たので紫龍はさりげなく温度計を確認した。確かに暑い。
すると星矢がもう一箇所思いついたらしく、ぽんと手を打った。
「そーだ、あそこ行こう!」
「あそこって何処?」
瞬の問いかけに同調するように彼の異母兄たちは星矢の言う場所を探したが、心当たりはなかった。
そんな彼らに気がついた星矢がじっと一輝を見る。
「あ、そっか。行ったのは俺と一輝だけだもんな」
「え? 星矢と兄さんだけ?」
「うん」
そういって自信たっぷりに笑う星矢だったが、一輝はやはりわからないという顔をした。
「星矢、それって何処なの?」
「コキュートス! ほら、シベリア並みに寒かったじゃん!」
「そこか!」
ようやく一輝にも合点がいったようで、ポンと手を打った。紫龍と氷河も一応通っては来たらしく、なんとなく場所のイメージは出来ているようだ。瞬だけがわからないでいるのも無理はない。彼女はそのとき冥王ハーデスとして冥界に君臨していたのだ。
「確かにあそこなら涼しいかもしれんが……」
「そういうわけだから瞬、ちょっと連絡とってくれよ」
「ヘ? 私?」
きょとんとする瞬の肩を叩いて、星矢が笑う。
「瞬が頼めばハーデスはなんだって一発でOKすると思うんだ。俺たちが乗りこんでいったらやっぱりまずいと思うしさ」
「もう、星矢ったら」
口調は怒っていても顔が笑っているのを自覚している瞬はコーラルピンクの携帯電話を取り出し、ジュデッカへの直通番号を呼び出した。一輝にはかなり面白くないがエアコンを壊した手前、黙っているしかなかった。



そのころ聖域では。
教皇宮を含めた十二宮のあちこちで悲鳴が上がっていた。
「あれ? ドライヤーが動かない……」
「うわーん、電気がつかないよー」
「うぎゃぴー! 冷蔵庫が止まってやがる!!」
「な、なにい!? バカな! これまでのデータが消し飛ぶとは……ふ、ふふふふふ、ウハーッハッハッハ!!」
何事かと教皇宮に駆けつけた黄金聖闘士たちはとりあえず黒くなりかけていたサガをぶん殴って元に戻すと、各宮の現状を報告した。一致しているのは電気系統の不具合であった。
そこに飛び込んでくるひとりの雑兵。
「た、大変です教皇様!」
「何事だ!」
「この熱波で発電施設がやられました! 流石のアテナの御加護も発電施設まではカバーできなかったようで……」
思わず黙りまくる黄金聖闘士たち、さてこれからどうしようと大人として思案のしどころだ。
「とりあえず、冷蔵庫の中身は出さねーとヤベぇな。宝瓶宮の地下に氷室があったよな。そこに名前書いて放りこんどけば大丈夫だろ」
「カミュに連絡する?」
デスマスクの意見には賛同するが現在宮の主人は留守だ。
アフロディーテが艶やかな唇を開く。
「カミュはミロと休暇中でしょ? 邪魔しちゃ可哀想だよ」
「じゃあじゃあ、お手紙書いておけばいいよ、使ってますって」
アイオリアの発案で冷蔵庫の中身は片付いた。
「でも問題はこれからどうするかよねぇ。エアコンも扇風機も動かないでしょう? どうするの?」
「発電施設の復旧もどのくらいかかるのか見当もつかない……」
頭を抱えるサガをさりげなくポニーテールにするアフロディーテ。
「……みんなで日本に行けばいいんじゃないかしら」
シュラの発言に皆がそれだ! と激しく同意する。
「アテナのいらっしゃる城戸のお邸ならきっと涼しいよね」
「あ、一応瞬に連絡しておかないとね」
彼女は薔薇模様にデコレーションした煌びやかな携帯電話を取ると瞬の番号を親指一本で華麗に呼び出した。



「あ、アフロディーテからだ」
ジュデッカに連絡する前に魚座の彼女からの通信を受けた瞬は何事だろうと電話を受けた。
「もしもし、瞬です」
『あーん、瞬? アフロだけど』
それから彼女らは二言三言世間話をした後、本題に入った。
『実は聖域の電気系統が故障しちゃって、なんにもならないの。そこで今からそっちに行こうかと思ってるんだけど』
「それは大変ですね。でも実はこっちもエアコン壊れてて、それでジュデッカに行こうかって話になってるんです」
『ジュデッカあ!?』
電話の向こうでざわざわと声がする。どうやら誰かいるらしい。
瞬は構わず続けた。
「いえ、カミュとミロが休暇中のシベリアに行くものどうかということになってて……ハーデスから、避暑に来ないかって誘われていたのもあるんですけど……」
冥王ハーデスはかつて敵対した神だが、なにを思ったのやら瞬を嫁に欲しいと言い出し、現在婚約未遂状態にある。
そのせいか神様は随分フレンドリーになってきた。
『避暑にねぇ……』
ざわめく電話の向こうで涼しけりゃなんでもいいと喚くデスマスクの声が聞こえてきた。
「それで、そちらはどうします?」
『ちょっと待ってて、ねぇ、瞬たちはジュデッカで避暑だってー』
今度はごちゃごちゃと会議をする声が聞こえてきた。しばらく待っているとどうやら会議は踊る前に決着を見たらしい。艶やかな女の声がはっきりと瞬の耳に届く。
『瞬、私たちもジュデッカに行くことにしたわ。あなたたちの保護者という名目ならおっけーでしょ』
「そ、そうですね。それで、何人来るんですか? ハーデスにも連絡しておかないといけないし」
瞬の言うことに納得して、アフロディーテは再び通話口を押さえ、人数の確認を始めた。
『えーっと、行く人?』
『はーい、私いくいく! アルデバランも行くよね?』
『君が行くならな。デスマスクとシュラ、シャカとムウに……サガ、お前はどうする』
『パソコンが動かないから仕事にならないが、そう何日も聖域を空けておくわけにはいかないので夜だけ行こうかと思うのだが』
『カノンはどうするの?』
『俺も行くぞ!』
瞬が恋敵のところにひょこひょこ出向くのが気に入らないだけなのだが、それでもやっぱりこの暑さから逃げ出したい気持ちが二割ほどある。
『えっと、九人よ』
『貴鬼も行きますので十人ですよ、アフロディーテ』
ムウの穏やかな声は電話を通しても変わらないらしい、瞬は小さく笑った。
「わかりました、十人ですね。じゃあ、ハーデスに連絡してから、折り返しってことで」
『お願いねー』
こうして聖域に住まう黄金聖闘士たちの避暑が始まった。
「まずは……」
「冷蔵庫! 腐っちまうから、全員油性ペンで名前書いとけ!」
デスマスクの声に引っ張られるように各自わらわらと宮へ散っていった。
ポニーテールにされたサガを残して。



