愛と理非道 それを愛と呼ぶならそうなのだろう だが非道とも呼べた場合、どうすればいいのか その答えは神でさえも知らない なぜならその行為に及んでいる男こそ、神だからだ 瞬が沙織の部屋を訪れたのはその日の午後のことだった。 仕事もひと段落してお茶をしているところだ。沙織は友とも妹とも可愛がっている瞬の来訪を快く受け入れた。 「どうしたの?」 「それが、その……ハーデスからデートを申し込まれて」 「あら、ステキね」 冥王ハーデス――地上の侵略を目論み、戦神アテナと争って敗北を喫した闇神。 彼は今、アンドロメダの聖闘士である瞬の恋人を名乗って憚らない。 その彼が先日瞬を拉致して雪国デートをした。そのときに今度は正々堂々と誘ってほしいとお願いしたらその数日後には本当に正々堂々とデートに誘ってきたのだという。 沙織はお気に入りだというアラバスタピンクのティーカップを置くとにっこり笑って見せた。 「ええ、ハーデスからそう聞いています。行ってらっしゃい」 アテナの聖闘士をデートに誘うに当たり、ハーデスは事前に沙織の許可をとっていたらしい。まるで娘さんを連れ出したい男のようだ。 が、当の瞬はきょとんとした。 「え?」 瞬の思いがけない反応に沙織も思わず蠍座な反応をして見せた。 「は?」 かみ合わない会話に混乱しつつ、先に口を開いたのは瞬だった。 「い、いえ、だっててっきりダメって言われるかと」 「人の恋路を邪魔するほど意地悪じゃないわよ」 沙織は少しむっとしたが、それでも瞬がもじもじと恥らっているのを見てなんとなく許してしまう。 恋に悩む女の子の姿ほどもどかしいも可愛らしいものはほかにない。 そして当日の朝。 「紫龍、私もう出かけるね」 亜麻色の髪の少女がドアの隙間からひょっこりと顔を出す。リビングで朝のニュースを見ていた紫龍が立ち上がって異母妹のそばまで歩んでいく。その姿を見て、少女もちゃんと部屋に入った。 「話はちゃんと聞いているよ、瞬。今日はデートだったな……あー、その、冥王と」 冥王の部分だけ微妙な声色になったことを自覚しながら、紫龍は瞬と向き合った。 当の本人はといえばにこにこと微笑んでいる。 「正々堂々と申し込まれちゃったんだもん。断るわけにはいかなくて……」 とは言いながらも、瞬とてやはり女の子。デートに誘われれば嬉しいには違いなくて。 紫龍はちらっと窓の外を見た。 この窓から見えるのは自分たちが暮らしている城戸邸別館の門扉。そこにひとりの男が立っていた。 言わずとしれた冥王だ。彼の後ろにある車も充分気になるところだが、紫龍は敢えて何も言わなかった。 君子危うきに近寄らずと、かつて老師からお聞きしたのを思い出したからだ。彼自身自分を君子だと思ったことは微塵もないのだが、とにかく近寄らないに越したことはないのだ。 それに他人の恋路を邪魔するとどこからともなく現れた馬に蹴り殺されるともいう。 紫龍は瞬の髪を柔らかく撫でてやった。 「まあ、気をつけて行っておいで」 「うん!」 ぱたぱたと駆けていく軽やかな足音。瞬は靴を履きながら冥王の元に駆け寄っている。 紫龍は嘆息したが、顔は笑っていた。 心優しいアンドロメダの聖闘士はいつも誰かの心配ばかり。だから愛するばかりではなく、愛されることも知っていいのではないかと思う。 ただ、相手がと思わなくもないのだが。 それでも瞬が気にしていないのならそれでいい。 「おはよう……っていうのも何か変ですね」 一度冥界に戻ったハーデスを再び出迎えて、瞬は微笑む。 少しはにかみながらやって来た瞬は実に女の子らしい格好で冥王の前に現れた。 瞬の笑顔はいつだって可愛いのだ、とは冥王の主張である。 そんな彼は瞬の手を取ってその指先に口づけた。 その恭しい、紳士的な態度は瞬の日常生活にはないものだ。なかなか慣れない為に瞬は慌てて手を引っ込める。指先を自分の手で覆いはしたものの、拭ったりしないあたりが彼女の優しさと言えた。 