女神的君主論 〜沙織さんの優雅な休日



ずっと見てた
高いところから、あなたをずっと見てた
どうしてだか分からないけれど――私はあなたが羨ましかった



「だからなんでそういうことになるのだ! 夜は余と瞬の時間だろう!」
いつものように愛妻(未満)のもとを訪れていたハーデスは抗議の声を上げた。ウフフと笑って聞き流すのが悠久の宿敵、軍神アテナ。彼女は長い灰褐色の髪を楽しそうに揺らしながら、傍らに立っていた乙女をぎゅっと抱きしめた。
「ひと晩だけ貸してほしいと言っているのです。なんでしたらご一緒してもよろしいですわよ。もちろん瞬を真ん中にして」
「さ、沙織さん……」
困惑しきりなのは瞬である。冥王ハーデスの嫁候補として愛されている彼女は今宵主君でもある沙織の寝室にも呼ばれていた。
「私は、たまには女の子同士、瞬と積もる話もあるのです。こういう機会でもなければなかなか……だからひと晩貸してほしいと言っているだけではないですか」
「それはわからんでもないが、それをして余にメリットがあるか?」
「うふふ、そうですね」
そういうと沙織は瞬を解放してつつっとハーデスに歩み寄り、高い位置にある彼の耳元にそっと囁いた。
するとハーデスは得心したかのように頷いて、瞬を貸す事に同意した。
「わかった。瞬を貴女にひと晩預けよう。余は隣の部屋で我慢してやる」
ハーデスはくるりときびすを返して部屋を出ていこうとしたのだが忘れ物があると慌てて引き返してきた。
「忘れておった」
「なんです?」
沙織の問いに答えぬまま、ハーデスは瞬をぎゅっと抱きしめ、柔らかな唇にそっと自分のそれを触れさせた。
「おやすみのチューを忘れておった。それじゃ、瞬、明日の朝は見送ってくれ」
「は、はあ……」
名残惜しいのか、まだ頬や手の甲にキスを繰り返すハーデスを見つめながら、瞬はくすぐったそうに身を捩る。
そしてもう一度唇を触れ合わせると静かに部屋を出ていった。
「……随分大人しく言うこと聞きましたけど、なんて言ったんですか?」
瞬はとなりで手を振っていた沙織を見つめる。彼女はにこにこと笑顔を絶やさない。
「うふふ、内緒よ。さ、一緒に寝ましょう」
「それはいいんですけど、今日に限ってまたなんで……?」
「だから、あなたとゆっくり話がしたかったのよ。ベッドの中でね、楽しそうじゃない」
わざわざハーデスを追い出してまでなんの話だろうと身構える瞬であったが、沙織には別に他意はないらしい、ふたりはそっとベッドに入った。
「とりたてて話があるわけじゃないの。ただおしゃべりしたかっただけ。だって女の子同士だもの」
「沙織さん……」
白いシーツの上に座っているのが女神とその聖闘士だとは、おそらく一見しただけでは分からない。それほどまでに今の彼女たちは自分たちの手で掴んだ平和を満喫していた。
「でもいちばん聞きたいのはやっぱりハーデスとのことだわ! 一体どうなっているの? どこまで進んだの?」
「進んだって……そんなこと聞かれても……」
女神の容赦ない一撃に瞬は顔を真っ赤にしながら手近な枕をぎゅっと抱きしめた。
「恥ずかしいです……」
「だけど夜は一緒に寝ているんでしょう? だったら何か間違いというか、ニアミスのひとつやふたつ」
「ありません! そんなことっ!!」
叫んでしまった羞恥ゆえか、瞬は抱いていた枕に顔をうずめた。
確かにハーデスと同じベッドに寝てはいるけれど彼は何もしてこない。それはこの恋をはじめた時の最初に約束のひとつだったからだ。ときどき驚くほど接近していることもあるけれど、やはり何もされていないし、していないのだ。
「あら、そうなの?」
「ハーデスは、ちゃんと約束を守ってくれてます。結婚するまではしないって……」
隣室のハーデスが額をかきながらひとり照れているのをふたりは知らない。
