タイムリープ 石段を一段一段登って見つけるのは私の心の欠片 最後のピースはどこにあるの? 「おやおや、アンドロメダはまたたっぷりお悩みという顔をしておるのう……」 若草色の髪が鮮やかな先代牡羊座のシオンは隣に座っている瞬の柔らかな頬をむにゅりと引っ張った。 「い、いひゃいでしゅよぉ、しふぉんしゃんっ」 「おお、流石13歳。やわやわな肌をしておる」 「いい加減になさい、お師匠。瞬が困ってるじゃありませんか」 闘神アテナの聖域は十二の宮からなり、その宮をそれぞれ黄金聖闘士が守護している。 第一の宮である白羊宮を守護するのは牡羊座のムウ。淡い紫色の髪を房飾りのついた緋色の紐で結わえている。 スパイスが香り立つチャイは瞬も大好きで、それを淹れてくれるこの宮の住人も大好きだ。 「瞬は玩具じゃないんですよ、師匠」 「言われずとも分かっておる。だがとても愛らしいではないか。アンドロメダよ、そろそろ冥王かカノンか、どちらかと寝たであろうな!?」 今度は『寝た』という言葉の意味が分かって瞬はぼっと頬を赤らめた。 シオンがほら見ろと言わんばかりにムウを見た。 「見よ、この初々しい反応を。まだだーれも瞬には触れておらぬぞ! 盛ってばかりのおぬしらとは大違いじゃ」 瞬は女子の聖闘士の中では最年少、鎖に身を絡め生贄とされたエチオピアの王女アンドロメダを模した薄紅色の聖衣を纏う青銅聖闘士だ。 その瞬を巡ってふたりの男が争いを続けているのは周知の事実。 聖闘士としては有能でも普通の少女としての瞬は色恋沙汰にはこれでもかというほど疎かった。 なのでふたりの男から突然の求愛を受けて瞬は困惑仕切りなのだ。 夜毎乙女の部屋を訪れて愛しいと囁き続けるのが冥王ハーデス、順番を間違えていきなり強引な求婚からしてしまったオリンポス十二神が一柱。黒衣の彼は瞬を我が妃にと望んだ。 対するは海と陽の運命を併せ持った双子座の黄金聖闘士にして海龍の海闘士でもあったカノン。瞬とは15歳年の離れた彼はハーデスのいない隙を狙ってあくまでやんわりと触れてくる。 そんな男たちを牽制するかのように不死鳥の兄一輝が灼熱の翼の下に実妹である瞬を庇護している。 聖闘士最勇、銀翼のペガサス星矢も瞬を友とも姉とも慕い、そばを離れたがらない。 揺れる乙女心をどちらと決められないまま、瞬はぱふっとシオンに抱きついた。 「シオンさん……」 「なんじゃ、アンドロメダ」 瞬はシオンの豊かな胸の感触を頬に感じながら静かに目を閉じた。 「私、恋をしたことがなかったんですよ……いえ、人を好きになったことはあるんですけど、それを恋だとは気がつかなかったんです……」 「ほう、それで?」 「聞かせてほしいんです、恋のお話……」 「何のために?」 シオンの手がそっと瞬の髪と頬を撫でた。瞬は顔をあげ、シオンの深い色の瞳を見つめる。 「何も知らないじゃ済まされない時期に来てると思うんです……だから……」 人を好きになる、その思いに応える努力をしてみようと瞬は決めていた。 雄大にして繊細な銀河を湛える瞳をまっすぐに向けられて、シオンはよしと席を立った。 「なにをするんです、お師匠」 「ちょっと全館連絡を。すぐ終わるゆえ待っていろ、アンドロメダ」 するとシオンは穏やかに小宇宙を燃やし、それが声となって聖域を包んだ。 「なんか、いやな予感がします……」 「ええ、私もですよ」 シオンが何を言うつもりのか、ムウはうすうす感づいていた。 「サガー、お弁当持ってきたよー」 現在教皇として在位しているのは双子座のサガ。彼は瞬に好意を寄せるカノンの双子の兄だ。 そんな多忙な彼のもとにバスケットに入れた昼食を運ぶのがひとつ下の双魚宮を守護する魚座の黄金聖闘士、アフロディーテ。ふたりは9年にわたって交際を続けている恋人同士だった。その9年という年月は決して穏やかな日々ではなかったけれどふたりの絆は『双』という文字が示すように深く強く結ばれている。 アフロディーテはにっこりと笑って空色の髪を結っていたリボンを解いた。 「毎日すまないね、アフロ。なんでこうも毎日毎日毎日毎日問題が出てくるのだろう……」 「戦いがないだけいいと思うことにしようよ、サガ。私はあなたがこうして教皇の間で、忙しくても怪我しないでいてくれるほうが嬉しいな」 「アフロ……」 それは私も同じだよと、サガはアフロディーテの腰を抱きよせ、自分の膝の上に乗せた。 「やだ、サガったら」 「君といるほうがいちばんの休息になるんだよ」 と、のんきに過ごしていた二人の周囲に立ち込める萌黄色の小宇宙、まぎれもない前教皇シオンのそれにサガもアフロディーテも何事だろうと顔を見合わせた。 キンコンカンコン、と鉄琴の音がする。 その音に聖域にいた黄金聖闘士全員が何事だと顔をあげた。 シオンが自身の声を小宇宙に重ねて言った。 