となりでねむらせて 〜営業課長の秘めやかな癒し 安心できるの あなたの声、あなたの笑顔 そして穏やかな寝顔と細い寝息 冥界の奥底に総督府がある。その最高位をジュデッカといい、下部に三つの組織があった。 ひとつは天雄星ガルーダのアイアコスが率いる男だらけのアンティノーラ。 ひとつは天貴星グリフォンのミーノスが預かる女の子ばかりの華やかなトロメア。 そして最後のひとつが天猛星ワイバーンのラダマンティスが指揮するカイーナである。 そのカイーナでは指揮官のラダマンティスがほとんど休むことなく仕事を続け、今は仮眠室で毛布に包まって眠っているという、ある意味では悲惨な事態に陥っている。 仮眠室をそっと覗いたクイーンは寂しそうにため息をついた。 「どうだ、ラダマンティス様は」 静かに声をかけてきたシルフィードに彼女は痛々しそうに首を振った。 「寝てらっしゃるけど、どうせすぐに起きてくるわ。仮眠室のベッドだってまともじゃないんだし」 「だよなぁ……」 「俺たちも頑張ってるけど、やっぱりラダマンティス様じゃないと分からない仕事もあるしな」 行こうと、ゴードンが静かに二人を促した。 向かった先は会議室。そこにはカイーナのメンバーが集まって円卓についていた。 正面に据えられたスクリーンに今日の議題が映し出されている。そばに立っているのはクイーンだった。 「えー、では今から“如何にしてラダマンティス様に休暇をとっていただくか”について話し合いたいと思うんだけど!」 「異議なーし!!」 ラダマンティスが見たら即刻解散させそうなこの会議も彼が寝ていればこそ出来るというものだ。 クイーンはパソコンを操作して次の画面を映し出した。 「えっと、これはつい最近の勤務表なんだけど……見て分かるようにラダマンティス様のお休みはほとんどない! 月に二日なんて有り得ない! 労働基準法に完璧に違反してるわ!」 「うわあ!」 一同がこりゃひどいと声を上げる中、クイーンは次の資料を示す。 「で、何でこんな事になっているのかというと、仕事が減らないからなのね。まあ地上での死者の数が増加傾向にあるってこともあるんだけど、これは地上の人口が増えている事を鑑みれば仕方がないわけ」 「ふんふん」 手元の資料をめくるメンバーもこれには納得し、頷いた。 が、クイーンはバンとテーブルを叩いた。 「では! 何故ラダマンティス様の仕事が減らないのか! 原因はいくつかあるんだけどまずトロメアとアンティノーラが問題なの!」 「クイーン、アンティノーラはなんとなく分かるんだがトロメアもか? ルネはちゃんと仕事をしているようだが」 さりげなくアンティノーラのメンバーに失礼なことを言いながらもバレンタインが挙手して尋ねた。 するとクイーンは今もせっせと死者を裁いているだろう友人のことを思いながら言った。 「ルネはねー、ちゃんとお仕事してるわ。だけどそれは裁きの館でのことであって、トロメアが処分すべき事案までこっちに回ってきてるのは知ってるでしょう?」 「あ、そっか」 「まあ、ミーノス様のところは最近ほかの仕事もなさってるっていうから仕方がないにしてもね」 全員に思い当たる節があるらしく、いい加減にしてくれと思いながらクイーンに先を促した。 「他にもアンティノーラは毎晩酒盛りしてて、二日酔いで仕事してないって言うし……」 「アイアコス様は最近パソコンのゲームに執心しておられるそうだぞ」 「なんてことだ……!」 「とにかくそのしわ寄せが全部ラダマンティス様に行ってるのよね……」 「お労しいことだ」 バレンタインが目元を潤ませながら言うと、同意したのか数名が目尻をそっと払う仕草を見せた。 「あとは……その……言いにくいんだけどさ、ハーデス様も……」 冥界の主である王神の名が出て、一同はっと顔をあげる。 「ほら、ラダマンティス様とルネがいいかんじでしょう? それでその……やっかみって言うの? ラダマンティス様の執務室を突然お訪ねになってはいろいろと恋の話をお聞きになって、冷やかしたり厭味を仰ったり、はたまた自分のことを相談したりで、その間は仕事がとまるでしょう」 「あー、なるほど」 ミューがふと天を仰ぐ。 