Venus say…



ひとり、娘はせっせと穴を掘る



世界が安定を求めてしまった。
それにより、白銀聖闘士ケフェウスのダイダロスは落命した。手を下したのは黄金聖闘士、魚座のアフロディーテ。
幼いながらも白銀聖闘士としても力を持っていたダイダロス。彼をもってしてもやはり黄金聖闘士は脅威だった。
彼女が駆使する鮮やかな薔薇の前に接戦空しく、彼は敗れたのだ。
「先生……先生!!」
彼が絶命する瞬間、砂地に倒れていく彼を驚愕の眼差しで見つめていた少女。
ダイダロスの死体に縋って泣く彼女はまだ幼く普通の人間のように見えた。
すっとあげた顔に涙の痕、金色の人魚を呪うように見上げて――その眼差しは燃えるような憎悪。
「あなたが、先生を?」
「だったらどうだというの? 教皇はアテナの御為、反旗を翻すような者をお許しにはならない。そして、この私も……」
大地の守護神、戦女神のアテナの代理人である教皇。彼女はその玉命を受けてこのアンドロメダ島にやってきた。
けれどそれは聖域側の事情だ、そんなこと、この少女には関係ない。敬愛する師を奪われたことになんら変わりはなくて。
「……許さない」
少女の体を覆う薄紅色の闘気――小宇宙が描くのは鎖で身を巻かれたアンドロメダの姿。
アフロディーテはただそうと頷いた。
「あなたがケフェウスの愛娘、母譲りの美貌を謳われた王女・アンドロメダの聖闘士……」
「そうよ。私がアンドロメダ」
お前が殺したケフェウスが最も愛した娘。
ダイダロスが唯一認めたアンドロメダの聖闘士。
ほかの誰でもない、この私こそが。
「あなたを殺しても先生は戻らない、だけど……」
少女の細腕にはいつのまにか鎖が握られていた。けれど今の瞬はまだ雛鳥のような、若い青銅聖闘士。黄金の輝きに手を伸ばせば火傷を負うだけだ。
攻撃も空しく、彼女は深紅の薔薇の花弁に抱かれて岩壁に叩きつけられた。
「ぐっ……」
ぱらぱらと崩れ落ちてくる破片を身に受けながら少女は何とか起きあがる。しかしそれよりも早く、少女の白く細い首に鋭い薔薇の枝が当てられていた。
「なっ……」
「バカな子、見逃してあげようと思ったのに」
「……後悔するわよ?」
なおも反抗的な少女に、アフロディーテは苦笑して見せた。喉の皮一枚、薄く切り裂けばそこから薔薇より深い紅の珠があふれた。その名に反することなく、彼女は美しいものが好きだ。
「名前を聞いておきましょうか」
「……瞬、アンドロメダ、瞬」
「瞬……覚えておいてあげる。仇を討ちたければ聖域の双魚宮までいらっしゃい。もっとも、来れればだけど」
つやめく唇を真紅のバラで隠すように笑うアフロディーテ。
ざあっと鳴る潮風に、女の姿が消えた。
見逃した、見逃された、嘲笑された!
瞬は命拾いしたと安堵するよりも前に動けなかった自分に呆然とするように膝から崩れ落ちた。
師の仇を討てなかった今の自分を腹立たしく思いながら、瞬は大地を拳で殴る。
流れた涙は土に還元り、だけど何の命も育まない。
「――瞬」
自分の名を呼ぶ懐かしい声に、瞬は顔を上げた。
「ジュネさん……」
「ダイダロス先生の小宇宙が大きく弾けて、消えたのを感じたの……先生は……」
瞬は首を横に振った。それだけで姉弟子はすべてを悟り、泣き出した。
砂地に投げ出されたままの、まだ温かい師の遺体を前に少女が二人立ち尽くす。
亜麻色の髪の少女が静かに唇を開いた。
「ジュネさん、私……聖域に行くわ」
「瞬……!」
瞬は頬にかかる亜麻色の髪を静かに後ろに流した。現れた瞳には悔恨と憎悪と決意を秘めて。
だが聖域は黄金聖闘士の守護する最高峰、白銀のダイダロスでさえ敵わなかったというのに、たかが青銅聖闘士が数人乗り込んだところで勝ち目はない。
ジュネは瞬を必死で止めた。
「瞬、行っちゃ駄目よ。死んでしまうわ!」
「元より覚悟です。聖闘士になったときから……」
誰も傷つけないで生きて逝けたら。そう思っていたけれど。
この腕に鎖を抱いたそのときから――いいえ、きっと生まれたときからなにもかも決まっていたのだ。
ダイダロスの死も、そして自分の死も。
瞬はなおも自分を止めようとするジュネを、そのみぞおちを打って黙らせた。
「うっ……し、瞬、どう…し、て……」
「ごめんなさい、ジュネさん」
気を失った姉弟子をそっと寝かせ、瞬は言う。
「ジュネさん、心配してくれてありがとう。でも私やっぱり行くわ……」
だって私は。
瞬は真っ赤に染まる海を見ていた。
落日のように消えたダイダロス先生――その弟子の彼女は。
「アンドロメダなんですもん。ケフェウスの仇は私が取る」


