恋路十六夜 それを運命と呼ぶなら呼ぶがいい 風と光に溢れた森のほぼ中央に大きな宇津保を持った楠がありました。 その宇津保のなかでひとりの女性がすやすやと寝息を立てています。白の水干に紅い袴をつけた彼女は鎮守の森の狐姫と呼ばれる、国津神(くにつかみ)のひとりでした。 が、自由奔放な狐姫は今日もすやすやと寝息を立てています。 夜が明ける少し前に、狐姫は目を覚ました。太陽の金を冠した髪に闇の瞳を持つ姫は狐の耳をピンと立ててもそもそと起き出しました。 「ん〜〜」 姫はうーんと背伸びすると宇津保から這い出して空を見上げます。 今日は一日いい天気になりそうだとわかるのです、何故なら朝焼けしないのは晴天の証拠だからです。 姫はそれからゆっくり歩いて森の見回りに行きます。途中で榊の若枝を摘んで泉の水に浸すとこぼれた白玉が新芽となって吹き出しました。昨日は風が強かったから少し弱っているものがあるかもしれないと、姫は森の少し端まで出てきました。 「やっぱり少し痛んでる…」 姫はそういうと持っていた榊を振りかざして木の幹に白玉を注ぎました。すると木は若々しい光を放ってその命を回復させました。姫は満足そうに微笑むと次に治療が必要な木を探して歩くのです。 姫はそうやって日長一日過ごしています。 晴れた日は森を歩いて他の住人たちと話しこんだり、見回りをしたりして。 雨が降る日は宇津保にこもって笛を吹いたり糸を紡いだりして。 姫は森から一歩も外に出ませんでした。 ある日姫がいつものように森を散策していると小鳥たちが集まってなにやらおしゃべりしているのに気がつきました。 「どーした?」 姫がひょいと顔を覗かせると鮮やかな瑠璃色のるりびたきが姫の肩に止まります。 「いえね、姫様。ここからちょっと行った泉の先に知らない男が転がってるのさ」 「男?」 「熊に頼んで運び出してもらおうかって話してたところさ」 「ふーん…」 別にこの森を荒らされなければ外から誰が来ようとも構わないのですが、流石に冬近い今日この頃、凍死されては面倒と姫はその現場に向かうことにしました。 小鳥たちに案内されていってみると、確かに男がうつ伏せに倒れていました。 「これ?」 「そうです、姫様」 泉のほとりに倒れていた男は蜂蜜色の長い髪を後ろに束ねていました。着ているものもちょっといいものです。空に住まう天上人かも、と小鳥たちが話しているすぐそばであろうことか狐姫は男を蹴飛ばしてしまいました。小鳥たちはぎゃっと声をあげます。 男は姫に蹴られてごろりと転がりました。 「ひひひひひひ、姫様!?」 「なななななな、何してるんですかー!?」 「いや、顔を見ようかなーって」 姫は男を蹴ったことに関してあんまり罪悪感はないようです。仰向けになった男は端正な顔立ちをしていたので小鳥の中には彼に見惚れるものもありました。 男は狼の耳をもち、よく見れば上等の絹を着ていました。 「んー、怪我はしてないみたいだけど…」 姫はなおも足で男を捏ね繰り回しました。 「ぎゃー、姫様ああああああああああ」 「せめて木の枝にしたげてー!!」 「えー、面倒くさい…」 「姫様!!」 小鳥たちにピーチクパーチク叱られた姫様は憮然としながらも男を抱き起こしました。美しい狐姫と正体不明の美青年が寄り添う姿は美しい絵巻のようで、小鳥たちはまたしても感歎の声を上げました。けれど姫はこういうときどうしたらいいのかよくわからなかったので、とりあえず男に気がついてもらおうとしました。 「こら、起きろ」 そしてさらにあろうことか、姫は平手で男の頬を打ったのです。それも何度も。 こうなると美しさも萌えもあったものではありません。 ぎゃーぎゃーうるさい小鳥たちの声に、男はようやく目を覚ましました。 「…ここは?」 男は姫の膝の上で目を開きました。彼の瞳は空と同じ色で、姫が大好きな色でした。 「ここは鎮守の森。あんたはここで倒れてた」 そう言われて男は姫の膝の上からあたりをくるりと見渡しました。深い色に包まれたここは木漏れ日が落ちてくる美しい森でした。 「そうですか、こんなところまで落ちてしまいましたか…」 「ということは天上人?」 男は姫の膝から頭を上げるとその勢いで起き上がりました。そして居住まいを正した姿は凛としていかにも高貴な雰囲気を醸し出していました。 「私は冬の夜空を司る天狼王と申します。天の浮船で移動中にうっかり落ちてしまいまして」 天狼王だと名乗った青年に、小鳥たちはまたきゃあきゃあ騒ぎ始めました。天狼王は先ほど名乗ったとおり、冬の夜空を司る天津神(あまつかみ)であり、その姿は狼、つまり大神なのです。 こんな高貴な神にお目にかかる機会などほとんどありません。 「私は鎮守の森の狐姫。この森を司っている国津神です」 姫はペコリと頭を下げました。 そして姫はゆっくり立ち上がるとそばにあった榊の小枝をとって彼に前に差し出しました。 