春風桜花サバイバル 〜めぐり来るどの春にも 長い冬が終わり、また春が来る 漆黒の空に狩人はなく ただ月が寂しそうに 桜を銀色に染め上げる 細い針のようなか細い月 淡い色の空にその姿はないけれど 夕方の6時をすぎても、まだ少し明るい。3ヶ月くらい前ならこの時間は既に暗くて、それにあの人がいた。 寒いだろうと無遠慮に抱きしめてくるし、逆に寒いから暖めてくれとやっぱり抱きついてきた。 亜麻色の髪の少女が思い出したのか、くすくす笑っている。 「日没が遅くなってるもんね……」 反対に日の出の時間が早まり、夜が短くなっている。 だからちょっと彼の機嫌が悪い。 彼との逢瀬は夜しか出来ない、夜しかしないと決めたから。しかも夜は眠るのだから実際に「一緒にいる」と認識できる時間はもっと短いことになる。 そばにいてあげたいと思うのに、どこかで踏ん切りがつかないのは私がまだ幼いからかしら、と桜の木の下の少女ははらりと舞った一枚を手にたたずんでいた。 あるいは、わがままなんだろうかと。 まるで無くした心を取り戻すかのように、花びら一枚、そっと胸に抱いて。 だから、気がつかなかったのかもしれない――自分の心の中にいたのだから。 じゃりっと鳴った大地の音、瞬はゆるりと振りかえった。 「夕刻はまだ冷えるぞ、瞬」 「ハーデス……」 闇夜の外套が瞬の体を優しく包んだ。 その温かさに銀河の瞳をふわりと細めて。 男の名は死界の王にして自身の恋人の物――瞬はにっこりと笑った。 「おかえりなさい」 花咲ける春の大地に。 「ただいま、瞬」 愛しい君の生きる地上に。 恋人のハーデスは冥府の王、愛を知らぬかつての敵将も今はただ恋しい少女の為に変わりつつある。 瞬は彼の腕の中から満開の桜を見上げた。 「見て、綺麗に咲いてる……」 瞬は手にしていた花びらを大地に返した。そして変わりに男の手を取る。 冥王は沈黙していた。 確かに綺麗な花だが、瞬はその花を見てはいない、そんな気がしたのだ。 彼女が見ているのは桜の奥に潜む、魔。 しかし冥王はそんな少女の意識を自分に向けさせようと言葉を選んだ。 「ああ、綺麗だと思う」 否定すれば彼女の機嫌を損ねて、より一層自分を見なくなるだろう。だから冥王は肯定するのだ。 それは功を奏したらしい、瞬は満足そうに笑って冥王を見つめた。 「桜はね、どんな花よりも散り際が綺麗なんだって……」 「ほう」 まるで涙のようにはらはらと。それは冥王の髪にも一枚、ぴたっとくっついた。 それがやっと瞬の視線を完全に自分に向けさせることになったのだが、なんとなく気に入らない。 「ふふふ、似合いますね」 「そうか?」 とってやろうと瞬が手を伸ばせば、逆にハーデスの腕に捕らえられて。 不機嫌そうな理由がわかっているから、瞬は特に抵抗も驚愕もしなかった。 「ハーデス?」 「桜に浚われるでない。そなたを捕らえるのは余だからな……」 闇の瞳は何処までも深く、瞬を射抜く。 愛する人のいなかった彼の世界には、どんな色の花が咲いていたのだろう。 玩具を奪われた子どものように、少し拗ねてみせるハーデスに瞬は苦笑を漏らした。 だけど、嬉しかった――とも思った。 私はこの神様を好きでもいいんだと、思えたから。 だから瞬はこくりと頷いてみせた。 「……はい」 桜に見惚れてはいたけれど、でも心を浚わせたりしない。 少なくとも私はそんなに弱くはないと瞬は微苦笑した。 冬の余韻を残したかのような花冷えの夕刻、空はまだ白く霞み、月は存在しながらもその姿を見せず。 「春、なんですね」 「そうだ、春だ」 奪う勇気よりも、待つという忍耐を。 迷ったって構わない、楽しいだけの恋なら、きっと何かを失ってしまいそうで。 愛しいという思いの前に人は、神は、脱しがたい異次元を彷徨う。 それから数日後、雨の夜になった。 