願い事ひとつだけ



黒い髪と赤い瞳の少女はただ黙って自分の手を見つめていた。
愚かな罪の手、私さえいなければ誰も死なずに済んだのだろうか?



「う〜〜ん」
「どうしたんですか?」
ほんのりと秋の気配が漂うまでにはまだ時を要しそうな夏の終わり、瞬を左腕に抱いていた冥王が考え事でもしているのか、珍しく唸っていた。
「いやな、もうすぐ九月であろう。九月といえばいきなりアテナの聖誕祭であろう? それから余とそなたが九日で……」
「海闘士のソレントさんが十日ですよ。私たちの次の日ですね。そしてシャカが十九日です」
「なんと、あの電波もか!」
「だから乙女座の黄金聖闘士なんですよ。それがどうかしたんですか?」
肩に置かれていたはずの手がするっと下りてきたのを強引に戻しながら瞬はハーデスを覗き込んだ。
「もうひとり、おるのだ。九月生まれが……」
本当は冥闘士にひとりいるのだがこの際彼は割愛しよう。
ハーデスの脳裏には黒髪の、いつもどこか寂しそうな少女の姿が浮かんでいた。
「パンドラが三日生まれなのだ」
「へぇ……それじゃ、お祝いしてあげないといけませんね」
そう言っていつものように微笑む瞬に冥王も薄く笑う。
「うむ、冥闘士たちも日々世話になっておるゆえに何かしたいという。余も大いに賛同したのだが」
「いいことじゃないですか。何を困っているんです?」
またもずるずると下がってきた左手を今度はそ知らぬ顔で抓りあげて、瞬は笑顔だ。
冥王は思わず手を引いた。
「痛いではないか! そなた人を傷つけるのは嫌いなのではなかったか?」
「あなた神様でしょう。それに身を護る時は徹底して護りますよ。で、本題は何でしたっけ?」
「そうそう、それだ」
今度はそろっと腰に手を回して抱き寄せる。はじめからこうしていればよかったと冥王様、なにかを学んだようだ。
「パンドラは何を好むのであろうか。年頃だと言うのに冥府で自分より大きな男どもを一括のもとに纏め上げておるのもなにやら不憫に思えてな。たまに休暇を与えて地上に送り出しても数時間もせぬうちに戻ってくるのだ」
「うーん、それは私もそうなんですけどね。聖闘士としての修業や戦闘ばっかりだったからいざ普通の暮らしに放り出されても最初は混乱しましたから」
食用の安い蠍や蛇を求めてご近所を流離った数日、味覚を戻せと沙織に止められるまで続けていたのを思い出す。
「普通の女の子には戻れないのかもしれませんね……」
少女時代に少女として生きられなかった彼女らが望むものはなんだろう。
「だから困っておるのだ。パンドラが喜ぶものとは……」
「うーん」
ほんの僅かの思考の先に思いついた、彼女の望むもの。
「ねぇ、ハーデス?」
「なんだ、瞬」
「今、同じこと思いついたでしょう?」
「流石、かつては余の器だっただけのことはあるな。考えることが同じとは」
そして当日までの間、どこから聞きつけたのかアテナ沙織まで巻き込んで、彼女と青銅聖闘士たちの協力のもとにパンドラの誕生日を祝う計画が練られた。



