少年が口吟むのは銀琴の詩 どうして? どうしてぼくを殺すの? ぼくはただ、生まれてきただけなのに。 聞こえてくるのは自分の泣き声。 見えるのは自分の手と体の一部。 ひとりぼっちで ぼくは闇の中に座ってる。 懐かしい夢を見た。幼いころの、イヤな記憶。 いちばん最初に生まれたから、いちばん最初に闇の中に放りこまれて。 父王クロノスは自分の地位が子どもに脅かされるのを嫌って、生まれた我が子を飲みこんだ。母神レアは産後で動くことができなかった。 レアは嘆きながらも男に身を任せた――次の子こそ、育てられるように。もし育てられなかったとしても、夫の腹中の子と支えあって生きていてほしいから、と。 刻の腹に封じられた次代の神子たち。 その最初の子どもは――アイドネウスと、当時は言っていた。 そのアイドネウスの名は次第に縮まっていき、やがて闇の名となった。 創造と破壊の神は幾星霜の刻の中、一人で静かに眠り、ときどき孤独な夢を見た。 しかしその夢は途中で温かい少女の手に切り替わる。 ただ影だけしか見えない、少女の姿。誰だと問うても応えもせず。 ――柔らかく、微笑んでいるようにも見えた。 ≪遥かなる刻・母なる女神の懺悔をまずは詠いましょう≫ 私は愚かな母だった 何人の子を殺されても あの人から離れることができなかったのだから 赦して、なんて言わないわ 私の罪がどういうものか、ちゃんと識っているから この乳房に抱き、育ててあげられなくて ――ごめんなさい そして 生命の追悼、終焉の旅路。 辿りつく先は深遠の闇、その世界の名を冥府という。 その冥府よりもさらに奥底にある暗黒幽冥をタルタロスと呼んでいた。そこには冥界の住人もめったに立ち寄らなかった。そこはあまりにも深かったから。 そしてタルタロスには遥か神話の時代にティタン親族の長であるクロノスが幽閉されていた。 青銅の蓋を幾重にも重ねたその世界。 その傍らに囚人のように佇んでいる女性は泣きそうに微笑みながらその蓋を撫でた。 近づいてくる男の足音に、女が静かに顔をあげる。 女は少しやつれた顔で、けれど僅かに微笑んで男を見上げる。 「……ハーデス」 立っていたのは黒衣の男。クロノスとレアの間に最初に生まれた子どもだった。 今は麗しい青年の姿でそこにいる。 彼は冷ややかに女を見つめ、固く薄い唇を静かに開いた。 「まだおられたのですか、母上。そのようにそこにおられても我らは父上を解き放つ気はありませんよ」 女は――大地女神ガイアの娘、オリンポス祖神の母神、レア。 黒衣の男は冥府神として君臨するハーデス。 誰に似たのか闇色の髪と瞳を持つ彼は生まれながらにしての死神ではない。ハーデスはゼウス、ポセイドンとともに三界を分割した時、冥界を引き当ててしまったにすぎないのだ。 レアは最初の息子の顔を見て、それでもにこりと笑った。 「元気そうね、ハーデス」 「おかげさまで」 冷たく言い放つ息子に、レアは嫌な顔ひとつしない。冷たくされても彼女にとってハーデスも可愛い息子の一人に違いない。そして彼がそうする原因が自分にあることは重々承知していることなのだから。 「いつまで、そうなさっているつもりです?」 「……ずっとよ。世界の終わりが来てもこうしているわ」 レアはその細い指先で、つと蓋の縁を撫でる。女神の手を以ってしても原初の闇たるタルタロスの蓋が開くことはない。 その下に、彼女の夫、ハーデスの父がいる。 ハーデスは冷ややかにその蓋を見つめた。 自分の地位の安泰だけを願った愚かな男は、愛する妻が産んだ子どもを一人残らず飲み込んでしまったのだ。 いや、もしかしたら妻でさえ自分の肉欲を満たすための適当な道具だったのかもしれない。 とにかくハーデスはそんな歪な夫婦の、最初の犠牲者だった。 そんな永過ぎる闇が、彼を冥神に仕立ててしまったのだろうか。 夫と子どもたちの覇権争いを見つめていたレアはどちらに組することもできずにいた。そして争いに敗れ、タルタロスに幽閉される夫のそばに、こうして居るだけしかできなくても。 「クロノスは、私を愛してくれていた。だけど子どもは愛せなかった」 「知っています。だから我らは、父の腹中で育ったのです。オリンポス祖神の誰一人として、母上、あなたに育てられてはいない」 息子の言葉に、レアは項垂れた。 おそらく、この母はどうすることもできなかったのだ。産後の身であった彼女には子を救うだけの力は戻っていなかったのだろう。 少し言い過ぎたかと、ハーデスは母の隣に座る。 「飽きませんか、こうしていて」 「飽きないわ、きっと永遠に」 「どうして、こんな男を? 何人も我が子を飲み殺した男を……母上は愛し続けたのです?」 ハーデスが飲まれた後も、レアはクロノスに抱かれ、孕み、子を産み続けた。 