風の記憶 義に殉じた左腕を墓標に 人としての彼女は其処で完全に死んだ 王朝としての機能を失った殷に残された最後の希望だった二人の王子。 その王子が擁した軍が新王朝として歩き始めた周と戦争という形で事を構えたとき、ひとりの女が死んだ。 死んだ、という言い方は正しくないかもしれない。けれどこの戦いを契機にして彼女の顔つきが変わったというのは確かだろう。 それは脱皮と言ってもいい。 すべてをどろどろに溶かして冬を越えた、そんな彼女の変化。 蝶のように美しくなくてもいい、ただ風を力に飛翔する姿こそが彼女の願い。 かつての記憶――すなわち歴史は彼女を疎んじ、世界は復旧の新軸を求める。 失った左腕を抱えて戻ってきたその仙道に、誰もが痛々しい視線を向けるのだった。 「……望ちゃん」 「みっともない姿を見せてしまったな」 ほっそりとした二の腕の途中から切り離された腕には骨と筋肉の断面が見えた。こびりついた鮮血は強制的に酸素に触れたせいで黒く変色している。 女性の身体には惨すぎる傷も彼女は笑い飛ばした。 「避けなかったの?」 「数が多くてな、避けきれんかった」 銀水色の髪が美しいその少女も仙道。呂望の腕の包帯を変えながら、彼女は嘘と呟いた。 「普賢……」 「……嘘だよ。ボクには分かるもん。望ちゃんは避けなかったんだ」 まだ彼女らが人と呼ばれていた頃、人としての何かを捨てて仙道になろうとしていた頃。 少女時代をともにした呂望と普賢は誰もが認める親友同士だった。 だから分かる――現場にいなくても、彼女は王太子の攻撃を甘んじて受けたのだ、と。そして心で溺れるほどの涙を流しながら過去にとっての最後の希望を断ち切ったのだ、と。 細い腕の断面は彼女が死ぬまでその罪を立証し続けるのだろうか。 「……なに」 「普賢?」 「あんなに男どもがいて、どうして女の子の望ちゃんがこんな傷……」 そしてとうとう涙ぐみ始めた普賢を、呂望は残された右腕でそっと抱きしめた。その温かさが普賢にはいつもの半分に感じられた。腕をなくした体の、血の巡りが悪いだけじゃない。彼女は左腕と一緒に何かをなくしてしまったのだ。ただそれが何なのか、普賢には分からなかった。 「望ちゃん……」 「泣くな、普賢。左腕だけですんでよかったと思っておるよ。それに戦場には男も女もなかろう。わしは周の軍師だからな」 「姫昌さんの左で、戦いたかったの?」 ふと口をついてしまった言葉に、普賢は失言だったと口を閉ざした。けれど呂望は小さく嘲笑すると友の頬に手を添えて上を向かせた。無くした筈の左腕、残された部分だけに普賢はそっと触れる。彼女はそれを拒まなかった。 「姫昌はもうおらぬ。時がそれを、わしにも彼にも許さなかった」 「望ちゃん……ごめん。ごめんね」 「いいんじゃ、普賢。いつまでもこのままにしておけんから包帯を巻いてくれるか?」 「……うん」 普賢はうっすら滲んだ涙をそっと拭うと見えざる腕を思いながらそっと包帯を巻いた。白いその布は乾いた血を粉のように小さく剥がす。そこから血が滲み始めて紅から黒へと変えていく。 紅い血液の珠がぽつぽつと沸いては布に吸われていった。 「……痛い?」 「んー、少しな」 止血の意味も込めて、普賢は血を拭いた箇所には綿布を張り、少し強く包帯を巻いた。 「望ちゃん」 「んー?」 「また明日、包帯変えに来るからね。痛くなったらちゃんとお薬を飲んでね。雲中子が作ってくれた鎮痛剤……」 「すまんな、普賢」 呂望は手当ての済んだ左腕を庇いながら立ち上がると、普賢を振り返らずに立ち去った。 振り返ることは出来なかった――彼女の涙のほうが、今は何よりも痛かったから。 白い花が翼の様に咲くから、白鶴洞。 小麦粉を水と蜂蜜で練った物を丸鉄板で丸く焼きながら、普賢は窓の外を見ていた。ここから見える玉虚宮の一室に呂望が寝起きしている。左腕を失うという大怪我をして以来、彼女は休養もかねてこの仙界に留まっている。 「望ちゃん、大丈夫かな……」 「普賢! 普賢!! 前、前!!」 いきなり喚きたてる道徳真君をうるさいなと思いつつ丸鉄板を覗くと、中身は真っ黒に焦げてこびりついていた。