冥闘士たちが奉じる冥王ハーデスは先の聖戦で彼の憑代であったひとりの少女に恋をして、現在プロポーズ大作戦の真っ最中である。というのもその少女が13歳とまだ幼く、そして聖闘士である事など含めてまだ決心がつかないと言っているからだ。だから冥王は彼女がうんと言ってくれるまで口説くのだと、地上で夜に当たる時間だけ彼女のもとに赴いている、言わば通い婚状態にある。 そんな冥王の行動もラダマンティスには心労なのだ。 「と言って恋敵のカノンを殺せばそれはそれで問題なんだろうしなぁ」 「ああ、ハーデス様が寿命だったと言い張っても奴が80代ならまだしも、20代後半だからな」 話がなんとなくそれかけたところを、クイーンがパンパンと手を打って戻す。 「カノンを殺す殺さないの話は別にして、とりあえずどうやったらラダマンティス様にお休みいただけるのか、そのためにはアイアコス様に恒常的に仕事をしていただかないといけないわけなんだけど」 「それにルネはミーノス様の妹分でもあるから、そっちのこともいろいろと」 問題の根源に戻り、一同うーんと首をひねった。 「とりあえず俺たちで説得する以外に方法はないよな」 「アンドロメダ様に根回ししとくって言うのもアリだと思うんだけど」 「おおおおお」 「おい! ラダマンティス様がお起きになられたぞ!」 「やばっ! とりあえず今日は解散! 前もって決めておいたとおりに!」 「おう!」 会議室の外に離しておいた蝶からの連絡を受けたミューが慌てて立ち上がった。一同は資料を片す。クイーンはスクリーンを押し上げて何事もなかったかのように会議室を出る。 カイーナメンバーが微妙に団結した瞬間だった。もちろん、この会議を行うにあたり、通常業務に穴をあけたりしないところは流石と言えるだろう。 ほんの1時間の仮眠のあと、すぐに仕事に取り掛かるラダマンティスを見つめ、一同深いため息を漏らすのであった。 カイーナ所属の冥闘士のうち、非番だったメンバーがとりあえずアンティノーラに向かうと、そこはいきなり酒臭かった。昨日もここで酒宴を催したらしい、あちこちに酒瓶とつまみ、そして見た目はイケメンの連中がごろごろと転がっていた。 訪れたバレンタインとミューはなんとなく同僚を蹴飛ばしながらアイアコスの執務室へと向かった。 しかしいくらノックしても、中から返事はなかった。 「おかしいな、いらっしゃらないのだろうか」 「いらっしゃるようだぞ、中から音がしている」 扉の向こうから聞こえてくる仄かな電子音に聞き耳を立てるふたりはそっと中をうかがって見た。 そしてがっかりと肩を落とし、ため息をつく。 「……ダメだ、こりゃ」 「諦めちゃダメなんだろうが、なんかいきなり挫かれた気分だ」 パソコンのスクリーンセイバーのなかでデフォルメされたガルーダがぴよぴよと飛び回っていた。そしてアイアコス自身はキーボードの上に突っ伏してぐーすか眠っていた。 叩き起こしたい気分ではあったのだが、一応彼は上司であるラダマンティスと同位の冥闘士だ。無作法は出来ず、バレンタインとミューは“仕事しろ!!”と書いた紙をガムテープで彼の顔とパソコンに貼っておいた。 「これくらいで大丈夫だろうか」 「部屋中に貼ったらインパクトがあるかもな」 そういうとミューは蝶たちに手伝わせて、アンティノーラ中にバレンタイン特製のチョコレートペンで“働け!!”と書いて回った。 そしてクイーンとシルフィードは地上にいる冥王の恋人のもとを尋ねていた。 「けど俺ら、アンドロメダ様とは直接面識がないだろ。俺たちは向こう知ってるけどさ」 「ドラゴンがいるから大丈夫よ!」 休日に紫龍に会えるのが嬉しいのか、クイーンはどこか楽しそうに城戸邸の別館へ向かっていた。 庭先では運良く紫龍が水を撒いていた。その横に未来の王妃も立っている。 クイーンは思わず駆け出していた。 「ドラゴン見っけ!」 「お、おい、クイーン!?」 訪問の目的を忘れかけているクイーンにどこかで釈然としないものを感じながら、とりあえずシルフィードはお土産のケーキを壊さないように歩き出した。 