星屑の革紐



どんな時だって忘れないわ
あなたと共に歩む道がそこにあること




オリンポス祖神の一人にして十二神の長の御名はゼウスという。稲妻をもつ彼は神々の長でもあるが、その立場を利用し、『世界の安寧のため』との大義名分を抱えて数々の女性と交わり、多くの子をなした。
要するに下半身に節操のない男だったのである。
そんな彼の正妻であるヘラ様は妃という身分と引き換えに身体を許し、正式に結婚した。
けれど彼はそれを逆手に取り、決して他に妃を迎えなかった――愛人はいっぱい設けたが。
そんな夫と珍しく玉座を並べていたヘラはふてぶてしいゼウスの横顔を眺めながらめいっぱいため息をついた。
「なんだ、ヘラ。俺の顔を見ながら」
「早まったと思っておったのだ。なんでそなたのような下半身に身を許したのかと思っておったのだ」
「ひとを下半身みたいにいうなよ」
事実そのとおりなので本当は反論できるはずもない。ゼウスは釈然としない何かを感じながら髭を撫でた。
ヘラ様がそのようにお考えになるのには理由があった。
オリンポス祖神のうち、長子でありながら末弟となっていたハーデスがこのたびめでたく結婚する事になったのである。長いこと独身を通していた彼が突然『結婚したい娘がいる』と言い出し、その娘もやっと了承してくれたのだ。
本当におめでたい。
おめでたいからと、ゼウスとヘラはその娘に会いに行ったことがあった。
亜麻色の髪に美しい黒曜石の瞳、しなやかな手足を持つその少女をヘラはハーデスの嫁御として気に入った。
冥界という深い闇に暮らす彼の手を迷わずに握ってやれる、優しい少女。
彼女ならハーデスを支えてやれるだろうとヘラは思わず目元を拭ったほどだ。
しかしゼウスは違った。
彼はいい女と見れば姉妹だろうが人妻だろうが構わずに手を出した。
だからヘラはものすごく心配だったのである。ハーデスの嫁御がゼウスに食われはしないかと。
実際、彼はハーデスの姿を借りてその少女を食いに行ったこともあるのだ。そのときはハーデス本人とヘラで撃退したくらいだ。
ヘラ様のため息は一層深い。
「姫御が羨ましいな。わらわもこのような男と結ばれずにハーデスと一緒になっておった方が賢明であったかのう」
「お前は冥府じゃ暮らせないよ」
ゼウスの反論にむっとしながらも、ヘラはふんと顔をあげた。
彼女は生まれながらに女王体質だったのであるから、そういう意味では多くの神々に傅かれる現状に満足しているはずだ。
しかし仕事と結婚生活とは別なのである。
ヘラは浮気を繰り返すゼウスとの間に三人――ヘパイストスをいれるなら四人――の神々を設けたが、愛人とその子を苛まなければやっていられないほど彼女は妻として疲弊していたのである。
その観点から言えばハーデスは職務に忠実で、誰もが忌避する死の世界をうまく纏め上げている。浮いた噂も女性を乱暴したという話もない、実に清廉な性格の持ち主。髪型がお茶目なことくらい可愛いものである。
冥界そのものは陰鬱な場所だがハーデス自身はそりゃあもう男としては問題ない存在だ。
「ハーデスは不思議と恋愛からは遠い存在であったからなぁ。あーあ、惜しい事をしたかな」
「なにが言いたいんだ、ヘラ」
「……やはりあなたの脳は下半身にあるのだな。わらわはアンドロメダの姫御に手を出すなと言うておるのだ」
やっと幸せになれるハーデスの為にも、そして姫御の為にも。
ああそういうことかとゼウスは納得した。
しかし納得したからといって引き下がらないのがゼウスという下半身なのであった。



