手付かずの世界に君の名を



雨でも星でもなんでもいい
キラキラ光るものを紙吹雪に変えて躍らせればいい
それが六月の出来事ならば
その行進を“六月のパレード”と呼べばいい



世情不安定な昨今、またしても消費者の不安を煽る事件が起きた。
朝歌商事という大手総合商社が製品に大してあまりにも杜撰で無責任な態度を取ったのだ。その製品が日用品であったために市場はなかばパニック状態、需要と供給が間に合わない中でついには価格が史上最高値まで上昇するというありさま。
――だったのが数ヵ月前のこと。
今では朝歌商事に変わってその市場に新規参入した叶シ岐という会社がぐんぐん業績を伸ばしており、不安定だった価格もスキャンダル以前にまで落ちついていた。もちろん西岐は赤字覚悟ながらもそこそこ儲かったし、なにより消費者に強烈なほどの好印象を残した。企業としてはライバル社の自滅による、自社の成長ほど嬉しいことはない。
「しかしここで奢ってはいかん。わしらは安くて良い品を世に送り出さねばならんのだ」
企画課の会議中、スライドの前に立ってレーザーポインターを振りまわしているのが企画課課長の太公望呂望――通称望ちゃん、愛称軍師である。
呂望はパソコンを操作して次の画面に移ろうとした。
しかしそのときパソコンがどう機嫌を損ねたものか、ページを切り替えてくれなかったのである。
「あれ? ここをクリックすれば次ページに行けるはず……あれ?」
普段はさくっと会議を進行する軍師に珍しいハプニング。
社内の会議ゆえか、周囲はどこか微笑ましげだ。けれど呂望にとって見れば今は微笑ましい状態でもなんでもない。社外でのプレゼンなら不採用の一因にもなりかねないのだ。
必死でキーボードを操作する呂望のわきから、すっと骨ばった手が伸びてきたのはそんなときだった。
「落ちついて」
凛としてそれでいて深みのある声に呂望の胸は一瞬中高鳴った。決していやらしくないサイプレスの香りがふわりと漂う。
彼はさっとデスクライトを引き寄せ、キーボードを照らした。
「ああ、パソコンが固まっているな。しょうがないから一度閉じよう。そしてまた開けばいいよ」
「そ、それしかないな。皆の者、すまぬが」
呂望がそういうと元来のんき者が揃っている(ように見える)西岐の社員たちはこれまたのんきにゆっくりやってくれと手を振った。
だがぼんやり待たせておくのももったいない。
「じゃあ、パソコンが再起動するまでの5分、休憩にしよう」
「やった!」
それと聞いた若い社員たちはやれ珈琲だ、やれトイレだと駆け出していく。
呂望はふうと苦笑交じりのため息をついた。
が、隣に立っていた男に香りが消えない。
呂望はそっとそっちを振りかえった。
「すまぬな、姫昌。このソフトには慣れておったつもりだが……」
「いや、問題ない。慣れ云々じゃなくてそろそろパソコンも限界なんだろうな……」
会議室用にと会社が導入したこのパソコンももう古いからと、姫昌は笑った。
そして会議室に二人っきりなのをいいことにそっと呂望の髪を撫でた。
「あなたがいてくれるから、うちの業績はうなぎ上り。本当に感謝している」
「それはわし一人の力ではないよ、姫昌」
「でもあなたの企画がいいから。社員もついてきてくれる」
そういうと姫昌は起動させたソフトはそのままに呂望をひょいと開いたデスクの上に抱き上げた。
「ひゃあっ!?」
「望……」
突然の出来事に困惑する呂望と、それを楽しんでいるかのような姫昌。
「き、姫昌……」
「あんまり時間がないんだ」
目を閉じてと囁かれ、呂望はその甘い吐息にきゅっと目を閉じた。
「望……」
それは男の甘い囁き。頬を包む手は熱い。
口づけられると思ったその刹那。
無遠慮に開いたドアが呂望の理性を呼んでしまった。が、彼女の理性以前にその現場を目撃した男は大騒ぎ。
「なななな、なにやってんだよ、叔父貴!」
喚きたてているのは姫昌の甥にあたる姫発だった。
すると姫昌はそんな邪魔などどこ吹く風とばかりに甥をたしなめにかかる。
「姫発、社内ではちゃんと専務と呼べって言っているだろう?」
「あ、ごめん。……じゃなくて! 専務が企画課の課長に手を出していいのかよ!」
「いや、両想いだしいいんじゃないのかな」
ひとつ返せば十になって帰ってくる。十を返せば百になって戻ってくるこの叔父を相手に姫発ごとき若造が敵うはずもなく。
「呂望! なんでこんな年上の男と! 俺のほうが年近いじゃん!?」
「いや、年の問題ではなくだな」
「俺は兄上とだいぶ年が離れてるからな。お前が生まれたとき俺8歳だったし」
ちなみに姫発には兄がいて、姫昌が五歳のときに生まれている。
この若い叔父に自分と同じ年の呂望が恋をして、それが両想いだってんだから、やるかたない。
そのうちぞろぞろと社員たちが戻ってきたので姫発も渋々自分の席に戻るのだった。
姫昌も何事もなかったかのように席に戻り、重役の一人として呂望に対し辛辣な、けれど正当な意見を述べる。
製品の安全性、コストパフォーマンス、これからの営業方針など事細かに軍師を責めたてるが、呂望も心得たものでさくさくと応えていく。まるでこの質疑応答があらかじめ用意されていたかのように。
「製品の安全性とコスパはこれから企画課でも再検討するが、営業に関しては営業課と綿密に話し合った上で決めていこうと思っておる」
「ふむ。まあまずは製品の改良をはかってから、ということになろうかな」
「そう思ってもらえればいい、専務」
「期待しているよ、軍師どの」
姫昌がとんとんと書類を揃える音が会議の終わりの合図だった。室内が緊張感から解放されたという安堵のざわめきに満たされる。
「あ、営業の天化と楊ぜん、それからリサーチのメンバーは残ってくれー」
「はーい」
呼ばれたメンバーはぞろぞろと呂望の周囲に集まっていく。その流れに逆行するように姫昌は出口に向かっていた。
「よいかー、この商品はこれからが大事なんじゃー。リサーチチームはあらゆる年代における調査をな。その結果を見て営業にも動いてもらわねばならん。忙しくなるがみな頑張ってくれ。頼んだぞ」
「はいっ!」
姫昌は一度だけ振りかえった。呂望はいつも中心にいてみんなを引っ張っている。
彼女自身も疲れているのではないかと、いつもいつも思うのだけれど。でも呂望は甘えない。
「……ちょっと寂しい、かな」
恋人は仕事が恋人になっている。
姫昌は会議室を後にした。



