タイムリープ 後編





亜麻色の髪の乙女が少女の心を探しに十二宮をひとつずつ巡っていく。
恋愛指南行脚も後半にさしかかろうとしていた。




シオンの言ったとおり天蠍宮にいるはずのミロは留守にしていたので瞬は次の宮を目指した。
次なる磨羯宮の玄関先に飾られている山羊の置物をちょっと撫でる。
ここの守護人は山羊座のシュラ。水の淑女と呼ばれる女性たちのひとりだ。
いてくれるといいなと思いながら入り口に近づいた途端、中から轟音が聞こえてきて、瞬は思わず身を隠す。
「な、なんなの?」
「デスマスク!! アンタはまた!!」
「ギャー!!」
扉の板ごと吹っ飛んできたのは蟹座の黄金聖闘士、デスマスク。先刻立ち寄った巨蟹宮にはいなかったということは彼はここにいたのかと瞬は察しをつけた。だがシュラの声を聞くにつけどうもそうではらしいないことを理解した。
「ヘッドホンで音楽聴くなっていってるでしょ!! 緊急放送がかかってたのに!!!」
「あれの何処が緊急放送だよ!! アンドロメダの惚気話を聞くのがか!?」
「ごちゃごちゃ五月蝿いっ!! それになにこれ。これ、こないだ来た瞬の写真よね? なに引き伸ばしてポスターにしてんの。どこにいくらで売る気なの、あん?」
シュラが手にしているのはサガに教皇就任を要請にきたときのドレス姿の瞬だった。カメラ目線でないことからも隠し撮りしたものであることは明らかだ。
「あーっ!! 私の写真!!」
物陰から飛び出してきた瞬にシュラがあらと声をかける。
「瞬、いたの」
「なんか轟音が聞こえてきたので。さて、デスマスク……」
薄紅色の小宇宙がふわりとワンピースの裾と亜麻色の髪を持ち上げる。
普段はこれでもかというほど穏やかな瞬のただならぬ様子にデスマスクはひいっと声を上げた。シュラでさえも危険を感じて物陰に逃げた。
「これがなんなのか、説明してもらいましょうか……」
「いや、それはポスターで」
「んなこた見りゃわかります! どういう用途のものか聞いてるんです!!」
ふたりの目の前に般若のアンドロメダ。亜麻色の美しい髪が漆黒に変わりつつあるように見えるのは気のせいか。
「それは……頼まれて作ったもんで……」
「誰に!?」
じゃきーんと、デスマスクの喉もとにまっすぐに伸びた角鎖。どこから出したなどと突っ込んではいけない。アンドロメダの少女を守る右の角鎖と左の円鎖はいかなるときでも主である瞬の呼びかけに応じて現れるのだ。
「大人しく泥を吐けば命までは取りません、さあ、誰に頼まれたんです!?」
(なんだよこの迫力、こいつ本当に青銅聖闘士か!?)
階級的には格下、年齢も十も年下の少女に気圧されながら、デスマスクは素直に白状した。
「ぺ、ペガサスとフェニックスがほしいっていうから……」
「本当ですね?」
「ほ、本当だ!!」
ただし五倍の前金を払って注文したひとりの男と一柱の名前だけは頑張って伏せているデスマスクである。
すると瞬の小宇宙はたちまち収束し、デスマスクの喉元につきつけられていた鎖も何事もなかったかのように消える。
「た、助かった……」
見れば瞬はポスターをくるくると巻いて大事そうに抱えている。
「もー、星矢ったらぁ……」
愛しい末の異母弟の顔を思い浮かべて瞬はとびっきりの笑顔を見せている。
別人だ、とシュラとデスマスクは思った。
「と、とにかく中に入って。立ち話もなんだから……」
「はい。あ、そうだ。帰りに巨蟹宮に寄って兄さんのぶんもいただいていきます。いいですよね!?」
「は、はいっ!」
しゃっりきと背筋を伸ばしていうデスマスクに黄金聖闘士の威厳たるものはもはや欠片も残っていなかった。



「シオン様のお話だと十二宮を侵略しに来たようなことだったけど……」
シュラは瞬の前に柑橘類の盛り合わせを出してくれた。自分でカットしたというフルーツ皿に太陽を模した果実が鮮やかに乗っている。
山羊座、水瓶座、魚座の三星座は『水』に深い関わりを持つ星座だ。またある地域ではこの星座が空に浮かぶと雨季となることから『水の星座』と呼ばれることもある。
故に聖域ではこの三星座のいずれかの守護人が女性である場合に限り『水の淑女』と呼んだ。現代においては三人ともが女性である。
そのひとりであるシュラは瞬にとっては憧れのクールビューティーだ。
シュラの問いに瞬はがっくりと肩を落とした。
「いえ、ただちょっと後学のために皆さんのお話を聞きたいなーって、シオンさんに言ったら十二宮侵攻ってことになっちゃって……」
あの姐さんなら言いかねないと、シュラとデスマスクは突っ込むのを控えた。
ちょこんと椅子に座る少女の横にデスマスクがどっかりと腰を下ろす。
「まーだうじうじどっちにしようかなってやってんのか?」
蟹座の彼があごで瞬を差した。まだ13歳の少女になんつーことをと言いかけたシュラを遮るように瞬が口を開く。