『あーあー、マイクテスマイクテス。全宮聞こえておるかのー。聞こえているものとして問答無用で話を進めるー。たった今アンドロメダが十二宮侵入を試みたーー。うろたえずに総員配置について迎え撃てー、あ、聖衣は要らぬぞ。なるべく二人一組でなー、茶菓子など忘れぬようにーー。以上じゃ!!』 今度の鉄琴音は放送終了の合図。シオンは小宇宙通信を終えた。 「これでよし、と。アンドロメダはたくさんのコイバナを聞く事が出来よう」 応答もないまま通信を切ったので、十二宮の住人のほとんどがぽかんと口をあけたままであることなど、シオンは知る由もない。 サガとアフロディーテは再び顔を見合わせる。 「瞬が……十二宮侵攻? なんで?」 「知るか」 サガはがっくりと肩を落とす。瞬が何をしに十二宮侵入を試みているのかは知らないが、余計な問題が増えたことだけは確かだ。 よしよしとアフロディーテに髪を撫でられて、サガはようやく顔をあげることが出来た。 そのころ瞬は白羊宮でひっくり返っていた。 ちょっと恋の話が聞きたいといっただけなのに何故に十二宮侵攻まで話が進んでいるのだろうか。 「ムウ……」 「行くしかないでしょうね」 ムウはふうとため息をついて瞬の背中を撫でた。 「大丈夫ですよ、瞬」 瞬を見つめるムウの目は優しかった。彼女はいつも穏やかに笑っていて、滅多なことではその黄金の牙を剥かない。 「黄金聖闘士といっても中身は普通……十中八九普通と思われる人間です。その心もね。そんなに気負わずにお話を聞いていらっしゃい」 ムウの言葉に瞬はやっと笑顔を見せた。 懇意にしているアフロディーテは瞬にとって女性としてのお手本でもあった。困ったことがあれば何でも言ってと差し伸べられた手を何度かとったことがある。 そうするだけの理由があるのよと、アフロディーテが少し寂しそうに笑ったのを思い出した。 聖域に蔓延っていた邪悪の存在に気がついていながら黄金聖闘士の誰しもそれを払拭しようとはしなかったし、出来ないままでもいた。そしてそのつけが聖闘士になったばかりの幼い少年少女に回されてしまう。 こと、この瞬は師であり初恋の人でもあった白銀聖闘士、ケフェウスのダイダロスを失っていた。 大人たちは少年少女から人間として最良の時間を奪い続けた。 だから、今こそ返してあげたいと願う。 「お行きなさい、時間制限はナシです。あなたの気が済むまで、あなたの心を拾っていらっしゃい」 戦いの真っ最中に捨てるか落とすかしてしまった、少女の心を。 瞬は力強く頷いた。 「行ってきます……」 ぺこりと頭を下げ、くるりと背中を向けて。 翻るバルーンワンピースの裾も軽やかに亜麻色の髪の乙女は白羊宮を後にした。 「うん、やっぱりアンドロメダはかわいいな」 瞬の背中を見つめて笑うシオンに対し、やれやれとムウがこめかみに指を宛てる。 「師匠、あの放送じゃ瞬がコイバナを聞きに行くんだってわからないじゃないですか」 「……そうかのう?」 ちょっとずれてるシオンは瞬の礼儀正しさがあれば大丈夫だと思っている。 白羊宮の次は金牛宮。黄金聖闘士の中でも大きな体躯を誇る牡牛座のアルデバランが守護している。 彼は獅子座のアイオリアと共に瞬の来訪を待っていた。 「あ、来たよー。瞬あそこにいるよー」 アイオリアが無邪気に飛び跳ねるのをアルデバランは笑顔で見つめている。 二人の前までやってきた瞬は深々と頭を下げた。 「こんにちわ。アルデバラン、アイオリア」 「よく来た。歓迎しよう」 アルデバランの大きな手が瞬の小さなそれをそっと握った。力を加減しないと折ってしまいそうなほど、瞬の手は細かった。 けれど手の細さと掴める希望の大きさは比例しない。 アイオリアはにこにこと瞬の背中を押した。 「さ、入って入って。急だったから碌なお菓子用意してないんだけど」 ショートカットにしたブロンドは獅子のたてがみのように美しい。瞬はそんなと手を振った。 「私こそ急に押しかけちゃって……と言いますか、押しかけることになってしまって……」 「いいんだよー、私もアルデバランも退屈してたんだからー。ねー?」 アイオリアの笑顔にアルデバランもにこりと笑う。 「さあ、遠慮せずに」 「はい」 アルデバランに引かれ、アイオリアに背中を押されて瞬は金牛宮に入った。 「恋のお話?」 こっくりと頷いた瞬に黄金聖闘士は顔を見合わせた。 「瞬がハーデスとカノンに好きだーって言われてるのは知ってるけど……私、そういう難しいことはよく分からないや……」 「すまん、ワシもよく分からない」 7歳の頃からずっと一緒にいて、それが当たり前になっていた。恋とか、そんな自覚がないまま13年の時を重ねて今日に至る。 恋という形がなくても仲良くできるという好例であった。 「でもさ、好きって気持ちがいっぱいあるのは嬉しいよね。瞬はカノンもハーデスも好きなんでしょう?」 