色彩鮮やかな季節はきっと 〜白い恋人たちの戦場



3月14日はホワイトデーと決まっている。
そのチョコが愛情たっぷりだろうが義理だろうが、もらったらお返しをしなくてはならない。
3倍からのお返しが相場とされるその日に向けて、男たちは戦場に降り立つ。


そう、バレンタインデーが女の子の戦場なら、ホワイトデーは男の合戦場だ。



チョコをもらったからお返しになにがいいか、と尋ねるのも悪くはない。
しかし返ってきた答えに困窮するようではまだ深い間柄とは言いがたいのかもしれない。
終業後の居酒屋で一杯やっていたサガはデスマスクの話を聞きながらうーんと唸っていた。
「確かに、シュラならほしがりそうだな」
「まあ、買ってやるつもりなんだけどよ、そこで相談が」
「金なら貸さんぞ。私もアフロディーテに贈りたい物がある」
機先を制されたデスマスクはチッと舌打ちしつつもなんとか譲歩を引き出そうと頑張る。
「一枚でイイから」
「お前には五枚くらい貸したはずなんだがな」
「……覚えてやがったか」
一枚は一万円と思っていただきたい。つまりデスマスクはサガに五万円近くも借金をしたまま返そうともせず、さらに借金を重ねようとしているのだ。
そのサガの横では双子の弟のカノンが必死になって雑誌を覗き込んでいた。
「カノン、お前必死だな」
「なあ、どれがいいと思う!?」
カノンは開いていたページをサガに突きつけた。デスマスクはなおも必死にサガの腕に縋って金の無心をしている。彼は今日ほど定時に上がれた自分を恨んだことはなかった。こんなことならシオン校長にこき使われていたほうがマシだ。
「サガ! お前ならどれにするんだ?」
「なあ、金貸してくれよ! 今度馬で取り戻すからよぉ」
「おやじさん、おあいそ」
「あいよっ」
サガはやおら席を立つと行かないでと縋る男二人を振り払って店を出た。
恋人のアフロディーテは今日はエステの日だから別行動なのだ。
春まだ浅き夜空には冬の星座が忘れられずに輝いている。
「アフロディーテ……」
10日に誕生日を、14日にホワイトデーを迎える彼女は以前から欲しがっていたピンクパールのネックレスをねだってきた。もちろんサガは贈るつもりで準備を進めている。だから今はびた一文ムダにする気はないのだ。
さて、居酒屋に残された二人ははあとため息をついた。
「よお、カノン。お前でも構わねーぜ、金貸してくれ」
「俺もサガに借金のある身だ、残念だったな」
「いばってんじゃねーよ」
デスマスクは手酌で飲んでいた。ふとカノンの雑誌を覗き込む。
「なんだ、城戸妹のか?」
「ああ、バレンタインに一応もらったからな」 
「生徒にお返ししてたらきりがねーだろうに……ああ、城戸妹は特別だもんな!」
「……まあな」
城戸妹とは、1年に在籍している城戸瞬のことである。カノンの教え子である城戸一輝の妹だからそう呼ばれている。ちなみに城戸姓を名乗っているのは3年生に一人、2年生と1年生に二人ずつである。城戸一輝は城戸兄で、他は普通に名前で呼ばれている。
その城戸妹がカノンが恋をしている相手なのである。
15歳年が離れている上に教師と生徒、高校教師ならぬ中学教師だ。ふたりの前途は多難だった。
が、それ以上に厚い壁がカノンの前に立ちはだかる。
それは世界屈指の大手企業であるオリンポスで、その一会社を任されているハーデスという男が恋敵として現れたのだ。流石に金に飽かすことはないものの最大のライバルであることは否めない。
「で、必死なわけか」
「お前だってそうだろう、いったいシュラに何をねだられたんだ」
そういうとデスマスクはため息をついた。
シュラは同じ中学の家庭科教師で、一応デスマスクの恋人だった。
「カプリコーンって、知ってるか?」
「ああ、有名なキッチングッズの会社だろう、それがどうしたんだ?」
「そこの新作包丁とナイフ一式欲しいだとさ」
カノンは返す言葉を必死に探したのだが、見つからなかった。
確か誕生日には同じくカプリコーンの中華包丁セットをねだられて買ってやっていたのではなかっただろうか。
「ちなみに5万とかするんだよな……」
「まあ、頑張れ、デスマスク」
カノンは徳利の酒を彼の杯に注いでやり、鳥皮を注文してやった。
「すまねえな、カノン……って、いちばん安いやつじゃねーか!!」
「黙れ! 驕ってやるんだから黙って驕られろ!」
おやじさんはそんな二人を黙ってみている。彼らが店を壊さない程度に騒いでくれると、賑やかな店だと思われて客が入ってくるからだ。おやさじんはおごりだと言ってふたりに一本ずつ酒をくれたのだった。



青年たちが居酒屋で騒いでいた頃、黄さんのお宅では母と息子が互いに相談事を持ちかけていた。
「ねぇねぇ、天化! 卒業式は何を着たらいいかしら? やっぱり着物?」
「なあなあ、おふくろ! ホワイトデーってなに贈ったらいいんだ? マシュマロとかクッキーとかキャンディーとか諸説あってわかんねーよ!!」
母親は洋服を、天化は頭を抱えてリビングで鉢合わせる。
そしてお互いの唇から「どうでもいいんじゃない?」という言葉が同時に飛び出すと、ふたりは押し黙ってしまった。
「薄情ね、天化。あなたの卒業式に出たい母心なのに……」
「おふくろこそ!!」
天化にしてみれば卒業式よりもその前日のホワイトデーなのだ。
ほんの数ヶ月年上なのにそのせいで一学年上になってしまった恋人に精一杯のお返しをしたいだけ。
だが母である賈氏はつまらないとばかりに頬を膨らませた。
「なんでもいいのよ、気は心なんだから。それよりどっちがいいと思う?」
「どっちでもいいんじゃねぇの? 気は心だろ?」
グレーのスーツか、若草色の着物か。
ああいえばこういう親子に、一家の家長である飛虎が呵呵大笑しながら新聞を抱えてやってきた。
「賈氏はなんでも似合うんだからいーじゃねーか。天化も、大事な女にやるもんは自分でばしっと決めろや! それが男ってもんだぞ!!」
豪放磊落な飛虎は賈氏の黒い髪を撫で、口づけた。いちばん下の天祥もそろそろ小学校の中学年になろうかというのにこの両親は相変わらず仲がいい。
天化は父の言葉に脳天を打たれたのか、しばし呆然と動かなかった。
そうだ、俺っちにとって師叔は世界で一番大事な人だ。その彼女に贈るものくらい自分で選ばないとかっこ悪い。
天化はばしっと自分の頬を叩くと、決意を秘めた瞳でリビングを出て行った。
そんな息子の背中を見送って、飛虎はにっと口角をゆがめた。
「だんだん、いい男になりやがる」
「ねぇ、あなたはどっちがいいと思う?」
ソファで新聞を読みかけていた飛虎はその二つを見比べてううんと唸った。
「どっちのもいいけど、俺ぁあの藍色の着物が好きだな、お前らしくって」
「じゃあそれにするわ!」
賈氏がとびっきりの笑顔で手にしていた服を持っていくのを、飛虎は苦笑とともに見ていた。
女の子が欲しいと頑張ってみたが生まれた子はみんな男の子だった。
賈氏は寂しかったのかもしれない。
だから妻の洋服選びの相手くらいは自分がしてやるんだと、飛虎は幸せそうに目を伏せた。