可哀想なジュネさん
あなたじゃないの


瞬は立ち上がり、眠るジュネを見下ろした。
「私より先に修行してても、やっぱり星は私をアンドロメダに選んだのよ。ケフェウスに愛された娘……アンドロメダに」
そして瞬は師の傍らに膝を付き、もう二度と目覚めぬ彼に口付けた。
「先生、私があなたの仇を討ちます。アンドロメダであるこの私こそが……」


誰にも邪魔はさせない
たとえそれが女神でも


首から流れる僅かな血で、ダイダロスの唇を染める。それがせめてもの死化粧。
「先生……」
あなたを愛していました、とは、言えないままの別れ。
彼女の初恋は血に塗れ、砂の中に溶けていく。
師の体から聖衣の欠片を丁寧に外し、身を清めた。そしてひとりでせっせと穴を掘った。
砂は掘っても掘っても崩れてくる。
「いいのよね……こんな穴、掘り終わらないほうが」
彼の永久なる眠りのための揺籠、波音が子守唄。
どうか安らかに眠ってくださいと、祈りを込めて。


すべてが終わってしまうと、既に空は夜の帳を下ろしていた。
煌く星、あなたはどこ?


「先生……」
彼の墓標は粗末な木を十字に組んだもの。少女の手は祈りの形に組んで。
彼女の中の闇が静かに目を覚ます。
「必ず殺すわ……そして、私も。すべて終えたらあなたのそばに」
それまで寂しいでしょうけどと、少女はジュネを抱きかかえた。
「ジュネさん、あなたが先生を好きだったのは知ってたわ。でもね、私のほうがもっと……愛してた」
少女の奥に繋がれた闇の扉、今はまだその姿を現しただけ。
誰も傷つけたくはないけれど、あの女だけは別。
そして、師を殺せと神の名を盾に命じた教皇も今の瞬には敵だった。
「アテナは私たちのそばにいる。それに先生が反旗を翻すわけないじゃない……」
瞬は静かに背後を振り返る。
母なる大地に抱かれて眠る彼にそっと微笑みかけた。
「さようなら、先生……」
父とも兄とも慕ったあなた。
寒さに震えていた私を抱きしめてくれたあなた。
誰よりも、私が愛していた。


その思いを、恋とは知らないまま。



何を犠牲にしても構わない――あなたのためなら。
あの日の約束どおり、瞬は双魚宮にやってきた。真なるアテナである沙織を奉じたこの戦いのなかに、兄が、友が散っても少女は先に進み続ける。
対峙したアフロディーテは出会ったときのままに残酷なほど美しかった。
「来たのね」
「ええ、あなたを殺しに」
瞬の声が石造りの宮に響く。白亜の宮にあって薄紅色のアンドロメダの聖衣は一層鮮やかに見えた。
ああ綺麗だねと、アフロディーテが寂しげに微笑んで言った。
「殺す、と。聞こえたようだけど」
「そう言ったわ」
向かうアフロディーテからゆらりと立ち上る小宇宙は薔薇色。
少女の抱く銀河は薄紅色。
「あなたは、我が師ダイダロスの仇……。そうでしたよね?」
「……そうよ。そしてあなたに白薔薇をつきつけた。見逃してやったのにわざわざ死にに来るなんて……」
「死にに来たんじゃありません、仇を討ちに来ました」
「…へぇ」
清楚な顔をして、少女の瞳は憎悪に燃えていた。
彼のために、愛した男のために血に染まる事も死ぬ事も厭わない女たち。
大地に綾なす薔薇が、宇宙を巡る銀河の鎖が。
「あの時の私じゃない! 私は強くなったわ」
「そう思えるのは自分だけよ。私にしてみればあの時の小娘のまま!!」
やがて黄金の淑女が満身創痍の少女の手を引いて、死なる闇に叩き落す。
けれど少女は最後にすべてをなぎ払う嵐の中に、豪奢な薔薇を葬るだろう。