「で、瞬は応じてあげる気はないの?」
「は?」
「だから、ハーデスか、カノンか、どっちかと応じてあげる気はないのって」
「沙織さーん!!」
大声を上げる瞬にほんの少し驚きながらも沙織は笑みを絶やさない。その笑みが優しいものではなく、好奇心に溢れたおばちゃんのものであることはもはや言うには及ぶまい。
「いやだわ、大声なんか出して」
「だって沙織さんが変なこと聞くから……」
困ったように顔を伏せ、少し目許を赤くする瞬に沙織はあらあらと肩を抱いた。
「変なことだと思っていないわ。ただあなたには幸せになってもらいたいから、早まったマネはしてほしくないの。それに、いつかは決めなきゃならないことでしょう?」
「それは分かってますけど……」
同じ年頃の女の子とは思えないほどの、二人の反応の違い。
幼少期を聖闘士になるために灼熱と極寒が交互に襲う島で生死の境を彷徨いながら過ごした瞬と、この城戸邸でお嬢様としてなんの不自由もなく暮らしてきた沙織との差は、ありすぎた。
そしてそれは体型にも現れる。
豊かな食生活によって13歳とは思えぬ豊満な体を持つ女神と、蠍や蛇を主食とした食生活で戦士としての体を持つ瞬。
沙織はそっと瞬の胸に触れてみた。
「きゃっ、さ、沙織さん!」
ほとんどまっ平だと思われがちの瞬の乳房は見た目ではわからないが少しこんもりと張っていて、それでいて温かい。
ただ沙織に手の動きにいやらしさがないので瞬は顔を真っ赤にしながらも抵抗しなかった。
「ちょっと、沙織さんっ」
「ふふふ、ちゃんと胸があるじゃない。瞬はこれから育つのね」
「もう! 沙織さん!!」
沙織の手が離れた隙に瞬はばっと自分の腕で胸元を隠した。沙織はなおも楽しそうに笑う。
女神は愛しい少女をそっと抱きしめた。
「私を追うようにこの地上に降りてきたのが、あなた……」
「沙織さん……?」
「本当に、幸せになってほしいから」
女神の言葉が瞬の魂の奥に深く甘く響いた。
争いの中に身を投じた瞬と、そうさせてしまった女神と。
平和はあるものではなく守るもの――誰かが戦わなければならない現実。
戦場へ行くのはいつもいつも、心優しい誰かなのだ。
だから、争いのないこのひとときをお互いにただの少女に戻って過ごしたいだけ。
城戸の総帥として財団を経営していくことは神々との戦いに比べれば随分と楽だと、沙織は言った。
そして瞬も、年上の黄金聖闘士と冥王という特殊すぎる相手ではあるが、男性と恋愛しているという点においては普通の女の子のそれと変わりない。
「ねぇ、瞬?」
「なんですか?」
「明日、こっそり遊びにいきましょう。ふたりで」
穏やかな心地も何処へやら、沙織はやはりなにかを企んでいた。
「ふたりで遊びに行くのはかまわないんですが、こっそりなんですか?」
「ええ。だっていつも辰巳がお嬢様お嬢様って五月蝿いんですもの。幼少の頃から私のそばにいるから心配なのは分かるんだけど、私だってひとりでのんびりしたい時もあるのよ」
グラード財団の総帥としての彼女はどこにいるにしても必ず護衛がついていて、のんびりショッピングもままならない。
車の外にいる女の子達はどこまでも色鮮やかで楽しそうに見えた。
「でもお仕事大丈夫なんですか?」
「ええ、ちゃんとオフなの」
瞬は沙織の仕事を出来る範囲で手伝っているので彼女のスケジュールも把握していた。確かに明日はオフになっている。
沙織の腕の中の瞬はこっくりと頷いた。
「わかりました。でも遊ぶといっても私もあんまり……」
「そのへんをふらふら歩くだけでもいいわ。ふふふ、明日が楽しみね」
それだけ言うと沙織はもう寝ようと横になった。瞬は上掛けをきちんと着せて、自分もそっと横になった。
「沙織さんがいちばん大変なんだよね……」