場面変わって、ジュデッカ。
冥王様は玉座に腰掛け、にやにやと笑っていた。
「は、ハーデス様、ご機嫌ですね」
「分かるか。いやな、最近地上は夏で暑いそうなのだ。それで瞬も薄着でな。けしからん、非常にけしからん」
けしからんと怒っているわりには嬉しそうな冥王様、彼も所詮は男だ。
人なる姉と神なる弟がのんきに談笑していると、ジュデッカの直通電話が鳴った。この番号を知っている者は限られている。パンドラは静かにハーデスのそばを離れ、電話を取った。
「もしもし、こちらジュデッカ」
『あ、パンドラさん。こんにちわ、瞬ですけど』
「瞬様?」
恋しい少女の名を聞いたハーデスが電話をこちらによこせと手を動かしている。パンドラは電話を変わる旨を告げて、ハーデスに電話を手渡した。
「瞬? 瞬か? どうしたのだ?」
嬉しそうな冥王の声に瞬は微苦笑を漏らしたが、電話ではそれは伝わらなかった。
『ハーデス、お願いがあるんですけど』
「そなたの頼みなら何でも聞こう。余にはそれだけの力があると思っておる。さ、何でも言ってみろ」
瞬はハーデスの勢いにちょっと戸惑ったのだが、それでもゆっくり声を出した。
『そっちにお泊りしたいんですけど、いいですか?』
「お泊り……」
その響きが微妙な甘美さを持ってハーデスの中に広がった。
『ハーデス?』
「……お泊り。お泊りとは、そなたがこっちに来るのだな!? いつだ?」
『ええ、今晩からお世話になろうかと』
「来るがいい! 今晩と言わず今すぐ来るがいい!!」
『はい、ありがとうございます。みんな、ハーデスがいいって』
『やったー!』
「は? みんな?」
既に脳内で桃色の妄想をはじめていたハーデスはあっさりと現実に引き戻された。
お泊りに来るのは瞬ひとりではなく、黄金聖闘士やおまけの小僧も含めた総勢15人の団体だという。
しかも理由はエアコンの故障による避暑。
冥王は頭を抱えたくなったが、それでも愛しい瞬のため、寛大なところを見せた。
「……構わぬ。そなたさえいてくれれば何でも構わぬ」
『じゃあ、よろしくお願いします……ねぇ、ハーデス?』
「ん?」
『好きですよ』
電話越しに聞こえた、唇の音。冥王はがっかりしかけた心に優しい何かが溢れるのを感じていた。
通話を終えた冥王はさっそくパンドラに命じて聖闘士の受け入れ体制を整えさせる。
が、パンドラはそわそわとしてすぐに動こうとはしなかった。
「ハーデス様、その……」
「なんだ?」
「あの……その……」
薄く頬を染めるパンドラの言いたいことがわかったのか、冥王は小さく笑って人なる姉を見つめた。
「瞬が来るのなら当然フェニックスも来るだろう。あれは妹大事だからな」
「……はいっ!」
年頃のパンドラは嬉しそうに笑って彼の御前をうきうきと立ち去った。幼い頃から苦労をかけた――自分の野望のために何もかも奪ってしまったから、せめて今この時くらいは幸せになってほしいと思う。
冥王は小さくため息をついて瞬の来訪を待つのだった。