「可愛いな、これくらいのことで」 普段はもっと過激なことをしているだろうにと言いたげな冥王に瞬は厳しい視線を向ける。 が、いつもと違う彼の衣装に目を奪われたのも確かだ。 今日は黒一色の法衣ではなく、グレーのジャケットにオフホワイトのインナー、ブラックのパンツという割とオーソドックスな服装でやってきた。胸元には永遠を誓った星の約束が変わらずに煌いている。 もうひとつ変わらないのは超次元的に捩れたその黒髪だけだろう。 瞬はふうとため息をついた。 「じゃあ、行きましょうか」 「ああ」 ハーデスは瞬の手を取り、助手席に導いた。神自らドアを開け、彼女を乗せる。伊達に神様はやっていないらしい、女性のエスコートもばっちりだ。惜しむらくはデートの仕方など全く分からないことだろう。 それでも今日というこの日にデートに踏み切ったのは彼なりに思うところがあったのかもしれない。 ハーデスも運転席に乗り込むと、慣れた手つきでエンジンをかけた。 僅かな振動と唸る音。 ちらと家のほうを見ればいきり立つ一輝を羽交い絞めにしている紫龍の姿が見えた。星矢も窓にへばりついて寂しそうにこちらを見ている。後ろ髪を引かれるような思いだったが、冥王の気持ちも無下にできなくて、瞬は少しだけ家のほうを振り返りながら出て行った。 「……行っちゃったなー」 「離せ紫龍! 俺は瞬をあの節穴超次元寝癖の毒牙からっ……瞬を守らねばならんのだ!!」 「フフフ、そういうだろうと思って用意しておきましたよ」 突然現れた沙織に一同驚いた。紫龍は思わず手を離す。解放された一輝は沙織を睨んだ。 「どういうことだ、お嬢」 一輝に睨まれるくらいどうということはないとばかりに沙織はいつものようにウフフフフーッと笑った。それは何かを企んでいる時の笑顔なのである。 沙織は窓の外に視線を投げる。星矢たちが釣られて外を見るとそこには一台のワゴン車が止まっていた。 「あれ何さ、沙織さん」 車ですと言われれば速攻でそれは分かると返そうと思っていた一同だったが、沙織もそこは分かっていたらしく、用途だけを言った。 「あの車でハーデスと瞬を追います。私だって瞬がお嫁に行く前にあの節穴超次元寝癖にどうこうされるのはイヤですからね」 だったら行かせなきゃいいじゃねーかと思いつつ、全員で車に乗り込んだ。 「しかし沙織さん、瞬たちが出てからだいぶ経つぞ、追えるのか」 確かに日常生活において小宇宙を燃やすことは早々ない。しかも今はデート中なのだ。だから小宇宙での追跡は難しいだろう。 紫龍のもっともな問いに沙織が笑う。 「問題ありません。あの車は私がハーデスに貸したもの、発信機ならびに盗聴器は万全に仕掛けてあります」 (そこまでするか、そこまで……) 紫龍と氷河は心中深く突っ込み、一輝は沙織の手を取って暑苦しいほどうんうん頷き、星矢はドライブが嬉しいのかずっと窓の外を見ていた。 「むっ!?」 「ど、どうしたんですか?」 助手席にちょこんと座っていた瞬が異変を感じた冥王を案じて声をかけた。だが彼はなんでもないとハンドルを握っている。 「ちょっと嫌な気配がしたのでな。気のせいだろう」 「そうですか……」 瞬はやっと安心して前を向いた。そしてさっと話題を変える。 「そういえば、私あなたが運転できるなんて知りませんでした。いつ免許なんか取ったんですか?」 車は赤信号で停車した。そこでやっと冥王は瞬のほうに向き直る。 このときの何気ない一言をすごく後悔したと、瞬はのちに語る。それほど冥王の言葉は衝撃だった。 「免許など持ってはおらぬ」 「……は?」 「余は神だぞ。これしきの機械、手足のように操れんでどうする」 落ちた沈黙、瞬はあまりのことになんと言っていいのか分からなかった。 しばらくすると信号は青に変わる。冥王はアクセルを踏んで車を走らせた。流石と言おうかなんと言おうか、冥王は軽快な運転を見せる。が、車のエンジン音が瞬を正気に戻した。 「いっ、いやあああ!! 