「嵐の前の静けさ……かのう」
新商品の開発に着手するための準備が整うと、あとは出来あがりを待つしかない。
呂望は珍しく定時をちょっとすぎたところで退社することが出来た。
いつもはとっぷりと日が暮れて、どころではなく真っ暗になってから終電ギリギリで帰宅するのでこんなに明るいのは久しぶりだ。
「うーん、こんなに明るいとアレだのう、何をしたらいいのやら」
「じゃあ飲みに行こうか、軍師どの」
背後からかかった声に振りかえると、そこには姫昌が立っていた。
呂望は思わず顔を綻ばせる。
「なんじゃ、専務も今上がりか?」
「会社は出たんだから専務はやめてくれ……って、俺も軍師って呼んだか」
屈託のない笑顔だが子どもっぽさはない。姫昌は今や絶滅危惧種となりかけた聖人君子男子、つまり金にも女にもきっちりしているのである。
呂望はふふふと笑った。
「なんと呼んでもかまわんよ。それより姫昌……」
「ん?」
「腹へったのじゃ。付き合ってくれんかのう」
「喜んで」
請われるままに姫昌は呂望の隣を歩いた。頭ひとつ分身長が違うのでともすれば兄妹に見られがちだ。
「なあ、呂望」
「なんじゃ?」
「何食べたいんだ? 適当にこっちに歩いてるけど」
きりっとシングルブレステッドのスーツを着こなす姫昌はとなりにどんな女性を連れていても霞むことはない。
かといって呂望もショートカットの黒髪が闊達さを思わせ、後ろにどれだけの男を率いていてもおかしくない。
「こうやって歩いていると、出会ったときのことを思い出すな」
「あー……わしが就職したときのことな」
呂望が笑うようにいうと、姫昌も懐かしいとばかりに苦笑して見せた。
「俺が専務になり立てでさ。どうしようか、どうすればいいのかって悩んでたときに、隣で飲んでたあなたが『おぬしが会社を引っ張るのじゃ』って言ってくれてな」
「それまで専務の顔など見たことなかったからのう」
要するにお互い同じ会社の社員だと知らなかったのだ。それがわかったのは翌日出社してからのことである。
同じフロアでばったり顔を会わせたのだ。恋に落ちたのもそのときのこと。
「会社っていう重圧に押しつぶされそうだったけど……望がいてくれたから」
「ふふ、お互い様じゃよ」
信号待ちをしている間、呂望はふと姫昌の袖口を見た。センスのいいカフリンクスがきっちりと填まっている。ペアなのか、タイピンも同じ輝石で誂えられていた。
「どうかしたか?」 
姫昌の声に呂望ははっと顔を上げる。そしてぶんぶんと首を横に振った。
「姫昌はいい男だなと思ってな。言い寄る女も多かろう」
「誰が。俺は呂望一人で精一杯だよ」
そう言って姫昌は呂望の腰にするりと手を回す。そして耳元で何事かを囁いた。
「え……」
呂望は突然の出来事に何が起こったのかよく分からなかった。
ただ周囲の人々がせわしそうに歩いていることしか見えなかった。そしてゆっくり視線を戻すとにっこり微笑んでいる恋人の笑顔だけが見えていた。
「姫昌……おぬし……」
「以前からずっと考えていた。だから望にも考えてほしいんだ」
行こうと促されるまで、呂望の足は動かなかった。
連れていかれたレストランでも何を食べたのかよく覚えていなかったくらい、呂望は驚いたのである。