紫龍とその少女は異母の兄妹で、理知的で優しそうな笑顔がよく似ていた。 「すっかり秋らしくなってきたね、ちょっと前まで半袖でも暑いくらいだったのに」 「そうだな。しかしこんな広い庭の落葉を掃いて回るのも大変だな」 アテナ沙織が自分たちのために用意してくれたこの家屋は家と呼ぶには広すぎた。が、沙織にしてみれば屋敷と呼ぶには狭いのだと言う。それでも沙織の心遣いを嬉しく思い、大事に暮らしている。 瞬は小さく笑うと、くるっと指先を回した。 何事かと紫龍が見つめていると、彼女の指先から小さな空気の渦が飛び出して、庭中を駆け巡った。 「な、何をしてるんだ?」 「ん? ああこれ。小型のネビュラストリームの開発に成功したの。これでお庭の掃除もばっちりだよ」 見れば小さな竜巻は落葉を巻き上げながら庭中を巡っている。これには流石の紫龍も思わず目を見張った。 「……小宇宙をこんなふうに使っていいのだろうか」 「んー、いいんじゃないかなぁ。戦うためだけに使うのはイヤだもん」 「瞬……」 争うことが嫌いなのに戦いに身を投じた少女は笑顔を絶やさない。冥王はこの笑顔を愛したのだろうかと、紫龍と、そこにいたクイーンたちは目を伏せた。 「あれ、ねぇ、あそこに誰かいるけど」 「ん?」 ふと紫龍は瞬が示す方向に目をやった。するとそこに立っていたクイーンとシルフィードを見つける。紫龍は水を止めながら言った。 「冥闘士のクイーンとシルフィードだな」 「なんだろうね、ハーデスは冥界にいるはずだけど……」 先日の紫龍の誕生日にシュラとともに五老峰を戦場に変えた女、天魔星アルラウネのクイーン。彼女は本気なのか冗談なのか、傷をつけた責任を取れと紫龍を追い掛け回している。 「やっほー、ドラゴン。アンドロメダ様もご機嫌麗しく」 「こんにちわ、クイーンさん、シルフィードさん」 聖闘士とはいえ、未来の冥妃に対する冥闘士の態度は丁寧だ。瞬はもともと誰に対しても丁寧に接する。 紫龍はいやな予感がするとばかりに顔を引きつらせた。 身構える少年に、クイーンが小さく笑う。 「やだ、今日はアンドロメダ様にご用があったのよ。よろしいでしょうか」 「はい」 クイーンに優しく微笑まれ、瞬はこっくり頷いた。 冥王に愛される少女はまだ13歳、ギロチンの女王に追い回される少年も14歳なのだ。 そんな二人の背中を見つめながら、シルフィードは静かに三人の後ろをついていった。 クイーンとシルフィードから話を聞いた瞬と紫龍はかつての敵ながらラダマンティスに同情せざるを得なかった。何故なら自分たちの知人によく似た状況の青年がいるからだ。 彼の周りにも胃薬が絶えない。 「で、私は具体的にどうすればいいんでしょうか」 「はい、ハーデス様をそれとなく諭していただければ、と。そして、もしよろしければですが、ハーデス様の妃となってくださいますれば」 「それは善処してみますね」 人命に係わると言われると放っておけないのが瞬だった。 しかもクイーンの言葉には嘘がない。仕事に追われ休む事も出来ず、その多忙の原因に振り回されるラダマンティスの友達は胃薬。一刻も早く仕事から無理にでも引き離さなければ過労で死んでしまうかもしれないのだ。 冥闘士や聖闘士の死因が“過労”だなんて情けなさ過ぎる。 話がひととおり終わって、瞬がぽつりと呟いた。 「まったく、ハーデスったら」 紫龍が入れてくれた茶を飲みながら、クイーンはふと瞬を見つめた。聖戦の折に会う事もなく、話をしたこともなかった。 亜麻色の髪が優しい少女は冥王と同じ色の瞳で静かに何かを見つめている。 「アンドロメダ様」 「……瞬でいいですよ、クイーンさん」 クイーンは穏やかに笑って目の前の少女を呼び直した。 「では瞬様、と。瞬様はハーデス様がお好きですか?」 「うーん、そうですねぇ……」 彼女の問いに瞬はほおっと息を吐いて答えた。 「神様について好き嫌いなんてどうかと思うんですけど、でも男の人としてなら好きですよ。私には優しいですし」 「そうですか」 「みなさんには優しくないんですか?」 「いいえ、とてもお優しいですよ。