お姉さんは好きですか? たった2ヶ月。たった2ヶ月先に生まれたから あの人は先に行ってしまって…。 「よお、天化」 「ああ、王サマ、おはようさ」 私立・崑崙高校3年生の黄天化は朝もはよからご機嫌な級友に声をかけられた。『王サマ』はあだ名で本名は『姫発』という。天化にとっては仲の良い友達のひとりだ。ただひとつ難を言えば女性に目がないところだろう。 「なあ、数学の宿題やってきたか?」 「ああ、ちゃんとやったけど難しかったさ〜」 「じゃ、あとで見して」 そう言って自分を拝む姫発に天化はふうと溜め息をついた。 「…王サマ、宿題は自分でやるさ?」 「そんなこといわないで〜〜なっ? 頼むっ!!」 さらに拝み倒されては天化も頷かざるを得ない。天化がノートを渡すと姫発は急いで自分の席に戻り、写し始めた。 「全く、王サマ、昨日は何してたさ?」 「野暮なこと聞くんじゃねえよっと」 今日は月曜日。週末2日でこの王様のやることは大体わかる。 「また女の人かい?」 「へへっ、昨日の娘もプリンちゃんだったぜぇ」 うしし、と笑いながら宿題をせっせと写していた姫発はふと手を止めた。天化も気になって覗いてみる。 「…『ここは要チェックぢゃ!』って…」 見れば微分積分の公式と回答例が赤で記入され、蛍光マーカーでしっかりと囲ってある。しかも語尾は『ぢゃ』。 「あっΣ( ̄□ ̄川)、それはっ…」 「…天化よぉ」 今度はにししと笑い、再びシャーペンを走らせる。天化はしまったとばかりに顔を覆った。 「宿題は自分でって、おめぇだってこれなんだよ?」 「お、俺っちは教えてもらっただけで解くのは自分でやったさ!」 その証拠に微分積分の数式展開の文字は自分のだと主張すると姫発はへいへいと生返事。最後の問題まできっちり写し終えた姫発は満足そうにノートを返した。 「いやー、助かったわ。俺も美人の家庭教師なら成績もアップだよなぁ」 となおも天化をからかう。 「こらそこ、チャイムは鳴ってるぞ!」 と、早速教室に入って来たのは数学の玉鼎先生だ。月曜日の1時間目に数学はあんまりだと思いながらも無慈悲に授業は進んでいく。 「さて。宿題はやってきただろうから早速やってもらおうか。問1を…姫発。問2を黄天化。前に出てやってもらうぞ」 「はい」 ふたりは出席番号が並んでいる。立ち上がって黒板に向かい、白いチョークでかつかつと黒板に数式を展開させる。長い解答を終えたふたりはチョークの粉をはたいて落とすと席に戻った。玉鼎が解答をみてふむと頷く。 「…まあいいだろう。難しいのによくできている…が。問1」 「なんすか、先生。解答は完璧っしょ?」 もしや写しがばれたかと姫発ははらはらして抗議の声を上げた。すると玉鼎は笑って 「いや、完璧すぎだな。なぜこういう数式展開になるのか説明できるか?」 「うっ…それはっ…」 できるはずはない。姫発は宿題写しの常習犯であった。 「では問2の黄天化。説明できるか?」 「あ、それは題意が要するに面積を求めるもんだったから2曲線の間の面積を求めればいいと思ったさ」 天化の答えに玉鼎は満足そうに頷いた。天化は着席すると安心してふうと息をついた。 「問1も同じだ。問1はχ軸と接している部分の面積でいい。解けたのにわからんとは不思議だなぁ」 玉鼎がそういうと教室中からどっと笑いが起こった。誰かの答えを写したのはすでにばれていた。でも天化は笑わなかった。 「まあ、今回は少し難しかったから特にペナルティはなし。しかしこの解答の仕方は見事だな。以前一度だけ見たことがある」 今度は天化がぎくりとした。が、玉鼎は何も言わず 「じゃあ、次に進むぞ」 と授業を進めた。 