迎えた当日。空は清々しいほどに晴れ渡っていた。降り注ぐ陽光にアテナと瞬が気持ちよさそうに目を細める。
ここはドイツのハインシュタイン城――かつてハーデス城と謳われた場所だった。
「上手くいくといいんですけど」
「大丈夫ですよ、私もついています!」
そう言ってやる気満々で拳を握った沙織に微苦笑して、瞬はとなりのハーデスを見やった。
この計画に必要不可欠なのが瞬なのだ。
ハーデスは足元に跪拝する二人の忠臣に申し渡しをしている。
「よいか、不自然ではないように振る舞うのだぞ」
「はっ!」
ハーデスの前に控えるのはラダマンティスとアイアコスのふたりだ。ちなみにミーノスはパンドラについている。傍らに控える瞬は上手く出来るかどうか不安そうな顔をしているが、それ以上に怯えているのがアイアコスだった。
「それからこれは演技ゆえ、そこを忘れるでないぞ。瞬に不埒な振る舞いをしたときには永劫の死を持って償わせるゆえ覚悟いたせ」
「ははっ!!」
二人の男は冥衣を纏っている。瞬はこれから彼らに拉致されるのだ。
「よろしくお願いします」
「では、余はアテナと共に見守っておるからな。瞬、気をつけてな」
「パンドラさんの心配をしましょうよ」
「余はそなたのことも心配だ。ああ、余がやればよかったか」
「あなたじゃ瞬が心配です、本当に聖戦になりかねませんから」
そう言って沙織にさくっと黄金の聖杖を差し出されたのでハーデスはしぶしぶ瞬を離した。
「それでは始めましょう」
アテナ沙織の声に、まず沙織とハーデス、それに星矢、紫龍、氷河が物陰に隠れた。ラダマンティスが一礼して瞬を片腕に抱き上げる。そして瞬がすうと息を吸い込み、常套句を叫ぶ。
「きゃあああああ!! 助けて兄さん浚われるー!!」
「瞬ー!!」
連れてこなかったはずの不死鳥・一輝がいきなり一同の前に現れた。
(早っ!!!)
予想通りとはいえあまりにも早い一輝の登場に、安堵したのは何故だろう。とにかくこれで計画の第一段階は完了だ。あとはどうやって彼を捕縛するか、なのだ。
「兄さん、来てくれたんだね、兄さん!!」
瞬の瞳が期待に輝くのを一輝は十五歳とは思えぬ渋い笑みを浮かべて見つめていた。
その期待の奥に潜む罠にも気づかずに。
「フェニックス……お前の兄バカは噂どおりなのだな」
ラダマンティスとアイアコスは背中にだらだらと汗をかきつつ、それでもハーデスの厳命もあって瞬を離さない。アイアコスはまた殺されるのではないかと気が気ではない。
「貴様ら、瞬をどうするつもりだ!? まさかハーデスが!?」
「フッ、だったらなんだというのだ」
「瞬は返してもらうぞ!!」
「鳳翼天翔を撃てばアンドロメダが巻き添えになるぞ!!」
「くっ……!」
最愛の妹を人質に取られ、一輝は手が出せない。
物陰から見ていた沙織たちはラダマンティスの迫真の演技に感歎のため息をついた。
「くぬぅ、ラダマンティスめ。あのように瞬にべったりと……」
「沙織さん、俺たちまだ?」
「もうすぐよ、星矢。ほら、瞬の手元から」
ラダマンティスの冥衣の影を縫うように瞬の手元からわずかに伸びているのは銀色の鎖、聖衣の中でも随一の防御本能を誇るその鎖の名は“宿鎖王女の星雲鎖”と呼ばれている。
鎖は静かに一輝の周りを取り囲み始めた。
「……ごめんなさい、兄さん!!」
「瞬!?」
「ラダマンティスさん!!」
「はっ!!」
瞬の声にラダマンティスが彼女を解放し、アイアコスがガルーダフラップで少女を高く舞わせた。
太陽に向かってまっすぐ飛び上がる妹に一輝はその姿を見失う。
「瞬ー!!」
「食らえ! フェニックス!!」
「なにっ!?」
「グレイテストコーション!!」
「どわああああああ!!」
「すまん、一輝! ペガサス流星拳!!」
「許せ! 盧山昇龍覇!!」
冥闘士だけでなく異母弟たちの攻撃も受けて、一輝はわけも分からず地に伏せた。
「うう……何故だ!?」
「ごめんなさい、兄さん。こうでもしないと兄さんは素直に此処に来てはくれませんでしたからね」
そういう実妹は得意の熊縛りで兄を雁字搦めにしている。
船の上に上げられたマグロのようにじたばた暴れる兄をぎゅっと鎖で締めて、瞬は一輝のそばに膝をついた。
「どういうことだ、瞬!!」
「いずれわかります……氷河、お願い」
氷河は静かに頷くと右手を高く上げた。一輝の上にキラキラと氷の粒が降り積もり、やがてそれは塊となって彼の体を包んだ。水と氷の魔女の異名をとる水瓶座のカミュの愛弟子である氷河はフリージングコフィンを作れるだけの小宇宙と絶対零度を体得している。
あれよあれよと言う間に一輝の身体は氷の棺に閉じ込められた。
いつもは暑苦しい兄が氷の中にいるのは瞬とて少々気が引けたのだが、それでも同じ恋する女の子同士、思い思われる幸せを思えばこその苦渋……とは言いがたいが、とにかく決断だった。
「よし、これでパンドラへのプレゼントは出来たな」
物陰からごそごそと現れたアテナとハーデスは満足そうに微笑んだ。ハーデスは瞬をがっちり抱きしめる。
「ラダマンティス、アイアコス、ご苦労であった。ミーノスに連絡を取り、ここにパンドラを連れてこい」
瞬におんぶおばけしたままなので威厳もへったくりもなかったが玉命だったのでなんの疑問も不満も抱かずに動いた。ミーノスと連絡さえ取れればあとは自由行動だ。
「それからアヒル……じゃなかった、キグナスよ。この氷はどのくらいで溶ける?」
本来なら未来永劫溶けるものではないが、力を加減したのでもって五分だと氷河は答えた。
「相手が一輝だから五分持つかどうか……」
「だったら、パンドラさんが来ないうちに私たちは退散いたしましょう」
「やったー! ソーセージ食べるぞー!!」
元気よく両手を挙げた星矢に瞬が苦笑する。
「いやに乗り気だと思ったらドイツ観光したかったんだね、星矢」
「俺は何か新しい料理を覚えたいと思ってな」
「紫龍らしいね、氷河は?」
「なんとなく面白そうだったからな。あの一輝が女と、と思うと」
「それだ!」
一同びしっと何かに向かって人差し指を突きつけた。
「時間がありません、早くも氷が溶け出したようですし。費用は全額ハーデスが持ってくださるそうなので心置きなく食べ歩きましょう!」
「うむ、パンドラのために尽力してもらったからな。それくらい安いものだ」
アテナもハーデスも街歩きにふさわしい格好に着替えてから、一輝を置き去りにして繰り出した。



