色彩鮮やかな季節はきっと 〜めぐり来るどの季節にも、君がいる



寒景色の中、歩いている少女をくるりと包む男のコート。
ふわりと笑う笑顔の向こうにまだ少し遠い春を待つ。




「あの、ハーデス?」
「年末年始は多忙で会えなかったからな」
まだ13歳の少女を恋人だといって憚らない男は自分のマフラーを瞬の首にかけ、丁寧に巻いていた。すっかり寂しくなった男の首許を見つめ、瞬は申し訳なさそうに目を伏せる。
「あなたは寒くないですか?」
瞬がそう問うとハーデスは彼女だけに向ける笑顔で言った。
「そなたと一緒だから寒くない」
大人の男からぶつけられた恋は少女の中に甘いなにかをぽとんと落とす。
「瞬……」
「あ、あの……」
誰もいない裏路地で、瞬は壁にそっと背中を押し付けられる。そしてハーデスの唇が瞬のそれに触れようとしたとき。
「こらー!! そこ、何をやっとるか!!」
突然聞こえてきた怒声にふたりも、そしてそこにいた通行人たちもびくっと身を震わせた。
怒声の男はまだ少年のようにみえたが、その台詞回しはと言えば時代劇も真っ青だ。
「ハーデス! 瞬に手を出すなと何度言えば分かる!! さっさと離れろ!!」
「に、兄さん? どうしてここに……」
「お前が心配で着いて来た」
瞬の兄である一輝は瞬をハーデスから引き離そうと腕を引っ張る。だが瞬はその腕を払った。
その様子を見てハーデスは甘い夢を見る。
兄の横暴に絶えかねた瞬が自分と手に手を取って逃げる夢を。
だが現実は違った。瞬は兄の腕を払うと彼が見たこともないような表情で怒鳴りつけた。
「こんなところで何やってるんですか! 兄さんは受験生なんですよ!? 自覚があるんですか!?」
「う……」
そこを突付かれると弱いとばかりに一輝は押し黙った。ハーデスもあっけに取られてぽかんと口をあけている。瞬は一気に捲くし立てた。
「今日から家庭教師の先生をお願いしてるって言ったでしょう? 言いましたよね? 兄さんの耳は節穴ですか、それこそかっぽじってよく聞いてください!!」
「う、うう……」
愛妻の妹にここまで激昂されては流石の一輝もなす術なく、すごすごと引き下がるしかできない。
「兄さんがそんなだから星矢が勉強しないんですよ!!」
「ちょっ、それは俺のせいなのか?」
「つべこべ言わずにさっさと帰る!」
「くっ……」
しっしとまるで犬でも追い払うかのように手を振られ、一輝は後ろを振り返りながら帰っていく。
その寂しげな後ろ姿を見遅って瞬は腰に手を当てて頷いた。
「あ、の、瞬?」
そこでこれまで口を挟めなかったハーデスがようやくしゃべった。
瞬はいつもの笑顔で振り返る。
「はい?」
その笑顔があまりにもすっきりしていたから、ハーデスは先ほどの件に関しては何も言えなかった。
ただ、どんなに怒っても瞬は可愛いなとしか。
ハーデスは気を取りなおし、改めて瞬の頬を自分の両手で包んだ。
「先ほどの続きを」
「え……」
ハーデスは瞬をくるりと抱きしめて柔らかな唇を奪った。そっと触れるだけのそれでも、瞬の心を揺さぶるには充分だ。
「あっ、あのっ、私……」
細く白い指先で自分の口元を覆う瞬、彼女の頬はうっすらと赤く染まっている。
「……嫌だったか?」
ハーデスの問いかけに瞬はいいえと首を振る。嫌じゃなかったのに。
溢れてくるこの罪悪感はなんだろう。
「っ……」
込み上げてくる不可解な気持ちが瞳から溢れた。それは涙となってつうっと瞬の頬を伝う。
「瞬?」
「ごめんなさい……」
瞬はぎゅっとハーデスの胸元を握った。
そうだ、瞬はまだ――。
あの秋の日もそうだった。瞬はまだ少女だから。
「すまぬ、急かしたな」
静かに泣く瞬の背中をぽんぽんと叩きながら、このひとときに酔っていたかった。



