マジックナンバー 1・2・3の魔法で恋に落ちるかもしれないんです とある国のとある都市に学園があった。 ひとつは城戸光政が率いるグラード財団が創設した『グラード学園』。 そのグラード学園のすぐ側に学校法人オリンポスがあった。 どちらも幼稚園から大学院までを備えていたが、大学のほうは専門性を高めていた。 グラード学園大学は芸人から官僚まで――あらゆる人材の育成、あるいはマルチな才能の開花を目指した。 一方のオリンポスはスペシャリストの育成を根幹とした。 特に法律家の養成を目指したエリシオン大学と、芸術部門に特化したブレドマリナ大学は国立大学最高学府を凌駕する勢いであることは今更特記するに当たらない、らしい。 とにもかくにもこれらは学園――すなわち学び舎であり、人がいなければただの建物である。 人が人を教え育てるということは並大抵のことではないとサガは常々認識してた。 この教え子の成績を見るにつけて。 「星矢、いい加減にするんだな!」 各担当教科から担任教員へ。 渡された成績表とテストの答案を見てサガは声を荒げた。 サガの向かいに座っていた星矢はううと肩をすくめるが反論する気があるのは確かなようだった。 「だって」 「だってじゃない! よくこんな成績で初等部から上がってこれたな!」 グラード学園では上級校へ上がる際に進学試験がある。進級試験はないので定められた年数だけ学校に留まることが出来たが、進学試験に合格しなければたとえ幼稚園からグラード学園の在校生だったとしても義務教育学齢ならば転校、それ以外なら転校か退学かという、厳しい側面を持っている。 少なくとも星矢は初等部からの進学生であり、外部受験者ではない。 が、星矢が進学できたのは奇跡ではないのかとサガは思わずにはいられない。 思わず初等部時代の担任に連絡を取ってみたが、成績は悪くなかったという。 やっぱり奇跡か? そう思ったサガの前に星矢の答えが返る。 「それは紫龍や瞬がテストの前に仕込んでくれたから」 「……やはりか」 サガはがっくりと項垂れた。 紫龍は現在中学2年生、瞬は星矢と同じ1年生の生徒達だ。 しかしテスト前にちょっと仕込んだくらいで進学できるほどグラード学園の進学、及び入学試験は容易ではない。それは卒業生であるサガ自身がよく知っている。 ということは星矢は基本的にやれば出来る子なのではなかろうか。 ただ問題は『普段全然やらないんだ』というだけで。 双子の弟の顔も思い出し、サガはため息をついた。 「まったく、理事長も何をお考えなのか」 「沙織さんがどうしたって?」 サガは担任に敬語を使わない星矢に懲戒という名のげんこつを与え、黙らせた。 「今すぐ理事長室に来いとの仰せだ。行くぞ」 「くぅ〜〜、体罰だ! 訴えてやる!」 暴れる星矢を簡単に押さえ込み、サガは星矢を引きずって理事長室へ急いだ。 「理事長、サガです」 サガが入室を問うと、中から少女の声でそれを許可する返事があった。 「ほら、入れ」 サガが星矢を放り込む。転びそうになった星矢を受け止めてくれたのは亜麻色の髪の乙女。 「大丈夫?」 「瞬……」 瞬はにっこり微笑むと星矢の髪から襟まで綺麗に整えた。 「ダメじゃないの、きちんとしなくちゃ」 「瞬がしてくれるからいーの」 まさに甘え放題、甘やかし放題の星矢と瞬。 仲睦まじい二人を見て、理事長は満足げに笑った。 「さ、星矢に瞬。私の話を聞いてちょうだい」 そう言って手を叩いた理事長も星矢と瞬と同じ13歳の少女。 彼女は城戸沙織――グラード学園の創始者・城戸光政の孫娘である。 星矢がくるっと見回すとそこには校長のシオンがしかめっ面で立っていた。 