その頃パンドラは故郷である城を眺めていた。
聖戦の折にラダマンティスと聖闘士たちの奮戦のせいで荒れ果てていた城は完璧に廃墟と化していた。
だがそれでよかったのかもしれない。
この荒んだ箱庭には哀しい思い出しかないからだ。
両親と、仲良くしていた飼い犬と、使用人たち。そして生まれてくるはずだった弟妹。幼い少女の好奇心が禁断の箱を開けさせ、やがてすべてを殺してしまったのだ。
壊れてしまえば、無くしてしまえば。思う縁(よすが)もなくなれば悲しむこともないのかもしれない。
だけど。
だからこそ、出会えた一人の男。
ひとりぼっちになったパンドラは生まれたばかりの魂を抱いて、その器たる肉体を追い掛け回した。
その器こそが瞬で、彼女を守っていたのが一輝だった。
パンドラは欲しかったのだ――ハーデスの器としての彼女ではなく、自分が愛するはずだった妹を。
十三年という歳月。
「あれから、刻がたったのか……」
闇の中でハーデスの姉として過ごした十三年という時の中、世界はどこまでもモノクロで陰気だった。
そんなパンドラの世界に色を取り戻してくれたのが一輝だったのだ。
燃えるような炎の小宇宙、たぎるような真紅の血、神々しいまでに輝く不死鳥の聖衣。
「……一輝」
パンドラは腕飾りを見つめた。闇色の宝玉で作られたそれはなんの力を持たぬ人間に次元を超えるというだけの特別な能力を与えた。彼女は自分の世界を奪った冥王を討ってほしいと一輝に頼んで一度は息絶えた。
瓦礫の向こうから差してくる穏やかな陽光にパンドラは目を細める。
ああ、世界はなんて残酷で、でも美しくて。
そんな感傷に浸ってた彼女の背後にいきなり似つかわしくない爆音が響き渡った。
「な、なんだこの小宇宙は!?」
「ご案じ召されますな、パンドラ様。ほんの余興にございます」
普段着姿のミーノスが現れ、ほっとするパンドラではあったがやはり事態が見えずに混迷する。
「よ、余興?」
「はい。それよりも、こちらにおいでください」
ミーノスの言葉に困惑するパンドラだったのだが、ハーデスが今日一日は問答無用と言い置いていなくなったのでその言葉に従っている。
パンドラはミーノスの先導に従ってしずしずと歩き始めた。そして懐かしい庭先まで来ると途端にミーノスの姿が見えなくなった。
「ミーノス? ミーノス!?」
「やれやれ、私は残って撮影とはね」
目立たぬように物陰からこっそり最新式の動画対応デジカメを構えている。彼女の任務は撮影だけではない。もし一輝が逃げ出そうとしたらコズミックマリオネーションで取り押さえろと厳命されている。
パンドラはミーノスがいなくなったことで狼狽していた。
仕方なく彼女は糸を出してパンドラの手を引いた。
「えっ!? こ、こっちなのか?」
目に見えない力に惹かれるようにまっすぐに進めばそこに濡れ鼠の一輝。
パンドラは思わず目を見張った。
「一輝……一輝なのか?」
黒いドレスの裾をほんの少しだけ持ち上げて、パンドラはあのときのように一輝の背中に触れた。
でもそばには誰もいない。
はずなのにきょろきょろと周囲を見回し、パンドラは一輝を抱き起こすとやはり周囲を確認してから膝に頭を乗せた。いやに周りを気にする人だ。
「もしかして私の気配に気がついているのかもしれませんねぇ」
あの巨大ハープでラダマンティスに仕置きした女性だからと、ミーノスはカメラをズームインさせた。
「近づくと見つかってしまうかもしれません……しかしあのパンドラ様があのハープを振り回してラダをぶん殴ったというのは本当なんでしょうか」
本当はハープから発せられる謎の電撃を浴びせたのだが、真相を知っているのはパンドラとラダマンティス、そしてカエルだけだ。