呂望の実家も、西岐と並び称されるほどの企業である。学校経営が主で、玉虚大学と崑崙高校は名門と名高い進学校であった。
重厚な門をくぐって、呂望は自宅のドアを開けた。
「ただいまー」
「おかえり、望。今日は早かったのだな」
「うん、今日は特別……食事はしてきたから」
出迎えてくれたのは姉の竜吉公主。豊かな黒髪をひとつに束ねていた彼女はどこか上の空の呂望を不審に思い、彼女の目の前で手を振ってみた。
「大丈夫か? 呂望。疲れておるのではないのか?」
「いや、疲れてはおらぬのだが……」
呂望たち姉弟に両親はいない。呂望がまだ幼い頃に交通事故で亡くなっていたのだ。年の離れた姉兄が彼女にとっては親代わりも同然。
「そうだ、公主になら……」
「なんじゃ? 悩み事なら聞くぞ?」
「うん……」
とりあえずバッグを置いて着替えてくるといい、呂望は自室のある二階に上がっていった。
そのおぼつかない足取りに公主は激しい不安に駆られる。
が、それが杞憂だと知るのはほんの数分後のことなのである。
祁門紅茶を入れてやりながら、公主はリビングで呂望が来るのを待っていた。
「なんの悩みじゃろう……職場でいじめられているのだろうか」
幼かった呂望を守るために公主も姉であると同時に母たろうとした。それゆえに呂望のあの様子は我が事のように心苦しくてならなかった。
「公主……」
「望……ほれ、こちらにおいで」
「うん」
公主は呂望の背中を押すように歩かせると、そっとソファに座らせた。
「どうしたのじゃ、いったい何があったのだ?」
「じい様と、燃燈は?」
「まだ戻ってはおらぬ。私だけじゃ」
どうやら男には聞かれたくない話らしい。まさか……と公主が言いかける前に呂望が口を開いた。
「実は、プロポーズされたのだ」
「…………は?」
イジメか、それとも性的虐待か。ありとあらゆる負の可能性を考えていた公主には求婚されたなどという選択肢は全くなかったのである。なのでいささか間が抜けているがそういう反応になってしまったのだ。
「はって……求婚されたのだ」
「姫昌どの……じゃよな?」
公主がそう問いかけると呂望はぽっと顔を赤らめて、こくこくと数回頷いて見せた。
幼いと思っていた妹ももうすっかり妙齢なのだと、公主は安堵と共に息を吐いた。
「なんじゃ、驚いたぞ」
「わしも驚いたのだ! 何を食ったのか、どうやって帰ってきたのか覚えておらぬ!」
「まあ落ちつけ、ほら」
呂望は公主が差し出した紅茶を受け取ると一口含んでテーブルに戻した。
「頭が真っ白になるとはこのことじゃのう!」
「で、どうするつもりなのじゃ。というか何が悩みなのじゃ?」
公主の知る限り、姫昌と呂望はお似合いのカップルに見えるのだ。二人の間に何があるのか分からないが、公主にすればお受けして困る話でもないと思われた。
結婚は当人同士の問題と言われるようになって久しいが、まだまだ家どうしの事情を考慮する例も多い。
その観念からしても姫家との婚姻関係は企業としても望むところ、百利あっても一害もないだろう。
ただ姉妹バカの燃燈は大騒ぎするかもしれないが。
悩みどころとしてはそれがあるだろうか、それとも。
「まだ仕事が面白いか?」
「姫昌は家に入れとかそんなことは言わぬと思う。相手は専務だが……わしはそんなの、関係ないと思っておる。専務だから好きになったわけでもないしのう」
まだ一人身の専務に思いを寄せる女も多いだろう。そして当然それをやっかむ者も出てくるはず。
「わしは構わぬが、姫昌にそんな思いをさせたくないし……」 
「……呂望は優しいな」
公主はそっと、呂望を抱きしめた。
「きちんと話し合わねばならぬことだぞ。それからなら、私たちはいくらでも挨拶なりなんなり聞いてやるからの」
「公主……」
「お風呂に入って寝るといい。いろいろ考えて疲れたであろう」
「……うん」
呂望はいつもの顔に戻っていた。口に出してしまえばすっきりすることもある、という一例である。
その背中を見送って、公主は少し寂しさを覚えた。
「望がお嫁に行くのか……」
亡き父母の変わりに見届けよう――公主は天を仰ぎ、深くため息をついた。




