薔薇と魚と風の娘



軍神アテナが本拠を置く聖域の十二宮。
その最後の宮を双魚宮といい、守護者は聖闘士の中でもっとも美しいといわれるアフロディーテである。





「また春が巡ってきたな」
春が来るのはいいことなのに、黒衣の男は実に不機嫌そうに呟いた。
というのは、彼は夜しか地上にやってこないからである。恋しい少女に会うのは夜だけ、と決めてしまったのだから仕方がない。
瞬は小さく笑って彼の夜空の髪を梳いた。
「そんなこと言わないの。折角春が来るのに」
「だんだん夜が短くなっておるではないか」
そんなふうに駄々を捏ねる彼を宥めるのはすっかりお手の物。瞬は威嚇する子犬のような彼の腕をきゅっと抱きしめた。
「あなたはそんなに怖い顔で、私と一緒にいるつもりですか?」
「む……」
「私は嫌です、そんな顔のあなたと一緒にいるのは」
すると男はぷいと背を向けた瞬を背中からそっと抱きしめる。そして柔らかい声色で少女の耳元に囁いた。
「すまぬ。余はもっとそなたと一緒にいたいだけなのだ」
「私もですよ。だから笑って。ね?」
「うむ」
愛など妄想にすぎない、人間などダニノミ以下だと言い、地上を亡者の世界に変えようとした男はたった一人の少女の手で確実に変えられつつある。
「瞬……」
男は瞬を軽々と抱きあげ、膝の上に座らせる。向かい合い、微笑んで見せる彼に瞬は返すように笑った。
「ほら、笑える」
「そなたの前だからだぞ」
そう言うと男は瞬の肩から腕、わき腹と撫でながら唇を寄せる。
「きゃっ、ハーデスったら」
「よいではないか、少しくらい」
「……キスだけですからねぇ」
冥府の神様とアテナの聖闘士という前代未聞の恋人たちは唇を触れ合わせようとした。
その、絶妙な瞬間にその闖入者はやってきた。
「もう許さないんだからあっ!! あの三十路前があっ!!」
乱暴に瞬の部屋の扉を開き、彼女はじーっと二人を見つめている。
冥王とその膝の上の瞬も闖入者を見つめる。
瞬がその人の名を呼ぶ前に、それは瞬を抱きしめていた冥王を突き飛ばし、変わってぎゅっと抱きしめた。
「うわ〜〜〜ん、瞬〜〜〜」
「どうしたんですか、アフロディーテ!?」
「う、魚座……」
突き飛ばされてうっかり壁に激突したハーデス様は鼻先を抑えながら文句のひとつでも言ってやろうと思ったのだが、聖闘士でいちばん美しいアフロディーテといちばん可愛い瞬という組み合わせの前にうっかり口を挟むことが出来ないでいた。
それにアフロディーテは瞬を抱きしめてわんわん泣いており、引き離そうものなら白薔薇が自分の胸目掛けてまっすぐ飛んできそうだったのでやめたのだ。
かわりに瞬に声をかける。
「いったいどうしたのだ、魚座は……」
「分かりません。でも……」
ひどく混乱していることは確かで、瞬はひたすらアフロディーテの空水色の髪を撫でていた。
「アフロディーテ、アフロ……」
「瞬っ……うえっ、うえええ〜〜〜」
アフロディーテからは薔薇の香りがしなかった。かわりに甘いお酒の香りがする。どうやら彼女は強か酔っているらしかった。
結局その晩アフロディーテは瞬にしがみついたまま一夜を明かし、ハーデスは不機嫌いっぱいに帰っていったのだった。