無免許で運転しないでぇ!!」 「大丈夫だ、運転には自信がある!」 「どっからくるんですかそんな自信! 早く車をとめてぇ!!」 「案ずるな、余は神でそなたは聖闘士。簡単には死なぬだろうし、余が死なせぬ!!」 確かにハーデスは死界の王神、例え一般人を跳ねたとしても生き返らせるくらいお茶の子さいさいだろう。 でもだからと言って事故を起こしていいはずがない。 「お願いですから!!」 「お願いされるとちと弱いが……まあ、轢いてもちゃんと元に戻すから!」 ものすごいいい笑顔の冥王に瞬はもう何も言えなくなってしまった。 「じゃあ、ちゃんと運転してくださいね」 「ああ、そなたを見つめられないのは残念だがな……」 そういうと冥王は実に安全かつ正確な運転で目的地へ向かうのだった。 後ろの車から一輝が飛び出しそうになっているのを、沙織たちが必死に止めている。 「一輝、落ち着いてください!」 「お嬢! アンタあの車を超次元寝癖に貸したといったな! 免許の確認はしなかったのか!?」 「………………」 沈黙はすなわち肯定。しかも顔を背けているから、かなりその確率は高い。 「しなかったんだな」 「そのようだな」 14歳なのに運転ができる氷河と、同じ14歳だからできない紫龍とが囁いた。 「まあいいではありませんか、相手は冥王ですし」 「いいわけあるか!」 一輝は今にも飛び降りていきそうなのだが、それ以上に厄介なのが星矢だった。彼は窓から身を乗り出し、前の車――すなわち、冥王と瞬の車に向かって手を振ろうとしている。 バックミラーに写ると尾行しているのがバレて面倒だ。 「星矢、これ食べてなさい」 沙織が渡したのはスナック菓子大入り。星矢は嬉しそうに受け取るともしゃもしゃと食べ始めた。 「我々の崇高なる目的はデートの邪魔ではなく、そのデートを恙無く遂行させることなのです! なので星矢、瞬がいなくて寂しいでしょうが、今日は我慢してくださいね」 「うん、わかった」 本当は瞬がいなくて寂しいのだが、星矢だとて瞬には幸せになって欲しいと思っている。彼の場合その思考は誰よりも柔軟で、瞬が泣かないでいられるのなら相手がハーデスでも構わないのだ。 紫龍と氷河もわりと似たり寄ったりで、一輝だけは同母の妹ということで大騒ぎしている。 とにかく一向は無免許のハーデスが運転する車の跡を、免許を持つお抱え運転手さんが運転する車で追いかけているのである。 それから車を走らせること数分、冥王と瞬は目的地についた。 何処に行くとも告げられなかったので瞬にしてみればミステリードライブといったところだったのだが、わかりやすい建物が近づくにつれ、逆に安心したのも確かだ。 ちらと彼の横顔を見ればまっすぐ前を見て運転してくれているのでそれもよりいっそう彼女を安堵させた。 が。 「どーだ、瞬。余はなかなか華麗に運転するであろう?」 賞賛を求めてぱっと横を向いたままになったりするので瞬は強引に彼の首をひねる。 「ぐえっ」 「前見て、前!!」 「ふあい……」 変に捩れた首をさすりながら、ハーデスの車が入っていったのは――。 もちろん、この目的地に対して一輝が泡を吹いて倒れたのは言うまでもない。 「デート……なんですよね?」 「デートのつもりだが?」 通されたごく普通に和室で、瞬がどこか居心地悪そうに座っていた。というよりもデートなのに和室に通されるわけがわからない。一体何がどうなればここでハーデスと差し向かいで茶など啜ることになるのだろう。 そんな瞬の疑問を他所に、ハーデスが静かに言った。 「今ごろ、このあたりは景色が良いそうなのだ」 「へぇ……」 「そなたに見せてやりたいと思ってな、それに良い温泉もあるそうなのだ」 「え……」 今二人がいるのはこの近辺でも由緒正しい温泉旅館である。 すなわち、温泉デートらしい。 わくわくと期待に瞳を輝かせる冥王に瞬はどうしたものかとただ困惑するばかり。