機械仕掛けの左腕 傷つけられた左腕が腐り始めた 断ち落とさねば、死ぬと言われた。断ち落としても死ぬかもしれないと言われた。 山賊の統領が矮臣に暗殺され、タイガー自身も追われる身となった、その逃亡の途中でタイガーは左腕を深く傷つけられた。 深手を負わせた相手の男を確実に仕留めた感触はあった。だが、自身も気を失ってしまい、その後のことは覚えていない。 気がついたら血染めの我が身はすっかり清められてベッドに寝かされていた。 (ここは…どこだ…) 粘ついた感触もなく、ただ左腕だけが痛んだ。 体を動かすのも億劫なくらい、深い傷が体を締め付ける。なんとか動く首だけで周囲を見渡すと傍らに小さな男の子がいるのが分かった。 黒い円らな瞳で、恐れる様子もなくじっと自分を見つめている。 (なんだ、こいつ…) 男の子はタイガーの額に張り付いた黒い前髪をそっと払った。長い前髪のせいで目がよく見えなかったのだと気がついたのは視界がはっきりしたからだ。 「お兄ちゃん、起きた?」 「だ…」 誰だ、と言いかけたところでドアが開いた。男の子の両親と思われる二人が入ってきたのだ。男の子は女性の足に抱きついた。 「パル、離れてちょうだい、スープをこぼしてしまうわ」 「はーい」 男の子の名はパルというらしい。パルは母親の言うことを素直に聞いた。 「大丈夫かい? ああ、まだしゃべらなくていいよ。怪我をして倒れていた君を息子が見つけてね…」 続きを話そうとして、父親はそっと妻を振り返る。彼女はわかったようで、パルをつれて部屋の外へ出た。 しばらく、間を置く。 彼女らが遠ざかったのを確信してから、彼は再び話しはじめた。 「他にも数人倒れてはいたが息があったのは君だけだ。だから拾った」 「…俺がやった」 男はゆっくりと目を伏せて頷いた。 「詳しいことは聞かない。どうせ仲間割れか何かだろう」 「…何故わかる」 タイガーは目の前にいる人のよさそうな男が何者なのかわからなかった。獅子の瞳に隠している何かを察するだけの気力が、今のタイガーにはなかった。 「似たような稼業だからね」 その男が海賊の首領であると知ったのは数日後のことであった。 なんのことはない、おかみさん――つまりはパルの母親が看病の合間にぽろりともらしたからだ。 「あたしと結婚してパルが生まれてからすっかり丸くなっちまったけどあれでも昔は泣く子も黙る大海賊だったのさ」 おかみさんは手元も見ないでりんごをするすると向いた。紅いリボン状になった皮が落ちる。 「はい、どうぞ」 「ああ…すまない」 ベッドの上に起き上がれるようになったタイガーだったが彼はその夜に熱を出した。 ひどい熱で、水以外の何も受け付けなかった。 パルは不安になってお気に入りのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめている。 おかみがタイガーの腕だけ異常に熱いことに気がついてめくってみると左腕の傷はひどく化膿していた。ちゃんと消毒もして包帯も毎日変えていたのだが、やはり傷が深すぎた。 「さっさと病院に運べばよかったね…」 「いいんだ、俺は…お尋ね者だから…」 消えかける意識の向こうで、タイガーが思い浮かべる人は数少ない。 「…腕を、落とすしかない」 「あんた…」 首領はそういった。おかみさんもそれしかないと思っている。 しかし腕を落として生き残れる確率となると、かなり落ちる。タイガーの場合は二の腕のちょうど真ん中から切り落とさねばならない。 「断ち落とさねば、死ぬ。