「んあー……」
アフロディーテが目を覚ましたのは、まもなく太陽が天頂に差し掛かる頃だった。
カミュとシュラとデスマスクを巻き込んで酒を飲んでいたことまでは覚えているのだがあとのことが全く記憶にない。気がついたら知らない天井が目の前にあったのだからいっそう混乱を深めているようだ。
「ここどこかしら?」
清潔感が漂う、真っ白な部屋。病院かとも思われたが、それにしても生活感がある。
ふんわりと香るのはひどく子どもっぽい、けれど嫌じゃない何か。
「花の香り……かな?」
長く白い足をすらりとベッドから降ろし、立ってみる。
ちょっと頭が痛んだけれど、お酒のせいだと思えば我慢するしかなかった。
「マジで、ここどこ?」
ぺたぺたとスリッパをならし、外に出ようとしてノックする音に気がつく。
アフロディーテが一歩身を引いてドアを開けてやると、よく見知った亜麻色がひょっこり顔を覗かせた。
「やだ、瞬じゃない?」
「やっと起きられたんですね、よかった」
そう言ってにこりと笑った瞬の手には水の入ったピッチャーとグラスを乗せたトレイがあった。明らかに自分のために持ってきてくれたようだ。
「あー、ごめんなさいねぇ」
「いいえ。それより大丈夫ですか? 昨日は相当酔ってらっしゃったみたいですけど」
ベッドに腰掛けたアフロディーテは、瞬がグラスに注ぐ水音を聞いていた。
受け取って少しずつ喉を通す。冷たいそれがするすると落ちていき、体中をしゃっきりと振るわせる。
体が少しスッキリすると今度は気分と記憶も落ち着いてきたようだ。
「はぁ……」
「ご飯どうします? もう昼食ですけど」
「ありがとう、でもいいわ、食欲なくて」
苦笑して見せたアフロディーテに、瞬は大人って大変なんだなあと視線を向ける。
確かに大人は大変だ。
そして今度の騒動が壮大な痴話喧嘩ともなると周囲の疲労は想像だに出来ないものとなる。そのことを、瞬はまだ知らないのだった。
なんたってアンドロメダの聖闘士、瞬はまだ13歳なのだから。



聖域に教皇のみを残して誰もいないという現状。
黄金聖闘士たちはその痴話喧嘩にうんざりとして五分おきに逃げていったのをサガは黙認していた。
いや、黙認していたというよりは激昂してきて気がつかなかったのである。
サガ自慢の金銀色の髪は墨汁に浸したかのように黒くなりかけていた。
唯一残された、というより避難しそびれた双子の弟にしてみればそれは災難と言わざるを得ない。
しかし兄など恐れるに足らぬとこれまた強気の弟御はいたって強気に出ていた。
「おい、鬼嫁はどこ行ったんだ?」
「知るか、あんな薔薇女」
どっちもさりげなくひどいことを言っているのに気がつかない。
「なんだ、別れるのか?」
「要るのならやるぞ」
「要らん」
あっさりと拒否するカノンに、サガはさもありなんと頷いて見せた。
「そうだな、お前は瞬が好きだったな、このロリコンめ」
「…………」
すでに八つ当たりの領域。だが瞬の名が出たのでカノンは刹那押し黙った。
「フッ、瞬の名を出しただけで照れるとは、28歳のくせに気持ちは中学生だな」
「黙れ、同じ年だろうが」
どかっと補佐席に座り、書類を組むカノン。長すぎる足が邪魔だとばかりに組み、ふんぞり返っている。
「で、なにが理由で喧嘩したんだ?」
「お前に言う必要はない」
「そうか」
それだけ言って、カノンはパソコンに向かった。
言いたくないなら聞かないし、むしろ聞きたくもない。兄夫婦――まだ正式に婚姻を結んだわけではないのだが――の喧嘩に巻き込まれるか、あるいは首を突っ込むことほど愚かなことはないのだ。



