この永遠にして儚き世界に



あのとき――そう、あのときほしかったものは
他の誰でもなく、間違いなくあなたでした
同じ時を過ごせないと、わかっていても……



その日の朝、周とその連合地域を訃報が駆け抜けた。
『武王・姫発崩御』

武王・姫発が亡くなった。牧野の戦いのときに腹に傷を受けたものの、その後は周の建国など激務にその身を投じた。遷都直前には健康状態の悪化は目に見えていたのだ。精悍な頬はこけ、顔色は土気色だった。それでもなお父・姫昌と兄・伯邑考の遺命を達成すべく王として辛うじて生きていた。
そして今朝方、眠るように息を引き取った。妻・邑姜とのあいだに乳飲み子を残したまま。早すぎる死だと、誰もが嘆いた。
「…邑姜」
振り返ればそこに、黒衣の軍師が立っていた。
「…太公望さん」
「武王が…死んだのだな」
数年前にふらりと姿を消して以来現れたことのなかった太公望がまたふらりと現れたのを、邑姜は目尻に涙をためたまま見ていた。彼女にとって太公望は曾祖母の姉にあたる。仙道として修行をしたから外見年齢は自分と変わらない。けれど、その小さすぎる体に背負っていた大きな使命を果たした今、彼女は弱く儚く、そして強くも見えた。
「…今朝方、起こしに行ったらもう…」
「…そうか」
まだ温かい姫発の体。教えられなければ、ただ眠っているだけのように見える安らかな寝顔――しかし彼は二度と目覚めぬ。
「まだこれからだというのにのぅ…」
「旦様が、これから葬儀の支度を行うと。私は、武王のそばにいるようにと…」
「あやつらしいのう」
太公望は、そっと姫発に…姫発だったものに近づいた。彼女が触れるだけで生き返るような気がする…そんな期待さえ、今は切ない。
目覚めぬ彼の髪を梳きながら、彼女はそっと囁いた。
「…お疲れ様、姫発…もう、ゆるりと休むがよい…」
「太公望さん…」
優しく、優しく。太公望は姫発を撫で続ける。邑姜には、太公望の背中しか見えなかった。だから、泣いているのかどうかさえわからない。
触れるのをやめ、振り返った太公望は優しく邑姜を見つめていた。
「おぬしは、泣かぬのか」
「え…」
「武王・姫発の妻だろう。泣いてやれ」
「でも…」
「今を逃すと、もう泣けぬかもしれぬぞ」
短い夫婦生活だった。自分が太公望のかわりに愛されていることにも、気がついていた。それでも、嫌いじゃなかった。きっと、この人の中に何かを見たのだから。
邑姜は、泣いた。声を立てずにはらはらと――隣で無邪気に眠る子どものことを思ってか、自分にこんな感情があったことを噛み締めているためか。
太公望は、そっと彼女の背中を撫でた。
 
あのとき――泣けなかった自分のかわりに
姫発には、思う存分涙を注いでやってほしい

 
姫発の亡骸は、西岐にある文王・姫昌の隣に葬られた。後の世、彼らは二聖として崇拝されることになる。


太公望は、またふらりと旅に出た。
旅に出る前に、小さな予言をして……。

姫発の葬儀が終わったあと、次代の王を誰にするかで少々揉め事があった。乳飲み子を王に据えるには後見を立てねばならない。その後見を誰にするかによって周の今後に種々の問題を呼ぶことになるからだ。
太公望は仙道である自分が口出しをするわけにはいかないからと放っておいたが、姫発の忘れ形見である子供のことは放っておけなかった。
彼女は姫発の遺児を胸に抱いた。赤子は何も知らずに太公望に手を伸ばす。柔らかな手が彼女の頬をふっと撫でた。
「この子の…名は?」
「誦です」
「誦…か。字こそ違えど、この子の祖父と同じ音だな。ならば姫昌にあやかり、祖父と父の残したものを守り、成人して後、偉大なる王となるように『成王』の名を贈ろう」
「それは…この子を王にしろということですか」
「それはそなたたちの好きにしたらよい。親は邑姜、おぬしなのだからな。これからは旦と力を合わせてこの国を守るのだぞ」
この後しばらくして、武王・姫発の跡目をめぐる反乱が起きた。武王の弟である管叔と蔡叔が紂王の遺子である武庚をそそのかしたのだ。周公旦はこの反乱を成王の名をもって鎮め、これらの持っていた国に末弟を据えて新たな君主とした。
 

長い旅に出た。
姫発はもう、姫昌に会えただろうか…。
兄の伯邑考は封神され、北斗星神となった。
死したものの行く先は知らぬが、どこかで出会えていればいい。



そんなことを思いながら、太公望はひとり。



『…ちゃん、太公望ちゃん』
「…妲己か」
頬に当たる風は太公望の耳に甘い声を届けた。風は今やこの星となった妲己だ。
この星のすべてとなった彼女は今、太公望とともに永遠をめぐる。
「…妲己か」
『…浮かない顔ねん』
「そんな顔をしとるかの」
『…泣いたらいいのにん』
妲己の声が、さらさらと風に乗った。
「今更泣くことはないと思うが…」
『わらわしかいないわん。さあ、太公望ちゃん…』
あのとき――邑姜に『泣け』といったのは…本当は自分に向けてだったのかもしれない。
戦っていたときは、泣いてはいけないと思った。
姫昌が死んだとき、仙界対戦で多くの仲間を失ったとき――そして姫発が死んだ今。
 
地に膝をつき、拳を振り上げ、叩きつける。
零れる涙は嗚咽とともに土に還る。
大地は何も答えずにただただ受け入れる――行き所のない哀しみを。

『太公望ちゃん…』
そよ風が優しく太公望を包む。羽のように起き上がった彼女は遥か彼方を見つめていた。
「のう、妲己よ」
『なあにん、太公望ちゃん』
「人は…生き物とは、死んだらどこへ行くのかのう…」
『さあ、わらわも知らないわん。でもね、太公望ちゃん』
「なんだ」
『きっと素敵なところへ行くと思うわん――新しい命、新しい生き方。それを探す旅に出るの』
きらきらと光が舞う。太公望は導かれるようにその光を掴もうと歩みを進める。
『どこに行くのん?』
「さあのう…。しかし、どこに行くにもおぬしはいつも一緒だろう?」
『…そうねん、わらわはいつもそばにいる、忘れないでねん…』
ふうっと一陣の風が彼女の下を去り、妲己の声は聞こえなくなった。



てくてく。太公望は歩く。


 
――あなたの恋人のこと、心配しないでん…
  わらわがそっと抱きしめて守っていてあげるわ


やがて人が作った『人の歴史の道標』の
  ひとつとなるでしょう、あなたたちは



てくてくてくてく。太公望は歩きつづける。


この永遠にして、儚き世界に
 



≪終≫



≪悪霊退散っ!!≫
えっとですね、これは『封神演義』最終回後のお話です。数年前にノートに走り書きした話を加筆修正してみました。『史記』や『十八史略』を読んで、封神演義後の周についてお勉強したのでそのことも書いてあります。
久しぶりに読んでみてびっくりしたのは昔からあんまり文体っていうか雰囲気が変わっていないこと!! しかも書いてたノートってのが経済原論…(書いてた年がばれるって)。もう何も言うまい…(-_-;)。
史実によると殷が滅んでから本当に(本当にってなんじゃい)数年後に姫発死んじゃうんですよ!((>( ̄□ ̄川)。
その後ってことで…姫発×太公望なのになぜか妲己×太公望に…。  注: 文字用の領域がありません!

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