見えざる腕 あなたと共に過ごすことは 誰に対しても、本当は残酷なことなのかもしれない だけど、しょうがないじゃない 愛してしまったんだもの 眠れないのはあなたのせい だから今夜はお気に入りの紅茶をお供に 一緒に空でも眺めましょう 「今夜は月がないんですね」 漆黒の夜空に浮かんでいるのは星ばかり。見ているぶんには屑でも構わないけれど、そのほとんどには学術的に名がついており、そのすべては過去の光だ。 夜空を見上げて呟いた少女に、黒衣の青年は周囲を見まわした。 そして少女の呟きを肯定するかのように唇を開いた。その声色は彼女のためだけに作られる優しさを含んだ。 「ああ、今日はずいぶんと細い月だったからな、普通の人間には見えなかっただろう。つい先ほど地平の向こうに帰ってしまったようだ」 アルテミスは月光の象徴だが、月そのものの女神はセレネといい、別の存在である。 そして夜の女神はニュクスといった。 瞬はにこりと笑った。 「偶にはこうして、あなたと夜空を眺めるのもいいですね」 ふわりと薫るのはカモミールの甘酸っぱい香り。 仄かに眠りに誘う小さなりんご。 ふたりで静かに窓辺に立って空に想いを馳せる。 けれど雨の夜はまだ冷えるからと、恋人を凍えさせないようにとしっかりと包み込んで。 柔らかい絹の感覚に瞬は苦笑気味に目を細めた。 「大丈夫ですってば。私も聖闘士なんですよ」 「しかし女の子は冷やしてはいかんと姉上に言われた。余はそんなこと知らなかった」 「はぁ……」 彼の言う“姉”とは大神ゼウスの正妃であるヘラのことだ。 アンドロメダの聖闘士、瞬と終端の王、冥王ハーデスの恋路はもう少しで一応のゴール――と周囲のほとんどはそう見ている。 しかし恋人たちにはゴールでも夫婦の暮らしにおいて結婚はゴールではなくスタートだとはよく言われること。 今はただの恋人どうし、大切に思えばこその冥王の行動に瞬は嬉しそうに笑った。 「すっかり変わりましたね」 「んー?」 瞬はくすくす笑いながら隣の冥王を見つめた。 「愛なんてなんになるって言ってたあなたが」 「余を変えたのはそなただぞ、瞬」 きゅっと自分を抱くその腕は生まれる前から知っていたけれど。 だけどこんなに温かいんだと知ったのはつい最近で。 「私も、変わったのかな」 ぽつりと呟いた瞬に、冥王はそっと頬を寄せる。恋を知らなかった男も最近になって恋人にはどんなふうに接したら効果的なのか、いろいろ研究しているらしい。 「そうだな、少し大人っぽくなったな」 少女は恋を知った――そのぬくもりは生涯において忘れることはなく。 男神は愛を感じた――その心地よさが永遠に続いてほしいと願いながら。 「私たちは恋をして変わったってこと?」 「そうだ。少なくとも、そなたとの恋がな。他の誰でもよいというわけではない」 地上も、兄弟も、仲間も、みんな愛しい。 でも今は。 そばにいてくれる君がいちばん愛しくて。 「どうしたのだ」 「え?」 「眠れぬようだな」 冥王はちらっと時計を見た。人が生きていくうえで必要な、人のために刻まれる時間を示すその機械はとうに11時を指していた。いつもならすでに一緒に寝ている時間である。 冥王にとって瞬の不安げで物憂いな様子は見ていて気持ちのいいものではない。 聖闘士とはいえその体は生身の人間、細い肩をそっと抱き寄せた。 「ハーデス?」 「……そなたがそのように沈んだ顔をしているのは耐えられぬ。余に話せることなら話してみよ」 「別に、何も」 「だが眠れぬのだろう?」 何もかも見透かしているわりに、ハーデスはその真実に気づけない。瞬が気づかせないようにしているのかもしれない。それは神を謀るなどということではなく、ただ自分の心に素直にありたいから。 そして、傷つかない愛なんてない以上、傷つける誰かを最小限に留めたいから。 