翌朝出社すると呂望は突然専務室に呼び出された。
「何事じゃ、姫昌。わしはこれから企画室で会議をしたいんじゃが」
「その前に俺と会議だ。昨日の議題について」
姫昌は呂望をひょいと抱き上げると来客用のソファの上に座らせた。自分はそのアームに腰掛ける。
「昨日の議題って……」
「もちろん、俺との結婚。考えといてって言ったと思うが?」
そう言いつつにっこり笑うから姫昌はズルイと思う。その笑みの前には呂望でさえ逃げ出せないのだから。
「俺はいろいろ考えてる。俺にはもう両親はいないから親のことで面倒をかけることはないし、これから仕事もバリバリやって、苦労をかけないようにする。仕事だって望が続けたいのなら続ければいいし」
「なんか、おぬし性急過ぎぬか?」
「30過ぎた男が一人でいるとなにかと厄介でね。兄貴から結婚せっつかれてるし……ああでも、そんなんでとりあえず望とっていうわけじゃない。それは間違えないでほしいんだ」
「姫昌……」
呂望が軍師なら、姫昌は策士というべきであろう。
彼は呂望が不安に思っていただろうことにひとつひとつ解決策を提示して見せた。
「わしはまだ企画課の主任にすぎんのだぞ、それが専務の嫁など」
「じゃあ秘書課に異動するといい。そうすれば俺の秘書として働ける」
秘書の資格は持っているだろうと、姫昌は呂望の耳元に囁いた。
「どうしてそれを」
「呂望のことならなんでも知っている。なんの心配も要らないから」
姫昌はそう言ったが、呂望の中にはまだ不安があった。
「……秘書課に異動の件は、誰かを押しのけてのことじゃない。欠員が出るからなんだ。今、手をつけてる仕事が終わってからでも構わない。望は俺が嫌いか?」
「昨日の今日だぞ、姫昌」
「答えになっていないな、呂望」
姫昌はもう少し考えてほしいと言い置いて、呂望に退室を命じた。
素直に、でも静かに出ていく彼女の後姿を見送って思わず舌打ちをした。珍しい姿だった。
「俺としたことが……」
戦略を間違えたかと、自問する。
こんなに苦い思いをしたのはまだ若い頃、朝歌商事に煮え湯を飲まされて以来だった。
直感的に知っているはずだった――ただ好きなだけではどうしようもないことがある、と。
知っていたのにほしいと思う、それも愛だから? 恋だから? それとも。