「ふい〜、玉鼎先生もえげつないよな。わかってたなら言えっての」 「なまじ完璧な答えを書いたのがあださね。ちいっとわかんないからって途中から書かなきゃよかったさ」 「うわっΣ( ̄□ ̄)! そうすりゃ良かった!!」 がりがりと頭を掻く姫発の横で天化はずずずーっと缶のお茶をすすっていた。昼休みはいつもここで食事をしていた。母親が作ってくれる弁当を食べている。 「なぁ、卵焼きくれ」 「いいさよ、ほい」 パンとコーヒー牛乳だけの姫発は天化に弁当さえねだっている。お小遣いは食費込みでもらっているため、女の子とのデートで使い果たしてしまえば次の支給日まですっからかんで暮らさなければならない。 「王サマも弁当にしたらいいさ?」 「あー、そうだよなぁ…弁当…昔は良かったよあ。弁当たくさんあったもんな〜」 そう言って姫発は目を閉じる。天化も箸を止めて空を仰ぎ見た。透きとおる縹色の瞳に雲を映す。もうすぐ夏休みになる空は青く澄み切ったいる。 「あの人が卒業してもう4ヶ月だもんな」 「そうさね…」 たった2ヶ月先に生まれたというだけであの人は一足先に大学へ行ってしまった。 「俺ら同い年なのになぁ…」 「俺っちなんか2ヶ月しかかわんないさ」 「腹減ったー」 うなだれた姫発に天化は唐揚げを恵んだ。 去年の今ごろは3人で弁当を囲んでいたのだ。 「…腹減った」 「もう少し待つさ、王サマ」 「すまん、授業が長引いてのう、どうも太乙は喋りが長くていかんよ」 そういうとその人は少し大きめの包みを持って屋上へとやってきた。 「遅いじゃないかよ、太公望」 「だから謝っておろうが」 ショートカットの黒髪にフレッシュグリーンの瞳。紺色のブレザーと膝上のチェック地のスカートに黒のソックス。黄色のリボンが白いブラウスの胸元で揺れる。その人は校内で憧れない者がいないほどの人気者。他校にもライバルが多いその人の名は『太公望』。理事長である元始天尊の孫にあたるというのにそれがどうしたとばかりに普通に振舞う。成績も優秀で生徒会会長も務めている。が、本人はめんどくさがってほとんど副会長にまかせっきりだ。 そんな太公望と仲がいいのがこの二人である。 「腹へって死にそう…早く食わして…」 「どうせまた女に浪費したのだろう。慎まんとそのうち痛い目にあうぞ」 「もう充分あってるさ」 けらけらと笑う天化の横で太公望は包みを広げている。中身は弁当箱だ。 「ほれ、食え」 「いただきまーす」 姫発は天化と太公望におかずを恵んでもらって生き延びている。 「師叔の卵焼き、おいしそうさね」 「ならひとつやろう」 「じゃあ、この唐揚げと交換さ」 と、自分の箸で互いの弁当の蓋に乗せる。もうすでに恵んでもらった姫発に参加する余地はない。 「ところで師叔、もう進路は決めたかい?」 「ん?」 太公望はエビフライをはもはもしながら天化のほうをむく。その隙に口にあったエビフライは姫発に奪われる。 「いただきーっ!」 「あーっ、わしのエビフライ!!」 時すでに遅く、あわれ太公望の食べかけエビフライは姫発の口に。天化の目がきらーんと光った。 「ごっそーさん♪」 「わしのエビフリャーが…(;_;)」 「師叔、俺っちの蒲鉾あげるから泣いちゃだめさ」 天化は優しく太公望を慰めながら蒲鉾を乗せてあげた。この後姫発がひどい目にあうことを、太公望は知らない。話の腰をばっきりと折られた天化は再び太公望に問うた。 「進路か? ああ、そろそろ決めにゃならんのう…」 「どこいくつもりさ?」 崑崙高校はその上に玉虚大学という大学を持っている。もちろん他の大学に行ってもいい。