雪のひとひら もう、どうなっても構わないと思った 「……まさか拉致されるなんて思わなかった」 「……余も、拉致するとは思わなかった」 何処の国にいるのか分からない。ただ雪深いところだということは分かった。 窓の外は銀色に輝いていたし、ときどき屋根から落ちる音が聞こえてくる。 男はむくれたままの少女を膝に抱きあげて、暖炉の前に座り込んでいた。 「寒いか?」 「そりゃあもう。ここは一体何処なんですか?」 「さあ」 「さあって……」 亜麻色の髪の少女はそれ以上の追求を諦めた。この男はいつだってこうなのだ。 思いついたら思いついたとおりに行動する男なのだ。 そのせいで自分は彼の恋人になったわけだが、果たしてそれでよかったのだろうかとときどきふと思う。 「……ふたりきりに、なってみたかったのだ」 「ハーデス……」 どこか切ない、男の声。 少女が呼んだ名は冥府を司る神のもの。逆巻く麗しい黒髪が少女の頬に触れた。 「余は、朝になったら帰らねばならぬからな。けれど……たまにはこうして瞬と地上にいたいのだ」 「ハーデス……でも、冥界はいいの?」 「ああ、余がいなくても世界は動く」 瞬はため息をついて、本格的に諦めた。 彼の願望はあまりにも幼くて、そして切ないほど理解できる。 恋をすれば誰だって想い人と一緒にいたいと願うのだ。ただ彼は神というその身分ゆえに人である瞬のそばで時を過ごすことが難しい。 だから。 彼は思ってしまったのだ、ほんの少しでいいから、もっと彼女といたいと。 夜が明けて冥界に帰ろうとした、次の瞬間。 冥王は瞬を攫って逃げていた。 「私は知りませんからね、あとで兄さんになんて言われるか……」 「そなたの兄が怖くて求婚ができるか」 すっかり開き直った冥王に瞬は今日何度目かのため息をついた。 そんな彼女に冥王は頬を寄せる。 「なぜ、そんなにため息をつく?」 「いえ、呆れて何も言えなくて……」 瞬の腰から腹に手を回して抱えていたハーデスはただそうかと呟いた。初めての恋にどうしたらいいのか分からない冥王は瞬を愛しく思うだけなのだ。それゆえに時として突飛もない行動に出るわけだが、彼はまだそれに気がついていない。 「じゃあなんで、私をここに連れてきたのかも分からないんですね?」 「いや、それはわかる」 「どうして?」 瞬は首だけ動かして冥王を見上げた。すると彼は瞬を見つめて小さく笑って見せた。 「冬だからな。それらしいところをと、とっさに思った」 暖炉にくべられた薪が爆ぜる。ぱしっと上がる焔は二人の心に何かを灯した。 「まあ、とにかく二人っきりになっちゃったんですから、このままでいましょうか」 「そうだな」 瞬がやっと笑ってくれたのでハーデスも本気で微笑した。 「でも、あの……」 「わかっておる。手は出さぬ」 ハーデスは瞬の腹に回していた手を少し浮かせた。そんな優しさがくすぐったくて、瞬は小さく笑って見せた。 「瞬……」 「なんか、不思議。もうとっくに夜はあけてるはずなのに」 瞬はそっとハーデスに背中を預けた。ふわりとかかってくる温かさに彼は思わず目を瞠る。 「ということは、わたしはやっぱりあなたといたいのかもしれない……」 「瞬、そなた……」 冥王の呟きに瞬はフフフと笑う。 「私とあなたは敵同士だったのに、今じゃこうしてあなたがいないと、その……なんていうのかな、寂しいかもしれない」 ハーデスは冥界を司る王神、瞬は軍神アテナに従事するアンドロメダの聖闘士。 大地の覇権を巡って気の遠くなるような時を争いに費やしてきた。 瞬はこの時代に冥王の肉体となるべく定められた少女だった。 そんなふたりが恋に落ちるのは周囲から見れば不思議だったかもしれない。けれど冥王は瞬の肉体に入り、彼女の温かさや優しさ、そして強さに触れた。そして瞬も彼の寂寥や孤独に触れてしまった。 飢えていた者と、優しすぎる者が出会えば補完を求めるのは当然と言えるだろう。 そんな冥王がくくっと笑った。 