「うじうじはしてませんよ。選びきれないのは確かですけど、もうこの際だからお試しに両方と適度に交際するのもアリかなーって思うんですよね」
「小娘の癖に言うじゃねーか」
「女の子は往々にして欲張りなんです。この掌から零れ落ちるものがあると知っていても……」
「瞬……」
少女の言葉にシュラは自分の手を見つめた。
13年前のあの日、この手に宿る聖剣でシュラは師とも仰いだ女性を追い詰めた。とどめこそ刺さなかったけれど、彼女とその妹のことを思えばあんなに辛い日はなかった。
ずっとずっとそばにいてほしかった。生きていてほしかった。
でも、殺せといわれたから。
すぐとなりの宮に住んでいた女傑は笑って自分を許してくれたけど、それでもどこか苦しい。
そういう意味でシュラと瞬は同じだった。
零れ落ちてなお、忘れることが出来ずに――いや、忘れようとはせずに無くした何かを思い続ける。
「……なくさねー人生なんてないんだ。人間、生きてるうちにいろんなもんを得るけど、得た分だけ無くすもんだってあるってこった」
「そうね……全部無くすまでわからないのかもしれないけど……」
喧嘩しながらも、デスマスクとシュラは互いを思いあう仲だ。このふたりは真なるアテナを奉じた十二宮の戦いでともに瞬の同朋である紫龍によって倒されている。
デスマスクが紫龍の正義の拳に倒れたとき、シュラはそれをどんな想いでこの磨羯宮から消えていく彼を感じていたのだろう。
そしてシュラも倒れたそのとき、黄泉の入り口でデスマスクはどんな表情をしていたのだろう。
そこにはきっと自分にはわからない何かがあるのだろうと、瞬は静かに目を閉じた。
ちょっとしんみりしかけたところに、陽気なイタリア人が陽気に声をあげた。
「ま、決めるのはアンドロメダだからな!! いいんじゃね? とことん付き合ってみるのも悪かねーよ」
そう言ってデスマスクはニヒニヒ笑った。その笑顔にどこかいやな感じはしなくて、瞬は笑い返す。
「神様と、神さえ誑かす男をさらに誑かす女か。恐いねー」
「神の器は伊達じゃないんですよ」
さらりと言って微笑む瞬を、シュラは不思議な思いで見つめていた。
可憐な少女という印象が強いアンドロメダの聖闘士である瞬だが意外と芯はしっかりしていて、どこか大人びた様子さえ見せる。顔を合わせたのは久しぶりだが、冥王とカノンとに愛されて、少女は少しずつ少女ではなくなっているような、感じ。
例えるなら、春の陽光の元のつぼみ――それが今の瞬だ。
(……これくらいの年頃の女の子は、みんなこうなのよね)
自分とアフロディーテとデスマスクがいて、それからぞろぞろと幼い黄金聖闘士たちが現れて。
その中にはアイオリアの姿もあった。
少女時代はそれなりに平穏で楽しかった。もちろん、楽しいことばかりでもなかったけれど、それでも瞬を前にしてシュラは少女だったころの自分を懐かしく思い出していた。
「俺らもカノンとは付き合いはじめったばっかだからどんな男かあんまよく知んねーけどさ、冥王も抜け抜けだし、おめーもほんとにおじょーちゃんだし。とりあえず頑張ってみな。んで、決めたら速攻でスパっとな。だらだらしてっと返って相手も自分も傷つく」
そんなデスマスクの言葉に目を丸くしたのはシュラだった。
「……なんだよ」
「……デスマスクが、まともなこと言ってる」
「悪いか! 俺だってたまにはだな!」
自分でたまにとか言ってるあたりがもうだめだと瞬もシュラも思った。が、敢えて口には出さず、ふたりそろってフルーツをつまむ。
「美味しいですね」
「でしょう。よかったらもっと食べて」
「はい、いただきます」
「……俺の話を聞け」
瞬は出されたフルーツ盛りを食べ終わると丁寧に礼を言って磨羯宮を後にした。
「あとでポスター取りに来るって念押していったけど?」
「……覚えてやがったか」
デスマスクはほかに見られては困るものを隠しに、巨蟹宮に戻っていった。



次の宝瓶宮につくとミロとカミュが出迎えてくれた。
「お二方とも、お久しぶりです」
瞬は丁寧に頭を下げた。彼女の挨拶に対する反応は全く逆だった。
カミュはにこりと微笑んで瞬の髪を撫でてくれたが、ミロは固い挨拶は抜きだと、瞬の肩をばんばん叩いた。
「よく来たよく来た! スコーピオンのミロと呼ばれたこの俺がおまえの話をばしっと聞いてやろう!」
瞬が苦痛に顔を歪めつつ困惑しているのに気がついてカミュがそっと青年を諭す。
「ミロ、瞬が困ってるから……」
燃えるような緋色の髪をしたカミュはいつだってクールで、日没前の鮮やかな藍色の空を模した髪をしたミロが情熱的で人懐っこい。
全く相反するふたりだからこそ、仲良く出来るのかもしれないと瞬は思った。
「いいえ、大丈夫です。星矢で慣れてますから……」
カミュはふわりと微笑を浮かべた。水と氷の魔女と謳われる彼女は瞬の同朋である氷河の師だ。