花を散らすからと 春の雨を恨まないで 降雨散花は自然の摂理だもの 「でも、やっぱり寂しい」 折角満開だった桜も強風と降雨によって散らされていく。 お気に入りの薄紅の傘の下。少女と青年が並んで立っていた。黒衣の青年は恋しい少女を雨に晒さぬように外套で包み込んでいる。 「花が散るのは、当たり前だろう」 「分かってますよ。でも桜だけはなんだか……綺麗だから、いっそう寂しい」 それは人間の感覚。 神である彼には――冥王にはいまいち理解できない。例えばむこうの花壇に咲いているチューリップだっていつかは枯れて散るのだ。少女はそれさえも寂しいことだと悲しむだろうに。 なぜ、桜だけ特別なのだろう。 「なあ、瞬」 「なんですか?」 その答えを知りたくて、冥王はきゅっと瞬を抱き寄せた。 「なぜ、桜だけにそのように視線を、思いを向けるのだ?」 花は――どんな花も生命だから。 瞬はくすっと笑った。 「さあ、桜の花びらが涙に似ているからかもしれませんね。そこに雨が重なればいっそう……」 涙に涙を重ねても、涙にしかならないから。 「そんなものかな……」 やっぱりよく分からないと、冥王は桜を見上げる。 そんな彼にそっと頭を寄せながら、瞬はやっぱり笑っていた。 「逆に聞きますけどね」 「んー?」 「たくさん人間がいて、そのなかに綺麗で可愛い女の子もたくさんいるのに、どうして私なんですか?」 「それはそなたが清らかな魂の持ち主だったからだ。触れてみて余は自分の慧眼を褒め称えたほどだぞ。まあ、背かれるとは思わなかったが」 冥王は自分の肉体が傷つくのを嫌って、現世に復活するごとに仮の肉体を選んでいた。 今期はアンドロメダの聖闘士であった瞬をその憑代にし、一時的ではあったが瞬は冥王として残酷な神になった。 そうして――戦いという形ではあったものの、互いの魂に触れ合ってしまった。だから、争いの済んだ今となって忘れることは出来なくて。 闇と知りながら手を差し伸べた。 光と分かりながらその手を取った。 瀕死だった冥王を助けたのは瞬だったのだ。 「余は本当は、何もかも覚悟していた――そなたが余を拒んだときから。しかし、何故だろうと思いもした」 「なにを?」 男の腕の中で、瞬はゆっくりと彼を見つめる。 「何故、余は愛されないのだろうと。好きで死の世界にいるわけではないのだ。それが余の責任なのだろうかと」 「ハーデス……」 瞬は泣きそうな顔をしていたのかもしれない。 だから彼は瞬をきゅっと抱きしめた。 「案ずるな。今はそなたがいてくれる。そなたのおかげで余は愛たるものがなんなのか、どうすればいいのか少しずつ分かってきた」 「でも、私が特別だっていう理由にはならないと思うの……」 「そうだな、あのとき余を助けたのがアテナ……うう、あんまり考えたくないがアテナだったとしても、恋することはなかっただろうな」 瞬だから恋をした。 瞬でなければだめだった。 特別だった――奥底から触れ合うことが出来たから。 「答えは、ないのかもしれない」 桜は美しい、瞬は可愛らしい。 しかし桜は瞬との比較対象としてはあまりにも小さすぎた――冥王基準で。 だが根本的なところは同じ。 なぜ、桜だけ特別なのか。 なぜ、瞬だけ愛しいのか。 答えはわからない。 ただそこに桜が咲いて散るから、嬉しいし悲しいのかもしれない。 ただそこに君が生きているから、愛しいし楽しいのかもしれない。 「あったとしても、余はその答えを持っておらぬ。そなたが桜を愛でる理由を持たぬようにな」 しかし、と言い置いて冥王は瞬の耳元に囁いた。 「ここの桜は散らぬぞ」 「へ?」 そっと、布ごしでも近づけられた唇は左の鎖骨。 冥王はフフフと笑った。その意図するところを正確に察し、瞬は頬を赤らめた。 「部屋でつけてやる、外は寒いからな」 「やだ、つけなくていいですぅ」 「そういうな、今のところ余に許されている愛情表現のうちの最大のものなのだから」 雨足は衰えない。