たんぽぽ ひとりの時間が長かった 誰も好んで自分をひとりにしたわけではない わかっていても寂しさだけは拭えなくて… 春の夕暮れは少しだけ遅い。 団地のなかにある小さな公園には、子供たちの楽しそうな声があふれていた。 ブランコに乗る子、鉄棒にぶら下がる子、砂遊びをする子と、さまざまだ。 「ねえ、ゾロリちゃん、ゴム飛びしようよ」 「うん、やる」 金色の髪を軽やかに翻し、ゾロリと呼ばれた少女はにっこりと笑った。白いシャツに赤いスカートがよく似合う。彼女は数名の女の子達と少し広い場所を取った。じゃんけんでゴムを持つ係りを決めた。ゴムひもを伸ばしてちょうどいい高さに設定する。ゾロリは一番最初に飛ぶ権利を得ていた。 「いいよー」 「じゃあ行くよ」 そう言うとゾロリはそのままぱっと地面を蹴って軽く走った。そして友達が決めた高さを難なくクリアした。 「さすがゾロリちゃん」 「もう少し高くても平気かな」 赤いスカートをひらりとさせて、ゾロリはVサインを決めた。 しばらく飛んだ高さを競っていると、5時を知らせるサイレンが鳴り始めた。子供たちは遊ぶのをやめて一斉にサイレンを聞くのだ。アナウンスが流れ、5時になったのでうちに帰ろうと言っている。それを聞けば子供たちは未練たっぷりながらも家路につくのだ。なかには迎えに来ている親もいる。 「帰らなくっちゃ。ゾロリちゃん、また明日ね」 「うん、明日も遊ぼうね」 そう言って家路を急ぐ友達の背中を見送って、ゾロリはふうとため息をついた。ごそごそとポケットをあさり、銀色の鍵を取り出す。自宅の鍵だ、可愛いクマのキーホルダーがついている。いなくなった父親が最後に自分に残してくれたものだった。 ゾロリの父親はある日、自作の真っ赤な飛行機で大空に飛び立ったまま消息不明となった。そんな父に代わって母親のゾロリーヌは一生懸命働いて自分を育ててくれている。 ゾロリは銀の鍵をしっかりと握った。 公園に自分だけが取り残されているのを自覚しながら。 ひとりで遊んでも仕方がないので、ゾロリも家へ帰ることにした。エレベーターのない団地の最上階は4階、そこまで階段で上がっていく。家に入る途中でお向かいのおばさんに声をかけられた。 「あら、ゾロリちゃん」 「おばさん、おかえりなさい」 ゾロリがきちんと挨拶をするとおばさんはにっこり笑ってくれた。 「今日もゾロリーヌさんは遅いの?」 おばさんの問いかけにゾロリは顔を暗くしつつもうんと頷いた。 「三月は…なんだっけ? なんか忙しいんだって」 「そうなの。ゾロリちゃん寂しいわね」 おばさんの気遣いは嬉しかったが、ゾロリはううんと首を振る。 「ママはあたしのために働いてくれてるの。寂しいって言っちゃいけないんだ」 「ゾロリちゃん…」 こんなに幼い子供が気丈に振舞っているのに感じ入ったのか、おばさんの目が少し潤んでいる。 「ちょっと待っててね、ゾロリちゃん」 そう言うとおばさんは急いで家に入り、なにやらごそごそと音を立てていた。しばらくしておばさんは小さな器を持ってきてくれた。 「昨日炊いたかぼちゃの煮物よ。少し甘く作ったからゾロリちゃんでも食べらるわよ」 「ありがとう、おばさん。あたしもママもおばさんの煮物、大好きだよ」 ゾロリがそう言うとおばさんは彼女の頭をそっと撫でた。 「ゾロリちゃんはいい子ね。なにかあったらすぐにおばちゃんに言うのよ?」 「うん。いつもありがとう」 おばさんはにこにこと自分の家に入っていった。ドアが完全にしまるのを見届けてゾロリも家の中に入った。