小学校教諭であるゾロリが帰路についていた頃、あたりはもう真っ暗だった。
サガが星を眺めていたのだから、月は遅く遠く昇るのだ。
「んー、疲れた……」
大き目のバッグを肩から背負っていたゾロリはふうとため息をついていた。
年度末は公官庁、民間係わらず多忙な時期である。
学校だと来期のPTA人事からクラス編成、通信簿作成とやることはいろいろあるのだ。しかし個人情報の漏洩を防止するという観点から書類やデータをハードで持ち帰ることはできない。
「もー、定時に上がりたい……」
「生意気言ってんな、ゾロリ」
ふと背後から聞こえてきた声に、ゾロリははっと振り返る。
そこにはよく知っている友の顔があった。
「えっ、タイガー?」
「ああ、久しぶりだな、ゾロリ」
潮に荒れた真っ黒な髪、凛々しい虎の耳を持つ男とゾロリは大学の同級生だ。学部こそ違っていたが、なぜか仲が良かった。
「いつ、陸に?」
「昨日だ。これから1週間休暇なんだ」
「へぇ……あ、俺んちこの近くなんだ。寄ってくか?」
「ああ」
タイガーは頷き、ゾロリの隣を歩く。こうして一緒にいるのは何年ぶりだろう。
「お前は相変わらずだな」
「そうか?」
相変わらず綺麗だという言葉を、タイガーはこっそりと飲み込んだ。ただ雰囲気が若干変わっているところを見ると、男ができたのかもしれない。そんな予感が彼の中をよぎる。
「大変だろ、航海士って」
「訓練が半端ねーな。陸に上がったのは久しぶりだぜ」
「ふーん……」
精悍だった男の顔はなお一層の渋みを増している。ガオンとはまた違った男の匂いに、ゾロリはどこか懐かしささえ感じていた。
「なあ、ゾロリ?」
「ん?」
タイガーはふと立ち止まる。ゾロリも釣られて立ち止まると、いきなり壁に押し付けられた。
「くっ!」
「ゾロリ……」
「なにすんっ」
だと、最後まで言えないうちに。
彼女の柔らかい唇がタイガーのそれに奪われていた。ゾロリは驚愕のあまり漆黒の瞳を大きく見開く。
「ぅんっ!」
「ゾロリ、俺はっ……」
「ゾロリ!!」
近づいてくる足音にタイガーは舌打ちをして逃げ出した。ゾロリはそのまま路上にうち捨てられ、呆然と座り込んでいる。彼女は我知らぬうちに涙をこぼしていた。
「ゾロリ、大丈夫か!?」
「ガオン……」
ガオンはダーティーブロンドの髪を乱しながら、彼女を助け起こした。
服のゴミを払ってくれる手は何処までも優しいのに。
「ゾロリ、どこか怪我はっ」
そう言いかけたガオンは最後までいうことができなかった。
涙に触れた顔のまま、ゾロリが口づけてきたからだ。
哀しいほどに温かい唇、ガオンは彼女の頬に手を添え、節くれだった指で涙の痕を吹いてやりながら口づけを返した。
「どうしたんだい、いったい……」
「なんでもない」
「なんでもないってことはないだろう? そんなに泣いて……」
逃げた男のことも気になったが、ガオンにとって今一番大事なのはゾロリだった。彼女をこのまま放っておくことはできなくて、ガオンはゾロリを家まで送っていくことにした。
この夜の出来事がふたりをより一層近づけることになるのだが、それはもう少しあとのお話。
とりあえず舞台を変えて、今度はカシオペアさんちを覗いてみよう。



カシオペアさんのおうちでは、コード兄さんがソファにふんぞり返る横で妹たちが一生懸命キャンディーを詰めている。買うよりも大入りキャンディーを買ってきて詰めた方が安上がりなのである。
見目麗しい文武両道の青年を女の子たちが放っておくわけもなく、毎年お返しが大変なのだ。カシオペア家では恒例行事のひとつとなっている。
だがコードにとって価値のあるバレンタインの贈り物はたった一つだけなので、正直なところ他はどうだっていいのである。
だから妹たちも兄に手伝えとは言わない。
そのかわり本命のお返しだけはしっかりと選んでもらわなければ困るのだ。そうでなければ自分たちのこの作業が報われないことになる。
「お兄様、エースへのお返しはちゃんと用意してあるんですの!?」
エモーションが喚きたてるように言うと、コードは煩いとばかりにそっぽ向いた。剣の道に邁進していても恋の道には全くもって不精進な彼は、実は何を用意すればいいのかさっぱりわからない。コードは彼女の誕生日と並んでホワイトデーが苦手だった。
そんな兄を前にユーロパがリボンを結びながら言う。
「いっそ兄様が身一つで乗り込んでシグナルを攫って逃げれば万事解決するのよ」
「それですわ!!」
三姉妹がぱんと手を打って、それから兄を見てにやりと笑う。
その凄惨な笑みにコードは残酷な何かを見た。
「お、お前ら何を考えている?」
「いや、兄様には鮮やかな真紅のリボンが似合うかと思って」
「桜色の髪には映えるかもしれませんわね」
おっとり天然のエララまでそう言い出し、コードは一目散に逃げ出した。剣を嗜むものとして敵前から逃亡するのは恥だが、この場合はいたし方あるまい。
シグナルはカシオペア家のちょうど真裏に住む音井家の次女である。藤色の豊かな髪と瞳を持つ少女で、コードと同じ剣の道を行く剣術小町である。そんな彼女は生まれてすぐにコードの運命を握り締めていたと言ってもいい。
コードはベッドに寝そべり、考えてみた。
誕生日に彼女に贈ったアメジストのペンダント。彼女はとても喜んでくれた。
しかし、同じようにリングを贈ろうとしたらそれは頑なに拒否するのだ。自分で購入しているのか、はたまたもらうのか、オラトリオたちに買ってもらうのか、シグナルはリングを嫌いだというわけでもないのに。
その理由がわからず、コードも妹たちも首をかしげるのである。
「面倒だ……バレンタインデーもホワイトデーも」
そんなものがなくったって、コードがシグナルを思う気持ちは変わらない。
それは彼女だって同じことなのだろうと思う、が。
「しかしなんだって指輪を嫌がるんだか……」
思案に暮れる彼の世界に藤色が絶えない。