温泉デートも悪くはないが最初のデートがそれってどうなのと思わなくもない。 「どうして温泉なんですか? ほかにもその、デートスポットってあったでしょう?」 「だがここが良さげだったぞ」 そう言って冥王が差し出してきた雑誌はどう見ても旅行専門誌である。少なくともデート用のおしゃれなものではなかった。 旅館のところに花丸がつけてあるあたりは可愛いのだが。 「ん? ということは……」 瞬がなにかを察したとき、部屋に備え付けの電話が鳴った。瞬のほうが近かったのだが、ハーデスが先にとってしまう。電話をする神様もなんだか不自然なようだが、彼は数言相槌を打っただけで最後には分かったとだけ告げて電話を切ってしまった。 「ハーデス?」 瞬の声にくるっと振り向いたハーデスはこれまで見たことにないような笑顔だった。 「瞬、準備が出来たそうだ」 「……はい?」 語尾にアクセントを置くと疑問形になる。 ハーデスはいまいち事情が理解できていないような瞬を抱き上げた。 「きゃあっ、ちょっと、何処に行くんですか?」 「温泉に決まっておるだろう。貸切にしておいたからな。誰も入って来ないそうだ」 「へ? 貸切ってまさか……」 んふふーと笑うハーデス様は瞬を抱き上げたまま部屋を出て行こうとしている。 向かったのはもちろん、源泉掛け流し100パーセントの温泉、しかも混浴である。 んふふーと笑っていたのはハーデスだけではなかった。 ふたりがこの温泉旅館にいることは分かっているのだが今日は城戸の名を出しても満室なのでどうしようもないと女将に丁寧に頭を下げられたせいで一行は温泉は愚か旅館にも入れないのである。 「んふふー、困ったわねぇ」 言う割に笑顔を見せている沙織の横で、紫龍と氷河が「絶対困ってない」と心中深く突っ込んでいた。むしろアテナはハーデスと瞬に接触できないことを楽しんでいるようにも思えた。一輝は相変わらず車の中で泡を吹いて倒れている。 そんなとき、人懐っこい星矢がこれまた人懐っこい笑顔で女将さんからもらった名産のお饅頭を食べながらパンフレットを眺めていた。 「せっかく来たんだしさ、俺らもドライブ行こうぜ!」 「そうだな、ここでこのまま突っ立っていてもしょうがないしな」 星矢の提案に氷河が同意すると、紫龍も頷いた。 3人が車に乗り込んだところを見計らい、沙織はふと空を見上げる。 (瞬、頑張るのよ……!) 今回は珍しく彼女の企んだことではなかったのだが、それでも沙織とて瞬の幸せを願っていることに微塵の違いもない。 その沙織の願いのとおり、瞬は頑張っていた。 「ちょっと、降ろして!!」 「降ろしても逃げないか?」 「逃げないから!!」 部屋を出ようとしていたハーデスに必死の抵抗を見せて、瞬は彼の腕から降りることに成功した。 彼女はその場にぺたんと座りこんで、俯いた。 「どうした瞬。恥ずかしいのは分かるが一時間しか借りれなかったのだ。時間がもったいないだろう」 瞬が恥ずかしそうに恐る恐る顔を上げると冥王は真剣な顔で彼女を見つめていた。 「ど、どうしても混浴がいいんですか?」 「無論!」 威張って言われても困るのだが、それ以前に瞬は困惑から抜けきれないでいるのだが、とにかくハーデスは瞬と一緒に風呂に入りたいという、またしても順番を間違えているような希望を叶えようとしていることだけはよく分かった。 「瞬、余は」 「わかりました……今日だけですからね」 「うむ!」 心底嬉しそうな冥王の声に、瞬はやれやれと溜息をついた。 一度付き合ってやれば納得してくれるだろうと、考えたのが運のつきだったのかもしれない。 だが今の瞬にそれを知る余裕はなかったのである。 ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら上機嫌の冥王の隣を瞬が歩いている。 「ねぇ、そんなに嬉しいですか?」 「無論だ。そなたと一緒なら余はなんでも構わぬのだ。