が、ほとんどの学生は玉虚大学を受験することさえなく、他の大学に行くのである。なぜならここは私立大の名門といってもいい、それだけに並みの生徒では合格率も低いのだ。いくら崑崙高校の卒業生、在校生と言えども容赦しない。それが玉虚大学である。んで、太公望は3年生なのでそろそろ進路を視野に入れた勉強を始めなくてはならない。 「そうだのう、わしは別にどこでも良いのだがのう…」 そう言って太公望は笑っていた。 「んなこといって結局玉虚いっちまったもんな…」 そして太公望は見事に玉虚大学に合格。理事長の孫だから、という流言飛語もあったが太公望が実力で勝ち取ったのはいうまでもない。ちなみにあのとき太公望の食べかけエビフライを強奪した姫発は天化に宿題を見せてもらえずに、大量のペナルティを言い渡させることがしばしばだった。 「俺っち達もそろそろ決めなきゃいけないさ」 「天化はどうするよ?」 「俺っちは紫陽洞大学行くさ。担任が進めてくれてさ。俺っちを欲しがってるコーチがいるって」 「ふーん」 紫陽洞大学はスポーツでも実績のある大学である。天化を欲しがっているというのは陸上部監督の道徳真君という有名なコーチだ。 「そういう王サマはどうするさ?」 「ああ、俺? 俺は豊邑大学。親父のあとは兄貴が継ぐだろうけど、一応商学部行って会社経営のこととか勉強しようと思ってさ」 姫発の父親は株式会社西岐を経営しており、20年ほど前に朝歌商事から独立した。兄の伯邑考もこの崑崙高校の卒業生で、今は豊邑大学の院生として学んでいる。 それぞれに道があり、そして進んでいく。 「俺っち、本当は玉虚大学に行きたかったさ…」 弁当箱を片付けながら天化がボソッと呟いた。 「…行けばいいじゃん。まだ間に合うんじゃねえの?」 「担任に無理って言われちゃったさ。あそこの難しさは半端じゃないって」 「…だろうなぁ」 半そでのカッターシャツを風が僅かに揺らした。 「師叔に相談したんさ、そしたら…」 「そしたら?」 「『おぬしが行きたい道をいけ』だってさ」 「…あいつらしいじゃん」 やがて昼休みの終わりを告げる鐘がなり、ふたりは腰を上げた。 「次、なんだっけ?」 「…太乙先生の化学」 「…日直じゃなくて良かった」 姫発の言葉に頷きながらふたりは教室に戻った。 学校からの帰り道はもう真っ暗だった。本来は剣道部に在籍している天化だがその運動神経をかわれてあちこちに助っ人で行っている。道徳真君の目にとまったのはそのときだった。純粋にスポーツが好きな天化はぎりぎりまで部活をやりたいと思っている。この夏が高校生最後の大会でもあった。 「今日のはちっとハードさ…」 スポーツバックを肩から下げ、背伸びをする。駅に向かい、電車に乗ると天化は見覚えのある後ろ姿を見つけて声をかけた。 「師叔さ?」 その人はくるっと振り返ってにっこり笑った。 「おお、天化ではないか。今帰りか?」 昨日あったばかりだけど、今日話題に出たから会えて嬉しかった。太公望だ。 「あ、昨日はありがとうさ、おかげで助かったさ」 「あの問題は難しいからのう、何ぞ言われんかったか?」 「答えが完璧すぎだって。王サマなんか質問されても答えらんなかったさね」 「あいつまだ宿題を写しとるのか…おぬしも甘やかさんで自分でやらせりゃいいのに」 太公望に言われて天化はたはは、と苦笑した。 「師叔、今帰りさ? 大学って随分遅くまでやってるさね?」 時計の針は8時半をまわっていた。 「いや、前期試験中でな、図書館で勉強しておったらこんな時間にのぅ…」 「大学生も大変さね。王サマなんか大学生になったら合コン三昧だとか言ってたさよ?」 