「というのを先日見たんだよ」
「ふーん……」
放課後の職員室でコーヒーを飲んでいたガオンはゾロリのデスクの近くに立っていた。
「あのさ、ガオン」
「ん?」
問いかけに応じながらもガオンは彼女のためのコーヒーを差し出した。3個の砂糖はいつもどおり。
きっちり結われた髪は絹のようにさらさらで陽光のように眩しい金色だった。
ゾロリはキーボードを叩いていた手を止めると、コーヒーに手を伸ばした。
「お前はそれを黙ってみてたわけ?」
「だって恋路を邪魔するわけにはいかないだろう」
俗に他人の恋路を邪魔するヤツは馬に蹴られて死ぬと言う。ゾロリと結婚する前に死んでたまるか――結婚できたら死んでもいいというわけではないが――と、ガオンはそう思っていた。
「瞬が俺の去年の教え子だって知ってるよな?」
「ああ、君は前年6年生の担任だったよな」
「ということは瞬は今何歳でしょう?」
「13歳かな。誕生日によっては12歳と言うことも……」
そこまで言ってガオンは初めて気がついた。相手の男が何歳だかは知らないが、瞬は中学一年生、9月生まれだから歴とした13歳なのである。
「ということは」
「純粋な恋愛感情でも一歩間違えるとおもいっきり条例に触れてるわな」
18歳未満と知りつつ淫らな行為に及んだものは云々と言う青少年健全育成条例。
キスだけの関係を淫らと言うかどうかは別にして。
ガオンは小さく唸りながらコーヒーを口にした。
「そういえば、今日はあの双子を見なかったが……」
「ああ、あのふたり揃って風邪。インフルエンザじゃないから良かったけど」
昨年の晩秋から猛威を振るい始めたインフルエンザは今が最盛期だ。手洗いとうがいを実行していてもかかるときはかかってしまう。
「私のクラスでも何人か休んでいるけれど」
「学級閉鎖には至ってないのが幸いさ」
ガオンはそろっと後ろからパソコンの画面を覗く。周囲の景色を反射してよく見えなかった。
「なに作ってるんだい?」
「授業計画書。出せって言われてたろう?」
「……まだやってなかったのかい?」
ガオンの言葉がちょっと癪に障ったが、ゾロリは敢えて騒がなかった。
「双子が熱出してるんだよ。そんな暇あるわけないだろう」
「……すまない、そうだったね」
ゾロリはこの小学校の教員でありながら事情があって児童と一緒に暮らしている。書類上はなんとか誤魔化しているがばれれば大きな問題になるのは必至だ。
「ま、そろそろ転勤の季節だしな!」
「どうせ飛ばされるなら君と同じところがいいなぁ……」
「無茶言うなよ」
そう言ってケラケラ笑いながら、ゾロリは最後のキーを押す。
「……コーヒー、ごちそうさん」
「どういたしまして」
微笑む君は季節外れのひまわり。もっとずっと一緒にいたい。