「ええ……ふたりとも好きです」 立場も種族も全く違うふたりが瞬に向ける思いは同じ。 恋しさと、そしてそれゆえの困惑と――そして瞬が二人に向ける思いも今は同じだ。 「うーん、でも結婚となったらいくら好きでも両方と結婚するわけにはいかないよねぇ……」 やっぱり難しいやとアイオリアは苦笑した。 「ごめんなさい、突然こんな事……」 瞬がうなだれると亜麻色の髪がさらりと揺れて、長い前髪が顔を隠した。 アルデバランもアイオリアも困った様に顔を見合わせる。 「あー、元気出して。ほら、シュラとかカミュだったら何か教えてくれるかもしれないよ?」 そっと肩を抱いて頬にちゅとキスしてくれるアイオリアの優しさに瞬は顔をあげる。 アルデバランも笑みを絶やさないで瞬を見守っている。 「あのね、大事なのは瞬が素直な気持ちで誰かを好きになることだと思うの」 「ワシも、そう思うよ」 「……はい」 いつも素直でいることは大事だと、瞬はもう一度自分に言い聞かせた。 「ありがとうございました。私のためにお時間を割いていただいて」 「頑張ってね、瞬」 「はい!」 ご馳走様でしたと瞬は丁寧に頭を下げて金牛宮を後にした。 「みんな、どんどん大きくなるね……」 アイオリアは若き青銅聖闘士たちを思い浮かべた。 聖闘士最勇のペガサス星矢は亡き姉の射手座の黄金聖衣を纏っていくつもの奇跡を起こしてきた。その傍らに三人の少年と一人の少女。彼らは幾多の闘いの中で手を取り合い、見つめ合って成長してきた。 そんな五人の中で瞬だけが一足先に不思議な恋の階段を上っている。 アイオリアははるか遠い人馬宮に思いを馳せた。 (お姉ちゃんも、見守ってあげて……) そして瞬が人馬宮に着いたら何か教えてあげてほしいと、アイオリアは祈りの形に手を組んだ。 金牛宮の次は双児宮。ここを守護するのは双子座のサガとカノン。ただし現在サガは教皇職にあるため、この双児宮に戻ってくる事はほとんどない。したがってここにいるのは。 「カノン……」 瞬は胸元にきゅっと拳を握った。 何の手立てもないままいきなり答えを求められているような気がして、瞬は一歩後ろに引いてしまった。 そんな少女の背中をカノンが受け止めた。瞬の体が一瞬びくんと震える。 「逃げるな」 張りのあるバリトンに耳をくすぐられて瞬は思わず身を竦めた。けれどすぐに姿勢を正す。 彼女は振り向かずに言った。 「そんな、逃げるだなんて人聞きの悪い……」 「まあ、俺も逃がすつもりもない。言っただろう、君を得られるなら俺は鬼にでも蛇にでもなると」 カノンの腕が瞬の腹に回された。小振りな乳房のすぐ下にある腕がいつ昇ってくるかと瞬は気が気ではない。 そんな少女の心を読んだかのようにカノンがさらに強く瞬を抱きよせ、少し屈んで耳の裏にふと唇を寄せた。 瞬の手がカノンの腕を掴む。 「やっ……」 瞬がじたばたと暴れてもカノンは離そうとはしなかった。けれどあまりイタズラがすぎると薄紅色の激しい気流に襲われかねないので程よいところで止める。 「ところで、何の用だ。君がわざわざ十二宮めぐりをするなど」 「あのっ、とりあえず手を……」 「逃がさないと言ったはずだ。君のこの耳は飾りか?」 カノンの腕が瞬の脇をぐっと抑え、その手で顎を掴む。舌先を耳の中に差し入れ、吸い付いた。 「やっ、やめてっ…あっ…!」 「フン、飾りではないようだな」 瞬の片肘がぐんっとカノンのわき腹を打つ。 「ぐっ…!!」 カノンの腕が緩まったとたん、瞬がひらりと身を返す。頬を真っ赤に染め、目尻に涙をためながら手首でしっかり耳を拭いた。 「私も、言いましたよね? あんまり甘く見るなって」 可憐な容姿からは想像できないほど瞬の身のこなしは軽い。本気を出せば神さえ凌駕するのだから恐ろしいと言うかなんと言うか。 結局イタズラまがいの抱擁のせいでカノンは今日も彼女の機嫌を損ねたようだ。 「次に進んじゃいます」 「ちょっと待て、悪かった。謝るから」 カノンがぐっと瞬の手首を掴んだ。振り返った少女は一瞬だけ笑い、けれど悲しそうに目を伏せた。 手首を掴むことでしか、行かないでと言えない不器用な男。 そんな男を可愛いと思ってしまう未熟な少女。 カノンはすぐに瞬の手首を離した。 「すまない、掴むなと言われているのにな……」 「手首フェチなんですか?」 「は?」 瞬の口から出た単語にカノンが一瞬詰まる。誰だ、瞬にそんな単語を教えたのは、と。 「誰がそんなことを言った」 「アフロディーテとサガが……いつも手首を掴まれるって話したらそう言ってました」 「…………」 カノンはぐっと上を見上げる。兄のいる教皇の間とアフロディーテのいる双魚宮はまだ先だ。 が、瞬がじっと自分を見つめているのに気がついてカノンはふと視線を戻した。 