「お怪我はないようですが、天津神様ともあろうお方が落ちてこられようとは。どうぞお清めを」 「は、これはどうも」 王は姫から榊を受け取ると左右の腕から体全体をめぐらせました。 彼の衣の穢れは落ち、王としての輝きを取り戻しました。が、王は体に小さな違和感を覚えていました。 「あの…」 「はい?」 「背中が痛いのですが…」 王の問いに、小鳥たちは一瞬言葉を詰めましたが、姫はにっこりと笑いました。 「さあ、落ちた時に打ち付けられたのでは?」 いけしゃあしゃあとのたまう姫に、小鳥たちはいよいよ言葉を失いました。 王の背中の痛みは、最初に姫が蹴り飛ばしたあとだったのです。 とりあえず、これが王と姫の邂逅でした。 王は姫に案内されるままに森を歩いていました。が、姫にしてみれば案内しているという感覚はありません。なぜなら彼女はいつものとおり森の散策をしているに過ぎないからです。 「あのさー…」 「はい?」 「…上に帰らなくていいの?」 面倒くさくなった姫は気取った言葉使いをやめました。王も別に気にとめてはいませんでした。 「ええ、日が沈む前に戻ればいいので。地上に来たのは久しぶりですから、もう少しゆっくり見たいのですよ」 「王は地上のお生まれで?」 「いいえ、生まれは天上ですが、ときどき遊びに」 「さよですか」 姫にしてみれば王にはとっとと帰ってもらいたかったのですが、彼にそのつもりが毛頭ないので仕方なく彼の好きなようにさせておきました。 「姫は、ここにお一人で?」 「ええ、生まれた時から。でもときどき国津神様たちが来るし、友達もいっぱいいるから寂しくないけどな」 「そうですか…」 かさ、と足元の病く葉が鳴り、王が立ち止まったのだとわかりました。姫がゆっくり振り返ると彼は寂しそうに笑っていました。 「私は、ずっと一人でしたから」 天狼王として生まれ、寒々とした冬の夜空に君臨する王は、ひとりでした。傅くものは多くいても、それだけでした。 「王様…」 「姫も『己が名を持たぬもの』でしょう?」 言われて姫ははっとしました。彼女も生まれたときから狐姫が呼称だったのでさほど気にとめたこともありませんでした。けれど自分が彼の名を呼ぶなら王様と、呼ばれるのなら姫としか。それ以上に何もありませんでした。 「…いいのです。それが定められたものならば」 「王様はもしかして、友達が欲しいとか?」 姫の言葉に、王はゆっくりと目を閉じました。 「欲しい…かもしれません」 王の声は低く悲しげでした。姫は悲しいことや寂しいことが大嫌いでしたから、ひとつ小さな決心をすると王の手をぎゅっと握りました。 「ひ、姫?」 王は驚いて声を上げましたが、姫はその手を離そうとしませんでした。 「私が友達になってやるから、そんな顔するな」 いくぞ、と手を引いてくれた姫の手は温かく柔らかでした。王はこんな温かな手があることを忘れかけていました。彼は姫の手をぎゅっと握り返すと、そのままにっこりと笑いました。 ようやく笑ってくれた王に姫は安心して手を繋いだままふたりでゆっくりと森を歩きました。 夕刻になると、王は名残惜しそうに姫の手を離しました。 「またここに来てもよろしいですか」 「うん、いいよー」 姫の軽い反応に王様は苦笑しました。が、その屈託のなさに王は自分の中に温かさが戻ってきたことを知りました。 王は階を上って天上へ帰っていきました。 夜になって姫君も王様も一人になりました。すると二人でいた時間がきゅうにきらきらと輝きだしたのです。 姫様は地上からはるか遠く輝く天狼星を見つめます。 星は王の寂しさを体言するかのように青白く、冬近い天空にぽつんと輝いていました。天狼は全天一明るい星ですから、姫は簡単に見つけることが出来ました。 そして言葉の端で『寂しい』と呟いた王の顔を忘れることが出来ませんでした。 王も、遠い空の上から姫の森を見つめていました。 地上は暗く、月や星の光だけに照らされていて、とても心もとない世界でした。けれど何故か姫のいる森だけは明るく見えました。 「姫…」 王の呟きの中に小さな思慕の情が零れました。 握ってくれた手の温かさ、優しい笑顔、美しい髪と瞳。王の心はすでに彼女で占められつつありました。 天空の玉座は彼女がそばにいてくれることで寂しくなくなるのではないかと。 王はひとりで笑いました。 翌朝、姫は妙な視線を感じて目を覚ましました。 「んにゃ?」 「おはよう、姫」 姫を見つめていたのは天狼王でした。姫はなんで王がいるのか、自分はまだ寝ぼけているのだと思い、再び眠りにつこうとしました。が、王の手が優しく伸びてきて姫の髪を撫でるので、姫はそこにいるのが紛れもなく天狼王本人であり、寝ぼけていないのだと自覚しました。 そして目を擦りながら起き上がり、しばらくぼーっと目の前の王を見つめ、それからはっと目を見開きました。 