女神の寝顔を見つめながら、アンドロメダの少女は自身も静かな眠りにつく。
「……アテナも大変なのだな」
いちばん大変じゃなさそうな冥王がぽつりと呟き、彼はゆっくりとため息をつくのだった。



そして翌朝。
瞬はいつもより少し早く目を覚まし、そっとベッドを抜け出した。静かに隣の部屋へ移動するとハーデスは寝ていなかったのか、ベッドの端に腰掛けたままだった。
瞬はそろりとハーデスに近づいた。彼は静かに顔を上げ、にこりと微笑むだけ。
「寝なかったんですか?」
「余は神だからな、寝なくても平気なのだ」
そういうと彼はいきなり瞬の腕を引いた。バランスを崩した彼女は冥王の膝に倒れこむ。が、彼はすかさず瞬を抱きとめ、膝の上に乗せて柔らかい髪を撫でた。
「もう、びっくりするじゃないですか」
「……もう、一人で眠ることなど出来ぬのだ。そなたの温かさを知ってしまったから」
「ハーデス……」
暗く冷たい闇の中で一人ぼっちだった彼に、優しく降り注いだ君という光――もう手放せないと、冥王は瞬を抱きしめた。
「寝なくても平気なのは本当だが、眠れなかったというのも本当だ。壁一枚隔てているだけなのにな」
こうしている時間よりも、地上と冥界と離れて過ごしている時間のほうが長いからこそ、冥王はそれだけ瞬を深く愛しく思うのだろうか。
「髪……梳いてあげますね」
「いや、このままでよい」
「でも……」
「このまま……日が昇るまでしばし、な」
少女の柔らかく甘美な温かさと、男の精悍な熱さと。
果たして、手放せなくなったのはどちらだろう。
神にしてみれば薔薇色の暁の女神が昇るまでの時間など刹那に過ぎなくて。
「……そろそろ帰らねばならぬ。名残惜しいが」
「また、夜に会いに来てくれますか?」
膝の上の瞬が何気なく漏らした言葉に、冥王は思わず目を丸くする。
「余が約束を違えたことがあったか? 念を押されずとも会いにくる。なんならこのまま余と冥界へ行くか?」
思わず確認してしまったことに気がついた瞬は頬を赤く染め、その煌びやかな指先で唇を隠した。
見つめる冥王と視線を合わせることも出来ない。
「あの……私……」
「それだけそなたの中に余がいるということか、嬉しいことだ」
冥王の手が乙女の頬に触れる。見つめあうことを拒否する瞬を無言のうちに宥め、口付けた。
「んっ……」
そこにあるのはグランギニョスではなく、浪漫。
まだ契りを交わしていないふたりには接吻だけが互いを結ぶ唯一の儀式。
唇が離れても、抱いていた腕を解いても――魂の奥で、運命以上のなにかで繋がっていると信じて。
「また夜に来るからな。安心して待っていてくれ」
「はい……」
そう言ってまた薄く頬を染めた瞬に優しく笑いかけ、冥王は名残の口付けを彼女の額に施した。
「またな」
「お気をつけて」
暁の空気に溶けていく冥王の影に乙女はそっと手を伸ばす。
届かないと知っていても、どうしても触れたくて。
「……変なの。私、あなたがどうしようもなく好きみたい……」
紺色を押しのけるように空を照らし始めた陽光。
瞬は胸元の星をぎゅっと握り、切なそうに空を見つめるのだった。




一度瞬は星矢たちがいる城戸邸別館に戻って朝食の支度と後片付け、それに洗濯を終えてから沙織のところに戻ってきた。
やはり辰巳が心配して自分もついていくと言っていたのだが、聖闘士である瞬との力の差は歴然としている。
しかし彼にしてみれば瞬はまだ幼い頃の『泣き虫瞬ちゃん』のままだったのだ。
だが最早そうでないことは沙織も、そして当の本人である瞬もわかりきっていた。なのでごねる辰巳を宥め脅して、結局ふたりで外出する権利を勝ち取ったのだった。