「アテナと、青銅聖闘士のみんなは元気?」
「はい、みんな元気です」
「そう、それはよかったわ。あー……氷河の世話は大変でしょう……」
珍しく口篭もるカミュに瞬も苦笑して、一応否定しておいた。そして氷河に出刃包丁を向けた回数を心の中でそっと数える。
だけど瞬にしてみれば師が健在の氷河や紫龍、それに星矢が羨ましい。
彼女の師である白銀聖闘士の死を知るものはこの聖域でも限られている。
少し寂しそうに目を伏せた瞬をカミュは疲れているのだと思い、その手を引いて宝瓶宮へと誘った。
さすがに水と氷の魔女が住む宮だけあって、中はひんやりとしていた。
「寒かったら言って。何か羽織るものを持ってくるから」
「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です、私が修行していたアンドロメダ島の夜はこれよりもっと寒かったですから」
「アンドロメダ島って、北にあったのか?」
ミロの問いかけに瞬はいいえと首を横に振った。
「インド洋のソマリア沖に属する、地図にも乗らない小さな島です。昼間は50度を越える灼熱地獄なんですが、夜は逆に氷点下40度まで下がっちゃうんです。だから聖闘士になる前に環境に耐えられなくて死んじゃった候補生が何人もいたって、先生は言ってました……」
カミュは50度の灼熱地獄を想像して身を震わせたが、それ以上にそんな環境をこの吹けば飛ぶような少女が生き抜いて聖闘士になったという事実に思考を巡らせる。
ここまで彼女を支えているものはなんだったのだろうと。
「そっかー。まあ聖闘士の修行なんてどこも似たり寄ったりだけどなー。うんうん、お前すごいな。俺たちが本当のアテナもわからんでぼけーっとしてたときも、海底に行けなかったときも、コキュートスで白目向いてたときも、お前ら青銅が頑張ってくれてたんだもんなー」
ミロはまるでかわいい妹が出来たかのようにくしゃくしゃと瞬の髪を撫でた。カミュのもうひとりの弟子であるアイザックも彼にとっては妹的存在だ、そんな彼女は現在クラーケンの海闘士として海底神殿に暮らしているから、瞬はふたりめの妹分だ。
「そういえば、瞬。この前は檜の扇を送ってくれてありがとう。大事に使わせてもらってるわ」
瞬はとんでもないと首を振った。
「本当に大した物じゃないんです」
「でもその心遣いが嬉しいわ」
カミュにお礼を言われ、瞬は少し恐縮気味だ。
「よし! お菓子食えー!! いっぱい食えー!! いっぱい食って大きくなれー!!」
そう言うとミロは器いっぱいに色とりどりのマカロンを持ってきて瞬の前に置いた。こんもりと盛られた小さなそれがころりと落ちてきたのを瞬は慌てて受けとめる。
カミュはため息をついた。
「……言うに及ばないと思うけど、全部食べなくていいからね」
「はい……」
ここでカミュと瞬は互いの共通点を見出した。
それは氷河に関することだけではない。ミロと星矢という同質のやんちゃ坊主に世話を焼いているという点でもふたりは一致した。そしてそのやんちゃ坊主が大好きである、ということも同じだ。
「そーだ、飲み物持ってきてやるなー」
何が楽しいのか、ミロはにこにこ笑いながら席を立った。
そして女同士でため息をつく。
「ミロは青銅聖闘士みんなが可愛いのよ。弟みたいなものだからね。もちろん、私たちもみんな、あなたたちが愛しい……この時代に聖闘士として出会えたことは誇りだわ」
「それは私たちも同じです。皆さんは私たちにアテナを託してくださった。そして今もこうして私たちを導いてくださる。本当にありがたいです……」
かつてカミュは愛弟子である氷河に対し、命をかけて彼を究極の凍気に導いた。
そして今は瞬に対し、女性として授けられることすべてを教えてあげたいと思っている。
ただ相手が相手だけにどう補助してやったらいいものか、悩むところは大きいのだが。
「えーっと、あなたがハーデスの憑代だったのがきっかけで恋に発展したんだったわよね?」
「はい、最初は一方的に嫁に来いって言われたんですけど、それじゃあんまりだって言うんでお付き合いからはじめてみようって」
「そこにカノンが首を突っ込んできた、と」
「はい……」
瞬を取り巻く環境を確認して、カミュはふむと頷いた。
「ハーデスって、死を司る邪悪な神だと思ってたけど、存外そうでもないのね」
ギリシア神話に登場する神々はどこか人に近い感覚を持っている。
愛も恋も知らなかったハーデスはこの時代に瞬と出会って神様業の傍らに恋しい乙女を口説き落としている真っ最中だ。
「私もここ数ヶ月付き合って分かったんですけど、本当に普通の男の人みたいなんです。普通に話も出来るし笑うし。私が寂しそうにしてるとおろおろするんですよ」
「へ、へぇ……」
にっこり笑った瞬にさすが神になりかけた少女は違うな、とカミュは思った。