しかし断ち落としても死ぬかもしれない…」 「切ってくれ」 タイガーは呻く様に言った。首領もおかみさんもその声を聞いた。 「…切っても助からないかもしれないよ、それでもいいのかい?」 「使い物にならない腕なら、要らねぇ…」 左腕をなくしたら、もう剣は握れない。普通の生活もしばらくはままならないだろう。 それでも、生きていくんだ。 生れ落ちる前から既にないはずの命、一度死んだなら何度でも生まれて、しぶとく生き残ってやる。 「…俺は、死なない。だから切ってくれ…」 「タイガー…」 首領とおかみさんは頷きあった。もはや腕を断ち落とす以外にタイガーを救う道はなかった。それで死んだとしても、彼の望みは叶えてやれると思った。 要らないから、捨ててしまってくれという彼の願い。 首領は物置の奥にしまっておいた刀剣を取り出した。錆も刃こぼれもない、菊のような刃紋を散らした美しい刀。 だがこの刀はその美しさとは裏腹に幾人もの命を奪ってきた。 敵の腹を割き、首を落とした。傷ついて虫の息だった戦友に止めを刺したこともある。負傷した部下の手足を落とし、それゆえに命を落とした者もいた。 タイガーも、同じ目に遭うかもしれない。 けれどこれまで奪ってきた命の数だけ、タイガーを救ってくれるかもしれないと思った。 なんとも虫のいい話ではあったが。 首領が刀を探している間におかみさんはパルを近所の人に預けていた。この近辺には同じ海賊のおかみさんたちが住まっており、みな事情を知っていたので得たり顔でパルを預かってくれた。 あんな光景をパルには見せたくないという親心だった。 おかみさんが戻ってくると首領はともに部屋に入ってドアを締めた。 タイガーは気丈にもまだ意識を失っていなかった。 「…タイガー、切るよ」 タイガーはゆっくり頷いた。 おかみさんがタイガーの袖を引きちぎり、細い紐で左腕上腕二等筋の中ほどをきつく縛る。そこに首領が刃を宛がった。 「見ないほうがいい。じゃあ、切るよ」 鋭く肉を分ける感覚が激痛にかき消された。熱のせいで朦朧としていたタイガーの意識はそれによってはっきりした。が、いっそ気を失ったほうが楽かもしれない。けれど彼は歯を食いしばり唸り声を上げて耐えていた。 麻酔も何もない、ランプの明かりだけがゆらゆらと揺らめいた。 残される右手はおかみさんの手を必死に握り返す。 『生きたい!』と叫んでいた。 がちっと、骨に刃が当った。 これ以上てこずれば余計な肉や神経を切ってしまう、出血もひどくなる。 首領はぐっと力を込めた。ばきっと、何かが砕ける音がした。 それが骨なのか刀だったのは腕を完全に切り落とすまでわからなかった。 肉が、完全に断ち切られた。骨に入った切れ目を確認すると血に濡れた刀を腕から離した。 「もう、取れる」 ぼきっ、ぼきっと少しずつ骨が割れる音がした。首領はぐっと力を込めて最後の一片を押し壊した。 左腕が取れた。 隻腕となったタイガーはそれから一週間、生死の境を彷徨った。切り落とされた腕から発熱し、全身を蝕んだ。幸い化膿はしなかったものの、消耗した体力を取り戻すまで一ヵ月は寝たきりだった。 「パパ、お兄ちゃん大丈夫だよね?」 「ああ、大丈夫だよ」 正直なところ、助かる見込みはほとんどなかった。しかし彼の生命力はみるみるうちに弱った体を回復させた。 ただ生きたい、それだけを願う心のすさまじい強さが彼を生かし続けた。 左腕の切断から半年たって、タイガーはようやく義手をつけての訓練を始めた。 思う様に動かない左腕にタイガーの苛つきは募るばかり。特に剣一本で生きてきた彼の苛立ちは目に見えて明らかだった。 