世界が繋がる物語 〜石畳の金色の聖者 こうなることははじめから覚悟していた でもそれは誰の罪でもないから だから涙を流す事も、苦しむ必要もない そう、知っていたはずなのに。 「そう、もう決めたの」 「はい」 そろそろ夏も終わろうかという日、沙織の執務室に瞬が訪れていた。淡い萌黄色のワンピースは彼女にはとても珍しい装いだと、沙織は目を細めていた。 「時間がかかった、とは思わないわ。あなたにとっては一大決心だったでしょうから」 「はい。でもハーデスは約束してくれたんです、私の一存に任せるって。彼はずっとそうしてくれましたから、私もそれには応えなくちゃと思っていました」 その顔にいつもの穏やかな笑みはない。けれどそのことに関する悲壮感もない。 ただ彼女はこれから自分がなすべき事の前に少し怯えているように見えた。それは戦場に赴くよりもつらいことだと覚悟しているからなのかもしれない。 沙織は彼女の決意に再び問うた。 「それじゃ、これから聖域に行くのね?」 まっすぐに自分を見つめてくるアテナの視線に瞬がたじろぐことはなかった。 自分の足でしっかりと立ち、遥かなる未来を見つめている。 瞬ははいと頷いた。 沙織はそうとだけ答える。 「じゃあ行ってらっしゃい。私はあなたの決断を尊重するわ」 「ありがとうございます、沙織さん」 深々と頭を下げて、瞬は執務室を出て行った。 残された沙織がこきっと肩を鳴らす。 「ようやく、ね。でもこれからが大変なんだわ、きっと」 静かに立ち上がり、窓の外を見る。 夏の日差しは少し緩んで、でもまださんさんと照りつける。 陽光は誰の上にも等しく降り注ぐけれど、恋だけはままならないわねと沙織はため息をつくのだった。 ギリシアの日差しも柔らかく瞬を迎えてくれた。 彼女はロドリオ村を通り過ぎてまっすぐに聖域を目指す。 民家が疎らになり、古代ギリシアの遺跡群を抜けるとそこはもう異世界。 神話の時代からほぼそのままの姿で白亜の神殿が並んでいる。 大きな石段から始まるその一帯を“聖域”と呼ぶ。ここは軍神アテナの神殿であり、聖闘士たちの砦でもある。 瞬は石段を前に踏みとどまっていた。 自分が下した決定が必ず彼を傷つける。でもそうとわかっていてもそれをしなければならない。 もし先延ばしにすれば自分を含めたもっと大勢の誰かが傷を負うことになるのだ。 「私一人の傷で済ませればよかった……」 もっとはやく、心を決めていればよかったのだろうか。 まだ少女だからと結論を先延ばしにして、結局自分は二人の男の心を弄んだだけではなかったのだろうか。 今更悔いても遅いここと、瞬はきゅっと拳を握る。 震える足を叱咤して一歩ずつ――自分で種を蒔き育てた茨の道を歩んでいく。 足を引きずるように歩いていた瞬を見とめたのは白羊宮はアリエスのムウ。彼女はいつもどおりに瞬に声をかけようとして、けれどその雰囲気に彼女らしくなく戸惑った。 先に声をかけたのは瞬の方だった。最初に会ったのがムウだったせいか、少し笑みを見せている――もっともムウはそれとは気づかなかったが。 「こんにちは、ムウ」 「……こんにちは、瞬。アテナやみんなはお元気ですか?」 「はい、もう元気すぎるくらいで」 そういう瞬の言葉に嘘はないのだろう、見せる笑顔も変わらない。 感じるこの違和感はなんなのか、そのムウの疑念は次の瞬の言葉に明らかになった。 「あの、カノンはいますか?」 声が少しだけ震えていた。そういうことかとムウは刹那中空を見つめ、そして瞬に視線を戻した。 いつだって誰にだって優しかった彼女がやっと自分の進むべき道、取るべき手を選んだのだ。そしてそれゆえに誰かの心にほんの少しだけナイフを突き立てねばならないことも。 