数日後、ハーデス本人がわざわざオリンポス山にやってきた。
出迎えるヘラは久しぶりに見る弟神に笑顔を絶やさない。
「ハーデス、よく来れたな。生と死が訪れぬ日などないであろうに」
姫御のもとを毎晩訪れている事を知っていて、ヘラはハーデスをからかっている。ハーデスは頬を赤く染め、言い訳を始める。
「良いのだ、別に。余がいなくても冥界はちゃんと機能しておるから」
「ふふふ、そのように狼狽せずとも良いわ。そなたがアンドロメダの姫御を大切に思っているのはよう知っておる」
死という裁きの前に冷酷で厳格な冥王ハーデスも恋の前にはただの初々しい青年に成り果てていた。
ゼウスを除く祖神の誰もが幼かった遠い昔、面倒を見てくれたのがこのハーデスだったのだ。
何を置いても自分たちを守ってくれたこの兄がようやく幸せになれるのに嬉しくないはずがなくて。
ヘラはまっすぐに彼を自分の神殿に通し、傍らに椅子を勧める。
黒衣の彼がそこにいてもやはり王、威厳が少しも損なわれる事はない。
「ところで今日は何用じゃ?」
「ああ、そうであった」
女王自らカンタロスに神酒を注ぎ、ハーデスの前に供していた間、彼はごぞごぞと胸元を漁っていた。
出てきたのはブルーベルベットの小箱。中身はガーネットの指輪だった。
「なんじゃこれは」
「瞬に捧げる婚約指輪だ。これに姉上から祝福をもらえぬかと思うて」
「そうか、結納の品と言うわけじゃな。結納も結婚に関する儀式の一つ、良かろう」
しばらく預かろうと言うヘラにこっくり頷き、ハーデスは神酒を口にした。
「式はいつじゃ?」
「瞬が15歳になるのを待ってあげようと思っている。まだ13歳だからあと2年ほどはかかるが……」
瞬はアテナの聖闘士で、アンドロメダを拝命している。
そんな彼女がハーデスの嫁御となるのだから世界というものは面白くできているらしい。
ハーデスは愛した瞬がまだ幼い少女である事を鑑みて結婚の事実を先に延ばしているのだ。それは瞬自身の望みでもあったのだが、それを了承したハーデスもすいぶん理性的で優しいと言わざるを得ない。
本当にあのゼウスの兄弟なのかと思うほどに。
「そうか、そなたはほんに優しいな。爪の垢を分けてはくれぬか?」
「ゼウスに飲ませるのか?」
「ふふ、察しが良いのう」
そんなかんじで姉と弟が笑いあっているところにのこのことゼウスがやってきた。
ハーデスとは対照的な純白の衣を颯爽と翻し、さも当たり前かと言わんばかりに中央の玉座に腰を下ろす。
「なんだ、姉弟揃って楽しそうだな」
「そなたを呼んだ覚えはないがのう……」
冷たい妻の視線、欺瞞に満ちた弟の表情。しかしゼウスにはどこ吹く風。彼は以前、瞬を乱暴しようとした事などはるか昔のことと忘れてさえいるようだ。
ヘラは思った――この愛しい弟神とその嫁御だけは絶対に守ろうと。自分の二の舞をさせてはいけないと。
しかしハーデスと瞬を引き離そうとするゼウスの魔の手はすでにその触手を伸ばし始めていたのである。



異変はすぐにやってきた。
オリンポスからすぐその足で城戸邸別館にやってきたハーデスはいつものように瞬と穏やかな時間を過ごしていた。
婚約が決まってからというもの、ハーデスはより一層瞬にべたべたと触れまくる。
「もう、くすぐったいですよぉ」
「よいではないか、もう夫婦同然なのだし」
「ダメです」
油断すれば胸元に伸びてくるハーデスの手をそっと外し、変わりにきゅっと握ってやる。
「甘えん坊なんだから」
「仕方がないであろう、甘えたことなどないのだから」
亜麻色の髪にふわっと頬を寄せ、耳元に囁くハーデスの声は低く、けれど瞬の心にきゅんと響く。
愛される事もなく、愛することもなく生きてきた彼がやっと見つけた光――それが瞬なのだ。
瞬はハーデスの手を離さない。
「どうした?」
「ときどき、不安になるんですよ」
瞬はハーデスをじっと見つめる。闇なる男と鎖の少女の間には永遠にあなたのものと約束した星が煌いて。
「不安っていうより……自信がないって言うのかな。本当にあなたを幸せにしてあげられるのかなって、そんなことを考えてしまうの」
「瞬……」
冥王の傍らに座する瞬はそう言って顔を伏せた。
地上を巡る争い――そは聖戦と呼びし悠久の戦い――の中で瞬は何代目かの『冥王の器』であった。
自らの肉体が傷つく事を嫌った彼は器として定めた人間に憑依し、聖戦の指揮を取ってきた。
現代においてもハーデスは瞬をいう肉体を得て地上の制圧に乗り出そうとしていたのだ。
しかし瞬はアテナによって解放され、最後は共にハーデスを打ち負かしている。
そんな時だったのだ、瞬がハーデスの運命と孤独と寂寥とを知ったのは。
「私があなたの為にできることがどれだけあるだろうって……ちゃんとあなたを幸せにしてあげられるのかな」
そう言い終わるのと冥王の胸にすっぽり収まるのはほぼ同時だった。
少しきつく抱きしめられて、ハーデスから感じる男の匂いに僅かにむせる。
「ハーデス……」
「幸せとは、何か。少なくとも余にとってそれは、そなたと睦まじく生きていくことなのだ」
そばにいてくれるだけでいい、そばにいて笑ってくれればいい。
君を悲しませるようなことはもう二度としないと決めたから。
「余のそばを離れないでほしい……瞬……」
「――はい」
何度でも約束しよう――あなたを不安にさせないように。