「推測の域を出ないな」 「だってあなたが私のそばを離れることはないじゃないですか」 「夜しか一緒にいられないのだぞ、一分一秒でも惜しい」 そういうとハーデスは瞬の頬に自分のそれを摺り寄せた。 「もう、くすぐったい」 「そなたが可愛いからいけないのだぞ」 ハーデスの唇が瞬の頬を掠め、瞬は少し身を強張らせてそれを受けた。 「そうだ、折角雪が降ってるんだから、外に出てみませんか?」 「それは構わぬが、その服で平気か?」 今朝方、瞬は目を覚ましたあとすぐに着替えていたのだが部屋着のままだ。こんな雪深いところでは寒かろう。だが彼の言葉に瞬は笑い出した。 「私だって聖闘士ですよ? これくらい大丈夫です」 「さっきは寒いといったではないか」 「寒いには寒いですよ。でも平気です」 行きましょうと、瞬は立ち上がって冥王の手を取った。 優しい少女の、温かい手。 綺麗な指先に自分のそれを絡め、冥王は立ち上がる。 そして自分の外套にくるりと瞬を包み込んだ。 雪は真っ白だけど、世界はどこまでも色鮮やかで。 「うわぁ……」 きらきらと煌く白銀が一面に広がっている。よほど寒いのか、瞬の吐く息は空間を白く染めてまた透明に戻す。 「すごいですね、一面銀世界ですよ」 握った手を離さない冥王と歩調を合わせながら、瞬は静かに歩く。普通の靴でこの深い雪の中を歩くのはとても労力がいる。けれどどんなに華奢に見えても彼女とて聖闘士、これくらい訳もない。 「見事だな」 「神様のあなたでも、そう思うんですね」 少しからかうような瞬の抑揚にハーデスは彼女の肩を抱いて答えた。 「余は素直だからな。綺麗なものは綺麗だというぞ。それでも、どんなものでもそなたには敵わない」 「私は、綺麗じゃないですよ……」 瞬は立ち止まってふと自分の手を見つめた。 兄の手を戦いに染めさせた愚かな弱い手。 師を守ることができなかった、幼く脆い手。 誰も傷つけたくないなんて言いながら、誰かを殺すために鎖を握り続けた罪の手。 この手は、ぜんぜん綺麗じゃない。 「また、暗いことを考えておるな」 ハーデスは瞬の肩を抱いていた手に力を込めてぐっと引き寄せた。勢いで瞬が少しふらつくが、すぐそばにいたハーデスに支えられたので雪の上に倒れることはなかった。 瞬は静かに唇を開いた。 「大事なことですよ。それにあなただって言ったじゃないですか、罪は忘れちゃいけないって」 「だが、余はそなたを綺麗だと思う」 罪に濡れてなお、凛々しく生きるその姿は。 死と闇しか知らなかった冥王に生命の灯火の温かさを教えたのは瞬だった。 蝋燭の明かりのように穏やかなその煌きは孤独の中に眠り続けた冥王に安らぎを与えて。 「だから愛したのだ、そなたを……」 「……――のに」 「なに?」 瞬の呟きが一陣の風に攫われた。 冥王が目を開けたとき、瞬も彼のそばにはいなかった。 彼女は男の腕を離れて走り出していた。 深い雪に、足を取られないように。 「瞬!?」 遠ざかるぬくもり、手放したくないと冥王は彼女を追いかけた。 瞬間的空間移動をすれば簡単に追いつけたはずなのに、なぜだか冥王はそうしなかった。 確かに、空間的な距離は縮まって彼女を簡単に捕らえられたかもしれない。でも、心の距離は? 冥王も彼女を追って走り出した。 真っ白な雪の上に二人の足跡だけが刻まれる。 「瞬! 待つのだ瞬!!」 冥王の呼びかけにも、彼女は振り返らなかった。ただ宛てもなく走っているように見えた。 「瞬!!」 ハーデスの長い足がぐんぐん瞬との距離を詰める。手を伸ばせば届きそうだというところまで来て、冥王は瞬の腕を掴んだ。 彼の声が思わず弾む。 「捕まえた」 「……捕まっちゃった」 自嘲ともとれる切ない笑顔、瞑目した瞬は俯いたまま顔をあげようとはしなかった。 自分の腕を掴んでいる彼の手が、今は無性に温かすぎた。 「私も、雪だったらよかったのに」 「……溶けて、消えるか?」 冥王の声が低く響いた。けれど瞬はその声に首を横に振った。 「雪は溶けて消えるけど、水になって……巡り続けるもん。私は、真っ白でいたかったな……」 「だが踏まれれば泥と塗れよう。過ぎる雪は生命を奪うことさえある。