ムウはごく自然に答えていた。 「ええ、今の時間なら教皇宮にいると思いますよ。サガと一緒に」 「そうですか、ありがとうございます」 瞬は会釈し、ムウの横を通り過ぎようとした。 ムウは何も言わなかった。かけるべき言葉はあった、でもそれは今じゃない。 十二宮をすべて抜けた時、瞬の震えは足から全身に波及していた。 ただの呼吸さえつらくなり、胃の辺りがむかむかして嘔吐しそうだった。 でも苦しいのは私じゃない――彼のほうなんだと瞬は一歩だけ歩んだ。 後ろにはそっと黄金聖闘士たちがついてきていて、瞬を見守っている。 「ああ、大丈夫かなぁ」 ミロとアイオリアが顔を見合わせた。彼らの呟きに誰もが表情を暗くする。 「まあ、遅かれ早かれこうなるってこったぁ、わかってただろ。相手がどっちにせよな」 「そりゃそうだけど……」 容赦ないデスマスクの言葉にシュラが口ごもった。正論過ぎるがゆえに二の句が告げない。 そこにふとカミュが周囲を見回した。 「あれ? シャカはどこにいったの?」 「はあっ!?」 ひいふうみいと人数を数え、一人足りない事を確認する。シャカは面倒だといいつつもちゃんとついてきていたはずだ。どこに行ったんだときょろきょろ探すとあろうことか彼は瞬に近づこうとしていた。 「瞬、待ちたまえ」 「シャカ……」 呼び止められた瞬は振り返る。シャカは金色の髪をなびかせながらゆっくりと瞬のそばに歩んできた。 「あの……」 「座りたまえ」 「はい?」 「聴覚は奪っていないぞ、そこに座りたまえといったのだ」 ゆらと燃えるシャカの小宇宙に瞬は思わず石畳の上に正座した。シャカはその前に座禅を組む。 そしてふむと声を漏らした。 「心が乱れている」 「……そうでしょうね」 瞬は何も隠さなかった。隠す事が無駄だとも知っていた。彼女は少し俯いて、ただ膝元の石畳だけを見つめている。 シャカはそんな彼女をいつもどおりに見つめる――開かざる蒼瞳で。顔には同情も憐憫も叱咤の表情さえ浮かべずに。 「君がなんに心を乱しているのか私の預かり知るところではないし、また関係もない」 「そうですね」 シャカの言葉に瞬は苦笑するしか出来なかった。金色の賢者は手にしていた数珠をじゃらと鳴らす。 「ただこれだけは覚えておきたまえ。いかなる者も、何も傷つけずに済む一生などないのだ、とな」 「シャカ……!」 彼の言葉に瞬ははっとして顔をあげた。 それは自分が先の聖戦でルネに投げかけた言葉そのものだった。 私が生きているということ、それは常に創造する以上に何かを破壊しているということ。 どんなに清らかな人だって生きていくうえでは何かを傷つけてしまうのだ。 でも、と瞬は思う。 「でも、傷つけないで済むならそれに越したことはないじゃないですか」 どうせ壊すのならと徹底的に壊すことは罪だ。できるだけ壊さないように生きていきたいと思うこともまた人の願いなのかもしれない。 しかし瞬の問いにシャカは強い言葉を持って返した。 「ならば君は誰も何も選ばず、ひとり死んで遠ざかるがいい。だがそれにより君はより多くの者を悲しませるのだ」 「シャカ……」 彼の名を呼んだ途端、瞬の瞳からぽろぽろと涙が零れた。 シャカはすっと立ち上がり、彼女の背中に手を回す。ひくひくと揺れる背中を擦ればまた涙を誘って。 「シャカ、私は……私は……」 誰かに聞いてほしかったと、瞬は呟くように言った。 彼の手を取ると決めた瞬間にもう一方の手を離してしまうことの恐怖を。 傷つけなければならないという哀しさを。 ほんの少しでいいから、背中を押してほしかった――大丈夫だよと。 「甘えてるんだってわかってました。悲劇のヒロインを気取る気もなかったけど……でも、でも」 たった13歳の少女にこんな業を背負わせた男たちは今何を思うのだろう。 