「ぎゃー!!!!」 姫は思わず声を上げて後ずさり、宇津保の中で飛び上がろうとしたので激しく頭を打ち付けました。 「あいたっ」 「姫!」 王は思わず姫を抱き寄せて頭を撫でました。 「大丈夫ですか、姫!?」 「大丈夫、大丈夫…」 姫は自分で頭をさすりながら涙目で王を見つめました。 「〜〜〜……なんでいるの?」 「夜が明けたら暇なんです。姫は遊びに来ていいとおっしゃってくださったから」 「確かに言ったけど昨日の今日だぞぉ…」 姫がそういうと、王は何も言わずに姫の目元に唇を近づけて涙を吸い取りました。姫は突然の出来事に王を突き飛ばそうとしましたが、彼はしっかりと姫を抱きかかえていたので出来ませんでした。 「い、いきなり何を」 「姫をお慰めしようかと。痛いのは治りましたか?」 王は姫の頭をよしよしと撫でました。その手がなんとなく心地よくて、姫は思わず頷いてしまいました。 「あ、朝餉は?」 「まだです。姫にお会いしたくてとるものもとりあえず」 姫は王の胸に抱かれたまま、顔を真っ赤にしてぼそぼそと何かを言いました。 「朝餉の支度を…」 「ご一緒しても?」 姫はこくこくと頷きました。 「宮にいたほうがもっといいものを食べられるんじゃないのか?」 「どこに居ても恵みは同じですよ。それにひとりよりあなたと一緒のほうが楽しいのです」 森が与えてくれる恵みを丁寧に収穫しながら姫は籠を抱えて歩き、そのとなりには同じく籠を背負った王がいました。楽しそうな王の笑顔に、姫も嬉しそうに笑いました。 「着いてきたいって言ったんだから手伝ってもらうぞ。月に一度の収穫の日に来たのが運のつきだったな」 そういってカラカラ笑いながら、姫は木の実に手を伸ばしました。が、飛んでも跳ねても木の実に届きません。しばらくぴょこぴょこ飛んでいると、隣にいた王がそっと手を伸ばして木の実を取ってくれました。 「どうぞ」 「…ありがとう。食べたかったんだ」 狐姫は差し出された木の実を丁寧に受け取るとそっと懐に仕舞いこみました。 王は姫が喜んでくれるならと、隣になっていた木の実にも手を伸ばしました。すると姫は王の腕にぶら下がりました。 突然かかった重力に王は少し目をぱちくりさせました。 「…姫?」 「それはダメ。取っちゃダメ」 姫はブンブンと首を振ってキッと王を見据えました。王は姫の言葉に従って腕を下ろしました。 「何故です? 取ってしまったほうがよいのでは?」 「この森で生きるほかの動物のためだよ。それにこの木が子孫を残す必要があるだろ?」 だから必要な分だけ取ったら深追いはしないのだと姫は言いました。だから姫は小さな籠だけを持っていたのです。 「じゃあ、何で私はこんな大きなのを?」 王の疑問ももっともなので姫はにっこり笑いました。 「雰囲気」 「…は?」 「だから、雰囲気」 姫のやることはよくわからない、と王は思いました。けれどそんな姫が面白くて王はつい噴出してしまいました。 いきなり笑い出した王に、姫は少し不安になりました。昨日蹴り飛ばした時に頭を打ったかもしれない、と。いや、それ以前に打ち所が悪かったのかも、と。 風が森の中を吹き抜けました。秋の風は姫の肌をなで、冷やします。王はすぐに姫を抱きしめました。 「姫…」 姫は王の腕の中でじっとしていました。 風が過ぎても、王は姫を放しませんでした。 「て、天狼王…」 「お寒くはありませんか、姫」 「い、いつものことだ。こんな風に吹かれることも…」 「木の実が取れないときはどうなさるのです?」 「…リスが落としてくれることもあるけど、大抵諦めてる。だから王様が取ってくれた時は…」 姫はぎゅっと王に抱きつきました。 「嬉しかった」 天狼王も、狐姫も悟ってしまいました。長い間自分が一人でいたことに。そして出会ってしまった今、もう離れることは出来ないと。 「…行こう。まだまだ手伝ってもらうことはいっぱいあるんだから」 姫は王の腕を乱暴に払いのけ、彼から離れました。でも払いのけただけでその手はしっかり握ってあげました。 彼の行為が嫌だったのではなく、ただ慣れていないだけだということに王が気がついたのは少しあとのことでした。 夕刻になると帰り、日が昇るとやってくる。 王は天上と地上を毎日通っていました。時が流れ、季節が秋から冬に変わるころ、王はしばらく来れなくなるといいました。 「雪が深くなると天上に戻れなくなるかもしれません。寂しいのは山々なのですが…」 王は寂しそうにそう言いました。姫もそれはうすうす感じていました。 本格的な冬になれば彼は天狼王として職務を果たさなければなりません。一日たりとも欠いてはならぬ、星々を見守る仕事でした。 「姫、あなたを一人にしてしまうのが辛いのです」 「今までだって一人だったよ」 宇津保にこもって外に出ない、それが姫の冬でした。 白銀の世界が二人を隔てようとしています。 