思案に暮れているのは彼だけではなかった。
いつもクリフトに迷惑ばかりかけている――つもりはないのにどうしてもそうなってしまう――アリーナは、彼女に対して日ごろの感謝の気持ちと愛を伝えたいのだ。しかしクリフトはそんなことは当然なのだから気にしないでほしいと笑うだけ。
自宅から通える大学に既に進学を決めていて、手続きも済んだ。4月からは晴れて大学生になるのだ。
もちろん、クリフトも一緒に。
彼女は今アリーナの父に呼ばれてそばにはいない。
ほんの少しいないだけなのにこんなにつらい、という現実。もう彼女から離れることはできないのだろうと、アリーナは情けないながらもそう決心していた。
いや、離れないのではなく、これからは離さないようにしなければならない。
「けど、クリフトは私をぜんぜん頼ってはくれないし……」
頼まれることといえば買い物の時の荷物持ちくらい。そろそろ帰ってくるなと部屋の外に出てみる。
廊下には藍色の髪が鮮やかな彼女の姿があった。
クリフトはアリーナが仔犬のように部屋の外に出ているのに気がついてにこりと笑う。
「アリーナ様」
「父さん、何の話だった?」
「いくつになったのかと、聞かれました」
「……詳しく聞かせて」
こっくり頷いたクリフトに対し、アリーナの表情は真剣そのものだった。
「え、縁談?」
「はい、もう18ですから。大学卒業後で構わないとのことでしたが」
クリフトの両親は既に鬼籍の人だった。ふたりとも交通事故で亡くなったのだ。この事故で亡くなった人の中には呂望の両親も含まれている。
そんなクリフトはアリーナの両親に引き取られた。彼女の両親はアリーナの屋敷に仕えていた家政婦と運転手だったのだ。アリーナと年が同じこともあって、彼の両親はクリフトを我が子のように可愛がり、進学までさせてくれた。
「アリーナ様にご両親には本当にお世話になって……本当は高校を卒業したら家を出るつもりだったのですけれど」
「そんなこと、父さんが許すはずない」
「はい、それで有難くも進学させていただくことになりましたが……いつか恩返しをしなくてはと思っておりました」
クリフトの藍色の髪が夜の明かりを受けて虹色に煌いた。
アリーナがぎりっと唇を噛み、拳を握り締めた。
「それで、父さんの言うなりに結婚するって?」
「ええ。本当に私にはもったいないお話だと思います」
クリフトが嬉しそうにそういうと、アリーナは乱暴に壁を叩いた。
部屋中が揺れるほどの、激しい感情。
クリフトはびっくりしてはっと顔をあげた。
「あ、アリーナ様?」
「私は、そんなの認めないよ。認めないからな!!」
珍しく激昂するアリーナにクリフトは瞠目せざるを得なかった。正直なところ、どうしていいのか分からなかったのだ。
「アリーナ様、最後まで話を」
「聞きたくないっ!!」
それだけ言い捨てて、アリーナは部屋を飛び出した。そして自室にたどり着くとベッドにもぐりこみ、頭から布団をかぶってしまった。
ドアをノックしているのはきっとクリフトだろう。
だけど出たくはなかった。
「クリフトのバカ……」
君を守るって決めた私の決心はどうなるんだと、彼はただ悔しさに震えるしかできなかった。



人の話を最後まで聞かないのは男に備えられた機能なのかもしれない。
全員が全員そうだとは言わないが。
「ハーデス様、私の話を聞いていらっしゃいました?」
「聞いていた。が、感情が先になってしまった。余の愛はこのような小物では現しきれぬが仕方あるまい」
彼の場合は話を最後まで聞いていたが、内容を理解する力に欠けていたようだ。
ミーノスはわざとらしく頭を抱えてため息をついた。
モノトーンを基調としたオフィスの外では不夜城の幻燈が人の欲望を具現化して妖しく煌いている。
むくれるハーデスのデスクの上には可愛らしくラッピングされた直方体の小箱がちょこんと乗っかっていた。
「だから、いったい何がいかんというのだ! 今どきは中学生だとてブランド志向というではないか!」
「それは極端な例なのです! 確かに憧れはしますし、所持率が上がっているのも事実ですが、瞬様がドン引きするのはわかっておりましょうと申し上げたのです!!」
「ドン引き!? 有名ブランドのペンダントでか!?」
確かに質素清廉を絵に描いたような瞬は、ブランドのペンダントなど恐れ多くて受け取れないとばかりに受け取りを拒否するだろう。ミーノスは瞬に合わせたお返しをと提案したのにハーデスは何にも聞いちゃいなかった。
勝手に某有名ブランドの主宰に特注でお揃いのペンダントを作らせていたのだ。
「世界でたった二つ! 余と瞬のためだけに作らせたのだぞ!!」
やっちゃったよこの人、とミーノスは思った。
中学生相手に高級ブランドのアクセサリーをペアで作るなんてなに考えているんだか。
しかも彫らせた文字が『Your's Ever』――永遠にあなたのもの、なのだ。
綺麗にラッピングされた箱を抱いて幸せそうに笑っているハーデスを見、ミーノスは何も言えなくなってしまった。
愛に形はない。
「法律に引っかからない程度にお願いしますよ」
「ラヴェンダー女史にも同じことを言われたな」
ミーノスはやれやれとため息をついて市長室を出た。退社しようとエレベーターホールに向かっていると同僚のラダマンティスとアイアコスも今頃帰宅なのか、大きなビジネスバッグを持ってそこに立っていた。
「おや、おふたりとも今ご帰宅ですか?」
「ああ。残業が多くてな」
「早く帰らないとルネちゃんが待ってるんだろっ?」
アイアコスがうりうりと肘でつつくとラダマンティスは小さく呻いた。
ルネは法学部に在籍している現役の女子大生である。が、同時に彼の奥さんなのだ。
彼女がこの会社が企画したイベントのスタッフとしてバイトしているときにラダマンティスが見初めたのである。電光石火の早業に流石のミーノスも唖然とするしかなかったのだという。
ラダマンティスは照れながらも、愛妻が待っていると言われればそれを否定しない。
「ということだから、あなたに頼むと可哀想ですねぇ」
「なにがだ?」
話が見えないラダマンティスはやってきたエレベーターのボタンを押し、ミーノスとアイアコスを先に乗せた。
イギリス出身の彼にしてみれば当たり前のことをしているのに、それが女性陣にはかっこよく映るらしい。
が、既に妻帯しているときいて残念がる女性が多いのも確かだ。
「実はハーデス様がいつものようにやらかしてくれましてね」
ミーノスが事情を説明する間、ラダマンティスとアイアコスはさもありなんとばかりに相槌を打っていた。相槌を打つ以外にことは流石にできなかったのである。
「というわけで普通のお返しも用意してほしいんですよ、男目線で」
「なるほど、じゃあやっぱりラダマンティスには頼めないな!」
「お前にも頼めないだろう。俺でよかったら買っておくぞ」
「助かります」
ハンカチやポーチなど、可愛らしいものでいいからとミーノスは一応念を押した。
「あ、領収書切ってもらってくださいね、ハーデス様に回しますから」
誰もポケットマネーで出すとは言わないあたりがシビアだ。



