幻想楽園組曲序奏



まだ触れないで
男らしいその指先で
私はまだ触れてほしくないの





その日、聖域を疾駆する黒い影があった。
黄金聖闘士たちはその影の正体を知っていたし、何をしに来たのか興味津々だったのであまり深く考えずに彼の後を追った。
そしてたどり着いた先で男は大声で叫んだ。
「魚座! 魚座はおるか!」
御指名なのは聖闘士の中で最も美しい魚座のアフロディーテである。
「もー、なんなのよう……」
アフロディーテはネイルを塗っている最中だったらしい。しかし彼女は男の顔を見ても別になんという反応もなく、迎え入れた。
「どーしたの、神様」
彼女が神様と呼ぶのは主君アテナではなく、かつては敵だった冥王ハーデスである。
ハーデスはきっと顔をあげると、真剣に彼女を見つめている。
と思ったらいきなり情けないことを言い出した。
「助けてくれ! 瞬を怒らせた!」
「いったい何やらかしたの」
アフロディーテにとっても瞬はかつて相対し、敗れた相手である。本気になった瞬は兄である不死鳥一輝でさえ凌駕するほどの実力の持ち主だ。その瞬を怒らせるなんて愚の骨頂に他ならない。
恋敵の自爆にカノンは思わずほくそえむ。
「実は……」
と、しどろもどろに冥王は語り始めた。



数日前のことだった。
いつものように地上で――もっと言えば瞬の寝室で一夜を明かした冥王は淡いまどろみの中にいた。
ふと気がつくと隣にいるはずの瞬は既に起床していた。
「ん……」
しっくりこない覚醒、薄く目を開けるとそこにはちゃんと瞬がいた。
僅かに開けられたカーテンの向こうから刺し込む暁の光、照らし出されるのは少女の半裸。
いけないことと分かっていても、冥王はそこから目を離すことが出来なかった。
彼の基準で言えばおそらく地上において、いや、女神の中にも瞬に匹敵する美は存在しない。
薄闇に浮かび上がる、白い背中。僅かに見えたのは少女らしい胸元。
やがて視線に気がついただろう瞬が手にしていたシャツっぽい布で慌てて胸元を覆い隠した。
「やだっ、見てたんですか!?」
「偶然見えてしまったのだ。許せ」
神様らしいものの言い方に瞬は嘆息した。
偶然なのは本当だと思う。
「着替えてるんです、むこう向いて」
「はいはい」
冥王は瞬の言うことだけは素直に聞く。ごろりと転がっては見たものの、まだ未練たらしく首だけ動かそうと頑張っている。
「見ないで!」
「分かっておる」
衣擦れの音が静かに響く。ときどき「んしょ」と小さく声がかかるのも可愛い。
「まだか?」
「もういいですよ」
満を持して振りかえったときには、冥王の額は瞬の繊手にはたかれていた。
「痛っ」
「やらしいんだから」
「余とて男だからな」
にやりと笑う冥王に、瞬は頬を赤らめた。
恋から始めれば行きつく先は男女の営みと決まっている。まだ13歳の少女にそれを求めるのは酷だろうと思いこそするから待っていると決めたのに、ほんの少しでも触れ合ってしまえば欲しくなるのは道理というもの。



ここまで語って、冥王は少し涙ぐんだ。
「その後は、機嫌よく余を送り出してくれたのだ」
アフロディーテはうーんと首を傾げる。この時点で瞬が怒りそうな事象はない。
着替えを見られても可愛いお仕置きですませている点からもそれは明白だった。
「そのあとに、なにかあった?」
アフロディーテがそう聞くと、冥王はこっくり頷いた。
「じゃあ話して」
「……すべてはあの海鮮丼が悪いのだ」