「……結局のところ、何しに来たんだ」 「……忘れてました」 双児宮は意外と綺麗に片付いていた。ときどき城戸邸を訪れるカノンはキッチンに立つ瞬と紫龍を手伝う事が出来る。 「一人暮らしが長かったんで、ひととおり何でも出来る。意外か?」 「いいえ。たまごをそっと持つあなたですから」 勧められた椅子もシンプルで、瞬はカノンと向かい合わせに座る。サガと全く同じ顔をしているのに彼といるように感じないのは双子でありながらその小宇宙が全く違うからだ。 「コーヒーでいいか」 「はい……えっと、出来ればお砂糖を」 カノンはテーブルの上に白いマグカップをふたつ置くと続いてシュガーポットとマドラーを持ってきた。黙って瞬の前に差し出すと彼女は礼を言って受け取った。 真っ白なキューブシュガーを2個、小さなトングで掴んでコーヒーの中に落とす。 瞬の瞳が懐かしそうに揺れたのをカノンは不思議そうに見ていた。 「コーヒーなんか飲むのか?」 「ええ。私の先生が好きだったんです……」 灼熱と極寒が交互に襲い来るアンドロメダ島で唯一の嗜好品がコーヒーと僅かな砂糖だったと瞬は言った。 「私はまだ子供だったからあんまり飲ませてもらえませんでした……」 何をしても、何を見ても、瞬は亡くした師を思い出す。ケフェウスのダイダロスが既にこの世の人でなかったとしても少女の心の中で彼は初恋という形をとって生き続けるのだろうか。 濃い琥珀色の液体は闇に似ている。 「君がちょうど生まれた頃かな……俺がサガの手でスニオン岬に入れられたのは」 瞬がふと顔をあげる。カノンはコーヒーを飲みながら言った。 「今思うと、愚かだったんだな、俺は。悪という名の闇に平気で足を突っ込んだんだ。サガのように苦しむ事もなく、あいつ以上に力こそが正義だと思っていた……」 「カノン……」 地上を制圧するためには赤子のアテナでは何も出来ぬと、カノンはサガを唆し、アテナを殺害させようとした。 それがすべての始まりだった。序章の序章は双子の少年たちによってその幕を開ける。 そして13年という月日が流れた。 「あとは知ってのとおりだ。海龍の海将軍として地上と大海の制圧に乗り出して……それも悉く挫かれた。その後の俺はアテナに許しを乞うて、こうしてここにいることを……君を想うことを許された」 瞬の手がぎゅっとカップを握る。 まだ温かいそれが泣き出しそうな心を辛うじて繋ぐ――何に泣くのかは分からないけれど。 「誰だって、闇は嫌いなんです。どんな命も闇から生まれてくるのに」 「瞬……」 「でもあなたはちゃんと光を見つけられた。アテナがあなたに光をくれた。それに手を伸ばすことが出来た」 カノンがまっすぐに目の前の瞬を見つめた。亜麻色の髪の少女はにこりと笑う。 その微笑をずっと見ていたい。 怯えさせないように、壊さないように。 だけど今の自分の手は壊すことしか知らないような気がした。 「君は俺にとって……アテナとは違った意味で特別な光なんだ。ずっとずっと守っていきたい」 ハーデスなんかには渡さない。 そのために鬼にでも蛇にでもなると決めたけれど少女はときにその上をゆく般若となる。 相手が自分だろうとハーデスだろうと、激昂する姫君には容赦の欠片もない。 28歳の健康な男子であるカノンは女性の体を知っている。けれどその心を手に入れるためのアプローチの仕方を彼はまるで知らなかった。 たったひとつ分かるのは強引に奪わないことだけ。 奪ってしまうのは簡単だがそれでは体を手に入れられても心は自分を見向きもしないだろう。 「奪ってしまいたいよ、君を。だけどそれじゃ君は俺を愛してはくれない」 カノンの言葉に瞬は小さく笑った。 自分を愛していると囁く黒衣の神様がプロポーズのやり直しにきた時にそういったのを思い出したから。 「何がおかしい」 「いいえ。あなたもハーデスも似てるなって思って」 これにはカノンが不快感を露わにする。 「あんな超次元な寝癖の節穴神と一緒にするな」 「だってハーデスも同じこと言いましたもん」 瞬は懐かしい香りのコーヒーで唇を塗らした。遠い海の向こうに眠る初恋の人をまた思い出す。 「コーヒー、ごちそう様でした。私はちゃんと答えを出します、あなたもハーデスも、誰も傷つけない…寂しくさせない恋なんてないから……だから」 カノンがばっと席を立つ。 彼は椅子ごと瞬を抱きしめた。 「あの……カノン」 「好きだ、君を愛している。そして俺を選んでほしい。そのための努力は怠らないよ」 「私も、です。何も知らない、分からないままじゃ、おふたりに失礼ですから」 男と神と少女は恋愛のいろはを知るためにそれぞれの努力を重ねる。 そのために少女はこの十二宮の石段を登っていく。 次の宮を目指す瞬の小さな背中を見送ってカノンは呟いた。 「君は俺の初恋なんだ……」 彼の心を如実に示すかのように、煌く陽光と月光を併せ持つ髪がざわりと風に揺らめいた。 