そして約束は果たされる為にあるのだから



静かに抱き合って一夜を過ごし、朝を迎える。
カーテン越しに薄く差し込んできた柔らかい光に先に目を覚ましたのはハーデスのほうだった。自分の胸の上にある瞬の頭に心地よい重さを感じながら亜麻色の髪に指を差し入れる。
「まったく、余は抱き枕ではないのだぞ」
言いながらも満更悪い気はしないハーデスは瞬を抱いたままゆっくり体の方向を変える。眠っている瞬を起こすつもりはなかったのだが、浅い眠りにあったためか、瞬が小さく声を上げた。
「ん……」
「あ、起こしたか?」
すまないとばかりに髪を撫でれば瞬はいいえと首を振る。
「もう朝なの?」
「ああ、名残惜しいがな」
その言葉に嘘はないとばかりに冥王は起き上がらない。かわりに瞬の髪をすいて再び眠りに誘おうとする。
「ん、だめぇ」
「あと五分」
「名残惜しくなっちゃうよ?」
「もう充分名残惜しいと言ったではないか」
他愛もない、可愛らしい会話。仲のいい恋人ならではのやりとりを見ているものはいない。
瞬は冥王の腕を退け、ゆっくりと起き上がる。
「着替えるからちょっと待ってて」
「ああ」
見ないでねと念を押し、瞬はするりとベッドから抜け出す。ハーデスものそのそと起き上がり端に腰掛けて手櫛で髪を整えている。
さらと聞こえる衣擦れの音、小鳥の声。
世界は鮮やかな色と美しい音に満たされている。もっとも、それも瞬と出会わなければ知ることのなかった世界のすべて。争いだけが巡る世界なら自分が手を下さなくともとっくに滅んでいただろうと、ハーデスは目を閉じた。
「まだ眠い?」
ふと頬に添えられた温かく柔らかい手の感触に冥王は静かに目を開けた。そしてその手に自分のそれを合わせ、少しずらして口づけた。
「いや、世界を感じておった。地上はこんなにも鮮やかだったかと思ってな」
「あなたがそう感じてくれるなら嬉しいです。私も一緒にいた甲斐があるってものですよ」
アテナとその聖闘士たちが守ろうとしたもの、冥王が滅ぼそうとしたもの。
今は確実にその手を取り合って。
「では余はそろそろ戻る事にしよう。一緒に来るか?」
「ふふ、それはまた今度ね」
ベランダに出れば朝日が東の空を僅かに燃やしているのに出会う。
冥王は眩しそうに目を細めた。
「ではな、瞬。また夜に逢おう」
「はい。待ってますからね」
後朝のキスはいってらっしゃいと名づけた。
朝焼けに溶けていく冥王を、瞬も名残惜しそうに見送る。
これが事件の始まりだとも知らずに。