「……ごめんなさい、悩んでいるのは確かなんですけど、これはどうしても自分で決めなくちゃならないから」 「余とあやつのことか」 ハーデスの言葉に瞬は無言で頷いた。 そして冥王も何も言わずに瞬をそっと抱きしめた。 どんな結果になろうとも瞬が望むままに――その覚悟は最初からもう出来ていた。 それをもう一度、言霊にして届けよう。 「瞬、そなたの望むままでよい。余はどうなろうとも、そなたと過ごしたこの時間を忘れぬ。愛とは良いものだったとな」 「ハーデス……」 「だからもう眠れ。睡眠不足はよくないぞ」 「……ありがとう、ハーデス」 きっと、大丈夫。 答えはそう、ちゃんと決めるって約束したから。 それからしばらくして瞬はやっと寝ついた。 冥王が珍妙にも、まるで母親がそうするかのように瞬をぽんぽんと叩きながら眠らせたのだ。 「今日の瞬は少し違ったな……」 まるで眠ることを拒むかのように立っていた鎖姫。 それが何故なのかは瞬自身が話してくれたが、その答えを冥王はまだ知らない。 「その姫の心に、何か抱えておいでではないのかえ?」 「ニュクス……」 美しい夜は、同じ闇の王ににこりと笑いかけた。 彼女は何人もの子どもを一人で生み続けており、タナトスとヒュプノスは彼女の息子で、エリスは娘である。そのニュクスがふわりとハーデスのそばにより、彼の腕で眠る少女に白い手を差し伸べた。 「ふふ、ずっと見ておった。可愛らしい姫御じゃと思うておった」 「それより、瞬が何かを抱えているといったな」 「女の子とはそういうものであろう? 特にほれ、そのような年頃の娘はな」 「そんなものか」 ハーデスは瞬を守るように抱き、その頬を撫でた。 ニュクスが微笑した。 「姫御なりに何か考えておいでなのだろう」 「そうか……」 欲しいものを欲しいと望みながら、けれど決して手にできなかった冥王ハーデス。 今その腕に抱く乙女は静かに眠っていた。 「我等闇のものは、こうして光を愛してやまぬ。あなたもそう変わらぬということじゃな」 「なんとでも言うがいい」 「ほほ、拗ねられたか」 原初の混沌を親に持つ美しい夜、その腕にたくさんの物語を抱いて天空に座す。 「我が息子たちを宜しゅうにな、ハーデス殿」 「……ああ」 それだけ言って、ニュクスは再び夜の帳を開いて消えた。 その部屋に残されたのは冥王と瞬。 ごくごく静かに時の神が朝を手繰り寄せるまでの刹那。 「あの姫御は冥王のそばにいたいと願っているように見えたがのう……」 ぽつりと漏らした呟きが新たな星となってその外套を彩る。 ニュクスはふうとため息をついた。 「じゃが教えてやらぬ。冥王は少し教えられるだけの恋から卒業せねばな」 そしてアンドロメダの姫が願っていることにも、気がついてほしい。 瞬は自傷しかねないほど優しい少女なのだから。 ふふふと笑った後、ニュクスは完全に沈黙した。 ふわりふわりと、 そしてぎゅっと この腕はぬいぐるみがわりらしい ふと自身の左腕に感じたぬくもりで、ハーデスは目を覚ました。 その感触は決して不快なものではなかった。むしろ良好すぎるほどでずっとずっとこのままでいたかった。 恋人が無意識のうちに自分の腕に抱きついている。 そっと絡まる腕、何事も無いかのような安らかな寝顔。 すーすーと細い寝息が漏れる唇は、残念ながら見えない。 「かわいいな、瞬は……」 恋は盲目、冥王もまた然り。 年の離れ(すぎ)た恋人が自分の腕に抱きついて眠っているという、実に幸せな事実。 冥王はほうと息を吐いた。 「ん……」 こんと額をぶつけてくるのも、可愛らしくて。 昨日の憂いが嘘かのように無邪気な寝顔。冥王はやっと安堵のため息をついた。 だから抱きしめたかったが、冥王は瞬を起こさないように極力動かなかった。 幸せには幸せなのだが。 「これは、なかなかつらいな……」 身動きが出来ないことが、では無い。 