「用ってなんだよ、沙織さん」 「星矢!」 いくら幼馴染でも口が過ぎるよと窘める瞬に沙織はいいのよと笑った。 「実は、ふたりにお願いがあります」 「なんでしょう」 瞬が丁寧に問うと沙織は星矢には笑顔を、瞬には不安そうな表情を向けた。 背後で見ていたサガは不思議に思う。 なにを頼むのかは知らないが、沙織の表情は逆なのではないか、と。 そんなサガの疑問はあっという間に解消された。 「実はね、ふたりに男子校へ転校してほしいの」 「…………へ?」 たっぷり間が開いたのは理解できなかったから。 今沙織はなんと言った? 転校? それはまあわからなくはない――星矢のほうは。 男子校? 意味がわからない――瞬のほうが。 サガは驚愕の表情のまま立ち尽くし、校長のシオンがふうとため息をついた。 「理事長、いくらなんでも瞬が可哀想です、瞬が」 「俺はかわいそうじゃないのかよ!」 「阿呆、おぬしの成績は知れておるわ! それでよく進学してこれたな!」 さっきサガに言われたのと同じ事をまた言われ、星矢はむっとして黙った。 沙織はんふふふふーと笑うと先を続けた。 「実は、オリンポス学園が新たに男子校を開設したのです」 「ええ、聞いています。でもオリンポス学園はすでに中等部・高等部を併設した学校を持っているはずですが」 サガの発言に沙織が同意で頷いた。 「ですから新たに設けられた男子校が気になるのです。そこで星矢と瞬にそこに編入してもらっていろいろ調べてきてほしいの」 事情はわかったが、さりとて納得できるものではない――特に瞬が。 瞬は歴とした女の子なのである。 いくらスレンダーだからといって男子で通るはずがない。 非情といえば非情な命令に食って掛かったのは星矢だった。 「ちょっと待てよ沙織さん! 瞬は女の子なんだぜ! 男子校なんて無理だよ!」 「星矢が守ってあげれば済む話でしょ」 「って言いますけど……」 だからといってはいそうですかでは済まないこともたくさんある。 あからさまに不安にかられる瞬だったが意を決したかのように言った。 「わかりました」 「ええっ!?」 驚いたのは星矢だけではなかった。サガも一緒に驚いてくれた。 女の子なのに男子校へ行けといわれた瞬の笑顔は花も恥じ入って枯れそうなほどの鮮やかなもので。 「沙織さんにはお世話になっているもん。恩返しはしなくちゃ。それに星矢が守ってくれるなら安心だもん。それに嫌がったところで沙織さんがお願いを撤回すると思う?」 「思わない……」 さりげなくひどいことをさらりと言う瞬の肝の据わりようにサガはまた驚いた。 星矢もそれと知りつつ、瞬を止める。 「け、けど男子校だぞ? 男ばっかりなんだぞ?」 「知ってるよ」 「ならなんで……」 思うところがあるのは分かる。 でも、でも。 瞬が行くというのなら。星矢は、あるいは瞬の笑顔に騙されたのかもしれない。 「わかったよ。瞬が行くなら俺も行く。それでいいんだろ?」 あまり納得できるものではなかったが、こうと決めている瞬を納得させられるだけの国語力と説得力を、星矢は持ち合わせてはいなかった。 諸手続きは済ませておくからと沙織に告げられた星矢は、なおも納得いかない様子でサガとシオンに連れられて出て行った。 理事長室には沙織と瞬が残る。 「……ごめんなさいね、瞬」 「いいえ。沙織さんのお役に立てるのならそれでいいんです。それに、紫龍でも氷河でもなくこの私をご指名ということは他に私でなければできないことがある、ということですね?」 瞬の推察に沙織は手を合わせた。 「その通りよ。瞬が女の子だからできるかもしれないことなの。でも無理はしないでちょうだい。