永遠とも思える時を一人で過ごすことに恐怖を覚えた今、王は姫に手を差し伸べました。 「姫も、一緒に宮へ参りませんか」 「それは、友として?」 王の言葉に姫ははっきりそう言いました。答えによっては決心しなければなりません。 王は姫の問いに答えます。 「いえ。友ではなく、妻としてそばにいて欲しいのです」 ああ、やはり。 姫はそっと目を伏せました。相手が王以外の男でもいつかこういう時が来る。そう思っていました。 自分だってこの人のそばにいたいと思いました。けれど、けれど…。 王は姫の手をとって、その上に自分の手を重ねました。 「天狼王…」 切なく自分を見つめる瞳に王は思わず姫の手を強く握りました。 「姫、私はあなたを愛しています。初めて出会ったときからわたしの心はあなたの物だといっても過言ではありません」 「天狼王、それは…」 姫は顔を伏せました。愛しているなどと言われたこともないし、ましてや恋をしたこともありませんでした。 王の申し出は非常に嬉しかったのです。 けれど姫はその場でうんとは言いませんでした。 「少し、考えさせて」 「私がお嫌いですか?」 「そんなことない、あなたのことは…嫌いじゃない。でも…どうしたらいいのかわからない」 姫はそう言って口元を袂で覆いました。 王はそれ以上無理強いはしませんでした。少なくとも嫌われているわけではないとわかると安心できました。 彼は姫をそっと抱き寄せました。 「王様…」 王は姫に口づけました。そっと触れただけなのに随分長いことそうしていたような気がしました。 目を閉じ、近づけあった唇に互いの思いだけが紡がれました。 「姫、春になったら私も職務から離れられます。そのときは天上に咲く花々をたくさんお持ちしよう」 「…待ってる」 ふたりはもう一度口づけを交わしました。 そして王は後ろ髪を引かれる様に森をあとにし、階段を上って天に帰って行きました。 姫は森の端まで出て、そんな王の後ろ姿をずっとずっと見守っていました。 天狼王の姿が見えなくなると、姫は顔を覆って森の奥へと走り去りました。そして突っ伏して泣き始めました。 姫も、王を愛していました。 先ほど王に告げた言葉は間違いではありません。ずっと一人でいたから誰かを愛することも、愛されることも知らずに生きていました。 王のことは嫌いではありません。むしろ大好きでした。 けれど。 (……私は) 冬が厳しく、雪が深くとも、姫は。 王のそばにいたいと思うのに。 姫の心には寂しいと言った王と、愛していると言った王、ふたつの顔が浮かんでいました。 王を思えばこそ、姫は彼のそばにもっともっといたいと思うのでした。 しばらくしくしくと泣いていた姫はばっと顔を上げると泉の水で顔を洗いました。泉の水は冷たく、肌を切りそうなほどでしたが、それがかえって姫の決心を固くしました。 (待ってろよ、王様…!) 春までなんて、待てない。 姫はおそるおそる森の外へ足を踏み出しました。 実は姫は森から一歩も外へ出たことがありませんでした。踏み出した途端、姫の体に小さな痛みが走ります。彼女はぴくんと身を震わせました。 (階まで着けば何とかなるかな…) 姫はまだ雪に覆われていない大地をしっかりと踏みしめて天上へと続く階段を探し当てました。 見上げれば遥か高くまで、その階段は続いていました。 「ふわー…先は長いなぁ…」 けれど王はこの階段をなんでもないように上っていました。姫はそっと段に足を乗せました。するといきなり段がすーっと動き始めたので姫はびっくりして慌てて飛び乗りました。よくみると階段の両脇にある壁にしっかりと『自動』と書かれていました。 「自動かよ!」 姫の突っ込みは誰にも聞かれずに空に消えていきました。 階段に座って地上を見つめます。住み慣れた鎮守の森がだんだん小さくなっていくのが見えました。 (とうとう出てきちゃった…今頃大騒ぎになってるかな) 姫は頬杖をつきました。静かに天上へと運んでくれる階段に身を預け、目を伏せて考え事をしています。 その横顔は愁いを帯びて、なお美しく見えました。 恋しい王のもとへ行くはずなのに。それは嬉しいことのはずなのに。 (天狼王…) 出会わなければよかったとは思えませんでした。ただ、まぶたの裏に天狼王の顔だけが浮かんでいました。 どのくらいそうしていたのでしょう。 いきなり姫の体ががくんと後ろに倒れました。勢いで姫は後頭部を打ちつけます。 「いったー…なんだ?」 姫は頭をさすりながら身を起こしました。いつのまにか止まっている階段、それは天上へとたどり着いた証拠でした。 「着いたのか。止まるなら止まるって言えってんだ!!」 姫はべちべちっと手すりを叩きました。そして何事もなかったかのように王の宮を探すことにしました。 天上はすでに冬を迎えていました。夏の間に咲いた花の花弁が白く枯れて粉になり、地上に雪となって降り積もるのです。 