同時刻。
地域内でも一二を争う進学校である崑崙高校でひとりの少女が竹刀を担いでいた。
黒髪の少女、呂望はいつもなら藤の花を背負ったような少女と一緒にいるはずなのに、今日は何故か一人だった。
「望ちゃん!」
そこに青銀色の髪をしたボーイッシュな女の子が走りよってくる。
彼女は普賢と言って呂望の幼馴染にしてクラスメートだ。化学部に所属しており、サイエンスコンクールでは受賞経験もある学内きっての理系ナンバー1だ。
呂望はそんな友人を見つけて笑顔で迎え入れた。
が、普賢は少し違和感を覚えたらしい。きょろっと周囲を見回すとあれっと首をかしげる。
「シグナルちゃん、いないの? 借りてたマンガ返そうと思ったのに」
そういうと普賢は少し困ったように自分のカバンを見つめた。
「シグナルなら風邪で休むってメールがあったぞ。普賢のマンガはわしが部室のロッカーに入れておくから預かっておいてくれと」
そうなんだと呟いて、普賢は少し寂しそうに目を伏せた。そしてカバンに手を突っ込んで中から紙袋を取り出した。彼女愛用の原子モデル柄だ。
「じゃあ、望ちゃんお願いね」
「おお、確かにのう」
呂望は普賢から紙袋を受け取るとさっと自分のバッグに仕舞いこんだ。
「けど、珍しいよね。あの元気なシグナルちゃんが風邪引くなんて……」
なんだかシグナルが健康しかとりえのない女性のように聞こえるが、もちろん他意はない。
「弟のちびからもらったらしいぞ」
「ああ、幼稚園とかは早くから流行ってたもんねぇ」
そのちびはとっくによくなって元気に遊びまわっているらしい。
呂望はほうと息を吐いた。外気との温度差を示すかのようにそれは白く煙って消える。
「寂しいね、シグナルちゃんいないと」
「そうだのう……」
中学からの親友が病に臥せっているというのはどうにも落ち着かないと、呂望はバッグを担ぎなおした。
で、当のシグナルといえば自室のベッドに起き上がって同級生の来訪を受けていた。
「ほら、今日の分のノート、コピーしておいてやったよ」
「ありがとう、魔鈴ちゃん」
魔鈴が差し出す紙の束を受け取ってシグナルはまだ少し赤い顔で微笑んだ。
「で、どうなんだい、具合は」
「うん、熱も下がったから。もう少し様子を見てから学校に行こうと思ってるの」
草緑色の髪をしたシャイナもシグナルのクラスメートで魔鈴と同じ合気道部の部員だ。
他にもふたり男子生徒が来ているが、ひとりは鏡ばっかり見ている。何をしに来ているのかよく分からない。
「ミスティ、あんた一体何しに来たんだい」
すると彼はフッと笑って金色の髪を掻き揚げた。
「もちろん彼女の見舞いに決まっている。美しいもののそばには美しいものがいなくてはならないのだ」
「……それで?」
「音井さんには早く良くなって学校に来てもらわないと私の美しさが半減するではないか」
綺麗だと誉められてはいるんだろうが、あからさまに引き立て役になれと言われればなにかが微妙だ。
「そうかい。じゃあさっさと帰るよ。これ以上居座ったら風邪が悪化しそうだからね」
そのクールさは校内一と評判の魔鈴がミスティを連れて部屋を出る。彼は最後まで何か喚いていたが、急に静かになった。あとでシャイナに聞いたのだが、魔鈴はミスティを殴って黙らせたらしい。
シグナルはベッドの上から彼らを見送り、ふうと息をついた。
風邪で体力が落ちていたので少し疲れはしたが、退屈していたのも事実だからだ。久しぶりに学友の顔も見られてなんとなく元気も出てきた。
「シグナル、入るぞ」
「どうぞ」
すぐ上の兄、パルスがシグナルの薬を持って入ってきた。この時間には余り顔を合わせない兄の出現にシグナルは目を丸くする。
「どうしたの?」
「どうしたのじゃない。薬を取りにいったんだ」
長い黒髪を後ろでひとつに束ねている兄パルスは大学生。そろそろ受験シーズンなので大学は早々に後期試験を終え、受験準備に入っている。
なので学生たちは必然的に長い休暇に入ることとなる。その間にバイトをしたり免許を取ったりとそれぞれに過ごしているのだが、この兄だけはいつもと同じようだ。
「寝てると思ったのに」
「お前が倒れたからな。誰もちびの面倒を見ないからと……オラトリオに言われて」
ほんの少しだけ開けられたドアの隙間から、末の弟が覗いている。
「シグナルちゃん、お風邪治りましたか?」
大きな瞳を心配そうにして、ちびはシグナルにそっと話しかけた。風邪がうつるから入ってはいけないと、その言いつけはちゃんと守っている。
シグナルはにっこり笑って部屋の外のちびに話しかけた。
「うん、もう大丈夫だから。もう少ししたら一緒に遊ぼうね」
「……はいです!」
ちびは嬉しそうにドアを閉めて階段を下りていく。小さな足音が遠ざかる。
「ちびが、寂しそうにしている」
「うん」
「早く良くなれ。私も眠い」
「……うん」
シグナルはパルスが薬と一緒に持ってきてくれた蜂蜜入りのホットレモンを口にした。少し熱かったが、とても美味しかった。
早く良くなって学校に行きたい。ちびちゃんと遊びたい。
そしてコードに会いたい。