そして内側から鍵をかける。 夜遅くまで戻らない母親が言い置いていることをゾロリは思い出していた。 家に帰ったら真っ先に鍵をかけること。誰がきても簡単には開けないこと。火は絶対に使わないこと。なにかあったらお向かいのおばさんを頼ること。 ママとのお約束だ。ゾロリーヌも彼女の安全を考えてマッチやライターを彼女の視界には入れなかった。ストーブも使えないようにしてあるし、ガスも元栓を止めていた。夕飯はレンジでチンすれば食べられるようにしてくれている。お風呂もお湯を入れればいいだけのこと。 ゾロリはもらったかぼちゃの煮物をテーブルの上に置いた。 「…今日はカレーなんだけどな」 冷蔵庫には皿に盛られたサラダが、ラップをされた状態で入っていた。 カレーを別皿で温めてからご飯をよそい、ルーをかける。全部炬燵の上に載せると、牛乳とコップを持って炬燵に入った。 電気である炬燵だけが、幼いゾロリが使える唯一の暖房機だった。 ゾロリは一人で食事をする。母親と一緒に食事をするのは日曜日だけだ。それもここ数週間は出来なくなっている。 「ママ、今日も遅いって言ってたなぁ」 皿に触れたスプーンがかちゃりとなった。好き嫌いのないゾロリはサラダもきちんと食べて、後片付けもちゃんとやっている。 それからまたひとりで宿題をして、テレビを見て、お風呂に入る。 9時には寝ていていいと言われていても一人で寝るのもつれなくて、ゾロリはお気に入りのくまのぬいぐるみを抱いたまま炬燵に入っていた。 なんとなくテレビを見ていたゾロリはついうとうとしてしまい、そこからふと記憶がなくなった。 「…リちゃん、ゾロリちゃん?」 誰かに起こされて…あれ、寝ちゃってた? ゾロリがゆっくり目を開けると心配そうに自分を見つめる母の姿があった。 「ゾロリちゃんたら…」 「ママ。ごめんなさい、あたしママを待ってるつもりじゃなかったんだけど…」 時計は11時を回っていた。 うなだれるゾロリに、ゾロリーヌはにっこり笑ってくれた。 「いいのよゾロリちゃん。さ、風邪を引くといけないからはやくベッドに入りなさい」 「はーい。おやすみなさい、ママ」 ゾロリは母におやすみのほお擦りをして自分の部屋に入っていった。 こうやって二人三脚で暮らしてきた。火を使わないで出来る家事ならゾロリも徐々に覚えてきたし、ご飯を炊いたり野菜を切ったりするくらいならできるようになった。 そんなある日。 久しぶりにゾロリーヌが休みをとった。 「どこかに行きましょうか、ゾロリちゃん」 「え、でもママ…」 洗濯物を一緒に片付けながら、ゾロリはまじまじと母の顔を見つめた。 「どうしたの? お出かけしたくないの?」 「ううん、行きたいよ。でもママ疲れてるんじゃないの?」 ゾロリがそういうと、ゾロリーヌは一瞬きょとんとして、それからふふふと笑った。 「大丈夫よ、子供がそんな心配しないの」 「でもママ…」 「大丈夫よ。ママは大丈夫。さ、ゾロリちゃんはどこに行きたい?」 添えられた母の手はふわりと温かだった。 ゾロリはしっかりと母を見つめ、やっと表情を和ませた。 「どこでもいいよ。あたし、ママと一緒にいられるならどこでもいい」 ゾロリはばっと母親に抱きついた。ゾロリーヌも我が子をしっかりと抱きしめてその柔らかな金の髪を撫でた。 「ママ…」 「ゾロリちゃん」 今度の日曜日、お弁当を持ってピクニックに行くことになった。 「いい天気でよかったわね、ゾロリちゃん」 「うん!」 ふたりは手を繋いで春の土手を歩いていた。ゾロリーヌの手にはバスケットに入ったお弁当が握られている。