「…そういう夢は捨てろと言っておけ」 「王サマ、がっかりしてやる気なくすさ?」 「それもそうだのう」 そう言ってふたりは笑いあった。と、そのとき電車がカーブに差し掛かり、大きく揺れた。 「うわっ…」 天化は倒れそうになった太公望の腰をさっと抱え、空いた片手で手近な手すりを掴んだ。そして電車が直線に戻るとその反動で太公望が天化の胸にすっぽりと収まった。思いがけない形で太公望を抱きしめることになった天化は内心どきどきしていた。 『師叔って…いい匂いするさ…』 フレグランスだろうか、きつくない、甘い桃のような香りがふんわりと漂ってくる。抱いた腰は細くしなやかなラインをしていた。 『師叔ってば…意外と胸が…』 天化に当たっているやわらかいものは多分…。 『俺っちの心臓、少し静かにするさ!』 太公望は天化にしがみついてはなれない。この状況を楽しんでいるようだ。でも天化にしてみれば意中の人を思わぬ偶然から抱きしめることになって、心臓がばくばくいっているのである。太公望に気づかれないはずはない。もう大丈夫だと声をかけようとすると、太公望が 自分を見つめているのに気がついた。 「す、師叔…」 どぎまぎしながら名を呼ぶと太公望はにっこり笑った。 「ありがとう、天化。ここのカーブはいつも急だからのう」 「そうさね、あぶないさね」 「天化…」 「なにさ?」 「もう少し、このまま…」 太公望の囁きは電車の音にかき消されて、他の乗客には聞こえなかった。天化は請われるまま、太公望をそっと抱きしめていた。 そうこうしているうちに電車は目的地である西周駅についた。駅前で別れようとした太公望の腕を、天化はさっと掴んだ。 「…もう遅いから、送ってやるさ」 「大丈夫じゃ、すぐそこだから」 駅から10分ほどまっすぐ歩けば太公望の家に着く。街灯もちゃんとあって明るいし、人家も多い。だから送ってもらわなくても大丈夫だ。それに太公望と天化の家は線路をはさんで反対側にある。自分を送っていてはかえって天化の帰宅が遅れるからと太公望が断わろうとすると天化はそのまま太公望をつれて信号を渡ってしまった。 「も少し一緒にいさせてほしいさ…」 これから夏の大会だとか受験勉強だとかでますます会う時間が減っていく。こうして偶然でもいい、会えた時間は大切にしたい。天化の願いは太公望にも通じた。 「ならば月も青いことだし、少し遠回りして帰ろうかのう」 「師叔、それちっと古いさ」 「そう突っ込めるということはおぬし、この歌知っておるな?」 「…どうでもいいさね」 「そういうことだ」 どちらともなく繋いだ手は優しかった。 「のう、天化」 「何さ、師叔」 「たった2ヶ月なのに、わしらは随分離れてしまったのう…」 3月生まれの太公望と、5月生まれの天化と。幼いころはそんなこと気にしなかったのに小学校に上がるころには大きな差となってしまっていた。太公望と遊ぼうと思って家に行っても彼女は小学校に行っていて家にいない。太公望は自分の一歩先を歩く『お姉さん』になってしまった。寂しかったけど、どうしようもない。天化は切り替えが早かった。学年で追いつくのは無理だけど、いつか太公望に似合う男になって、迎えに行くんだと幼心にそう決めたのだ。そして今その途中である。 「わしはのう、天化。時々思うんじゃ。どうして4月あたりに生まれんかったのかと。そしたらおぬしと同じ速度で歩けたのにのう…」 「それ言うなら師叔、俺っちだって3月くらいがよかったさ」 「しかしこればかりは天の配剤、努力ではなんともできん。