ですがラダマンティス様はどうも、その……律儀すぎるところがありまして」 「じゃあ、お休みが取れたらちゃんと休ませてあげてくださいね」 瞬がにこりと笑った、その瞬間。 クイーンとシルフィードは冥妃はこの人でなければダメだ、と思った。 城戸邸を後にしたクイーンとシルフィードはふと背後を振り返る。 「私さ」 「んー?」 冥界へ戻る道を辿りながら、シルフィードは横に立つクイーンを見た。彼女は美しい色の髪に指を入れ、耳にかけながら言った。 「ハーデス様が瞬様に惚れた理由が分かったような気がするわ。あの方は本当にお優しいもの。でも優しいだけじゃないの。何で優しくなくちゃいけないのか、それをちゃんと知ってるわ」 「クイーン……」 ふふふと笑いながら、彼女は青年の腕を取った。 「さ、あとはミーノス様を攻略しなきゃ。そしてラダマンティス様に正常な休暇を取っていただくのよ!」 ほんのりと温かい花の腕に風の名を持つシルフィードはほんのり頬を染めて結界を開いた。 そんな彼を見つめて、クイーンは怪訝な顔をして見せた。 「なによ、なに紅くなってんの? 言っとくけど私はドラゴン一筋だからね! 中華料理覚えるんだから。あの切り裂き山羊や小娘には負けないわよ!」 「あ、そ」 回された腕に何の意味もないと知るや否や、シルフィードはがっかりと肩を落とす。 その頃冥界の裁きの館ではその日最後の死者を裁き終えていた。マルキーノが女主人の前に明るい頭を垂れた。 「ルネ様、本日はこれで終了でございます」 「はい、ご苦労様でした。ここのファイルを片付けてくださいね、そしたら下がっていいですよ」 「はっ、畏まりました」 静寂を尊ぶこの館での会話は必要最低限、しかもごく小さな声で交わされる。 天英星バルロンのルネは雪白色の長い髪を翻し、法衣の裾でわずかに床をこすりながら退廷した。そして控え室に入ってようやく息をつく。もともと騒がしいのが苦手な彼女にとってこの裁判所での仕事は適材適所といえた。 マルキーノがファイルを片付けている間も、ルネの仕事は終わらない。 彼女の仕事は基本的には裁判そのものに徹する。そしてその裁きの中で罪人たちをどの地獄に落とすのか、振り分けなくてはならない。そしてその振り分け書をカイーナに送り、ラダマンティスの決済を受けてようやく死者たちは己の罪を知るのだ。 ルネは法衣を脱がず、そのままパソコンに向かった。 「えーっと、罪人番号Y−20070205、罪状:婦女暴行っと。こーゆーのは重いところに落とさなくっちゃ。次、Y−200702 06は詐欺による蓄財か。それで女を食い物に……ひどい」 どことなく男の罪人には厳しいような気もするが、それでも彼女はたったひとりで裁きを続けている。 それもこれも部署違いながらも敬愛してやまないラダマンティスのためだ。冥闘士として覚醒する以前からルネは男性とは縁遠い暮らしをしてきた。そして冥闘士となって生きながらこの冥界に来た後も配属先は女の子ばかりのトロメア。そんな不慣れな冥界で彼女を支えてくれたのがラダマンティスだったのだ。出会った頃は警戒ばかりしていた彼女もラダマンティスの紳士らしい振る舞いにだんだん心を許し、今では想い想われる仲にまで発展している。 但し、主君である冥王ハーデスが婚約中とは言え未だ独り身であることを配慮して目立ったことはしていない。 ルネはラダマンティスを想うだけで幸せだった。 彼のためならなんでも出来る。なんでもしよう。だから彼女は自分の仕事に些細なミスさえも許さない。 それから数十分後、出来あがった書類を届けにルネはカイーナに向かった。 途中、第二獄で幸せそうに寄り添いあうオルフェとユリティースを、ほんの少しだけ羨ましいと思った。 (私も、ラダマンティス様とあんなふうに出来たらなぁ……) 冥王を憚ってだけではない、ラダマンティスにはのんびりする時間がないのだ。道端ですれ違ってもほんの少し笑顔を見せてくれるだけ、良ければ手紙なんかもらえるのだが、それも最近は少ない。 ルネはため息をついた。 「ミーノス様もお仕事してないわけじゃないんだけど……」 ミーノスもミーノスで過去帳をパソコンで処理してデータベース化する作業に追われている。