メインブレドウィナに入っても構わぬ」 メインブレドウィナとは海神ポセイドンの海底神殿にある巨大な柱のことで、直訳すれば“大黒柱”である。 それはかつて地上の危機を救うためにアテナ沙織が入柱し、星矢にぶち壊されたという過去を持つ。 そんな柱に一緒にといわれてもと、瞬は思った。飽くまで自分が一緒という条件付であるから、ご指名を受けた彼女はただ笑うしかなかった。 そしてどうして彼が自分を其処まで求めてくれるのか、瞬には分からなかった。 人間と神様が結ばれた例はギリシア神話においてはいくつもある。しかしふたりはアテナの聖闘士と冥王、かつて相争った中なのだ。 だがそうやって争ったからこそ分かり合うなにかがあった。 本当の肉体が傷つくのを忌み嫌ったハーデスは仮の肉体として瞬を選んでいた。彼女がその時代にもっとも清らかな魂を抱いて生まれてくることを彼は識っていたからである。 その予定通りに冥王は瞬の身体を憑依という形で奪った。 そのときに――触れ合ってしまったのだ、瞬の優しさと温和さに、冥王の孤独と寂寥に。 寂しかったのねと瞬が差し伸べた手を冥王が当たり前のように取ったときから、この恋は始まっていたのだ。 されどだからと言っていきなり「一緒に風呂に入りたい」はいくらなんでも付き抜けすぎである。 冥王はと見れば本当に幸せそうに鼻歌なんか歌っているが、瞬には分からない異国の、しかも太古の響きを持っていた。 どうして、と問うことは出来なかった。 私は、あなたに眼鏡に適うほど美しく清らかじゃないのに。 問うかわりに瞬は冥王の袖の先をきゅっと掴んだ。 「どうしたのだ、瞬」 「あなたについていかないと、何処に行ったらいいのか……」 唇から漏れた言葉が真意ではないことは冥王にも分かっていた。だがせっかく瞬が覚悟してくれたのだ、それをわざわざほとぼりを温めなおすこともあるまいと、彼は黙って瞬を連れて歩いた。 辿りついた温泉は半露天で、さらさらと湯の流れる清かな音が聞こえていた。 それ以上に冥王の耳を楽しませていたのが衣擦れの音である。 見るなと言われたので素直に背中を向けてはいるものの、ハーデスには瞬が今何をしているのかよく分かっている。 ブラウスの釦をはずし、袖から腕を抜く。それから先は冥王の希望で暗転だが、とにかく瞬はゆっくりとではあるが服を脱いでいた。 ときどきちらっとこっちを見ているのも可愛らしい。 瞬が最後のバスタオルまでしっかり巻きつけてから聖闘士ならではの俊足でさっさと浴場のほうへ行ってしまったのはかえすがえすも残念だ。 「ぬう、逃げ足の速い……」 だが余の大いなる(瞬限定の)愛で包んでやろうと、冥王は意気揚揚と風呂に向かった。 そこは湯煙は立ち上っていたが、屋外ということもあって少し洗い場のほうが少し霞んでいる程度だった。 浮かび上がる白い背中に冥王は高鳴る胸を押さえながら近づいていった。 「瞬……」 「は、ハーデス……あの……」 「分かっておる。そなたがいいと言うまで触れはせぬから安心してほしい」 「……信じてますからね、あなたの理性」 うんと返事をしたい冥王ではあったが、その理性の壁を突き崩してしまいそうなほど瞬の裸体は美しかった。恥らう姿も冥王をよりいっそうときめかせる。 そう、瞬がただ美しいだけの少女なら、ハーデスが彼女に恋をすることはなかっただろう。 はっきり言ってしまえば瞬の肢体はまだ未熟で男を誘惑できるほどのものではない。それでも冥王の心を捕らえて離さないのはその未熟な少女の身体に宿った彼女の魂そのものなのだろう。 瞬自身を脅かし、殺そうとした男にさえ、瞬は手を差し伸べた。 ハーデスはもともと冥府神としての特性を持って生まれてきたわけではなかった。ただ抽選で冥界を引き当てて王に居座ったにすぎない。瞬はそんなハーデスの本質に、憑依されたから気がついたのだ――彼がただ冷酷非道なだけの神ではなく、厳粛さを尊んだだけだということに。 だから――自分の本質を理解してくれたから。 