が、アフロディーテは瞬と優雅に3時のお茶をしながら愚痴をこぼしていた。
「サガが悪いと思わない!?」
「えーっと……」
カノンが愚かだと思っていたことにしっかり首を突っ込まされていた瞬はただ困惑するばかり。
瞬がお気に入りのパールピンクのティーカップに注がれた紅茶はアフロディーテお手製のローズティー。甘酸っぱい味わいなのにその香りは甘く馥郁としている。
「もう知らないっ、サガなんか大っ嫌い!!」
ばんっとテーブルに突っ伏したアフロディーテに、瞬は手を差し伸べるかどうか迷っていた。
まだ幼い恋をしている自分が大人である彼女にあーだこーだと説いてみせることは不可能だからだ。
だけど、いつも大人の余裕を見せているアフロディーテがここまで自分をさらけ出しているのを見ると、何故か安心している自分に気がついた。
恋に(悩むという意味で)年齢なんて関係なんだなと。
「アフロディーテは、サガが好きなんですね」
「嫌いだって言ってるでしょう!?」
「でも好きだから怒るんでしょう? 嫌いな相手にそこまで心を砕くことはないと思います……けど」
自信がないのか、語尾は急に小さく消えていく。
「瞬……」
アフロディーテは静かに顔をあげた。
「こんな小娘が何言うんだって思うかもしれませんけど、でも……私にも分かることはありますよ」
「なに?」
瞬は静かに自分の胸の前に手を組んだ。
「ハーデスもそうだったんですよ。最初は私のこと嫌い嫌いって言ってたんですよ、なんでだと思います?」
「え……」
ハーデスは瞬にベタ惚れのはずだ、その彼が瞬を嫌いと言うことがあるだなんて思いもよらないことだ。
きょとんとしているアフロディーテを前に瞬が笑顔で続けた。
「私には好きなもの、大事なものが多すぎるから嫌いなんだって」
「ああ……」
思い当たったのか、アフロディーテは空水色の髪をかきあげて微笑した。
瞬の兄、一輝。異母兄弟で仲間の星矢、紫龍、氷河。
アフロディーテをはじめとした黄金聖闘士、今は亡き師のダイダロスと姉弟子のジュネ。
そして、我らが女神アテナと、彼女が庇護する大地。
瞬がそれらを捨てられないと分かっているのに、分かっているからこそ苛立つのだろう。
消え逝くはずだった自分に手を差し伸べて『生きて』と言ってくれた瞬。
彼女に捧げた永遠の恋心。
自分だけを見ていてほしいのに優しすぎる瞬は恋だけに生きようとしない、ハーデスだけを大事だと言わない。
それは当たり前のこと、彼女は人間だし、アテナの聖闘士でもあったのだ。
かつては敵同士で、あまつさえ拠り代として彼女を苦しめた自分を好きになれというほうが土台無理な話なのだ。
けれど冥王はそれでも瞬に対する恋を成就させようと奮戦している。
他は全部好きだがそんな瞬が嫌いだと言ったハーデスの顔が思い浮かんだのか、アフロディーテは小さく笑いをこぼした。
「瞬は幸せね、そんなに愛してもらえて」
「アフロディーテだって、そうでしょう?」
「ん……そうなのかなぁ」
自信なさげに呟いたアフロディーテを瞬は不安そうに見つめた。
まだ春浅い日、庭の風は冷たい。
「中に、入りませんか?」
「ううん、ここにいる。大丈夫よ、もう少し酔いを覚ましたいの……」
アフロディーテはそういって俯いた。彼女に対する瞬の不安は増す一方だったが、自分にはどうすることも出来ないとアフロディーテをそっとしておくことにした。
「せめてこれ、使ってください」
瞬は自分の肩を覆っていた薄紫のケープを彼女に差し出した。アフロディーテは微苦笑してそれを受け取った。
「ありがとう、ごめんなさいね」
感謝と謝罪を同時に受けて、瞬もやっぱり苦笑して見せる。
鎖姫を名に負う少女の姿が邸内に消えてしまうと、アフロディーテはため息をついた。酒で少し熱い体に冷風が心地いい。
だけど、胸に蟠る名もない感情にどうしていいのか分からない、現実。
「私……サガを愛してるわ」
だから、13年前のあの日。彼が教皇だったのだと――ありえてはいけないはずなのに――知ったとき。
魚座の女は、本当ならサガを逆賊として討たねばならなかった。
しかし、アフロディーテには出来なかった。
アテナの聖闘士として地上を守らなくちゃいけない。肝心のアテナは赤子でまだ何もできないから、自分たちの手でなんとかしなくてはならないのだと、そう言った正義の彼。まだ少女だったアフロディーテは素直にサガの言を聞いていた。
彼が罪もない側近や従僕を殺しても、逆賊だと言って幾人かの聖闘士を抹殺しても。
いつのまにか、少女でいられなくなった日が来た。
正義と邪悪の狭間で苦しんでいる彼の力になりたいと、そう思ったとき。
「だってしょうがないじゃない……」
アフロディーテはサガのすべてを受け入れた。
少しでも、彼が楽になれるように。
「愛してしまったんだもん」
後悔なんて、していない。自身を師の仇と戦いを挑んできた瞬に殺される瞬間まで、愛していたんだから。
ううん、死んでもずっと愛してた。
こうして神の御加護を受けて地上に戻ってきた今でも。
いろいろ考えながら、アフロディーテは自慢の髪をかきあげた。少しきしんでいる気がするのは手入れをしていないせいだろう。
「……帰ろうかな」
今ごろサガは何をしているだろう。まだ机にかじりついて書類を繰っているのだろうか、それとも。
他の女のところだなんて考えられないけれど。
アフロディーテはぶんぶんと首を振った。
「サガが悪いんだもん、謝りに来るまで帰らないもん!」
けど、会いたい。
相反する気持ちが、淑女の心を揺らす。
残されたカップのふちを煌びやかな指で撫で、唇は呪文のように恋人の名を呟いた。
「サガのバカ……」
それだけ言って、アフロディーテはいよいよテーブルに突っ伏した。