が、毎日死者が何万もやってくるという現状で作業がなかなか終わらないのは当然と言えた。 「あれ、ルネじゃない!」 声をかけてきたのは天魔星アルラウネのクイーン、ルネにとっては良い友達のひとりだ。花咲く乙女の冥衣を纏う彼女はいつも明るかった。 「クイーン、どうしたの? スーツなんか着て」 「うん、ちょっとね。ルネってばまだ仕事してたの?」 クイーンの言葉にルネはわずかに頬を染めて頷いた。 「だって、私がサボったらラダマンティス様に迷惑がかかるでしょ」 ひとつ年上の友人の言葉にクイーンはがっしりと彼女を抱きしめた。ルネは驚いて身を捩る。 「ちょっと、クイーンったら」 「偉いわ、ルネ! もうラダマンティス様の女房はアンタしかいないわ!」 「わかったから離して! 書類をお届けしなくっちゃ」 ルネの抵抗にクイーンははっと我に帰り、抱きしめていた友を解放した。そして彼の執務室までいっしょに付いて行くことにした。 「でもほんとう、羨ましいよね」 「なにが?」 ルネが小首をかしげるその仕草は20歳になったばかりとは思えないほどあどけない。性格がまったく真逆だからこそ、ふたりは仲良くなれたのかもしれない。 クイーンは小さく笑いながら言った。 「ラダマンティス様って私たち女性冥闘士の間じゃ一番人気だよ? それを射止めちゃったんだもん」 「射止めるだなんて……私はただ、ほんの少しでいいからお言葉をいただけたらなって思っただけで」 「でもラダマンティス様はあなたが好きなんだよ?」 「クイーン……」 いつも明るい彼女が、ラダマンティスの話をするとき。 そのときだけ、ちょっと影を背負うのはなぜだろうと、ルネはずっと思っていた。 「クイーン、あなた」 「そりゃ私だってラダマンティス様が好きよ。でもあの方が好きなのはルネ、あなたなんだから。自信持って!」 「……うん」 クイーンは今、年下の龍を追いかけるのに必死になっている。 恋をする淑女たちはどこまでも穏やかに微笑みつづけて。 ふたりが執務室の前まで来ると、急に得体の知れない違和感を感じた。 「なんだろ、変な感じ……」 「入ってみようか」 入室の許可を求めても返事がない。もしかしたらジュデッカに呼び出されて留守にしているかもしれないと思いながらドアを明けた二人の目に飛び込んできたのは鮮やかな紅だった。 「ら、ラダマンティス様!?」 慌てた二人が駆け寄ると、ラダマンティスは気を失って机に突っ伏していた。唇の端からあふれ出る鮮血が書類を汚している。どうやら喀血したらしい。 ルネがラダマンティスを助け起こしている間にクイーンが部屋を出て数人連れてきた。全員が別室で仕事をしていたため、誰も執務室の異変に気がつかなかったのだという。 「ラダマンティス様! しっかりなさってください! ラダマンティス様あ!!」 半分泣きながらラダマンティスを揺さぶるルネの姿に誰もが言葉を失う中、騒ぎを聞きつけたミーノスとパンドラもやってきた。 「何事ですか!?」 「ミーノス様、パンドラ様……ラダマンティス様が喀血なさったようで……」 クイーンの言葉にパンドラが目を見開いて驚き、ミーノスがため息をついた。少しは休まないと、いつかはこうなるだろうと彼を諭していた彼女だったのだが、はからずも現実となってしまったのだ。それに可愛がっていたルネの狼狽ぶりにも心を痛め、ミーノスはその綺麗な手をぎゅっと握り締めた。 「パンドラ様、すぐに医者に運んだほうが」 「うむ、誰かはやく担架を持って来い! ラダマンティスを運ぶのだ!」 「はっ!」 何故かカイーナに据え付けてある担架を持ってくる男たちの手によってラダマンティスは病院に運ばれた。 「ラダマンティス様、ラダマンティス様ぁああ!」 「落ち着きなさい、ルネ」 運ばれていくラダマンティスに半狂乱になりながらすがっているルネを無理やり引き離し、ミーノスは彼女をぎゅっと抱きしめた。 「ミーノス様……だってラダマンティス様は目を覚まさなくて……もし何かあったら私……」 上官の腕の中で泣きながら訴えるルネを見つめ、パンドラもそっと彼女に歩み寄った。 