さて、ホワイトデー前の週末のデパートは込み合っていた。
サガとカノンとデスマスクという珍しい取り合わせも今日という日には仕方がない。
「お前たちは、義理のお返しは買わないのか?」
「切りねーもん」
「金ねーもん」
カノンはともかくデスマスクの言い分には流石のサガも情けないとばかりに頭を抱えた。
「じゃあ、私は1階のアクセサリーコーナーにいるから。お前たちはどうする?」
「俺はキッチンコーナーだから6階だな」
シュラ御用達のキッチン用品ブランド・カプリコーンはこのデパートにテナントを持っている。
「カノンはどうする?」
「俺も、このフロアにいる」
「じゃあ、30分後にここで落ち合おうぜ」
デスマスクが時計を見、サガとカノンも了承したとばかりに頷いた。
エスカレーターで階上へ向かうデスマスクを見送って、サガは胸ポケットからチケットを取り出した。
「なんだ、それは」
「予約券だ。確実に入手したいからな」
同じ双子なのにサガはわりと慎重だ。対するカノンはわりと行き当たりばったりなのにうまくいっていたりする。
さてとカノンは瞬へのお返しを物色し始める。流石に今回は熱心に予習をしてきただけあって迷いは少ないようだ。
「あんなに必死なカノンは入試のときでさえ見たことがない……」
デパートの係員が処理に行っている間、カノンを眺めていたサガはそう呟いた。そんな彼はカード一括でしっかりとネックレスを購入している。
カノンのあまりの必死さに店員さえ寄り付くのを恐れて遠巻きに見守っている。
ふと、店員さんがケースの外側を見ると、そこにはやっとガラスケースに背が届くほどの男の子がふたり立っていた。そっくりなところを見ると彼らも双子らしい。同じ双子でもやっぱり可愛いほうがいいやと、その店員さんは男の子たちの相手を始めた。
「いらっしゃいませ。ホワイトデーのお返しかな?」
「んだ、お返しを買いに来ただよ」
茶色いイノシシの耳をぴくんと揺らし、男の子達はにっこり笑った。
殺気立つイケメンとは対照的な、ほわわんとした空気。このときそこにいた店員さんたちは癒されましたと語っている。
「どんなのがいいのかな?」
「髪につけるやつが欲しいだ。キラキラしてて、綺麗なの」
「おらたち、1000円しか持ってないから……その」
そういうと兄らしい男の子――彼はイシシ――が上目遣いに店員さんを見た。何処か不安そうなその顔に、店員は思わず笑みを零した。
「じゃあ、それくらいのを探してあげるから待っててね」
「んだ!」
弟のノシシがぱあっと笑顔になる。可愛いものが大好きだったその店員さんは底知れぬ癒しを感じながらイシシとノシシのためにいくつか髪飾りを見繕ってあげるのだった。
カノンは相変わらず必死だ。そのカノンの横でラダマンティス夫妻が買い物をしている。
「なんだ、カノンじゃないか」
「ラダマンティス……お前は夫婦で買い物か?」
ラダマンティス夫妻は社長であるハーデスとカノンとの意味不明な争いを知っているので、本当の目的を隠して頷いた。
「ホワイトデーにはルネが欲しいものを買ってやろうと思ってな」
傍のルネは幸せそうに微笑んでいる。それが羨ましくて、カノンは微苦笑して見せた。
「幸せそうでいいな」
「ああ」
これだけは誇れると、ラダマンティスはしっかりと頷いてみせた。
「じゃあな」
「ああ」
そっと妻の背中を押し、別のコーナーへと消えていく夫妻を見送ってカノンは溜息をついた。
「……瞬に喜んで欲しいだけなんだ、俺だって」
カノンはまた品物とにらめっこを始めた。
「危なかったですね、ラダマンティス様」
「ああ、別のデパートにしたほうがよかったかな」
「でも重なったら面倒ですから、何を買うか見届けてからでも遅くはないと思いますけど……」
夫妻はぼそぼそと呟きあいながら肩越しにカノンを観察する。
そう、ハーデスがやらかしてしまった以上、彼の恋を成就させるか否かは自分たちの手にかかってしまったのだ。
軽い気持ちで引きうけたのだが、よく考えれば春からの新事業計画よりも大変だ。
「ところでルネ、お前は何がいいんだ?」
「え?」
カノンを見張りやすいジュエリーのコーナーに立っていたラダマンティスは、ひとつのペンダントを手に取る。
灰銀色の髪を持つルネに、そのクロスモチーフのペンダントはよく似合っていた。
「お前が欲しいものを、選ぶといい」
「私は……その……」
喧騒の中、彼女の囁きはラダマンティスにしか聞こえなかった。
ただ彼が頬を赤らめ、手にしていたペンダントを無意識のままに購入していたのをルネだけが見ていた。
「ラダマンティス様?」
「すまない、寂しい思いをさせているのだな」
「いいえ、そんなことは」
小さなペーパーバッグを提げ、空いた手でルネの細く柔らかい手を握る。
「ルネ、もうラダマンティス様と呼ぶのはやめろ、夫婦なんだからな」
「はい、ラダマンティスさ……ん」
様がさんにかわっただけだけど、それでも他人行儀なところがなくなればいい。ラダマンティスは未だ悩み続けているカノンに仄かな苛立ちを感じるのだった。
さて、その夫妻から少し離れたところでイシシとノシシの双子の兄弟は店員さんから髪飾りを見せてもらっていた。
紅色の縮緬で作られた、椿の花を模したそれがイシシの目に止まる。
「これ、似合うんでないか?」
「んだ!」
ノシシが可愛らしく声を上げる。
「コンドルクリップって言ってね、くちばしみたいでしょう」
店員さんの説明にふたりはおおと声を上げた。
「簡単につけられるからオススメよ」
「じゃあ、それください」
イシシとノシシは即決した。そして金色の髪にそれを挿したところを想像して悦に入っている。店員さんがラッピングしてくれている間も彼らはえへえへ笑っていた。
きっと彼らの大事な人はこれを受け取ってありがとうって言ってくれるだろう。
「はい、出来たよ。それからこっちはおつりね、落とさないようにね」
「ありがとうだ、お姉さん」
「ありがとだ!」
店員さんはイシシにおつりを、ノシシに髪飾りを渡すとバイバイと手を振ってあげた。
「かわいいよねー」
「あれこそ真の癒しよねー。ところでまだいるの?」
「……いる」
もうほとんど殺気に近い気を放ちながら、カノンはまだ瞬へのお返しを選んでいた。ラダマンティス夫妻が帰るに帰れないでいたのだが、カノンにしてみればそんなこと知ったこっちゃないし、実際知らなかった。
そんなカノンをものともせずに近づいていく一人の青年がいた。
鮮やかな桜色の髪がまだ浅き春を優しく思い起こさせる。彼はカノンの手元を一瞥しただけでその場は素通りした。
ちょっと前の彼女ならああいったものを喜んだかもしれないが、流石に高校生ともなると、と思いなおしたのである。
「さて、俺様は、と……」
ホワイトデーなど面倒でいかんと呟きながら、彼――コードはすたすたとフロアを抜けた。
誕生日だなんだと贈り物をさせられるが、本来彼はそういったことが苦手なのである。しかし自らがプレゼントとして放りこまれるのに比べればまだマシだと、こうして仕方なく脚を運んでいる次第なのだ。
妹たちに大体の見当はつけてもらっていたので後は実物を見て決めようと、コードはケースの中を覗き込んだ。
自分にはやはりよく分からないが、女の子というものはこういうキラキラしたものを好むらしい。
「どれがいいんだ?」
その日、コードの対応をした店員さんはカノンとは別の意味で声をかけにくかったと証言している。
それほど彼も真剣だったのだ――自分が真っ赤なリボンをさせられてシグナルの前に放り出させるという屈辱を味わわないために。
程なくコードは、紫硝子で作られたジュエリーケースをひとつ買った。
シンプルな作りだが、硝子同士をつないでいる銀の縁取りがしてあり、ネコ脚に支えられている。
彼女は喜んでくれるだろうか、という一抹の不安がコードをよぎる。自分はシグナルを思っているし、彼女だって自分を思ってくれているはず。だから何を贈ってもきっと、という自信にも似た確信さえあった。
だが、思いあがってはいないだろうか。慢心はいつだって足元を掬うのだと、剣の道に勤しんでいたコードは自制する。
物で心をつなぎとめておけるわけではないけれど、それでも。
コードはそのケースを大事に抱え、息をついた。
「面倒だな」
そう言ったわりに、彼は珍しく微笑を浮かべていた。
そしてコードが去った後、六階のキッチン雑貨のコーナーからカプリコーンの包丁セットを抱えたデスマスクが降りてきた。
「よう、サガ」
「デスマスクか、ちゃんと買えたか?」
「おうよ」
デスマスクは嬉々として提げていた紙袋を持ち上げた。サガも嬉しそうに笑う。
「それはよかったな、私への借金も早く返してくれよ」
「へぇへー」
もう戻ってこないかもしれない五万円を思い、サガは溜息をついた。そして未だに決まらないらしいカノンに業を煮やし、とうとう頭を叩きに行った。
「カノン! なんでお前はそう時間がかかるんだ! デスマスクでさえもう下りてきているんだぞ、デスマスクでさえ!!」
「いや、あんまりでさえでさえ言うなよ、俺がダメ人間みたいじゃねーか」
「実際ダメ人間だろうが! 金返せこのド阿呆が!!」
こういった公の場では珍しいのだが、サガは機嫌が悪くなると髪の色が黒くなる。要するに特異体質なのだ。
実際サガの髪は三分の一ほどがソースにでもつけこんでいたかのように漆黒に染まっている。
デスマスクに関して言えばもはや八つ当たりの領域なのだが、黒サガが怖いので誰も何も言わないで黙っている。反抗できるのはカノンくらいなものだ。
「うるさいっ! 俺は今真剣なんだ!」
「黙れ! お前は他人に迷惑をかけているという事実に気がつかんのか! 周囲を見ろ! みんなお前のせいでここを素通りしているだろうが!」
サガに言われてみて、カノンは初めてその事実に気がついたようだ。そう言えば自分の隣で商品を見ていた男性を睨みつけたような覚えがある。
「これ、中学くらいの小娘なら喜ぶんじゃね? 普通に可愛いしな」
そう言ってデスマスクが取り上げたのは薄茶色の小さな熊のぬいぐるみだった。首には銀色の鎖、薄紅色したハート型の水晶を提げている。値段もそこそこで、中学生へのお返しとしては最適なものだと言える。こういうことに関して、デスマスクは目聡かった。
サガもこれならいいだろうと、それをカノンにつきつけた。
「さっさと買ってこい」
「チッ」
最終判断で迷っていたのは色に関することだけだったので、カノンはそれをもって支払いにいった。
「まったく、我が弟ながら世話が焼ける……」
「大変だなぁ、双子だってのに」
「双子だから大変なんだ……」
サガの溜息はどんどん深くなっていく。戻ってきたカノンを見、デスマスクはげんなりと肩を落としていたサガを連れてデパートを後にしたのだった。そのあとでラダマンティス夫妻が同じものを避けるようにして買い物を終えたことを付記しておく。