城戸さんちの紫龍と瞬がスーパーからの買出しを終えて戻ってきた頃、玄関の前に一人の青年が佇んでいるのが見えた。ふたりともよく知っている人だったのだが、瞬はちょっとだけ頬を染めながら挨拶をした。
「こんにちわ、ダイダロス先生」
アルトの声にダイダロスが振り返る。壮年に見えるがこれでもまだ19歳。家庭教師のアルバイトをしている大学生なのだ。がっしりした体格、優しい瞳で意外と人気がある。
瞬はこの青年を兄のように慕っていた。ハーデスやカノンからは迫られている恋だが、このダイダロスに関しては自発的なので、そういう意味では初恋といえた。
「どうしたんですか? 中に入れば……」
「いや、それがどうも一輝くんはいないようで……」
応対に出ていた氷河がどうしようかと迷っているところだったらしい。瞬は慌てて頭を下げた。
「すみません、とっ捕まえてきますんで、中で待っててください!」
そういうと瞬は自分の自転車に飛び乗ってある家を目指した。兄はきっとそこにいるはずだ。
紫龍と氷河、それにダイダロスが見守る中、瞬の姿はあっという間に見えなくなっていた。
「あー……瞬が行ったなら、一輝が捕まるのも時間の問題だな」
氷河の呟きを肯定するように紫龍が頷いた。
「さ、どうぞ」
「ああ、すまない」
年若い少年たちに促されて、ダイダロスは城戸家に入っていく。
背後に得体の知れない黒い視線を感じながら。
その頃一輝は学友である黄天化の家に逃げ込んでいた。『群れるのが嫌いだ』が口癖の一輝も天化とは気が合うらしく、ときどき彼の部屋を隠れ家代わりに使っている。
昨年の初冬にはすでに推薦で合格を決めていた天化は入学に必要な書類を書いているところだった。
「帰んなくていいのかい、城戸ぉ」
「フッ、帰っても勉強しろとせっつかれるだけだ。俺は高校になど行かん」
そういって窓辺に立つ一輝だったが、急に何かを思い立ったのか、窓から出て行こうとする。ちなみに天化の部屋は二階だ。級友の突飛もない行動に驚いた天化は慌てて一輝を羽交い絞めにする。
「な、なにしてるさ城戸! 俺っちの部屋から飛び降りて死ぬなんて縁起でもないさ!!」
「勘違いするな! 妹が来るから逃げるだけだ!!」
「妹さん?」
妹から逃げる兄もどうかと思いながら、天化は腕の力を緩めた。
見ろと一輝が指差した先に、まだ胡麻粒大の瞬の姿がある。天化も一輝も視力は群を抜いて良い。
彼女は般若手前の形相で薄紅色の自転車を漕いでいた。
「あーあ、一年きっての美少女が……」
残念そうに呟く天化を振り切って、一輝は窓から逃げ出した。
「あっ、城戸っ!?」
窓の外の木を伝って降りていく一輝。何故彼が靴を持って部屋に上がってきていた理由がようやく分かった。
「逃げ切れないと思うぞ、城戸……」
どんなに一輝が韋駄天ぶりを発揮しようとも瞬には敵わない。
天化が二階の自室から見守る中、薄紅の自転車があっという間に黄家の前を通り過ぎていく。
そして50メートルほど行ったところで一輝の悲鳴が聞こえてきた。それからしばらくして、また瞬の自転車が黄家の前を過ぎていった。一輝は後ろの荷台に鎖で括りつけられていた。
天化はため息を漏らす。
「だから言ったさ」
まだ風が冷たい冬の日、天化は我が身を抱きながら窓を閉めた。
自転車の荷台に括りつけられたままの一輝はもごもご蠢きながら妹を怒鳴った。
「こら瞬、離せといっているだろう」
「離したら兄さんまた逃げるでしょう」
「俺は高校になど行かんと言っている!! あんなところに言って何になる!」
義務教育を終える一輝の言うことももっともだが、だからと言って彼は専門学校などで手に職をつける気もないらしい。瞬にはそれが心配だった。
「だったらこの先どうするんですか。大体兄さんは勉強できるくせにやらないだけなんだから」
一輝は妹に関するベクトルがかなりおかしいだけでそれ以外は想定外なほどまともなのだ。
担任のカノンが頭を抱える理由もそこだ。もっともカノンの場合は別の理由もあるのだが、それは置いておく。
とにかく一輝は一輝で思うところがあるようなのだが、それをちゃんと話してくれないのでこうして拗れていくだけだ。
「とにかく受験だけはしてください。願書も出してありますし、あとひと月もあるんですから」
「わかった……わかったから離せ! みっともないだろうが!!」
瞬は絶対に逃げないことを確約させて兄を鎖から解き放った。
しぶしぶといった様子で妹の横を歩く、兄。
ずっとこの笑顔を守っていたい。それだけが彼の願い。