「心配するでない、ラダマンティスはそう簡単に死ぬような男ではないだろう?」 「パンドラ様……」 聞いていたクイーンもルネの肩をたたき、諭した。 「あなたがここでくよくよしてたって仕方ないじゃない! ラダマンティス様についててあげなきゃ」 「そうですよ。裁きの館には私が久々に赴きますから心配しないで」 「ミーノス様……」 数々の励ましを受けたルネは涙があふれる目尻をきっとぬぐって顔を上げた。 「私、ラダマンティス様に付き添います!」 丁寧に一礼するルネを温かいまなざしで見送ったすぐあと、パンドラは早速指示を出した。 「ミーノスはルネに変わって裁きの館へ、バレンタインはラダマンティスの代理としてカイーナをまとめよ。私はこれからハーデス様に報告してくる」 「はっ!」 一同がわらわらと動き出す中、クイーンはふとルネが去ったほうを見つめる。 あんなに取り乱したルネを見るのは初めてだ。でもそれだけ彼女がラダマンティスを想っているということの表れだと知った今、これでよかったのだとも思った。 「私も、ラダマンティス様を思ってた。だけどルネ、あなたがあんなに切なそうにあの方を見つめるから、私は……」 あなたに譲ったんだからねとひとりごち、クイーンは自分の頬を軽く張った。 真っ白な壁、太い腕に繋がれた細い点滴の管。滴る薬液がどれだけ彼を楽にしてくれるのだろう。 そんなことを考えながら、ルネは静かに眠るラダマンティスを見つめていた。 「ラダマンティス様……」 思えば彼のこんな寝顔を見るのは初めてかもしれない。眉毛凛々しい彼はいつも仕事に追われていた。こんなことでもなければ恐らく仕事を止めることもなかっただろう。 ラダマンティスを運んできたカイーナの冥闘士たちはルネの姿を見ると後は任せたと引き取っていった。 病室に二人だけが残される。 規則的に繰り返される細い呼吸にほっとため息をつきながら、ルネは静かに目を閉じた。 こんなふうになるまで気がついてやれなかったことを誰よりも悔いているのは彼女自身に他ならない。いくら部署が違うとはいえ、職務上顔を合わせない日はないのだ。 「ごめんなさい、ラダマンティス様……」 「何を謝る」 突然聞こえてきた、太く低い声にルネははっと顔を上げた。見ればラダマンティスが目を開けてこちらを見ていたのだ。 「ラダマンティス様、いつお目覚めに?」 「つい、今しがただ。俺はこんなところで何をしているんだ?」 起き上がろうとするラダマンティスをそっと制し、ルネは泣きそうになるのをこれながら言った。 「覚えておいでになりませんか? 執務室で血を吐かれてお倒れになっていたのですよ」 わずかに乱れた上掛けを直すルネの髪がさらりと揺れる。美しい銀の流れにラダマンティスはそっと手を伸ばした。 「ら、ラダマンティス様?」 「綺麗だな、ルネ」 男の指に絡まる髪は絹糸のようにさらさらしていた。薄く頬を染めるルネも可愛いと思いながら、ラダマンティスはその手を離す。 「……世話をかけたな」 「いいえ。それよりも、ラダマンティス様がこんなにお悪くなさっていたのをちっとも気がつかなくて……申し訳ありません」 「それを謝っていたのか」 そう言って苦笑したラダマンティスにルネが少し声を荒げた。 「わっ、笑い事ではありませんよ! どれだけ心配したと思ってらっしゃるんですかっ!? 私はっ……私はっ……」 言うなり泣き出したルネを宥めようと、ラダマンティスは点滴を差した腕を支えに起き上がろうとした。だがその腕に触れたのは誰あろう、銀髪のルネだった。彼女はしゃくりあげながらその男らしい腕を撫でた。 「無茶なさらないでください……ラダマンティス様に何かあったら、私はっ…いえ、冥界はどうなるんですか……」 「ルネ……」 細く煌びやかなその指で、彼女はいつまでも男の手に触れていた。 ラダマンティスは点滴をしていない腕でルネの頬に触れた。 「すまない、ルネ」 「……いいえ」 静かに呼び合う声、触れ合う指先。 たったそれだけで幸せだと思える時間。 病室の入り口にいたもう一組の男女が中に入らないでじっと立っている。やがて少女は静かに唇を開いた。 