その頃アテナとハーデスの一行はドイツの街並みを歩いていた。ラダマンティスとアイアコスもハーデスの護衛と言うことで着いて来ている。
星矢は目の前にどーんと盛られたソーセージとジャガイモにらんらんと瞳を輝かせていた。
「いただきまーす」
「星矢、喉に詰まらせないでね」
「うん!」
星矢は大きなソーセージをまるかじりしている。沙織もかぶりついてみたかったのだがお嬢様としての暮らしが長いせいが一口大に切ってから食べている。ザワークラウトというキャベツの酢漬けや、ドイツ風のグラタンなども並んでいて、テーブルはそれなりに楽しい雰囲気になっていた。
氷河と紫龍はほくほくに茹でられたジャガイモにバターを落としたものを食べていた。ジャガイモは氷河には懐かしい味らしい、どこか感慨深い表情をしていた。
鮮やかな緑と芳ばしい香り、主従を感じさせない笑顔。
冥府にはないものだと、ハーデスは瞑目した。
「うん、こういう食べ方も美味いな」
ラダマンティスとアイアコスは少し離れたところでグラス一杯だけビールを飲んでいた。
「ハーデス様が妹のアンドロメダと、パンドラ様が兄貴のフェニックスと、か」
「んー? ごちゃごちゃしてなくていいんじゃねーか? これ美味いな」
パンドラとハーデスを姉弟と呼べるのなら姉と兄、弟と妹という組み合わせは確かにすっきりしているなと思いつつ、ラダマンティスはグラスを傾ける。
アイアコスは護衛ということも忘れて飲み食いに専念している。
「お、おい、アイアコス……」
「なんだ? あ、あのドラゴンが食ってるの美味そうだな! すみませーん」
「アイアコス」
「だからなんだよ」
「俺たちの分は自腹だぞ」
ラダマンティスの言葉にアイアコスは食べかけのソーセージを詰まらせて呻いていた。
そんな男二人のやりとりを見ていたハーデスが隣の瞬と微妙に椅子をくっつける。
瞬はもともと食が細いのでソーセージを数本とゾワークラウトを食べるとそのまま沙織と共に今度はスウィーツに取り組んだ。何でも食べる星矢も一緒だ。
「ちょっと食べますか?」
「うん、余も食べてみたい」
ハーデスは瞬から一切れ食べさせてもらっている。いつのまにそこまで進展したのかと沙織は面白そうに、けれど安心した面持ちで笑う。
「あらあら、仲がいいのね」
楽しそうな沙織の言葉に瞬はほんの少し頬を染めたが冥王は自信たっぷりに笑って見せた。
「うむ、余と瞬とは仲がいいどころではないぞ、アテナよ」
「それはよろしいですこと」
その横で瞬と星矢が自分のデザートを交換し合っているのに気がついて、けれどハーデスはいい年した神様なので目くじらを立てかけたのをそっと押さえ込んだ。
「さて、パンドラとフェニックスはどうしておろうか」
「仲良くやっているといいですね」
灰褐色の髪を腰元に長く滑らせる女神は愛する聖闘士たちの幸せを願い、逆巻く黒髪の冥神は大事な冥闘士たちの未来を思う。



一輝が目を覚ましたとき、彼はパンドラの膝枕で寝ていた。
「……う?」
「気がついたか、一輝よ」
自分を見つめている女性の髪が金でも亜麻色でもないことに、一輝の思考が鈍る。自分の知人に黒髪の人間など紫龍くらいしか思い当たらない。だが枕にしているだろう肉の感触が男のものではないことに気がついて彼は自分の意識を凝縮する様に目を細めた。
聞き覚えのある声、温かい手。
「お前は……パンドラ!?」
驚いた一輝はかっと目を見開いて起き上がった。その勢いにパンドラも思わず仰け反る。
「な、何で俺は……」
「聞きたいのは私のほうだ、私が歩いていたらお前が濡れ鼠でここに倒れておったから……死なれては面倒なので介抱したまで!」
本当は嬉しいはずなのにパンドラはつい彼から目を背けてしまう。
けれど自分よりほんのちょっと年下の少年の背中だけはつい見つめてしまう――あの日最期に縋った、あの背中を。
傷を負わせ、殴られ、墓場に捨てさせ、そして最期を託した鳳凰の闘士。
「……介抱してくれた礼は言う。あいつらはどこだ?」
「あいつら、とは?」
「瞬たちだ! あいつらは俺に攻撃を仕掛けて不覚にも倒れているところを氷付けにしおった!」
「それでお前はべしょべしょに濡れていたのだな」
見れば一輝はすでに髪も服も乾いているようだった。鳳凰の聖闘士はこういうとき便利だ。
「よし、俺はあいつらを探して地獄を見せてやる……」
最愛の実妹にさえ手をかけようとする一輝にパンドラは思わず手を伸ばす。
「待て、一輝」
「なんだ」
「お前、このドイツの街で瞬様たちを探せるというのか? 流石に小宇宙は抑えておろう」
「む……」
パンドラの指摘に一輝は一文字だけで唸る。確かに一輝はこの町に不案内だ、ましてや今は普通の少年少女として暮らしている妹たちを探すのは容易ではあるまい。
「私でよければ、案内してやらんでもない」
「なに?」
「ふっ、私はドイツで生まれてドイツで暮らしたのだぞ。庭のようなものだ」
そういうとパンドラは優雅な仕草で立ち上がる。
「来るがよい」
パンドラは静かに草の上を歩き始めた。一輝が何も言わずについてくるのを背中に感じながら、彼女が内心で大漁旗を振っていたのは言うまでもないだろう。
その様子をカメラのレンズ越しに追っていたミーノスがひょっこり顔を出す。
「動き出しましたね、ラダとアイコに連絡しなくては」
ミーノスは隠し持ていた携帯電話を取ると短縮番号で登録しておいたラダマンティスを呼び出す。
「面白くなってきましたよー」
呼び出し音をイヤホンで聞きながらハンズフリーマイクに囁く。