その日の夜。
「なんで魚座がおるのだ」
未だ聖域に帰っていなかった聖闘士随一の美女を前にして、冥王は悪態をついた。
彼にとって至上の美姫とは瞬以外には絶対を以って存在し得ないのでアフロディーテがどんなに美しかろうと知ったこっちゃないのである。加えて昨夜の逢引を邪魔されたという因縁も彼の態度を悪くさせていた。
そんな彼の心は、魚座の女の苦笑を誘う。
「昨日はごめんなさいね、神様。今日は邪魔しないから」
「帰りたくないって言うんです。お隣の部屋に寝てもらうから、いいでしょう?」
きゅっと袖を掴んで上目遣いに見つめれば冥王は大抵何でも聞いてくれる。
瞬にしてみればいつもの所作。しかるべくして冥王はころっと態度を変えた。
「そなたが望むままにすればよい」
「ありがとう、ハーデス」
ここでお礼のキスを忘れないのも大事だ、と瞬は学んでいた。
そしてそうするのが、あまり積極的にはしたくないのだけれどイヤじゃない自分に気がつく。
少女がもう自分は少女ではないと自覚するのはどの瞬間なのだろう。
冥王にもっとと口づけをねだられて困っている瞬を見つめながら、アフロディーテに自然と笑顔が戻る。
「愛されてるわね、瞬は」
論より証拠、百聞は一見に如かずの例もある。
アフロディーテの声に冥王はそうでもないと顔をあげた。
「だがな、余がこんなに愛しても瞬には余より大事なものがある。余はそれが悔しい」
「女の子は往々にして欲張りなのよ。それがたしなみだもん」
だけど、と。アフロディーテは自分の胸の前に柔らかく拳を握る。
「一番大事なものは、ここにちゃんと持ってる」
自分でそう言って、アフロディーテは僅かに睫毛を伏せた。
私のここにいる大事なものは、人は――サガは。
「アフロディーテ?」
瞬が怪訝そうに覗き込んできたのを、彼女はそっと制した。
「愛されるのが当たり前じゃないのよね……」
「だが愛されないのが当然とも、余は思わぬぞ。余がこれだけ必死に瞬を愛したから、この思いは伝わっておると思う」
愛したから愛されて、というのは。
代償を求めないのが本当の愛なのだとわかっていても、人は。
何かを求めずにはいられないのだろうか。
だが、ハーデスが瞬を思うことで、瞬が変わり始めているのは確かだ。彼女の中の優しさや穏やかさがより表面に出てきていると言ってもいいだろう。
そしてハーデス自身はすっかり変わってしまったが。
瞬を自分の膝に抱き上げて甘えていたハーデスを見て、アフロディーテは自分の傲慢を思い知る。
サガに愛されているのは至極当然のことなんだと。
「思われてるだけでも、いいんだよねぇ……」
そう言ってアフロディーテは冥王の膝に抱かれる少女の頬を撫でた。
柔らかくて、艶やかな指先。大人の女の苦悩が瞬の頬からひしひしと伝わって。
「ねぇ、神様。もし瞬が石榴4粒分しか愛してくれなかったら、どうする?」
黄金色の淑女は瞬を見つめたまま、ハーデスに問うた。
途端、瞬の腰に回されていた手が力と熱を帯びる。
「余はそれでも構わぬ。たとえ石榴4粒分だろうが蟻一匹分だろうが愛に変わりはないからな」
「全力っていうのは無理だけど、その……私にできるぶんくらいは……」
蟻一匹以上には彼のことを想っているつもりなのだ。
愛することはわかっても愛し方はまだ知らない鎖の乙女は、消え入りそうな声で囁いた。
が、その声はアフロディーテにもハーデスにも届いている。
「ありがとう、瞬……」
冥王の唇を目元に受ける瞬はくすぐったそうに身を捩る。
アフロディーテはふたりを見つめ、苦笑する。
「私……帰るわ」
「アフロディーテ」
静かに立ち上がった魚座の淑女に、瞬も同じように立ち上がった。
「なんか、見せつけられちゃったから。サガに謝ってくる」
にこりと、開きかけの薔薇のように笑ったアフロディーテに、瞬も思わず笑みをこぼす。遠く離れていても黄金聖闘士たちは大切な仲間で、先輩たち。こと、サガとアフロディーテは瞬にとって兄姉のように慕っている存在でもある。
その彼らがいがみあったままだという事実は瞬を悲しませ、苦しませる。
アフロディーテ自身だって、嫌に違いない。
「ありがとう、瞬」
「仲直り、してくださいね」
「うん……」
淑女の姿が花霞の中に消えていく。それを静かに見送った瞬はやっと安堵のため息をついた。
その肩をハーデスがそっと抱く。
「お騒がせだな、アテナの聖闘士は」
「……あなたほどじゃないと思いますけど」
「そうか?」
相容れぬ存在だったはずの冥王と鎖姫の聖闘士。
瞬を嫁にと言い出したときの彼のほうがどれだけ迷惑……というか、お騒がせだったのか。冥王には思いも及ばぬことらしい。
「瞬」
「はい?」
「余を愛してほしい。無理強いはせぬがな」
「……はい」
夜より深い闇の王、その御胸に抱かれて少女は何を思うのだろう。