「でもやっぱり神様なんです。ときどき信じられないことするし……」
「例えば?」
「一度花束をもらったんです。それはすごく綺麗で嬉しかったんで、素直に喜んだんですよ」
「うん、いいじゃない」
「そしたら何を思ったのかその次は『もっと大きな花ならもっと喜ぶと思ったのだ』とか言ってラフレシア持ってきたんですよ」
カミュは今度こそ押し黙った。
世界最大の大きさを誇り、世界最悪の悪臭を放つラフレシア。
間違ったって恋人に贈る花じゃない。
「……そのラフレシアはどうしたの?」
「パンドラさん……はご存知ですよね。ハーデスのお姉さんみたいな人で、その方が慌てて駆けつけてくださって、持って帰ってもらいました」
その代わりとして贈られてきたのがアガパンサスだった。薄紫の小蘭、花言葉は『恋の訪れ』。
瞬はそのときのことを思い出して笑う。
ある夜、冥闘士数名にラフレシアを担がせた冥王ハーデスはご満悦で瞬の前に現れた。
『どーだ、大きくて立派であろう? 余の愛の大きさを現してみたぞ!』
喜べと言わんばかりに胸を張る冥王の袖をどこからともなく現れたパンドラがぐいぐいと引っ張った。瞬に背を向けてなにやら話し込んでいる。
『なんと! それを早く言わぬか!!』
『お言葉ですが、このようなものをご用意なさっておいでとは露知らず』
『ど、どうすればよい?』
自分の大いなる過ちに気がついた冥王がなんでもなかったかのように差し出した花束に瞬は我慢できずに大笑いをしてハーデスに笑うなと怒られた。
「……結構大変なんです」
「じゃあカノンは? 普通……うん、普通の人間だからそんなに苦労しないと思うけど。強いて言うとちょっと年が離れてるかしら」
「カノンは結構イイ奴だぞ!」
三人分の飲み物を手に、ミロが戻ってきた。からからと氷の音がした。
カットは入っていないが繊細な形状のグラスに薄紅色の液体が淡く炭酸を弾けさせている。添えられてたミントとは補色関係にあるためか、お互いを鮮やかに見せている。
カミュが頬杖をついて呆れた様に笑った。
「ミロ、また夜には早いわ」
「お酒じゃないよ、ジュースジュース」
にこにこと笑いながらミロはグラスを置いて席に着いた。
「チェリーとラズベリーのジュースを混ぜてさ、炭酸水で割ってみた」
ただのジュースを持ってこないところがミロらしいと、カミュは小さく笑った。
「なにをごそごそやってるのかと思ったら、これ作ってたのね」
「これにウォッカを足すといい感じのカクテルになるんだ。それはまた今度なー」
瞬は目の前に置かれたグラスをじっと見つめて声もない。あまりにも綺麗で口にするのがもったいないような気がした。
そんな彼女を見咎めて、ミロがばんばん背中を叩く。
「遠慮しないで飲めって! 酒は一滴も入ってないから! それにこれはお前をイメージして作ったんだぜ!」
「え、私……?」
思わぬミロの言葉に瞬はさらに驚いたのだが、彼はただ笑っているだけだった。
「この前カノンと飲んだときにさ、すっげーお前のこと気にしてた。今頃何してんのかなーって。んで、俺がハーデスと一緒なんじゃねって言ったらキレた」
「そりゃキレるでしょ……」
バカね、とミロの額をカミュがぺしっと叩く。けれどミロはめげないで続ける。
「うん。だから悪かったなーと思って作ったのがこれ。カノンはカクテルなんて酒じゃないっていう奴だけどこれは気に入ったみたいだった。だから俺はアンドロメダって名前つけたんだ」
カミュがなるほどと笑った。
「薄紅色はアンドロメダの聖衣の色、そこに炭酸水の銀河。ミントの若い葉が少女らしさ、ね」
そして、と続けようとしたところでカミュはやめた。おそらくミロはそこまで意図せずに置いたのであろうが、カノンは気がついたかもしれない。
神話においてハーデスはミントと良い思い出がない。彼が恋をしたニンフのメンテが彼を嫌ったか、妃たる女性に追われたかして変化したのがミントだとされている。
だがそんな話をしても仕方がないと、カミュはグラスを口にした。
瞬がおいしいと微笑む、誉められたミロも嬉しそうに笑う、それだけでいい。
赤い果実の優しい味わいも彼女らしさを表していた。
天然ボケで恋愛に疎い冥王ハーデスと、百戦錬磨のはずなのに何故か手をこまねいている双子座カノン。
そしてそのふたりの間に揺れるアンドロメダの乙女。
彼女はふたりの男と平等に接して、未来を決めようと奮闘中だ。
からんと氷の音がした。
カミュの指先がつとグラスの淵を拭った。大人っぽいその仕草に瞬はほんのひととき見惚れる。
「恋とか愛とか目に見えないものだから、みんな憧れもするし、大事に思っていたいのよね……」
「カミュ……」
赤く塗られた彼女の爪先がふわりと氷の輪を作った。
「こんなふうに形に出来ないもの……」
その輪はどんどん数を増し、三人の上に雪となって落ちてくる。