自腹だと分かっても食べ続けるアイアコスに呆れてキャベツの酢漬けをつついていたイギリス人のラダマンティスは胸ポケットで震える携帯電話を手に取った。
「ミーノスか」
『はーい、ミーノスでーす! パンドラ様とフェニックスが城を出ましたよー。あなたたちを探して地獄を見せるそうです』
「わかった。では引き続き尾行を続けてくれ」
『はーい』
どこか楽しんでいるようなミーノスに苦笑ひとつくれて、ラダマンティスは通話を終えた。そしてまだ食べているアイアコスを置いてハーデスの側に歩み寄る。
「ハーデス様」
「なんら?」
くるりと彼のほうを向いたハーデスを見て、ラダマンティスは思わず引いた。バームクーヘンを頬張り、口元にカスをつけた姿はとても威厳ある神の姿には見えなかったからだ。
「なんだ? 言いたい事があるなら早く言え」
「はっ、パンドラ様が動かれたようにございます。フェニックスを連れて我らを探しているとか」
瞬がそっと手を伸ばしてハーデスの口元を拭うのをラダマンティスは微笑ましいとばかりに見ていたが顔色は変えなかった。
「兄さんが私たちを……」
「ということはふたりで街を歩くということね! これは間違いなくデートだわ!」
心躍らんばかりに微笑む女神アテナに瞬も笑う。
実の妹である自分を護り、愛してくれる兄には感謝してもしきれないが、それはそれ、妹としては兄にも幸せになってほしいのだ。
「では皆さん、こちらも食べ終わったことですし、次へ行きましょうか」
「どこ行くのさ、沙織さん」
まだ咀嚼していた星矢がきょとんと彼女を見つめる。沙織は口元を隠して笑った。
「ウフフフフ、ベルリンの壁とかお城とか、観光スポットはいっぱいあるんですよ。私たちが移動すればそのぶんパンドラさんは一輝とデートができるというものです。間違っても小宇宙なんか燃やしちゃいけませんよ? そうすれば一発で私たちは見つかってしまうでしょう」
「今ここにある分だけでも食べちゃっていい?」
「なるべく急いでくださいね」
「おう!」
星矢は目の前のソーセージを掻きこむと行儀悪くも立ったままもぐもぐと咀嚼する。星矢より九歳年上のアイアコスも同じように口からソーセージをはみ出させているのを見て、一同は笑いをかみ殺す。
聖闘士も冥闘士も同じ普通の人間だと思えた、ほんのささやかな風景だった。