それでもそなたはこの真白な雪でいたいと?」 瞬は言葉に詰まった。 何故、こんなに美しい景色を前にそんなことを考えてしまったのだろうか、と。 ただこの白銀の世界を純粋に美しいと思えたはずなのに。 (ああ、そうか) 血に塗れたる身がこの雪を汚してしまいそうで、怖かったのかもしれない。 瞬はゆっくりとしゃがみこんで、両手いっぱいに雪を掬い上げた。 「ねぇ、ハーデス」 「ん?」 「私の手の中の雪は、綺麗ですか?」 恋しい少女に問われ、ウソでも綺麗だよと言えなければ男としては失格だ。 冥王は迷わず綺麗だと言った。 「本当に?」 「ああ、綺麗だ……」 「そう」 それだけ言って、瞬はまた顔を伏せた。 そして。 持っていた雪をハーデスの顔にぶちまけて逃げた。 「ちょっ、何をする!!」 「ふふふ、隙があり過ぎですよー」 振りかえりながらそう言って、瞬はハーデスから離れた。さくさくと雪を踏んで走る彼女の足音が、ハーデスの耳には心地よく響いていた。 冥王は雪を払うと、すぐに瞬を追いかける。 長い神様生活、雪をぶつけられたのは初めてだ。 「待て、瞬!!」 「やーですよ、待ちませーん」 言いながら瞬は聖闘士ならではの脚力で深い雪をものともせずに駆けていく。それは神たる冥王も同じだった。 二人分の足跡を無造作に刻みつけながら。 神たる男と人なる少女はただこの銀世界に飲まれないように走り続けていた。 ときどき瞬は立ち止まっては雪を掬い、丸めては投げつけている。さりとて相手の男も神様、飛んでくる雪玉を避けるなど児戯に等しい。けれど反撃するのは憚られて、ただ彼女を追いかけるに留めている。 「こら、瞬」 「なんですかー?」 振り返った瞬は少女だった。 どんなに戦いに身を置いても、恋をしても、彼女は普通の少女に見えた。 冥王は刹那の間だけ立ち止まったがゆっくりと瞬のもとに歩んで行く。 瞬も静かにその場に佇んでいた。 ただ、彼に抱きしめられるまで。 「……冷えておるではないか」 「だって……」 ここは雪深い銀世界だものと言おうとした唇は冥王に塞がれた。 唇に触れる少し湿った温かさに、瞬は静かに冥王の胸元を握った。 ハーデスはそっと彼女の手を握った。雪に触れていた細い指は氷のように冷たくなっている。 少し揉むように動かせば瞬は小さく笑みをこぼす。 「ハーデス」 「……そなたが何を考えておるのか分からぬ」 「あなたには言われたくなかったですね」 言いながらも瞬はやっぱり笑っていた。 「いろいろ考えてるんですよ。帰ったらなんて言い訳しようかな、とか」 「余と一緒だったと言えばよいではないか」 「それで兄さんが納得すると思います?」 「う……」 冥王は一瞬言葉に詰まる。どんなに自分の無罪を主張しても彼は聴く耳さえ持たないだろう。 「でも私は、あなたと一緒にいて楽しいし嬉しいですよ」 「そ、そうか……」 冥王は握っていた瞬の手を離し、彼女の細い体をぎゅっと抱きしめた。 瞬さえそばにいてくれたら、どんな障害さえ乗り越えることが出来ると思った。 「瞬……余はそなたが」 「あなたが好きです」 瞬がぽふっとハーデスの胸元に顔を埋める。そして背中に回した指先をきゅっと繋いだ。 「瞬……」 彼の優しさや温かさを知ってしまったら、無碍にすることはできなくて。 「……寒い」 「ならば、余が温めてやろう」 そういうとハーデスは瞬を抱き上げて先ほどまでいた小屋に戻っていった。 彼らが去ったあと、残された足跡はなくなっていた。 ふたりが雪と戯れている間に薪の火は燃やすべき素材を失って消えていたが、ハーデスがひとつ指を鳴らすだけで再びごうと音を立てて燃え始めた。 瞬を抱き上げたままハーデスは再び暖炉の前に座り込む。 寒いかと問えば腕の中の少女はいいえと首を振った。 亜麻色の髪が雪に濡れて頬に張り付いていたのを、冥王の手が丁寧に剥がしている。 きっと彼は瞬にだけ優しい。 優しくすれば愛してもらえる、少なくとも嫌われないだろうと、彼は考えていた。 かつて敵として傷つけあったふたりだから。 「瞬……」 「なんですか?」 「余は、優しいか?」 