けれど君への恋心は。 ハーデスは瞬の背中を押して屋内へと導いた。 お風呂上りに鏡を見て、瞬は自分の左鎖骨あたりに指を這わせた。 そこには彼女の恋人が残した印がある――ごく僅かに淫らな、恋の証。 「消えない……よね」 消えそうになれば恋人は問答無用につけなおしてくる。 「でも、この位置は目立つよね……」 少し襟もとの開いた服なら見えてしまうかもしれない。 冬だったらハイネックなりマフラーなりで隠すことも出来たのだが、薄着になってくる春にはそうもいかない。 たとえ聖闘士と言えどもはやり女の子、可愛らしい恰好に興味がないとは言わない。 春らしいふわりとした布に、その色合い。 どれもこれもとてもステキで、一度は着てみたいと思う。 沙織に言えばなんだそんなことかと、微苦笑して見せるだろう。 けれど問題はほかにある。 それを思いだし、瞬は深ーくため息をつくのだった。 薄紅色のパジャマ姿で冥王の横に座り、無邪気な恋人を見つめた。 「なんだ、どうした?」 「いえ、その、お願いがあるんですけど」 可愛い恋人である瞬からお願いがあると言われれば冥王は当然ながら俄然張り切った。 「なんだ、そなたの願いなら余は何でも聞いてやるぞ」 「よかったぁ」 瞬がほっと胸をなでおろすと、ハーデスもにこりと笑う。 「さ、何なりと言ってみろ。あ、別れたいとかいうのは絶対に聞かぬからな!」 「そんなんじゃないですよ」 ちょっとかわいそうなくらい真剣みを帯びたハーデスに瞬はくすくす笑う。そして手元にあったファッション誌を取り上げ、ページを開いた。 「春なんですよね」 「うむ、忌々しいほどに春だな」 色めきたつ春も夜しか地上に出てこない冥王にしてみれば忌々しいには違いないが。 瞬は苦笑した。 「あのね、私もそろそろ春らしい格好がしたいんですよ」 「すればよいではないか」 「でも、その……ほら、襟元をちょっと開けたいんですよね」 そこまで言われて冥王はやっと察してくれたらしい。瞬は賢い恋人に嬉しそうに笑みをこぼした。 のだが。 「というわけで」 「イヤだ」 「……」 瞬がなにかをいう前に、恋人であるハーデスは問答無用に拒否してきた。 が、ここまでは想定内なので瞬はじっと彼を見つめる。 「どうしても?」 「どうしても!」 黒衣の彼はまるで子どものようにいやなことはいやとはっきり言う。 そこは可愛いのだけれど。 「でも私だって可愛い恰好したいんです」 「せんでいい。それ以上可愛くなってなんとする」 「それはあなたの勝手な理屈です」 年頃の女の子であるが故の心と、やっと恋人足り得る少女を見つけた男の言い分はそれぞれに正当性を孕んでいるわけなのだが、ここまで噛み合わないといっそ清々しいというものだ。 ハーデスは瞬の両手を自分のそれでしっかりと包むように握り締めた。 「キスしてはいかんのか?」 「ここじゃなきゃ……跡を残さないのなら、ここにしてもかまいませんけど……」 「それならそうと言え」 え、と瞬がいう前に、彼女の唇は男によって奪われていた。 「んーっ!!」 角度を変えて何度もふれあい、ときどき舌をさし入れてくるハーデス。瞬は彼の背中を何度も叩いた。が、彼は一向にやめる気配を見せない。 「んっ…ふあっ……あんっ」 そしてようやく解放されたかと思ったら今度は耳を舐めてくる。瞬は思わず身を竦ませた。 「いやっ……!」 ハーデスの腕は瞬をしっかりと抱き、その唇は甘やかな吐息まで食いつくそうと寄せられる。 「ハーデス、いやあっ!!」 「痕を残さなければいいのだろう?」 ふふふと小さく漏らした微笑に、瞬はきゅっと目を閉じた。 「やだっ」 「瞬は本当に可愛いな」 「……ばかっ!」 渾身の力で冥王を押し返すと、彼は満足したのか大人しく退いてくれた。 