血相を変えたパンドラから連絡を受けたのはそれからすぐのことだった。
彼女はミーノスを伴って城戸邸別館にやってきていた。
「ハーデスが、戻っていない?」
「はい、未だ瞬様のところにいらっしゃるのだろうと思っていたのですが……」
いつもの時間に玉座にいるはずの冥王がいないとパンドラは言う。そんなはずはないと瞬は首を横に振る。
「だって、私はいつもどおりに見送ったんですよ」
リビングではみなが思い思いの場所に立ち、座っている。瞬の横には沙織がいて、狼狽する彼女を宥めていた。
困惑しているのはパンドラも同じで、変わりにミーノスが唇を開いた。
「地上の日の出の時間によって多少変動はございますが、今の時期ですと既に玉座におわして、瞬様とご自分がいかに仲睦まじいのかということを惚気られるんですが……まだお戻りではなかったのでこちらに長居しておられるのではと、そう思った次第でして」
「そうですか……」
突然婚約者が失踪したというドラマ、しかも2時間ものの殺人事件でしか見ないような展開に瞬はがたがたと震えだした。それだけ彼女が冥王を思っているという証なのだろうが、今はそのことだけが大事なのではない。
天地、大海、そして冥界という参界のうち、冥界を司る王がいなくなってしまったのだ。
冥王が地上という異世界にいるのと、所在が明らかでないというのは別次元で問題は生じてくる。
「ハーデスというのは……まああれです、聖戦さえ起こさなければ世界を統べるという意味で必要な神なのです。アテナの聖戦的にはいないに越したことはないのですが」
「沙織さん、隣となり」
「隣?」
星矢に指摘されて沙織がちろっと横を見る。悠久の宿敵の不在をちょっと喜んでしまったアテナを瞬が涙目で睨んでいた。
これには流石の沙織も少し挙動不審になったという。
「ご、ごめんなさい、瞬。思わずアテナ的な本音が出てしまったわ」
おほほほと笑う沙織だが、瞬はぽろっと涙を零した。
赤子の頃から追いかけられたり憑依されたりと碌な目に遭っていないはずなのに、恋というものはここまで少女を変えるものらしい。見ればパンドラもハンカチを顔中に当てておいおい泣いているではないか。
「そ、そうだわ。オリンポスのお父様ならご存知ではないかしら。もしかしたらオリンポスにいるのかもしれないわよ」
連絡を取ってみるからと沙織が電話を取る。オリンポス直通ラインにかけるとゼウスはいないのでヘラに繋いでくれると言う。その間にみんなにも聞こえるようにスピーカー設定にした。
ヘラが電話に出ると沙織はアテナとして二言三言挨拶をし、早速本題に入った。
「実はハーデスが行方不明なのです。それで行く先をご存知ではないかと思いまして」
アテナの問いかけにヘラが仰天したらしい。
近習の女官たちに誰ぞハーデスを呼び出したものはおらぬかと尋ねて回らせたが該当者はいなかった。
『ハーデスが失踪する心当たりなどないがのう……』
「父上はご不在だと伺っておりますが」
言われてヘラはああと答えた。
『ゼウスはいつもどこぞへ行っておってな、遊びに出て行ったら本人も下半身も鉄砲玉じゃ』
なんとも身も蓋もない言われ様である。
そうですかと電話を切ろうとしたところでヘラが待ちやと声を荒げた。何事かと問えばゼウスが珍しく戻ってきたと言うのだ。何か知らぬか聞いてやると、ヘラが電話から離れる。
しばらく待つように言われ、そのまま待機していると今度はゼウス本人が電話口に立った。
『アテナ、久しぶりだな! たまには実家に帰っておいで』
「ええ、それはまたおいおいに。ところで父上はハーデスの行き先を存じてはおられませんか?」
沙織がそういうとゼウスは一拍置いて知っている、と言った。
が、そのすぐあとでとんでもない事を言い出した。
『実はさー、瞬ちゃんとえらいラブラブだって自慢するからウザくなってさ。小宇宙封じて仔犬に変えてそのへんに放り出したんだよねー』
オリンポスの長神とも思えぬ言葉遣いと、発想。
沙織はこれが我が父かと頭を抱えたくなったという。そして知恵そのものであった母メティスをこれでもかと思慕したことは想像に難くない。
とにかくゼウスはハーデスに嫉妬するあまりに弟を犬に変えたというのだ。
あまりのことにパンドラは卒倒し、ミーノスが慌てて抱きかかえた。このままじゃ埒が明かないと瞬が沙織から受話器をひったくる。
「それで、ハーデスを何処に捨てたんですか!!」
『おお、その声はアンドロメダちゃんか、怒ってても可愛いねぇ』
「誤魔化さないでください! ハーデスはどこかって聞いてんです!」
いつもの瞬らしくない声色に一同一歩だけ引いた。
ゼウスもたじろいだらしいのだが背後にいたヘラの怒りが怖くてそれ以上は下がれなかったという。
「どこなんですか!」
『教えてあげてもいいけど条件がある』
「なんですか」
瞬がそう問うと、受話器の向こうでゼウスがにやりと口角を上げた。
『ハーデスはわりとそのままの姿で仔犬に変えたから探しやすいとは思う』
「どういうことですか」
『今日の日没まであと半日。それまでにハーデスを見つけたら元の姿に戻してもやるし、アンドロメダちゃんとの仲を裂くような真似もしない』
「じゃあ、見つけられなかったら?」
ハーデスを見つける自信がないわけではない。だたこの広い世界にたった一匹の仔犬を探すのは容易ではないことはわかっている。
『見つけられなかったそのときは、アンドロメダちゃんには俺の愛人になってもらう。もちろんハーデスはちゃんと元に戻す』
「……!!」
あまりといえばあまりな条件に瞬は思わずそんなと叫んでいた。沙織もなんてことと、呆然とする瞬から受話器を奪い返した。
「父上、なんということを!」
『もし見つけられなかったらそれまでの愛だってことだろう。愛があれば何でもできる!』
「このアホー!!」
沙織はそれだけ叫ぶと受話器を投げつけるように置いた。
電話の前にへたり込んでいる瞬にかける言葉が見つからない。
だがやらなくてはならないことがたくさんある。
「とりあえずハーデスを探す事が先決です。瞬は私たちの大事な兄弟、仲間ですからね。あんな下半身マシンガンの愛人にさせるわけにはいきません!」
誰も『あなたのお父上では?』とか『あんたのじいさんは?』とか突っ込まなかった。
そんなことよりも瞬の方が彼らには大事だったからである。