「苦悩しとるのう、若人」 「じいさん…」 とうに還暦を過ぎているだろう老人はこの海賊村の創始者でパルの父親の師匠筋に当たるのだという。 「腕を落として生きとった、それだけでもめっけもんだと思わんか、若いの」 「…なにが言いてぇんだ」 老人はすっとぼけたように眼下に広がる海を見ていた。潮騒は静かに耳に届く。だが一度荒れれば手がつけられない赤子のよう、人も船もなんでも飲み込んでしまうのだと老人は言った。 「けどな、海はいいぞい。広いからのー」 「じいさんも海賊だったのかい?」 タイガーの問いかけに老人は穏やかに頷いた。問うてからタイガーは自分の質問の愚かさに気がついた。パルの父親、つまり海賊の首領の師匠筋なら当然海賊と判断してもよさそうだ。 「この海で何人も死んどる。波に飲まれたもの、腹をすかせて死んだもの、殺されたもんもな。でも、そんなことがあってもワシらは海を捨てられんかった。海以外で生きる術など、知らんかったからのー」 波間に見える煌きに、タイガーは木漏れ日を思い出した。 山賊の統領はタイガーを拾って育ててくれた。うんと幼いころは自分を抱いて木漏れ日の下にいることが多かったのだと聞かされて育った。 「…お頭」 俺は海でも生きていけるだろうか。 もっと広い世界を見たいと願ったそのとき、山賊の統領は『好きにしな』とだけ言った。 その数日後に統領は暗殺され、腹心だった自分は追われて、そして左腕を落とすことになった。 「海に出てみな、若いの」 タイガーの心は決まった。 「なあ、じいさん」 「なんじゃー?」 「何で俺に構うんだ?」 そう言われるのを待っていたかのように、老人は笑った。そして左袖を捲り上げたそのとき、タイガーは息を呑んだ。 老人も、隻腕だった。肩から先が全くなく、つまり自分よりも長く切り取られているその腕にはやはり義手がはめ込まれていた。 「あんたと同じさ。ただワシはベッドの上ではなく荒れ狂う波の上だったがのー」 老人はそれ以上語ろうとはしなかった。生きているだけで十分なのだと言った。 しかし生き残った以上それでは満足できないタイガーは次の日からオーバーワーク気味に訓練を重ねた。自分の右手が許す限り改造も施した。 それから2年の月日が流れた。 タイガーは船に乗っていた。海賊の首領と後継のパルも一緒だ。 おかみさんは1年前に幼かったパルを残して死んでいた。 首領の片腕としてタイガーはめきめきと海賊としての腕を上げた。彼は義手である左腕のことは隠さなかった。隠すつもりもなかった。だが彼のことを『隻腕のタイガー』と呼ぶものはいなかった。船に乗って半年ほどで片目の視力を失ったがそれでもタイガーの二つ名は『隻腕』でも『隻眼』でもなかった。 『仕込み腕のタイガー』、これが彼の二つ名だった。 それほどまでに彼の左腕は生ものの腕以上の働きをしてみせたのだ。 そんなある夜、首領はタイガーを船長室に呼び出した。 「なんです、お頭」 「実はね、この船も部下も全部、君に譲ろうと思うんだ…」 「お頭!!」 タイガーはばんと机を叩いた。けれど首領は動じなかった。決断を秘めた獅子の瞳に穏やかな輝きがあった。 「妻を亡くしてからずっと考えていたんだ。まだ幼いパルを海賊にする、その前に私が死んだら…」 「お頭…」 亡くなったおかみさんはパルのことだけを心配していた。タイガーのことも我が子同然に面倒を見てくれていたおかみさんはタイガーにもパルのことを頼んでこの世を去った。 海賊にするのもいい、普通の暮らしをさせてもいい。 ただひとりぼっちにはしたくないとお頭は言った。 