でなければ私はあなたのお兄様に申し訳が立たないわ」 「沙織さん……」 明るい日差しの中、ふたりの乙女が祈るようにそこにいた。 「でも、私にしかできないことってなんなのでしょう。やっぱり男子校ですもんね」 行くとは言ってみたものの不安がないわけではない。 「それは行ってみてからでいいわ。でも無理だったらすぐに戻ってきてちょうだいね」 「……できるだけ頑張ってみます」 にこりと微笑んだ瞬に沙織はごめんなさいとありがとうを混ぜて手を握った。 かくして学校法人オリンポスの新男子校に星矢と瞬が現れた。瞬は亜麻色の長い髪を後ろでひとつに結っていた。 もともとあまり大きくない胸も一応さらしで包んでいる。 「へへっ、実は男子校って一度見てみたかったんだよね」 「そんな気楽なもんじゃないだろうに」 「大丈夫、星矢が守ってくれるんでしょ?」 僕のこと、と瞬が言った。 普段は『私』を一人称に用いる瞬が男子校へ編入するに当たって『僕』というようになった。 でも近づけば、勘のいいものなら女の子かと気がつくかもしれない。それほど瞬は男装しても可愛かったのだ。 男でもいいと思う連中がいるかもしれない。 とにかく星矢の目的は男子校の様子を探るよりも瞬の身を守ることにあるのだろう。 「よっしゃ、とにかく入ろーぜ」 「うん!」 真新しい制服に身を包み、星矢と瞬はともに学校の門をくぐった。 それとほぼ同時に校長室もまた争乱を抱えていた。 「聞いていないぞ」 「今言った」 黒髪の男が金の髪の男をぎらりと睨みつけた。 「余はエリシオン大学の学長なのだがな」 「今更オリンポス学園の校長になったからと言って困ることはないだろう? どうせ暇なんだろうが」 「学長はおまえが思っているほど暇じゃないんだが……なにを言っても無駄か」 黒髪の男がハーデス、金髪の男がゼウスでふたりは兄弟である。 「ならそこをどけ。そこは校長の席だろう」 「ああ、悪い」 ちゃっかり座り込んでいたゼウスがハーデスに席を譲る。ハーデスはしぶしぶ座った。 「で、今日から転入生が二人来るからよろしく」 「今言ったな」 「ああ、今言った」 このバカ兄と心の中で呟き、ハーデスはため息をついた。たった5分後にそのため息の意味が変わることなど知らずに。 そうやってしばらく待っていると、転入生が挨拶にきた。 「ああ、来たか。入っていいぞ」 「失礼します」 「しつれーしまーす」 楚々として入ってきた少年と、闊達そうな少年の組み合わせ。 ハーデスは面倒くさそうに顔を上げ、しかし次の瞬間には言葉を失っていた。 「……」 「おい、ハーデス?」 ゼウスにつつかれ、ハーデスははっと我に返った。そして手元の資料と生徒を交互に見る。 「えっと、転入生の城戸星矢」 「はい、俺です」 星矢が手を挙げたので、ハーデスはうんと頷いた。間違いなく本人だ。 そして。 「そちらが城戸瞬。どちらも1年生で同じクラスだな」 「はい。よろしくお願いします」 ぺこりと頭を下げ、にこりと笑った瞬にハーデスはまた不思議な感覚にとらわれた。 (な、なんなのだ、この気持ち……) 瞬を一目見た瞬間に止まった意識、高鳴った鼓動。 ハーデスは自分でもなにを言ったのかよくわからないまま席を立ち、そして二人を連れて校長室を出た。 どうやら自分で校内を案内してやるとか何とか言ったらしいが、記憶にない。 「やっぱ出来たてだよなー、綺麗だなー」 「ほんと。気持ちいいよね」 ハーデスに聞こえていたのはおそらく瞬の声だけだろう。 静かに、でも楽しそうに歩いている二人にハーデスはなにやらもやもやふわふわしたものを感じていた。 (なんだ、余は何かの病か!?) それは恋なんですとささやいてくれるものも、今はない。 