姫は雪花を踏みしめて王の宮を目指しました。親切な天上人は姫の問いに優しく答えてくれました。 「天狼王の瑠璃宮はこの天の川のずっと上っていけばわかりますわ」 天の川から離れてはいるけれどすぐにわかるとのことでした。姫は天上人に礼を言ってそれからまた歩き始めました。 しばらく歩いていると姫の目指す瑠璃宮が見えてきました。天上では王の宮は瑠璃色に輝いています。それが地上からは青白く見えたのです。 「立派なもんだなぁ…でも疲れた。もう歩けない…」 姫はへなへなとその場に座り込んでしまいました。 「寒いー、おなかすいたぁ…疲れたぁ…」 うにゅ〜と膝を抱え、頭を垂れた姫の耳に、なにやら音が聞こえました。 「ん?」 姫の耳がぴくぴくと動きました。そしてぱっと顔を上げました。 前方から走ってくる馬に、姫は何事かと思いましたが、もうどうでもよくなってその場にばったりと倒れてしまいました。 「姫!!」 聞きなれた声のようですが、姫は既に気を失っていました。 ほんのりとした温かさと香ばしい匂いに姫はゆっくりと目を開けました。 「あれー…ここは?」 「やっと目が覚めましたか」 姫は自分の置かれている状況をゆっくりと把握することにしました。 床に敷かれた畳の上にさらに真綿の布団を敷いて寝かされ、自分の上にはさらに幾重にも布団が掛けられていました。部屋はほんのりと暖かく、でもすぐ近くから冷たい視線を感じました。 「姫!!」 狐姫はびくっと身を震わせ、慌ててと飛び起きました。 そこにいたのは天狼王でした。姫の傍らにあって、酷く怒った顔をしていました。 「あ、天狼王…」 「あ、天狼王。ではありません! 知人の天上人が可愛らしい狐の姫が私の宮を聞いていると知らせてくださったからよかったものの。下手をしたら雪花に覆われて凍えていたのかもしれないんですよ!」 王は姫をぎゅっと抱きしめました。 「…春まで、待てなかった」 王の腕の中で、姫はぽつりと呟きました。 「姫…」 「春まで待っていたら、気が狂いそうだった!!」 姫は王の胸にすがり付いて叫びました。そしてえぐえぐと嗚咽を漏らしました。王はそんな姫の肩を抱いてそっと寄せ、背中をさすりました。 「すみません、姫…怒鳴ったりして…」 姫は王の胸のなかで泣き止もうと必死でした。ただ会いたかっただけ、それだけでした。 そして姫がゆっくり顔を上げると、王は優しく微笑んでいました。 「姫…私の姫…」 「天狼王様…」 王は姫を抱きしめたまま口づけ、そのままゆっくりと横たえました。 永遠とも思える、蜜月の最初の夜でした。 翌朝目を覚ましたのは、姫のほうが先でした。 昨日この宮の奥に運ばれて、そのままそこで眠ってしまっていたのでした。几帳の奥で姫はもそもそと起き出します。そして自分が薄い木綿の小袖しか着ていないことに気がつきました。 (あ、そっか…) 姫は傍らに眠る王の顔をそっと見つめました。 (私たち、夫婦になったんだっけ…) 姫は胸元をきつく合わせながら、王の頬に軽く口づけました。金色の髪がさらりと揺れて王の頬を撫でました。 王は小さく動いてまた寝息を立て始めました。初めて見る彼の寝顔を、姫は興味津々に見つめていました。 伏せられた睫は意外と長く、肌の色は姫ほどではありませんが白く、精悍でした。 髪は柔らかい蜂蜜色で、触るとふわふわしていました。 こうなると面白くて、姫は王の観察を始めました。 もう一度布団にもぐって顔を近づけます。 中は温かくて、とてもいい気持ちでした。そして姫も王の顔を見つめながら心地よい温かさに再び眠りに着きました。 今度目を覚ましたのは天狼王のほうでした。 王は起き上がらずに、姫の顔をじっと見ていました。 朝早くに森を訪れると狐姫は大抵寝入っていましたから、寝顔はよく見ていました。けれど今日は特別な朝でしたから、王の感慨もひとしおです。 王は姫をぎゅっと抱き寄せました。柔らかく温かい姫の体は王の愛を一身に受けていました。 「ん…王様?」 「おはよう、姫…いや、大事な大事な妹の君」 王は姫を『妻』と呼びました。姫は顔を真っ赤に染めてもそもそと布団の中に隠れてしまいました。 そんな姫がかわいらしくて、王は彼女を発掘にかかりました。 「姫、どこですか?」 「いやー、きゃー」 王も布団の中にもぐって姫を抱き寄せました。 「お、王様っ…いやっ…んっ」 「愛していますよ、姫」 「…バカ」 王の嬉しそうな顔に、姫ははにかみながら応えました。 それから姫は瑠璃宮に留まって冬を過ごしました。天井の冬は地上ほど寒くはありませんでした。 「姫、今から卯津田姫殿が地上に雪を降らせるのだそうです。ご覧になりますか」 「雪を? 見たい見たい」 姫はおおはしゃぎで王の腕を取りました。 王は牛車に姫を乗せると雪花の庭に急ぎました。 卯津田姫は冬を司る神で、普段は地上のとある山に住んでいるのですが雪を降らせるときだけは天上に上ってきていました。 