「そして、やがて消えてしまう。どんなに永遠を望んでも……ね。私はそれを知ってる」
カミュが愁いを帯びて目を閉じる。そんな淑女をミロがぎゅっと抱きしめた。
「俺は……今度は絶対手を離さない。先に離したのがお前だったら追っかけてとっ捕まえる」
「うん、そうして」
瞬がそばにいたのに、ミロとカミュはいつものようにふわりと口づける。
アンドロメダの少女は見てみないふり。
カミュは小さく息を吐くように微笑んだ。
「いつか消えてしまう、離れてしまうと知っていても誰かを思って生きていくんだわ。もう散々言われたでしょうけど。……瞬、あなた、これが初恋じゃないでしょう?」
「……分かります?」
「なになに!? 初恋の人がいんの? 誰!?」
興味津々に身を乗り出してきたミロをぐいっと押しのけてカミュが続ける。
「誰だっていいじゃない。だけどその初恋も、そうと知らないうちに」
「……はい。終わりました」
瞬の瞳が薄く潤んだのを見て、ミロとカミュはそっと背中を撫でた。
「……ごめんなさい、辛いことを聞いたかしら」
「いいえ、いいんです。こうやってときどき思い出してあげないとこの想いがかわいそうですから……」
ああ、とカミュは何かを納得した。彼女を支えていたのはもしかしたら師に対する初めての恋だったのかもしれないと、少女の中に潜む淡い想いを看破してなお、瞬を見つめる。
もしかしたら、恋を知らないだけじゃなくて、恋をするのを怖がっているのかもしれない。
たった一度失うだけでも、十分すぎる恐怖――自分が愛したら壊してしまう、と。
手を下したのが自分ではなかったとしても、だ。
(アフロディーテの前じゃ泣けないわよね……)
十二宮最後の双魚宮に住まう美貌の闘士は瞬を妹か娘のように可愛がっている。
それはアフロディーテにとっての生涯の償いであり、また彼女を聖闘士として、そして女性として認めている証でもある。そして瞬もそれを素直に受け入れることでアフロディーテの苦悩を軽くしている。
少なくともカミュにはそう見えた。
「瞬は優しいからね……」
「いいことじゃん。ほら、マカロン食え、いっぱい食って元気出せ」
ミロがずずずいいっと勧めてきた小さなお菓子を、瞬はにこっと笑って口にした。



その頃サガは通常業務を終えて教皇の間を出ていた。今日は珍しく残業なしだ。
聖戦が終わってこの十二宮に戻ってきてからしばらくは収拾もつかない状態で、まずは教皇の間の掃除から始めたほどだ。シオンが引退を表明し、その弟子のムウがさらりと逃げ出した真の理由が分かった。
だが引き受けたことは後悔していない。
どんなに祈り泣き叫んでも過去は戻らないと言った少女、その仲間の少年たちに無意味な戦いを強いてしまったのはほかならぬ自分だった。
自分を教皇職において忙殺させることは何の償いにもなるまいが、それでも何もしないよりましだった。
そう思いながら双魚宮への階段を下りる。宮からはいい匂いがしてきた。
「ただいま、アフロディーテ」
「おかえりなさーい」
「お仕事ご苦労様です。お邪魔してます」
出迎えてくれたのは恋人のアフロディーテとその妹的存在の瞬だった。ふたりの出迎えを受けて、サガはなにか感極まったらしい、目元が熱くなるのをさりげなく堪えていた。
「サガ、どうしたの?」
「すみません。夕飯時に押しかけてきちゃって……」
恐縮する瞬にサガの視線は優しい。
「いや、いいんだ。私がいない間はアフロも寂しかっただろうから、君が相手をしてくれると安心できるよ」
「もう!! 瞬に子守りしてもらうほど子供じゃないもん!!」
「ははははは、悪い悪い」
サガはそっとアフロディーテの肩を抱いて淡い空色の髪先にふわりと口づけた。
十二宮に住まう恋人たちの中で瞬がいちばん大人っぽいと感じるのがこのふたりだ。
瞬に思いを寄せるカノンはサガの双子の弟なのだ、立ち居振る舞いは違うようでいて、どこか似ていた。
(カノンもあんなふうにキスするんだよねー……)
瞬の亜麻色の髪は肩を少し越えるくらいの長さなのでそこに口づけようとするとものすごく近づくことになる。ほんのり香る煙草の匂いにときどき大人の男を感じて困惑するのを思い出してひとりで照れた。
「瞬? 大丈夫? 立ったまま寝ないようにね」
「疲れているんじゃないのか?」
アフロディーテが心配そうに自分を見つめているのに気がついて瞬は慌てて首を振った。
「大丈夫です、私だって聖闘士なんですからこれくらいで疲れたりしませんよ」
「そう? ならいいんだけど……」
そう言ってアフロディーテは瞬をそっと抱きしめて髪を撫でた。
彼女からはいつもいい匂いがした。
姉とも母とも慕うアフロディーテの温かさに瞬はうっとり目を閉じる。その表情だけでアフロディーテもサガも安心した顔をした。
自分たちがこの少女から奪ってしまったものは大きすぎた。今更戻してやることも出来ない。
