幻想じゃない冥界組曲 〜同棲しました 冥界――それは死の世界。 そこは神でさえも忌み嫌う常世の国。その国を治める男もまた神であったが、嫌われていたのは『死』という現象であって、その男自身はさほど嫌われてはいない。 ――という事実に気がついたのは、彼に恋人が出来てからだった。 要するに愛されたいと願うからにはまず自分から愛すればいいのだと知ったのだ。 彼は愛することを忘れていた。 愛は見返りのないものと知っていても、それでも欲しいと願ってしまった。 故にそれを手にしたとき、彼が最初にしたのは『甘えること』だったのである。 さらに彼が幸運だったのは、恋人が『甘やかすこと』に憧れていた人物だったことだ。 その日、冥王様は地上から戻ってくるなりそわそわと落ち着かなかった。 ジュデッカの玉座に座るために石段を登っていたのだが、なんとしたことか自分の黒衣の裾を踏んづけて転び、後ろ向きに一番下まで転げ落ちた。 「ハーデス様っ!!」 身の回りの世話をしているパンドラが血相を変えて駆け寄り、冥王を抱き起こす。 「ハーデス様、大事はございませんか!?」 「余は神であるぞ」 むくりと起き上がる冥王様、後頭部にできたコブも気にしない。 気を取り直して玉座に座った冥王様は今度はフフフと笑い出した。 パンドラがびくっと怯える。打ち所でも悪かったかと気を揉んでいると冥王様はさらに高らかに笑い出した。 「ウワーッハッハッハッ!!」 「は、はーですさま……?」 いかん、いよいよおかしくなったとパンドラは思わずひらがなで呼びかける。 しかし冥王様はすぐに笑いを治めた。 「あ、いかん。思わず双子笑いをしてしまった」 冥王はすぐに顔を引き締めたがあまり長い事は持たないらしい、すぐに嬉しそうに緩む。 今日が30日に一度の全冥闘士謁見の日でなくてよかったとパンドラは心から安堵した。 「ハーデス様、なにか良きこともでございましたか」 傍らのパンドラに冥王は良くぞ聞いてくれたとばかりに笑顔を向けた。 「聞くのが遅いぞ、パンドラよ」 「申し訳ございません」 「…今宵、瞬がこちらにお泊りに来るのだ」 しばしの沈黙の後、パンドラははらはらと涙を流して喜んだ。 今回の出来事は相変わらず優しい瞬の気遣いから始まった。 ハーデスの恋人、未来の妃はアテナの聖闘士。まだ13歳の少女がお相手だ。 アンドロメダを拝命する彼女がハーデスの今期の憑代だったことが縁となり、冥府神と聖闘士という前代未聞の恋模様を繰り広げている。 いきなり求婚、それから結婚を前提にした交際と順番は恐ろしく間違っていたが結婚するまで淫らなことはしないと決めているあたりが冥王様らしい。 毎夜瞬のもとを訪れて口説き倒す、それは順調に進んでいた。 「ふたりで月を眺めていたら瞬が言ったのだ」 「なんと仰せになりまして?」 「うん。毎夜毎夜来てくれて嬉しいと。でも大変だろうからたまには自分が出向いてもよい、と」 そう言って微笑んでくれた瞬を思い出し、冥王様は蕩けそうに笑った。 パンドラがまだ泣いている。 「よろしゅうございましたね、ハーデス様……うっ……」 「うん…流石は余の瞬だ。世界で一番清らかで愛らしくて優しくて温かくて賢くて可憐で……」 誉め言葉がどんどん増えているのも気にならない。 「…これ以上の誉め言葉が見つからぬ」 冥王は再び双子笑いをジュデッカに響かせた。 蟹座のカノンを出し抜いたぞ、とばかりに。 そんなわけで瞬がジュデッカにお泊りにやってきた。 ハーデスは身一つでやって来て大丈夫だといったが瞬とて女の子、その手には小さなバッグが握られていた。 中身は着替えや洗面道具といったお泊りの基本グッズである。 瞬はパンドラに手土産を渡すのもそこそこにハーデスの私室に引っ張られていった。 実は先ほどまでジュデッカから絶望の門までうろうろと落ち着かずに歩き回っていたことは内緒だ。 「よく来てくれたな、瞬」 「くすぐったいですよ、ハーデス。それにちゃんと来ますって約束したじゃないですか」 ベッドに腰を下ろし、はんなりとした笑顔で語り合う二人。 瞬はいつものようにハーデスの左に座り、彼の肩にことんと頭を乗せた。 ハーデスは瞬の腰にするりと手を伸ばして抱き寄せた。 神様と聖闘士、かつて敵同士だったふたりもこうしていれば普通の恋人のように見えた。 