もうもうと煙を上げていたのに道徳真君に言われるまで気がつかないほど、彼女の思考は別のところにあったということになる。 「焦がしちゃった……」 しょんぼりと肩を落とす普賢を宥めるように細い肩を抱き、道徳真君はへらを使って真っ黒なその焼き菓子をがしがしと剥がしにかかった。 「火傷とかしなかったか?」 「うん、ありがとう道徳」 力のある道徳がやれば丸鉄板の焦げなど簡単に落ちた。 普賢は考える――彼女の腕も、こんなふうに簡単に落ちたのだろうか、と。 ふと、左腕が痛んだ。斬られてもいない、ましてや何の傷もないこの左腕が。押さえても擦っても消えない痛み。 「普賢……お前さ、太公望の腕のこと考えてるだろ」 「え……」 思わず左腕を押さえていた右手を離し、普賢は彼の顔を見た。道徳は彼女を見ずに作業を続けている。 「分かるんだよ。怪我もしてないのにちょっと痛いこととか想像するとその部分が痛むってことが、さ」 「道徳……」 彼はどこまで自分のことを見透かしているのか。 慰めるでもなく、励ますでもない彼の行為が今の普賢には優しいと思えた。 「太公望が腕を落としたのは誰のせいでもない。王太子のせいでもないし、避けなかった太公望のせいでもない。あれは彼らなりの、美学なんだ。殷の太子としての責務、受けて立った軍師の哲学。それだけなんだ。太公望、笑ってたろ?」 「……戦場には、女も男もないって言ってた」 綺麗に襞の寄った前掛けの裾をぎゅっと握り、普賢は俯いた。 「とっても細くて、でも綺麗な腕だった。取れた望ちゃんの腕……」 「普賢……」 「今日もね、望ちゃんの好きな小麦の甘焼き持っていってあげようと思って。これなら片手でも食べられるし」 最初の一枚を真っ黒にしてしまったけれど、残りはちゃんと焼いて持っていこうと、普賢はようやく笑った。 道徳は彼女の空銀の髪を撫でると、小さな額に口づけた。 「太公望が痛がってない。泣いてもない。……見える限りは、な。俺たちが同情するのは簡単なんだ。でもそれだけじゃダメなんだよ、分かるよな」 「うん……」 最後の十二仙である普賢は道徳から見れば随分と若い。 「いざと言う時のために、俺たちが太公望の剣となり盾とならなくちゃならねぇ。そのときまでしっかりしてなきゃな。とりあえず、この甘焼き焼いてしまおう、な?」 「うん!」 彼の言葉のひとつひとつが普賢を丁寧に諭す。 乱れていた彼女の心がようやく束に戻り始めた。 だがそれも長いことではなかった。 道徳と共に玉虚宮の呂望を訪ねた普賢は、薬箱を見て愕然とした。 化膿止め、止血剤は通常通りの減り方を見せている。 それなのに雲中子が作ってくれていた鎮痛剤、そして太乙真人がくれた精神安定剤の減りが早くなっているのだ。この前見たときにはまだたくさんあったはずなのに。 これには流石の道徳も眉をひそめた。 けれどふたりはそれには気づかない振りをして、持参した菓子を手渡した。 ほんのりと甘い香りを漂わせるその焼き物に呂望は目を細める。そうしていれば普通の女の子に見えるというのに、世界はどこまで彼女に犠牲を求めるのだろう。 「美味そうじゃな。ありがとう、普賢」 「望ちゃんこれ好きだもんね」 長い付き合いの普賢は呂望が笑ってくれるだけでいいのだ。けれどその笑顔が薬によるものなら。 普賢はさりげなく尋ねた。 「望ちゃん、腕……痛いんだ?」 「ああ、やっぱり夜になるとな。痛いというか、じりじりと疼いてなかなか寝つけんくてのう……」 長袖は途中から膨らみをなくしている。ひらひらと動くだけのそれにはもう血が滲んではいなかった。 八個に切り分けた甘焼きを右手で掴みながら、呂望は笑っていた。 「夜に、熱出したりする?」 「いいや、それはもうない。本当に疼くくらいでな。そんなに心配せんでもいいよ」 そう言って呂望はいつものにょほほ笑いをして見せた。 すると道徳がお茶がないから持ってきてほしいと、普賢を部屋から遠ざけた。いつもなら自分で取りにいくという彼が珍しく普賢を使ったのだ。 寝台の上に腰掛けていた呂望と向き合うように座ると、道徳は彼女の前に薬箱を投げてよこした。 