だったらせめて――それは青銅聖闘士たちに対する、黄金聖闘士全員の願い。
僅かな平穏の時かもしれない、だからこそ、普通の少年少女として生きてほしい、と。
そんな穏やかな気持ちに浸っている時、サガがふっと顔をあげた。
「姉妹してるところ悪いんだが、何か匂わないか?」
サガの言葉にふたりははっと顔をあげる。
「やだ! グラタン忘れてた!」
「タイマーだから大丈夫ですよ」
そういうと瞬はひとりでキッチンに戻る。アフロディーテはそんな少女の気遣いが分かったのか、サガの着替えを手伝う。
「いい子だな、本当に……」
「出来るのならずっとそばに置いておきたいくらい。そしてもっともっといろいろ教えてあげるの。お料理もお化粧も……恋も」
「アフロディーテ……」
自分より背の高いサガの髪をきちんと背中に流してやりながらアフロディーテは言う。
「だけどあの子はアンドロメダ。ラプンツェルじゃないの」
「愛すべき誰かと幸せに、か。さて、誰が瞬のペルセウスになれるのやら」
カノンにはもったいない娘だと、サガは苦笑を漏らす。
かといって冥王に渡してしまうのも惜しい。彼女は聖闘士としてもそれなりの実力を持っているし、危機に陥れば不死鳥を召還できるという特技も持っている。
「ここに来たときね」
「ん?」
「瞬ね、すっごくキラキラしてた。全力で女の子してますって感じ」
「ということはそれなりに幸せなのかな」
「そうじゃなきゃ困るわ」
アフロディーテがきゅっと唇を噛んだ。
「……でも私たちは見守るだけなんだ。あの子が自分で決める事だから」
「うん……」
さあとサガはアフロディーテの肩を抱いてダイニングに向かう。今日は特別にカノンも呼んで四人で夕食だ。
瞬の隣にはカノンが座る。狙ったわけでもなんでもなく、そこしか空いていなかったからだ。
それでも何かあれば彼の向かいのサガがテーブルの下で蹴り飛ばしてやろうと構えていた。
「今日は瞬と二人で作ったんだよ。瞬ったらお料理ちゃんとできるんだもん。私が教えられるのは味付けくらいだわ」
つまらないと言いつつもアフロディーテが楽しそうに笑うと瞬はいいえと首を横に振った。
「でも私、本当に最近まで料理できなかったんです。紫龍に教えてもらってやっと」
「じゃあそれまではなにが作れたんだい?」
サガの問いかけにカノンだけがそっぽ向いた。瞬はにっこり笑って答える。
「蠍の素揚げとか、蛇の丸焼きとか……鮫も捌けるんですよ、私」
無邪気な瞬にサガとアフロディーテは絶句する。
だが瞬はそれ以上言わなかった。島での思い出を語れば二人を辛くする事が分かっていたからだ。いつか笑って話せるようになるまで、少女の胸の中にそっとしまわれる思い出。
それを思ってふたりもなんでもなかったかのように食事を続けた。
「……今度鮫取ってきて捌きますね」
「いや……無理はしないでくれ」
要らないと一刀両断しないあたりがサガの優しさだ。
それから四人で他愛もない話をしながら食事と片づけを済ませると瞬とアフロディーテはふたりでお風呂に入ることにした。ちゃぽんと湯船に浸かりながら瞬は隣の淑女を見た。
アフロディーテは豊かな肢体の持ち主だ、いつもほんのり薔薇の香りをさせている。
きつくなくて、でも甘くて優しい香り。
そんな彼女はとても強く、そして自分とは比べ物にならないほど一心にたった一人の男を愛し続けた。
心も体もまだ未熟な自分と比べて、瞬はそこらへんに穴を掘って埋まりたい気分になった。
そんな瞬の乳房を、アフロディーテが正面からむにゅっと掴む。
「ふにゃあっ!?」
「瞬は胸ないって気にしてるけど、結構あるじゃない。ちゃんと測ってみた?」
なおもふにふにと動くアフロディーテの手の温かさに困惑しながら瞬は首を横に振った。
とたん、アフロディーテの顔が険しくなる。愛と美の女神の名を冠する彼女は美しくないものは嫌いだし、美しくなる努力を怠ることを忌み嫌う。
「ダメじゃない! 女の子の体は瞬くらいのときが一番大事なんだよ!? あとで測ってあげるから」
「わかりましたから……そのっ……んっ、手をっ……」
顔を真っ赤にして身を捩る瞬はアフロディーテのイタズラ心を刺激したらしい。
「……かわいいー。いいなー、こうなるとカノンにも神様にも誰にも渡したくなくなるわね」
「あっ、アフロディーテぇ……」
「ふふふ、冗談よ。本当に可愛いんだから」
女ふたりがお風呂で戯れていた頃、双魚宮のリビングには男二人が残されていた。
「そろそろ日没だな」
日が沈むということは夜の女王ニュクスがやってくるということ。そしてカノンにとっても目の上のこぶである冥王ハーデスが瞬のもとへ夜這いにやってくるということでもある。
「カノン」
「なんだ」
サガが飲んでいたコーヒーを置いて真剣に弟を見つめた。なんとなく、カノンも大人しく彼の前に居住まいを正す。