聖域に着いたアフロディーテはまだもたもたと白羊宮の前をうろついていた。
三歩進んで二歩下がり、唸る。サガに謝ろうと意を決して戻って来たはいいけれど、なんと言ったらいいものか、彼女には見当もつかなかったのだ。
「う〜、どうしよっかなぁ……」
「どうしようかなじゃありませんよ、アフロディーテ!」
眼前の白羊宮から薄紫色の髪をしたムウがシャカとともに走り出てきた。
「迎えに行こうと思っていたんですよ、大変なんですからね!」
「え、どうしたの?」
事態がうまく飲み込めないアフロディーテが困惑していると、ムウが彼女の腕を引っ張った。いつも穏やかなムウが黄金の牙を剥いたなどと激しいものではなかったが、とにかくいつもの彼女ではなかった。
「痛いっ、痛いったらムウ!!」
「黒サガが暴れてるんですよ、元に戻せるのはあなたくらいなんですから!」
「えっ、サガが……?」
アフロディーテは自分の腕を掴んでいたムウを振り払うと、そのまま走り出していた。
ムウがやれやれとため息をつく。
「今回はやけに荒れましたね」
「年中行事だがな、これに我らが参加しなければならない理由を神仏に聞いてみたがさっぱり分からん」
「あなたいったい神仏と何を話してるんです?」
シャカが何も言わなくなったので、ムウは再度嘆息し、アフロディーテが走り去った方角を見た。
どんなに喧嘩して家出をしたって結局もとの鞘に納まるものなのだ。
「さ、一応行きましょうか」
「うむ」
目指すは教皇の間。