ただ、少女がまだ13歳で幼すぎることを除けば。 「ハーデス」 「ん?」 瞬は上目遣いにハーデスを見つめながら言った。 「なんか、てれますね。ハーデスの部屋だって言うのが」 「男の部屋だからな」 ハーデスは瞬の頬に手を添え、自分の方を向かせる。照れた瞬がほんの少し抵抗するのが可愛らしいので、ハーデスは満足そうに笑う。 するりと頬を撫でる手に瞬はくすぐったそうに笑って身を捩った。 「やだ、ハーデスったら」 「ふふふ、瞬は可愛い」 「やっ……」 ハーデスは瞬をそっと抱き、やんわりと寝台に横たえた。 「んっ…」 「――瞬」 「ハーデス……」 彼は瞬に首筋にかかっていた亜麻色の髪を丁寧に除けると露わになった白いそこに静かに唇を落とす。 瞬がぴくりと震えた。 「ハーデス、ダメですからね……」 「ちょっとだけいいだろう?」 その“ちょっと”とは瞬の左の鎖骨に僅かな所有の刻印を施すこと。 瞬は薄く潤んだ瞳に桜色の頬でこっくりと頷いた。 許されて、冥王は柔らかくそこを食んだ。 刻まれるたびに零れる甘い吐息、それも食べてしまいたい。 ハーデスは首筋から唇に、口づけた。 「んっ」 傍から見ればそれは、時浅い恋人たちの甘やかなじゃれあい。けれど甘ければ甘いほど逃れられなくなる、それは本能なのだろうか。 「瞬……そのように見つめられれば余は理性をなくしてしまいそうだ」 「私は、そんなつもりは」 「わかっている。だが」 ハーデスは瞬のわき腹をそっと撫でた。そういった反応に弱い少女の体はまた震える。 「やっ、ダメだってばぁ」 「ふふふ、可愛い」 少女はいつまでも可愛いままじゃいないけど、可愛い少女であるうちにどうかたくさん言わせて。 「瞬、このまま余と暮らさないか? 余は同棲も大事だと思うぞ」 「同棲……ですか?」 それが13歳の少女に向かって――求婚や性交渉に比べればいかにレベルダウンしたとはいえ、迫ることだろうか。 だが哀しいかな、瞬も少女としての大事な時間を聖闘士としての修業や戦闘に費やしたためか、若干ずれているところがある。 「同棲って、そんなに簡単に出来るものなんですか?」 つまりは同棲なんてダメに決まってる、と突っぱねなかったのだ。 アフロディーテからも自分を大事にしなさいと――すなわち慌てて性的関係を持ってはいけないと言われてはいるけれど、同棲はダメとは言われなかったのだ。 もしハーデスがその事実を知っていたのならそれは戦略としては完璧だっただろう。 瞬は少し考えてから言った。 「沙織さんや兄さんに聞いてみます」 「んー……まあそれでもいいか」 瞬が大事に思う人たち、彼女は決して裏切らないことも知っているから。 ハーデスはただ笑ってもう一度瞬に口づけた。 そして、朝になった。 ハーデスが目を覚ますと瞬は傍らでまだ眠っていた。子猫のように小さく背中を丸め、すやすやと寝息を立てている。彼は起き上がって瞬の髪を撫でた。 「ん……」 「あ、起こしたかな」 冥王の小さな、けれどいやな予感が的中して、瞬は目を覚ましてしまった。 「すまん、起こしたな」 「いいえ、そろそろ起きなくちゃと思ってましたから」 瞬は目を擦りながら言う。そして覚醒がしっくりくるとにっこりと微笑んだ。 朝から可愛いなあと、冥王はやっぱり瞬をぎゅっと抱きしめるのだった。 「さ、朝食も食べていくといい。そなたのために用意させたからな」 「ありがとう、ハーデス」 「うん」 ハーデスは瞬に手を差し伸べ、瞬はハーデスの手を取って。 いつか未来まで歩いていければいいね――と。 「ふふっ、ここは“ティファニー”じゃないですけどね」 「なんだ、そのティファニーというのは」 「有名な映画なんですよ。今度一緒に見ましょうか」 その映画は往年の大女優が主演した『ティファニーで朝食を』である。 ハーデスにはよく分からなかったが、それでも瞬と一緒ならとハーデスはこっくり頷く。 さしずめ今は『ジュデッカで朝食を』だろうかと瞬はこっそり微笑んだ。 最初はそれで済んでいたのである。 週に一度くらいの頻度で冥界へお泊りに行く、それだけだったのだ。 しかし冥王にしてみれば『同棲』の件はいたって本気だったらしい、瞬の許を訪れるたびに同棲同棲と説得を重ねた。