「で、船を下りてどうなさるんで?」 「パルとふたりでおもちゃ屋でもやろうと思ってね」 獅子の海賊は静かに笑った。こういうときの彼の決断は実は誰にも翻せない。逆らった子分がその牙と爪に引き裂かれるのをタイガーはたった一度だけ目にしていた。 普段の温厚な彼からは想像もつかないような、すさまじい光景だった。 タイガーは溜め息をつく。 「お頭。俺に譲るのはいいですけどね。俺はまだ海賊になって日が浅い。『仕込み腕のタイガー』の二つ名を持っていてもそんなのはたいしたことじゃない。俺に船も部下も、その気持ちはありがたいですけどそれは古参の連中が黙っていないでしょう」 「それは大丈夫だよ、タイガー」 「なんでです?」 「海賊の世代交代はどうやるのか、教えよう」 首領は面白そうにタイガーの耳に囁いた。 タイガーは丸い目をさらに丸くして驚いた。 「お頭…」 「私も先代に言われてそうしたからね。じゃあよろしく頼むよ。パルも穏便に船から降ろしてくれればいい」 話はそれだけだと言って、首領は部屋を出た。残されたタイガーはもう一度深い溜め息をつくと机に肘を突いて頭を抱えた。 一時は山賊の一部をまとめていた自分だ、海賊を束ねられないとは思わない。 ただ世話になった首領と、自分を兄と慕うパルとを陥れるようで心苦しかった。 (心苦しい…?) タイガーは笑い出した。山賊の統領は自分の中にそんな心を残して育てただろうか。 いや、残したとしてもほんの僅かだったはずだ。 『いいか、タイガー。俺たちは山賊だけどな、意味のない殺生はしちゃならねぇ。俺たちがいただくのは金品だけだ。受けた恩は恩として返せ。それが男ってもんだろ』 そうだ、そのとおりだと、幼いタイガーは統領を見つめていた。 こんな男に自分もなりたいと。 (そうだよな、統領…) 世話になった首領とおかみさんの願いを叶えることでタイガーは恩を返そうとした。 『なあに、簡単なことだ。私の浮き輪に穴を開けておけばいい』 海賊なのに首領は泳げなかった。その浮き輪に穴を開けてさも溺れたかのように見せかけ、そのどさくさにまぎれてパルも船から降ろすつもりだった。 その計画は邪魔が入りはしたものの、まあほとんどタイガーの思惑通りに進んだ。 パルは船を下り、父親とともにおもちゃ屋を営んで静かに暮らしているのだという。 海は穏やかに波打っていた。 煌く星の瞬きはわずかな月光さえものともしない。 「三日月か…」 張弓月とも言われる三日月は誰の心を射るのだろう。銀の輝きにタイガーは目を細めた。 「そういう顔もするんだな」 「酒が飲みたいならそう言え。回りくどい女だな」 タイガーは隣にいた女に酒を注いでやった。とくとくと徳利から流れる酒のにおいに女は嬉しそうに笑っている。 さらりと金のきらめきを纏うその女は昼間空から降ってきた。突然飛行機の残骸がぼろぼろと海に落ちてきて水柱をあげ、子分たちが『敵襲? 敵襲!?』と騒いでいる間に彼女はタイガーの腕の中にぼてっと落ちてきたのだ。 彼女はタイガーをじっと見つめ、それから弾けるような笑顔で言った。 「ナイスキャッチ! 流石ぁ!」 「どこから降ってきやがるんだ、お前は」 降ってきた女を抱きとめたタイガーは苦笑するしかなかった。 「ようこそ、俺様の船へ。歓迎するぜ、かいけつゾロリ」 そんなわけでゾロリは弟子のイシシとノシシとともにちゃっかり船旅を楽しんでいるという次第だ。 タイガーは甲板で酒を飲むのが好きだった。ゾロリも酒は好きだが大して強くない。 それでも相伴に預かりたくてゾロリはタイガーのそばに座っていた。 