「で、ここの数式は余弦定理を使って解くわけなんですが……聞いてらっしゃいます?」
数学の問題集を片手にクリフトがアリーナのそばに座っている。長い藍色の髪を三つ編みにしてショールを羽織っているのはアリーナの勉強に付き合っているからだ。
彼らが受験を決めた聖域大学の受験科目は国語と数学。センター試験の結果もそこそこだったので他教科は捨ててこの二教科に絞って勉強を進めているわけなのだが。
アリーナはクリフトの横顔ばかり見ていてノートは全く見ていない。
が、聞くことは聞いているらしく、うんと頷いてはいるのだが。
「わかったよ。正弦定理で解くんだろ?」
「余弦定理です。聞いてないじゃないですか」
丸めたノートでスパンと頭を叩かれ、アリーナは前のめりになる。普段は自分に従順だと思っているクリフトもアリーナの将来を思って、心を鬼にしているのだ。
「一年生の時にやりましたよね? サインとコサインとタンジェント。理解してますよね?」
「三角形ABCで角Cが直角の時、辺AB分の辺BCがコサイン。辺AB分の辺ACがサインで辺BC分の辺ACがタンジェント」
宙に三角形を描きながら確認するように諳んじてみせるアリーナに少し安心しつつ、クリフトは僅かに頬を緩める。
「ねぇ、クリフト」
「はい?」
「この問題解けたら、キスしてもいい?」
参考書で三角関数のページを開いていたクリフトが一瞬きょとんとして見せた。
が、アリーナの真剣な眼差しについ頷いてしまったときにはもう遅かった。
彼はこれまでとは打って変わって真剣に問題に取り組み始めた。一問正解するごとにキスのご褒美をあげる。それで受験を乗り切れるならそれでいいかと思って。
「よし、出来た!」
「拝見します、アリーナ様」
そういうとクリフトは彼のノートと答えを照らし合わせた。
それは一字一句間違いのない見事なものだった。普段からこれくらいやってくれればなと思う。
「……お見事です、アリーナ様」
「よっしゃ! じゃあキスね、キス」
「あ、アリーナ様……」
うにゅーと唇を尖らせて迫ってくるアリーナに苦笑しながら、クリフトはそっと目を閉じた。
「もっとクールに迫ってくださいね」
「ん、そうする」
ちゅ、と触れ合わせた唇。
未来まで一緒に行きたいと願いながら、そのための努力を怠ることほど、愚かなことはない。



「ただいまー」
ゾロリが玄関で静かに靴を脱ぐと、コンロンが出てきた。
「お帰り、ゾロリ。イシシもノシシもよう寝とる。熱も下がったままじゃし、大丈夫だろう」
コンロンから双子の様子を聞いて、ゾロリに安心したのか、そっかと呟いた。
「ごめんな、じいちゃん。もう少し早く帰ってきたかったんだけど……」
「いやいや、何かと大変じゃろうて」
コンロンはゾロリの背中をぽんぽんと叩いた。幼い頃、父を失い、母を亡くしたゾロリを引き取って育ててくれた祖父。穏やかな優しさは昔から何も変わっていない。
ずっと甘えていたくなるようなこの温かさは自然と遠くなるのだろうか、それとも、自分で手を離してしまうのだろうか。
ゾロリはそんなことを考えて、祖父を見つめる。
双子まで引き取ったコンロンは自分と二人で暮らしている頃よりも元気そうだが。
「……じいちゃん」
「なんだね」
「まだ決まってないんだけどさ。今度の春には異動になるかもしれない……」
夕飯を温めなおすコンロンの手が少し止まる。
ゾロリの声が少しだけ、笑みを含んだ。
「ここから通う。ずーっとここにいるよ」
「ワシとしては、適齢期のうちに出て行ってもらいたいがのう……」
コンロンの言葉に、ゾロリはぐっと詰まった。彼が何を言わんとしているのか分かるからだ。
「じ、じいちゃん……」
「ガオン君とはどうなっておるのかね。結婚相手としては問題ないと思うがねぇ……」
「が、ガオンとはなんでもないっ!」
思わず声を荒げそうになったゾロリだが、二階で寝ている双子を思いやって、慌てて自分で口を塞いだ。
ふと天井を見上げる。双子は静かに……とは言いがたいがとにかく眠っているようだ。
ガオンとはなんでもないわけじゃない。
ゾロリが赴任した小学校に一年遅れてやってきたのがガオンだった。要するに彼のひと目惚れだったわけなのだが、何故かとんとん拍子に恋人になった。何故だったのかは本当に思い出せない。けれど彼に触れるうちに自分の中の何かが解れていくのに気がついて、いつのまにか彼と一緒にいることがイヤじゃなくなってきた。
彼は結婚しようと言っているのだが、踏ん切りがつかないのは。
「まだ仕事に未練があるんだよ。子どもほっぽり出すなんて出来ない……」
「それとこれとは別じゃないかのう……」
「なんで?」
夕飯の鮭を突きながら、ゾロリは祖父の顔を見た。
祖父はふぉふぉふぉと笑いながら孫娘を見つめ返す。
「教師のおまえさんと、奥さんのお前さんと、二人いてもいいじゃないか」
「じいちゃん……」
「二兎追うものは一兎をも得んがな」
「どっちなんだよ、じいちゃん」
祖父は昔からちょっと頓珍漢な、けれどずばりと真実を突いてくるなと、ゾロリは味噌汁を啜るのだった。