シャカはその細い指に瞬の涙を乗せた。 「その涙は生涯忘れるな。君が選んだその道のために」 「……はい」 瞬がまっすぐ顔をあげた。まだ少し恐れているようにも見えたが、これから先は彼女自身で決着をつけなくてはならない。 シャカはごしごしと自分の服の袖で瞬の顔を拭いた。 「君はもう少しわがままになりたまえ。そうすればもう少し楽に道も開けよう、この私のようにな!」 「はい」 ほんのりと上気し、涙に触れた頬のまま、瞬はシャカに礼を言って立ち上がった。 自分の腕でもう一度涙を拭い、埃を払う。 そしてゆっくりと教皇宮までの石段を歩んだ。 やがて少女は手にしていたナイフで男の胸をえぐるだろう 彼と自身の幸せを願い、涙をこぼしながら シャカと瞬のやりとりを見ていたアフロディーテがため息をついた。 彼女は教皇宮の門前に立っている。 「シャカに先を越されちゃったわ」 赤い薔薇を唇に当てて思う。 初めて瞬と対峙したあの日――なんて弱い子なんだろうと思った。師の亡骸を前にして泣く事しかできなかった彼女が今はもうまっすぐ前だけ見つめて歩いている。しかも彼女の右なる夫は闇の王。 まだ何も知らないだろうあの男も、うすうす感づいているはず。 「カッコ悪い振られ方だけはするんじゃないわよ」 この恋は誰にとっても有益だったのだと、そう思いたいから。 恋への手向けは赤い薔薇――ああ、黄色い方がよかったかしらなんて笑いながら。 「ま、私は瞬が幸せならそれでいいんだけどね」 女は生まれながらにしてもう一端の女で、そして死んでいくその瞬間まで夢を見る。 アフロディーテは彼を笑いものにするつもりはない。 恋の終わりは命の終わりと同様に訪れるものなのだから。 「せめて鮮やかに葬送ってあげる……」 ふわりと薔薇が風に乗る。 今はまだ、葬送曲は歌うまい。 教皇宮を訪れた瞬はカノンとの面会を申し出、受理された。 今ある一室にカノンと瞬がふたりきりで対峙している――もはや面会などという穏やかな単語では語れない雰囲気。 万一に備えてサガとアフロディーテが隣室にコップ持参で待機している。 「なんか聞こえる?」 「いや、ふたりともまだだんまりを決め込んでいる」 サガのいうとおり、ふたりはテーブルを挟んで座ったまま微動だに――唇さえ動かしていなかった。 こうしていても埒が明かないのはわかっている。 けれど話があると言ったのは瞬の方だ、カノンから水を向けることもない。 でも。 判決はなるべくなら遠く。 それがカノンの願いでもあったから。 「あの……」 やっと瞬がそう発したとき、カノンは思わず顔をあげた。 ああ、来るべき審判の刻が来たのだと、願いは叶わなかったのだと。 「私……決めました」 誰と歩いていくのか。少女の天秤は傾き、皿から降りてその手をとる。 彼女がとったのは―― 「私、ハーデスと一緒にいたいんです」 「…………そうか」 我ながら長い沈黙だったと思う。振られたんだと自覚するのに少々時間がかかったようだ。 これ以上はもう何も必要ない、カノンはずっと椅子を引いて席を立つ。 「カノン……」 「ごめんとか言うなよ。お前にまあ……ああいうのが憑いてるって分かってたんだから」 そして、おそらくこうなるだろうことも。 恋に年齢差や順番なんて関係ないとよく言うけれど、でも振り向いてほしいと努力する事を怠るとこうなるのだ。 ハーデスは誰にも愛されずに――少なくとも男女の恋愛という意味では――誰にも愛されたことがなかったから、だから必死に努力した。愛など欠片も信じなかった男がだんだん表情を変えていくのが、瞬にとっても嬉しかったに違いない。 最初は互いに願っただけだった。