「お前は、本気なんだな? 冥王ハーデスと争ってでも瞬と添い遂げたいと思っているんだな?」
「今更念を押されるまでもない。俺は……」
言葉にするのを一瞬ためらったが、それでもカノンは正直に言った。
「俺は瞬を愛している」
「……そうか」
弟の決意にサガはふうと息を吐いた。
「お前がそう決めているなら何も言うまい。アテナと聖域に迷惑をかけるようなマネだけはするなよ。それと、だ」
「まだあるのか」
「大事な事だからよく聞け。もし彼女を不幸にすることがあれば、このサガ、容赦はせんぞ」
「サガ……お前まさか」
お前も瞬をと乗り出しかけたカノンを、サガはそっと制した。
「お前と一緒にするな。私にはアフロディーテがいる。伴侶として望むのは彼女だけだ」
「ならなんで……」
サガはアフロディーテと瞬がいる風呂場のほうを見た。ふたりがあんなふうに笑えるようになるまでの苦節をサガはよく知っている。そしてその元凶になったのは他ならぬ自分だ。
「白銀聖闘士にケフェウスのダイダロスという者がいた。偽りの教皇だった頃の私は彼の存在に危機感を覚えて……アフロディーテに命じて彼を誅殺させたんだ」
サガは膝の上に自分の肘を置き、組んだ手に額を乗せた。
「……瞬の師だ」
「な……!」
その頃勢いあまって海皇ポセイドンを復活させ、海闘士を率いていたカノンは聖域の内紛を知ってはいたが詳細を知らなかった。サガの中にいた悪が白銀聖闘士のほとんどを失わせることとなったのだが、その中に瞬の師がいたことも、カノンは今の今まで知らなかった。
そんなカノンの反応にサガは苦笑して見せた。
「……知らなかったのか」
「瞬は何も言わなかった。俺の顔を見ても……何も」
「だろうな。それは私たちの中で決着がついているんだ」
アフロディーテとサガはダイダロスを殺し、瞬はその敵を討った。
そして聖戦が終わってこうして黄金聖闘士たちが戻ってきた。
だが数人の聖闘士は戻らなかった。ダイダロスはそのひとりだ。
「私たちは……星矢たちに無駄な戦いをさせただけでなく……大事なものを奪い続けてきたんだ。特に私とアフロディーテは瞬から……だから彼女に対しては誰よりも責任があるし、誰よりも幸せになってほしいと思っている」
「サガ……」
「ハーデスとのことがなくても、カノン。お前の瞬を思う覚悟が中途半端ならこの場で異次元に吹っ飛ばそうと思ったが……その心配だけは無用のようだな」
「……ああ」
カノンの中で寂しそうにコーヒーを見つめた瞬の横顔が蘇る。今は遠く小さな島に眠る師をひっそりと思い出していたのだろう。
「瞬は優しくて強い子だ。もし彼女がお前を選んでくれたのなら、何があっても手放すな」
サガは手放すことの怖さを知っている。
せめて弟にはそんな思いをしてほしくないという兄心にカノンはゆっくり頷いた。
静かになったところに瞬のはしゃぐ声が聞こえてきて、話はそれまでになった。
「出てきたようだな。……いきなり襲うなよ」
「お前は俺をどこまで変態扱いする気だ」
女性ふたりは柔らかそうなルームワンピースを着て出てきた。
瞬はにこにこと、これまでで最高の笑顔を見せている。
「アフロディーテ、私、未来に希望が出てきました!」
「うんうん、私も嬉しいわ。教えたとおりに頑張るのよ!」
「はい!」
それから湯冷めさせないように上着を貸してやって、サガとアフロディーテは瞬を送り出した。
下の花畑まで、カノンが付き添う。
瞬はこれから冥王ハーデスと会わなくてはならない。
本当は行かせたくはないが、彼女が行くと望む以上その意向に沿わせてやるのもまた云々とカノンは自分に言い聞かせた。
「ごめんなさい、カノン」
「ん?」
「……ハーデスとの約束なんです。夜になったら会おうって。まだ答えを見つけていない今、何の理由もなく約束を破るなんてこと、私には出来ないんです……」
「君は優しいからな」
「だけど、あなたの想いを裏切ることもしたくない……だから私、決めました」
十二宮を巡って出した結論はひとつ。
「私は自分に素直に生きていきます。そして……あなたか、ハーデスか。あるいはまったく別の誰かか。あなたが人間だからとか、ハーデスは神様だからとかそんな決め方はしません。でもちゃんと決着をつけます。私はまだ13歳なんですから焦らないで決めますね」
「いや、君は13でも俺は28なんだがな……」
「あ……じゃ、じゃあせめてもう少しだけ時間を……」
「ああ……」
地海に近い空は赤く、遥かなる天空には濃い藍色が広がり始めた。
空に輝くひとつの星は少女の恋を見守る金星。
「……キスしてもいいか?」
「……はい」
そういうとカノンは少し高いところに瞬を立たせたまま口づけた。こうすれば瞬も背伸びしないし、カノンも屈まない。
少女の白くて柔らかい頬を両手でそっと掴んでカノンは自分の唇を触れ合わせた。