一足先にたどり着いたアフロディーテが見たのは冷たく冴え凍る氷の棺に眠るサガの姿だった。
「サガ!」
アフロディーテが慌てて駆け寄り、氷棺に縋る。
「サガぁ……」
そんな彼女にごめんなさいと声をかけてきたのは水瓶座のカミュだった。
「こうでもしないと、黒サガを抑えられなくて……」
聞けばサガは突然真っ黒になったかと思うとやたらめったらギャラクシアンエクスプロージョンを放ち、周囲を破壊して回っていたという。黄金聖闘士の中でシャカ以前に神に近かった男の狼藉は側近や雑兵では止めようもなく、仕方なく黄金聖闘士を召集する羽目になったのであるが。
「毎年毎年いい加減にしろや。お前の誕生日とホワイトデーと、一緒にするかしないかで揉めてんじゃねーよ」
アフロディーテの誕生日は3月10日で、ホワイトデーは14日。
幼い頃から一緒だったデスマスクとシュラが彼女の左右に立った。
「まあ、気持ちは分かるんだけどね」
だけど、とシュラがアフロディーテを氷棺から引き離した。
「サガだって、あなたを思っていなかったわけじゃない。だけど彼は正式に教皇に就任して、自身の贖罪に懸命だったのよ? それをあなたが分かってあげなくてどうするのよ」
「シュラ……」
右手に聖剣を、左手に罪を抱く山羊座の女が静かにそう言ったのを受けて、アフロディーテの瞳から涙がこぼれた。
「私たちに罪を犯させたことまで抱え込んで……」
「それくらいにしてやれや、シュラ。こいつだって分かってんだろ」
デスマスクに窘められ、シュラはきゅっと拳を握る。
「今アルデバランとカノンがアテナ神殿に行ってらあ。盾をかざせば白に戻るだろ」
そう言ったデスマスクの後ろでこの場に不似合いな声が聞こえてくる。
「俺がやるー!」
「私もやるのー!!」
ミロとアイオリアが天秤座の剣を争っている。サガを救うための剣をまるで玩具のように取り合う二人には緊張感の欠片もない。
「だーっ! お前ら! 俺が折角いい話してるときに! そういうのはジャンケンで決めろ! ジャンケンで!!」
いい話をしていたのはシュラのほうだったように思うが、とりあえずミロとアイオリアはジャンケンでどちらが剣を握るか決めた。勝ったのはミロだった。
やがてアテナ神殿の方からすべての邪悪をはらう雄大な小宇宙が教皇の間に届き、サガの髪は氷の中にありながら陽光の金と月光の銀を取り戻す。
そしてミロが天秤座の剣を振りかざした。
「蘇れ! えーっと……なんだっけ?」
「なんでもいいだろ、ジェミニでもオセロでも元偽教皇でも!!」
「いや、オセロはあんまりだと思うわ」
カミュのとりなしに、とりあえず決め台詞「蘇れ白鳥よ」をアレンジした台詞がミロの口から放たれた。
「蘇れ! 双子座の黄金聖闘士よ!」
剣、一閃。
黄金の軌跡が薄氷色に煌く棺を真っ二つに切り裂いた。
がらがらと崩れ落ちる氷の欠片が当たっても、アフロディーテは避けようともしなかった。
彼女は小さな氷山の中にうつ伏せに倒れているサガを見つけると、滑る足元によろけながらも必死で駆け寄る。
「サガ! サガあああ!!」
抱きあげた男の体はとても冷たくなっていた。アフロディーテの瞳から落ちる涙さえ、凍気の余波で小さな氷の粒になる。
「サガあああ!! ごめんなさい、サガ。私が悪かったわ、お願いだから死なないでぇ!!」
その姿はまるで、古(いにしえ)の伝説。
愛と美の女神が幼い恋人であるアドニスの死を悼む姿に酷似していた。
けれど泣いているだけではサガは救えない。
アフロディーテはきっと顔をあげた。
「私が、サガを助けなくちゃ」
もう、13年前のような間違いはしない。
アフロディーテから金色に揺らめく小宇宙が放たれ、サガを温かく包む。
それはかつて、天秤宮で瞬がやった救命行為。小宇宙を燃やして、冷え切った氷河を助けたそれを、アフロディーテがやっている。
「行こうぜ」
デスマスクがそう言った時、その場にいた全員がうんと頷いた。
「きっと、大丈夫。ね、ミロ」
「おうっ!」
サガの復活は見届けるまでもない。
やがて教皇宮にはアネモネの花が咲き乱れるだろう。
残された男と女。
アフロディーテはふくよかなその乳房にサガをぎゅっと抱きしめた。
「サガあ……死なないで」
「死なないよ、君を置いて死ぬはずがない……」
ゆっくりと動いた男の唇。
閉ざされた群青の瞳が開かれしとき、世界は薔薇色の笑顔を見る。