続く巨蟹宮の住人は蟹座のデスマスク。彼はまっすぐに、何年も一人の女性を愛し続ける強さを持つ。 瞬はあまり話したことがないが、彼が恋人に対して見せるその直向さは恋をはじめたばかりの少女にとって憧れであり、お手本だった。 「ごめんくださーい」 白亜の宮に響く少女の声。だが返事はなかった。 「……いないのかな」 全館放送がかかっているはずなのに、と瞬は首をかしげた。再度大声で呼びかけたが返事がない。もしかしたら買い物に出かけていて聞いていないのかもしれない。しょうがないやと瞬は素通りする事にした。 「通りますよー」 フラットシューズの足音も静かに瞬は巨蟹宮を抜けた。 実はデスマスクは自室にちゃんといた。しかしヘッドホンを使って大音量で音楽を聴いていたので瞬の来訪はおろか放送さえ聴いていない。 彼とはこの先の磨羯宮で出会うことになるが、それはほんの少し先の話。 さらに先に進むと二頭の獅子が玄関先を飾る獅子宮にたどり着く。ここの守護者である獅子座のアイオリアとは金牛宮で会っているので瞬はここも通り抜けた。 ギリシアは冬を除けばほとんど雨が降ることはない。今日も眩い金の日輪が聖域を照らしている。 長い石段を一歩一歩。少女は額にうっすら滲んだ汗をその細い腕で拭った。 「ふう……」 聖闘士だからこれしきで息が上がるわけではない、暑さも平気だ。 次の処女宮でちょうど半分登ってきたことになる。 だけど出会った黄金聖闘士はシオンとムウを除けばたったの3人だけ。しかもそのうちのひとりは渦中のカノン。 「疲れたかね?」 立ち尽くしていた瞬の背後に優しくかかる声。振り返ればそこに神に近い男がいる。 「シャカ……」 閉じられた瞳が綺麗な色をしているということを瞬はちゃんと知っている。同じ段に立つ二人はにこりと笑いあった。 「こんにちわ、シャカ」 「久しいな、瞬」 シャカは亜麻色のシャツにオフホワイトのパンツをあわせている。普段着はインドの民族衣装かと思いきや意外とラフだ。長く美しい金の髪を唐草のレリーフが浮き彫りにされた金具で留めて背中に流している。 まっすぐなその髪は少しくせのある亜麻色の髪を持つ瞬にとっては羨ましい限りだ。 そんな瞬の髪をシャカは優しく撫でた。白くて綺麗な手の感触に瞬は子猫の様に首をすくめた。 「悩める少女の話を聞いてやれとシオン様に言われた。恋の話は苦手だが聞いてやらぬでもない」 「お願いします」 「うむ」 ぺこりと頭を下げた瞬があの不死鳥一輝の同腹の妹であるなどと、いまだ信じられない思いでいっぱいだ。 シャカは沙羅双樹の下に瞬を導いた。 薄紅色の大きな花弁がひらりひらりと二人の周囲を舞う。 そのうちの一枚が瞬の手の中に落ちてきた。その手のひらに掴んだ花弁を瞬は可愛いという思いで見つめる。 「ねぇ、シャカ」 「ん?」 「私は、愚かなんでしょうか」 「……何故愚かだと思う?」 花舞う宮で少女は手にした花びらを大地に返した。 その白く小さな手をぎゅっと握る。 「私にはこの手に守りたいもの、愛しているものがいっぱいなんです。零れ落ちるものがあることも知っているのに、何一つ、誰一人失いたくないと思っているんです……守りきれないって知っているのに」 少女の掌から零れ落ちたのは、初恋。 もう戻らない、あの幼い日々。 「知っているくせに欲張るんです。私は……ハーデスもカノンも、好きなんです」 ざあっと風が花を、髪を揺する、その心を見透かすように。 「私がハーデスを思うことは、アテナの聖闘士としてはあるまじき姿です。かつては敵対したあの神様……総力を尽くして戦って倒したはずのハーデスを、私はどこかで嫌いきれないんです……」 「それは、君がいちばん近く深いところで彼の神に触れたからではないのかね?」 シャカの手がそっと瞬の髪ごと頬に触れた。 彼の手はすらりと細く、美しかった。 冥王ハーデスは自分の肉体が傷つくのを嫌って、復活するたびに仮の肉体に己が魂を留めた。 現代におけるその憑代がこの瞬だったのだ。 指先、爪先、髪の毛の一本一本に至るまで少女は冥王となって生命の胎なる闇に君臨した。 「そのときのことはほとんど覚えてないんです。誰かにハーデスごと私を殺してほしいと叫びつづけていたから……そうするのが精一杯だったから……」 「君の声は聞こえた。君のその想いも……。私は迷わず君を討つつもりだったのだが、結局はアテナが君を救った」 「ええ、アテナの血が私とハーデスを引き離してくれました。だけどもうだめだと力尽きかけていたとき、ハーデスの魂がずっと呼びかけていたんです。この地上は私の望む世界にはならないって」 シャカと瞬がこうやって穏やかに話している瞬間にもこの地上のどこかで人が人を殺し、悲哀と怨嗟と憤怒で世界が満たされようとしている。 