男の唇から漏れた言葉は、何処となく寂しそうだった。瞬を見つめ、じっと答えを待っている。 「ハーデス……」 瞬はそっと、彼の頬に手を添えた。 「どうして、そんなことを聞くの?」 「そなたも余に問うたではないか、綺麗か、と。だから余も聞いてみたい。余は優しいのかと」 「そう……」 傷つけたくないと言ったその唇に反するようにこの手で命を奪い続けたから。 「あなたの問いに答えるために、ひとつ教えて」 「なにを?」 「私の手は温かい?」 膝の上に座らせていた瞬の手は彼の頬に添えられていた。その手に自分の手を重ね、彼は微笑む。 「温かいぞ」 「じゃあ、あなたは優しいんです。私はずっと雪に触ってた。冷たくなって正直悴んでましたよ。それを温めてくれたのはあなたです。私はそんなあなたを優しいと思いますよ」 そういうと瞬は添えていた手をするりと冥王の背中に伸ばし、抱きついた。 「瞬……」 「自信を持って。あなたは優しい。私をどうともできるはずなのに、それをしないんだから」 「しようと思えば出来るぞ」 「……怖い」 そう呟きはしたものの、瞬は冥王から離れなかった。彼も少女を離そうとはしなかった。 「余も男だからな。愛しいそなたをこうして抱きしめておれば……」 「あ……」 ぐいと引き寄せられる少女の体。近づく男の唇。 「本能と戦うのは大変だ」 「ハーデス……」 まだ少女である瞬は豊かな肢体を持ち合わせてはいなかった。けれど冥王はそんなことは関係ないとばかりに瞬を熱望している。 「そなたがほしい」 「え……あ、あの……」 「今すぐ、とは言わぬ」 逆巻く黒髪の男はその心も同じように乱れているはずなのに、それを見せようとしない。 それも瞬だけに見せる優しさなのだと知ってしまえば、思わずにはいられなくて。 瞬はおずおずと冥王から離れると、彼の前に膝立ちになってそっと肩に手を置いた。 毎晩欠かさず通ってくる。無理に奪おうと思えば出来るのにそれをしようともしない。 本気なんだと、ひしひし感じるから。 「瞬?」 「あんまり、動かないでくださいね……」 「え……」 そういうと瞬は腕をそっと伸ばし、冥王の頭を抱きしめた。最初はぎゅっと、やがてふわりと髪を撫でられたところで、冥王はやっと何が起こったのかを理解できた。 決してふくよかとは言えない少女の胸はそれでも安らぎに満ちている。 冥王は静かに瞬の腰に手を回し、抱きついた。 「いいな、こういうの」 とくんとはね続ける人間の鼓動。重ねれば何かが見えるのだろうか。 闇に置き去りにされ、長過ぎる時の中を孤独とともに眠り続けた。 誰も愛してくれなかったし、愛さなかった。 死神として生まれたわけじゃないのにいつのまにか死神にされて、忌み嫌われて。 だったら、それでいい。嫌われるままに壊してやろうと思った。 この雪のように、人も地上も簡単に壊せるはずだった。 彼女が、現れるまでは。 失敗しても構わない。大地の護戦者たちが幾度も作り直し、守るのなら、何度も叩き潰せばいい。 それだけのことだ。 ずっとそう思ってきたのに、それがたったひとりの少女の鼓動にかき消される。 なんて、心地いい。 「瞬……」 「なんですか?」 風のように穏やかな声が少し上から降ってくる。冥王が口元だけで笑ったのだが、瞬には見えなかった。そのかわり、彼の腕の力がほんの少しだけ強くなったのを感じる。 「もう少し、このままでいたい」 言葉にした願いよりも先に体が動いているのに、彼は気がついていただろうか。瞬は微笑んで小さく頷いた。彼女の頬が冥王の髪をくすぐる。 「いいですよ」 「……他の女では意味がないのだ。そなただから、余は……」 こうしていたいのだと、思う。 永遠だと思いたいこの刹那を。 「私はね、ハーデス。あなたが望んで、そして許される限りあなたのそばにいてあげる。でもそれはやっぱり地上の平和を引き換えにとかじゃなくて、私がそう望むから」 「瞬……」 「現実はね、どう頑張ったって私とあなたの間には利害関係しかない。だけどあなたと一緒にいた時間は短くても分かったことがあるの」 「それは、なんだ?」 