沙織は再びゼウスと連絡を取り、より多くのヒントを引き出そうと母譲りの知恵をフルに活用した。
そこからわかったことは、ハーデスは黒銀の毛並みを持つ仔犬であること、首輪はしており、胎児などではなく生存する犬であるということ、そしておそらくだが日本国内におり、ハーデスとしての意識と記憶はある。
以上のことであった。
少なくとも世界規模での捜索はしないでいいらしい。
それでも沙織は爪を噛む思いでいっぱいだった。
両親も知らず、たった一人の兄や友達と引き離され、アンドロメダの聖闘士となった。そして過酷な前線を共に生き抜いてきてやっと幸せになれるところだった瞬に突然襲い掛かった凶事。その張本人が我が父とは。
情けないやら呆れるやらで沙織は泣きそうだった。
グラード財団の捜査網を駆使して黒い仔犬を裏路地のポリバケツの中から保健所まで徹底的に探し回るように指示する沙織は今もどこかを走り回っているだろう瞬とハーデスを思い、深く詫びるのであった。
あんなゼウスでごめんなさいと。



そのころのオリンポスではヘラがゼウスをつるし上げていた。
「なんと言うことをするのじゃ! この無節操下半身が!!」
「お兄様を何処へやったのです!!」
フライパンでゼウスを殴っているのが末の妹、家庭女神のヘスティアである。そのとなりには農耕と豊穣の女神デメテルが涼しい目元でゼウスを冷ややかに睨みすえていた。
「呆れてものも言えぬ。やはりハーデス兄上に天地をお任せした方がよろしかったのではないか」
「今からでもお戻り願えばよろしいのではっ!?」
ヘスティアはなおもゼウスをフライパンでたこ殴りにしている。怒りに任せているのでときどき縁が目を掠めたりしてとっても危ない。
「とにかくだ、ヘラ姉上、ゼウスのアホにはあとで制裁を加えるとして今はハーデス兄上の行方を捜すことが肝心だと思うぞ。アテナもアンドロメダも探しておろうがな」
「ポセイドン兄様は?」
「あれは寝ておる」
ポセイドンは今海底神殿でアテナの壷に封じられ、あと二、三百年は起きてこない。
ヘスティアは役立たずと怒鳴りながらまたもゼウスをたこ殴り。事ここに至ってやっとデメテルが妹を止めた。
「ヘスティア、そろそろやめぬとゼウスが死ぬぞ」
「構いませぬ、こんなアホー!!」
「こら、ゼウスが死んだら誰がハーデスを元に戻すのじゃ。殺すのはあとじゃ」
ヘラにそう諭され、ヘスティアはやっとフライパンを下ろした。
「では去勢用に包丁を砥いでもよろしゅうございますか?」
「許す」
姉神たちの許しを得、ヘスティアは嬉々として包丁を研ぎ始めたという。