そしてそれがアテナ沙織の耳に入るにいたり、二人の同棲がスタートすることになったのである。 「沙織さん……」 聖戦も終わり、アテナ沙織は退屈だったのだ。 そこに降って沸いた冥王ハーデスと瞬の同棲話、面白いことが大好きな彼女にとってそれは格好の餌食だったのである。 瞬の同母兄である一輝がどんなに喚こうとも、主神アテナの賛同によってハーデスと瞬はめでたく同棲をすることになったのである。 ただし期限は1ヵ月。 その1ヵ月の間により親密になるべく、冥王は必死に策を講じることとなる。 そしてその愉快なひとつきはこうして始まったのだ。 ※同棲1日目 「なんか今日変じゃね?」 「ああ、ハーデス様が通らなかったからでしょ」 クイーンに言われて、シルフィードがぽんと手を打った。なんかさっきから忘れ物があるような気がしてならなかったのだ。しかし原因がわかった今、彼は実に晴れやかな顔をしていた。 「そっか、ハーデス様を見てないからか!」 「さっきラダマンティス様の代理で書類をお届けしたんだけど、すっごい張りきってお仕事なさってたわ」 「へぇ……」 それもそのはず。 冥王ハーデスは昨夜から同棲を始めたのである。 相手はアンドロメダの聖闘士で瞬という。まだ13歳の少女だ。 結婚を前提にした交際の要求をすっ飛ばしていきなり求婚したというのは有名すぎる話。それがまずは瞬のところに健全な夜這い(夜間の御宅訪問とも言う)することから始まり、とんとん拍子に瞬のジュデッカ御泊りへと進み、そして今回の1ヵ月限定同棲と相成ったのである。 それはもう、まさにオリンポスに帰ってしまいそうな――要するに天にも昇る心地の冥王様だったのである。 「この案件はこのまま進めてよい。よい成果を期待しておる」 「はっ」 「最近子どもの死者数が増加しておるな。原因を突き止め、対処せよ」 「仰せのままに」 とまあこんな感じで冥王様がてきぱきと先頭にたっているのはただ同棲を始めたから、というわけではない。 実は玉座の脇、正面からは死角になっているところに瞬がいて、ハーデスの仕事振りをじっと見守っているのだ。アテナ沙織の、グラード財団総帥としての多忙振りを知っている瞬は、ハーデスも一界を司る王神である以上、多忙なのではと考えていたのである。 実際は特にすることもなくパンドラと茶でもすすりながら恋愛談義に花を咲かせているのだが。 御前を退出する冥闘士の背中を見送って、瞬がすすっと歩み寄ってきた。 「お疲れ様、ハーデス」 「なに、いつものことだからな」 可愛い恋人にいいカッコしたいのは老若男女問わない。 瞬はにっこり笑った。 そして扉を開ける。繋がっていた部屋はハーデスが瞬との同棲の為におっ建てた白亜の新居、そのリビングだった。 豪邸ではなく、こじんまりした可愛いおうちだ。 もちろん瞬の好みを熟慮したものである。 「じゃあ、休憩しましょう。お茶入れてあげる」 「余も手伝うぞー」 「いいから座ってて」 「うん」 ぽふっとソファに腰掛け、ハーデスはキッチンに消えた瞬の背中を見届けてよっしゃあとガッツポーズ。 まだ同棲一日目にして勝ったも同然とはこれいかに。 しかし有頂天ジュデッカなハーデス様には何を言っても無駄だ。 しばらくして瞬はすぐに戻ってきた。 「はーい、お茶だよー」 茶葉はマリナドブルボンのラバーズリープ。 しかし冥王は茶を置き終えた瞬をカップより先に掴んだ。 「きゃああっ!?」 「茶もよいが、甘いものも欲しいな」 「えっと、何かお菓子でも」 「いや、これでよい」 そう言って冥王が口にしたのは――正確には食んだのは――瞬の唇だった。 彼女の唇に勝る甘味はない、とは冥王の言である。 ちゅっと軽く触れ合わせるだけのキスを繰り返す冥王に瞬はくすぐったいと笑った。 「もう、ハーデスったら」 自分より下に弟妹を持たず、兄にこれでもかと言わんばかりに庇護されてきた瞬にとって甘えてくれる存在は何よりもいとおしくて。 「ふふふ、瞬の唇はやっぱり美味だな」 「もう、そんなこといってぇ」 膝の上に抱き上げられ、瞬は冥王の額をぺちっと叩く。 やったなと冥王はキスで応酬。 やってられないと呟いたのは三巨頭のうち紅一点のミーノス。物陰からこっそり覗いていたのは瞬宛の荷物が届いたからである。 