冥王が海鮮丼と称したのは彼の兄弟神である海皇ポセイドンのことである。
ギリシア生まれの冥王がなぜそんな単語を知っていたのかは想像におまかせする。
とにかく瞬の着替えを偶然にも拝観できたその日、海皇ポセイドンがジュリアン・ソロの姿で冥府へやってきた。
彼いわく「道に迷った」そうである。どう道に迷ったら冥府へ辿りつくのかと冥王は頭を抱えたのだが、兄弟神なので無下に追い返すわけにもいかず、仕方なくジュデッカに通したのだ。
「何しに来た、ポセイドン」
「いやー、お前が結婚するって聞いたから陣中見舞いに。あ、嫁の顔は知ってるから紹介しなくていいぞ」
冥王の婚約者(仮)である瞬は海底神殿に乗り込んできて南太平洋と北大西洋の柱を撃破している。
ポセイドン神殿においては星矢を庇って立ちふさがったため、面識があるのだ。
「お前は昔から面食いだったからな! 私もソレントに会う前だったらアンドロメダちゃん狙ったかもな!」
「そうか、お前死にたいのか」
おもむろに愛用の剣を持ち出してきたハーデスにポセイドンはまあまあと手を振った。
「今の私にはソレントいるし。お前ほどロリコンじゃないし」
「そうかそうか、そんなに死にたいか」
とうとう鞘を抜いた冥王に海皇はやはりまあまあまあと手を振った。
「落ちつけ、ハーデス」
「落ちついてられるか!」
本当に何しに来たんだポセイドン。
「アンドロメダちゃんはまだ13歳だろう、見たところこう、貧弱な体つきだぞ、お前あーゆーのが好みか?」
「貧弱いうな、スレンダーと言え」
「胸だってまな板みたいだし」
「まな板言うな、美乳と言え。微妙とか微弱の『微』ではないぞ、美しい『美』だからな!」
わざわざ日本語の解釈をする冥王に、海皇はけらけら笑って見せた。
「恋は盲目っていうが、本当だな」
「瞬はこれから育つのだ」
「育たなかったらどうするんだ?」
「うっ……」
乳房の成長には当然個人差がある。出産後の母乳の出に関しては大きいほうがよい、という傾向があるわけでもない。
だから女性としての将来において乳房の大小など生物的にはなんの問題もないはずだ。
大体ハーデスは瞬の肢体に惚れたわけではない。彼女の清らかな魂に惚れ、優しい心を好きになったはずなのだがどうも論点が明後日の方向にずれている。
それを分からないはずもないポセイドンは、知っていてなおもハーデスをけしかけた。
「同じ13歳でもアテナはあれだ、育ちすぎだからな」
「む……」
冥王はちょっと想像してみた。
アテナのように豊かな乳房を持つ瞬を。
「ああ、これはこれでいいかもしれないな」
冥王が想像――正しくは妄想――した瞬の幻を具現化してみる。
「しかし何か違うな、瞬はもっとこう、控えめな方が可愛いような……」
「あーあ、そうそう。言われてみれば控えめな方がな」
冥王と海皇は所詮、男だった。
あーでもないこーでもないと言いながら理想の――もはや誰の理想か分からないが――瞬を作り上げていく。
「顔はこれでよい、いじる必要はない」
「じゃあやっぱり胸か? それとも腰か?」
「胸はもう少し欲しいな、こう、安定感のある感じで」
安定感ってなんだ、安定感って。
そうやって、夢中になっていたのがいけなかったのかもしれない。
「まあ、こんなものかな」
「へぇ、それがハーデスの理想の恋人なんですかぁ」
「うむ、力作だぞー」
このとき、ハーデスは声の主が誰なのかすぐに認識すべきであった。
無邪気に振り向いたハーデスの視界に激昂する鎖姫の姿、怒髪天を突くとばかりに亜麻色の髪が小宇宙の煽りを受けて逆立っている。
彼はびくうっと背中を逆立てた。
「しゅ、瞬!? 何故ここに!?」
「アテナの書状を届けにきたんですけどね……」
届けたらすぐに帰ろうと思っていた。けれど折角来たのだから顔くらい見せていこうかなと思いなおし、瞬はハーデスの私室に出向いたのに。
いざ来てみればハーデスは理想の瞬だとか言って好き勝手に造形しているではないか。
「それが理想ならそのフィギュアに命でも与えて可愛がればいいでしょう!?」
「いや、これはその……ああ、ポセイドンのだ! ポセイドンの理想なのだ!」
同意を求めようと彼が振り返ったとき、海皇の姿は既になかった。
彼はとっくの昔に逃げ出していたのである。冥王はちょっと涙目でうろたえていた。
「ポセイドーン!!」
「どこに海皇がいるって言うんですか、責任転嫁はやめなさい、往生際の悪い……」
往生しろというのか、瞬よ。
冥王は思わず後退った。しかし踵が壁を蹴る前に自身の体が目に見えぬ何かに縛られているのを感じる。
「これは……気流が渦巻いている!?」
「前振りなしで、ネビュラスト――ムっ!!」
「ぎゃー!!」
鎖の姫様は、実は素手の方が強いのである。
彼女は自身の名誉を守るためと言い置いて、冥王をこてんぱんに伸した。
「あなたはこの瞬の逆鱗に触れたのよ! もう知らないっ!!」
まるで紫龍のような口を利きつつ、瞬は泣きながらジュデッカを後にした。
「うう……瞬…」
余が悪かったとばかりに手を伸ばすハーデス。しかし男の腕は哀しいほど短く、瞬には届かなかった。