わしは3月に生まれてしまったからおぬしよりいつも一歩先じゃ」 そういうと太公望は寂しそうに顔を伏せた。天化はきゅっと手を握った。するとその力に反応したのか、太公望はふっと顔を上げた。 「じゃがのう、今はそれも良いかと思っておる…」 「なんでさ?」 「天化に道標になってやれるからのう。どんな小さなことでもおぬしが迷ったとき、わしが導いてやれる。それが嬉しいのじゃ」 「師叔…嬉しいさね。でも俺っち、この前師叔に言われて気がついたさ。やっぱり自分の道は自分で見つけるさ。んで、自分の足でちゃんと歩いてく。だから師叔はそれを見守っててほしいさ」 「わしはいつでも見守っておるよ」 太公望の言葉に天化は立ち止まり、そのまま抱き寄せ、小さな唇を優しく奪った。ただ触れるだけのキスなのに、頭の芯が震えるほどの甘さと優しさに満ちている。 「俺っち、紫陽洞大学に行く。決めたさ」 「天化…」 縹色の瞳が月光に煌く。意志の強い光が太公望を射抜いた。 「俺っちスポーツ好きだから」 「…おぬしらしいのう」 二人の影がもう一度重なった。 それから夏休みに入り、瞬く間にインターハイも終わって夏休み終了まであと2週間をきったある日のこと。 姫発の携帯電話が鳴り響いた。 「んぁ〜〜、誰だよ〜〜」 昨日も遅くまでプリンちゃんたちと遊んでいた姫発はベッドから腕だけ出して携帯をとった。そして二言三言話してから跳ね起き、慌てて家を飛び出した。自転車を立ち漕ぎで飛ばし、ついた先は天化の自宅である。 ドアベルを鳴らすと天化本人が出てきた。らんらんと目を輝かせている姫発を見ながら半ば呆れ顔だ。 「やっぱり来たさね…」 「おう! 美人家庭教師がいるって聞いちゃぁ、おちおち寝てもいらんねえぜ。で、その家庭教師はどこよ?」 「今、天祥の宿題みてくれてるさ」 天祥は中学1年生、天化の末の弟である。宿題はほとんど終わっていたがわからない問題があるのでそこを教わっているのだという。それが終わったら今度は自分達の番だというので姫発はいそいそと二階にある天化の部屋へと上がっていった。 「お、そういやインターハイの個人戦、優勝したんだってな、おめでと」 「ああ、ありがとさ。いい思い出さね。ところで王サマ、宿題は終わってるさ?」 出された麦茶を飲みながら姫発が胸を張る。 「一文字たりともやってねえ!」 「…威張るこっちゃないさ」 インターハイに行っていた天化でさえほとんど終わっているというのに…。毎年のことながら姫発には呆れざるを得ない。 「そんなことだと思ったから呼んであげたさ」 「さんきゅーな。美人さんなら頑張っちゃうぜ? ところでどんなプリンちゃんよ?」 興味津々の姫発に天化はとびきりさ、とだけ言った。しばらくすると天化の部屋のドアがノックされる。 「誰さ?」 「天化にいちゃん、先生つれてきたよ」 元気な天祥の声が聞こえてきた。天祥はその人と挨拶を交わすと階下に降りていった。姫発は背筋を正す。その人がゆっくりとドアを開けて入って来た。どんなプリンちゃんだろう、どきどきしながら顔を上げると… 「太公望?!」 「久しぶりだのう、ちゃんと勉強しとるか?」 姫発はマッハで天化をさらって部屋の外に出た。 「騙しやがったな、天化! 太公望じゃねえか!!」 姫発が食ってかかると天化もあっさりやり返す。 「騙してないさ。俺っちは美人家庭教師がいるって言ったさ。師叔は美人さよ?」 「ぐっ…」 確かに太公望は美人だ。それは認める。認めるけど。 「なにをやっとるんじゃ、さっさと始めるぞ!」 襟首を捕まれた姫発は逃げられなかった。太公望は美人だけど、勉強のこととなると厳しい。