「帰りましょうか。私たちに出来ることはないみたい」 「そうだな、このまま余が入っていっても邪魔だろうしな」 亜麻色の髪の乙女に促され、黒衣の王神はそっとその場を離れた。 病院を出ると夜空が広がっていた。月のない真っ暗な空に光る星は88の星座を描くだけではない。まだどこにも属していない未知の星や、小惑星が浮かんでいる。その王の名を関する星も今は矮惑星として数えられるようになってしまったが、それでもこの空に存在している。 並んで歩く姿は仲睦まじい恋人同士のように見えた。 男は少女にぴったりと寄り添う。 「なあ、瞬」 「なんですか」 「もしも余が倒れたら、瞬はあのようにそばにいてくれるか?」 逆巻く黒髪の王は死ぬこともない永遠の神。いつ倒れるのかと思いつつ、瞬と呼ばれた少女はため息をついた。 「そばにいてあげたでしょう? あなたがアテナの聖杖を受けて倒れたとき」 「……そうだったな」 あのときのことを思い出した彼はよりいっそう瞬にべったりとくっついた。 「歩きにくいですよ」 「手を握ってもよいか?」 「……いいですよ」 そっと触れた温かな手を握る、その手も温かくて。 「あなたは本当に優しいんですね」 「ん?」 「パンドラさんが言ってましたよ。あなたは自分の兵士が傷つくのは嫌いなんだって。気になってたんでしょう?」 「まあな。アレは律儀すぎていかん。恋しい女がいるのに余に気を使ってまだ手も出しておらんようだし」 すると瞬がふと立ち止まってじいっと彼を見つめる。 「な、なんだ?」 「ハーデス、それは私に対するあてつけですか? 私だってちゃんと考えてますっ! でもまだ13歳なんだからっ!」 繋いでいた手を離し、瞬はずんずん歩き出した。 よくわからないが怒らせてしまったらしい。ハーデスは慌てて瞬を追いかけた。 「瞬! あてつけではないぞ! 余はそなたの意思を尊重しておるではないか!」 「本当に、ちゃんと待っててくれますか?」 もう少し私が大人になるまでと、少女はそれだけを冥王に願った。 「無論だ。急に何を怒るのだ」 「だって、私がもたもたしてるからラダマンティスさんに迷惑をかけてるみたいじゃないですか……」 上目遣いに言われて、ハーデスはやっと思い当たった。優しいけれど、ときどきすねてみせるのはやはり子供らしくて。 ハーデスはゆったりと少女を抱きしめた。 「では、ラダマンティスに気遣い無用と伝えよう。そしてそなたも、ゆっくりと余のそばに来てくれればよい。余はいつまででも待てる」 神話の時代からずっと待っていたのだからと、二人そろって夜空を見上げる。 「綺麗な星空ですね」 「そなたのほうがずっと綺麗だ……」 見つめあえばそこに君、口づけたのは男が先か、女が先か。 「……ラダマンティスさん、早く良くなるといいですね」 「そうだな」 彼らがいるだろう病室の窓を見、二人はゆっくりと帰路についた。 それから1週間ほどの療養を取り、ラダマンティスはルネと共に冥界に戻ってきた。 復帰した彼の第一声は部下たちに対する謝罪だった。 「迷惑をかけたな、おまえら」 その言葉にカイーナのメンバーは一生彼についていこうと決めたんだと、後に語ったという。 嬉しそうにラダマンティスを囲む輪から外れているルネに、クイーンがそっと近づいた。 「お疲れ様、ルネ」 「クイーンこそ。ラダマンティス様がいらっしゃらない間のカイーナは大変だったでしょう」 相変わらず優しいルネの言葉にクイーンはううんと首を振った。 「アイアコス様がね、ミーノス様の監視の元でちゃんとお仕事してくださったから、かなり進んだのよ」 「へぇ……アイアコス様が……」 パソコンのゲームにばかり興じていた彼を立ち直らせたのはアンティノーラ中に書かれた『天誅』の文字だったという。これはバレンタインとミューが書いてまわった『働け!』『仕事しろ!』のチョコ文字がいい感じに溶けて出来あがったものなのだが、当の本人たちは黙秘を通している。また、ミーノスから『働かざるもの食うべからず』とお菓子を取り上げられ、さらにパンドラやハーデスから叱られたのも契機だったらしい。 