それがいつの間にかもっと一緒にいたいとさらに願ったら叶えてみたくなった。 たったそれだけのことが冥王と瞬の間に育まれた。 瞬はカノンを嫌ったわけじゃない、冥王の全部が好きなわけじゃない。 意味を成さぬだろう謝罪の言葉を封じられ、ただ黙るしか出来ない瞬にカノンは一瞥すらくれなかった。 もし少しでも視界に入れたら、彼女をめちゃくちゃに壊してしまいそうな自分がいることに気がついたから。 振られても嫌いになれない恨めない。 ドアに向かい、ノブを掴む。ゆっくりまわして開ければ決別の敷居が彼と瞬を隔てた。 「カノン!!」 これ以上何を言うというのか、惚気るのなら聞きたくないと、カノンはドアを閉めた。 カノンが立ち去った後、部屋に残された瞬はただ呆然と窓の外を眺めていた。 ハーデスじゃなくてカノンを選んでいたら、ハーデスが傷ついた。 でも私はハーデスを選んでいた。 「だって、一人にしておけなかったんだもん……」 言い訳めいた独り言が口をつき、瞬は思わず指で唇を窘めるようになぞった。 振られることは前提だったと白状して見せた彼の表情が瞬にとっての決定打だった。あのとき、繋いでいた手を離してしまっていたら。彼はこの恋を良い思い出にするなんて強がって見せたけれど、もう二度と愛など信じる気にはならないだろう。 瞬にはそれが怖かったのかもしれない。 「私だけ……ハーデスのそばにいてあげられるのはきっと私だけだったんだもの……」 未来永劫あなただけのものと、胸元の星が囁いていた。 ひとつの身体に魂を同居させた刹那、知ってしまった彼の孤独と寂寥が今も瞬の心を締め付ける。 「でも楽になりたかったわけじゃないの」 今後どれだけ世界から取り残されることになっても、何をしてでもそばにいてやりたいと思ったから。 「ハーデスのこと、好きになってたんだもん……」 かつての敵を愛することがどんなことかも分かっているつもりで。 それが聖闘士としてどういうことかもちゃんと知っていて。 「それでも私は……」 ゆらりと景色が揺れた。鮮やかな日没が海を金色に染めていく。 「瞬……」 降りかかる穏やかな声に瞬ははっと顔をあげた。 黄金の海を遮る黒衣は闇そのもので、けれど浮かんでいるその顔は雪の様に白く清い。 瞬はその名を呟いた。 「……ハーデス」 心が弾かれて、彼女は突如としてその場に現れたハーデスに迷うことなく抱きついていた。 何度も彼の名を呼び、その胸に縋る。 冥王もそっと瞬を抱きしめた。 「ハーデス……私っ、私はっ」 「……つらい思いをさせたな」 ハーデスの言葉に瞬はいいえと首を振る。深遠なる冥界の王神と絢爛たる黄金の闘士との間に揺れた心は、冥王を選んだ。これは自分で望んだことで、誰のせいでもない。 「私は、あなたが好き。好きになってた……」 「瞬……」 「私なんて、誰かを愛する資格もないのに!」 「そんなことはない、瞬!」 この子はどこまで、そしていつまで世界中の罪科を背負うつもりでいるのだろう。 ハーデスは少し声を荒げて瞬をしっかりと抱きしめた――余計な事を考えさせないように。 息もできぬほど強く抱きしめられても、瞬は抵抗などしなかった。 いっそ殺してくれたらどんなに楽だろうとさえ思っていたから。 「私は……」 「ならば余が身を引けばいいのか? 余ではなくカノンを選べと言ってやればよかったのか?」 「そんなっ……そんなことっ」 瞬が顔をあげれば寂しげな冥王の表情と出会う。 身を引き、他の男と幸せになる道を勧めてやることも一つの愛の形かもしれない。でも冥王にそれはできなかったのだ。そんな器用な真似ができるほど冥王は器用ではなかったし、何より彼は瞬を愛しすぎていた。 「余はもう、そなたなしではいられぬのだ……」 狂おしいほどに愛した。 