呂望の心が決まったのはそれから数日後のことだった。
きっかけはほんとうに偶然だったのである。
出先からの帰り、ひとりで入ったレストランで呂望は高校時代の級友に出会ったのだ。
「あれ? 望ちゃん?」
「シグナルか?」
「わーい、望ちゃん久しぶりだねぇ!」
紫苑色の長い髪はあの頃のまま、彼女の左右にはそっくりな双子の姉弟がじーっと呂望を見つめていた。
彼女は大学を卒業したその日に六年交際した彼氏と結婚、今は二児の母となっている。
「一緒にご飯食べていい?」
「ああ、かまわんよ」
「ティアラ、トゥルース、呂望お姉ちゃんが一緒にご飯食べようって」
「わーい、望お姉ちゃん!」
姉のティアラのほうは活発で、誰にでもすぐ懐いた。弟のトゥルースのほうは人見知りが激しくて母であるシグナルの側を離れようとはしない。
呂望はティアラの髪を撫でながら笑った。
「大きくなったのう、初めて会った時にはふたりともまだ赤ん坊だったのに」
「もう五歳だもんね」
「そうだよ、ティアラ五歳だもん!」
ぱっともみじの手を広げるティアラに呂望はかわいいとばかりに笑顔を向ける。
「子どもは可愛いのう」
「大変だけどね」
活発といえば聞こえはいいが要するにおてんば。
大人しいといえばこれも聞こえはいいが人見知りの激しさには我が子でありがなら大変だとシグナルはいう。
でもそう言っているわりに、呂望にはシグナルがとても幸せそうに見えた。
「結婚とは、良いものか?」
「望ちゃん、そういう人いるんだね」
シグナルは微笑を浮かべた。十六才のあの頃とは違う、でも穏やかな微笑。
母となった彼女の中で何かが大きく変わっているのだろうか。だとすればそれはなんなのだろう。
呂望は不思議な思いでシグナルを見つめてた。
シグナルはやっぱり笑っている。
「望ちゃんも結婚を意識し始めたから、聞くんだよねぇ」
「……わかるか」
苦笑する呂望にシグナルはうんと頷いた。
「うちの隣の城戸さんちのさ、瞬ちゃん覚えてる?」
「ああ、わしらより三つ年下じゃったか。あの子がどうかしたのか?」
「同じこと聞かれたの。結婚ってどんなもんですかって。去年結婚してもうおなか大きいんだよ」
「ほおー……」
相手はこれまた西岐と並ぶ大企業・エリシオンの社長だとシグナルは言った。しかも妊娠しているらしい。
「いろいろ迷ってるんだよね、望ちゃんは仕事楽しそうだもん」
「うーん、そういうことでもないのだがのう」
「結婚ってね、守るものがたくさん出来るんだよ」
「シグナル……」
呂望にはやっと分かったのだ、シグナルの微笑が変わっていたその意味を。
守るものが増えた、母親の顔だったのだ。
「結婚って楽しいことばっかりじゃない。正直妊娠すれば身体は重いし、不安にもなるし。子ども育てていくのにいろんな心配はたくさんあるよ。だけどいちばん感じたのは一人じゃないんだってことかな」
「それは、おぬしのダンナが出来ておるから」
「コードはわりと亭主関白だよ」
絶対にパパとは呼ばせない父親だと、シグナルはけらけら笑った。
「だから総じて言うけど、やっぱり結婚っていいよ」
「それぞれに、ということかな」
「多分ね」
そこにちょうどよく料理が運ばれてきて、話はそこまでになった。
そしてシグナルは子供たちを連れて去っていき、呂望はその足で役所に向かうのだった。