これではある意味生殺し状態、愛しい恋人をこんなに間近にしておきながらなんにも出来ないという残酷な現実。 振られることを前提で告白した想いを受け入れようとしてくれている少女に無理に触れないと約束したから。 結局冥王はずっとそのまま、瞬のぬいぐるみがわりでいたわけで。 「なあ、パンドラ」 「なんでございましょう、ハーデス様」 ジュデッカの玉座で頬杖をついていたハーデスは傍らのパンドラに声をかけた。 彼女の手には男性向けのファッション雑誌。早くもフェニックス一輝の誕生日を視野に入れているらしい。 恋する乙女は恋する冥王ほどに大変だと思いながら、ハーデスはぼそっと呟いた。 「余とて男なのだ」 するとパンドラはきゅっと雑誌を胸に抱き、しかし毅然とした態度でハーデスと対峙した。 「いかに王命といえどもこのパンドラ、既に決めた者がおりますので」 「阿呆、誰がそなたに伽を命じたか。時に落ちつけ、パンドラ」 あまりにも早かった拒絶に呆れるように言いながら、冥王はため息をつく。 彼の惚気にも近いお悩み相談を受けるのはパンドラの職務のひとつとなりつつあった。 玉座の脇息に肩肘をつきながら、またもため息。 「昨夜、瞬と一夜を共にしておったのだが、余の腕に抱きついたまま離れぬのだ」 「よろしいではございませんか。仲睦まじいことで」 確かに仲良くなければ一緒に寝ることもない。 ましてや冥王と瞬の聖戦における事情を鑑みれば、となりで無防備に眠っていることさえ、彼らの信頼関係を物語っている。 「うむ、余と瞬はもはや余人の立ち入れぬくらいラブラブなのだ」 そんな言葉どこで覚えた、などとつっこんではいけない、冥王は大真面目なのだ。 では何が不満なのか。パンドラにはよく分からなかった。 「パンドラ、そなたに敢えて問おう」 「はっ、なんなりと」 「そなた、目の前にフェニックスが無防備に眠っておったら、触れてみようとか思わぬか?」 ハーデスの問いにパンドラはぼっと頬を赤らめた。 答えは今更聞くまでもないようだ。 「い、いきなり何を仰せに」 「例えばの話だ。どうなのだ?」 「それは……触れてみたいと思うのが人情というものかと」 それを人情というかどうかはさておいて、ハーデスはそうであろうと頷いた。 「余はそれが言いたかったのだ。瞬は余のそばにあっても余を恐れることなく触れてくれる。抱きついてもくれる。だがそれ以上先には進めぬのだ、余にはそれが口惜しい……」 「ハーデス様……」 それは恋しいがゆえの惨劇。 そして愛しいがゆえの寂しさも存分に感じてしまって。 「余の腕はぬいぐるみ代わりではないのだがなぁ」 しみじみという冥王の横顔、どうしようもないのは誰もが同じ。 どんなに罪にまみれても この穢れた私でも 抱きしめてくれる腕がほしいの たとえそれが闇なるものの、見えざる腕でも それは温かくて、でも柔らかくはなくて。 しっかりとして固い肉の感触? 今自分がしっかりと抱きしめている物の正体を知りたくて瞬はゆっくりと目を開けた。 そしてその正体を知り、ほっとするやらびっくりするやら。 「やだ、私ったら……」 いつのまにそうしていたのだろう、瞬は毎夜ともに過ごしている冥王ハーデスの腕にしっかり抱きついていたのだ。 彼は怒りはしないだろう、むしろ内心ではニヤニヤ笑いながら喜んでいるはず。 しかし瞬は彼を束縛していたかもしれない事実に気がついてそっと腕から離れた。でも離れすぎてしまうとかえってハーデスを不安にさせる。 折角眠っている彼を起こすようなことはしたくないと、瞬は彼の袖をちょっと掴んで、再び眠りにつくのだった。 「……ありがとう、ハーデス」 私はもう、覚悟ができたの。 ギリシアではほとんど雨が降らない。今日もいい天気だ。 瞬は双魚宮でローズティーを飲みながらほうと息をついた。彼女にとって恋の話を相談できるのはこの宮の女主人くらいなものだ。 