彼女の視界がそこで別のものに切り替わった。
懐かしいと浸っていられるような生易しい記憶ではない。
自分が死ぬ夢を見て冷静でいられるほど彼女もまた心に傷負わぬ存在ではなかった。
「……なんかやな夢」
聖戦が終わった後、なんの因果なのか、嘆きの壁の前で散ったはずの黄金聖闘士たちがこの地上に戻ってきたのだ。誰一人として欠けることなく。
それが冥王とアテナの手になる神の御業によるものと知ったのは少し後のこと。
誰もが地上のために戦ってくれたのだからと、アテナはこれまでのこと――特に内乱のことは不問に処した。
それにより星矢たちに倒された白銀聖闘士も戻ってきた。
これからはまた地上の愛と平和のために尽くそうと誓い合う聖闘士たち。
けれどそれがたった一人の少女の心に思い影を落としている。
そしてその影を敏感に感じ取ったのはほかならぬアフロディーテだった。
覚醒がしっくりこないままなんとなく朝を迎え、ぼーっと鏡を見る。
映る顔はいつもどおりなのにどこかやつれて見えた。
無気力に支配されているような、そんな気分。
朝食もそこそこにぼーっとすごしていると、すぐ下の宝瓶宮からカミュがやってきた。
燃えるような緋い髪の彼女には不思議と白い花が似合った。
「アフロディーテ、居る?」
「あら、カミュじゃない」
「うちの白百合が綺麗に咲いてたからお裾分け。私たちが居ない間でも花はこうやってちゃんと咲いていてくれたのね」
そういって百合を我が子のように覗き込んでいたカミュに、アフロディーテはにこやかに微笑む。
少し元気はないけれどアフロディーテが愛した薔薇たちもその生命を謳歌していた。
カミュは手にしていた百合を魚座の彼女に渡そうとして、ふと気がついた。
「元気ないわね。なにか悩み事?」
「えっ?」
アフロディーテは驚いたとばかりに声を上げた。
自分自身では悩んでいるという自覚がなかったせいか、カミュに指摘されてようやく気がついた。
「私、悩んでるのか……」
「気がついてなかったの」
2つ年下のカミュはいつも冷静であることを信条としているせいか、幼い頃から大人びて見えていた。もっとも彼女の親友でもあり恋人である蠍座のミロが異様に子供っぽいせいでさらに引き立っているのかもしれないが。
アフロディーテは苦笑してカミュの百合を受け取った。
「そうね、悩んでいるのかもしれないけど……でもなにが引っかかっているのかわからないのよ」
「アフロディーテ……」
花を届けたら買えるつもりだったカミュも、何故か今のアフロディーテを放っておけなかった。
「私でよかったら、聞くけど?」
「カミュ……」
空いていた花瓶に百合を飾っていたアフロディーテが目を伏せた。長いまつげが彼女の目元に影を落とす。
顔を上げたアフロディーテに悲壮感は感じなかった。
「折角だから聞いてもらおうかな。お茶入れてくるから座ってて」
「ええ」
緋色の髪を背中に流しながら、カミュは手近な椅子に腰を下ろした。
北欧風の家具が並ぶ品のいい部屋にほのかに薔薇が香っている。
なんだか彼女らしい部屋だなと思いながら、カミュはアフロディーテが来るのを待っていた。
程なくして、アフロディーテはティーセットを手に戻ってきた。
「お待たせ。ローズティーはまだ作ってなくて、ヴィンテージダージリンなんだけど」
「ああ、気にしないで。ありがとう」
カミュはそれほど紅茶にはこだわらない。
ティーセットはウェッジウッドのワイルドストロベリー・レッド。
出されたヴィンテージダージリンはこの部屋の雰囲気にそぐわぬものではなかったから、彼女はそっと口に含んだ。
「いい香りね」
「よかったわ」
暖かい紅茶にほっと心をほぐされたのか、アフロディーテが笑った。
それなら大丈夫だろうとカミュはソーサーにカップを戻した。
「それで、何か引っかかってることって?」
「ああ……うん、あのね。最近よく夢を見るのよ」
「夢?」
鸚鵡返しに呟いたカミュにアフロディーテが空水色の髪を揺らして頷く。
「それも決まって、私がダイダロスを殺めて、そして瞬に倒される夢――」
「アフロディーテ!!」
それはサガが起した内乱の前後のことだ。
その頃カミュは東シベリアにいてアイザックと氷河を指導していた。ゆえに彼女はアイザックが事故で遭難し行方不明になるという不幸に遭うけれども、その手に誰も殺めることはなかった。
しかしアフロディーテは違う。
彼女はなまじサガのそばにいすぎたがために――だってしょうがない、彼女はサガを愛していたから――その綺麗な手を血に染めることを厭わなかった。