瞬はこの世界で冥王が愛した最初で最後の女。 もう二度と出会うこともできないから、絶対をもって手放したくはないのだ。 そして瞬自身もそんな冥王を少しずつ愛しいと思い始めていた。 「あなたは約束を守ってくれたから、私もそれに応えようと思ったの。あなたかカノンか、ちゃんと答えを出すって。私はあなたの手を取った。ずっとあなたと一緒にいたいって、そう思ったから! カノンを傷つけるってわかっていても、でも私はどうすることもっ……」 それだけ言うと、瞬は冥王の腕の中で泣き出した。 ぽろぽろと涙を零し、彼の胸元を濡らす。 誰も選ばないという選択肢は早い段階に消えていた。 いっそ彼を嫌いになっていればこんなに苦しまずに済んだのかもしれない。 「瞬……」 冥王は瞬を抱いたままその場に腰を下ろした。そして何度も名を呼びながら泣きじゃくる瞬の背中を優しくなでた。 「そなたは優しいのだな……」 優しいからこそ傷つく。 涙を凍らせて固めたナイフで男の胸をえぐり、返す刃で己が首を掻っ切るかのように。 流した血と涙を止めるのは、今は黒衣の男のぬくもりだけ。 こじんまりしたその部屋に冥王がひとり。 恋しい少女を抱いてぽつんと座り込んでいるだけだった。 その恋は終わろうとしていた――燃えるような赤い夕日が、まるで血に濡れたようにふたりを照らしていた。 どれくらいそうしていたのだろう。 瞬はいつの間にか泣き疲れていた。ただ寒いと思わなかったのはずっとハーデスの腕の中にいたせいだろう。しかし不自然な姿勢だったせいか身体の節々が痛かった。 ハーデスは目を閉じ、静かに瞬をその腕に抱いていた。 冷たいと思っていた彼の頬に触れれば、温かだった。また瞬の瞳から涙が零れる。 ハーデスは何も言わずにただ瞬を見つめていた。 もうやめよう――愛される資格がどうとか考えるのはやめようと。 「私はあなたが好き。もうどうしようもないくらい好きなの」 その脚で彼に跨り、両手で冥王の頬を包み、少し屈んで口づけた。 溢れる涙はとめどなく、瞬とハーデスの頬を濡らす。 「どうしてなの……」 どうして人は、神は誰かを愛するのだろう。そしてたった一人だけを運命だと呼べるのは何故なのだろう。 愛ってなんなのだろう。 ハーデスは愛を知らなかった。信じなかった。 でもどうして人はそれを無条件に信じたの――こんなに苦しいのに。 「ならば余がそなたを助けよう。余と共に生きよう」 冥王が静かに、瞬の耳に囁いた。 瞬は何も言わず、ただ冥王の胸に顔を寄せた。彼は静かに続ける。 「余と共にあることはそなたにとっては想像を絶する苦痛かもしれない。でも、それでも余はそなたと一緒にいたい。余は余の持てる力を持ってそなたを守り通そう」 言霊が星に宿る時、永遠にあなたのものとなりましょう。 「覚悟は出来ているの。だからカノンにも……」 「もういい、瞬」 ハーデスは瞬の涙を拭った。僅かな水滴は虹にもならず、ただ儚く虚空に消えるのみ。 「瞬……」 泣き濡れた柔らかい頬を拇指で何度も拭う。今は彼の指が温かくて心地よかった。 冥王は何度も何度もそれを繰り返し、時には軽く口づけながら瞬が落ち着くのを待った。 亜麻色の髪にも手を入れ、梳いてやる。 「なぁ、瞬」 「なんですか?」 「愛とは、楽しいことばかりではないな。こうしてつらく哀しく、寂しいこともある。それでも人は、この地上は愛なるものを求めて……」 「じゃあ、あなたは誰も愛したくない?」 すべての災厄を背負うものが愛ならば。しかし冥王は否定の意味で首を振る。 「もしそなたの心が世に向いていなかったらと思うと、それはそれで恐ろしい。余はそなただけを愛している。そなたに会えぬ時間が苦しい、そなたがこのように苦しんでいるのが、余のことのように苦しい」 「ハーデス……」 瞬はそっと顔をあげた。