「バカなの? 神様」
「余は充分に反省しておる」
設問に適さない答えは不正解とされる。
アフロディーテはあなたはバカなのか、と問うた。従ってその答えはイエスかノーか、二つに一つ。
反省しているかどうかなど聞いちゃいないのだ。
アフロディーテは呆れたようにため息をつき、膝をついて泣く冥王の肩を叩いた。
「神様は、なんで瞬に触れないんだっけ?」
「それはまだ瞬が幼いからだ」
どんなに愛していても、瞬はまだ13歳の少女なのだ。
青い果実は、刈り取るにはまだ早すぎると、冥王は瞬の心身が育つのを待っていたのに。
「瞬が怒るのは、それだけじゃないのよ」
「というと?」
眼前の男は本当に神なのだろうかと疑問に思いながら、アフロディーテはにこりと笑って見せた。
「瞬はね、言ってた。こんなに未熟な自分でもハーデスが好意を持ってくれるなら嬉しいって。ありのままを愛してくれるのが幸せだって」
「……余は、裏切ってしまったのか?」
「そうね。瞬がどんな女性に育つのか想像するのは悪くないけど、でもちょっとやりすぎたかもね」
項垂れるときまで恋人の名を効果音に――すなわち冥王はしゅんと俯いた。
「瞬はあのように細っこいから、余は心配でならなかった……ずっと」
「神様……」
瞬と冥王の結びつきは特殊だった。
彼女は冥王ハーデスの因縁の許に、憑代として生まれてきたのだと、少なくとも冥王がそう言い張る少女だった。
だからハーデスはずっと瞬を見ていた。
生まれ育ち、兄のそばを離れて聖闘士になった瞬が自分の許に近づいてくるのを感じながら。
しかし瞬はその運命を受け入れた――その意味を読み替えて。
すなわち、冥王として君臨するためではなく、冥王を封じる檻として。
瞬はアンドロメダの聖闘士になった。そして定められた刻に、彼女は残酷な神になった。
檻としての彼女の役目は実にささやかだったのかもしれないが、それでも冥王を混乱に陥れるには十分すぎるほどの成果をあげて、瞬の身体は開放されることとなる。
そして、聖戦はアテナの勝利で終わったのだ。
戦後処理に、瞬はあろうことか冥王を助けてしまう。それがこの恋の始まりだった。
瞬の肉体と冥王の魂を結びつける星の鎖は聖戦が終わった今なお二人の胸に輝いている。
その白金の星に瞬を思う浮かべ、冥王は続けた。
「余は瞬を愛している。あの頃は憑代としてだが……今は恋人として、妻としてそばにいて欲しいと……余は……」
冥王は己の愚かさを悔いるように握った拳を地面に叩きつける。
彼の姿にアフロディーテは安心にも似た苦笑をもらす。
「確かに瞬は細っこいわね。私もそれは心配。だけど成長期って言ってね、今の瞬くらいの年の子ってどんどん変わってくるのよ。それこそあなたが望んだみたいに」
「そ、そうなのか?」
「うん。だからちゃんと謝って。瞬だって分かってくれると思う」
そう言ってアフロディーテはハーデスの漆黒の髪を撫でた。
滑らかな手触りのそれを羨ましく思いながら、魚座の黄金聖闘士は冥王を立たせた。
「ほら、しゃんとしなさい! そんなんじゃ私は神様を瞬の恋人に認めたりしないわよ!」
アフロディーテにとって瞬は可愛い妹のような存在なのだ。だから彼女の恋人は姉として気になるところ。
励まされているんだが脅かされているんだがよく分からないが、それでも冥王はしゃっきり背筋を伸ばすと瞬に謝ってくると言い置いて双魚宮を去っていった。
黒い背中を黄金聖闘士たちがやれやれと見送る。
「大丈夫かい、アフロディーテ」
教皇宮から降りてきていたサガが傍らに立つ。アフロディーテは華やかに笑って自分の爪を見た。
「もうぐちゃぐちゃよ、気に入ってた色だったのに」
鮮やかなライトスカーレットのベースに白い薔薇が咲くネイル。
サガの心配はそっちではなかった。だがネイルの心配をしているあたり、彼女は余裕なのだろう。
「それにしても、神様ったら随分熱心に瞬を愛してるのね」
「瞬は冥王に渡すには惜しい聖闘士なのだが……彼女が聖域と冥界を繋ぐ架け橋になって、アテナが望む世界を作る一助になってくれれば、と思うよ」
そして、瞬自身が愛し、愛されて幸せになってくれればそれでいい。
サガは静かにアフロディーテを抱き寄せた。
蒼天駆ける風は雲の形を、世界の光を変えている。