そんな狂気の犠牲になったのが白銀聖闘士のダイダロス。
「アテナのためにと……いいえ、サガのためになるんだと信じて、私は何も疑わないでダイダロスを誅殺したの。瞬と初めて会ったのもそこだった……」
師なる男の遺骸に縋り泣いていた幼い少女。あれからそう時は経っていないけれど――だからこそ、今も鮮烈に残る生と死の巡り逝く記憶を夢に見るのかもしれない。
そしてサガに誓った忠誠こそが彼女の正義だった。
「私もサガもこうして地上に戻ってきたわ。アテナはこれまでのことはすべて不問とし、これからも地上のために尽くして欲しいと仰ってくださった。だから戻ってきたことに悩んでいるわけじゃないの」
「正義は、何か」
カミュが冴え凍るような声で、けれど凛と言った。
「十二宮の戦いでは誰もがそれぞれの思いで戦ったのよ。あなたみたいにサガを守りたくて戦ったり、とにかく氷河たちを謀反人と看做してただ排除しようとしたり……かく言う私もあまり偉そうなことはいえないけど」
「ああ」
思い当たる節があると、カミュもアフロディーテも笑った。
カミュは我が弟子可愛さにわざわざ天秤宮まで出向き、嬲り殺しにされるだろう氷河を見たくないと仮死状態にして氷の棺に閉じ込めていた。しかしカミュの想いも空しく、氷河は仲間たちによって助け出され、再び生きてカミュに向かってきた。
「私は氷河だけは助けたかった。シベリアでひとり、弟子をなくしているからね。そしてあの子――氷河には聖闘士としての素質があったから……未来を託せると思っていたの」
彼女がシベリアで失ったアイザックはクラーケンの海闘士として生きていた。
そして十二宮の戦いを生き抜いた氷河はその後の戦いを経て今では欠くことのできない聖闘士の一人になっている。
「私の戦いは、誰のためでもなく、ただ私と氷河のために戦いであったわね。そういう意味ではあなたと同じ」
「あ……」
カミュの指摘にアフロディーテは小さく声を上げた。
サガのためにダイダロスを殺め、瞬を嬲り殺そうとした自分の戦いは。
彼こそが正義だったから。
「だけどあなたの場合、問題はそこにあるんじゃないような気がする」
すっかり冷めてしまったカップのほうが心地いいのか、カミュは先ほどよりゆったりと頬を緩めている。
しかし紅茶といえどもそこは琥珀色の水鏡、水と氷の魔女と謳われる水瓶座の彼女にはそこに何かが見えるらしい。
「私はその……ダイダロスだっけ? 面識はないんだけど、彼は夢の中でただ死んでいるの?」
「え、それってどういう」
「ダイダロスが血塗れであなたに恨み言を吐いたりしていないかってこと」
カミュの問いに、それはないわとアフロディーテは否定した。
真白の薔薇を胸に彼はただ絶命していた。
そして彼と同じように今度はアフロディーテ自身が瞬によって殺される。
そこで思い出した。
「あ……」
「どうしたの?」
「瞬が、泣いてた……」
今はダイダロスの遺児とも言える少女。
彼女の手になる鎖は魚座の女の胸を射抜き、そして王女の胸にも父王と同じ白い薔薇が彼女の命を吸い取って。
ただ瞬も泣いていた。ぽろぽろと涙を零し冷たい石の床に倒れ臥している。
仇を討ち彼のそばに逝ける喜びか、それとも残る仇を討ちもらした悲しみか、あるいは戦う友のそばに行けぬ悔しさか。
いずれにせよ、瞬が泣いていた。
「何も言わずにただ……」
「じゃあ、引っかかっているのはあなたじゃなくて、彼女自身なのかもね」
「カミュ……」
最後の一滴まで飲み干し、カミュは苦笑した。
「ごめんなさいね、私も夢説きはあんまり得意じゃなくて。余計あなたを混乱させちゃったみたいで」
カミュがそういうとアフロディーテはいいえと首を振った。
「誰かに話せてよかったわ。こんなことサガには言えないもの……」
「そうね」
ダイダロス殺害を遂行したのはアフロディーテだが、命じたのはサガだ。
彼の罪は片手では数えきれない。
「一体この世界でどれだけの人間が――いえ、生きとし生けるすべてのものが、罪を犯さずにいられるというのかしらね……」
そして神々はその罪をどこまで赦すのだろう。
咎なき死人たちの声なき声をその少女だけが聞くのだろう。
「ごちそうさま。また落ち着かなかったら言って。話すだけでも楽になることがあるから」
「ええ、ありがとう」
カミュとアフロディーテはほぼ同時に立ち上がった。
これから宝瓶宮に戻り、そこから天蠍宮へ向かうのだと、カミュは照れながら言った。
幸せそうな恋人たち。
もうどれくらいサガに会っていないかしらと、アフロディーテは静かな風に心揺られていた。