そして冥王の唇に自分のそれを触れさせた。 「どうしてかしら、私はあなたにあんな目に遭わされたのにそれでもあなたを忘れる事はできなかった……」 「どうしてだろうな、余はあんなに拒絶されてもなお、そなたを愛しいと思った……」 ハーデスの腕はしっかりと、少し痛いくらいに瞬の肩を抱く。 これでいい、それでいい。 男は少女を腕に抱き、少女は男の腕に泣く。 石の壁に凭れ、ハーデスは上を見つめた。視界に写るのは石造りの天井と、ほんの少しの藍色の空。 「愛は恋より出でて恋よりも愛し……だな」 ハーデスは静かにそう呟いた。 隣の部屋でアフロディーテがほうとため息をついた。 どうなるだろうと心配したのだが、それでもカノンが暴挙に出ることもなく、そして瞬の苦悩が冥王によって少しずつ和らげられているという事実が彼女に安堵をもたらしている。 良かったと呟いた唇は艶やかに光を弾いた。 そして隣にいたカノンをよしよしと撫でた。 「……よく我慢したわね」 「五月蝿い」 あの時カノンは腹立ちまぎれに瞬を乱暴することだってできたはずだ。でもそれをしなかったのは。 振られたとわかってもそれでもなお――未練がましいと笑わば笑え――それでもなお彼女を思い続けていたからに違いない。 アフロディーテはこちらを見ないカノンに苦笑して見せた。 「瞬は綺麗になったわ……そう、初めてあった頃は本当に子どもっぽかった」 「アフロディーテ?」 彼女の回想が遠い過去の小さな孤島に及ぶ。サガが静かに窓の外を見つめた。 アフロディーテと瞬の邂逅は血塗られた父王の死を持って幕を開ける。 教皇だったサガの勅命を受けてケフェウスの白銀聖闘士ダイダロスを誅殺したのが彼女だった。白銀の位ではあったが実力こそ黄金に匹敵していた彼を絶命に追い込んだ魚座の黄金聖闘士はそこで初めて彼の愛娘と対峙する。 それが瞬だった。 すでにアンドロメダの青銅聖闘士としてひとり立ちしていた瞬のもとに寄せられた師の危機、駆けつけたときはもう遅かった。瞬はダイダロスの亡骸に縋り、泣いていた。 瞬は師と初恋を同時に失った。 親を失った子は生きてはいけぬ、だったらせめて殺めることで救ってやろうと思っていた。 「当時はぜんぜんひよっ子だったから、私は瞬を簡単に縊り殺せるはずだった。でもなぜだかできなかったのよ。もしかしたら私はこうなることを知ってたのかもしれない……」 結局アフロディーテは双魚宮で瞬の手にかかる。そして生き延びた瞬は、今度は冥王の巫女としてその身を地上のために差し出す覚悟をする。 女たちは男以上に自らが信じたもののために生き、戦い、そして死ねるのかもしれない。 「瞬は神様から恋を告白されて戸惑った。何にも知らなかったし、自分にそんな資格があるのかってずっと問い続けていた。だから瞬は知りたかったのよ、自分に恋が出来るのかって。神様は瞬にその機会を与えて……」 「お互い様なのかもしれないね」 サガの柔らかい声にアフロディーテがええと頷いた。 「神様と瞬で一緒に過ごした時間が瞬を綺麗にした。神様もお利巧になった。ふたりで築いた絆みたいなものがある。カノン、あんたは其処だけをほしがったのよ。可愛くなった瞬がほしかっただけ」 「そんなつもりは」 「なくてもそういうことなの。好きだって自覚してたのに動かなかったあんたが悪い。自業自得っ!」 そうきっぱり断じてしまったら流石に我が愚弟とはいえ可哀想だなとサガは思った。 思いつつも、彼は瞬に対してはお父さんキャラを確立してしまっていたがために敢えて何も言わなかった。 「まあこれで決着だ。カノン、しばらく仕事は休んでいいぞ」 「あら、サガ最大級に優しい」 右手に兄、左手に兄嫁。