「まあ、この調子なら大丈夫そうですけどね」 甘えたい男と甘やかしたい少女 利害が一致したとき それは恋になりえるの――敢えてそう問いたい同棲一日目。 ※同棲2日目 朝起きていちばんにするのは 朝ご飯を作ること そしてそのあとで 彼の髪を梳いてあげること 本当なら自分で出来る筈なのに――いや、神なんだから多少乱れていてもどうってことないだろうに、彼の場合はこれまでの自分に厳しい生活から一転させたし、なにより乱れ方が派手すぎた。 故に彼は恋人になされるがままに髪を結ってもらっているのである。 「何をどうしたらこんな髪形になるの?」 誰もが疑問に思いつつ黙っていたことを、未来の冥妃はあっさりと尋ねてみせた。 その件については冥王も特に機嫌を損ねることもなくうーんと首を捻る。 「余にもよく分からぬ。寝すぎたのだろうか……」 「私もくせっ毛だからあんまりあなたのことばっかり言えないんだけどね」 紫檀で出来たブラシを取り、瞬は丁寧に髪を梳いていく。 量も多いし、とにかくはね方が派手で慣れないうちは非常に苦労したものだ。 しかしやはり神というべきか、はね方は派手でも髪質は極上、つやつやでさらっさらだ。 髪を梳いていた瞬はそっとため息を漏らした。 「どうした?」 「ううん、綺麗な髪だから羨ましいなと思って」 「そうか……」 もしかしたら瞬は異母兄である紫龍のことを思い出していたのかもしれない。 彼もまた長い黒髪が麗しい紅顔の美丈夫だったのだ。 しかし『亜麻色の髪は豊かな実りを思わせる良い色』という慰め文句はすでに紫龍その人によって発せられており、二番煎じになってしまう。 冥王は必死で考えた。必死で考えてある結論に辿りついた。 「余は、瞬の髪も好きだぞ。柔らかくてふわふわしておって、そなたによく似合う色をしておる……」 「ハーデス……」 たとえ聖闘士といえども瞬とて女の子、誉められたのなら嬉しいにはちがいない。 瞬ははにかんだ。 その笑顔が可愛いってのなんの。 「はい、出来ましたよ」 「うむ、じゃあ瞬、余は仕事をしてくるからな、寂しくなったらいつでもジュデッカに来るのだぞ」 「はぁい」 すぐとなりに行くだけなのにまるで永久の別れかのように冥王は何度も瞬の手を握り、名残惜しそうに仕事へと向かうのだった。 冥王は知らない。 瞬がちょっといたずらをして、一部を三つ編みにしさらに赤いリボンをしていたことなど。 その日書類を提出に来た冥闘士はもちろん、側仕えのパンドラでさえ笑いをこらえるのに必死だったという。 そんな同棲二日目。 ※同棲3日目 瞬と冥王が同棲をはじめて3日経った。特にこれと言う喧嘩もないし、瞬がホームシックというわけでもない。ふたりは今のところはいたって良好な同棲生活を送っているようだ。 が、それが面白くない人間もいるにはいる。 瞬を娘か妹のように可愛がっていたアフロディーテは、彼女がちっとも遊びに来てくれないので退屈だったし、星矢も星矢でそれは同じ。 しかし彼ら以上に憤慨していたのは――やっぱりというななんと言うか――瞬の同母兄である一輝であった。 1日目はなんとか堪えた。 2日目も頑張った。 そして3日目の今日、とうとう堪忍袋の尾が切れた。 ふらっと出て行く一輝を見咎めた紫龍が思わず声をかける。 「おい、どこに行くんだ?」 「冥界だ! 瞬を取り戻してくる!」 「ああ……気をつけてな」 あまりの剣幕に流石の紫龍もそれ以上言うことは出来ずにいる。星矢などは立ち直りも早く、瞬がいなくても、もちろん寂しそうではあるが星の子学園に顔を出してはサッカーなどして汗を流している。 瞬離れできない一輝に、紫龍は別にどうとも手を打たなかった。 「君子危うきに近寄らずと。老師が仰っておられた」 ありがとうございます、老師。 紫龍は心中深く師に礼を言うのだった。 さて、どこにでも不意に現れるのが一輝という男である。 彼はいきなり第五獄に辿りついていた。 慌てたのはもちろん第五獄の冥闘士たちである。 「ええい、瞬はどこだ!」 「黙れ! お前ごとき瞬様のところへなど行かせんぞ! 会いたいのなら筋を通せ!」 「実の妹に会うのにいちいち許可が要るのか! ええい面倒! ならばお前ら全員鳳凰の羽ばたきでふっ飛ばすまで!」 流石、獅子座。 