冥王より託されし球光体
ひとつふたつと数えて


――ああ、どうしてあなたはいないの?




今度は違う夢を見た。
広大な花園に立つ廃墟のような神殿。地鳴りがだんだん大きくなる。
そこに一人の青年が横たわり、傍らの少女に手を伸ばしていた。
「あなたは死んじゃ駄目だよ……あなたがいなくなったら誰が命の輪廻を護るの!?」
そう叫んで、少女は涙を零した。
紅真珠色の神聖衣に身を包む亜麻色の髪の乙女。男の手を握り、必死に呼びかけている。
「あなたは一人じゃない、もう一人じゃないの……」
寂しいのなら私がいるわと、少女は男を励ました。
その男にとって寂寥などもう感じることもなかった。それほどまでに長い年月を過ごした。
けれど触れてしまった暖かい魂に呼び戻された負の感情、彼女でなければ消せない気がした。
「そばにいてくれるのか」
「あなたがそう望むのなら」
すると男は脇に落ちていた愛剣に手を伸ばし、それを杖代わりに身を起す。そしてどこからともなく透明な瓶を取り出すとそれを乙女に持たせた。
「これはなに?」
「これから渡すものは地上のために必要なのだ……役立てて欲しい」
そうして男の手からひとつふたつと小さなふわふわしたものが落ちては閉じ込められていく。
最後のひとつを入れてしまうと男はそれらを封じ、鎖の乙女だけが開封できるように呪文をかけた。
「さあ、行くがいい。そなたの愛した地上のために。そして――」
その少女の手によって摂理を越えた神の力が示される。



けれど少女は泣いていた。
何度数えても足りない、と。






深更、アフロディーテは目を覚ました。
不思議とすっきりとした覚醒の中で、彼女はゆっくりと起き上がった。
地中海に面したギリシアは年間を通して少雨であり、温暖だ。しかし流石に夜ともなると少し冷えた。
アフロディーテはお気に入りのケープを纏い、巻き込んでしまった髪をさらりと背中に流す。
そしてひとつ息をつくと白いピンヒールのサンダルを突っかけて教皇宮のほうへ向かった。
誰かが、何かが呼んでいるような気がした。
魔宮薔薇が作る小道を抜け、程なく教皇宮というところで、アフロディーテは足を止めた。
――誰かいる。
しかし聖闘士にとってその距離がいかほどのものだろう、アフロディーテにはそれが誰なのかすぐにわかった。
「瞬……」
故国エチオピアを護るために鎖につながれ、生贄に供された悲劇の王女アンドロメダ。
その星を抱いて生まれてきた彼女もまた、自己犠牲を厭わぬ性分の持ち主で。
そんな瞬がたった一度だけ誰かのために牙を剥いたのだとしたら。
「それは、私なんだわ……」
夜風が亜麻色の、そして空水色の髪を揺さぶる。
こつこつとアフロディーテのヒールが石段を叩いた。
その音に瞬がはっと顔を上げる。
「――! 誰!?」
静寂の夜空に瞬の声が鋭く響いた――まるで敵を威嚇するかのよう。
銀河の瞳をきりっと細め、瞬は石段を登ってくる人物を見つめていた。
「私よ、アフロディーテよ。すぐ下は双魚宮なんだから」
そんなに目くじらを立てることはないでしょうと微笑むアフロディーテに瞬は苦笑する。
指摘され、瞬は自分が立っている場所を思い出した。ほのかな薔薇の香りが漂うこの場所。
瞬が仇と思っていた男と女が住まう場所。
そこに立って何を思うのだろうか。
アフロディーテは瞬と少し距離を置きながら、それでも隣に立った。
「何してたの。ギリシアといえども夜は冷えるでしょう?」
そう言って自分がつけてきたケープをはずし、瞬にかけてやろうとしたそのとき。
ぱしっと乾いた音が聞こえた。
そしてぱさりとケープが落ちる。
瞬は思わず身を翻し、アフロディーテの白い手を打ち払っていた。
それは瞬がまだ魚座の女を赦していないという、それゆえの行動だったのだろうか。
ふたりの間に沈黙が流れた。
ただ瞬は自分の行為に我がことながら動揺したようであわててアフロディーテのケープを拾い上げた。
「あ、あの……」
彼女はただ寒かろうとケープを肩にかけようとしてくれた。
ただそれだけだったのに。