二人を教室へ送り届けてからハーデスは再び校長室に戻った。 「よ、どうだった?」 「は?」 ゼウスの問いかけの意味が分からず、ハーデスは思わず蠍座な反応を見せる。 するとかえってゼウスも蠍座になる。 「は? だから、今、案内してきたんだろう? ふたりはどうだったって聞いてるんだよ」 「あ、ああ。明るくていい子たちだったぞ」 「ふーん」 ゼウスはハーデスの不思議とそわそわした後ろ姿にニヤリと笑った。そして背後から瞬の資料を盗み見る。 「ふたりとも中学生らしい可愛い子だったな」 「……手は出すなよ、理事長」 「わかっているよ、校長」 両者とも肩書きだけ嫌みいっぱいに言って、その後は顔も見合わせなかった。 編入から1週間。 星矢から最初の報告を受けた沙織はさもありなんと笑っていた。 「もー、笑い事じゃないんだぜ! 瞬のやつ、モテすぎだ!」 「そりゃもう、可愛いんだからしょうがないわよ」 「もう身が持たないよ!」 編入初日から可愛い子が来たといって見せ物になっていた――男子校なのに。 クラスの連中は瞬にかまいまくり。しかし瞬は星矢にかまいまくりなので、星矢は早くも目の敵にされていた。 「でも沙織さん、僕がモテるかどうかは別にして、学校自体はふつうの男子校ですよ。カリキュラムはうちよりちょっと緩い感じかな」 「そう。生徒さんはどう?」 「それもフツー。瞬にイカレてる以外は」 「へんな言い方はやめてよ、星矢」 「まあ、瞬は正真正銘の女の子ですから、健康な男子がいる普通の男子校って事なのね」 沙織の総括になんとなく腑に落ちないものを感じながらも、星矢が頷きかけて止まった。 「そういえば、やたらと校長が1年のフロアをうろついてるよな」 「あら、あそこの校長は」 沙織は立ち上がって学校のパンフレットを見た。 そこに写っているのは黒髪の美青年。 グラード学園高等部から法律家になりたいとエリシオン大学への進学を希望する者も少なくないので沙織は彼をよく見知っていた。 「ハーデスが校長だったの……」 「僕はよく声をかけられるよ。学校にはもう慣れたかって」 「俺、聞かれたことない」 そうなのと瞬は小首を傾げた。飴をもらったこともあるよと瞬がいうと星矢はひとことずるいと叫んだ。 「なんで瞬だけー!」 「だって星矢、トイレに行ってたし、それにもらったのは一個だけなんだもん」 ほかの生徒には内緒だよともらった飴はいちごみるく味。あの校長からは想像もつかないような可愛らしいピンク色の菓子を、瞬はなぜか食べずに持っている。 「不思議な先生だよねぇ」 「俺には瞬の方が不思議だー」 星矢はソファの背もたれにべったりと寄りかかり、猫のようにだらしなく延びる。 そしてすぐに隣に座っていた瞬に抱きついた。 「ま、俺も瞬のこと好きだからうだうだ言えないけどさ」 「ふふ、星矢ったら」 仲のよい星矢と瞬を見、沙織もふふふと笑う。 「じゃあ、飴をもらえなかった星矢にケーキでも出しましょうね。もちろん瞬にも」 「やった! 沙織さんサイコー!」 「ありがとうございます」 早速運ばれてきたケーキにかぶりつく星矢を見、沙織は満足そうに笑った。 「でもくれぐれも気をつけて。一応企業スパイですからね」 「そう言われるとなんかカッコいいけど、わかってる。特に瞬を守ればいいんだよな」 「その通りよ」 クリームべったりの星矢に、大丈夫そうねと苦笑するしかなかった。 が、事件なんてあっという間に現場で起きるものだ。 ある日、いつものように瞬と星矢がそろって教室を移動しているときだった。 次は音楽の授業なので音楽室へ向かわなければならない。 「あっ、やべぇ!」 「どうしたの、星矢」 「教室にリコーダー忘れちゃった。