「同じだったんです、アテナもハーデスも。望んでいるものは地上の愛と平和。ハーデスは巡る生命の輪廻を闇の底で見つめながら壊れていく世界を憂いていました」 「それで?」 シャカのそっけない相槌に苦笑しながら瞬は続けた。 「話してみたら意外と分かりあえたんですよね。笑顔も寝顔も可愛いし」 ふふふと少女らしい笑みをこぼす瞬にシャカは黙ったままだ。神仏と対話を重ねてきた自分だが神をして可愛いなどと評したことは今だかつて一度もない。アンドロメダ、やはり恐ろしい娘だと心底思う。 「ずっとひとりぼっちだったとも、言うんです」 幼いころから闇の中で生きることを強要されてきたハーデスがやっと掴んだ光が、瞬だった。 「同情して、冥王を選ぶかね?」 「でもそれはきっと愛じゃない。同情するのなら、それはカノンに対してだってそうですよ」 双子をして生まれながら影に徹することを余儀なくされていたもうひとりの双子座の黄金聖闘士。 彼を悪に駆り立てたのは認められない寂しさゆえかもしれないと、瞬はカノンを思う。 「君はちゃんと分かっているではないか。己の優しさがときに誰かを傷つけるほどに罪深く、そして愚かでもあることを。一体何を悩んでいるのか、このシャカには分からぬ」 「実はそれがわからないんですよ。どっちかさくっと選んでしまえば楽になれることも知っているのに……」 「悩むということ、迷うということは大事なことだ」 瞬の横に立っていたシャカがそっと少女の手を握る。 「シャカ……」 「迷いは、誰にでもある。生命のある限り死ぬまで迷い続ける。それが生きるということなのだろう。さっくりと答えを見つけるのもいい。アンドロメダに翼はないが、足はある。君はちゃんと立って、自分の足で歩き続けたまえ」 「はい……」 瞬はシャカの手をぎゅっと握り返す。 同じ乙女座という星のもとに生まれた青年と少女は沙羅双樹の下で静かに微笑んでいた。 次なる天秤宮に向かう瞬の姿を見送るのはシャカとムウ。 「君が話したほうが良かったのではないのかね?」 同じ女性どうし分り合える部分もあろうと、シャカはとなりで微笑むムウをチラと横目で見た。 「いえいえ、あなたのほうが良かったんですよ。あなたは瞬を軟弱な乙女だとしか思っていなかったようですし。ちゃんと話す機会があって彼女の一部でも知ることが出来ればと、そう思ったんですよ」 「軟弱な乙女だとは思ってはいない。ああ見えて瞬とて聖闘士だ。まあ優しすぎるきらいはあるが……」 「だから彼女は愛されるのかもしれませんね。でもだからたったひとりを愛するということも知らない、出来ないと言ったほうがいいのかもしれませんが」 ムウはそれ以上なにも言わなかった。 そのころ瞬は天秤宮の入り口に辿りついていた。ここを守護するのは天秤座の老師こと、童虎。彼は龍座の紫龍の師である。 一歩中に入ると瞬はいきなりシオンに抱きつかれた。 「アーンードーローメーダっ」 「ふにゃあっ!!」 背中に柔らかな弾力を感じながら瞬は身を捩る。彼女はすっかりシオンの玩具にされてしまっていた。 「ほほほほほ、さすが13歳は活きがいいのう。ぴちぴちしておる」 言いながらシオンは女同士の気安さで瞬のわき腹やら太ももやらに触る。瞬が抗議の声をあげてもシオンはやめようとはせず、あろうことか瞬の胸をふにゅっと掴んだ。 「やっ……!!」 その感触を確かめるようにシオンの手が動く。対照的に瞬は頬を赤らめたまま動けなかった。 「ふむふむ、まだまだ未熟な体つきよのう。これで男を喜ばすことは出来ぬとは言わぬが……しかし安心せよ、アンドロメダ。そなたはまだ13歳。時が満ちればそなたも適度に育とうぞ。私が保証してやる」 「ほ、本当ですか!?」 セクハラ紛いの行為も忘れて、瞬の目がキラキラと輝いた。振りかえってぎゅっとシオンの手を握る。 シオンはしっかりと頷いた。 「私やムウとてはじめからこのようになっておったわけではない。育てようと思ったわけでもないが……まあ、あせることはない。女の価値を乳にしか見出せぬような男は選んではならぬということだ」 「でも……やっぱり男の人はこういう感じが好きなんじゃないですか?」 瞬が両手でシオンの体のラインをなぞるように宙を動く。出るところは出て引っ込むべきところは引っ込むという、魅惑のボディライン。かつて瞬は星矢と同じサイズの服が普通に着れるってどうよと突っ込んできたアヒル……もとい白鳥座の氷河に出刃包丁を向けたことがある。 シオンはこくりと頷いた。 「まあ、往々にして悲しいかな、男とはそういう生き物だ」 「やっぱり……」 「まあしかし、逆に我ら女性も男を体で選んだりするものよ。とくに男こ」 「それくらいにしろ、シオン」 さっとシオンの口を塞いだ男は若い虎のように精悍な体を萌黄色の道着に包んでいた。胸元のチャイナボタンが紫龍を思い出させる。 