そして白い恋人たちの戦場たるホワイトデーがやってきた。
クリフトはあの日以来不機嫌になったアリーナにどう接したららいいのか分からず、悩んでいた。
「アリーナ様……」
今日も彼の部屋のドアを叩こうとして、握った拳を下ろす。
きっと自分の前にある縁談について怒っているのだろう。無理もない、のかもしれない。幼いころからずっと一緒にいて、これからも一緒にいると言ったのに。その、同じ唇で今度は縁談が持ち上がっていると言えば面白くないのは当然だ。
だけど。
どう話したら、彼は納得してくれるのだろう。
「確かに私の縁談ですが、相手が誰とは言わなかったのに……」
アリーナの父の望まれて、そして納得ずくで、私は――。
「アリーナ様……」
クリフトは祈りの形に手を組んだ。そしてその場に跪く。
許しを乞う必要などないのだけれど、それでも怒らせているのなら、誤解をさせているのなら謝りたくて。
そんな彼女のそばに、頼もしい味方が現れた。温泉旅行に行っていたブライが戻ってきてくれたのだ。彼はアリーナの父から事情を聞いているらしく、にこにこと好々爺の笑みを浮かべてクリフトに近づいてきた。
「大丈夫かの、クリフト殿」
「ブライ様……」
早くに妻をなくし、子のなかったブライにとってアリーナもクリフトも孫のようなものだった。その孫娘が苦しんでいるのを
見ておれなくてときどき手を差し伸べる。ただしそれはクリフトに対してのみで、アリーナに対しては拳や足が出ることがある。
ブライはクリフトを立たせると、そっと膝の埃を払ってやった。
そして大きくなったなと目を細めた。かつては自分の膝の乗せて可愛がっていたクリフトを、今ではもう見上げなくてはならない。
「お話は、御主人から聞きましたじゃ」
「ブライ様、私……」
俯けばこぼれそうな涙をこらえようとすればするほど、彼女の目頭が熱くなる。ブライはそんな彼女を宥めるようにひょいと背伸びして、肩を叩いてやる。
「わしが、話をしてきましょうぞ」
「はい……」
ブライはあくまでふぉふぉふぉと笑いながら、アリーナの部屋のドアを蹴り開けた。
そしてつかつかと部屋に入ると後ろ手に閉めてしまった。外に取り残されたクリフトに、中の様子はわからない。ただドタンバタンと音がした後、断末魔の声が聞こえて、やがて静寂があたりを包んだ。
「い、いったい何が……?」
一抹どころではない不安に襲われ、クリフトがドアに手をかけたとき、ブライがすっと出てきた。あれだけの騒音のわりに彼は傷はおろか埃のひとつも被っていない。
「ブライ様、いったい何を」
「アリーナ様とお話できるようにしておきましたじゃ。あとはご自身でな」
呆然とするクリフトの横を、とんがり頭のブライが静かに通りぬけていった。クリフトは礼を言わなければと慌てて振りかえったのだが、彼の姿はもうなかった。
クリフトは見えぬ祖父の姿に頭を垂れると、きっと心を据えてアリーナの部屋のドアに手をかけた。
「アリーナ様、入りますよ……」
物音のしない部屋に、アリーナの呻き声が聞こえて、クリフトははっと足元を見る。
するとそこにはブライにけちょんけちょんに伸されただろうアリーナが転がっていたのだ。驚いたクリフトは慌てて彼を抱き上げる。
「アリーナ様、しっかりなさってくださいませ!!」
「くそっ、ブライめ、手加減を知らないんだから……」
幼いころからおいたがすぎると、ブライは容赦なくお仕置きを与えた。それは今でも全く変わらず、しかも手加減がない。
アリーナは背中を打ちつけたと見えて、そこに手を廻している。がうまく届かないらしく、クリフトが変わって撫でてやった。
「クリフト……」
アリーナは彼女の変わらぬ献身さに顔を伏せた。
「ごめん、クリフト」
「アリーナ様……」
彼らしくない弱々しい声に、クリフトは背中を撫でていた手を止めた。
「ごめん。君がどこまでも私を思っていてくれているなんて、思えなかったから……私は君を頼ってばっかりだったから愛想をつかされたのかと思ったよ」
「そんなことは、絶対に」
力強く宣言した彼女の目は想像しうる最高の夢を見せてくれる。
「大学を出たら君が結婚する相手は」
「あなたです、アリーナ様。どうか末永くクリフトをおそばに……」
そう言ったクリフトの瞳から、ぽろぽろと涙があふれてきた。アリーナはぎょっとして起きあがり、クリフトを宥めにかかる。
「ちょっ、どうして泣くのさ!?」
「すみません、なんだかほっとして、力が抜けちゃって……」
その透明な涙に、彼女はどれだけの負の感情を溶かしているのだろう。
アリーナはぎゅっとクリフトを抱きしめた。
「あっ、アリーナ様!?」
「……愛してる。ずっと一緒だよ」
「――はい」
そうして私たちは残酷な恋人になろう――もう他には誰も、恋人として愛することはないのだから。