そして五人の赤子が飲まれ、六人目を孕むにいたって彼女はようやく夫を欺く決心をした。 しかし遅すぎる、と。 子どもたちは思っていただろうとレアは己が罪を知る。 「さあ、なんでかしらね。あなたたちが生きていると知っていたからかしら……」 「答えになっておりません、母上」 ハーデスは少し苛立っていた。先年まで地上の覇権を巡り争っていたアテナとの戦いにまたしても敗北したからだ。 長兄ゼウスの愛娘はことあるごとに愛だの正義だのという。 では何が愛で、何が正義なのか。 ハーデスはその答えを持たなかった。父に疎まれ、母に見捨てられるようにして成長した彼に、誰も愛の何たるかを教えてはくれなかったのだ。 母なら――教えてくれると思っていたのに。 そんなハーデスの心中を見透かすかのように、レアはその美しい唇を開いた。 「答えなんて、ないのよ」 「母上……」 レアはそう言って自分の膝を抱き、まるで少女のように笑ってみせた。 「答えは教えられて見つけるものじゃない。ヒントくらいならあげられるけどね」 「別に必要とはしておりません」 「でも、聞きたかったんでしょう? だからこのタルタロスまでわざわざ来たのではないの?」 我が手で育てることが叶わなかった、子どもたち。 「寂しいからって、地上に手を出しちゃダメよ、ハーデス」 母の言葉にハーデスはむきになって言い返す。 「寂しいから手を出したわけではありません! 愛だ正義だと主張するくせに、人間どもは醜い争いをやめないではありませんか! だから……」 本当に、そうだろうか。 ハーデスは自問する。 地上に自分の求める答えがあるのではないか。だから自分は――。 顔を伏せてしまった彼の頬に、母の手が触れる。 「母上?」 「私の可愛い息子、ハーデス」 「母上……」 レアはハーデスを抱き寄せ、その胸に彼を包み込んだ。 この幽冥の闇にあって母の乳房は甘く、柔らかく優しい。 未知なる感覚にハーデスは瞠目した。 「は、母上……」 「いつかきっと、あなたにも分かる。自分だけの愛の形が……」 今はまだ、出会っていないだけだから。 「夫も子どもたちも、みんな愛しかった。大切だった。だから……私はここにいるの」 夫の不安を感じてやれなかった。 子どもたちを救ってやれなかった。 諍いを止めることができなかった。 すべては、愚かなこの母の罪なのだから。 「ごめんなさい、ハーデス。許してなんて言わないわ」 だからせめて言わせて。 ≪移ろいゆく刻・巡る争いさえ我らは詠うのでしょう≫ それから、どれくらいの時が流れたのだろう。 レアは遥かなる地上を見上げる。 あの日から、ハーデスは来なくなった。 懐かしい地上から、ごくそばにある冥界から、そして極彩色の楽園から。 我が子と、孫娘の諍う声が聞こえてくる。 傷つき倒れていくアテナの聖闘士、ハーデスの冥闘士。 「ああ、ハーデス」 愛しき我が子。 我が母胎を出でて、けれど最初に無なる父胎に堕とされた御子よ。 ハーデスの神体に、アテナの聖杖が突き刺さる。 「バカな……この冥界で…余が滅びると言うのか…」 「ハーデス……」 美しい肉体を貫かれ、斃れたハーデスの傍らに一人の少女。 「あれは?」 レアは鳴動するタルタロスから、その一部始終を見ていた。 その少女は真珠の光沢を持つ薄紅色の聖衣を纏い、両腕に銀月色の鎖を巻いている。 彼女はハーデスを抱き起こすと、穏やかな小宇宙を燃やし始めた。 誰かを救うために生まれてきたようなその少女の小宇宙は、このタルタロスにいても温かいと感じられるような。 少女の唇が優しくハーデスを諭す。 「お願い、あなたは生きて。あなたがここで斃れたらいったい誰が生命の輪廻を守るの?」 「なんだと…?」 「地上には争いが絶えないけど、だけどそれじゃいけないんだってみんな頑張ってる。だから信じて。お願い……」 その少女も満身創痍だった。 ハーデスは静かにその手を伸ばし、少女を抱きしめ囁いた。 ≪動き出す刻・新しい恋の詩をこの幽冥に灯しましょう≫ それから程なく、ハーデスがタルタロスにやってきた。 「ご無沙汰しております、母上」 「久しぶりね、傷はもういいの?」 「はい、その……念入りに手当てをいたしましたので」 何故か照れくさそうに口ごもったハーデスにレアはくすくす笑い出した。 「してくださった方がいるのね?」 「は……」 彼は何も言わず、すとんと母の横に腰を下ろした。母は変わらず青銅の蓋を見つめている。 「愛たるものが少しは分かった気がいたします」 「そうみたいね。顔つきが変わったもの」 「え……」 戸惑うハーデスの頬にレアの手が寄せられる。 「恋をしている顔だわ、いい顔ね」 「そ、そうですか」 「お相手はあの亜麻色の髪の乙女かしら?」 