その頃、社屋最上階の社長室でハーデスが頭を抱えながらごろごろしていた。
パソコンのデスクトップは恋人の瞬。隠し撮りした写真をフル活用しているようだ。ちなみにスクリーンセイバーも瞬である。
「どうなさいました、ハーデス様」
「ミーノスか……」
ライトブラックのスーツにラベンダーカラーのYシャツを着たミーノスはハーデスの秘書だ。彼女は苦悶するハーデスを面白そうに見つめ、飽きたところで声をかけてきたのだ。
ハーデスはパソコンから笑いかけてくる瞬に励まされるように顔をあげた。
「……最近、瞬の様子がおかしいと思わんか? 見知らぬ男を家に入れているようだし……まさか、新しい恋人か!? っていうか一体何者だー!!」
「ふふふ、そう仰ると思って調べておきましたよ」
どこで調べたのか、ミーノスは瞬の新恋人かもしれない男のプロフィールを出した。
「男の名はダイダロス・ケフェウス。聖域大学環境学部の1年生です。現在は家庭教師のアルバイトで、城戸邸に出入りしているようですね」
「家庭教師だと!?」
ハーデスはバンっとデスクを叩いて立ち上がった。勢いで椅子が後ろにきゅーっと下がって、後ろの壁にぶつかる。
家庭教師と言えば勉強を通じて親しくなる可能性も大だ。ハーデスの苦悩はさらに深まっていく。
するとミーノスはいよいよ面白くなって笑うのを堪えている。腹筋が鍛えられそうだ。
「瞬様のではなく、兄の一輝のほうの家庭教師なんですが」
「うわあああ……あ?」
「ですから、兄のほうの家庭教師でして」
瞬のでなければそれでいいとばかりに、ハーデスはやっと落ち着いて腰掛けようとしたのだが、後ろに椅子がないことに気がついて慌てて持ってきている。
「しかし、どこで調べたのだ」
「ちょっとしたツテがあるんですよ」
ミーノスはそれ以上言おうとはしなかった。言ったところで意味がないからである。
とりあえず狼狽したり苦悶したりする社長の姿が面白いだけなのだ。
「よし、決めた」
「なにをでございますか」
「余も瞬の家庭教師をやる。なに、給料は要らぬ。瞬ともっと接近できればそれでいいのだ!」
そういうとハーデスは愛用している黒のロングコートを取って意気揚々と部屋を出て行く。憚りながらハーデスはボストン大学を主席で卒業している。しかし頭のよさと学問を授ける才能とは別なのだということはあまり理解できていないらしい。
それは現在時刻が夜の10時を回っているという事実を彼が全く認識できていないことからも明らかだ。
ダイダロスはとっくに帰っているだろうし、瞬も寝ているか、寝る準備をしている頃だ。
だがミーノスは止めない。恋に突っ走る男を止める術など、誰も持っていないからだ。
「さ、アイアコスでも叩き起こして飲みに行きますか」
パタンと手帳を閉じて、部屋の電気を消して。
ミーノスの姿もそこから消えた。