理解してくれた誰かを愛するようになったのは、当たり前とも言えるだろう。 「ハーデス、髪の毛濡れちゃいますから、結いましょうね」 「うん……」 長く豊かな彼の髪を結うのは大変だが、それでも瞬は彼の黒髪を高く結い上げてやった。 「はい、出来ましたよ」 「すまんな」 いいえと瞬が首を振る。まだ湯にも使っていないのに薄く染まっている彼女の頬が愛しい。 少女らしい緩やかな曲線を持つ瞬の肢体、白いタオルの下に冥王が触れたい肌と最奥がある。 一方の冥王はといえば、精悍な成人男性の身体を持っていた。神が生んだ神は形容しがたいほど美しく、まるで精巧に作られた彫刻のようでもあった。黒い布に隠されていた胸板は過不足のないしなやかな筋肉に覆われていて、瞬は思わずそこを見てしまう。 いつもあの胸に抱かれているのだと思うと、急に恥ずかしくなってくる。 胸だけではない。この腕も――。 「瞬、冷えるから入ろう」 「は、はいっ」 お風呂マナーに則ってかけ湯をし、ふたりはゆっくりと湯船につかった。 「ふぅ……」 「人間はなかなか面白いものを作るな」 石造りの湯船でのんびりと手足を伸ばす冥王の横で、瞬はやっと警戒を解いたように微笑んでいた。 「気持ちいいですねぇ。お天気も良くて……」 ぱちゃっと自分の肌に湯をかける。瞬の肌は簡単に湯を弾いた。 「そうだ、瞬! 余は良いことを思いついた!」 「なんですか?」 瞬が問うと、冥王は自分を誉めてあげたいですとばかりに笑顔を向ける。 「恋人どうし、同じ風呂に入ったのだから、身体を清めあおうではないか!」 「はい!?」 語尾にアクセントを置けば大抵疑問形となるが、この場合は「本気ですか?」の意味を含んだ「はい」でもある。 瞬は狼狽したが、この狼狽がギリシアにいるシオンに届くことはなかった。 「清めあうって、洗いっこするってことですか?」 「まあそういうことだな」 そういうのはもっと親密な仲の恋人同士がやるものなんじゃないかとも思ったのだが一緒にお風呂にいる時点で既に「親密な仲」というヤツであるということを、瞬は理解していなくてはならなかった。 が、していなかったのでツッコむことは出来なかった。 「背中を流すだけで良いのだ。本当は隅々まで洗ってやりたいがな」 「やらしいこと言わないで」 瞬が抗議の意味で乱暴にかけた湯も冥王は片手で遮って笑う。 「そう言うと思ったから背中と限定したのだぞ」 「背中だけですからね……」 冥王はこっくり頷いたのだが、脳内では激しい花火大会になってたことを明記しておく。何故なら背中とはいえ瞬の肌に堂々と触れる許可を得ることが出来たからだ。 ふたりは水音を立てながら湯船から出るとそろって洗い場の椅子に腰を下ろした。 瞬はしっかりとタオルを巻きなおし、冥王の背後に移動した。 「じゃあ、私から洗いますね」 「うん……」 もしかしたら瞬はどぎまぎしていたのかもしれない。彼女は無意識に束子を取ると彼の背中をがりっと擦った。 「いっ!?」 有り得ない痛みに冥王は思わず声を上げた。ひりひりと痛む背中に彼は思わず手を当てる。 「瞬、そなたいったい……」 「へ? あっ、やだっ!」 瞬は手にしていたのがスポンジではなく束子だと認識すると慌ててそれを放り投げた。 「ご、ごめんなさい、ぼーっとしてて」 「いや、これしき大事ないが……」 冥王の背中は傷どころか浅赤の線が引かれただけだった。 それでも傷つけてしまったと思った瞬はおろおろとそこを撫でた。 「ごめんなさい、ハーデス」 運が悪い、という見方は瞬視点にたったものだろう。 彼女は足元にあった石鹸を踏んづけた。そして滑った。 「きゃああっ」 「瞬!」 背中から倒れていく瞬を、冥王が間一髪抱きとめた。 「大丈夫か?」 「は、はい……」 服を着ているときだって、これほど密着すれば羞恥で溢れる心。 今はお互い裸で、タオルを身につけているだけだ。羞恥は心の結界を破って洪水になる。 瞬は白磁の頬を真っ赤に染め、顔を伏せた。