天狼王は先に車を降り、それから姫の手をとってゆっくりと下ろしました。 王と姫のほかには、侍女以外の誰もいませんでした。 「天狼王、それ狐姫様。わざわざお越しいただきまして」 「お呼びいただいて光栄です。卯津田姫様」 王に促されて、狐姫も挨拶をしました。卯津田姫は狐姫を見て驚きましたが、姫と目が合うと何も言いませんでした。 「さあ、雪降らせの舞をご覧あれ!」 姫がそういうとまず青女と呼ばれる薄水色の衣を着た侍女たちが霜を降らせました。そのあとで冬神・卯津田姫の舞です。 卯津田姫も青く染めた衣を纏い、長い袖で雪花を舞い上げました。 雪花はキラキラと光を浴びながら大地に向かって長い水の旅に出かけていきます。 こうして冬姫の舞が終わると、狐姫はぱちぱちと手を鳴らしました。 「すごい、綺麗…」 姫の素直な賞賛の言葉に、卯津田姫は気持ちよく微笑みました。 「ほほほ、いつものこととはいえ、誉めていただけると嬉しいですわ」 そういうと卯津田姫は狐姫の顔をじっと見つめました。 王が所用で少し席をはずしているうちに、冬姫はそっと狐姫に話しかけました。 「何故、姫様がここに? …よろしいのですか?」 冬姫の言葉に、狐姫はそっと頷きました。 「秋の終わりにあの方とお会いして……それで…」 狐姫はそっと胸元に手を当てました。 「そうですか。姫様は…」 「覚悟は出来ているんです」 冬姫はそっと俯きました。けれど狐姫は笑っていました。 「狐姫様、私は冬の終わりまで天上におります。季節が変わるころ、私と一緒に地上へ戻りましょう。そして一度森にお戻りになられませ」 「そのつもりです」 天狼王と――愛するあの人と、ずっと一緒にいたいから。 それから冬が終わるころ、姫は一度王に里下がりを願って地上に降りていきました。そして春神・佐保姫とともに天上に戻ってきました。 王は階段まで姫を迎えに来ておりました。 「姫、久方の地上はいかがでしたか?」 王は変わらず姫を迎えてくれました。 「うん、楽しかった。森もちっとも変わってなくて…」 「あなたがいなくて寂しかったのですよ」 「ごめん」 狐姫は王に抱きつきました。とても幸せそうな二人を見て、佐保姫はこれがずっと続けばいいと願いました。 そしてまた季節が春から夏に変わるころに、姫は佐保姫に付き添われて森へ帰り、今度は夏神・筒姫に導かれて戻ってきました。 春には、梅桃桜の野遊びを。 夏には、天の川で水遊びを。 秋には、紅葉を眺めて山遊びを。 季節は巡っていきました。 王はこの暮らしがずっと続くものと思っていました。 けれど秋が終わりを迎えたころ、姫は床に伏すことが多くなりました。 冬に入る前に、姫は森の様子がみたいからと、秋神・竜田姫とともに地上に戻りました。 「狐姫様…お体が…」 「竜田姫様、どうか天狼王には」 姫は自動で下る階段の途中で乾いた咳をしました。竜田姫は狐姫の背中を撫でながらとうとう森まで導いたのです。 竜田姫が去ったあと、狐姫は慌てて森の奥まで走りこみました。 そして泉のほとりに突っ伏すと酷い咳を何度も繰り返しました。 「ごほっ…ごほっ……」 胸の奥からこみ上げてくる鉄の味に、姫は一瞬息を詰めました。そして次の瞬間、姫の口から大量の血液が吐き出されました。 指の間からぼたぼたと零れる血を受けて、季節外れの彼岸花が咲きました。 (…限界かな) そう思っていた姫の背を、誰かが優しく撫でてくれました。 姫は驚いて振り向きました。 そこには心配そうな顔をした国津神がいました。 「国津神様…」 地上に住まう国津神、付喪神の長たる彼の名はずばりそのもの、国津神でした。彼は四季の女神たちから連絡を受けて鎮守の森へやってきていました。 姫は彼の顔を見て、慌てて血を拭いましたが、もう遅かったのです。 「しばらく天上へ行かぬほうがいい」 「国津神様…!」 姫は悲壮な表情を浮かべましたが、国津神はふっと目を閉じて姫を見ませんでした。 それが答えでした。 「このままでは姫の身が持たぬ。数日森へ戻っても元の体に戻らぬではないか。あの方のことを思うなら今年の冬はここで過ごすがよい」 「…いやです」 姫はきっぱりと言いました。 「私は天狼王の妻です。あの方のそばを離れませぬ。この身がどうなろうとも…」 「では、姫は残される王のことをお考えにならぬのか」 国津神の言葉は真理でした。もし自分が死ねば残される天狼王の悲哀はさらに深くなるだろう、もうどんな遊びでもどんな女性でも癒す事は出来ない、姫はそう思いました。 「それは…」 「寂しいだろうが、永らえるためにはそうしたほうがよい。そして春になったら王にこちらに来ていただけばよかろう。私がそのように文をしたためておこう」 それでも。どんなに国津神のいうことが正しくても。 狐姫は国津神の隙をついて森を出ようとしました。