そんな一輝の背後で灼熱色の鳳凰がケキャーと意味不明な鳴き声をあげながらばっさばっさと羽根を叩いた。 冥闘士たちはその小宇宙の大きさに戦いたが、自分だって星に選ばれた冥闘士、ここで引き下がってはいけないと構える。 「食らえ! 鳳翼天翔―――!!!!」 「ふぎゃー!!」 お約束どおりに吹っ飛んでいく冥闘士たち。致命傷には至らないあたりが彼らの実力の高さを窺わせる。 と、そのときパタパタと靴を鳴らして駆け寄ってくる少女の姿が見えた。 「兄さ――ん!!」 「瞬!!」 瞬は兄の姿を見つけると迷わず抱きついた。 「兄さん、来てくれたんだね」 「ああ、瞬。この冥界でつらい目に遭ったんだな。もう大丈夫だぞ」 「何言ってるの、兄さん。私別につらい目になんか遭ってないけど?」 そう、瞬の言う通り冥王はいつもどおり紳士的だったし、パンドラも妹が出来たようで嬉しいと言ってくれた。三巨頭や主だった冥闘士以外とはすれ違って挨拶をする程度だが、それでも聖闘士だからと物陰に連れ込まれてアレやコレやらされたこともない。もっともそんなことをすれば冥王から未来永劫にわたる死を与えられるだけだ。 まあ要するに瞬はここ冥界では陰湿なイジメに遭うこともなく、逆にわりと大事にされているようだ。 しかし一輝兄さんにしてみればそれはうわべだけのことらしい。 「瞬、目を覚ませ。俺と一緒に地上に帰ろう」 「兄さん、心配してくれるのは嬉しいんですけど、本当に大丈夫だし、それにこれは実験同棲なんですってば」 同棲事態が結婚へと至る実験のようなものだが、今回はさらに実験の下実験なのである。 「そうだぞ! 余はまだ瞬の肌には指一本触れておらん」 いつのまにか瞬のそばには冥王がいて、黒衣の袖にくるりと抱き込んでいる。 一輝兄さんはそれが気に入らないで眉間にしわを寄せる。 「黙れ黙れ! 瞬は清らかなままずっと俺の側に置いておく! 嫁になどやらんからな!」 ここまで来ると流石に周囲を遠巻きに囲んでいた冥闘士たちもどん引きだ。 冥王もあまりの気色悪さに顔色を蒼くした。 しかし彼は神様であるから、威厳を保つためにコホンとひとつ咳払い。 「では瞬に決めてもらおう」 「えーっと……じゃあ、今日は一応帰ります。紫龍にばっかり家のこと押しつけちゃってるだろうし。夕方には帰ってきますから。ね?」 「一時的な里帰りだな。里心をつけるのはあまり気が進まんが、まあいいだろう。久しぶりに兄弟に会ってくるがよい」 「ありがと、ハーデス」 懐の広い冥王様は飛びついてきた瞬をきゅっと抱きしめた。冥王はよしよしと瞬の髪を撫で、けれど何かを思いついたかのようにふとそばにいたパンドラを振り返った。 「パンドラ、瞬の共をせい」 「は、しかし……」 「空気を読め。誰もが期待しておる」 里帰りでもなんでも瞬を連れて帰ればこっちものもと思っている一輝をちらっと見、パンドラは困惑している。 この場合の期待とは瞬を連れて冥界に戻ってくること以上に、一輝となにがしかの関係を築いてくること、である。 そこに追い討ちをかけたのは未来の義妹だった。 「行きましょう、パンドラさん」 「は、はいっ」 かくして同棲三日目にして冥王は一人寂しく瞬の帰りを待っていた。 もちろん、やさぐれまくって仕事をサボったのは言うに及ぶまい。 ※同棲7日目 其処に神がおわした 神は光と闇、昼と夜を作られた――それが一日目 神は地と海を作られた――それが二日目 神は種持つ草と実を作られた――それが三日目 神は太陽と星を作られた――それが四日目 神は魚と鳥と獣を作り、増やされた――それが五日目 神はご自分に似せて人なるものを作られた――それが六日目 「で、七日目はそれらに満足して休んだというわけだ」 「折角のご高説、なんですけど今のは全部、旧約聖書の創世記の出だしですよね? しかもあなたはギリシアの神様だし」 花畑に座りこんで見つめあうのは青年と少女。 ここは地獄の最終地・嘆きの壁さえ越えた超次元の向こう側。 紛うことなきその楽園の名はエリシオン。 その主であるハーデスはぽりぽりと頬を掻きながらじとーっと自分を見つめてくる恋人に向き直った。 「よいではないか。余とて偶にはこうして休みたいのだ」 「だからってねぇ……」 ほんのりと薄雲がかかっている蒼穹、ぽかぽかと穏やかな陽気、咲き乱れる芳しい花。 