前聖戦の生き残り、知略の勇将・天秤座の老師。今は18歳の姿で中国は五老峰に暮らしている。 口を塞がれていたシオンが彼の手をべりっとはがした。 「何をするか、童虎よ。私はアンドロメダに正しい男選びを教えておったのに」 「極端なんだよ、お前は。もっとほかに基準はないのか……」 「性能は大事であろう。愛した男が役立たずではアンドロメダが可哀想ではないか」 ぎゃいのぎゃいのと言いあいをするシオンと童虎とを見て、瞬は困惑しつつも羨ましいと思った。 ふたりは前回の聖戦を生き残った、いわば戦友でもある。 240年近い歳月を離れていたとは言え信頼の名のもとに過ごしてきた、その絆の強さは比類ない。 「いいなぁ……」 瞬の呟きにシオンと童虎は言い争いをやめた。 亜麻色の髪の少女の笑顔に二人は顔を見合わせる。瞬がわたわたと手を振った。 「ああ、いえ。仲がいいんだなーって思ったんです。お羨ましいなーって」 瞬の言葉にシオンがふっと微笑した。 「長く付き合っておるからの。腐れ縁とも言う」 「……ぼろぼろになった天秤座の聖衣の修復にジャミールまで出向いたのが、出会いなんだ……」 そのときふたりは15歳。今の瞬より少し年上だった。 それから三年後の聖戦でふたりはたくさんの同朋の屍の中から起き上がって、そして泣いた。 「アンドロメダよ、そなたは愛することが出来る少女じゃ。そしてそなたのそばにたくさんの仲間がおる、我らと違ってな」 「シオンさん……」 孔雀の羽扇を広げて、シオンは少し寂しそうに微笑んだ。 「こうして、今たくさんの子供たちに囲まれて、私はとても幸せだ。みなにも、幸せになってもらいたい……」 手を差し伸べれば助かったかもしれない、そんな友を振り捨てて戦ってきた。 だから。 シオンは瞬を抱き寄せ、髪を、頬を撫でてそっと口付けた。 「冥王でもカノンでもどちらでもよい。愛せると思ったらまっすぐに進んでいくがよい。私が見る限りふたりともそなたを幸せにするには十分たる男だと思うがな……」 「シオンさん……」 柔らかな乳房を感じながら瞬はそっと目を閉じた。 そっと背中を押すなにかがあれば決断は早いかもしれない。 「間違えてはならぬのは、その優しさで自分を壊してしまうこと。それだけじゃ……」 「……はい」 にこやかに笑う二人を見て、童虎も安堵の笑みを浮かべる。 「ときに瞬よ」 「なんですか?」 文机の上においてあった硯に墨をすりながら童虎が瞬に尋ねた。 「おぬしの『しゅん』という名は、どの字を当てる? 春か? それとも駿か?」 童虎の問いの意味が瞬にはすぐにわからなかったが、それでも彼が半紙に書いた古代中国の皇帝の名に目を止める。 「“瞬く”という字です。それの左に目を書いて」 「ああ、瞬か」 その字にシオンも感心したかのようにため息をつく。 「兄が“輝”で妹が“瞬”とはのう。よう出来た兄妹じゃ」 新しい半紙に童虎が細筆で瞬の名を書く。いつも雄大な筆遣いの彼にしては珍しかった。 「瞬……か」 その字の意味は僅かな刻を意味する。また、穏やかな光り方も表現する。 けれどどちらの意味をとっても儚く不安定だ。 その不安定さ故に誰もが手を差し伸べたくもなろうし、彼女自身も自分をしっかり律そうとする。瞬の健気な姿にもどかしさと愛しさを感じるのは彼女がまだ幼いからではないのかもしれないと、シオンは瞬を撫でくり回した。 「花の命は短くて……恋せよ乙女、じゃ」 「はい!」 瞬が花のような笑顔で応えたのでシオンはまたぎゅっと少女を抱きしめた。 「アンドロメダは可愛いのう。童虎よ、娘とはこういう反応をするもんじゃぞ!」 「あーあ、俺は春麗を育てたときにそう思ったよ。黄金聖闘士になるやつなんて十中八九は普通じゃないんだから……」 「おぬしもなー」 「おまえもなー」 ふたりの会話を聞きながら瞬はなるほどと納得した。なにを持って普通とするのかはわからないが黄金聖闘士たちが(よく言えば)個性豊かな面々であることは確かだ。 「まあ、とりあえず次に行ってみるがいい。……次は天蠍宮か。まあミロは宝瓶宮に居ろうから、人に会えるのは……人馬宮の次の磨羯宮だのう」 「はい。ありがとうございました」 深々と頭を下げる瞬の姿に童虎は愛弟子とその傍らにいた少女の顔を思い浮かべた。 「紫龍に、たまには五老峰に帰ってこいと伝えてくれ」 「はい、必ず」 失礼しますと礼儀正しく去っていく瞬を見送って、シオンは童虎の腕にそっと身を寄せる。 「なんだ、シオン」 「別に。ただ……アンドロメダを見ておったら急にこうしたくなったのじゃ……」 珍しく甘えてきたシオンの肩を力強く抱きしめて、童虎はその額にそっと口づけた。 シオンの言葉通り天蠍宮は無人で、瞬は次の人馬宮についた。が、彼女はそこを素通りしなかった。 