酒と油と潮の匂いが混ざる独特の臭気に触れたかったのかもしれない。彼女はタイガーの左腕をそっと撫でた。 「これが、お前が生きてるって証なんだな」 継ぎ目だと思われる部分だけ、感触が違っていた。 火炎を放射するその腕は生身の部分とは違った熱さを持っている。 ひょんなことから彼の昔話を聞くことになったゾロリだったが、何故か拒まずに聞き続けた。 酒の肴にするにはあまりにも痛々しい話ではあったが、淡々と語るタイガーを一人に出来なくて、ずっとそばに居続けた。 かわいそうだと涙を流すのは簡単だ。腕がなくてもやっていけるじゃんと励ますのも簡単だ。 でもその二つの行為は彼の人生の中でありふれすぎた言葉だったろう、だからこそゾロリは黙って聴いていた。 腕に触れ、そしてタイガーを見つめる。 潮で荒れた黒い髪はそれでも海風をはらんで揺れた。 左腕は、タイガーの過去。 死の淵に二度立ちながらも、なお生きるために戻ってきた傷。海賊として生きるために切り捨てた左腕になんの未練もない。 「…なんでだろうな」 「ん?」 タイガーはゾロリの体を左腕で抱き寄せた。ゾロリは逆らわずにその胸に収まる。 「酒が入ってても誰にも話したことなかったのによ。なんでか、お前には話す気になったな」 「…誰にだってそういうときがあるんだよ。で、たまたまそばにいたのが俺だっただけさ」 「いや、今日と同じ状況が他にあったとしても隣にいるのが他の女ならしゃべらねえな」 実際、タイガーの腕のことを聞きたがる女はいた。そういうときはほとんどがベッドの上、中には自分の腹の上で腰を使いながら聞いてくる女もいた。 そういうときはただ『ひどい怪我をしてな』というに留まり、そのあとは女を貪った。 所詮、寝間話だ。 でもゾロリだけはなにかが違った。そのなにかがタイガーにもゾロリにもわからない。 「誰にだって過去がある…お前に聞いてほしかったのかな、俺は…」 生きてきた場所も時間もまるっきり違うけれど…きっと自分をさらけ出せるほど、タイガーはゾロリを思っていたのかもしれない。 しかしやっぱりわからなかった。 「おめーは?」 「ん?」 「なんで女だてらにかいけつなんかやってんだ?」 夜の闇をそのまま映したかのような狐の瞳が一瞬だけくるりと揺らめいた。 不思議な危うさを残したまま、ゾロリはふわりと微笑む。 「残念だけど、それを話すのはお前とじゃねーな」 未来を誓い合ったガオンにも話していない。 父親を探すにしても、いたずらの女王になるにしてもただの『ゾロリ』で十分だったはずなのになぜ『かいけつ』を冠することにしたのか。 (ただ『かいけつ』ってカッコよさそうだったから、なんて言えるわけねーじゃん…) ゾロリはくすくす笑い出した。それが気に入らなくてタイガーは一気に酒をあおる。 「勝手にケラケラ笑ってんじゃねー」 途端、船が大きく揺れた。 バランスを崩した二人はそのまま甲板の上に倒れこむ。 「おっと」 「うわっ…!」 船はゾロリのほうに大きく傾いたため、彼女の上にタイガーがのしかかる形になっている。 「いったー…」 後頭部をしたたかに打ちつけたゾロリはおもいきり閉じていた目をゆっくりと開けた。目の前にタイガーの顔がある。それがゆっくりと近づいてくるのでゾロリは黙って再び目を閉じた。 金色の髪を撫でる手は暖かい。 触れる唇は少し熱くて、甘い酒の匂いがした。 「ゾロリ…」 わずかに離れた唇が自分の名をささやいた時、ゾロリはタイガーの唇にそっと指を当てた。 