今日の沙織はいつもの仰々しいドレスやスーツではなく、ごく普通の膝丈のスカートにスニーカーという出で立ちだ。1 0代の女の子向けファッション雑誌を参考にしたらしい。灰褐色の髪は後ろで三つ編みにして、鮮やかな薔薇の髪飾りをしている。
「うわぁ……なんかいつもと違いますね」
「そういう瞬だって。やっぱり私たちの本質は女の子なのね」
瞬は黒地に色とりどりの花をプリントしたハイウエストのワンピースを着、足元にはやはり黒いエナメルの靴を履いていた。
胸元には冥王から贈られたローズクオーツのペンダントを下げている。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい」
女神と王女はそれぞれに手を取り合い、邸の外へと歩き出した。もちろん心配した辰巳が後ろからこっそり付いてきているのは分かっている。
それでもやはり沙織は瞬と出かけるのが嬉しいらしく、にこにこと微笑みながら木立の中を歩いていた。
「お天気がよくてよかったですね……でも暑くなりそう。沙織さん、暑いの平気ですか?」
あくまで女神を気遣う瞬に、沙織はケタケタ笑いながら手を振った。
「やあねぇ、極寒から壺の中までなんでもおっけーに決まってるじゃない、アテナなんだもの。あ、でも今日は普通の女の子するんだったわね? 少しは暑いと思ったほうがいいかしら」
「我慢大会じゃないんですから、感じたままでいいんですよ」
瞬はいつでも笑みを絶やさない。本気で怒っている時でさえ笑っているのだからそれはそれで怖いというものだ。
「それで、何処に行きましょうか。ふらふらしたいって言ってもやっぱり目的地は決めたほうがいいですよね」
「ウフフ、実は行ってみたいところがあったの」
「どこですか?」
沙織は立ち止まってバッグの中をあさっていた。ややあって取り出したのは雑誌だった。ぱらぱらとめくり、探していたページを開いて瞬に差し出した。
「ここ。このルルポートっていうショッピングモールに行ってみたいの。いつも必要なものは届けてもらうし、買い物といっても貸し切り状態のデパートだもの。つまらなくて……」
「ルルポートは私も行ってみたいなあって思ってたんです、テレビでやってたから。じゃあここにしましょうか」
「そうね、あ、でもここからじゃ遠いかしら」
少し不安そうな沙織に瞬はいいえと笑ってみせた。
「大丈夫ですよ、ここから駅まで歩いて行って電車に乗って最寄駅まで行くんです、そこからシャトルバスが出てますから」
「電車! 電車に乗るのね! 私、電車に乗るの初めてよ!」
「私は何度か……じゃあ、行きましょう」
こうして瞬と沙織の珍道中が始まった。
沙織が駅の券売機でいきなりカードを使おうとしたり、自動改札に感動していつまでもそこから動かなかったり、ドアが開くたびに降りようとしたりと、初めて電車に乗ったお嬢様のハチャメチャぶりに瞬はすでに疲れ始めていた。
「なんでドアが開くたびに降りようとするんですか?」
「いつもそうなんだもの、車が止まってドアが開けられると下りる合図なの」
お嬢様の習慣とは恐ろしいものだと思いながらも、瞬は楽しいと感じているのに気がついた。
流れていく風景の向こう側にはたくさんの人の暮らしがあって、自分たちはそれを守るために戦ってきたのだ。その戦いが誰に知られるものでもなく、労われるものではなかったとしても、窓の外の風景だけはその事実を教えてくれていた。
やがて電車は目的の駅についた。
相変わらず沙織は自動改札に感動していたが、瞬に引っ張られて名残惜しそうにその場を離れた。
ちょうど駅前にシャトルバスが来ていたので乗り換えて一路ルルポートへ向かう。
「楽しいわね。このバスはどこで運賃を払うのかしら」
「沙織さん、このバス、タダなんですよ」
「まあ、そうなの! 今度は普通のバスにも乗ってみたいわね」
「そうですね」