けれど国津神も伊達に神様をやっているわけではありません、姫の住まう鎮守の森を囲うように注連縄を張り巡らし、結界を作っていました。 姫はゴインと見えない壁に頭を打ち付けました。 「ぎゃふん」 「姫…あなたのやることはお見通しだ。冬の間はここで大人しくしていなさい」 姫はじーっと国津神を睨みましたが、彼は屈しませんでした。 「そんな目で見てもダメです」 そう言い残して国津神は森を後にしました。 (…一重じゃ姫に脱走されるな) 最終的に鎮守の森には注連縄が八重に張り巡らされておりました。 「そうでしたか…姫は…」 「あなた様を思うが故に、森を出られたのです。けれど姫は森を出て生きていける体ではありませぬ。姫は森の一部なのです。摘んだ花をどんなに清い水に挿しても枯れてしまうのと同じこと…」 国津神は狐姫に一通の文をしたためさせました。そして自分の書簡とともに卯津田姫に託しました。そしてその文は今天狼王の手の中にありました。 雲のように白い紙に姫の筆跡で王への溢れる思いを綴り、最後には会いたいとだけ記されてありました。 「姫…」 王は姫の手紙をそっと抱きました。 「天狼王、春になれば姫にお会いできます。それまでどうか…」 「ええ、わかっております。それで」 「姫へのお手紙なら、承りますわ」 冬姫の言葉に王は恐縮しながらも急いで一筆書き上げました。 天狼王から手紙を受け取った姫は、それをしっかりと胸に抱きました。 そして森の端ギリギリまで出ると空を見つめました。 「天狼王様…」 雪深い外界に出ることは適わずとも、王と姫を断ち切るものは何もありませんでした。 けれど姫の体は長い外界暮らしにすっかり弱っていたのです。 「天狼王様…私、幸せだったよ。あなたのそばにいられて」 その時間はとても短かったけれど。 「最期にひとめお会いしたかったな…」 愛しています、と。 巻紙に綴った手紙を読み返し、姫はぽろぽろと涙をこぼしました。 さよなら、とは言いません。 姫は手紙を丁寧に折りたたむとそっと自分の脇に置き、ひとつ息をつきました。 「…愛しているわ」 愛し、愛されるだけではどうしようもないことがあるのだと知っていても。 宇津保の中で、姫は静かに静かに眠りにつきました。 ようやく雪も止み、春になる頃。 天狼王は卯津田姫と共に姫の住まう森に急ぎました。 鎮守の森に張り巡らされた結界は姫が出られないようになっているだけで、外から入ることは簡単でした。 「姫はお元気になられたでしょうか」 「きっと元気に笑っていますよ」 王は勝手知ったる姫の森を、姫の住まいへと向かって歩いていきました。 見ると、そこに一人の姫が立ち尽くしていました。紅葉の衣を着た、竜田姫でした。当分巡ってこない秋姫の役目ゆえ、姫は狐姫の相手をしようと鎮守の森へ来てくれていました。 そして。 誰も、こんな光景は見たくなかったと思いました。 竜田姫の足元の宇津保に、姫が静かに座っていました。 「…竜田姫様?」 卯津田姫がおそるおそる声をかけると、竜田姫は泣きはらした顔で振り向きました。 「私がお訪ねしたとき、姫はもう…」 王は姫の体を抱き上げました。姫はもう冷たくなっていました。 「姫…姫…春になったのですよ、春になったら森をお訪ねすると、約束したではありませんか…姫……目をあけてください、笑ってください、姫…」 王は姫を何度も何度も揺すりました。 けれど姫はなんの反応も示しませんでした。 悲しむ王の横でふたりの季節姫も涙を流しました。ふと姫のいた宇津保をみると、一通の文が残されているのを見つけました。それは姫が天狼王に宛てた最期の手紙でした。 王は姫を抱いたまま手紙を開きました。 そこには、自分がもう長くないこと、会えないかもしれないこと、でもどうなっても王だけを愛しているという想いが綴ってありました。王が流した涙が姫の頬に落ち、流れていきました。 最後に会ったのは冬の初め、地上に戻るという姫を見送ったのがそうでした。 姫は『行ってきます』と言いました。結婚してから迎えた二度目の冬は別々に暮らし、春になったら会おうと約束したのに…。それは叶いませんでした。 「姫…私もあなたを愛しています……」 ぐらりと、王の体が揺らぎました。そして姫を抱きしめたまま王は倒れてしまいました。 「天狼王!?」 「天狼王、どうなさいました!?」 竜田と卯津田の姫は倒れた王の介抱をしました。けれど結局王の意識が戻ることはありませんでした。 姫の死からたった3日後、天狼王も姫の後を追うようにこの世を去ったのです。 「結局天狼王も悲しみのあまり死んでしまったのですね」 緑の黒髪を艶やかに結い上げて、純白の水干に緋の袴をつけた女神が酒をすすっていました。 そのすぐそばに国津神と綿津神(わたつみ)もいました。 ここは天狼王と狐姫の臨終の地、すなわち鎮守の森でした。 「姫と王を引き離したのは私ですからね。