春まだ浅き校庭、そこに凛と立つ桜の木はまだ蕾もついていない。
その桜の木を、ゾロリはぼんやりと眺めていた。
父がいなくなり、母が死んだ春が、ゾロリは嫌いだった。
けれどいないと思っていた祖父、同じ境遇のイシシとノシシに出会ったのも春だった。それが春という季節の宿命だというのならそんなに嫌うこともないのかもしれない。
卒業式まであと数日。彼女の背後では来賓の人数確認や仕出し弁当の件で教頭がおおわらわしている。
やがて終業時間になったのだが、学校の先生が定時に帰れるはずもない。彼女が学校を出たのは七時を回っていた。これでも早いほうである。そんな彼女の隣をガオンが歩いていた。
「大丈夫かい? 元気がないようだけど」
「……あのさ、ガオン」
ゾロリはガオンの問いには答えずに、話を始めた。むしろこれが問いの答えであるとは、ガオンはまだ知らない。
彼は彼女の言葉を待った。
「俺、この前プロポーズされたんだ」
「……は?」
ガオンの耳はロバのものではなく、狼のものである。聞き違えたはずはないが、ガオンは思わず聞き返した。
ゾロリは重い口を開いた。
「この前、俺が一緒にいた男がいただろ、お前が来たら逃げちゃったあれ」
「ああ、あの男……って、ええーっ!?」
思わず大声を出したガオンの口を、ゾロリは自分の手で塞いだ。
「バカッ、声が大きい!」
「す、すまない……」
ふたりは小さな声で周囲に対し、ごめんなさいと囁くと話を続けた。
「あの男は俺の幼馴染で、タイガーって言ってさ。今は船舶会社で航海士をやってるんだ」
「へぇ……」
並んだ靴音があたりを満たす。街灯も多いけれどそれがかえってゾロリの横顔が憂いに満ちていることを鮮明にさせてしまう。
「そいつが、俺と結婚しようって言ってきた。あいつは船に乗ってるから気にしないで今のまま仕事を続けても構わないって言ってくれたけど……」
「それは君が望んでいることじゃない、そうだろう?」
ああとゾロリは頷いた。肌と肌とを触れ合わせ、最奥で繋がったふたりだから、それだけ分かり合うこともあるようだ。
「俺は、今の仕事も好きだけど、でも本当に欲しいのは、ばらばらにならない家族なんだ……」
突然失踪した父、その父に代わりに働いて疲れて死んだ母。
祖父のコンロンが幼いゾロリを引きとって育ててくれはしたけれど。
さらに、イシシとノシシという双子を養子に迎えて育てはしているけれど。
「俺にとっては大事な家族なんだ。そしてこれから作りたいのは……」
「だから、君のその願いは私が叶えるよ。君は私と結婚すればいいんだ」
「ガオン……」
ガオンは悠然とした笑みを浮かべ、ゾロリを抱きしめた。
もしかしたらこれは甘美な毒なのかもしれない。
だけどそれでも構わないと思った。もうなくさないで済むのならそれが毒でも。
覚悟があるのなら、あるいは、覚悟を決めたのなら。
「ゾロリ、私と一緒に生きよう……」
「ガオン……」
その日、ゾロリは答えを出さなかった。タイガーもあれ以来連絡を寄越さないでいる。
ゾロリがガオンと結婚するのはこの年の秋の事だった。