会社に戻って必要な書類を作成し、判子を突いて封筒に入れた。
それをさらにメール専用の封筒に押し込んで専務室行きボックスに放りこむ。
あとはそれがどうでるか、だ。
返事は数十分で戻ってきた。封筒の中身は空っぽ――いや、今すぐ専務室に来いとのメモだけが入っていた。
「蝉玉、わしは専務室に行ってくるからのう! 後は頼んだ!」
「ちょっと! 今朝も行ったじゃないの〜〜……なんなのよ、もう」
ちょいちょい席を外す主任に呆れ顔なのは蝉玉だけではない。
ただ不思議だったのは呂望の顔に悲壮感がなかったことだけだった。
専務室の前に辿りつくと、呂望は手櫛で髪を整えて服の裾をちょいちょいと直した。
そしてすうっと深呼吸をすると意を決してそのドアを叩いた。
ドアの向こうから入室を許す男の声が聞こえてくる。
呂望はゆっくりとドアを開くと、その狭い隙間からまるで軟体動物であるかのようにするりと中に入っていってしまったのだ。
「お呼びかのう、専務」
「ああ、用事があるから呼んだ」
姫昌はドアの前に呂望を立たせたまま、何事かを書きこんでいた。ついでに判子も押している。
部屋にはたったふたりだけ。
「メール、見させてもらった」
「で?」
「たった今、署名捺印した。これで書類上はなんの問題もないことになったが……ほかになにかリクエストは?」
姫昌がそういうと呂望はにこっと笑って指折り数えた。
「あとは基本をこなしていこうと思うておる。婚約指輪も欲しいし」
「ご家族への挨拶とか?」
「そう、それじゃ」
ふたりは顔を見合わせ、くすくす笑った。
「生涯ただひとりの君だ、大事にする」
「不束じゃが、よろしゅう頼みます」
左手の薬指にその約束はまだないけれど、それでも言霊は紡がれる。
愛しいと舌先に乗せて、求めるままに唇を触れ合わせた。




そして大安吉日を選んで、姫昌が呂望の家にやってきた。左手には手土産持参というご挨拶の基本スタイルだ。
門扉を見つめて姫昌がほおっと声を上げた。
「でかい家だな……」
「テレビで見たおぬしの実家には負ける」
なんてことを言いながらふたりは流石に緊張した面持ちで邸宅のほうへと向かう。
玄関には既に祖父・元始天尊と兄の燃燈道人が来るなら来いやあと待ち構えていた。
が、彼らとて姫昌には敵ではなかった。
彼はまず作法どおりに和室に通されたあとで手土産を渡し、それから呂望を結婚したい旨をとうとうと述べた。その弁があまりにも闊達で誠意に満ち溢れていたために、燃燈も非の打ち所を見つけられないでいたようだ。
「というわけですのでお嬢様をいただいてもよろしいでしょうか」
「う、うう……」
「ほほ、まあ、姫家ならば問題はあるまい」
じいさんはあっさりと丸め込まれた。公主は無論賛成である。そして兄・燃燈は頑固親父を気取る間もなく、負けたとばかりにがっくりと項垂れたという。
かくして結納の日取りまでとんとん拍子に決まった次第だ。
「いやー、あっさり終わったな」
「うん、だがまだまだやることはあるからのう」
「そうだな……とりあえずは呂望」
「んー?」
姫昌を駅まで送りがてら歩いていた呂望はふととりあえずという彼の言葉に立ち止まっていた。
「これ、一緒に出しに行こう。明日にでも」
彼が差し出したのは一枚の封筒。中身がなんなのか、それは分かりすぎるほどに分かっている。
呂望はこっくりと頷いた。
「これから忙しくなるな」
「大丈夫じゃ、ふたりでやるんだからのう」
「それもそうだな」
このままずっと手を繋いで生きていけるから。



姫昌と呂望の結婚式はこれから半年ほど後のことである。





≪終≫





≪ついに領土再征服完了≫
長らくお待たせしておりました、姫昌×呂望でしたっ! お待たせしてすみませんでした_| ̄|○
如月は頑張りました。頑張ったんですが聖人君子男子なるものがどういったものかすっかり忘れていた挙句にこのざまです、笑ってやってください。
リクエストありがとうございました! 注: 文字用の領域がありません!

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