ようやく解放されたときには瞬の頬は紅潮し、銀河の瞳は潤み、そして上目遣いに恋人を見ていた。 そしてもう一度文句でも言ってやろうと少女は薄い唇を開く。 「ばか」 少女を解きほぐせばそこから女が出てくるのだろうか。 冥王は瞬を怒らせるのは得策ではないとばかりに今度はそっと抱きしめた。 「可愛い余の瞬。怒った顔もいいな」 「もう、そういえばいいってもんじゃないんですよ……」 それでもなんとなく怒る気にはなれなくて、瞬はぽふっと彼の胸に我が身を預けるのだった。 「っていうか、あんまりひどいことしないで……」 「キスがひどいことなら余はどうやって愛情を示せばよい? もっともっと触れたい。触れたくてたまらないが、そなたがまだうんと言ってくれぬからな、我慢しておるのだ……」 「ハーデス……」 でもあんまりこう、刺激しないでほしいなと思いながら、少女は再び少女の繭を紡ぐ。 男の腕に抱かれたまま。 「どうしてそんなに私が好きなの……」 「さあ、どうしてだろうな。ただ余は問答無用にそなたが好きになったのだ。恋や愛に理由は必要あるまい」 「そりゃそうですけど……」 男の腕は固く、そして熱く。けれど恋人特有の不思議な甘さも孕んでいる。 「そなたは余が嫌いか? それとも飽きたか?」 「いいえ、そんなことは。でも……」 「でもなんだ?」 問いかける冥王に瞬はおずおずと視線をあげた。 最近の自分は彼を「神」ではなく「男」として意識し始めている。 それに気がついてしまってからは彼のすべてが気になり始めた。 見つめる瞳、触れる指、合わさる唇。 そして――ほんの少しの未来に、彼はどんなふうに自分に触れてくるのか、あるいは、そのとき自分はどうなるのか。 「瞬……」 ぐっと力を込めて引き寄せられる。 ふいに、泣きたくなった。でも泣かなかった。 「ハーデス……私」 「すまぬ。余は本当にそなたが愛しい。余は神だから、そなたを奪うことは簡単だ。でもそれはしたくない。愛とはそういうものではないのだろう?」 「そうですね、多分きっと」 「多分ではなく、そうなのだ。余はそれを知っている。そなたを無理に奪っても、そなたは余のものにはならなかったから……」 そう語るハーデスの横顔を、瞬は真摯な思いで見つめていた。 ふと視線が合う。 なんだか急に恥ずかしくなって目を背けてしまったが、ハーデスはそれも可愛いと笑っているらしい。 「瞬、愛しい余の瞬……」 「やっ……」 最近ハーデスは微妙に強引に迫ってくるようになった。しかしそうと思いながらも、それでも完全に彼をはねつけない自分もいる。 (どうしちゃったんだろう……) 自分に覆いかぶさるように抱きついている冥王の髪を瞬はよしよしと撫でた。 「ハーデス、退いてください」 「んー? もう少しよいだろう?」 「なにしてるんです?」 もそもそと蠢いているハーデスが重くて熱いのだけれどと思いながら、瞬は彼の肩を掴んだ。 「ハーデスったら」 「いや、そなたに抱きついていたら心地よくなって、眠くなってきた」 「ふふふ、じゃあもう寝ましょうか」 「うん」 ふたりはゆっくり起き上がると、静かにベッドに入っていった。 不思議と、ただ眠るだけなのだと思えば彼を男として意識することがない。 「信頼してますからね、ハーデス」 「安心しろ、余は紳士だからな」 「はい。じゃあおやすみなさい」 「うん、おやすみ」 男の腕の中の少女、少女の腕は男の背中に。 そっとまわして、抱きしめて。 世界は、春。 花散らしの雨も ああ、今は温かいね…… 桜の花びらは道標になるのかしら ≪終≫ ≪ひとりニルバーナ≫ 今回のSSは日記でちょこちょこ書いていたSSSをまとめて加筆修正したものです。 桜のシーズン終わる前にUPしたかったのでちょっと急ぎました。 冥瞬・桜は二本目ですから、ああ、もう1年は取り扱ってるんですねえと実感です。 石投げないでくださいっ |