翌朝、すっかり風邪が治ったシグナルはコードと一緒に駅に向かっていた。
今日は水曜日、大学生の彼と一緒に登校できる唯一の日なのである。久しぶりに会う恋人にシグナルは照れながらも微笑んでいた。
「おはよう、コード」
「ああ。風邪はもういいのか?」
すっと伸びてきたコードの手がシグナルの頬に触れる。冷たい手のひらが、彼女には少しだけ気持ちよかった。
「うん、もう大丈夫。これ以上休むと勉強遅れちゃうもん」
「そうか……わからんところは、俺様に聞いてもいいんだぞ」
「……うん!」
それは珍しいほどの大盤振る舞いだった。いつもの彼なら自分から勉強を見てやるなどと言わない。
だけどシグナルにしてみればそれがどんなことだろうとコードと一緒にいられるなら何処だろうとどんなシチュエーションでも構わないのである。
「コードっ、大好きっ!」
シグナルはコードの腕にぎゅっと抱きついた。彼は慌ててシグナルを振りほどこうとしたのだが、彼女が病み上がりであること、今は誰もいないことなどを考慮して「次の角までだぞ」と約束させた。
本当はシグナルの胸がぽよぽよしているからあまり抱きついてほしくないのだが、コードはそれと言ったことがないし、言えるわけもなかった。彼は硬派な男だったからだ。
「歩きにくいだろうが」
「次の角までいいんでしょ?」
「……ちっ」
舌打ちしようとなんだろうと約束は約束。幸せそうに笑うシグナルにやっぱりほだされてしまうコードだった。
それから十五分ほどあとで、イシシとノシシの双子が小学校に通うべく同じ道を駆けていく。
「学校さ行くの、久しぶりだんなー」
「んだなー」
黒のランドセルを背負い、二人は手を繋いで歩いている。
「風邪治ってよかっただな、ノシシ」
「んだな、イシシ。早く遊びたかっただもんな〜」
「でも念のために体育は休めってせんせは言ってただねぇ……」
ゾロリは子どもたちの身を案じて出掛けにしつこいほど言って聞かせていた。
双子に好きな教科を聞いたら「給食!」と答えるのだが、給食は教科じゃないと言うとじゃあ体育と答える。その体育を封じられれば、なんだかやる気をなくしてしまい、彼らはため息をついた。
けれど学校に行けば友達にも会える。何かあってもゾロリせんせもいる。
「そうだ、おらたちはゾロリせんせをガオンの手から守らないといけないだ!」
「んだ! 風邪引いて寝てる間に甘えてる場合じゃなかっただよ!」
顔を見合わせ、うんと頷きあうと二人は急いで学校に向かうのだった。
さらに十分後。あと五分で遅刻決定という時刻に、いつものメンバーが走っていた。
「星矢のバカー!! なんで映画のあとゲームしちゃうのよ!! それでなくてももうすぐ学年末試験なのにー!!」
「いやー、昨日やってたのはゲームが原作の映画でさ、つい懐かしくなっちゃって」
あははと笑いながら髪を掻く星矢に瞬は走りながらもため息をついた。
その横で天化がやっぱり笑っている。
「星矢は相変わらずだなぁ」
「黄先輩も笑ってる場合じゃないですよー!!」
「あーいや、俺はもう高校決まってるからいいんだけどな」
それでも天化は速度を緩めない。自分がペースを落とすとこのふたりもつられて遅くなるような気がしたのだ。
瞬が地味に皆勤賞を狙っていることも知っているから、天化はやっぱり走り続けていた。
級友、一輝の妹だとは信じられないほどの美少女は天化に向かってにっこりを笑いかけた。
「星矢! そんなところで子犬と戯れてないで!!」
「ええー、可愛いのにぃ」
「可愛くてもだめっ!!」
あと百メートルで学校だというところで星矢はいつも道草を食う。校門では遅刻寸前の学生が数名飛び込んではほうと息をついている。
愛用している孔雀の羽扇を持った校長・シオンが優雅に笑みを湛えていた。
「あと三十秒じゃぞ、三十秒で門を閉めるからのう」
ストップウォッチを握り、どこか楽しそうなシオンに童虎は苦笑するばかり。そういう彼の背中には竹刀が装備されている。剣道部の顧問だから、という理由らしいが、常備している理由にはならない。
そしてやっぱりいつものように三人は流星になった。
荷物を抱えたまま、大会記録も真っ青な速さで校門を潜り抜けた。
「うん! 好タイムじゃ!」
シオンがストップウォッチをカチリを押したと同時にチャイムが鳴った。瞬と星矢、それに天化は遅刻を免れたのだ。
星矢はにこにことシオンに近づいた。
「なあなあ、今日の俺の記録は?」
「百メートルを7秒ジャスト。昨日よりちょっと遅いかのう」
「だって今日体操着持ってるから荷物重かったんだよ」
そういって頬を膨らませた星矢の髪をシオンはぽんぽんと撫でた。シグナルや呂望といった美少女たちが卒業してからはがっくり来ていたシオンも、星矢と瞬が入学してきてからは実にご満悦そうだ。去年の春に「今年は豊作じゃイヤッホー」とか言っていたのをそばにいたシュラやデスマスクも思い出す。
ともあれ、こうして一日が始まるのだ。
サガが周囲を確認しながら門を閉め始めた。遅れてやってきた学生たちがサガの小言に頭を下げながら入ってくる。やがて完全に門を閉めてしまったところで、いつものように気がついたのだが、敢えて無視した。
「今日も瞬は愛らしかった……」
愛用のデジカメを撫で、ほお擦りをしているのはハーデス。
瞬の恋人を名乗って憚らない男は今日も彼女を追いかけて中学までやってきているようだ。
「行きますよ、ハーデス様」
「うむ……名残惜しいが」
運転席にいるミーノスが静かに車を走らせた。