「そこまで」 そう言ってするりと後ろに下がりながら体を起こすと、タイガーも舌打ちしながら身を起こした。 「その気になったのかと思ったぜ」 「誰が。残念だけど先約があるんでね、おまえのおもちゃにも女房にもなる気はないよ」 「けっ、どこの腑抜けに骨抜きにされやがったんだ?」 その問いには答えずにそっと襟元を正すゾロリの指先に、タイガーは思わず視線を注ぐ。が、すぐに思いなおして転がった酒瓶や枡を手元に引き寄せ、注ぎなおした。 「ほらよ」 「ん、ありがとう」 潮風が抜けていく、夜の闇の向こう側へ。 「なぁ、タイガー」 「ん?」 ゾロリはことんとタイガーの肩に頭を乗せた。誰とでも、というわけではないが彼女がそうするときはちょっとだけ甘えたい時なのだ。そのことをタイガーが知るのはもう少し先のことである。 「俺たち、このままずーっと喧嘩友達だよな」 「…その気があるなら女房にしてやる」 あっという間だった。ぐらり、とタイガーの体が傾いだかと思うと、すぐに膝の上に頭を乗せてきたのだ。 ゾロリは一瞬のことに驚いた。 「お、おい、タイガー?」 「酔っちまった。膝貸せ、寝るぞ」 「降りろ、重いんだよ。こんなところで寝ると風邪引くぞー!!」 ゾロリはべしべしタイガーを叩いたのだがうんともすんとも言わなかった。すっかり寝入ってしまっているようだ。 しょうがないなーと諦め、近くの酒瓶に自分の変わりをさせるとタイガーの部屋に行って二人分の毛布を持って戻ってきた。 「手がかかるんだから…早くいいお嫁さん探せよ」 きっとタイガーなら海賊を辞めても誰かを幸せにできるはず。 ゾロリはタイガーに毛布を着せ、自分も包まって彼の横に座った。 「…なあ、タイガー。俺たちはまだ、死に方を求めるほど生きちゃいないんだろうなー」 生れ落ちる前と、左腕を落とした時。生死の境をさまよったタイガー。 えんま大王の手違いで実際に天国と地獄をさまよい、生還したゾロリ。 まだ死ねない、死にたくない、死ぬわけにはいかない。それはつまり『生』への執着。 『生きたい』と願う命の輝きはどんな輝石より眩しく、気高く輝くのだ。 だから。 「だから俺は…たぶん、お前が好きなんだと思うよ」 丸みを帯びていて意外とかわいいタイガーの耳をそっと撫でる。一瞬くすぐったそうに動いたタイガーを見つめて、ゾロリはくすっと笑みを溢した。 生きることを選び続けるこの男と知り合えたことを喜びに。 月明かりだけを頼りに波間を滑る船は大きなゆりかごだ、ほんのわずかにも彼の魂を癒すのならそれがいい。 「おやすみ、タイガー…」 夜の瞳を閉じて朝を待つ。 夢を見た。 誰かが自分の左腕を持っていた。切り落とした時にもう要らないからと焼き捨てたはずの腕を、だ。 肉の焦げる匂いと、残った骨を砕く音をタイガーはぼんやりと覚えている。 その、ないはずの腕を持って立っているのは誰だ? 「誰だ、手前は。なんで俺の腕を持ってやがる!!」 答えなければ焼き尽くす、そのつもりで左腕を構えた。 が、義手はなかった。 では、と目の前の誰かを見る。女だった。金色の髪に黒い瞳、一目で狐とわかるその姿に抱く左腕は明らかに肉だった。 ぎり、と奥歯が鳴る。 「…返しやがれ、俺の左腕を返せ!!」 詰め寄るごとに女は後ろへと下がっていく。返せと叫ぶごとに女は首を横に振った。返さないと言っているようだった。 「返せ!」 『…せない』 「なんだと…」 『これはあなたの過去、返せない…』 ふっと女の姿が肉の左腕を抱いたまま消える。 途端、左が重くなった。見ればおかみさんが微笑みながら立っていた。 『ほら、これがあんたの左腕さ。