その頃瞬は、なぜかスニオン岬に篭っていた。
心配した青銅一軍とアテナが出てくるようにと説得を続けていたのだが瞬は頑として出てこない。
「……貧乳は邪悪なんです。私はここで命を絶ちます。邪悪は存在しちゃいけないんです」
貧乳が世界に悪影響を及ぼすほどの邪悪だろうか。いや、そんなことはない。おっぱいはおっぱいであるがゆえにいつも正義なのだ。
「瞬、そんなことを言っていないで出てきなさい、これはアテナの命令ですよ!」
とうとう上官命令まで飛び出したが、瞬の決意は固いようだ。
「沙織さんには、私の悔しさなんて分からないんだ……」
「瞬……」
女神の力を持ってすればこんな岩牢ごとき簡単に開錠できる。しかしそれでも彼女がここを出ようという意志がない限り出てきたとしても本当に自害しかねない。
確かにアテナの聖闘士としては邪悪な存在を許してはならないのだが。
「困ったわねぇ……」
原因はハーデスとの痴話喧嘩らしいことは知っている。
いくら瞬が優しくて可愛らしくても貧乳、貧乳とバカにされれば傷つくのは当然だ。
沙織はなおも瞬の説得を試みた。
「瞬、胸が小さいことは邪悪じゃないのよ、出ていらっしゃい」
説得力がない。
心配になった黄金聖闘士たちがわらわらと周囲を取り囲む。彼らからは鉄柵に背を向けている瞬の姿しか見えなかった。
「まあ、アンドロメダの気持ちもわからんではないがのう……私とて生まれつきこのような乳房ではなかったしのう」
前牡羊座にして前教皇のシオン様が自分の乳房をつるっと撫でた。
デスマスクが同意して頷く。
「女の価値は胸じゃねーけどなぁ」
「そうそう、男の価値が男こ」
「お前はもう黙ってろ、アテナの御前だぞ」
童虎に口を塞がれたシオンはまだなにか言いたかったのだが、とりあえず黙った。
するとそこに突然、ハーデスが瞬のいる岩牢の中に直接現れたのだ。
そう、神の力を持ってしか出ることの出来ないスニオン岬の岩牢に冥王は入れるのだ。
何故ならどんなに節穴でどんなに髪型が超次元でどんなに瞬に対して盲目でも冥王は一応神様なのだ。
「……瞬」
瞬はハーデスの声に驚いたように振りかえった。
「ハーデスっ、何しにきたの! 私は邪悪なんです、あなたが望む清らかでおっぱいの大きい女の子じゃありません、帰ってください!!」
瞬はちゃぽんとその場に座り込むと、顔を覆って泣き出した。
「瞬」
「いや、触らないで!!」
「いい加減にしろ!!」
めったに声を荒げないハーデスの気迫に、瞬はただ黙るしかできなかった。そして腕を引っ張って強引に立たせる。
しっかりと両腕で二の腕を掴んで逃げられないように、動けないように瞳ですっと射貫いて。
ハーデスは静かに唇を開いた。
「そなたが邪悪なら、余は恋をしたりしなかった……余はそなたを愛している」
「だけどあなたは……」
岩牢内で繰り広げられる茶番劇を黄金聖闘士たちは持参した茶菓子片手に見物している。
「なー、誰か酒持ってきてねーの?」
「まだ昼間よ、ミロ。お茶なら持ってきたわ」
そう言ってカミュが水筒にいれていたお茶をミロに渡した。
どうせ元の鞘に納まるのは見えているから、こんなにのんびり見物していられるのだ。
そんな黄金をよそに、牢内はいい感じにクライマックスを迎えている。
瞬は俯いたまま、足元の海水を見つめた。
「あなたは、私の胸が大きいほうがいいんでしょう?」
「そなたには充分な乳房があるではないか!」
ふにゅっ。
「なっ……」
その場をしばし、沈黙が包んだ。
そしてその場にいた全員がおおと声を上げる。カノンが卒倒して倒れたが誰も助けなかった。
今や彼らの興味はハーデスとカノンのトトカルチョではなく、ハーデスと瞬の初夜に至る過程なのである。
行けー押せーと盛り上がる黄金聖闘士たちに反して、不死鳥一輝も気を失って倒れた。
瞬は顔を真っ赤にし、目を潤ませて彼の腕を見た。
その手が触れている先は自分の心臓の、その周囲を覆う肉。
つまり、左の乳房だった。
「な、何をっ」
「先日、余は見たのだ、そなたの乳房を」
牢内に徐々に水が満たされる。それをものともせず、冥王は続けた。
「触れてみたいと、思った。いつも触れたいと思っていた」
肌に、乳房に、そして最奥に。
「触れたくてたまらなかった」
「やっ……」
早鐘のような鼓動が、彼の掌に伝わる。
冥王はそっと瞬の乳房から手を離すと、瞬をそろっと抱きしめた。
「は、ハーデス……」
「愛している、瞬。余はそなたに触れたい、そなたを抱きたい」
男の中に潜む獣が、静かに顔を覗かせた。
ハーデスに抱きしめられるのがこんなに怖いなんて、思ったことはなかったのに。
「今すぐとは言わぬ。余はそなたの心が決まるまで待つ」
「んっ……」
消え入りそうな少女の声、やっと安堵の顔を見せる冥王。
瞬が冥王に伴われて牢から出てきたとき、そこにいた全員がなぜかおめでとうと叫んでいた。