バスは途中一度もドアを開けることがなかったので瞬は安心して座っている事が出来た。
車内は家族連れや恋人同士でほぼ満席状態だった。
沙織は持参したファッション雑誌に目を通しながら瞬を見た。
「瞬もやっぱり女の子ね。可愛いわ」
「そ、そうですか? でもやっぱりまだスカートには慣れないんです、ひらひらしてて……」
聖闘士として修行を重ね、戦ってきた瞬に女の子らしさなど無用だった。まだ13歳の少女に課された運命はあまりにも重く、残酷だった。アンドロメダの聖闘士として、そして冥王ハーデスの器として生きてきたこの13年という歳月。
今は冥王の妃として望まれる彼女はこれからどうしていくのだろう。
「でも、そのワンピース可愛いわ」
「ありがとうございます。この前アフロディーテたちが日本に遊びにきたときに見たててもらったんです。中身がないから誤魔化せるのがいいんですよね」
魚座のアフロディーテは瞬を妹のように可愛がっている黄金聖闘士のひとりだ。お化粧も料理も恋もいろいろ教えてくれる先輩として、そして姉として瞬も彼女を慕っている。
そうこうしているうちにバスはルルポートのバス発着所へ到着した。
ふたりはバスを降り、目の前に聳え立つショッピングモールを見上げた。
「ふわあ、大きいですねぇ」
「本当に。300近いテナントが入っているそうです。全部見るのは大変そうですね……」
「でもせっかく来たんですから」
「ええ、制覇するつもりで」
女神と王女は手を取り合って仲良く歩き出した。



モールの入り口でパンフレットをもらい、フロアの見取り図を確認する。地下2階、地上4階でテナント数はちょうど300。映画館を併設しているというルルポートはすでに大勢の人でにぎわっていた。
「迷子になりそう……」
「いざとなったら小宇宙を感じる事にしましょう」
「そうですね、で、何処から行きましょうか」
「とりあえず洋服を見たいわ。アクセサリーとか、バッグも」
「じゃあ、1階から順に行きましょう」
まだ13歳だけど華やかな乙女たちは何処にいても目立った。あっちの店、こっちのショップとちょろちょろする沙織とそれを追いかける瞬は紛う事なき美少女だ、目立たないはずがない。ここに星矢がいたのならさらに大声をあげていただろう、目立つこと請け合いだ。
「あら、あれも可愛いわね」
「ちょっ、沙織さん待って」
見ていた服を丁寧に戻しながら、沙織はすたすたと目当ての服のところに歩いて行く。
彼女が手に取ったのは桃色のシフォンガーディガンだった。レースがふんだんに使われていてとても可愛い感じだ。
「これ可愛いわね」
「そうですね、沙織さんに似合いそう」
「あら、私のじゃないわ。これ、あなたのよ」
「わ、私ですか!?」
ひらひらふわふわの服には慣れていないと言ったばかりだと思う瞬だったが、沙織はもうその服を取って瞬に宛がっている。
「よく似合うわ。伊達に聖衣がピンクってわけじゃないのね」
アンドロメダの聖衣はメタリックなライトピンクからノーブルスカーレットへと色を変えていたが、それでも瞬にはピンクが似合う。けれど普段の彼女はあまりピンクを好んで着ないらしい。やはり修行時代にベージュやグレーといった地味な色を着せられていた事が原因らしい。
「でも、ひらひらしてますし……」
「だから可愛いんじゃない。サイズも大丈夫そうだし」
「でも……」
やっぱり自分には可愛すぎるんじゃと心配している瞬に沙織の君主的言動が飛び出した。
「じゃああっちのミニスカートにするわよ? そしてそれを着せてハーデスの前に放り出してあげます」
「……ぅ、こ、このカーディガンにします」
「ウフフフフーッ、そうこなくっちゃ」
自分が既に選んでいた洋服数点と共に沙織はウキウキとレジに向かい、カードで会計を済ませた。その中に先ほどのミニスカートが混ざっていた事を瞬はまだ知らない。