すれ違う想い
父なる王の星は秋の夜空にただ燦然と煌いて――ああ、それはもう滅びの煌きでも構わない



「やっぱり、私が憎いのね」
「アフロディーテ……」
瞬の声は最後まで彼女の名を紡ぐことはできなかった。
ただ何かを覚悟したかのように目を伏せるアフロディーテ、その影を帯びた美貌から目を話すことができなくて。
閉ざされた魚座の女の瞳が開かれしとき、それが最後の決着となるのだろう。
「私もサガもこの地上に戻ってこれた――アテナと、おそらくは冥王の力で」
けれどと、薄く柔らかい唇が呪詛のように言った。
「あなたの愛したダイダロスは、戻ってはこなかった」
「……戻ってこなかったのは、先生だけじゃありません」
たとえば、琴座のオルフェ。
彼はひとり残されるユリティースを案じ、再び冥界に暮らすことをアテナに願い出て許された。
たとえば、射手座のアイオロス。
彼女は自分が戻ることがサガを苦しめると思い、時期が来たら必ず戻ると告げていた。
けれど瞬が愛したダイダロスだけは。
「あのふたりは例外だとアテナから伺った。本当の意味で戻ってこなかったのはダイダロスだけよ」
「――!」
「私は、アイオロスを殺めたときのシュラのように、そのことに何の疑問も抱かなかった。ただサガの邪魔になるなら、彼は私にとっても邪魔だった。それだけなのよ」
愛した男こそが彼女の正義と、アフロディーテはそう断じ切った。
「それで先生を殺したって……それはあなたを殺したときに聞いた」
「そう。そして何度でも言うわ」
狂信こそが罪ならばこの愛は何?
脆弱こそが罪ならば正義とは何?
此れら双つを天秤にかけて、それでも傾かざる不憂の天秤。
アフロディーテは瞬の細い手首をつかんで、自分の胸元に引き寄せた。拒もうと身体ごと引いても動かせない。
「あ、アフロディーテ……」
困惑する瞬に魚座の女は鋭い言葉を投げつけた。
「私を殺しなさい、あなたの気が済むまで。それでも、ダイダロスは戻らなくても、瞬が救われるなら私は何度でも死んであげるわ」
「あ…あ…」
悲壮な決意をその空色の瞳に宿し、アフロディーテはしっかりと瞬を見つめていた。
手は、離さない。
豊かな乳房の間に、柔らかな肉の下にうごめく心臓の鼓動が確実に瞬の手に伝わっていた。
「さあ、ここを撃つの。そうしたら私は死ぬわ。そしてお願いよ」
「願い?」
震える瞬を開いた片手で抱き寄せ、アフロディーテはその耳元に囁いた。
「私を殺したら、すぐにサガも殺してあげて。サガも苦しんでいるわ。私はサガを救いたい、あなたも救ってあげたい……私ごときが何を言うのかと思っているでしょうけどね」
甘く囁くアフロディーテの声に瞬はいやいやと首を振り、泣きながら抵抗した。
「さあ、瞬!」
「いやっ……いやあああっ!!」
拳を振り上げて暴れる瞬を押さえつけるように、アフロディーテは彼女の両手を拘束した。途端、瞬が膝から崩れ落ちる。
そして瞬は涙に滲んだ声で、けれどしっかりと告げた。
「私は、知ってた! 先生が冥界にいなかったことを!!」
「なんですって……!?」
どういうことなのと問うアフロディーテはもう瞬の戒めを解いていた。かわりにしっかりと手を握ってやる。
瞬は静かに言った。
「私は、冥王ハーデスの巫女。彼の肉体となるべく生まれてきた。そして私はジュデッカで冥王となって……心中するつもりだったの……」
「ええ、そこまでは私も知っているわ。でもそれとどう関係が……」
「ハーデスが……私に言ったの。先生は聖闘士だからコキュートスに堕ちるのが相当だって。でも私を育てたことを考慮して地獄でもなくエリシオンでもない場所に送ったと……」