さて、その頃ハーデス様は本当にどうなっていたかというと、本当にゼウスの呪いで子犬に変えられ、とぼとぼと街を歩いていた。
冥府に戻る途中でゼウスに呼び止められ、気を失った。そして気がついたら黒銀の毛並みを持つ子犬に変えられていたのである。
なんとしてでも元に戻らねば。瞬の元に帰らなければ。
けれど街は子犬には優しくなかった。人間は我が物顔で歩いているし、ゴミは平気で投げ捨てるし、ときどき火がついたままの煙草も降ってきた。
アスファルトで舗装された道路は照り付けて熱かったし、車が多くて空気も悪い。
今朝方、瞬の部屋で見たあの美しい世界は偽りだったのだろうかと、ハーデスは空を見上げた。
空は灰色の雲が立ち込めて遠かった。
こんな世界を、瞬は命をかけてでも守りたかったのだろうか。
もちろんこれは人間のごく一部の姿に過ぎないだろう。けれどそんな人間が多すぎるのではないか。
そんなことを考えながらハーデスは歩いた。小宇宙を封じられ、瞬に居場所を伝えることも、瞬を感じることもできなかったけれど、それでも何かを信じて歩き続けた。
(瞬は何も諦めていなかったからな。余も諦めぬ……)
人がどんなに優しくなくても、瞬がいればそれでいいのだ。
そんなハーデスの決意の前に無情の雨が降る。
けれど子犬は必死だった。瞬のところに帰ろうと。
あの優しい腕に抱かれたいと願いながら。
ただ、タイムリミットがあることなど全く知らずにいたのだが。



雨は瞬の身にも容赦なく打ち付けた。
日没まであまり時間がない。狭い日本もやっぱり広いと思いながら裏路地のバケツや公園の池を覗く。
けれどハーデスは見つからなかった。
「どこにいるの……」
今夜また会いに来るからと微笑んで口づけてきた彼の顔が鮮明に思い出され、瞬に目から涙がこぼれそうになった。
泣いている場合じゃないとわかっていても、溢れて止まらない。
「ハーデス……」
どこにいるのと呟いた声が涙に滲んだ。
生まれたときから今日まで、無自覚な時期も入れて、瞬のそばにはいつもハーデスがいた。そのほとんどは仮初の器、冥王の巫女として狙われていたのだけれど、でも今は恋人としてそばにいてくれる。
恋が愛になったと知ったとき、瞬は迷わず冥王の手を取っていたというのに。
どうして引き離されなければならないのだろう。
私とハーデスにどんな罪があったというのだろう。
瞬の心はだんだん最悪の事態に向かって動き出していた。
もしハーデスを見つけられなくても、自分があの男に身を投げ出せば彼は無事に戻れるのだ。
「ごめんなさい、ハーデス……」
瞬はとぼとぼと歩き出した。雨とも涙ともつかない水が頬を濡らす。
胸元の星が空しく揺れる――永遠にあなたのものと約束したその星が。



雨天のせいで太陽に位置を確認することが絶望的になった。沙織は時計を見つめる。
「ハーデスはまだ見つかりませんか!?」
「は、グラード財団系列のすべてを駆使しておりますが……」
あと五分。あと五分で瞬はあのエロジジイの愛人にされてしまう。
それだけは絶対に阻止しなければ。しかし星矢たちからの連絡も芳しいものではなかった。ただ最後まで諦めないで探してみると走り回ってくれているらしい。
時計の針は無情にもあと四分と刻んでいる。
「瞬……ハーデス……」
不思議な縁で結ばれ、星に未来を誓った二人――あんなに幸せそうに笑っていたのに。
「あのバカオヤジ……」
そう毒づいている間にもまた一分が過ぎた。
しかし最後まで諦めないのがアテナの聖闘士の善しにしろ悪しきにしろ特徴なのである。
小宇宙と愛と生命があれば何でもできる。
今回は小宇宙が使えないが、愛と生命はふんだんにあった。
それが冥王と瞬の運命のすべてだったのである。
誰もがもうダメだと思ったそのとき。
窓の向こうにふたつの強烈な小宇宙を感じたのだ。