よかったね、いいのを作ってもらえて』 「おかみさん…」 『いいかい、タイガー。あんたは両の腕を持ってるんだ。どうせなら未来は両方の腕で掴むんだよ』 装着された左腕は最初のうちこそ動かしにくかった。訓練しだいさと背中を叩かれ、タイガーは前のめりになる。 振り向いた時にはおかみさんの姿はなかった。 「おかみさん…」 『未来は両方の腕で掴むんだよ』 声のほうを向くと、また狐が立っていた。が、先ほどの狐とは明らかに違った。肌の色も健康的な明るさの、透き通るような白だった。さっきの女は色白を通り越して蒼白だった。 「ゾロリか」 狐はこっくり頷いた。 どんな未来も両腕で掴むと決めたから。 タイガーはゾロリをそっと抱きしめた。 「…お前を」 女房じゃなくてもいい、ただ喧嘩友達だってかまわない。退屈しない程度にそばにいてくれれば、それ以上は望まない。 ――嘘だけど。 今はそれでも十分だ。 背中合わせになり、そのまま歩き出す。丸い世界をくるりと回ってまた出会う。 また背中合わせになり、別れ、そのまま歩き出す。丸い世界を…の堂々巡り。 「俺もお前も、退屈が嫌いなだけなのさ…」 なあゾロリ、とタイガーが笑う。笑いながら口づけると世界が暗転した。 「…けったいな夢だぜ」 自分のそばに毛布に包まれて転がるゾロリを見つめ、タイガーは小さく笑みをこぼした。 機械仕掛けの左腕を向けても怯まなかった女はゾロリが初めてだ。 ああ、そうかとタイガーはひとりごつ。 「お前には俺の昔話をする価値があったんだな」 向けていたものが剣でも、この左腕でも、彼女はきっと自分を拒まなかっただろう。それだけでも嬉しかった。 「ん…ガオン…」 ふと聞こえた寝言に、タイガーは一瞬むっとした。他の男の名を呼ばうなど気分が悪い。 ゾロリは自分が呟いたことも知らずに眠っている。 タイガーはふと髭が伸びかけた顎に手を当てた。 ガオン、と言う名には聞き覚えがあるがどんな男だったか思い出せない。『地球最後の日を回避しようプロジェクト』であったような気もする。あのとき女たちは仕事より先に名乗りあっていた。手と同時に口が動くのだから器用なものだと思ったものだ。逆に男たちは作業をしながら、必要があれば名乗りあっていたので特に面識もないまま、場合によっては名も知らぬまま別れた者も多い。 だがそんなことはどうでもいい。 ゾロリの心を占めるのは多分彼女の両親と、双子のイノシシと、そしてそのガオンという男なのだろう。 水平線の向こうが白々と明るくなる、夜明けだ。 まるで憑き物が落ちていくかのように清々しい朝の光が満ちてくる。 タイガーはゾロリを起こさないようにそっと膝の上に抱きあげ、白い頬をそっと撫でた。 「こういう夜明けも、悪かねぇな…」 触れ合うだけが愛じゃない 愛と呼んでいいかもわからないこの感情 未来をぎゅっと掴んだ 生身の右腕と機械仕掛けの左腕で 今度は朝まで君を抱こう ≪終≫ ≪タイトルの響きがいいだけ≫ タイガー&ゾロリ(『×』じゃないところがミソ)。『機械仕掛けの〜』というタイトルを使いたかったのでタイガーへww タイガーの過去をこんなに捏造して大丈夫か自分と思わなくもない。彼の『漢』ぶりを書くためには仕方がなかったんだと言い訳wwwww このお話を書くきっかけは敬愛してやまないI様の『よい漢ランキング』であることを明記します。ありがとうございました ! 今回いちばん楽しかったのは戯れるタイゾロではなく、左腕を落とすシーンだったことも合わせて明記。 …大砲発射用意ですか、そうですかwww |