そしてそれから数時間後のアケローン河、現世側。
総勢17名になった聖闘士ご一行は用意されたボートに乗り込んでいた。いつもの小船ではまとめて運びきれないと急遽用意されたものだ。
渡し守は天間星アケローンのカロン。
「えーっと、15人って聞いてたんだが、どーなってんだ?」
「すみません、飛び入り参加で2名増えちゃって……」
「ちょっと増えたくらいでうろたえるとは」
孫弟子にあたる貴鬼の手を引きながらせせら笑うのが前牡羊座のシオンだ。天秤座の童虎とともに五老峰にいた彼女は孫の顔見たさに聖域に来てみた。すると全員がこれから避暑にいくというので、面白そうだと思いついてきた。
「シオン様、ムウ様、おいら地獄は初めてです!」
「ほほほ、案ずるでない。私は13年も暮らしていたからな。慣れれば楽しいところだぞ」
「ボートから落ちないように気をつけてくださいね、この河は落ちたら最期、浮く事も泳ぐ事も出来ません。それじゃ出発しますけどいいですか?」
すっかりツアコンと化した瞬の説明を聞き、一同はーいと呑気な返事を返す。
ボートは一路彼岸を目指した。
アケローン渡船はほんの数十分で終わり、ぞろぞろと下船した一行を迎えてくれたのは聖闘士の中でも女傑と名高いかの勇士・アイオロスであった。
「みんなー、久しぶりー!!」
「お姉ちゃん!」
一目散の駆け出したのは妹のアイオリアだった。それにシュラが続く。
「ふふふ、元気にやってるみたいね、アイオリアとシュラ」
「お姉ちゃんも、元気そうでよかった」
「死んでるけどね! こっちの暮らしもなかなか楽しくってさー」
積もる話はあとにしようと、アイオロスは一行をジュデッカまで案内した。
途中でカノンがルネに怯えられたり、貴鬼がケルベロスに乗ってみたいと言い出したり、アイオロスとアイオリアの姉妹が岩転がしにチャレンジしたり、星矢がデッドリービートルを指してカブトムシと言ってみたりでなかなかの珍道中だったのだが、それでも愉快な冥界巡りだった。
星矢と瞬は第二獄からジュデッカまで近道していたし、一輝は第五獄からテレポートさせられていたので地獄の全貌を見たのは初めてだった。
「地獄ってこんなところだったんだね」
「それより暑いじゃねーか! どこだよ涼しいところって!」
デスマスクが声を上げた矢先、氷河がらんらんと目を輝かせた。凍気レーダーがなにかを感知したらしい。
「もうすぐそこだ、第八獄、氷地獄のコキュートスだ!!」
走り出した衝動はもう止まらないとばかりに白鳥は氷を求めた。師のカミュが居れば、もしかしたら止めずに一緒に走り出していたかもしれない。
一同は氷河のことは放っておいてジュデッカへ向かった。



そのころのジュデッカではハーデスがうろうろと、パンドラがそわそわと聖闘士たちの来訪を待っていた。
そこにミーノスがやってくる。
「ハーデス様、パンドラ様。聖闘士一行がただいま到着いたしました」
「キタ!!」
ふたりはしゃきっと居住まいを正し、やって来る人物を待った。
挨拶に来たのは瞬ひとりだった。他のメンバーは既に宿泊施設へ向かったという。
王女の星を持つ少女は冥王の前にあでやかな笑顔を見せた。
「ハーデス、わがままを聞いてくださってありがとうございます」
「なんの、愛しいそなたのためだ。余は何でもすると言ったであろう?」
階下に控える瞬のそばまでゆっくりと歩み寄り、ハーデスは乙女の手を取った。
そして長く黒い袖の中に恋人をさらりと包み込んだ。
「ハーデス……」
「そなたは余を求めてくれた。それだけでいい……」
発案者が星矢だったことは黙っておこうと、瞬はハーデスの背におずおずと腕を伸ばした。
仄暗い冥府の底、冥王の館に芽吹いた恋の花は凛と咲き誇る日を待っている。



ハーデスが瞬にプロポーズをしてから、こんなこともあろうかと建設されていたホテルに着いた一行は中で待っていた三巨頭から施設案内を聞かされていた。
聖闘士たちはロビーのソファにそれぞれ腰掛けている。
ミーノスはメガホンを手に聖闘士一行に話しかけた。
「はい、このたびはホテルエリシオンをご利用いただきましてありがとうございます。皆様のお部屋は七階の全フロアとなっておりますのでそっちで勝手に割り振ってください。浴場は一階に男湯、女湯とございます。なお、屋上には露天風呂も設けてありますのでご利用ください」
風呂の説明を聞き、サガが指先で反応したのをカノンは見逃さなかった。
「えー、それから!」
ミーノスはコズミックマリオネーションの糸を飛ばして、デスマスクの腕を掴みあげた。
「うぎゃぴー! なんだよっ!?」
「当館は全館禁煙となっておりますのでお煙草はご遠慮願います! 吸うなら客室が喫煙室で! では質問を受け付けます、挙手でお願いします」
「はい! 温泉の効能は?」
「神経痛やリウマチですね。源泉かけ流し100パーセントです。なお美肌効果もあります」
これには女性陣が鋭い反応を見せた。
「なあなあ、食事は?」
「はい、お食事は地上おとりよせの材料を使ったもので、ビュッフェスタイルとなっております。他には?」
特に聞く事もないので聖闘士一同は黙った。これからなにをしようかと、そのことで頭がいっぱいなのだ。
「ではこちらからの注意事項を。ここは地獄ですので関係者以外立ち入り禁止の場所には入らないようにお願いします。お子さんがいらっしゃるようですので充分注意してください」
これは貴鬼に向けられたものである。シオンは孫可愛さに膝の上に乗せていた貴鬼の頭を撫でた。
「では、こちらからは以上です」
そこにハーデスのところに行っていた瞬も合流して、一同は七階へと向かった。



「オーシャンビューが売りだってパンフレットには載ってるけど……」
暇つぶしに見ていたパンフレットを手に、アフロディーテが窓辺に立った。
「血の池地獄が見えるわ……」
亡者の血が瀑布となって滴り落ちる、第六獄と第七獄を繋ぐ赤い流れ。
部屋の内装は決して悪くなく、むしろ美を重んじるアフロディーテが気に入るくらいだからなかなか優秀だというのに外の景色がいただけない。
「ところで、アイオリアは?」
「アイオロスと一緒に散歩に行ったみたいですよ。仲のいい姉妹でしたからね」
お茶を入れていたムウが静かに言った。シュラは静かに目を伏せ、アイオロスを思う。13年前のあの日のことを、彼女はいつまでも忘れないだろう。
アイオロスは今夜はアイオリアと寝るといって一部屋確保している。
シオンは貴鬼と一緒がいいといって駄々を捏ね、童虎と三人でアフロディーテたちの隣の部屋にいる。
残る黄金男子はデスマスクとカノン、シャカとアルデバランとサガに別れて向かいの部屋を陣取った。旅先でまで顔を着き合わせていたくないと、カノンが弟らしい我侭を見せたせいだ。
青銅男子はまとめて一室に放り込まれ、サガ部屋のとなりに配置された。
ただ瞬だけは部屋がない。部屋が足りなかったのではなく、冥王の婚約(未遂)者という立場ゆえにそばに留め置かれたのである。
一輝の憤懣はやるかたないのだが妹にあっさりと丸め込まれ、しぶしぶ許した。
ジュデッカとホテルエリシオンは歩いて5分とかからない。
「なんだぁ、今日は瞬と一緒に寝れると思ったのに」
がっかりしている星矢の髪を優しく撫でて、瞬は困ったように笑った。
「ごめんね、ハーデスと約束だから。でも今日はいっぱい遊んであげるからね」
「よし! じゃあプール行こうぜ!!」
「うん」
星矢は持ってきた水着を慌てて用意すると瞬の手を引いて駆け出していった。紫龍も急いで後を追う。年少組は放っておくと何をするのか分からない。
「一輝、お前は?」
「俺は群れるのは苦手だ。少し寝る」
氷河はまだコキュートスから戻ってこない。