そう、2人は今エリシオンにいるのだ。 わざわざ異教の神の御業まで持ち出して。 「エリシオンを治めるのも余の仕事のうちなのだぞ」 「そうなんですか……でも、タナトスは踊り狂ってるし、ヒュプノスは寝ちゃってますけど……」 先ほど二人の神殿を訪ねて、ハーデスは彼らを物陰に連れて行っていた。何をしていたのかは察して余りある。 「タナトス、貴様。回覧版は回したであろう、瞬を連れてくるから真面目にエリシオンを管理しておれと。余を謀る気か?」 襟元をぎりっと掴みあげてメンチをきる冥王様に流石のタナトスも怯えている。 「め、滅相もございません。ただ今日だと忘れておりまして。それにこのように琴を奏で、ニンフたちと楽しく語らうのも、ここが楽園であるということを強調するためでして」 「言い訳はいい。とにかく余に恥をかかせるな、よいな!?」 「はっ!」 そしてそれはヒュプノスも同様である。 お気に入りの抱き枕を抱えて寝惚けているヒュプノスの前で、ハーデスは愛剣の刃を研ぎ始めた。 「起きろ、瞬を連れてくるといったではないか。そなたはタナトスに比べるとちっとばかり思慮深いかと思ったら……お前たちにエリシオンの管理は任せておけんな」 「いいえ、御案じ召されますな。このヒュプノスがぐーすか寝ていられるということはそれだけ平穏で温和だという証拠にございますれば」 「ええい、タナトスも同じようなことを言いおったわ! とにかく通常の神様業務につけ!」 「はっ!」 かくしてタナトスとヒュプノスはハーデスに脅されるままに神様業務についたわけなのだが、どうしたことか、彼らも踊って寝るのが通常業御だったのである。 ※同棲7+α日目 瞬はため息をついた。 目の前にいるハーデスは瞬に叱られはしないか、呆れて実家に帰らないでとばかりに見つめている。 「そんな顔しないで。実家に帰ったりしないから」 「本当か?」 「ええ」 瞬が頷く前にハーデスはしっかと抱きついてきた。 「きゃあっ!?」 「しゅーん。瞬っ」 「もう、ハーデスったら」 ちょっと気を許すとすぐに甘えるんだからと思いつつ、瞬はハーデスの黒髪をよしよしと撫でた。 そしてそれを死と眠りの神は本当に呆れながら見つめていたのである。 「あれがアンドロメダか」 「ああ、久しぶりに見たな……ハーデス様好みというかなんというか」 面食いなハーデスはこれまでにも見目麗しい憑代を選んでいる。 恋人にこれでもかと甘える冥王、同棲生活はあっという間にその四分の一を消化した。 アテナ沙織と青銅一軍がぞろぞろと冥界にやってきたのはふたりが朝食を終えてすぐのことであった。 「沙織さん! 兄さん! 星矢、紫龍に氷河も!」 「瞬ー!!」 優しい女神と兄弟たちの顔を見て、瞬の笑顔は最強を誇る。星矢は瞬に飛びついた。 「瞬! 会いたかった!」 「私もだよ、星矢」 ぎゅーっと抱きしめあう姉と弟にハーデスはアテナの言葉を聞きながらも気が気ではない。 「聞いているのですか、ハーデス」 「瞬にはまだ指一本触れておらん!」 「聞いてませんね。瞬の荷物を少し持ってきただけなのです。これを置いたら私は帰りますと、そう言っているのですが」 帰るというアテナの言葉にハーデスは早く帰れと思ったのだが、敢えてそれを口にはしなかった。 そしてアテナは帰っていった。 帰っていったのだが――青銅一軍はそのまま残ったのである。 「……帰らんのか?」 「うん、瞬の顔を見に来たんだ。話したいこととかいっぱいあるし」 なーと星矢が同意を求めると瞬はねーと頷いた。 ハーデスにとっての敵はアテナでも一輝でもなく、この星矢なのかもしれない。 しかし彼はこの異母弟が意外なほど柔軟な思考を持っていることを知らない。 「なあ、いじめられたりしてないか?」 「大丈夫だよ、みんな優しくしてくれるし」 「失礼だな、そなたたちは」 瞬を囲む兄弟たちは自然と肩を寄せ合い、触れ合っている。 ハーデスはそれを少し悔しそうに見つめていた。 「パンドラ、茶をくれ」 「はい……」 どぽぽぽぽぽとポットから紅茶が注がれる音がした。が、それはカップではなくハーデスの手を直撃した。 「あちー!!」 「はっ、も、申し訳ございません、ハーデス様!?」 言わずもがなだが、一応。 パンドラはぼーっと一輝を見つめていたのである。