冥王は顔を上げる。けれど瞬を離しはしなかった。 見上げてくる瞳は深遠なる闇の色、どこまでも深く深く吸い込まれていきそうな。 瞬は穏やかに、そして柔らかく微笑んで。 「あなたがとっても寂しがりやで、甘えん坊で、でもそれを言わない意地っ張りな人だってこと」 そういってくすくす笑う瞬に少しむっとしながら、冥王はそっぽ向いた。 「それはそなたも同じではないか」 「私は自覚してますもん」 なおも笑う瞬は冥王がむくれているのを見て、ああと唇を指先で抑えた。 「ごめんなさい、笑ったりして。でもね、他にも気がついたんですよ」 「なんだ。欲張りで傲慢で頭が足りないところか?」 それ自分で言っちゃいますかとつっこみたいのをぐっと抑え、瞬は冥王の髪を撫でた。 「違いますよ。優しくて温かくて、誠実な人だってことです」 「そ、そうか?」 誉められていると分かればぱっと自分のほうに向き直る冥王を見、瞬は彼が現金な男であることも思い出した。 でも、そんな神様だから。 「あなたが好きですよ」 「余も、だ。愛しい……」 腰を抱いていた冥王の手が瞬の頬に添えられる。それは唇を求める合図。何度も重ねていればわかる、二人だけの兆。 神と人、冥王と聖闘士。 結ばれるための障害は数知れず。 けれど手をつないで、心を重ねていればきっと大丈夫だと信じているから。 角度を変えて何度も重ねる。息をするために薄く開いた隙にさし入れられた舌先が肌とは違うぬくもりで触れ合った。 「んっ…やっ…」 「瞬、余は……」 言うなり冥王は瞬の腰を抱いていた片手を器用に使って瞬を床へと寝かせた。押し倒したようにも見えるが、彼女はどこにも痛みを感じなかった。 ただことんと床に置かれる音と覆い被さってきた冥王を視界に捕らえただけだ。 「あ……」 「瞬……」 ハーデスは瞬のわきに手をつき、少し身体を浮かせていた。 見つめあうほどに近づいていく、何か。 窓の外ではまた屋根から雪が落ちている音がする。 けれど世界にたった二人しかいないような甘美な錯覚に陥って。 「ハーデス……私……」 「……何も案ずることはない、瞬」 もう、覚悟を決めよう。 瞬はゆっくりと目を閉じた。 遅かれ早かれ、こういう日が来るのだ。それが、今日なだけ。 近づいてくる唇。やがて冥王は乙女のすべてを奪ってしまうのだろう。 が。 「はい、そこまで」 ごく近くから聞こえてきた声にふたりはぱちくりと目を開けてその方向を向いた。 するとそこにはいつのまにかアテナ沙織が立っていた。彼女はいつものようにウフフフフーッと笑いながら二人のそばにしゃがんでいる。 「さっ、沙織さん!!?」 「アテナ!? なにをしに来た!」 ハーデスはがばっと起きあがると瞬を背中に庇った。瞬も思わず彼の腕をぎゅっと握った。 そんな二人に向かって沙織はなおも微笑を絶やさない。 「あらあら、そんなに見せつけてくれなくてもいいのよ、瞬」 沙織に指摘されてはじめて、瞬はハーデスにしがみついている事実に気がついた。思わず手を離しはしたもののどうしていいのか分からず、うねうねと指を組み合わせている。 ハーデスはそんな瞬を気にしながらもアテナに食って掛かった。 「なんの真似だ! せっかくよい雰囲気だったのに!!」 「なんの真似とはこちらの科白です。瞬は私の聖闘士にして友とも妹とも愛する者。それにまだ男女の房事についてはなんにも知らないのです。その瞬を連れて逃げて不埒な行為に及ぼうとは笑止千万!」 「沙織さん、それってどっちかっていうと兄さんの科白……」 瞬のツッコミも華麗に右から左へ受け流され、彼女もまたアテナのお小言を食らう。 「瞬、あなたもあなたです。いうなり連れ去られて、しかも雰囲気に飲まれるなんて」 「それは、その……」 言葉を継げなくなった瞬に、沙織は深くため息をついた。そして瞬のそばに近づいて、彼女の両手を包み込むように握り締めた。 「沙織さん?」 「まあ、分からなくはありません。だけど早まってはいけませんよ、瞬」 「は、はあ……」 ちらっとハーデスを見れば、彼は機嫌が悪いのか居たたまれないのか、視線をそらす。 