店を出た沙織は実に満足そうに笑っていた。荷物は瞬が持っている。
「あ、そうだ。そろそろお昼ですね。混み出す前に食べちゃいましょうか」
「あら、そうなの? 込んでいて食べられなかったら残念だわ、急ぎましょう」
「なに食べます?」
「……何を食べるか、自分で選ばないといけないのね」
またしても飛び出したお嬢様発言、瞬はさして驚きもしないまま沙織と共に手近な椅子に腰を下ろしてパンフレットを広げた。
「えーっと、今ここで、レストランエリアはあっちですね。なんでも揃ってるみたいですけど……」
「私、ファストフードのお店に行ってみたいんだけど」
「ハンバーガーとかですか?」
「ええ、モズとかワックとか。ハンバーガーを食べた事がないのよ」
お嬢様の食事はいつも一流シェフによる豪華なフルコースだ、ジャンクフードなどは知識で知っていても一度も食したことはないらしい。
「じゃあ、モズに行きましょうか。美味しいんですよ」
「ええ、ええ! そこにしましょう!」
そういうと沙織はすっくと立ち上がり、瞬をひっぱって歩き出した。
「さあ! 行くわよ!」
「沙織さん、反対方向です!」
瞬の言葉にくるりと方向を変え、沙織はずんずん歩いていった。



ルルポートのモズは意外と広く、客席は十分にあったので沙織と瞬はちゃんと座ることが出来た。
レジに並んで注文し、しばらくそのまま待っていれば手渡してもらえるというシステムに沙織はいたく感動したようで、目の前のハンバーガーとサラダ、それにドリンクをキラキラしいほどの笑顔で眺めていた。
「はじめてきたときは私もそうでした。日本って食料も豊富だし、なによりすぐに出て来ましたからね」
時には番号札を渡されて待つこともあるけれど、その待ち時間もたいしたことはない。
「それじゃ、いただくわね」
「ええ、どうぞ」
沙織はがさがさとハンバーガーの包みを開いたが、何故か手をつけずにきょろきょろと何かを探しているようだった。
「どうかしました? 沙織さん」
「いえね、フォークとナイフはないのかしらーって思って……」
流石お嬢様、かぶりつくという発想はないらしい。瞬はくすくす笑いながら困惑する沙織を見つめていた。
「ねぇ、瞬」
「フォークとナイフはありませんよ、ほら、こうやってかぶりつくんです」
そういうと瞬は半分だけ開いた包みを両手でしっかり持ってハンバーガーをかじってみせた。沙織は驚きつつも、全部開いてしまった包みを見つめた。
が、やがて意を決したかのようにまた半分包みなおし、瞬がしたように両手で持ってかじりついた。いつもは一口大に切ってから食べるのでこんなふうに口を大きく開けてかぶりつくのは初めてだ。
かじったのが端っこだったのでパンの味しかしなかった。それが不満だったのか、沙織はどんどんかみついていく。
一度覚悟を決めると突っ走るのがアテナという女神だった。
今はハンバーガーに奮戦している。
もぐもぐと口を動かす沙織を見て、瞬は楽しそうに笑った。
「美味しいですか?」
「ええ! とっても美味しいわ! でもきっとこういうとことで食べるから美味しいのね」
「そうですね。星矢と来たときは大変でしたよ。いっぱい食べるんですから。口許もべたべたにしてましたし……沙織さんみたいに」
「えっ……やだっ」
沙織はほのかに頬を染めて、添えられていたペーパーナフキンで口許を拭った。
「ふふふ、沙織さんにも苦手な事ってあるんですね」
「苦手……と言うか初めてですから、次は負けないわ!」
ハンバーガー相手に勝ち負けもどうかと思いながら、それでも瞬は嬉しそうな沙織を見ていると自分まで嬉しくなってくるのを感じていた。
それからふたりはモズを出て、再びショッピングに戻った。