「まさか……」
アフロディーテの推測に瞬がこっくり頷いた。
「ハーデスはダイダロス先生を転生させたと言っていた。でも何に転生したか、それがいつなのかとか、そんなことは教えてくれなかった」
それは神にしか知ることの許されぬ領域。
冥王の器たる存在とはいえ、瞬に知りえるはずもなく。
「だからもう、先生は……ダイダロス先生は再生という形で戻ってくることはないの…」
「瞬……」
「それに、私はあなたを殺したくない……誰かを傷つけるのはもういやなの……」
聖闘士としてそれはあるまじき言葉なのかもしれない。
傷つけることを躊躇っていては戦えない、護るべきものを護れない。
「仲間を失くしたくない……」
そう言った瞬の瞳からまたぽろぽろと涙があふれた。
こんなふうにさせたのは自分だと、アフロディーテは拭うかわりに目じりに唇を寄せ、涙を吸い上げた。
「もう泣かないで、瞬」
「……アフロディーテ、私はもうひとつ告白しなきゃならない」
「何を?」
アフロディーテは柔らかく問うた。
瞬は泣きながらも苦笑する。
「みんなを蘇らせたのは私です。ハーデスからあなたたちの魂を渡されて、アテナの前で開放しました。そのとき私は……本当は、あなたとサガに止めをさすこともできたのにね」
必要なら開けろと手渡されていた瓶の中身は聖闘士たちの魂。
そこから瞬は二人の魂だけ取り出して粉々に壊すことだってできたのだ――ダイダロスが再生しないと知ったときに。
「だからもういいの、あなたとのことは。あなたはサガを愛してた。私は先生を好きだった。でもまだ幼かったから……敵わなくて当然なんです」
「瞬……」
「私はただ、先生を思い出していただけ。それだけなんです……」
ついその手を払ってしまったけれどと、瞬はやっと笑った。
アフロディーテはそんな瞬をぎゅっと抱きしめた。
「瞬……」
「アフロディーテ……」
何も言わなくていい、ただこうして抱きしめあっていればいい。
そうして分かり合えることもあるのなら。
今は『ありがとう』も『ごめんなさい』も場違いだけれど。
「ねぇ、瞬」
「はい?」
「私にダイダロスの代わりはできないかしら。彼に代わってあなたを見守りたいの……」
本当は彼が無実だと知っていた。知っていたけど邪魔だったから。
私こそ弱かったのよとアフロディーテは言わない。
ただ自分の背中に回された優しく小さな姫の手に、生きる意味を知って。
瞬の答えはただひとつ。
「よろしくお願いします」
涙を微笑に変え、女たちは――女だからこそ、笑いあった。




玻璃製の燭台に灯火が赤く揺らめいた。
教皇宮の一室で男が静かに涙ぐむ。
ダイダロスを殺す必要はないと叫んだ彼の咆哮は鋭い闇に断ち切られた。
そして恋人の細く美しい手で誅殺した――咎なき男とその遺児に辛い別離だけを残して。
サガにとっての正義は二つ。
アテナの名のもとに聖闘士を総括し、地上の愛と平和を護るために戦う≪白い正義≫。
そして幼少のアテナを殺害することで廃し、自らが神となる≪黒い正義≫。
彼の天秤は闇に傾いた。
その闇とともに侵した罪、欠片が一人の少女の姿で今も彼の前にある。
薔薇の薫に包まれて。
いっそこのまま死なせてくれていたらと、思わなくもない。
しかし死して詫びるのは一瞬、生き長らえて罪を雪いでこそ。
この生に意味を持つのだろうか。
サガには自分の流している涙の意味がわからなかった。
けれど生きていることへの悔恨でないことは確かだった。
自分のために血に塗れてくれた美しい恋人と、背負わなくてもよかった悲しみを負わせてしまった少女とが今このときに分かり合えたことに、ほんの少しだけ安堵した。