「これでよかったのかな? アテナ」
軍神の隣に立つ若い男に、沙織はにこりと笑いかけた。
「ええ、いつまでも清い仲というのもよいですけれど、さくっとやってくれって気もしていましたからねぇ」
海を冠する髪持つ青年はジュリアン・ソロ。海皇ポセイドンの憑代だ。
そう、今回の出来事はすべてアテナ沙織が瞬と冥王をより接近させるために仕組んだ出来事だったのだ。
ジュリアンを道に迷わせたのももちろん彼女である。
「まったく、こういうときだけ都合よく呼び出してくれるな」
「よいではありませんか、丸く収まりましたし」
ポセイドンの傍らに海魔女の恋人が立っている。彼女もかつて瞬と戦ったことのある海将軍だった。今は先の水害で傷ついた人々を癒すための旅に出ている。
「アンドロメダも、少しはわがままになっていいのだと思いますよ」
奉仕の精神あふれるアンドロメダの聖闘士。誰かを傷つけることを嫌って自分が傷つくというその心は貴いけれど、でも時々は思い出してほしいのだ、彼女自身の幸せを。
瞬にとってそれがハーデスなのだとしたら、それはそれでいいではないか。
「しかし、シードラゴンも勝ち目のない争いを」
「ええ、もう瞬はすっかりハーデスに傾いていますしね。彼もうまいこと餌付けに成功したものです」
あるいは、刷り込み。
ずっと好きだと囁き続けていればだんだんその気になってこようというもの。
愛の言葉は麻薬のように心を蕩かし続けるのだ。