そのゾロリ先生とガオンが通りすぎた通りに、城戸さんのお宅があった。
今日はホワイトデーということで、瞬にお返しをするかわりに今日は家事一切を代わってやるのである。
「ねぇ、紫龍」
「なんだ、瞬」
瞬はキッチンのまわりをちょろちょろしながら、紫龍に話し掛けている。
「気持ちは嬉しいんだけど、なんか不安で……言っちゃ悪いんだけど二度手間になりそうな気がするの」
瞬の不安がよく分かるのか紫龍は曖昧に笑うだけに留めた。彼はいつも瞬と一緒に家事をしているから心配はないのだが問題は残る星矢と氷河、それに一輝である。
普段は絶対に家事なんかしない連中が今日に限って頑張ってくれるというのは本当に嬉しいのだけど。
言っているそばから星矢が手を滑らせて皿を割るし、氷河は皿の裏を洗わないで紫龍から手厳しいチェックを受けていた。
こうなると一輝のように逃亡を図ってくれるほうが今はどれだけありがたいだろう。
瞬がため息をついたそのとき、可愛らしいベルの音が鳴った。
二人揃って振りかえる。瞬がぱたぱたとスリッパを鳴らして玄関に向かう。いきなり開けずにインターフォンで確認すると画面いっぱいに笑顔が見えた。
「今開けますね」
相手が誰なのか確認した瞬はサンダルに履き替えてドアを開けてやる。
するとまず飛びこんできたのは薄紅色の薔薇だった。
「夜分に済まぬ。今しか時間がなくてな」
現れたのは瞬の婿候補第一号のハーデスだった。彼は瞬の歳の数、つまり13本の薔薇を彼女に差し出した。
「今日はホワイトデーだから、お返しに来たぞ」
「あ、ありがとうございます……」
大した物じゃなかったのにいいんだろうかと思いながら、瞬はまず薔薇を受け取った。甘くて優しい香り、ほんのりとした薄紅の色に瞬は思わず目を細めた。
「あ、どうぞあがってください」
「うむ」
ハーデスはなんの遠慮もなく瞬の自宅に上がっていく。実はお宅訪問は初めてではない。勝手知ったる他人の家というやつで彼はまっすぐに応接間に向かった。
そして向かい合うようにソファに座ると瞬はもう一度薔薇を堪能した。
うっとりとした笑顔にハーデスも御機嫌で次なるプレゼントを差し出す。
「これがメインなのだ。このような小物では余の愛を伝えきれるはずもないのだがな」
そう言ってハーデスが差し出したのは直方体の小箱だった。包装紙はなんのロゴもないシンプルなもので、それでも瞬はそれを促されるままに開けてみた。
「これは……」
銀、だろうかと瞬は思った。しかしそれは白金で、今は高価なものである。施された装飾は緻密で繊細、たとえプラチナではなくともこれだけで充分価値があるだろう。
瞬が困惑していると冥王はゆっくりと立ちあがり、ペンダントのひとつを取り上げて恋人と呼んで憚らない少女の首にかけてやった。
「あの……」
「大した物ではないから、受け取ってくれ」
某有名ブランドの特注で世界にたったふたつしかないそれのどこが大したことないのかと言いたいところだが、ハーデスは意外と狡賢い男で、そういうことはすまして黙っていた。そしてペンダントじゃなくてこっちを渡しなさいとミーノスに言われていた小さな包みは微妙に正直にミーノスからだと言って渡した。
「すみません、私は本当に大したことはしていないのに」
「そうやって謙遜することろが可愛いがな。もっと自信を持ってよいのだぞ。余は本当にそなたが愛しい。今すぐにでも連れていきたいくらいだが」
だが瞬とハーデスの間には法律という大きな壁があった。
そしてその前には――ハーデスに言わせれば、であるが――カノンという小さなハードルが置いてある。
「カノンからは、何かもらったのか?」
「はい、チョコを差し上げましたから、これを」
瞬が放課後に渡されたという小さな熊をぬいぐるみをハーデスはふんと鼻で笑い飛ばそうとしたのだが、瞬がそれを気に入っているようなので敢えて我慢した。
(余もくまにすればよかったかな……)
ちなみにミーノスの依頼でラダマンティス夫妻が買ったのはこれのウサギバージョンだったのでそう問題はないはずだ。
何はともあれ、ハーデスは瞬にホワイトデーの贈り物を無事に渡し終えたのだ。
「瞬」
「はい?」
最後の贈り物だけ、残して。
ハーデスは瞬にそっと口づけた。
刹那の間の愛しさ――私はいつこんな切なさを覚えちゃったんだろうと、瞬はハーデスの腕を掴んでいた。