ホテル脇のプールは大きく、25メートルの競技用のものと円形のものが並んで設置してあった。
「なんか、地獄にはすごく不釣合いなホテルとプールのような気がするけど」
「いいじゃん、楽しければ」
真っ青な海パンもよく似合う星矢はプールサイドを走りかけて瞬に止められた。
「危ないよ星矢、転んだら怪我しちゃう」
瞬は紺色のワンピース、平たく言えばスクール水着で、子犬のようにはしゃぐ星矢の隣にいる。瞬の白い肌に紺色はよく似合っていた。紫龍は長い髪をひとつに束ね、準備運動に余念がない。
紫龍と瞬に言われるままに準備体操を終えた星矢は真っ先にプールに飛び込んだ。
「ペガサス! いっきまーす!!」
星矢が勢いよく飛び込むと派手な水しぶきが上がり、ふたりは腕で顔を覆って避けた。
「もう! 星矢ったら!」
瞬はしなやかな動きでプールに飛び込んだ。アンドロメダ島で修業した彼女は泳ぎも達者だったのだ。星矢は近づいてくる瞬を捕まえようとしたのだが、星矢をもってしても彼女を捕まえる事は出来なかった。
その様子を紫龍が面白そうに見ている。
「さながら人魚姫といったところか」
猛烈に泳ぎまくる13歳、地獄だろうとどこだろうと、彼らは全身で夏を楽しんでいる。
紫龍は瞬の動きから彼女を捕まえる手段を思いついていたのだが、星矢が気づくかどうか、ただ笑ってみていた。
「ほほほ、ペガサスとアンドロメダは元気じゃのう」
ぺたぺたと歩いてくるのは貴鬼とシオンだ。師・童虎の旧友でもあるシオンに対し、紫龍は礼儀正しい。
「貴鬼、おまえ泳げるのか?」
「へへ、実はおいら泳いだことなくってさ。いい機会だから練習しようと思ってさ」
「なら俺が教えてやろう」
そういうことならとシオンは貴鬼を紫龍に預け、自分は星矢と瞬をからかいにプールへ入っていった。
貴鬼は基本に忠実に星矢たちとは別のプールの端に掴まってバタ足から始めている。
プールサイドにはいつのまにか他の黄金聖闘士たちも集まってきていて、ロスリア姉妹は相変わらず泳ぎまくるし、デスマスクは写真を取り捲るし、カノンは元海将軍ゆえの水泳能力を見せ付け、アフロディーテは瞬があがってきたら早速水着指導をしてやろうと待ち構えている。
「デスマスク、あんたこんなところにまでカメラ……」
「なんだよ、記念だよ記念。俺らさ、あいつらの言葉じゃねーけど戦ってばっかりであんまりこういうことってねーじゃん。ミロとカミュもいねーしさ、写真くらい……」
「デスマスク……って、しんみりしかける前に。今までの見せなさい」
シュラはデスマスク愛用のデジカメを取り上げてデータを確認する。すると映し出されたのは水着姿の女性陣ばかり、こと瞬が多いのは誰の差し金か分かろうと言うものだ。
逃げようとするデスマスクの頚動脈をがっつりと掴んで、シュラはすっと手刀を当てる。
「ちょ、シュラ、時に落ち着け」
「ちょっとでも感心した私がバカだったわ。でもアンタを始末するより!!」
シュラはプールに向かってデジカメを投げた。
「うわー!! 俺のデジカメ!!」
あわや水面に消えようとした精密機器を拾ったのはムウだったが、やはりデータを見て水中に沈めた。
「あじゃぱー!!」
「どれ、このデジカメは神に最も近い私が成仏させてやろう」
いうなりシャカはデジカメを血の池地獄へ吹っ飛ばした。すっきりしたシュラはデスマスクをプールに突き落とすとアフロディーテのとなりのチェアに腰を下ろした。
「アフロディーテ、泳がないの? 魚座のあなたが」
「シュラこそ。山羊座は半分お魚じゃない」
「いやー、なんか泳ぐスペースがないような……ところでサガは?」
「アルデバランと温泉に行ってるわ。サガはお風呂大好きだもん」
サガとアルデバランは屋上の露天風呂でのんびりと垢を落としていた。
「星矢、そろそろ休憩しようか、泳ぎ疲れちゃった」
「そーだな、のど渇いたし」
そういうと星矢は自分が先に上がり、瞬に手を差し伸べた。瞬は迷うことなくその手を取り、プールサイドに上がってきた。
途端、アフロディーテの目がギラッと光る。いつの間にか淑女の背後には黒衣の神も立っていて、同じように瞬を凝視する。
手を繋いでやってきた星矢と瞬は彼らから少し離れたテーブルに着き、プール監視員のアイアコスからジュースをもらって飲んでいた。
「星矢、泳げるんだね」
「瞬こそすっげーなー。あんなに速いなんて思いもしなかったよ」
「ふふ、アンドロメダ島にいたときは鮫追いかけてたからね」
「なんで?」
ストローを咥える星矢は瞬を眩しそうに見つめていた。
「修業っていうのもあったんだけど、大事な食料だったんだよ」
アンドロメダ島における食料は蛇、蠍、そして鮫だ。
そんなのんびりした雰囲気の少年たちの背後でアフロディーテがほおっとため息をついた。
「スク水なんて、やるじゃない……」
はっきりいえば幼児体型の瞬の身体のラインを綺麗にカバーする紺色の水着は年相応でいて、どこか愛らしささえ感じられる。そっと肩紐を正す仕草もどことなく色っぽい。
「どう? 神様」
「うむ、流石瞬だな、なんでも華麗に着こなす」
瞬は黄金聖衣の中でもかなりの着用センスを要求される乙女座の聖衣でさえ優雅に着こなすのだ。
「そなたらも美しいが、やはり余には瞬がいちばんなのだ……」
ただ、恋しいだけじゃない。ただ、愛しいだけじゃない。
冥王は瞬のために、そして自分のために無理強いをしない恋の道を歩む覚悟をしている。その姿はどんな男のものよりも強く、優しく見えた。
けれど彼女たちにも深く想い想われる相手がいたので、彼に揺らぐことはなかった。
「ハーデスって、本当はいい神様なのね。瞬を大事にしてよ。私の可愛い妹なんだから」
「……そなたの妹でなくても、永久をかけて大切にする。余は……瞬を……」
強く、深く想う。
瞠目した冥王の髪を撫でたのは、愛と美の女神の名を冠する淑女だった。