途端、呂望の顔から笑みが消える。 道徳はいつにない真摯な声で尋ねた。 「どういうことだ」 「どう、とは」 「惚けるんじゃねぇ! なんだよ、この薬の減り方! 尋常じゃねえだろ! 鎮痛剤も安定剤もこんなに減って……痛むんだろ。疼くくらいじゃこの薬は飲むなって言われてるはずだ」 開けられた箱の中、そこに安らぎを求めても刹那の架空にしか過ぎなくて。 でも彼女はそこにしか、自身の痛みを解放する手段を持たなかったのだ。 「……痛むことはしょうがないよ。だけど薬に頼るなよ。お前らしくねぇし、薬に依存するのもよくないし」 「わかっておるのだが、どうしようもなくてな」 「罪の意識、か?」 道徳の言葉に、呂望は小さく自嘲して見せた。 「なんに対しての罪なのだろうな、と。思うておるのだ。封神と称して殺した仙道の数など知れぬ。数えてもおらぬ。わしは……一体何の罪でこのような目に遭うているのか……」 幼い頃、自分だけ生き残ってしまった。 それを罪と呼ぶのだろうか。 「けど、お前は引き受けた――この封神計画を。元始天尊様が何を考えてお前に任せたかはしらねぇけどさ。覚悟の上だったんだろ?」 「もちろんだとも。このように腕をなくすことも。ただ、相手がな」 見えざる腕、薬がなければ自我を保っていられないほどその傷は彼女を蝕んでいるのだ。 道徳はふうっと息を吐き捨てるとキッと目を見開いた。 「中(ちゅう)に言っとくわ。軽めの痛み止め作るようにさ。安定剤も少しずつ減らせよ」 雲中子を“中”と呼ぶのは付き合いが長いからだ。 「普賢がすっげぇ心配してる。料理失敗しないあいつがさ、この甘焼きの一枚目、真っ黒にしちゃったんだぜ」 呂望にとっての無二の親友、道徳にとっての恋人である普賢は肉の塊となった左腕を抱いて泣くのだ。 「すまんな、道徳」 「恋人の友達が苦しんでるんだ、放っておけないさ」 俺は優しいからと付け加えたのが呂望にとってツボだったらしく、彼女はケタケタと笑い出した。 「なんだよ、優しいのは事実だろ!?」 「自分で言うな」 聞こえてくる明るい声に普賢はほんの僅かに安堵したのだった。 もし、ボクの左腕を落としたらそれを望ちゃんにくっつけてくれる? 「普賢……何してんだ!!」 暗がりの中に月光を受けて銀色に煌いた曲水の剣を細い腕に宛がう少女の姿。 道徳は慌ててその剣を奪い、彼女をぎゅっと抱きしめた。 「なに…してんだ?」 「この腕、望ちゃんにあげようと思って……」 正気を失っているかのような瞳、ぼんやりと男を見つめていた。いや、見ているのは男の先の窓の、さらに先の建物。下界には絶対に存在し得ない完璧な白を持つその壁に歴史は血を塗りたくる。 「望ちゃん……」 「普賢、しっかりしろ!! 普賢!!」 乱暴に肩を揺すり、視界から白壁を遠ざける。少女の姿のまま時を留め、けれど残酷とも思える流れに身を委ねたはずだった。 「どうして?」 「なんで望ちゃんばっかり……家族も、仲間も、左腕をなくしても、それでもずっと望ちゃんがやらなきゃならないの!?」 「――それを太公望が望んだからだ」 道徳の言葉に嘘はなかった。この封神計画は元始天尊が発案し、太公望がその玉命を受けて遂行している。彼女は計画に疑念を抱きつつも遂行と続けているのだ、それが世界の変革になると信じて。 為政者によって理不尽に奪われてきた何かを取り戻すために彼女は戦い続けるのだろう。 道徳はそう感じていた。 けれど普賢は叫んだ。 「嘘! 嘘だよ! 望ちゃんはもう戦えない! だって腕がないんだよ? 薬もいっぱい飲んでた……。あんなにたくさん、飲んでる。望ちゃんはもうボロボロなんだよぉ……」 冷空色した瞳からぽろぽろと大粒の涙を流す普賢を道徳は強く強く抱きしめた。 「だから、ボク……ボクの腕を……」 遠ざけられた白銀の短剣に手を伸ばす。けれど普賢の腕はその煌きに届かない。道徳はその手をしっかりと握り締めた。 「太公望の腕は、もう戻らない」 ぴしゃりと言い切られた、彼女の腕のこと。普賢は涙が溢れるその瞳で、道徳を見上げた。 