ハーデスが瞬に口づけていたころ、お隣のカシオペアさん宅の裏の音井さんちでも、キスをしている恋人がいた。
言わずと知れたコードとシグナルである。
綺麗にラッピングされた小箱を胸に抱いたシグナルが、幸せそうにコードと唇を触れ合わせている。
「シグナル、ひとつ聞いてもいいか?」
「なあに?」
薄紫色のは、薄闇の中でも仄かに光って見える。それほど彼女の髪は雲のように豊かで美しい。
コードは静かに唇を開いた。
「お前に贈り物をするのは苦ではないんだが、何をやったらいいいのか迷うのも事実だ。なんでリングを欲しがらないんだ? お前だって持っているし着けもするだろうに」
「ああ、それ……」
シグナルは少し困ったように微笑みながら、それでもちゃんと答えた。
「コードには、エンゲージリングだけもらうから。それ以外は欲しくないの……」
シグナルの答えにコードは珍しくも長いこと沈黙していた。
彼女の乙女っぽい発想にコードの漢思考がついていけずに止まってしまったのである。
そんな彼をちょっと不審に思いながら、シグナルが彼の前で手を振って見せるにいたり、コードはようやく思考を取り戻した。
「婚約指輪って、お前なぁ……」
「だってぇ……」
シグナルの将来の夢は「お嫁さん」である。しかも「お母さんみたいなお母さん」とか「優しいお嫁さん」といった漠然としたものではなく、「コードのお嫁さん」というかなり具体的な夢を幼いころから固持しつづけていたのである。ただコードのお嫁さんに相応しい女性になるべく、家事に勉学に剣道にと勤しんでいる事実とその努力にはコードも頭が下がる思いだ。
しかし乙女回路とはここまで無茶をさせるものなのかと、コードは眩暈さえ覚えたこともある。
「俺様がお前を嫁に取るとは限らんぞ?」
「他にあてがあるの? コードぉ……」
紫水晶もかくやの瞳を潤ませて、シグナルはくすんと泣いてみせた。どんなに嘘泣きだと分かっていても、男として女性を泣かせるとは言語道断だ。コードはやれやれとため息をついて、それから静かにシグナルを抱きしめた。
「分かったから、泣くな」
「どう分かったの?」
「うっ……」
赤子は生まれたとき、片手に自分の名を、もう一方に運命を握っているという。
シグナルの場合は彼の運命の一部をどこかで掴んで来てしまったようだ。
コードはたっぷり数拍黙った後、唸りながらも言ってくれた――「お前を嫁にもらってやる」、と。
その言葉だけ聞いて、シグナルは桜どころか桃も咲いていない浅春の夜に鮮やかな花を咲かせるのだ。
「ありがとう、コード。私、頑張るからね……」
一方的だ、とは思う。けれどこの一途すぎる思いが叶えられないとき、彼女はどうなってしまうのだろう。
そして、そのとき自分は。
互いに握り合ったのは宿命。
俺様はお前の翼になろう、そして私は誰よりもあなたを守るわ。
比翼の鳥にならんと誓う夜に、ふたりはまだほんの少しだけ若すぎた。



時計の針がまだ七時をちょっとすぎたころだったので、大丈夫だろうと思いながら天化は自転車を漕いでいた。
ホワイトデーのお返しに呂望が大好きな桃源郷の桃タルトを持参し、彼女の家を訪ねたのである。
「ごめんくださーい」
「はーい」
がらがらと引き戸を開けるその小さな手は呂望のものだった。
天化は本人が出てきてくれたのでほっと息をついた。お姉さんの竜吉公主は優しく対応してくれるのだが、兄の燃燈道人はさも天化を邪鬼であるかのように見下している。ついでに殺気も放っている。この兄バカ振りは城戸さんちの一輝といい勝負だ。彼自身も一輝の妹溺愛振りを見たときには燃燈がふたりいると思ったほどだ。
呂望は天化を見てにぱっと笑った。
「どうしたんじゃ、天化。中学生が余りふらふらと出歩いてはいかんぞ」
「すぐそうやってお姉さんぶるさね、師叔は」
ある年の三月三日、呂望が生まれた。それを追うように五月十二日に天化が生まれている。しかし三月と五月の間には日付変更線ならぬ年度変更日が横たわっていたのだ。それゆえに呂望と天化は同じ年にも関わらず学年を隔ててしまっていたのである。
呂望はお姉さんらしく笑った。
「仕方ないじゃろう、事実なのだし」
「ま、気をつけるさ。はいこれ。ホワイトデーだからさ」
そう言って天化は桃源郷の紙袋を差し出した。呂望はおおと感嘆の声を上げる。
「わしの好物じゃ! 天化は最高じゃのう……!」
呂望は受け取った紙袋をそっと棚に置くと、ぎゅっと天化に抱きついた。
背丈の小さな恋人を天化はしっかり受け止める。
「師叔……」
「明日は卒業式じゃな。わしはまだ授業があるから行ってやれんが、胸を張って誇らしく卒業するのじゃぞ」
「うん」
家に帰れば母親が明日の衣装でひとり騒いでいるだろうと思いながら、天化はどこかおかしくて、そして嬉しくて笑ってしまった。
「どうしたんじゃ?」
「んにゃ。俺っち幸せだなーって思ってさ」
だがその幸せも長くは続かなかった。海外に留学していたはずの燃燈がなぜかひょっこり帰ってきていて、妹のようすを柱の影からどこぞの明子さんのように見守っていたからである。
その視線はシベリアの寒波よりも冷たく、殺気がこもっていた。
だが決して屈するまいと頑張る天化を呂望はきゅっと抱きついて励ましてやるのだった。






春がそこまできているから



後日、天化と一輝は無事に中学校を卒業した。
さらにそれから数日後、小学校でも同じく卒業式が行われた。そのときゾロリの髪にはイシシとノシシが贈った鮮やかな緋色の花が咲き誇っていた。
「綺麗だね、ゾロリ」
「今日は俺じゃなくて子どものほうを見ろよ」
「でも教え子はいないんだよな」
ともに三年生を担当していたゾロリとガオンにしてみればただ列席しているだけなのだが、それでもゾロリは前年六年生を担任していたこともあってか、感慨深げだ。
「春に、なるんだなぁ……」
「そうだよ」
天気がよくてよかったと、二人揃って笑う。
巣立った子どもたちは新しい学び舎で何を思うのだろう。
「なあ、ガオン」
「ん?」
「お前はどうしてガオンなんだ?」
朝礼台の上に座っていたゾロリがジュリエットもかくやの問いかけ。ガオンは小さく笑ってその手をとり、口づけた。
「君に、出会うために。軽い恋の翼がここまで運んだのさ」
「――上出来」
ゾロリは満足そうに笑った。






青い空、蒼い海
我らが存在し、愛したこの世界にまた春が巡ってくる



少女は淑女へ
少年は青年へ


さあ、飛びたて
まだ弱き雛鳥たちよ







「久しぶりの、日本ね……」
黄金の翼持つ淑女が空港に降り立った。それが新たな騒動の始まりであると、今はそれだけ告げておこう。






≪終≫




≪色彩は真っ白でも≫
アメジスターズのホワイトデー2008です。いやー、無駄に長いですねww タイガーさん初登場です。職業設定にものすごく困って、とりあえず航海士です。
サガカノンとデスマスクのとり合わせは面白いんだなーと再確認できた話でもありました。
ここまで読んで下さった皆様に感謝です。ありがとうございました!
注: 文字用の領域がありません!

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