ルネは留守にしていた冥界の様子を聞きにトロメアに向かった。 「ミーノス様、ただいま戻りました」 「おや、もう戻ってきたのですか、早かったですねぇ」 そう言ってほんの少しにやつくミーノスに、ルネは苦笑をもらした。 「ラダマンティス様は仕事が気になるらしくて、早く戻りたがっていらっしゃいましたから」 それを聞き、ミーノスは相変わらずですねとため息を漏らした。 が、問題はそこではなかったらしい。ミーノスは下がろうとしたルネを呼びとめた。 「なんでしょう」 「1週間もラダマンティスと一緒にいたんだから、何か進展はあったでしょう?」 言われたルネは真っ赤になって逃げようとしたのだが、同僚たちに囲まれていた彼女に逃げる術はなかった。 ラダマンティスはほとんどの女性冥闘士の憧れなのである。 「ルーネぇ、聞かせなさいよ、一週間何してたのよ」 同僚たちから肘でつつかれ、ルネはしどろもどろに答える。うろたえるような事は何一つないのだが、彼女たちの微妙な笑顔にだんだん悪いことをしたような気持ちになってくるから不思議だ。 「な、何もしてないわよ。ただおかゆを作ったり身の回りのお世話をしただけだし」 「嘘! どんだけ清い仲なのよ! ハーデス様とアンドロメダ様じゃあるまいし、いい大人でしょ!?」 「ミーノス様! 助けてください!」 事実を言っても信じてはもらえず、ルネはそばにいたミーノスに助けを求めた。けれど上官である彼女は可愛い妹分に対して残酷な言葉を吐いた。 「ファラオ、魔琴を使ってかまいませんから白状させなさい」 「はっ!」 「ミーノス様ああああ!!」 にじり寄ってくるファラオの笑顔が清々しいほどに禍禍しい。ルネの必死の抵抗も空しく、魔琴の音は彼女の思考を奪っていく。 「さ、ハーデス様に報告してきましょうかね」 どうせラダマンティス本人が御前に参じているだろうと思いながら、ミーノスは席を立った。 その日、ラダマンティスは規定の時間に執務室を出ることが出来た。 そして寄宿舎に帰る途中で、同じく帰宅途中のルネと出会った。心なしかふらふらしている彼女を不審に思いながらも、彼はそっと彼女に声をかけた。振り返ったルネは少々やつれてはいたものの、それでもいつもの様に優しい微笑を見せてくれた。 「あ、ラダマンティス様……」 「ルネ……1週間も世話になったな、礼を言うぞ」 彼がそう言うと静寂の淑女は顔を赤らめてぶんぶんと首を振った。 「いいえ、私が出来るのはそれくらいですから!」 慌てて立ち去ろうとしたルネの手首を、ラダマンティスは思いっきりつかんだ。彼女が苦痛に思いっきり顔をゆがめるのにも構わず抱き寄せ、そして口づけた。 「!」 ただ触れるだけのキスなのに、どうしてこんなに愛しいんだろう。 彼らしくない振る舞いに驚きながらも、ルネは何も考えられずにただ目の前の男を見つめていた。 「ど、どうして……」 「おまえが好きだからだ。今夜は泊まっていけ」 「え……ええええええええええええ!?」 有無も言わないうちに引っ張られるルネ。その様子を物陰から見ていたのが冥界の主神、ハーデスだった。彼はうむむと唸りながら彼らの背中を見送った。 「余に気兼ねは無用と言ったには言ったのだが、ラダマンティスめ、なかなかやるな」 負けてはおれぬと冥王様、奇妙な対抗心を燃やしたがゆえに瞬にひっぱたかれることになるのだが、それはまた別のお話。 とりあえず幸せそうな恋人たちはどの世界にもいるものだから 今夜は覗かないでそっとしておきましょう きみのとなりでねむらせて ただそう願っただけだから ≪終≫ ≪ラダマンティス様お誕生日≫ お誕生日SSとしては誕生日会を開くSSと、めったに書かないキャラを書くことで祝うSSとがありますが、ラダ様の場合は後者に該当するんでしょう、俺の場合。 うちはラダルネ進行です、いえー。ラダマンティス様は紳士の国の人なんだぜイエー。 ルネさんは深窓の令嬢イメージ。でも鞭振るうよ。ちぃちぃぱっぱと鞭振るうよ! そんな感じで、冥界ではハーデスと瞬に次ぐくらいのいいご夫婦でいてほしいです。 とりあえずラダマンティス様、お誕生日おめでとうございますだぜ! |