「道徳……」 「中や太乙が試したんだよ。腕がくっつけられないかって。でもダメだった。細胞が足りない。肉も骨も足りないんだ。筋繊維も神経も切断されてて、くっついても動かないんだ……」 「望ちゃん……」 流した涙の数だけ細胞が戻ればいい、神経が繋がればいいのに。 そう思いながら道徳は泣きじゃくる普賢をずっとずっと抱きしめていた。 「安定剤が必要だったのはこっちだったのねぇ」 たなびく緑の黒髪を無造作に束ね上げ、燻銀の簪を指す妙齢の女性の名を雲中子という。洗いざらしの白衣を好んで着る彼女は十二仙とは別格の仙女で、西伯候・姫昌の末子、雷震子の師匠でもある。 彼女は眠る普賢の上に星屑の幻燈を翳した。 泣き腫らした彼女の顔には涙のあとと、紅潮した頬があった。 「助かったよ、中が来てくれて」 「太公望のところに行った帰りだったのよ。薬切れてるだろうと思ってね」 補充をしてきたのだろうか、彼女が提げている薬籠の中には白い袋だけが残っていた。 今普賢が眠る寝台の横に置かれた小さい机台の上にも薬湯が置かれている。 道徳が組んだ手の上に自分の額を乗せて呟いた。 「大変だったんだ。自分の腕を落とすから太公望につけてくれって……」 同期の入山だったため、仲が良いのは知っていた。太公望が封神計画を遂行するために下山してからも彼女は太公望の心配ばかりして、道徳の事もないがしろになりがちになるくらいだ。 別室に移動して、道徳はわざわざ立ち寄ってくれた雲中子のために茶を入れた。 大して美味くもない茶を啜りながら、雲中子は静かに唇を開いた。 「実はね、太公望に言われてきたのよ。普賢が眠れてないんじゃないかってね。自分のこの姿を見てかなり動揺してたって言ってたから……」 「中……」 さらりと落ちた黒絹のひと房、雲中子は煌びやかな指でそれをかきあげると、ふうとため息をついた。 「封神計画は、本当は私がやるはずだった……」 「!?」 突然の告白に、道徳は驚愕の表情を隠せないまま彼女を見つめていた。狂科学者を自称し、かつ他称も許す彼女は甘い紅色で染めた爪先で椀の淵をなぞった。 「最初は妲己だけを倒す予定でね、私が宮殿に入って魔よけをこっそり貼り付けて終わるはずだった。その結界はちゃんと張れたのに、あのバカが剥がしちゃったのよ……」 彼女の言うバカが誰なのか言われずとも分かった道徳はこっくり頷いた。 雲中子の仕掛けた結界、その呪符に危機感を覚えた妲己は紂王にねだってその札を剥がさせていた。彼女自身に手が出せなかったせいだ。 先手を打ったはずなのにそれをあっさりと撃破された崑崙の仙人たちはいよいよ計画を実行に移す――見えざる何かに怯えながら。 「何かが、それを許さなかったのね。この封神計画を実行に移さなければならなかったんだわ……」 薬箱の中の楽園は少女たちに泡沫の夢を見せて。 「そういえば、中」 「何よ」 彼女の側に置かれた籐製の薬籠を見つめ、道徳が声を潜めて言った。 「太公望にところに薬置いてきたって言ったよな」 「ええ、言ったわ。太乙の安定剤もね。それが何か?」 すると道徳はさっと身を乗り出し、低く囁いた。 「太公望の薬さ、なんとかなんねぇの? かなり飲んでみるみたいだけど、大丈夫なのか?」 「ああ、あれ」 雲中子は袋の中にひとつ残っていた錠剤をひとつ、道徳の口に放り込んだ。反射的に飲み込んでしまった道徳だが、吐き出そうとしてももう遅い。 「ちょ、俺に薬は必要ないぞ!?」 「安心して。それただの砂糖だから」 「は?」 困惑する道徳の前に雲中子はふふふと笑って見せた。 「ふつうの粉砂糖をこういう小さな薬筒に入れてだけよ。それを薬だって渡しただけ。もちろん、彼女がこっちに来てすぐのころは普通のをあげてたけど」 赤や橙色の薬筒を楽しそうに指先で弄ぶ。ちなみに太乙も同じことをしていたのだという。 「偽薬効果って言ってね、本当の薬じゃないのに薬だと思って飲むと効果をもたらすっていう、一種の思い込みね」 「そうなんだ……」 「ふたりには内緒よ。あ、普賢にあげたのは本物だから」 そう言って立ち上がる雲中子の髪に、道徳はそっと口づけた。 