アフロディーテは華やかな、けれど少女らしい仕草で笑った。 「ふふふ、恋する乙女は悩み事もかわいいわね」 「笑わないでくださいよ、私は真剣に悩んでるんですから」 美しい薔薇の咲き乱れる庭園に美しい女性。遊んでいるのか、瞬の亜麻色の髪に色とりどりの薔薇を飾っている。 「そう悩むこともないんじゃない?」 「そうかなぁ」 「だって、瞬はもう神様のことが好きなんでしょう?」 「それは、その……」 魚座の黄金聖闘士、アフロディーテは瞬の姉兼母親を自負している。 そのアフロディーテはにこりと笑った。妹の髪を飾る手は未だに止めていない。 「あとはタイミングを計ってる、そんな感じじゃないの?」 「……っ!」 なんで分かるんだろうと瞬は俯いて頬を染めた。 傾かないと思われた少女の天秤。 けれど冥王はそこにありったけの想いを乗せて、瞬の天秤を多いに傾けた。 「いいのかなって、思うんです」 「なにが?」 「本当にその……あの……」 冥王と結ばれること、それは是か非か。 愛を知って変わった冥王、彼のそばにいてあげたいと願う心に罪はなくて。 むしろそれで平和が保たれるのならそれでもいいじゃないのか、と。 同情とか、取引とか――そんなことを抜きにしても、瞬の心はもうすっかり彼のもので。 頑張ったのだ、冥王も、瞬も。 アフロディーテは苦笑しながらも瞬の髪を撫でた。 「大丈夫。瞬の信じた道を行きなさい。あなたがどこでどうしていてもあなたは私の可愛い妹だし、娘だし。同じ聖闘士だし。アテナだって冥王に嫁がせる気がないのなら最初からそう仰ってるわよ?」 さあそれはどうだろうと思うのは瞬。幼い頃からの付き合いがそうさせている。 そうとは知らないアフロディーテは続けた。 「いい? 大事なのは自分の気持ちの正直であること。素直な気持ちで伝えればきっと大丈夫よ」 「アフロディーテ……」 「私もそうだったもん」 双子座のサガと、結ばれて、そして今は。 そんなアフロディーテの髪を風が弄ぶ。 瞬はその美しい横顔を見つめながら、胸の奥にひとつの決意を秘めた。 「自分でちゃんと、言えるわね?」 アフロディーテは誰にとは言わなかった。けれど瞬にはなんのことだかよく分かっていた。 幼い頃から――生まれてくる前から 見えざる腕に抱きしめられていた 冷たい、闇の腕に でも今は違う その腕はちゃんと見えていて温かい 「ねぇ、ハーデス」 「ん?」 「腕、抱きついてもいい?」 「ああ、構わぬ」 瞬はほわっとその腕を抱きしめた。 そして静かに目を閉じる。 「あ、あのね、ハーデス」 「なんだ」 瞬は横になったまま、ハーデスの耳元にそっと囁いた。 そして彼はそうかと呟いたかと想うと、一瞬きょとんとし、そしてがばっと起き上がった。彼に引き上げられるように瞬も一緒に起き上がる。 冥王はテンパっていた。 「しゅしゅしゅしゅ瞬!?」 「あんまり大きな声出さないで」 瞬は頬を真っ赤に染め、消え入りそうな声で言った。 「私だって驚いてるの。だけど、これが私の素直な気持ちなの……」 「瞬……」 どちらともなく、手を伸ばした。 そして瞬はその胸に飛び込み、ハーデスも恋しい少女を抱きとめた。 瞬が静かに唇を開いた。 「私はあなたの手を取るわ。だからあなたも、離さないで」 「瞬――ありがとう、瞬」 ハーデスは壊さぬように瞬をきゅっと抱きしめた。そして瞬もその腕の温かさに心底安住した。 私を抱くのは見えざる腕 その腕が見えたから 覚悟を決めたから ――ねぇ、一緒に生きていきましょう ≪終≫ ≪第一次決着≫ 冥瞬はいよいよ新シリーズに突入するんだぜ! やっほい!! けどこれからがきっと大変なんだ……確実に大変なんだ……(*゚д゚)オウイェイ だけどこれを乗り越えればめくるめく煩悩の世界だぜ! (*゚д゚)イヤッホォォォォォイ |