瞳が潤んでいるのが自分でもわかる。 「やっ……」 「瞬?」 「は、恥ずかしいです。もう嫌ですぅ……」 そう言ってハーデスから離れた瞬は背中を向けてしまった。少女の背中は白く、そこに翼をつけたいほど美しかった。 ハーデスは彼女の背中を見つめながら言った。 「すまん、瞬。余は無体なことを望んでいるわけではないのだ」 「ハーデス……」 振り返った瞬は少し目元を潤ませていた。 そして思い知る――自分たちにはまだ早すぎたのではないか、と。 でも触れたかった。もっともっと触れたいと思った。 だから。 「困らせたのなら謝ろう。だが余はそなたを愛している。そう言えば許されると思っているわけではないのだが……でも、信じてほしい」 「信じてます。でも……やっぱり怖い」 少女はまだ、自分の雌を自覚できてはいないのだ。 「部屋に戻るか」 ハーデスの提案に、瞬はこっくりと頷いた。 そして、彼が差し出した手をおずおずと取り、ゆっくりと立ち上がるのだった。 体が温まっても、心はどこか落ち着かなくて。 部屋に戻ってからも瞬は冥王と少し距離を置いて座っていた。 別に何か卑猥なことをされたわけではない。それでも、今は彼のそばにいたくはなかった。 無自覚の雌はどこかで成熟した雄を避けている。 冥王にもそれがわかったのか、無理に瞬に近づこうとはしなかった。 「ねぇ、ハーデス」 「……なんだ」 「あなたは、そんなに私がほしいですか?」 瞬の声が、常ならず弱々しかった。アテナの聖闘士はどんな時でもまっすぐ前を向いていたのに。 いや、今は一介の少女でしかないはずの瞬にそれを求めるのは筋違いといえた。 聖闘士と、敵対する冥王だからこそ出会ったといってもいい。 けれど今は普通の男と女でいたいから。 冥王は自分の心を偽らずに告げた。 「何度でもいう。余はそなたがほしい。心も体も、これから先のそなたの人生も。すべて余のものにしたい。だが奪うだけはしない、そなたが余に捧げてくれたものすべて、余の物で返そう。余のすべてをそなたに捧げよう」 「ハーデス……」 瞬はきゅっと自分の胸元を握った。 遅かれ早かれ、自分は。 いつか少女でいられなくなる、女になる、と。 「私はあなたが好き。最初は本当に怖かったけど、でも……今はあなたがいないことが怖くなる」 「瞬……」 ハーデスの手が瞬の頬に伸びてきた。 この神は、本当に残酷なのかもしれない。 だけど、もう。 「ハーデス、私……」 瞬はハーデスに触れられる前に、自分で抱きついていた。 そんな少女の亜麻色の髪を撫でながら、男は優しくその名を囁いた。 「瞬、瞬……」 「私はまだ、何も知らない」 「うん」 知らない。男のことも、自分のことも。 知識はあるけれど、心がついていかなくて。 「瞬、余はそなたがほしいが、急かしたりはせぬ。今日はただそなたと一緒にいたかっただけだ。やましい気持ちなど……ほんのちょっとだけだ」 ハーデスは全くないと言わなかった。それがかえってよかったのかもしれない。 彼がときどきうっかり漏らす本音が瞬を安心させているのも事実だから。 「ねぇ、ハーデス」 「なんだ」 「……キスして」 それが彼女が望むことならと、ハーデスは問い返さずに口づけた。 触れ合う唇と唇、愛したのは他ならぬ君だから。 「瞬」 「はい」 「楽しみに、待っている。そなたが余を受け入れてくれるのをな」 全身全霊ですべてを交換するその日を。 ハーデスはイタズラっぽく笑い、瞬は彼の胸を小さく叩いてはにかんだ。 その日のうちに瞬とハーデスは出て行ったときと同じように車で戻ってきた。 先に戻ってきていた星矢たちはおおと声を上げる。 真っ先に飛び出して行ったのはやっぱり一輝だった。彼はハーデスにエスコートされて降りてきた瞬をいきなりがばっと抱きしめる。 「瞬! よかった、無事か!」 「に、兄さん、苦しいです……」 「貞操も無事か!?」 