カノンはずるずると引きずられて退場した。 夜の帳が下りても、瞬と冥王がその部屋から出てくることはなかった。 と言っても別に何かしていたわけではない。 ただふたり、離れたくはなかったのだ。 傷つけるつもりは毛頭なかったのだけれど、それでもこの恋は甘く優しいだけでは終わらなかった。 「余は、どうすれば良かったのだろう」 「え?」 ハーデスの腕に中で瞬はおずおずと顔をあげた。 「そなたを苦しめずに恋をしたかった。傷つかない愛など本当に何処にもないのだろうか」 「ハーデス……違うの、私が勝手に苦しいと思ってるだけだから」 「しかしそう思わせているのだ、余が原因でなくても苦しんでいるそなたを見てはおれぬ。余はそなたのためだけに生きたい。そなたが望むものをすべて手に入れ、憎むもの、害するものを徹底的に排除する。それだけの力が余にはあるのだ」 それが冥王の持つ神としての力。 そして神たる彼がたった一人の人間の少女に捧げた恋心。 「そこまで思ってもらえて……でもどきとき思うんですよ」 「なにがだ?」 「私はそこまで愛してもらえるような人間じゃないんだって。私のこの手は」 瞬が何を言いたいのか分かった。 繰り返し繰り返し聞いてきた懺悔の言葉。 分かったから、冥王は少女の言葉を自身の唇で封じた。 聞かなければならなかったが、聞きたくなかった。 「そなたのその心だけで、いい。罪を罪と知り、懺悔の祈りを捧げて悔いる。そんな人間ばかりならいいのにな」 「でもね、この罪を悔いても、私はきっと生きている限り繰り返す……」 だって、聖闘士だから。 戦うために星に選ばれたのだから。 だから、私はこれからも緋色の罪を犯し続ける――やがて黒に変わる断罪を得るその日まで。 不安定な少女の心に冥王はどんな焔を灯したのか。 瞬は顔を上げず、冥王にするりと抱きついた。 「……瞬」 「キスして。いっぱいして。私に、生きていていいんだって思わせて」 古来より、人の歴史は争いの歴史だった。 故国の誇りを護るため、自国の繁栄のため――さまざまに理由をつけて、さまざまに殺しあってきた。それはこれからもきっと続くだろう。そしてそれは物理的な武器を伴わない恋でも、同じことなのかもしれない。 狼は自分の殺傷能力があることを知っているから、争いになっても自制する。 しかし鳩は自分にその能力があることを知らないから、一度争いになれば相手が死ぬまで攻撃を続ける。 人はそんな狼であるべきなのだ。 冥王は望まれるまま、幼い恋人に口づけた。 罪を分かち合うように、丁寧に。そして何度も。 「瞬、余と共に生きよう。そなたが余に愛を教えてくれたから、余はもっと強く優しくなれる……」 「ハーデス……」 瞬は静かに冥王に身を寄せた。 彼は恋人の背中をぽんぽんと撫でる。その背中は普通の少女のもので。 「ありがとう、瞬」 永い永い時間の中で争いのない時間など刹那の幻にすぎないのかもしれない。 でもだからこそ、愛しいのだ。 その一瞬に口づけたい。 「愛している」 その白い額に施したその夜最後の口づけ。 瞬を抱き寄せ目を閉じて。 「もっともっとそばにいて欲しいのだ、瞬」 願わくは未来 美しい孤独など描かぬように 素直な心であなたの手を取り、 罪の意識を持ちながらあなたの手を拒み 避けられぬ恋の別れと知りながらそれでも私は 闇の左手をそっと握る そう、それこそ≪世界が繋がる物語≫ ≪終≫ ≪追悼の追走曲≫ さよならカノン! これで心置きなく冥瞬が書けるってもんです。 カノンファンを敵に回す覚悟はありませんので石投げないでくださいwww このあとハーデス様大活躍ですので。 ありがとうカノン! さようならカノン! 君の勇姿は忘れない! |