秋の空に父王を仰ぐ限り
私たちは忘れないでしょう



手を取り合って生きることの、その意味を。




双魚宮の広いべランダでアフロディーテと瞬が揃ってお茶を飲んでいた。
日も徐々に温み、そして短くなっていく。
アフロディーテは向かいに座る瞬を見つめて目を細めた。そんな彼女の視線に気がついて、瞬は思わず唇をなぞる。
「やだ、なんかついてます?」
「ううん、また可愛くなったなあと思って」
「え……」
父王なる星に見守られ和解した瞬とアフロディーテ。
さらなる事件はその後すぐに起こった。なんと冥王ハーデスが瞬を妃に欲しいと、瞬本人に直接申し出た。
流石のアテナもこれには仰天したものの、やっぱり面白そうだからと二人の交際を許してしまっていた。
そして瞬を亡きダイダロスに代わって護ることにしたアフロディーテもまた驚きはしたものの、瞬が幸せになれるのならそれもひとつの道だろうと温かく見守っている。
そこに双子座弟のカノンが乱入したり――させたのはアフロディーテだが――余計な邪魔が入ったりと恋模様は混戦を見せたのだが、結局勝者は冥王となった。脅威の粘り勝ちというやつだ。
恋する乙女座な瞬を見つめ、アフロディーテは思う。
この恋こそが彼女を強くするのだとしたら、いずれ瞬は自分と同じ道を歩むだろう。
愛するもののために何度でも立ち上がり、そしてやがてはそれらを護るためには自らの手を汚すことさえ厭わなくなる。
ただひとつ、間違えないで欲しいのは。
「私のように、履き違えないこと……」
「アフロディーテ?」
愛とは何か、正義とは何か。
狂信は罪か、脆弱も罪か。
ならばその罪科はどう贖えば清められるのだろう。
永久を見ても掴めない答え。
「瞬」
「はい」
魚座の女の視線はまっすぐだった。しかし瞬もまたまっすぐにアフロディーテを見つめ返す。
女だけが知っている決意を秘めた瞳で。
「私はあなたが幸せならそれでいい。瞬は間違えない、そう信じてる」
「アフロディーテ……」
誰かを傷つけることを嫌い、また救うために自らを投げ出すことのできる瞬ならば。
誰といてもどこにいてもきっと大丈夫だろう。
アフロディーテはゆるりと首を回し、眼下に広がる景色を眺めた。
真っ青な海が雄大に広がる景色、瞬も立ち上がって同じように見つめた。
「綺麗……」
「そうね。私たちはこの世界を護るために生まれてきた。そしてこれからもそうして生き続けていく」
そしてとアフロディーテはつややかな唇で続けた。
「あなたは、あなたが愛する人と一緒にいなさい。たったひとり、その人を孤独や寂寥から護り、間違った道に進まないように導くことも、大事なことなのよ」
そう言ってアフロディーテは瞬の繊手を包んだ――そっと、そっと。
瞬はそんな彼女の手をもう振り払うことはなかった。



穏やかな日差しの中、笑っていられるのは





誰もが皆、夢旅人――心脆く、弱き旅人
真実など何一つとして存在し得ないのだという真実、という矛盾を抱いて






薔薇が咲き乱れるその場所に、アフロディーテは一人で立っていた。
宵の明星が遥かなる地平すれすれに煌いて。
その唇はただ何かを口吟さんでいる。
「私はもう、間違えないわ」




だから行くの
遠い空の向こうまで




アフロディーテは天に向かって手を伸ばした。








≪終≫




≪謝ってすむ問題じゃない≫
ニアミス様のブログ開設記念に書かせていただいたアフロ瞬です。
瞬とアフロが和解する話は書かなきゃいけないなと思っていたので、今回はよい機会でした。
ニアミス様、ありがとうございました。
ん! ほかに言うべきことなあんまりない!注: 文字用の領域がありません!

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