「すまんかった。余はそなたがどんな淑女に育つのか想像しておっただけなのだ」
冥王はその夜のうちに素直に瞬に向かって頭を下げた。
こうして詫びられれば瞬とても許さないわけにはいかず、そっと彼の手を取った。
「顔を上げて。私もちょっと自分を見失ってて……」
胸を大きくしたいというのは女の子にはありがちの願い。聖闘士といえども瞬とて女の子に代わりはないのだ。
「ハーデスは、私が好きなんですよね?」
「ああ、余は瞬という一人の人間が好きだ。愛している」
「ハーデス……」
そしてなにかに引かれるようにして、瞬は冥王の胸に飛び込んだ。
温かくて優しい彼の腕。
彼がちょっと失敗するもはいつものこと、そんなに目くじらを立ててはいけないんだと、瞬はひそかに反省した。
完璧な人間なんて、いない。神様もいない。完璧な恋だってきっと。
だからこそ恋人たちは正しい道を求めて彷徨うのだろうか。
そんなことを考えながら、瞬はハーデスの胸元をぎゅっと握った。
「私も、ちょっと抜けてる感じのあなたが好きです」
「それは……余は誉められているのか?」
「ふふっ、誉めてますよ」
居心地のいい場所とは実は意外とそばにある。
「なあ、瞬」
「なんですか?」
「魚座の女に聞いたのだがな、胸は揉むと大きくなるらしいぞ」
「……へ?」
乳腺を刺激すれば乳房が膨らむ、という噂はまことしやかに囁かれている。神々が作り給うた人間という生き物は不思議なつくりをしているものだ。
と、科学と神秘は置いておいて。
「ほ、本気ですか?」
瞬は思わず冥王から離れ、自分の両腕で胸を覆い隠した。
で、冥王はといえば至って真剣に瞬を見つめている。
「そなたが望むなら、余は何を捧げても構わぬ」
「わ、私は望みません! 自力で何とかします!!」
顔を真っ赤にして大声で拒否する瞬に冥王はおろおろとうろたえた。そしてここがギリシアだったのが運のつきである。
「うろたえるな、冥王ー!!」
「だーっ!!」
突然乱入してきたのは前牡羊座にして前教皇のシオン様、若草色の髪と豊かな乳房を揺らしながら冥王をふっ飛ばした。
余りの出来事に瞬はすっ飛んでいったハーデスを慌てて抱き起こす。
「きゃーっ、ハーデス? しっかりして!!」
「う、うう、何事だ元牡羊座……」
瞬に支えられながらハーデスが唸るようにいうと、シオン様はあれっと周囲を見まわした。
「いや、誰かがうろたえておったようなのでつい……」
シオン様は邪魔したなと実に明るい笑顔で去っていった。
「な、なんだったの?」
「さあな、とりあえず瞬」
「はい?」
瞬に支えられていたハーデスはうっとりと目を細めた。そして瞬の胸元にぽふっと顔を埋める。
「きゃっ、ちょ、ちょっとハーデスっ!?」
「ちょっとだけだ、ちょっとだけ……」
ハーデスは静かに目を閉じ、瞬もそっと彼を抱きしめた。
繋がる鼓動、夢だと思っていたのに――こんなに心安らげる誰かに出会えたこと。