それから瞬く間に時間は過ぎて夕食の時間となった。
ビュッフェスタイルなので給仕にはほんの数人しかいないが、彼らはどう見ても冥闘士ではない。
「ご飯すごく美味しいけど……パンドラさん、これ誰が作ってるんですか?」
聖闘士たちに混じってハーデスに三巨頭、パンドラも食事をしていた。
瞬の問いにパンドラが答える。
「冥闘士をホテルで働かせるわけにはいきませんので、亡者の中から元ホテル関係者や五つ星レストランのシェフなどに仮初の命を与えまして使っております。働きがよければ優遇措置も考えております」
この冥界で優遇措置を与えられているのはアイオロスとオルフェ、それにユリティースくらいだ。
だがそんなことと聞かされても聖闘士たちはかまわず食事を続けている。取り立てて気にしないのが聖闘士の基本なのだ。そうでなければあの女神のもとで聖闘士などやっていられるはずがない。
「瞬! このエビフライ美味いぞ!」
「よかったね、星矢」
「うん!」
海老のしっぽを口からはみ出させながら頷く星矢に瞬は朗らかな笑顔を見せた。
一輝のそばにはさりげなくパンドラがついていて、料理の説明をしているのも微笑ましい。
デスマスクは青銅たちも含めて、写真を撮って回っていた。
「アンタ、そのカメラ2台目?」
「いや、さっき血の池に探しに行ったら亡者の野郎が拾っててくれてさ、修理までしててくれたんだよ」
「へ、へぇ……」
「データは消えちまってたけどな……」
本当は残っていたのだが、シュラに見つかる前にさっさと隠したデスマスク。姑息だ、聖闘士にあるまじき姑息さだ。
「瞬、どうだ。このホテルは気に入ってくれたか?」
瞬のテーブルにはハーデスもついていて、愛しい少女のそばでにこにこと笑っている。
そんな冥王に瞬もかわらぬ笑顔を見せた。
「ええ、とっても素敵です。でも……」
「でも?」
「わざわざ建てたんですか? その……ほかに使い道は……」
「ああ、それはいいんだ。冥闘士たちの保養施設として使うから。結婚式場も用意してあるのだぞ!」
それが誰のためかわかりすぎるほど分かっている瞬はただ黙っていた。
あとで見に行こうと言うハーデスに対し、静かに頷いただけで。
「なあ、このあとみんなで花火やらねーか!」
星矢の声に全員が賛成の声を上げた。
デスマスクもたははと頭の後ろを掻く。
「実は俺もいっぱい持ってきてたんだよな!」
「ほう、君もなかなか遊び心にあふれているんだな、カニのくせに」
「なんだと! このおシャカ!」
無意味な言い争いをするデスマスクとシャカの横でロスリア姉妹はにこにこと笑いあっている。
「あい変わらずね、デスマスクとシャカは」
呵呵大笑と笑うアイオロスは彼らが幼い頃のことを思い出していた。いつも喧嘩ばかりしていたけれど、みんなアテナの聖闘士として戦ってくれるものと信じていた。
その後、自分は大事な友の手によってこの世を去ることになってしまったけれど、その後の混乱は幼い青銅聖闘士たちを過酷な前線へと送ることになってしまったけれど。
「みんな、いい聖闘士になったわね……」
「お姉ちゃん……」
「……花火、いっぱいしよっか、アイオリア」
「うん!」
あの日――アテナの首を取りに同胞たちが慟哭の涙を流しながら地上へ戻っていったとき、黙って見送ったのはアイオロス。金の翼を持つ女傑はひとり冥界に残り、こっそり道を開く役目を担っていた。
誰一人裏切っていないと分かっていたから。
だからこうして、特異な夏を過ごすことも悪くない。
いつもみんなの中心にいる少年は白銀の翼で宙を舞い、数々の邪悪を退けてきた。
「星矢っていい子ね」
「うん、私もアルデバランも星矢のこと、大好きだよ」
星矢だけじゃない、黄金聖闘士たちはみんな青銅聖闘士たちを、同じ戦士として深く愛して。
それは冥王の、瞬に向けるそれとは異質のもの。
けれどそれらを絆と呼ぶなら、星の運命は巡るのだろう。