森に戻れば姫もよくなると思っていたのですが…もう遅かった。そうと知っていれば姫の命数が尽きるまで王のそばにいさせてやればよかったと…今でも後悔しますよ」 国津神はしみじみと言い、女神の横で同じく酒をすすっていました。 「では、父上が地上に留まられるのも、同じ理由で?」 国津神はわずかに苦笑して頷きました。 「妻が子を産んで死んでから…私は彼女が地の底に下りていったときから…いや、彼女に出会ったときからずっとそばにいると決めていましたから。彼女が去った後、私は根の国に行くことは出来ませんでしたが、ならばせめてここにいようと…」 「…王と姫と同じだのー」 深く強く想いあった天狼王と狐姫の蜜月はわずか16ヶ月でした。 すべての者がふたりの死を悼みました。そしてせめて来世で長く結ばれるようにと皆が願ったので、最上神であるこの女神は根の国に住まう母に書状を送りました。 母はそういう事ならと、天狼王と狐姫の御霊を縁付けて次代へ送り出してくれました。 その際に道ならぬ恋にならないよう、そして敵として別れることのないよう因縁つけも忘れませんでした。 「父上はいつまであのような学校を開いておられるおつもりです?」 「…あなたにはぼろに見えるかもしれませんけどね。あそこは私と妻が最初に暮らした土地なんですよ。それに今はおばけと呼ばれるようになった大勢の国津神や付喪神も放ってはおけませんからね」 もちろん姫のことも、と国津神は微笑んで見せました。父神の優しい笑顔に、大姫神も笑顔を浮かべます。 「…そうですね」 「王と姫がこっちに来たら安全に渡してやることとしよう」 「お願いします、綿津神さま」 若い太陽女神に頭を下げられ、綿津神は白いひげを撫でました。 天狼王と狐姫の恋はのちに『恋路十六夜』と呼ばれるようになりました。 さらに後になって、姫の暮らした鎮守の森は、人の世に追われたおばけたちが暮らすようになりました。 そして幾千億と時を越えて。 太陽と雪の山で二人はあの日のように出会うのです。 「ひどい吹雪だ…1メートル先も見えはしない…」 懐かしい気がするのは何故でしょう。 「ゾロリ、そんなところにいると冷えるよ。こっちにおいで」 夜空を眺めていたゾロリは背後からかかった声に笑顔で応えました。空色のドレスの裾をひるがえし、ぱたぱたと走り寄りました。 「ガーオーン」 ゾロリは冷たい指先をぴたっと彼の頬にくっつけました。 「うわっ…冷たいじゃないか、こんなに…」 ガオンはゾロリの手をとって自分の頬に押し当てました。あんまり温かいから、ゾロリは気持ちよくなってしばらくそうしていました。 「外に何か見えるのかい?」 「うん。綺麗な星が見える」 そういうとゾロリはガオンの手をとって窓辺へと導きました。 月のない夜でした。 「ほら、あの青白い星。すっごく綺麗」 「ああ、あれは大犬座のシリウスだね」 別名を天狼という星です。 そしてそのシリウスと、子犬座のプロキオン、そしてオリオン座のベテルギウスを繋いで大きな三角形を作ります。さらにオリオン座のリゲルも冬の夜空を彩りました。 「なあ、ガオン」 「なんだい?」 ガオンはゾロリを見つめましたが、彼女はじっと空を見ていました。 「あれ、シリウスっていうの? あの青い星。なんかすごく懐かしい気がする。ずーっとずーっと遠い昔にいたような…」 ゾロリはそういって目を閉じました。 ガオンはそんな彼女の肩をそっと抱き寄せました。 「君のことだから、以前暮らしていたのかもしれないね」 「…お前も一緒だったような気もするんだけど…まさかな。そんなはずないよなー」 「私は城以外で暮らすことはないんだが…君にそう言われるとそんな気がするから不思議だ」 ガオンは彼女を抱く手に、僅かに力を込めました。 「ゾロリ」 「んー?」 「愛してるよ。私が君を幸せにする」 「じゃあ俺がお前を幸せにしてやるよ」 ゾロリはにっこり笑って言いました。ガオンは微苦笑して、でも幸せそうに彼女の腰を抱き寄せ、口づけました。 今度こそ、幸せになれる。 十六夜なんて言わないで。 ≪終≫ ≪あとがきと補足≫ ガオゾロ…なんだけど、なんでこの二人じゃないとダメなのか、というお話。 運命って言う言葉で片付けるのは簡単だけど、じゃあ、その運命の下敷きみたいな話があってもいいんじゃないか、と思って書きました。なんか恥ずかしい…。 お察しの通り、ガオンが天狼王の生まれ変わりで、ゾロリせんせが狐姫の生まれ変わりですwwwww なんか書いてて楽しかった。気がついたらこんなに長くなってました。 そして補足です。 ・『十六夜』は月の呼称ですが、ここでは字面をとって16ヶ月の意味で使いました。わざとです。 ・冬姫『卯津田姫』は当て字です。ちょっと資料が見つかりませんでした。卯の花が舞うように雪を降らせる、という軽い意味で当てています。 |