可愛いアクセサリーや洋服、小物を見て回り、コスメを試して遊び、沙織はアイスクリームの立ち食いにも挑戦した。
瞬く間に時間はすぎてあっという間に夕方となり、ふたりは帰路についた。
「すみません、なんかたくさん買ってもらっちゃいましたね。星矢たちにおみやげで……」
「いいのよ、今日のお礼だと思って。それにあなたたちにはこんな事では返せないくらい、大きな恩がありますもの」
「沙織さん……」
彼らから母を奪ったのは敬虔なる父で、普通の少年少女としての時間を奪ったのは荘厳なる女神で。
だから許される限り、出来る限りのことを彼らに対してしてやりたいという女神の心なのだ。
けれど瞬たちはそうは思わない。確かに幼い頃は城戸のお嬢様として愛された沙織を羨ましく思った。そして聖闘士というわけのわからないものになるために兄弟や友と引き離され、僻地へと送られた。
たくさんの子供が死んだ。
生き残ったのはたったの10人、瞬に至っては数名いた女子の中でたった一人の生き残りだった。
だが生還した彼らに待っていたのは聖闘士としての過酷な前線だった。
争いを好まない少女でさえも戦場へ――優しい君はいつも、迷いながらも戦うことを選んで。
瞬はぎゅっと沙織の手を握った。
「恩だなんて……私たち、別に沙織さんに恩を売るために戦ったわけじゃないんですよ」
「瞬……」
「最初は確かに疑問もありましたけど……でも、もう違います。私はアテナの聖闘士なんです。これからもずっと……」
「ええ、分かっているわ。でもね、どういったらいいのかしら……んー、やっぱりあなたたちには何かしてあげたいと思うの。それだけなのよ」
重ねた手は柔らかく、温かく、心地良くて。
並んで歩きながら、少女たちは明日の平和を願って微笑みあうのだ。
「私はね、あなたが羨ましかった」
沙織の言葉に瞬が首を傾げた。親もなく、ただ影のように生かされているだけの幼い頃の自分たちを、お嬢様が何を羨ましがるというのか。
「あなたの周りにはいつも誰かいたもの。いじめられていても、必ず誰か飛んできてあなたを助けていた」
それは一輝か星矢である事が多かったのだが、ときには紫龍や氷河も彼女を助けていた。
「それが羨ましいんですか?」
「だって、それって友達ってことでしょう。私には友達はいなかったから。学業の事もほとんど家庭教師で、友達なんか作れなかった……」
「馬になれなんて言えば無理なような気もしますけど……」
「今思うと、それはちょっとやりすぎたかなとは思っているわ。でも邪武は本当に馬になっちゃったし……」
邪武は沙織の馬命令を拒否した星矢に代わって馬に立候補した男である。彼も聖闘士として生還した一人だが、拝命した星は一角獣――つまり、角を持つ馬だったのである。ユニコーンは乙女にしか背中を許さない。だが乙女のほうにも選ぶ権利があったのか、はたまた星の宿命だったのか、邪武は銀河戦争で瞬にめっためたに倒されている。どうやらアンドロメダをその瀬に乗せるのはユニコーンではなくペガサスだと神話の時代から決まっていたようだ。
「でも今の沙織さんには、みんながいます。アテナとして崇拝もしますけど……ただの沙織さんなら、お友達ですよ」
「……ありがとう、瞬」
ぎゅっと握られた手と手、いつもあなたのそばにと、許される限りの友愛を。



その日の夜、冥王はいつものように瞬の部屋を訪れていた。
「ただいまー、瞬ー」
「お、おかえりなさい、ハーデス……」
そのやり取りを初めて聞いたアテナ沙織はにやにやと笑っていたが、ハーデスにはそんな事はどうでもよかった。瞬が何故か沙織の背中に隠れて出てこようとはしなかったのだ。
「瞬、どうしたのだ?」
「ほら瞬、ハーデスが呼んでるわよ」
どこにそんな力があるのか、沙織は聖闘士である瞬をハーデスの前に放り出した。