黒衣を纏う麗しい令嬢と暑苦しい雰囲気のやさぐれた少年という不思議な取り合わせに街行く人は何事かと目を見張る。警察に通報したほうがよいのではないかと囁く者もあったが皆係わりになるのを恐れて口を噤んだ。
ふとパンドラが立ち止まり、荘厳な建築物を見上げて祈りの形に手を組んだ。
「一輝よ、見てみろ。これが有名な大聖堂だ」
「そうか。で、瞬たちがどこにいるのかお前にはわかるのか?」
「知らん」
噛みあわないようで噛みあっているような会話に二人は顔を見合わせて黙る。
「お前、知っているような口ぶりだったじゃないか!」
「私はドイツの街並みに詳しいだけで瞬様たちがどこにおられるかなど毛の先ほども知らぬわ!!」
大聖堂の前で諍いあう美少女と少年に観光客も以下省略。
一輝はフェミニストではなかったが流石に人目のあるところで彼女を殴るのは憚られて、わななく拳を抑えている。
「だいたい、まだドイツにおられるかどうかもわからんというのに」
「む……」
戦闘時におけるフェニックスの発動条件は“妹による召還”だ。その妹である瞬が召還しない限り彼は探し人のもとへ行く事は出来ない。城戸邸にいると分かっているならともかく小宇宙も燃やさずに移動されていると特定は不可能に近い。なんとも不便な兄だ。
「ときに一輝」
「なんだ?」
「……腹が減ってはおらんか?」
「む……」
さっきから簡単な単語でしかしゃべっていない一輝だが四字熟語や古語は得意だ。
「そう言われればそんな気がするが」
「うむ、ここから程近いところに食事が出来るところがあるゆえ、そこに行こう」
「俺は金は持っていないぞ」
「ふっ、案ずるな。立て替えておいてやる」
一輝を立てておごってやると言わないあたりがパンドラらしい。
「行くぞ」
くるりと裾を翻すパンドラは普通に育っていれば本当に令嬢として幸せに暮らしていたのだろう。闇の中でハーデスの魂を護ってきた彼女は今この陽光のもとに何を思うのか。
素直に後ろをついてくる一輝に、パンドラは再び内心で大漁旗を振り回すのだった。



沙織一行は一輝とパンドラからかなり離れた場所で散策を楽しんでいた。
そこにラダマンティスの携帯が鳴る。
「ミーノスか?」
『はーい、ミーノスでぇす。フェニックスとパンドラ様はただいまお食事中どえす、もぐもぐ』
「……食いながら話すのはやめろ」
ごくんと嚥下する音が聞こえてきて、ラダマンティスは思わず携帯を耳から話した。
「ミーノス、お前……」
『だってー私だけ尾行なんですよー、貴方達よりちょっとどころじゃなく優秀なばっかりに。ああ、なんて損な役回りなんでしょう』
言いたい放題のミーノスに流石に通話を切ってしまおうかと親指が動きかける。が、ぐっと押し留めたのは自分の通話に一同が聞き耳を立てている現状だ。ハーデスと瞬は期待を込めた瞳でキラキラと自分を見つめているのでたまらない。
ラダマンティスは通話を止めて瞬に携帯を差し出した。
「お話になりますか」
未来の王妃に対する彼の言葉遣いは丁寧だった。瞬は礼を言って受け取るとミーノスと二言三言交わして、彼に携帯を返した。
「なんですって?」
興味津々の沙織に瞬もにこにこ笑って答えた。
「今ふたりで食事してるんですって。さっきまで私たちがいたお店で」
「おお〜」
青銅の少年たちは驚きと喜びの入り混じった声を上げる。瞬はふと視線を空の向こうに投げた。
「瞬?」
「私、嬉しいんですよ。兄さんには小さい頃から私のことで苦労をさせてきましたから……聖闘士になるための修業先を決めたあの日も……。兄さんにはちょっと悪いかなって思ったんですけど、でも私は兄さんにも幸せになってほしくて……」
「それが、パンドラさん?」
「今はきっとそうです」
ともに地獄を見たふたり、この日のもとにあって幸せになれるのなら。
瞬はそっとハーデスの手を引いた。
「行きましょうか。そこで食事をしているならすぐに追いつかれますよ」
「……そうだな」
この笑顔をいつまでも守っていたい。闇の底に住まう自分だけれどそばにいてくれるのなら、精一杯君を愛そう。君が石榴数粒ぶんしか愛してくれなかったとしても。
ハーデスはそっと瞬の手を握り返した。
「で、どこへ行く?」
「ウフフフフーッ、じゃあとりあえずここから離れましょうか」
次なる観光スポットに向かうべく、一同はぞろぞろと歩き出した。



そんなこんなで食事と散策という定番のデートをしている一輝とパンドラだったが、ついに瞬たちを見つけることが出来ずに夕暮れを迎えていた。
パンドラは一輝がとうとう隣を歩いてくれなかった事に少しがっかりしたのだがそれでも彼と過ごしたこの時間は人生で最良の時間だと思えた。
青かった空は真紅の太陽を地平線の向こうへと送っている。世界はやがて闇夜を迎えるのだ――宇宙の時間からすればほんの一時の闇を。
「……見つからなかったな」
「瞬たちはどこに行ったんだろう……」
「もう日本に戻っているかもしれんぞ。私もハーデス様が地上においでになる時間なのでそろそろ冥界へ戻らねばならんし……」
そう言って立ち上がったパンドラはふとドレスの裾を踏んづけて転びかけた。
そこに、一輝の熱い腕。
「……大丈夫か」
「あ、ああ……」
思わず近づいた顔と顔、パンドラは一輝に悟られないようにさっと体勢を立て直した。そして一輝が触れていた場所を無意識に自分の腕で隠した。
「今日は振り回して悪かったな。俺は日本に戻る」
「ああ……」
「……お前は城に戻るのか?」
パンドラは背中で語る一輝を見つめて小さく肯定の返事を返した。
すると一輝がすたすたと歩き出す。
「一輝?」
「俺はフェミニストじゃないが……城まで送ってやる。受けた恩は返しておかないと気が済まんのだ」
行くぞとぶっきらぼうに言い捨てて、一輝は歩き出した。
パンドラがシューズの踵を高らかに鳴らして走り寄り、そして少し離れて隣を歩き出した。