「ありがとう、中」 懐かしいその仕草に、妖艶な狂科学者は笑って見せた。 「こんなにいい女を捨てて幼女に走ったんだから、ちゃんと大事にしなさいよ」 「なんか引っかかる言い方だな」 長居は無用と闇なる宙を舞い掛けた雲中子はふと思い出したように道徳を振り返った。 「ねぇ、道徳。太公望の左腕は誰が持ってるの? 太公望本人は持ってなかったんだけど」 彼女の問いに道徳は黒い箱を思い出した。太公望自身が焼却処分しようとしたその腕は普賢が持っている。 どうして残しておくのかと問うた太公望にこれは大事なものだからと答えた普賢を、道徳は覚えていた。 「普賢が持ってるぜ。どうするんだよ」 「うん、今のままだと見た目が正直つらいからね、義手でも作ってあげようかと思って。出来ればもとの腕に近いほうがいいでしょう?」 左腕でこっそり型を取って作ってあげれば、と雲中子は笑う。どんなに偏質狂な科学者を自負していても、やはり彼女も女性には違いなかった。 これも内緒だからと言い置いて、雲中子は今度こそ虚空に舞う。 星屑の幻燈が導く先に争いの鐘の音が、今はまだ聞こえない。 道徳は彼女が見えなくなるまでずっと夜空を見ていた。 翌朝、普賢はひとりで目を覚ました。となりにいるはずの男の姿はない。 目と頬が少し痛むのだが顔を洗ったらすっきりした。 台所に行くと道徳が朝食の用意をしている。弟子を持っていた彼は普段やらないだけでちゃんと料理は出来るのだ。 彼は背後の普賢に気がついて、にかっと笑顔を見せた。 「よう、おはよう普賢」 「お、おはよう、道徳……」 なんだか妙に機嫌のいい道徳を不審に思いつつも、普賢は彼の服の裾をぐっと握った。 「――普賢?」 するりと腰に抱きついてきた彼女の手を自分の手で包み、道徳は微苦笑する。 「落ち着いたか?」 「うん、昨日はごめんね。なんか望ちゃんのこと考えたらいてもたってもいられなくて」 背中越しに動く唇の感触は分からない。でも彼女の気持ちだけはちゃんと伝わってきた。 「気にしなくていいよ。でもそんだけお前と太公望の仲がいいと、ちょっと妬けるな」 「道徳ったら」 程よく煮える味噌汁の匂いと、彼の背中に安住する心地よさ。 「ずっとこのままでもいいけどさ。俺、普賢の顔見たいし、腹減ったし」 「うん」 するりと腕を解いて、おはようと口づけて。 ああ、今日も世界は綺麗だね 数日後、太公望は療養を終えて下山し、周に戻っていった。それからさらに数日を要し、彼女のもとに義手が届けられた。雲中子と太乙真人の手になるその義手は、偽者とは思えないほど関節も滑らかに、彼女の意志どおりに動いた。これほど精巧なものは彼らでなければ作れないだろう。 持ってきた太乙は呂望の左腕にこの義手を取りつけながらこっそりと言った。 「この腕が出来たときにね、普賢がすごく喜んだんだ」 「普賢が……」 遥か天空の崑崙に住まう親友、彼女が持つ髪と同じ色の空。 「大事にしてね、この腕も、自分も」 「……ああ」 見上げて呂望は心中穏やかに笑った。 (ありがとう、普賢) 戦場に赴く少女につけられた偽りの腕。仮初の終端を迎えるその日まで、この腕は彼女の戦いを支え続けた。 そして、花が散るように そして、雪が舞うように 「――さよなら、望ちゃん」 友とその恋人は太公望の剣となり、盾となって戦場に散った。 あの日、彼らがそう約束したように。 誰も泣かなかった。死ぬことを厭わなかった。 みんなが彼女の意志に殉じ、そして軍師は彼らの遺志と共に戦い続ける。 どんなに時が流れ世界が巡っても それを風だけが記憶している ≪終≫ ≪あとがきという名の言い訳≫ 「久しぶりに徳普を」ということだったんですけど……ごめんなさい。 楠本氏のお誕生日を祝う気持ちだけは充分にあるので許してください。 雲中子が趣味に走っててごめんなさい、なんかもうごめんなさい。 いつも遊んでくれてありがとうございます。途中で寝ちゃってごめんなさい。 これからの楠本氏にたくさんの幸福と浪漫がありますように。 切にお祈りしつつ、俺は遠くに逝く。 如月幸乃 |