沙織が星矢たち全員を拾い、冥闘士全員に城戸邸に戻るように声をかけてから現場に到着した。
そこは近所の小さな公園で星矢が最後に立ち寄った場所でもあったのだ。
雨が降りしきるその中に恋人たちがしっかりと抱き合っている、とても幸せそうな光景が広がっていた。
「ここにいたのか? 俺ぜんぜん見つけられなかった! 瞬にも会わなかったのに!」
星矢が驚いて沙織を見る。沙織はしょうがないことよと笑う。
「誰かが――全能の神がどんなに邪魔をしても愛の前には敵わないってことよ。きっと瞬だから見つけられたんだわ……」
黒衣の男に抱きしめられている少女はただ声を上げて泣き続けていた――安堵と、そしてほんのちょっとの彼に対する怒りで。
見つかったのならそれでいいと、沙織たちは静かに引き上げていく。
ここにはたったふたり。そのふたりのためだけの世界があった。
「ハーデス……探したんだよ。ずっとずっと探したんだよ」
「すまぬ。余としたことが油断した」
ハーデスは子犬の姿から解き放たれ、いつもの麗しい青年の姿に戻っていた。
ゼウスは俺の力が必要だと言っていたがどうやらそれは嘘らしい。
魔法を解くのはいつだってキスだと決まっていたから、ハーデスが瞬の唇を舐めた瞬間にあっけなく呪いは解けたのだ。
ハーデスの指が濡れた瞬の髪を優しく撫でた。
「こんなになるまで余を探してくれたのか?」
「当たり前じゃない、あなたは私の大事な恋人なんだよ。この年で未亡人はやだからね」
瞬は泣きながら笑っていた。
あのとき星が教えてくれなかったら――木陰で震えている犬がそうなんだと言わんばかりに鎖からちぎれて転がっていった――もう二度と恋人として逢うことはなかっただろう。
ハーデスは瞬をそっと抱き寄せる。
「瞬……愛している。もう離れはせぬし、離さぬ」
「はい」
ええ、忘れないわ。
いつだって恋は、そして愛は星屑の煌きの中にあることを。
瞬は顔をあげ、ハーデスはその美しい頬を包んだ。
そして目尻に口づけ涙を吸うと、そのまま頬を舐めながら唇に触れた。
少し眺めのキスに瞬の目からまた涙が零れたが、ハーデスはそれを拭わなかった。
キスに夢中だったし、何よりそれが嬉しい涙だと知っていたからだ。



こうしてハーデスと瞬の間にはいつもの穏やかな日常が戻ってきたのだった。
しかし日常でなくなった方も約一名いる。言わずと知れたゼウスだった。
ヘスティアのフライパンアタックでぼこぼこになった彼は冥界の大河女神ステュクスの前に引きずり出され、二度と瞬とハーデスの仲を邪魔しないように誓わされたのである。
この誓いを破れば神といえども罰を受けることになる。10年間は神の座を下ろされる。そればかりではなく、一年は死んだようになり、九年は人間に仕えるという苦役を強いられるのだ。
こうして事件は終わった。
「ハーデス、預かり物を返しておくぞ」
ゼウスをぼこってすっきりしたのだろう、ヘラがそれはもう眩しいほどの笑顔でハーデスにブルーベルベットの小箱を返した。
「姉上……」
「祝福しておいたぞ。結婚式の時はまた格別の祝いをやろうな」
「ありがとう」
姉に礼を言い、ハーデスは瞬を振り返った。
「瞬」
「はい」
アテナやヘラといった神々、それに聖闘士に冥闘士たちが見守る中でハーデスは瞬の左手を取った。
そして。
「瞬、余の妃となって余を支える光になってほしい」
「……私も、精一杯頑張ります」
見つめあってにこりと笑い、ハーデスは瞬の左手の薬指にガーネットの指輪を差し入れた。
サイズも気持ちもぴったり一致。
ハーデスは迷わず瞬を抱きしめた。
周囲におめでとうの歓声と拍手が鳴り響く。




これより2年後、瞬は正式に冥王の妻となり、冥府に降っていく。
けれどそれは別離ではなく新しい物語の始まり。





『我らの歩む道が真直ぐに導かれるように』




星屑の革紐は今日も変わらずふたりを結び付けているのだから






≪終≫






≪お誕生日おめでとでっす≫
私が敬愛してやまないぎぃ様のサイト『鬼瞬』のお誕生日が9月9日ということで書いてみました。
ベースになったのはSound Horizonの『Roman』に収録されている『星屑の革紐』です。タイトルもそこからいただきました。
ぎぃ様が『ヘラ様と沙織さん』と『わんこハーデス』が気に入っておられたようなので頑張ってみましたよ。
ハーデス様が人間不信になりかけていましたがそれはやっぱり愛でカバーです。
『鬼瞬』様お誕生日おめでとうございます。注: 文字用の領域がありません!

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