「怒りますよ兄さん」 ハーデスがそんなことするわけないでしょうと自信を持って言えないあたりが少し寂しいが。 そういうと瞬は兄の腕を解き、かわりに恋人の腕を取った。 「行きましょう、ハーデス」 「うむ」 仲睦まじそうにぴったり寄り添うふたりに一輝兄さんははっと我に帰ってぎゃーぎゃーと怒鳴り始めた。 「煩いぞ、フェニックス。お前にはこれをやるから大人しくしていろ」 そう言ってハーデスがパチンと指を鳴らすと、何処からともなく、黒衣の淑女が一輝の上に落ちてきた。彼は思わず受け止める。 「………………」 「………………」 「…………ぎゃー!!」 「…………にゃー!!」 一輝にお姫様抱っこされていたのはパンドラだった。 彼女は世にも珍しく一輝に恋焦がれる女の子で、彼を想わない日はないのにそれがイマイチ報われていない。 さりとてこんな形で思い人に会えたのだからネコにように叫んでも仕方がないといえた。 「ふふふ、喜んでおる喜んでおる」 既に室内からその様子を見守っていたハーデスと沙織はウフフフフーッと笑っている。 違うんじゃないかなあと想いつつもツッコめない紫龍と氷河の横で星矢がお土産のお饅頭を瞬に差し出していた。 「アテナ、あなたに借りた車と瞬は返しておこう」 「あら、瞬もですか?」 沙織の伺うような視線に、ハーデスは余裕の微笑を見せた。 あのとき瞬がほんの僅かに見せてくれた、奥底の雌。少女の中に繋がれたどろどろとした闇は決して邪悪な闇ではないのだ。命を育む“胎”と名づけられた神秘の闇だから。 いつかその闇に、自分だけが触れる日がやってくる。 だから彼は笑うのだ――そう、にこやかに。 「……今は一応な。だがいずれ瞬は余の妻とする」 「頑張ってくださいね。私は瞬が幸せになれるのならそれでいいのですから」 そう言って沙織は背後を振り返った。 瞬がいなくて寂しかったと抱きつく星矢と、甘やかし放題の瞬は仔犬と子猫のように戯れている。 「ハーデス、あれはイイのですか?」 「姉弟でじゃれておるだけだろう、そこまで目くじらは立てんぞ」 瞬が少しずつでも自分に近づいてくるから。 それだけで、いい。 ハーデスは静かに目を閉じ、夜の闇の気配に己をだぶらせていた。 夜は必ずやって来る。 そして冥王も絶対をもって瞬のそばにいた。 自分を抱きしめる腕を、胸を、その素肌を、瞬は知ってしまった。 でもそれは彼を拒絶する理由にはならなかった。 「ハーデスはやっぱり、男の人なんですね」 「人と言われるとあれだが、まあそうだな」 ハーデスは一応神様である。が、それは言葉のあやというもの、深く考えないことにした。 そのかわりに瞬をぎゅっと抱きしめる。 「やっ、ハーデス……」 「余は男だ。そしてそなたは女。それがどうかしたか?」 ハーデスが耳元で問うのがくすぐったくて、瞬は思わず身を捩る。すると今度は瞬の亜麻色の髪がハーデスの頬をこすった。 「いえ、私あなたのことをあんまり男の人なんだって意識してなかったなあって。だって何にもしないから」 「してほしかったのか?」 「そうじゃなくて。なんだろう、弟とか、おっきなわんことか、そんな感じだったかも」 そう口にして、ふたりはああと思い当たった。 何故、瞬が愛しているではなく好き、というのか。 何故、会えないことが寂しいのか。 何故、お互いこんなに無防備に抱き合っているのか。 「まだ恋じゃなかったのかな」 「では今から恋にしよう」 重なる鼓動、これからどれだけの時をかけても、君だけを想い続けよう。 例えそれがどんなに理不尽な正当性を孕んでいても。 朝が終わり、夜になる 夜が終わり、朝が来る 恋が始まって愛になっても ああ、どうかいつまでも終わりませんように ≪終≫ ≪温泉かぽーん≫ あぼーんしたのは俺の頭かもしれない。もう少しエロくするはずだったのにな、とんだチケンだぜ俺。 でもハーデス様と瞬がもっともっと密接になってくれれば俺はそれで構わんわ! 一度も目を合わせずに(誰と?)俺はそう言った。 |