見つめていたのでハーデスの手の上に茶を注いでいたことなど、彼が叫ぶまで全く気がつかなかったのだ。 「パンドラ……ときに落ちつけ」 「申し訳ございません……」 恋する乙女座はときに冷静で、ときに情熱的で。 その夜のハーデスは頗る機嫌が悪かった。 青銅一軍は夕飯まで食べてから帰っていったのだが、その間中、瞬は彼らに構いまくりだったのである。 「瞬は余より兄弟たちのほうが大事なのだな……」 「ハーデス……」 明らかに拗ねて背中を向けるハーデスに、瞬はやれやれとため息をついた。 「あのね、ハーデス。恋人に向かう好きと兄弟に向かう好きは違うんだって言ったでしょう?」 「別に構ってほしいわけではないぞ。だが余は寂しい……」 それは明らかに構ってほしいと言っている。だが神の矜持がそれを素直に言わせないらしい。 「いやだった?」 「……いや、ではないと言えば嘘になる。余は兄弟に囲まれて笑っているそなたも可愛いと思った。だが余にはあの顔はさせられぬ」 「ハーデス……」 「余は瞬が愛しい、それだけなのだ」 それだけ言うとハーデスは背中を向けたまま眠ってしまった。少なくとも寝たふりをしている。 こうなるとどうにも宥める法はなくて。 瞬もハーデスに背を向けた。そしてそっと目を閉じればいい。 寂しいのはいやだと言い張るくせに拗ねてみせた神様は。 「……瞬? 寝たのか?」 「…………」 瞬は答えを返さない。 「瞬?」 なおも黙ったまま。 だからハーデスはきょろきょろと―誰がいるわけでもないのに―周囲を見まわし、眠っている(だろう)瞬をそっと自分の腕に抱き入れた。 「先に寝るのはずるいぞ、瞬」 拗ねるのもズルイでしょうと言わないまま、瞬はいつものように彼の腕の中に眠る。 ※同棲7+β日目 本来彼は長兄であった。 父クロノスと母レアの間に最初に生まれた男の子だったのである。 しかし自分の地位に固執した父によって生まれてすぐに父の体内に封じ込められてしまったために、彼は長兄ではなくなった。 父にどのような思惑があったのかはわからない。 わからないが、クロノスはレアを抱きつづけた。そして孕み、生まれた子を次々と飲みこんでいった。 だから彼はオリンポス祖神六柱のなかでも、ある意味においてものすごく面倒見のいい男だったのである。幼い弟妹たちの面倒をずっと見続けていたからだ。 そしてある世界の王として君臨するようになってからはより一層厳しさを増した。 「仲良くやっているみたいだな、ハーデス」 「……何しにきた、ポセイドン。この前はお前のせいでひどい目にあったのだからな」 本当になんの目的なのか、ポセイドンがジュリアン・ソロの姿で冥界にやってきた。しかも今回はソレントも連れている。 そのソレントはハーデスの恋人である瞬となにやら仲睦まじくおしゃべりしているようだ。 ハーデスはため息をついた。 ポセイドンはからから笑う。 「ひどい目とはよく言ったものだな、アンドロメダの胸に触れたくせに」 「あ、あれは瞬が自害しそうだったから仕方なくだ! 余とて分は弁えておるわ!」 あれ以来、やましい気持ちで瞬に触れることはないという冥王に海皇はもったいないと呆れて見せた。 「同棲までしておいて、触れてないのか?」 「約束だからな」 「ふーん……」 ただそれだけ呟いて、ポセイドンはソレントと瞬を見つめた。年の近い彼女らは姉妹のように見えなくもない。話しているのはどうやら地上のことのようで、瞬はときどき憂いに顔を染めて俯いていた。 「いい子だぞ、アンドロメダは」 「ポセイドン……」 「海底神殿で、私は何度もあの子の優しい小宇宙を感じた。そのたびに思ったのだ、本当に地上には愛はなくなったのか、と。この私が、不安に駆られた」 「瞬は余にも優しい。皆に優しいから、余は不安になる……」 ポセイドンの不安は戦略上の危惧と言ってもいい。ハーデスのそれは恋ゆえの、正真正銘の不安だ。 「大事にしろよ、あんな子めったにいないぞ」 「わかっておるわ」 ハーデスはしっしと手を振った。ポセイドンはやはり笑ったまま。 「余の背中で泣き喚いておったのに……」 それは遠い日の記憶。 世界にはほら、まだまだ愛の花を咲かせる余地がある。 ※同棲×日目 「ハーデスがアンドロメダと同棲しておると!?」 