打神鞭とあだ名される30センチのプラスティック製定規が手をはたくのである。 「宿題は…真っ白ではないか! このだあほ!!」 びしぃっ!! びしぃっ!! 「痛っ、痛いってば!!」 「夏休みが始まってもう一月じゃ! おぬし3年の夏の重大さをわかっとらんな!!」 「ぎゃああああああ……」 「師叔、もうそれくらいにしないと…」 「大丈夫じゃ、ちょっと殴ったくらいでは馬鹿にはならん!!」 びしぃっ!! ばしぃっ!! 気持ちの良いくらい澄んだ定規の音と情けない叫び声が天化の部屋から聞こえてきた。天化たちの母である賈氏は不審に思って天祥を見に寄越した。 余談だが天化の父親は黄飛虎という。もとは朝歌商事に勤務しており、社内で知り合った賈氏と結婚した。その後、妻と妹が社長のセクハラにあったのを機に退社、そのときちょうど独立した西岐に再就職し、ついでに賈氏が長男・天禄を妊娠したのきっかけにこの西周に引っ越してきた。そしてある同じ年にこの町内で太公望、天化、姫発の順に生まれたのである。 閑話休題。天祥は戻ってくると母親にこう告げた――姫発お兄ちゃんが宿題をやってなかったから怒られてた、と。 夕方になると姫発はふらふらしながら自転車を押して帰っていった。部屋には天化と太公望が残っている。 「ふむ…やはり紫陽洞は英語の対策が欠かせんのう」 「赤本にもそう書いてあったさ」 「もう赤本を見たのか、えらいのう。おぬしの爪の垢でも煎じて飲ませたらどうじゃ」 誰にとは言わず、聞かず。 「今日はもうこれくらいにしよう。おぬしがちゃんと勉強しておったので安心した。この調子なら紫陽洞は大丈夫じゃろうて」 「けど、気は抜かないさ。これからが正念場さ」 3年生は部活も生徒会も引退して受験勉強一色になる。太公望は天化に気負いすぎぬようにと注意した。天化は素直にそれを聞く。 「でさ、俺っち必ず師叔に見合う男になるさ!」 天化はやおら立ち上がると太公望のそばに寄った。太公望はぴくりとも動かない。 「好きさ、師叔…」 強く抱けば折れてしまいそうな細い体の太公望をそっと抱きしめる。太公望は小さく微笑むと天化の髪をくしゃっと撫でた。 「待っておるぞ、天化」 日焼けした天化からは太陽の匂いがする。見つめあい、頬を寄せ、唇を重ねる。 「約束じゃぞ…」 天化はこっくり頷いた。 「お兄ちゃんたち何してた?」 賈氏はお茶のおかわりを天祥に持っていかせたのである。天祥はいきなりドアを開けるようなことはせず、かといって手が塞がっているので声をかけた。すると天化が真っ赤になって出て来たのである。お茶を渡した後、天祥はなぜ兄が真っ赤になっていたのか気になってちょっとだけ覗いたのである。 戻ってきた天祥は母親の問いにこう答えた――ちゅーしてた、と。 「おい、賈氏。今日はなんかめでたい日だっけ?」 結婚記念日でもないし、誰かの誕生日でもない。飛虎だけではない、家族全員が同じことを思っていたのである。 ――なぜ、赤飯なのか、と。 ――なぜ、尾頭付きの鯛なのか、と。 「母ちゃん、なんかいいことあったさ?」 「いいえぇっ、別になんでもないのよ」 「???」 わけもわからぬまま、本日の黄家の夕飯はおめでたかった。 たった2ヶ月。たった2ヶ月先に生まれたから あの人は先に行ってしまって…。 けど、あの人は灯火。 迷いそうになったときにそっと導いてくれる、優しい手。 そんなお姉さんは好きですか? ――はい、大好きさ。 ≪終≫ ≪悪あがき≫ と書いて、コメントと読む(笑)。…いえ、もう何も語ることなんてありません。ただ天化×望が書きたかっただけなんです。それだけなんです…。本当です、信じてください…。 |