13年前、赤子だったアテナを守って亡くなった射手座の黄金聖闘士、アイオロスの遺書が刻まれた壁面がここにある。 瞬はその壁の前に膝を突き、祈りを捧げた。 アイオロスが亡くなったのは14歳のとき、ちょうど今の瞬くらいのとき。 「アイオロスさん……私は贅沢なんでしょうか……」 あなたは恋をしたんですかと、瞬は悲しそうに壁を見つめる。 『少年たちよ、アテナを託す』 どこまでも未来を信じた力強い言葉、まさに聖闘士の鑑とも言える女傑、アイオロス。 「……ハーデスから最初に求婚されたとき、私は黙って行くつもりでした。アテナの聖闘士として地上を守りたかった……いいえ、地上だけじゃなくて、聖闘士のみんなを、守りたかった。私ひとりが行くことでその全部を守れたらって……そう思ったんです」 もし断れば腹いせに再び地上の制圧に乗り出してくるかもしれないと、アンドロメダを冠する少女は我が身を犠牲にする覚悟を決めた。 けれどその覚悟に反して、冥王は意外にも瞬に恋をする時間を与えてくれた。 「もう間違えたくないって、ハーデスは言ったんです」 惜しみなく奪うだけが愛情表現ではないと知ったハーデスはその日のうちに求婚の訂正にやってきた。 そしてカノンも同じように自分に対して好意を持っていると言った。 「アテナの聖闘士としての私は、本当はハーデスを思っちゃいけないのかもしれません……」 『んー、でもそれって愛とか恋じゃないんじゃないかなー』 突然脳裏に響いた声に瞬ははっと顔を上げる。声の主は何処にも見当たらなかった。 「あ、アイオロスさんですよね?」 『そーよー! あのねぇ、あなたの小宇宙に直接話しかけてるからー!!』 底抜けに明るい声が聞こえてきて、瞬は困惑する一方だがアイオロスはかまわず話しかけてきた。 『あのねー、アテナの聖闘士だからとか、そんなことは気にしないほうがいいと思うんだー』 「アイオロスさん、でもそんなこと!」 『シャカとも話したんでしょ? そのへんのことはさ』 「そうですけど……」 瞬はシャカとの対話を思い出していた。 悩んでいるのは、きっとこれ。やっぱりこのことだと瞬はしっかり理解した。 「私は、アテナの聖闘士……」 だから冥王の愛を受け入れるということがどんなことかちゃんとわかっている。 『あのね、私だって恋をしてたの。誰かは教えないけどねー。ふふふ、でも楽しかったよ。そのときばかりは私だって聖闘士じゃなくてただの女の子だったよー』 「アイオロスさん……」 『気になるならさ、アテナとハーデスとの間にちゃんと話し合いを持ってもらえばいいよー。ふたりともお優しい神様だから瞬の気持ちは汲んでくれると思うよー。大丈夫大丈夫。ちゃんと女の子しなさい!! じゃーねー!!』 「ちょ、ちょっと!!」 一方的にしゃべるだけしゃべって、アイオロスの小宇宙は途切れた。 瞬はふうとため息をつく。 「アテナの聖闘士だってことはちょっとおいておけってことなのかな?」 瞬は両手で箱を持って脇にどけるジェスチャーをして見せた。そしてうーんと小首を傾げる。 確かに地上がどーとか聖闘士かどーとか言っていても結論は出ない。 ハーデスは地上とこの恋の結末を引き換えにしないと言った。もし自分が彼を選ばなかったとしてもそれはそれで瞬が決めたことだから潔く退くとも言った。 ただちゃっかり自分が死んだ後のことは考えている……らしい。 瞬は沙織の言葉を不意に思い出した。 『あなたも私もやっと普通の女の子に戻れるわね……』 「普通の女の子……」 気がついて瞬ははっと顔を上げる。 「沙織さん……私は……」 アテナは戦いにおいて傷ついた少年たちを普通の暮らしに戻してくれた。もちろん有事の際には瞬とてアテナの聖闘士として戦う用意も覚悟もある。 だけど――そうなるまでは。 瞬は考えるのをやめた。 戦いがないなどと決して楽観視はしないがそれでもまだ見ぬ未来を思い悩んで悲観するより、今という時間を女の子をして過ごすほうがいいに決まっている。 「アイオロスさん、ありがとうございました」 ワンピースの裾も軽やかに、アンドロメダの少女は人馬宮を後にした。 彼女が去ったあとに現れたのは黄金の翼を持つ淑女。 『瞬……私の分まで恋を楽しんでね……』 そして遥か先の教皇の間を見つめる。 『サガ……若き聖闘士たち、みんなあんたに預けるからね。アイオリアも、星矢たちも……特に瞬には、責任があるでしょう?』 にこりと笑ったアイオロスの姿はそのまま壁の中に消えた。 亜麻色の髪の乙女は 少女の心を探しに石段を登り続けた ≪続く≫ ≪中休み≫ 瞬による十二宮巡り。結局自分で何をしたかったのかよくわからないまま、でも楽しかったことだけはよく覚えています。 白羊宮〜人馬宮までです。今回出てこなければならなかった人はちゃんと後編にいますのでご安心ください。 それでは後編へどうぞ。 |