「きゃあっ!」
「おっと」
瞬を抱きしめたハーデスは彼女の衣装を見て思わず口を押さえた。いや、押さえたのは鼻のほうだったかもしれないがとにかく押さえた。
瞬は真っ赤になってうつむいたまま、泣きそうになっている。
「ウフフ、どうですかハーデス。可愛いでしょう」
「なんだと?」
「今日、瞬とデートしてきたんです。そこで買った服なんですけどね、よく似合っているでしょう?」
ハーデスの腕の中の瞬は胸元の大きく開いたカットソーにふわふわひらひらのピンクのシフォンカーディガンを着ていた。そして下はというと、瞬が徹底的に拒否したあのミニスカートである。膝上5センチ程度なのだが、今までそんな格好をしたことがなかった瞬は恥ずかしさでいっぱいだった。
「けしからんくらい似合っておるが……瞬は何を泣いておるのだ」
「恥ずかしいです、こんな短いスカート……」
ショートパンツのほうがまだマシだと思いながら、瞬はぐいぐい裾を引っ張って足を隠そうとしている。が、それがハーデスを煽っていることに気付かない。ついでに胸元も気になるのだが突っ込めば瞬が暴走しそうなので黙っていた。
「ウフフフフ、私はお邪魔なようですので退散しますわ。がんばってくださいね!」
何を頑張れと言うのだ、何を。
沙織が去ったあと、その場にぺたんと座りこんでしまった瞬を宥めようとハーデスは必死で声をかけた。
「か、可愛いぞ瞬! よく似合っている!」
「……そうですか?」
白くすらりと伸びた足を見て見ないふりのハーデス、所詮彼も男だ。
「うん、余は嘘は言わぬぞ。だがそんなに気になるなら着替えるがよい。ああ、見たりはせぬから」
「はい……」
うっすらと涙を浮かべた目許を拭い、瞬はなおも裾を気にしながらスカートだけを着替えた。いつもの長いスカートにしてほっとしたのか、瞬はそれでもおずおずとハーデスのそばに近づいた。
「もういいですよ」
「うん……」
ハーデスが瞬を振りかえると、彼女はいつものように笑ってくれていた。惜しいことをしたと思いつつも、彼はそっと瞬を自分の左に座らせた。
「やはりそういう、清楚なほうがそなたには似合うな」
「でも男の人には短いほうがいいんでしょう?」
「それは……その男の好みというかなんというか……。ただ、そなたは何を着ても似合う、それは断言するぞ。というか瞬、余が短いのがいいと言ったらそれを着てくれるのか?」
ハーデスの言葉に瞬はぼっと頬を赤らめた。
「き、着ません!! 何を言われても絶対に!!」
「そうか、残念だな」
心底残念そうに呟きながら、ハーデスは瞬の肩を抱き寄せ、その額に口づけた。
(今夜は……なんというか、試練だな……)
お互いを異性として意識してから代わる、何か。
あの夜アテナはハーデスにこう言ったのだ――『あなたが瞬と結ばれるように手を打ってやらなくもない』と。
ただ恥らう瞬は妙に可愛いなあと思いながら、ふたりは眠れぬ一夜を過ごしたのであった。



遠い高みから階下を
広い大地から天上を
互いに羨望の思いで眺めつつ
補って世界は構築される




「ウフフフフ、今度は何を着せようかしら」


瞬の聖闘士としての、あるいは女神のお友達としての試練はまだまだ始まったばかりのようだ。




≪終≫





≪ハピバ沙織さん≫
9月1日、アテナこと城戸沙織さんのお誕生日です。おめでとー!
今回は沙織&瞬で、『普通の女の子のお友達』っぽいの目指しました。ちゃんとお友達できているかしら。
ハーデスはもうなんだ、男だからね(*゚∀゚)=3 ウフフ
そんだけです、ごめんなさい

注: 文字用の領域がありません!

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