冥界の王ハーデスとアテナの聖闘士である瞬との一ヵ月限定の同棲。 その噂は遠くオリンポスにも及んでいた。あのハーデスに恋人がいるだけでも大騒ぎになって野次馬まで出たのに今度は同棲とは。 しかし冥王も瞬を晒しものにするのはこりごりと見えてジュデッカに新居を立ててラブラブな同棲生活を送っているらしい。 冥界にはいかな神といえどもそうそう立ち入れぬ場所。 ゆえにヘラは弟神とその恋人を案じながらもただ見守るしか出来ない。 「なんか……寂しいのう」 自身が幼かった頃、面倒をみてくれたハーデスは王権交代劇の際に弟となった。だが兄だった頃と同じように、今は弟として愛しい。 だから今回の同棲に関われない事がヘラには寂しかったのだ。 「なんとか手はないものかのう……」 冥界に降りるにはいくつか手段があるにはあるのだが。 「おお、そうじゃ!」 ヘラは早速荷造りをするとそのへんを歩いていた男神をとっ捕まえた。 ところ変わって冥界のジュデッカではハーデスがおやつに興じていた。 今日はシュークリームである。 瞬を膝に乗せて食べさせてもらっているあたり、彼はもう終了気味かもしれない。 「ほら、クリームが出ちゃうから自分で食べてよ」 「んー? クリームで汚れたら余が手ずから綺麗にしてやるからな」 まるで瞬の指ごと食べてしまいそうな勢いのハーデスに瞬は苦笑するしか出来ない。 「もう、ハーデスったら」 「あーあ、もう、見てはおれぬな」 言いつつどこか嬉しそうな声にハーデスと瞬はそろって顔を上げた。 「あ、姉上!?」 「ヘラ様!?」 突然の女王神の登場に流石のハーデスも慌てて瞬を膝から降ろし、席を進めた。 「なにごとですか、姉上」 「いやなに、そなたとアンドロメダの姫御が同棲を始めたと聞いてな、様子を見に来たのだ」 「はあ……」 ヘラを連れてきたのは商業と交通の神、ヘルメスである。彼は神々の中でも現世と冥界をと行き来できる数少ない存在なのだ。 「アンドロメダの姫御も元気そうで何よりじゃ」 「はい、ありがとうございます」 「ハーデスは優しいかえ?」 「はい、とっても」 瞬の返事を聞き、ヘラは重畳と笑う。 ハーデスも久しぶりに会う姉にどこかくつろいだ雰囲気だ。 「あの下半身バカは?」 「置いてきた。邪魔だからのう」 「邪魔……まあ確かに」 下半身バカがいないと知り、瞬はちょっとだけ安堵のため息をつく。 「どうじゃ、同棲生活は順調か?」 「うむ、余は多いに満足しておる。このまま瞬がここで暮らしてくれたらと……」 「それは……」 「結論は急がずともよいのじゃ。女にとって幸せな結婚もまたひとつの道じゃという事。それだけだ。しかしハーデスは我らが兄弟の中でもわりとまともゆえ、選んでも損はないぞ」 好物件のお墨付きをもらい、ハーデスは何処か嬉しそうだ。 しかし瞬は考えてしまうのだ。 自分なんかに彼を愛する資格があるのだろうか、愛される価値があるのだろうか、と。 「……アンドロメダは、ハーデスが嫌いかえ?」 「いいえ、そんなことは。もちろん最初はびっくりしましたけど、でもこうしてお付き合いしているうちにいろいろ分かってきて……その……私でよかったらって最近思い始めて……」 その微妙に脈在りな反応にヘラはほうと頷き、ハーデスはちょっとだけ狼狽していた。 結局世間話などして、ヘラは帰っていった。 「ふふふ、姫御の心は決まったようじゃ。祝いの品など用意せねばのう」 正当な結婚を望む最強の女王神は実にご機嫌だった。 と、こんなかんじで同棲は無事に1ヶ月を消化した。 冥王は延長を申し出たのだが流石に瞬が嫁入り前である事、さらにこれ以上一輝を抑えることはできないという理由で却下されてしまう。けれどこれまでどおりの通い婚を続ける事となり、二人の仲はよりいっそう深まることになるのである。 一夜の夢を見る 深い深い闇の中で やきもちなんか焼かなくていいんだよと 君が歌ってくれたから ≪終≫ ≪君が好きだと叫びすぎw≫ 冥王様と瞬の同棲に至る過程。本作品はWeb拍手にUPしていた『ジュデッカで朝食を』に日記に連載していた同棲日記を繋いで加筆修正したものです。 そしてこのあとご婚約です。おめでとうございます。めでたいのは俺の頭です、本当にありがとうございました(*゚д゚ ) |