瞬を困惑させない程度に優しく触れる、そんなキスもあるんだと青年はやっと覚えた。
「瞬……俺は君が好きだ」
「そこまでにしてもらおうか、蟹座」
黒曜石と紫水晶の輝きを併せ持つ大振りな剣が背後からカノンの頚動脈にピタリと当てられる。
今自分のそばに瞬がいるので巻き添えにすることはあるまいとカノンはうろたえることなく言った。
「蟹座ではないと何度言えばわかる!!」
「黙れ! 瞬から離れよ!! 夜は余の時間だ!!」
「やっ、やめてください!! 喧嘩するならふたりとも」
「うん、捨ててしまえばよいのだ」
もはや敵しか目に入らぬ冥府神と聖闘士はその場ににらみ合ったまま動かない。どうしたものかとうろたえる瞬を連れて行ったのは先代の牡羊座であり、女性教皇もであったシオンだ。柔らかな若草色の髪をさっと風になびかせる。
瞬はおんぶおばけのシオンを振り返ろうとしたが彼女の髪しか見えなかった。
「シオンさん……二人を止めなくちゃ!!」
「よい、ここはアテナの聖域。結界が貼ってあるゆえ聖域は無事だ」
「聖域だけ無事じゃダメでしょう」
「抜かりはない、サガよ」
「はっ」
いつの間に来ていたのか、シオンのとなりにサガがいてなにやら持っている。
真珠とアクアマリンの輝きを持つその壷を瞬は一度だけ目にしたことがあった。
「ちょっ、それアテナの壷じゃないですか!? なんで!? ポセイドンが入ってるんじゃ!?」
困惑する瞬を楽しそうに抱いてシオンは笑う。
「ほほほ、大事無い。アテナの壷はひとつではないと、日本におられるアテナよりお借りしたのじゃ。それ、カノンもろとも冥王を封じてしまうがよい」
「はい」
「ちょっと待ってください、そんなことしたら冥界が黙っていないんじゃ」
「翌朝には出してやるゆえ心配するでない」
シオンが言うより早くサガはアテナの壷に自身の弟と冥王を仕舞いこんだ。アテナの名を記した札を貼ってしまうとざっと243年は出て来れないのでかわりにガムテープを貼っておく。これなら翌朝きちんと彼らを出してやれるので安心だ。
サガの手の中の壷はしばらくは大人しくしていたのだが、やがてごとごとと暴れだした。
「サガ!! お前という奴は実の弟まで封印する気か!!」
「余とてこのような男と一緒にいるのはいやだ!! せめて瞬と一緒ならよかったのに……」
自身がアテナの壺に封印されたことは気にしないらしい。
カノンが横目で冥王を睨みつけて言った。
「それは俺の台詞だ!! なにが楽しくてこんな節穴超次元寝癖と一晩過ごさにゃならんのだ」
「もう一度言ってみろ、蟹座が!! 誰が節穴超次元寝癖だゴラァ!!」
なおいっそうがたがたと暴れだした壷を瞬だけが心配そうに見ていたが、サガはどこか感慨深げだ。
「スニオン岬じゃなくてこのアテナの壷さえあれば……」
弟が何か不祥事を起こしたときや逃げ出したい時はこの壷が使えるとサガは密かに考えていた。
「さてアンドロメダよ」
「なんですか?」
シオンは瞬を自身の腕から解放するとくるりと体の方向を変えさせてじっと少女の瞳を見つめた。
「少女の心は拾えたようじゃな」
「……はい!」
そう言って満面の笑みを見せた瞬にシオンは満足そうに頷いた。わざわざ館内放送をした甲斐があるというものだ。
シオンはアテナの壺をサガから受け取るとそれを瞬に静かに渡した。
「これはひと晩そなたに預ける。頃合を見て出してやるがよい」
なおもがたごとと暴れている壺を瞬はしっかり抱きかかえる。
「……大人しくしなさい!」
瞬が壺に向かって一喝すると聞こえていたのか途端に大人しくなった。
「……瞬がお前を殺すなというし、暴れるなというから休戦ということにしてやる。瞬に感謝するのだな」
「お前もな」
顔を見合わせるから殺したくなるのだと、ふたりは背中合わせに座ることにした。
そして互いに『瞬は何がよくてこんな男を……』と思った。
ただ、壷の外から感じる温かさは心地よい、と思いながら敵なる男たちは愛しい少女だけを想うのだ。




少女は自分だけの明日を見つけに走り出す
どんなに回り道をしてもいい
生きることに近道なんてないんだから


少女の時間は刹那で、でも大切な宝物




≪終≫




≪君だけの宝物≫
天蠍宮〜双魚宮だけでこんだけ書いたのはどうかと思うよ、正直。
ただ人数の差なんですけどねぇ(前半にいるべき人が後半につめているのでそんなに差はないはずなんだけど)。カノンとか双児宮と双魚宮の両方にいるし。
結論を出せるのかどうかは私にも分からないので『こっちとくっつけて!』というリクエストでもあればそっちとくっつける可能性も出てきた。どこまでも他力本願。
長々とお付き合いいただきましてありがとうございます。
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