ゾロリはお菓子が詰まったリュックを背負い、肩から小さな水筒をかけている。 母親のことも心配だが、大丈夫だと言ってくれているのでゾロリも安心してピクニックに来たのだ。 「お弁当にしましょうか」 「うん!」 ふたりはレジャーシートを広げてそこにバスケットを置いた。ゾロリもリュックと水筒を下ろして座った。 赤いスニーカーを脱いで、ゾロリは足を投げだす。ゾロリーヌも靴を脱いでシートの上に座った。 ふと、ゾロリは母の靴を見た。 くたびれていて、色もあまりよくない。以前見たときはもっと綺麗な薄紫の靴だったのに、仕事で履き潰しているのか、決していい状態とは言えなかった。服だって毛羽立ちがひどくて、あんまり綺麗じゃない。母自身もあまり化粧をしていないのか、そんな余裕もないのか、薄いピンクの口紅をしているだけだった。 忙しくて、疲れてて。 こんな母を見るたびにゾロリは空を見上げるのだ、空に消えた父に祈るように。 (早く帰ってきて、パパ…) パパがいてくれたらママも楽が出来る、あたしも寂しくないの。 「ゾロリちゃん?」 「ママ、あたし…」 「どうしたの?」 薄く笑みを浮かべる母に、父のことを言えなかった。 でも心の中にあるもうひとつの気持ちを、ゾロリは必死に紡いだ。 「あたし、早く大きくなる。大きくなってママを楽させてあげるの」 「ゾロリちゃん…」 ゾロリはこっくり頷いた。 そんなゾロリを、ゾロリーヌはしっかりと抱きしめた。 ふたりは、泣いていたのかもしれない。 親を思って我慢を重ねる子と、子を思って働く母と。 その想いは深く優しいのもだった。 「…おなかすいたね」 「そうね。お弁当食べましょう」 「うん」 それからふたりはなんでもなかったかのようにお弁当を食べた。はりきったママがおにぎりと玉子焼き、から揚げにミートボールを作ってくれた。果物はゾロリが小さな手で一生懸命詰めた。 「おいしい?」 「うん! ママが作ってくれたんだもん。おいしいよ」 ママが一緒だから、とは言わなかった。言えばそれは寂しいんだと言っているのと同じだからだ。 「あらあら、ご飯粒が付いてるわよ」 そっと触れた指先の温かさ、優しい笑顔。 ずっと、ずっと。 母と一緒にいたい。 ゾロリはにっこりと笑った。 「あ、たんぽぽだ。ママ、たんぽぽが咲いてる」 「本当ね、たくさん咲いているわね」 春は黄色い花からやってくる。黄色い花が咲いてしまえば今度は桜が咲くのだ。 「たんぽぽはね、根っこがものすごく太くて長いの。そして花を咲かせたら、今度は白くてふわふわの綿毛になるのよ」 「うん、知ってる。ふーってやったことあるよ」 「それがたんぽぽの種よ。たんぽぽはそうやって種を飛ばすの」 「ふーん」 ゾロリーヌは傍らの我が子をそっと撫でた。 「ママ?」 「ゾロリちゃんはたんぽぽみたいな人になるのよ」 「たんぽぽみたいな人?」 「そう、明るくて綺麗で。でも大地にしっかりと根を張る強い人にね」 「…うん!」 ゾロリの屈託のない笑顔に、母も安心して笑った。 それから数日後、ゾロリーヌはたんぽぽの綿毛のようにふわふわと空へ消えていった。 思えば、母は自分の体のことを知っていたのかもしれない――もう、長くはないのだと。 ほの暗い闇から、ゾロリはゆっくりと意識が明るくなるのを感じた。 (…寝てたのか) 旅先の野原があまりにもいい景色で、しかも暖かだったからついうとうとと眠ってしまったらしい。 「目が覚めたかい?」 「ほえ?」 声がしてふとその方をむくと、となりでガオンが横になっていた。 