冥界に戻ったパンドラはうきうきとした笑顔をどこへやら、いつものポーカーフェイスに変えて冥王の玉座のそばに控えた。
「ハーデス様は、すでにお出かけになられたか……」
実は今朝から地上に出たまま戻ってきていないのだが彼女はそれを知らない。
「パンドラ様、お戻りにございましたか」
冥衣の音も涼やかに現れた銀髪の淑女が彼女の前に頭を垂れた。
「ミーノス、そなた私を置いてどこに行っておったのだ」
「申し訳ございませんが、その件に関しましてはハーデス様の厳命によりお答えすることは出来ません」
きっぱりと答えたミーノス、これ以上彼女を問い質してもダメだろうと、パンドラは諦めて問いを変えた。
「……して、ハーデス様は?」
「パンドラ様と入れ違いに、アンドロメダ様のところにお出かけになられました」
「そうか……では私は部屋に戻るゆえ、なにかあったら呼べ。よいな」
「はっ」
ミーノスは遠ざかるパンドラのドレスの音を聞きながら急いでトロメアに戻るのだった。
「ラーちゃん! アイちゃん!」
「その呼び方はやめろ!」
トロメアで待っていた同僚の怒声をものともせず、ミーノスは今日の仕事の成果をセットした。
「ふふふ、ちゃんと撮れてますよー。いい感じでしたよー。さて、ハーデス様にお見せする前にチェックしておかないとね」
ミーノスは会議用のスクリーンを広げると部屋の明かりを消した。
「俺、フェニックスが十五歳だなんて知らなかったよ、もっと年上かと思ってた」
「俺もだ」
ミーノスが撮影した画像はパンドラが一輝を発見したところから始まっていた。
そこに映っているパンドラはいつもの彼女ではなく、十代の恋する少女そのものだった。ハープでラダマンティスをぶん殴るようには見えないとミーノスは思ったのだがそれは彼女の遥かなる誤解である。
「隣を歩けばいいのにな!!」
「どちらも照れ屋さんなんですよ、アイちゃん」
「だからアイちゃんはやめろ!!」
「ウフフフフ」
騒ぎ立てるアイアコスをミーノスがコズミックマリオネーションで大人しくさせ、ラダマンティスは黙って続きを見ていた。
武骨なんだか幸せそうなんだかよく分からないふたりの、恋とは呼べないような恋。
それでも似たような時間を過ごして来た少年と少女はともに同じ道を歩んでいる。
「それだけでよかったんですよ、パンドラ様には。そしてハーデス様もね」
闇なる少女は鳳凰の翼を、冥なる神は銀河の王女を。
それぞれに出会う幸せはその過程も感覚も違う。
「不思議ですねぇ」
「ん?」
「殴って殴られて、それでも恋は生まれるんです。ねぇ、ラーちゃん」
「ラーちゃんはやめろ!!」
「おや、ルネにはラー様って呼ばせてるでしょう?」
いきなり秘密を暴露されて狼狽するラダマンティスの動きをまたしても操り糸が奪う。
「なになに!? お前ルネと付き合ってんの!? 知らなかった!!」
カクカクと不思議な舞いを踊る男ふたり。ラダマンティスはアイアコスを黙らせようと腕をふりまわすが思うようにはならない。それが宇宙的繰糸の力だ。ただ口だけは達者に動くらしい。
「ええい、黙れ!! お前らDVDを見る気があるのか!?」
なにやら騒がしいトロメアに渦中のルネが決済を求めて書類を持ってきたことで、一同はまた大騒ぎとなった。