言った途端、ハーデスの顔がぼんと音を立てて赤くなる。図星だったかしらと、レアは口元を覆った。 「ハーデス?」 「……瞬、と、いうのです。アテナの聖闘士なのですが、容姿はさることながら気立てもよく、優しい乙女で、それで、その……」 消え入りそうな声で、ハーデスは彼女を愛していると言った。 レアは笑っていた。 恋を知った息子は、それはもう小突き回したいほどに初々しい、ただの青年になっていたからだ。 「ハーデス」 「はい」 「私の、最後の願いよ。あなたは――……」 私がこの腕に抱いて愛してやれなかったから。 その少女とどうか、どうか。 こっくり頷いたハーデスに、レアは極上の笑顔を見せた。 ハーデスが生まれたときのことを思い出し、そして今なお。 恋に生きようとする我が子の手を、レアは静かに握った。 ≪世界が繋がる刻・輝く運命の在処を謳いましょう≫ 「どうしたの? 眠れない?」 ぼんやりと天井を見上げているハーデスの横顔を見て、瞬は不安げに彼に寄り添う。 彼は恋人を不安にさせまいと、笑ってみせた。 「大事無い、ちょっと懐かしい夢を見ただけだ」 「でも、いい夢じゃないみたい……」 そう言って瞬がそっと身を起こす。 満月よりも少し細い月が、けれど闇を薄くするには充分すぎる光を放っている。 その月光を背に、少女の姿は少し影って見えた。 ハーデスもゆっくり起き上がった。 「すまんな、瞬」 「いいえ。あなたがつらそうにしているほうが心配です……」 瞬がやはり不安を隠せない表情でハーデスを見つめる。 ハーデスはそっと瞬の胸に額を当てた。 「父の腹にいたころの、夢を見た……」 生まれて来る意味、死んで逝く意味。そしてもう一度生まれて、また闇に堕ちる。 「本当は、夜は嫌いだ」 「ハーデス……」 「冥界は死後の世界、そこに光が当たっていては、死ぬことの意味がない。光があるところには必ず闇があるもの。だが、余自身は、光の中にいたかった……」 今更愚痴を零しても仕様のないことと知りながら、それでも冥王は口にせずにはいられなかった。ただ誰かに聞いてほしいだけだったのかもしれない。 「父に飲まれたときも、冥府を割り当てられたときも、余にはなんの罪もなかったはずだ」 「それは……」 神の存在意義を、神が神たる理由を問われても人には答えようがない。 そのかわり、瞬は冥王の頭を抱き、逆巻く黒髪を優しく梳いた。 「いやな夢を見ると、そうやっていろいろ考えちゃうんですよね……」 「瞬……」 「大丈夫、あなたは一人じゃない。パンドラさんも、冥闘士のみんなも……私もいるじゃないですか」 「いてくれるのか? 余のそばに」 「……はい」 信じてと瞬はハーデスをぎゅっと抱きしめた。 ただ彼にはもう寂しいと思ってほしくないと願った。 「私といるときは、忘れて。大丈夫、私はそばにいるから」 「……うん」 不安なとき、寂しいとき。 抱きしめていてくれるのは誰? ≪遡る刻・それがふたりの『物語』≫ 再び横たわり、目を閉じる。 意識がふわふわとまた闇におちていく。 小さな子どもが泣いている。 黒い服の子どもが泣いている。 「あれは、幼い日の余だ」 泣いて泣いて、でも誰も助けてはくれなくて。 だけど、今の自分はそうじゃない。 冥王は一歩踏み出し、その子どもに近づいた。そして、その子を抱き上げた。 「泣くな、アイドネウス」 「今は泣かなきゃいけないんだ」 「何故だ?」 「寂しくて泣くことがなくなるからだよ」 アイドネウスを抱くハーデスの傍らにいつの間にか瞬が立っていた。そしてその子を抱きうけると、小さく柔らかい頬にキスをした。 「大きいハーデスと、小さいハーデス。どっちもハーデスだもんね」 アイドネウスはくすぐったそうに笑った。 そう、笑えるのだ。 逆巻く黒髪を撫でれば笑う――ああ、なんて簡単だったのだろう。 「待っててね、きっと一人じゃなくなるからね」 「うん!」 アイドネウスがにっこり笑うと、ハーデスの胸の中に温かい何かがぽとんと落ちた。 “あのとき、あの夢の中で余が見た少女はきっと瞬なのだ” ≪永遠なる刻・望みてなお、我が伝言を伝えましょう≫ どんな母親でも、子どもは愛しいものだから 永遠をかけて願うのよ この11文字の願いを――幸せにおなりなさい、と。 巡る巡る憎しみと廻る廻る愛を たった11文字に託して 少年は銀琴を手に謳うのでしょう ≪終≫ ≪瞳に未来を≫ ハーデス様の葛藤みたいなものをちょろっと書いた『遥かなる刻』という拍手SSの改訂版です。 彼が何で地上を望み、愛を信じないのかというのを自分なりに書いてみて、そしたらさらにそれが瞬によって少しずつ解消されてほしいと思いまして。なんていうのは私の願いなのかもしれませんね。 あ、なんかコメント面白くなくてすみません。 |