昼休み、校庭で元気よく遊ぶ子どもたちの姿を見ながらゾロリとガオンは穏やかに笑っていた。
「よかったね、双子が良くなって」
給食のあと職員室に戻っていたゾロリとガオンは並んでコーヒーを飲んでいた。
ガオンの言葉にゾロリがいじわるそうな笑顔を向ける。
「それ、本心で言ってるか?」
「どういう意味だい」
ゾロリとは短いが深いつきあいをしているガオンだが、彼女の物の言い方にはまだ慣れない。真意を掴みにくいのだ。ガオンはそっとゾロリに近づいた。
「んー、お前にとってあの双子は邪魔だろ?」
「ああ、そういうことか」
昼下がりの職員室で情事は無理だ。なのでガオンは彼女の黄色い耳元に囁いた。
「ということは、君は私とのことを考えてくれるということなのかな」
ピクンと跳ねた耳先を、ガオンは見逃さなかった。
「な、なんで」
「だって私のことを心配しているようにしか聞こえなかったよ」
「うっ……」
つい先日祖父に言われたことを思い出し、ゾロリは赤くなって顔を背けた。
「……このコーヒー、苦いぞ」
「いつもと同じだけどね」
砂糖もちゃんと3個入れた。
苦いと感じるのはきっと、彼女の心の中に何かがあるからだろう。
その何かが、ガオンには分からなかった。
ただ自分と一緒にいてくれるだろう未来を、淡く描き出しながらガオンは彼女が苦いと言い張るコーヒーに砂糖を足してやるのだった。



そして近くの郵便局にアリーナとクリフトの姿があった。
センター試験が終わると三年生は最後の授業を受ける。授業といっても受験本番に向けての最終講義のようなもので、必要な科目だけに参加すればいい。つまり予備校状態になっている。ふたりはそんな飽き時間を利用して願書の提出に来ていたのだ。
「よかったですね、間に合って」
「うん、滑り止めだけど一応ね。出しておかないと」
三月末まで試験が行われ、希望する者ほとんどが何がしかの大学へいけるという全入時代にあって、ふたりの目指す大学は国内屈指の名門だった。それでも予防策を講じていくことは悪くない。
クリフトは三つ編みにした藍色の髪を柔らかく揺らしながら笑った。
「センター試験の問題、難しかったですか?」
するとアリーナは急に真面目な顔つきになって前を見たまま言った。
「クリフトに勉強を見てもらっててあの程度も問題が解けないなんて有り得ない」
T大やW大を視野に入れて勉強してきた二人にとってあの程度はもはや問題とは呼ばないらしい。
ただし、解答欄がずれてさえいなければ、の話だが。
中学の前を通りかかった二人が体育に興じる学生たちを見て微笑んだ。
「懐かしいですね、中学」
「もう、高校を卒業するんだもんね。早いよね」
もう年度の授業数が少ないので、体育などは消費するだけになっているのだろう。男子対女子でドッジボールを楽しんでいるようだ。
「いっくぞー!!」
「星矢、手加減してよー」
ボールを投げようとした星矢が瞬の声にへへっと笑う。
「瞬が相手でも手加減しないぞっと!」
星矢がぎゅんと投げたボールを瞬が正面から受け止める。幼い頃から一緒にいるのは伊達ではないようだ。
瞬の手に渡ったボールは男子生徒を悉く追い詰めていく。
「私は、誰も傷つけたくないんだけど……でもこれ、スポーツだから!」
「ぎゃー!!」
まるでポンボールのように、瞬の放ったボールは一度に複数の男子をアウトにした。
ボールはあくまで普通のボールである。
しばらく見ていたアリーナとクリフトのそばにはいつの間にか黒衣の男が立っていて、シャッターを押している。電子音が静かに辺りを包んだ。アリーナは思わずクリフトを庇う。
「あ、アリーナ様……」
「通報したほうがいいのかな……」
「いえ、ご心配なく」
ふと背後から聞こえてきた声にふたりはばっと振り返る。今度は銀髪の女性が立っていた。
「すみませんねぇ、ご迷惑をおかけして。ハーデス様、就業中に抜け出さないでくださいっ! 今度やったら瞬様に全部ばらしますよ!」
それはいやだと、男は大人しく銀の淑女に従って連れられていく。
二人は顔を見合わせた。
「……帰りましょうか、次の講義もありますし」
クリフトが時計を見ながら言うと、アリーナもこくんと頷いた。
このふたりが大学卒業後、国連職員となって働くのはまだ少し先の話である。
そしてアリーナとクリフトと入れ違うように黄天化と城戸一輝が崑崙高校へ入学するのは今春のことであった。




すべてが変わりゆく、春
その準備を整える冬の日
君と生きていく今
繋いだ手は離さないで
これからなら、強く握って




≪終≫





≪冬の色彩≫
今回は冬ということで受験と風邪をメインに書いてみました。ハーデス様が相変わらずアホでごめんなさい。でも今回はちょっとだけいい思いをしてます。ええ、チューしましたからね。
封神組と聖域年少組はまた次回、『色彩・チョコ祭』か『色彩・春』を予定しています。
この茶番を読んでくださる皆様にも感謝です(*゚д゚)アリガタフ
注: 文字用の領域がありません!

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