ホテルのロビーで全員が集合するのを待っていたのは、瞬だけが遅れているせいだった。彼女は夕食の後、ハーデスに呼ばれてジュデッカに戻っていたからだ。
「瞬、なにしてんのかな」
星矢が心配そうに外を見ると、瞬と一緒にハーデスが来るのが見えた。
「ごめんね、遅くなって。ハーデスがこれ着ろってしつこくって。私も着方がわからなくて」
見れば瞬は紺地に鮮やかな大ぶりの花を染め抜いた浴衣に黄色の帯を締めていた。ハーデスも同じような色合いで、見るものが見ればお揃いと言えた。
星矢だけはそのへんを意に介さず、ただ瞬を見て可愛いと連呼するだけ。
「こんなこともあろうかとさりげなく作っておいてようございましたね、ハーデス様」
傍らのパンドラの声にハーデスは満足げに頷き、カノンに対しては勝ち誇ったように笑った。
ぎりっと奥歯を鳴らすカノンの肩を、アフロディーテは静かに叩いた。
「カノン、好きって言うだけじゃダメなんだってば。神様みたいに頑張らないと」
「わかっている!」
かくして聖闘士と冥闘士たちは思い思いの花火を手に、それぞれの夏を彩った。
「パンドラよ、そなたももう少しフェニックスに近づけ。これは王命なるぞ」
「うっ……畏まりました」
瞬の傍らに立ち、小さな線香花火を見守っていた一輝のそばに、パンドラはすすっと近づいた。だが一言も交わさないでそばにいるだけなのでじれったい。
「ええい、パンドラ、抱きつけ!」
「ハーデス様、他人を冷やかすとは随分余裕ですね」
そういうミーノスはねずみ花火に火をつけていた。
「余裕というわけではないが、まあ、カノンを出しぬいたことだけは確かだから気分がよいのだ。それよりそなた、何をしておる」
「ええ、パンドラ様に協力しようかと」
ミーノスはねずみ花火をパンドラたちのほうに向かって放った。暴れまわる花火に驚いたパンドラが一輝に抱きつくという作戦だったのだが、気まぐれな花火は別の恋人達を燻し出してしまう。
ねずみ花火はパンドラの足元へ行く前に急に方向を変えて、天英星バルロンのルネの方へまっすぐに進んでいった。
驚いたルネは思わず傍らの青年の腕に縋った。
「きゃあ! な、なに!?」
「……ねずみ花火ではないか。大丈夫か、ルネ」
「は、はい、ラダマンティス様……」
シャツの袖をきゅっと握る細い指先を、ラダマンティスの武骨な手がそっと握り返す。
「そーいえばあのふたり、こっそり付き合っているんでしたねぇ。みんな知ってますけど」
「そういうのはこっそりと言わんのではないか?」
「ふふふ、そうなんですけど、本人達は内密にしているようですし」
ハーデスのツッコミもさらりとかわし、ミーノスは羊一家に混ざって花火を楽しんでいるアイアコスを目で追う。
アイアコスは貴鬼の花火に火をつけてやっていた。
「アイアコスは誰とでもすぐに仲良くなりますからねぇ」
ミーノスはそう言って小さく笑うとラダマンティスをからかうべく、近づいていった。そんな彼女と入れ違うように瞬がハーデスに近づいた。
「ハーデスも、やってみませんか?」
「よいのか?」
「ええ、どうぞ」
瞬は適当な一本をハーデスに手渡すと、花火に火をつけた。
静かに火薬に火が移ると、青い焔を上げながら花を咲かせていった。ハーデスは初めて見る色彩鮮やかな火花に感歎の声を上げた。その火薬も本来は採掘作業などを簡易にするために、あるいはこうして楽しむためだけに開発されたものであったろうに、彼が見てきたのは人の命を奪う、赤くて黒いだけの凶器だった。
「地上にはなかなか面白いものがあるな」
「今度、あなたが地上にきたときにも用意しておきましょうね」
「うむ……」
夜空に浮かぶ月や星を眺め、花を愛で、風を感じて。
世界はどこまでも綺麗なんだよと、教えてくれた君ともっと一緒にいたいと。
ハーデスの願いはたったそれだけなのだ。
「おーい、そろそろ打ち上げ系行こうぜ!!」
大き目の筒状花火を何個持ち込んだのやら、デスマスクが周囲を散らしながらせっせと並べている。
星矢も自分が持ってきたぶんはちゃっかり並べていた。
「こんなにたくさん……」
20個は並んだであろう家庭用打ち上げ花火に呆れながらも、それぞれが思う人と肩を並べて花火があがるのを待っている。
「こういうときはやっぱりフェニックスだよな!」
「燃やしちゃダメですから、火力加減してくださいね」
「……俺はライターじゃないんだがな」
そう言いながらも妹には弱いフェニックス一輝は鳳翼天翔を放ち、一つずつ点火していく。
当然外装はほぼ全焼状態だがそれでも火薬に火がつけばいいので問題はない。
鳳凰の焔に焼かれ、花火はほぼまっすぐ冥界の天へ向かって駆けあがり、大きな音とともに大輪の花を咲かせた。
「うわぁ、綺麗ですねぇ。ムウ様」
アルデバランの肩車で花火を見ていた貴鬼に優しい笑みを浮かべながら、ムウはなにやら不満そうなシャカの横に立った。
「どうしたんですか、シャカ」
「なんだがぬるいなと思ってな。先日偶然日本の花火をテレビでやっていたので見ていたのだが、もっとドーンと派手だったぞ」
「家庭用なんだから六尺玉期待するんじゃねーよ!」
「じゃあ、今度はみんなで日本の花火を見に行こうぜ!」
その頃には城戸邸別館のエアコンも修理が終わっているだろうと、瞬はそっとハーデスの横に立った。
「余も行ってよいか?」
「もちろん」
そう言って笑ってくれた瞬が愛しくて、ハーデスはごく自然に彼女の腰を抱き寄せた。いつのまにか、触れられることになれてしまったら、彼がいることになれてしまったら。そうしたら今度は彼がいないことを不安に思うのかもしれない。
冷酷無比な死の神も恋の前には一人の男にすぎなくて、でも瞬にはそれがまた可愛いと思えて。