瞬は再び沙織に向き直って言った。 「沙織さん」 「なあに?」 「心配をおかけしてすみませんでした。でも、私は……その……ハーデスのこと、好きなんです」 「瞬……」 瞬は向こうを向いたままのハーデスに笑いかけ、続けた。 「好きなんです……だから、いっしょにいました。いやだったらさっさと逃げ出すことだってできるんですけど、でも、私は……一緒にいたかったんです」 瞬の告白に、今度は沙織が笑いかけた。 「なにも、咎めているわけではないのよ。ただあなたが急にいなくなったってみんなが心配しているものだから……私だって、あなたとハーデスのことは大いに賛成よ。仲良くするに越したことはありませんからね」 「はい……」 瞬は何処か照れくさそうに沙織を見て言った。 そして立ち上がって拗ねたままのハーデスに歩みよった。 「ハーデス」 「……ちゃんと送る。余が連れてきたのだからな」 「はい。そして今度は堂々とデートに誘ってくださいね」 「そうする」 瞬はハーデスの手を取るとぎゅっと握り締めた。ハーデスも応えようと握り返す。 寄り添う二人の背中はなによりも幸せそうに見えて。 「これでいいですね、一輝」 小屋を出たところで沙織は傍らの一輝に話し掛けた。彼は憤懣やるかたないといった様子でそこに立っていたのだが、いろんな意味で瞬が無事だと知り、安堵しているのも確かなのだ。 「俺は、瞬が幸せならそれでいい。だが……」 「やっぱり相手がハーデスだというのが気になりますか?」 「……まあ、な」 瞬は一輝にとって大事な妹だ。過酷なデスクイーン島での修行も瞬に再会したい一心で耐え抜いたと言っても過言ではない。 そんな瞬もアテナの聖闘士、このまま地上を守るだろうし、争いがないのならいつか愛し愛される誰かと出会って幸せになるかもしれない。 だがその相手がよりによって一度は我らが女神とともに倒した冥王ハーデスだとは。 しかも瞬が優しすぎるものだから彼も頭に乗って毎晩毎晩押しかけてきている。 それが一輝には気に入らないのだ――おそらく、どんな男でも気に入ることはないのだろうが。 沙織はそれがわかっているのか、ただ微笑むだけだった。 「瞬ー」 「なんですか?」 冥王は瞬と並んで歩きながら、どこか微笑んでいるように見えた。 「今度は正々堂々とそなたを逢引に誘う。だから」 拒まないでほしいと言おうとした冥王の唇を、瞬は指先でそっと塞いだ。 「冥界でのお仕事に差し障りがない程度に、ね」 「うむ、約束しよう」 姿を変える雪月や、沈み逝く太陽にではなく――ただ、我が愛する君に。 言の葉を紡ぐ、その唇に。 「口づけてもよいか?」 「珍しいですね、そんなこと聞くなんて」 「余が狼のように獰猛にそなたを襲うと思われてはたまらんからな」 そう言うハーデスに小さく笑いかけて、瞬は彼の首に抱きついた。 「いいですよ、キスしても」 最後の“も”を言い終わる前に、瞬の唇は冥王のものになっていた。 強く抱きしめられる――誰にも渡さない、奪われたくないという決意と願いを込めて。 「愛している、瞬……」 「はい」 やっぱり自分は抱きしめられるほうが落ち着くんだなあと思いながら、瞬はハーデスの胸板に顔を埋めた。 恋人の温かさは、兄弟のそれと違ってとても甘美で、それでいて刹那くて。 あのとき――ハーデスに床に倒されたあのとき。 「あなたと歩く、その覚悟は出来ているつもりなんですけどね」 「なにか言ったか?」 「いいえ。さ、早く戻りましょう」 さくさくと音を立てて踏まれる雪、足跡は二つ、途中で綺麗に消えうせて。 はらはらと舞う雪は 少しずつ春を呼ぶ標 世界と、君の心に少しずつ ≪終≫ ≪あとがきなのよさ≫ 冥瞬、一線を越えかけるの巻。しかしこのシチュエーションだと本当は氷河とやるべきなんだろうけど、あいにくと我が家には氷河×瞬のフラグは立っておらんのだよ!(威張って言うことか!?) まああれです、拉致ったり取り返されたり、神話・原作ばりのことができて面白かったです。 |