そして地上の夜。
パンドラの誕生日を祝い終えた瞬たちは戻ってきた一輝の怒りを抑えるのに、笑いつつも必死だった。
「お前らよくも!!」
「兄さん、兄さんにも幸せになってほしいっていう妹心が分からないんですか!?」
「兄である俺を氷づけにして放置して、それのどこが幸せだ!! 大体俺の幸せを思うというなら瞬よ! 今すぐそこの超次元寝癖や管理職弟と別れろ!! お前に相応しい相手は俺が見つけてやる!」
喚きたてる一輝を遠巻きに見つめている星矢は、夜はまだ暑いと、氷河に作ってもらったかき氷を食べていた。
「見つける気はあるんだろうか」
「いや、おそらく未来永劫見つかるまい……」
氷河の問いに答えたのは紫龍だった。紫龍には五老峰に残してきた一つ年下の可愛い恋人がいる。
「蟹座のカノンもよく言っておるが、超次元寝癖とは聞き捨てならんな。余のどこが超次元だ!!」
「全部だ全部!!」
「瞬、余は寝癖がひどいのか?」
「まあ、多少は」
今更かよ! 多少なのかよ! とのツッコミも聞こえないまま、一輝は瞬に言葉巧みに言い包められ、しぶしぶのうちに部屋を出ていってしまった。
ドアの向こうで、一輝は深くため息をついた。
幼かった妹はすっかり一人前になり、自分の行く末を自分で選ぼうとしている。そして兄の幸せを願うことの出来る優しい女性に育っていた。それは嬉しいことではあったのだが、同時に妹がもう自分を必要としていないように感じられて少し寂しくもある。
けれど少年は大人へ。
いつか妹と入れ違いに迎える、自分だけの誰か。
一輝がその“誰か”に出会ったと自覚できるのはいつなのだろう。



楽しかった地上での一日を終えて冥王は愛しい少女にしばしの別れを告げ、冥底への帰路につく。
彼の本拠であるジュデッカに辿りつくと玉座の傍らにはいつものようにパンドラが控えていた。
彼女はハーデスの姿を見止めると穏やかな微笑ひとつ浮かべてゆったりと傍らに腰を折る。
「お戻りなさいませ、ハーデス様」
「うむ……」
着座したハーデスは感じた違和感にふと隣の淑女を見つめた。その視線に気がついたのか、パンドラもそっと冥王の前に小首を傾げ、おずおずと問うた。
「いかがいたしましたか?」
「パンドラよ、そなたなにか雰囲気が違うような……」
ハーデスの指摘にパンドラは即座に否定したのだが神を誤魔化すことは出来ない。ただパンドラにとって救いだったのはハーデスが雰囲気の違いに気がついてもそれがどうしてなのか、どこなのかわからないということにあった。
「ご、御用がなければ職務につきますので失礼させていただきます」
パンドラはハーデスの返事を待たずにそそくさとジュデッカの玉座の間を飛び出した。
入れ違いにやってきたミーノスがハーデスに拝謁する。
「昨日はどうであった?」
「はい、上々にございます。後ほどお目にかけたく存じますが」
冥衣の兜をつけていない彼女は月光をそのまま纏ったかのような美しい銀髪だった。ミーノスの言葉にハーデスは満足げに頷いた。
「うむ。楽しみにしておるぞ。さてミーノスよ、聞きたいことがあるのだが」
天駆ける翼を持つ天貴星・グリフォンの冥闘士は涼やかな目許に笑みを刷く。
「どのようなことにございましょう」
「パンドラが、いつもと違うような気がするのだが、余には分からぬ」
冥王の問いにミーノスははやり笑みを隠せなかった。恋をすると神とは言っても男、ここまで変わるものかと。
「アンドロメダ様のことならお分かりになりますのに」
「からかうでない、ミーノスよ」
ほんの少しだけ不満を滲ませた声、図星をつかれた冥王の些細な怒り。ミーノスは喉の奥に笑いを隠して頭を深く垂れた。
「はっ、御無礼を。パンドラ様のお召し物が黒ではなく紺になっておりました。薄く化粧もなさっておいででしたよ」
「ほお……」
女の視線は鋭いなと感心しつつ、冥王はミーノスを下がらせた。
ひとりになった冥王は呟くように言う。
「瞬は優しい男が好きなのだ。パンドラに幸せになってもらいたい想いは十分にあるのだが……あやつを利用して余の優しさを示す……余は、偽善で卑怯なことをしておるのだろうか……」
少し考えて、そんなことはないと否定する冥王も恋に悩む男のひとり。
ときには多少強引で卑怯な手段を使わなければ――恋は綺麗ごとだけではないのだ。
願うのはたったひとつ――愛しい君の心だけ。



傷つけあうことでも恋が生まれるなら
願い事はひとつ
あなたのそばに
望む限り、出来る限りそばにいさせて





≪終≫





≪お誕生日おめでとう≫
九月三日、パンドラ様お誕生日おめでとうと言うことで書いてみました。一輝×パンドラ。
『パンドラ様のお誕生日に一輝をプレゼントとしよう!』と目論む冥王と聖闘士たちと巻き込まれた冥闘士たち。ミーノスだけが異様に目立っているのは気のせいですwww 
しかしまあなんだ、一輝がパンドラと、瞬がハーデスと結婚したら冥界はこの兄妹に乗っ取られたも同然なんだなーとぼんやり考えてみる。
とりあえず、お誕生日おめでとう! パンドラ様!注: 文字用の領域がありません!

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