だから、彼の寝室に招かれてもなんの意にも介さない。
いつものように、夜は一緒だと約束を果たしているだけなのだから。
「フェニックスは心配性だな」
よっこらしょっと先にベッドにあがったのはハーデスだった。瞬はくすくす笑いながら天蓋の薄布を開く。
彼女は兄の一輝からただ『早まるな』とだけ注意されてここへやってきたのだ。
心配することは、実は何もない――これまでだって、ハーデスは何度も瞬と性交渉を持つチャンスがあったにも関わらず、全く手を出さなかった。
彼は略奪の寂しさを知っていたからだ。だから瞬に対しては、彼女が自分と寝てもいいと思えるまでじっと待つつもりでいる。
「兄さんは、あなたがどんなに優しいのか知らないから」
「余が優しいのはそなたに対してだけだ。本当なら余は、そなたを手に入れるためならなんだって出来る。神だからな。でも」
そこまで言ったハーデスの唇は、瞬のそれに柔らかく封じられた。
離れる寸前の吐息に感じる、温かい小宇宙。
「でも、私が望むからやらない。そうでしたね?」
「……うむ。過保護なそなたの兄も、無邪気なペガサスも、邪気溢れるカノンも、余は本当は憎い。どうにかしてやりたい、狂おしいほどに」
薄絹に包まれた天蓋の中、冥王は愛しい少女を抱きしめた。
素直な彼の想いは、恋をするものならではの不条理な正当性を孕んだまま。
瞬はそっと、ハーデスの背中に手を這わせ、静かに撫でた。
「……そんな怖いこと、言わないで。私にはこんなに優しいあなたなのに」
「だから、余が優しくしたい、永遠を賭けて護りたいのはそなただけだ。けれど世界には余とそなたのふたりだけではない。余にはそれが悔しい……」
「ハーデス……」
初めて聞いた、彼の悔恨の声。
少女はどこまで男を傷つけ、振り返ることを強要するのだろう。
思えばずっと、約束通りにしてくれた。
触れるなと言えば触れなかったし、争うなと言えば大人しくしていた。
そのすべては、誰の、何のために?
――簡単なことだ、すべては愛しい君と結ばれるために。
そして少女は唇を開いた、彼の耳元で。
「私は、あなたが好きです……多分、誰よりも」
「瞬……」
黒衣の王神はゆっくりと顔を上げた。亜麻色の髪の乙女は薄く頬を染めて笑う。
「私でよければ、あなたのそばにいてあげる……」
まだ自分の気持ちに自信が持てないけれど、でも、それでも。
「瞬……」
「ハーデス……」
見詰め合う瞳は同じ夜の色、蒼黒の空に銀河の虹彩。
神の腕なる乙女が静かに、ゆっくりと床に倒されかけた、そのとき。
「うわああああああああああ!!」
部屋の向こうから雪崩れる人の群れ。冥闘士と聖闘士がごっちゃに混ざっている。彼らはもふもふと蠢きながら押し合い圧し合いしている。ベッドの上の二人は唖然として彼らを見つめていた。
「もー!! 早くどいて!! 重たいっ!!」
「いたた、俺様の髪を引っ張るんじゃねぇ!!」
人々は口々に文句を言いながらも立ちあがり、髪を整えたり服の埃を払ったりしている。
「お前ら! 何しにきた!!」
ハーデスはベッドの上に瞬を残し、部屋の入り口にたむろしていた人間どもに剣を向けた。
アフロディーテがその剣を煌びやかな指でそっと押しのける。
「やーね、神様。私は瞬が心配で見にきただけよ」
「私めもハーデス様の想いが成就なさるようにと見守っておりましただけで……」
「パンドラ、お前もか」
ハーデスは半ば呆れながらも、剣先で野次馬どもを追い払う。ぞろぞろと帰っていく冥闘士と聖闘士。中には去り際に『頑張れ!』『ご武運を!』と声をかけていく者もあった。
そしてため息一つベッドに戻ると、瞬が端っこのほうで身構えていた。
「ハーデス……」
「な、何もせんから! 本当に何も! 抱きしめて、キスくらいはするがそれ以上はせんから怯えるな!」
「でも……」
せっかくのいい雰囲気も闖入者のせいでめちゃくちゃだ。このあと冥王は瞬を宥めすかすのにたっぷり一時間を要したという。