ゾロリはひどく驚いて口をパクパクさせている。ここに来た時にはいなかったはずの男が横にいればそれは驚くに違いない。 彼女が慌てて起き上がろうとするのをガオンはそっと制した。 「寝てていいよ。ほら」 「ん?」 ガオンが示した方向を見ると、イシシとノシシも手を繋いでぐっすりと眠り込んでいた。 「遊び疲れたんだろう。私が来たときにはここで3人転がっていたからな、死んだのかと思ったぞ」 「死ぬわけないだろう、この俺様が」 「ふむ、その言葉はときどき妙に信憑性があって怖いな。だが私は君をなくしたくないからね」 そういうとガオンは上体だけを起こしてゾロリにそっと口づけた。 「…会いたかったよ」 「…俺もだよ」 ゾロリはガオンの首筋に抱きついてもう一度その唇を触れ合わせた。 「優しいね、お前は」 「なんでだい?」 「会いたいときに現れるな」 「いつもいつもそう優しくできればいいがね」 ガオンはふと苦笑を漏らした。 博士としての時間よりも王子としてのそれのほうが彼を束縛している。こうして出会えることもふたりにとっては小さな奇跡なのだ。 「春はいいね、ガオン」 「ああ、温かくて野宿には最適なんだろう? 山菜とやらも取れるし」 「それもあるけどさ。こうやってお前をいることをすごく幸せに思えるからさ」 冬に始まった恋は今もこうして自分のそばにいる。 母を失った変わりに恋人を得た、春。 ゾロリはガオンの髪にそっと手を差し入れた。柔らかでつややかなダーティブロンドの髪を指に絡ませる。彼の青い瞳は春の空の色に似ていた。 「あのさ、ガオン」 「ん?」 「…お前が好きだよっ」 ゾロリはガオンに飛び掛る様に起き上がった。ガオンはそんな彼女を受け止める。 「…好きだよ」 「ああ、私も…だよ」 ガオンの胸に顔を埋めていたゾロリはふと横目で空を見上げた。そして瞳を掠めた白いものに気がついてふと顔を上げる。 「あ…」 「たんぽぽの綿毛だね」 ガオンの腕の中にいたゾロリはどこか呆けたようにそれを見ていた、視界が潤んだのにも気づかずに。 突然のゾロリの涙にガオンは一瞬ぎょっとしたが、それでも慌てずに彼女の目尻を拭った。 「あ…」 「何か、悲しい思い出でもあるのかい?」 「…ママの死んだのがちょうど今頃さ。もう少ししたら命日だから、お墓参りに行くよ」 「…そうだったな」 去年の今頃、偶然であった時が彼女の母親の命日で墓参りに来ていたのを思い出した。そのときの彼女のすべてを、ガオンは忘れない。 「ゾロリ」 「なに?」 「私も一緒に行っていいかい?」 「…うん」 ゾロリはガオンの腕の中でゆるりと目を閉じた。 春の野に遊ぶのは蝶と子供と、そして緩やかに結ばれた恋人たち。 好きだと何度も繰り返す 離さないよと抱きしめる いつかは別れいくのだと分かっていても その日までずっとずっと一緒なんだ 春は出会いと別れの季節 ひとりで遊んでいた私はもうどこにもいない でもね、ママ。 小さくて可愛い二人の弟子と、たくさんの友達と そして優しい恋人がそばにいるから なにも心配しないで ほらそこに たんぽぽが咲いてる ≪終≫ ≪脳細胞の枯渇と現状維持≫ 小さいころのゾロリせんせを書いてみました。白いシャツに赤いスカート、鍵っ子は萌えですな(待てこら)。 今回のモチーフは緒方恵美さんのアルバム『Winter Bird』より『たんぽぽ』です。タイトルもここからいただきました。 最近脳細胞の枯渇をひしひしと感じます。なので現状維持しなくちゃ、細胞数を維持しなくちゃ。 |