この日から、ハーデスと瞬の距離はぐっと縮まることになる。
しかしアテナ沙織が望んだようなめくるめく耽美な関係には至らなかったことが、周囲を落胆させ、あるいは安堵させたのだが。
「まあ、瞬だってまだまだ女の子だし、焦ることもないわよね」
今度は綺麗に出来たと、アフロディーテは自分のネイルに満足げに微笑んだ。
そこに飛びこんでくる男が一人。
「おい、アフロディーテ!!」
「なによぅ、煩いわねぇ」
億劫そうに男を一瞥するアフロディーテ。そんな彼女の視線に屈しないのがカノンという男だった。それくらいで怯むようならサガの双子の弟などやってはいられないのである。
「なんの用よ」
「俺はあの超次元寝癖から瞬を取り戻す! 瞬は優しいからつけ込まれているだけだ!!」
「あららん、目の付け所は悪くないわね、それで私にどうしろって?」
計画次第ではのってやらないこともないと、アフロディーテはカノンの前に白い薔薇を突き出した。
「聞きましょうか?」
「冥界に乗り込んでハーデスを倒す!」
アフロディーテはふうんと反応だけして見せた。イマイチ乗り気ではないような返事だ。なにかまずかっただろうかと不安になったカノンが問う前に、アフロディーテがつややかな唇を開いた。
「それで瞬が喜ぶと思う?」
「う……」
確かにそれでカノンの前に障害はなくなるだろう。しかし冥王を倒して瞬を手に入れたとしても、果たして瞬はカノンを愛してくれるだろうか。
望まれれば瞬はカノンのそばにいてくれるだろう。けれどそれは愛なんかじゃない、諦めだ。少なくともアフロディーテはそう思った。
「愛は惜しみなく与え奪うものよ。本当に瞬がほしかったらハーデスを倒すんじゃなくて瞬の心を手に入れる方法を考えなくちゃ」
「どうすれば、いい?」
22歳の女に聞くことじゃないだろう、28歳。
しかしカノンがいたって真剣だったので、アフロディーテは何故かきゅんと、まるで仔犬にそうするかのようにカノンを撫でた。
そう、彼女は愛と美を尊ぶキュプロスの女神と同名だったのである。
「がんばるのね、答えなんてないから」
「くそっ!」
カノンはその言葉だけ捨てていくと、何の礼もなしに双魚宮を飛び出した。
「やーねぇ、失礼な男」
顔だけサガと一緒なのにと想いながら、アフロディーテはふと外を見た。ここから見えるのは聖域の外にある花畑。日が高いのにそこには瞬と、それから何故かハーデスがいた。
「あらあら、すっかり仲良しなのねぇ……」
夜だけ一緒にいるはずの彼がまだ地上にいるということは。
「瞬ったら、本当に恋する女の子なのね」
その恋がいつか愛に変わればいいねと、アフロディーテは目を細めた。
瞬の相手は冥王かカノンか、あるいは他の誰かか。
いずれにせよアフロディーテの願いは一つ。
「幸せになるのよ、瞬……」
空水色の髪をなびかせて、アフロディーテは踊るように双魚宮に戻っていった。




君がいてくれるのなら
きっとそこを楽園と呼ぶのだろう



「帰らなくていいの?」
「今日は帰りたくない気分なのだ。このままでいたい……」
瞬の膝を枕に横になっているハーデスが小さく笑った。細いが、とても温かくて柔らかい少女の膝に御満悦なのだ。
「よい気分だ」
「よかったですね」
先日の騒動も忘れてそりゃあもうにこにこと笑いあえば平和にはちがいない。
ハーデスがころりと寝返りを打ち、仰向けになる。
視線を合わせれば、そこに君。
「瞬」
「なんですか?」
覗き込んでくる瞬の可愛らしい頬にすっと手を伸ばし、冥王は言う。
「愛しているぞ、瞬。そなたは余のいちばんで――ほかの何を犠牲にしても構わない」
「ハーデス……」
その覚悟が、あるか?
そう問われれば、瞬は否と答えるしか出来ない。
だけど……でも。否定接続詞を重ねても揺るがない事実がひとつあるのなら。
「私は、あなたが好きですよ」
まだ13歳の少女に愛を誓わせるほど冥王も愚かではなくて――愛を誓ってほしかったにしても――ただ、微笑んで瞬に甘えるように抱きついた。
「きゃっ」
「離さぬからな、瞬」
「ハーデスったら」
ギリシアのさわやかな陽光を浴びながらふたり、空を見上げる。





この世界は、この刹那は
幻想に過ぎないのかもしれない
けれど言っただろう――君がいれば楽園だと
奏でられる交響曲





今日はまだその序奏なのだから




≪終≫





≪幻想冥界組曲断章≫
おっぱいが小さいといわれてスニオンに引きこもる瞬なんて書いたのは俺くらいだろう。
だけど瞬は貧乳がいいの! うちじゃ限りなくAに近いBカップってことにしてるぜ! 子ども生まれてもそれくらいでいいと思う。
んで、冥王様はどさくさにまぎれたわけだ。よかったな! 直に触れる日も近いと思うよ!
そして余裕のアフロさん、漢前ですwwwwww注: 文字用の領域がありません!

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