それから聖闘士たちは冥界で数日を過ごした。
貴鬼が第二獄の入り口にいるケルベロスに乗せてもらったり、紫龍の指導のもと泳げるようになったり、相変わらず星矢と瞬がプールでおいかけっこしていたり、デスマスクとハーデスが写真の取引を秘密裏に行なっていたりと、なかなか充実したバカンスを楽しんでいた。
そして城戸邸も聖域もエアコンや電気系統の修理が終わり、帰郷することになった。
仲良くなったアイアコスと貴鬼はまるで親戚の家に遊びに来ていた従兄弟同士みたいに別れを惜しんでいる。
「坊主、また遊びに来いな」
「うん! お兄ちゃんも聖域に来なよ!」
「おう!」
アイオロスとアイオリアの姉妹も名残惜しげだ。
「おねーちゃん……」
「また遊びにおいで。私はそっちにはあんまり行けないしさ。ああ、でも心配しないで。射手座の聖衣にとり憑くから!」
「うん! 聖衣、ピカピカに磨いておくね!」
それぞれが挨拶を交わしている中でいちばんおとなげなかったのがハーデスだった。
彼は瞬をぎゅっと抱きしめたまま離そうとはしなかった。
「ハーデス、また夜にこっちに来ればいいじゃないですかぁ」
「いやだ! 帰ってはならぬぅぅぅ!! ずっとこっちで暮らせばよいではないかぁぁぁ!!」
「そんなこと言われても……」
ハーデスの背中をカノンと一輝が引っ張って剥がしにかかっている。
「私、聞き分けのいい人が好きなんですけど」
「また夜に来るからな!」
言われるままに瞬を解放したハーデス、百年でも千年でも、恋を持続させるために必死だ。カノンと一輝は勢い余って背中から転んでいた。
「お世話になりました」
こうして聖闘士たちの世にも珍しい避暑は終わりを告げた。
見送るパンドラの横顔をみて、ハーデスも笑顔だ。
「パンドラよ、ご苦労だったな」
「いいえ、当然のことでございますので」
「今宵はそなたも余に同道するがよい。フェニックスと一緒に行けばよかったものを」
「は、ハーデス様っ!!」
顔を真っ赤にして立ち去るパンドラの後ろ姿を見つめながら、ハーデスは光差さぬ冥界の空を見上げた。
「季節はただ過ぎ行く、そなたは余のもとを刹那の間、去って……」
手にしていたのは少女の形をとった温かい光。
望むものすべて与えられるから――どうか、余の願いも。
瞠目する神の心、たったひとりの少女を思い描いても飽き足らず。



黄金聖闘士たちが聖域に帰りつくと、ミロとカミュはすでに休暇を終えて戻ってきていた。
空のように真っ青な髪をしたミロが白羊宮の入り口にぽつんと座っていたが、一行の姿を見とめると嬉しそうに走って来る。まるで子犬のようだ。
「あーっ、みんな何処行ってたんだよ! 帰ってきたらもぬけの殻でさ!」
「ちょっと冥界に涼みに行ってたんだよ。ほら、土産」
デスマスクが差し出した冥界饅頭を受け取ってミロはゴキゲンに踊り出した。安い子だ。
「んで、カミュは?」
「カミュはやっぱりこっちは暑いって、フリージングコフィンでベッド作って寝てる」
「へぇ。宝瓶宮の地下借りてたけど、後にしたほうがいいかな」
シュラとアフロディーテがそう言って顔を見合わせていると、ミロがどうしてと尋ねてきた。
「いやね、この熱波で発電施設がやられちゃったのよ。エアコンもとまってね。もちろん冷蔵庫も」
シュラがそう言い終わる前にミロはデスマスクを引っ張って天蠍宮へ急いだ。
「デスマスク! 冷蔵庫あけてくれ!」
「なんだと!? お前休暇に出るのに冷蔵庫の中、空にしていかなかったのかよ!!」
「だって止まると思わなくて!!」
引きずられていくデスマスクに手を合わせる一同だった。



その頃の城戸邸。
「そう、冥界は楽しかったですか。私も時間が空いていたなら行きたかったのですけれど……」
「デスマスクが写真を撮っていたので、見せてもらいましょう? 沙織さん」
「ええ、そうね」
スペアミントが鮮やかに涼を彩るアイスティーを飲みながら、沙織は瞬とともにバルコニーにいた。今日は日差しも緩やかで気持ちのいい風が吹いている。
「ところで瞬、あなた、冥界でもハーデスと一緒だったの?」
「は? あ、ああ。ええ、そうですけど」
沙織の意図するところが分からず、瞬はとりあえず肯定した。夜だけ一緒に過ごすという奇妙な婚約状態を沙織もちゃんと知っている。
女神はうふふと笑った。
「じゃあ、ハーデスの寝室で寝たのね?」
「ええ、ハーデスがどうしてもって言うから。約束でしたし」
「そう……」
ストローでアイスティーをかき混ぜれば、氷がからんと涼やかな音を立てた。
「それがどうかしました?」
「いえね、なにか進展があったのかと思ったのよ」
「進展って……沙織さん!?」
「ウフフフフーッ!」
処女神といえども、恋の話は楽しくて。
ましてやそれが取り合いで、かつロミオとジュリエットのように簡単には結ばれない間柄なら面白さはいっそう増すというもの。
「私はあなたに幸せになって欲しいだけなのよ、女の子として……ね」
「沙織さん……」
どこかそこはかとなく胡散臭さが漂うけれど、彼女の言葉に込められているのは、純粋な願いだけ。
積乱雲はまるで恋心のようにもくもくと育ち続けている。
少女達は眩しい陽光に目を細めながら、その年の夏を過ごした。



今年の夏は一度きりだから。
どうか――どうか生涯の思い出に残る、最良の時を。





≪終≫




≪あーっ!夏休み!≫
聖闘士と冥闘士の夏休み……か? 冥闘士側は休んでいるのか? まあいいや。
氷河がエアコンをぶち壊すという設定はかなり以前から考えていたんで、こういうSSになりました。相変わらずハーデス様がバカでごめんなさいだ(*゚д゚)




≪おまけ≫
瞬:ねぇ、誰か氷河見なかった?
星矢:シベリアにでもいるんじゃないか?
(電話の音)
瞬:はい……あ、ハーデス? 先日はどうも……は? 氷河がそっちにいる? コキュートスから出ていかない!? すみません、すぐ迎えに行きます!
紫龍:氷河、最近見ないと思ったら……(´・ω・`)

注: 文字用の領域がありません!

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