「そういうことだったんですか」
あのあとどうなっただろうと心配になった瞬が双魚宮を訪れたのは3月10日、アフロディーテの誕生日だった。
瞬は差し出された紅茶で唇をぬらす。
「私も、子どもなのかしら……」
空になったカップを弄びながら、アフロディーテが呟いた。
「アフロディーテ……」
「私はサガを愛してた。これからもずっと愛してる」
サガという男を知ったその日から、私の世界に絶えないものは、何?
「やっぱり瞬が羨ましい」
「え?」
カップを抱いていた手をゆっくりと下ろし、瞬は向かいの淑女を見つめた。
「何が恋なのか、ちゃんと分かってるもん。悔しいくらいに」
恋という道を歩き始めた少女は隣を行く誰かを心の奥底できちんと選んでいる。それをまだ、言霊にはしないけれど。
「私はまだ……」
「うふふ、問題は心と心。魂と魂の繋がりよ。瞬の場合はまあ、いろいろ特別だけどね」
アフロディーテは瞬の頬に手を伸ばし、ふんわりと撫でた。
「いい恋をしてね、瞬」
「……はい」
愛と美は男と海と波に作られる。



「サガ、ごめんね」
「ん?」
ふわふわした金の巻き毛、透き通るような白い肌につけた赤い痣。
アフロディーテはその細くしなやかな腕をサガの首に巻きつけ、抱きついた。
「私は、サガがいればそれでいいの」
「私もだよ、君がいてくれるなら生きていける」
サガは恋人の首許に熱烈で濃密な口づけを施した。小さく上がる嬌声に満足げに微笑み、何度も繰り返す。
「サガっ…やあんっ」
「愛してるよ、アフロディーテ」

――大好きよ、サガ

幾星霜時を重ねても、あなたと一緒にいられるのなら
「こんな幸せはないわ、サガ」
「生まれてきてくれて、ありがとう。アフロディーテ……」
それが、その言葉が何よりの贈り物だから。





私は世界でいちばん幸せよと宣言したら
神罰が下るだろうか――傲慢だ、と。
それでも構わないわ
だって本当に幸せなんだもの





≪終≫




≪魚誕おめでたふ≫
魚座の黄金聖闘士、愛と美の戦士アフロディーテさんのお誕生日SSです。
サガと喧嘩する理由が我ながら間抜けだなあと思います。
とりあえずおたおめです、アフロディーテさんw注: 文字用の領域がありません!

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