とってくるわ」 「じゃあ僕、ここで待ってるから」 「おう! すぐ戻ってくるから!」 そう言って星矢は廊下を走り、瞬はぽつんとそこに残された。実はこういうことは初めてではない。グラード学園にいた頃から星矢はぷち忘れ物――つまり、学校にはちゃんと持ってくるのに提出や移動時に忘れてしまう常習犯だったのだ。 廊下の端の方で瞬は静かに星矢を待っていた。 まるでそこに一輪の百合が凛と咲いているかのよう。 通り過ぎる誰もが瞬を見、不思議な感覚にとらわれていた、そんなときだった。 「おや、君は」 「えっ?」 顔を上げた瞬の前にいたのは金髪の男。 確か、転入初日に校長室で会っているはずだと、瞬は記憶をたどった。 「あ、確か理事長先生。こんにちは」 瞬はぺこりと頭を下げる。 そしてあげたそのとき、彼女の――今は彼の顎を、理事長ゼウスがつかんでいた。 「あ、あの」 「ふーん、やっぱり写真より実物の方が何倍も可愛いな」 「や、やめてください」 相手は理事長、しかも大人の男の人なので下手な反抗ができない。それは周囲も同じらしく、誰も彼を非難したり、仲裁に入ってくれる者もいなかった――生徒はおろか、先生でさえも。 そうなると瞬は自力でゼウスを拒絶しなくてはならない。 「僕は男です!」 「俺は可愛かったら男でも女でもかまわない。まあ、女であればそれに越したことはないけど?」 ぐいと瞬の顎をあげ、ゼウスはニヤリと笑う。 「そんなに怖がってもらえるとゾクゾクするな」 「や、や……」 まさに口づけられそうになっていた、そのとき。 「こら! なにをしている!」 ざわめいていた廊下に凛と響いたのはハーデスの声だった。彼はつかつかと二人に近づくとゼウスの腕をつかんで払い、瞬をその背にかばってくれた。 「あ……」 「ゼウス、貴様なにをしている。生徒に手を出すなと何度言えばわかる! 学校を潰す気か!」 「まさか。可愛い子に可愛いと言っていただけじゃないか」 「それだけじゃないだろうが。いい加減にしろ」 「いい加減にねぇ……わかったよ」 騒ぎを聞きつけた星矢がこっちにかけてくる音がして、ゼウスはおとなしく引き下がった。 理事長が遠ざかり、星矢が近づいてきたのを確認して瞬はようやく息をついた。 「瞬、ごめんな。俺が一人にしたから」 「ううん、大丈夫だよ。校長先生が助けてくれたから」 やっと校長の背中から出てきた瞬は顔面が蒼白、大丈夫という言葉があまり信用できない状態だった。 今にも儚くなってしまいそうな――でも死なないとは思うけど――瞬の髪をハーデスはぽんぽんと撫でた。 「理事長が卑猥なことをしてすまなかった。アレは昔からちょっとした病気でな。自分の好みだとわかると男でも女でも見境がない。余も用心するが、そなたたちも十分気をつけるように」 「なんでそんなやつが理事長なんか」 星矢の暴言を止める元気もないのか、瞬が星矢の袖を引いて止める。 しかし星矢の発言にハーデスもうんと頷いた。 「星矢とかいったか。余もそなたの意見に大いに賛同したい。いくら父から受け継いだ学園とはいえ、なんでアレが理事長なのか、余も理解に苦しんでおったところだ」 セクハラ・パワハラで教育現場から追放された教職員の事件は悲しいかな、あとを立たない現状。本当になんでという気持ちでいっぱいになる。 やがて始業を告げるチャイムが鳴り、星矢と瞬は校長に再び礼を言ってから音楽室へと急いだ。 その後姿を見送ってハーデスはふうとため息をつく。 「ゼウスめ、瞬に目をつけたか……」 そこに湧き上がるのは怒り――でも、いつもとは何かが違う。 それは『生徒に手を出したこと』ではなく『瞬に目をつけたこと』の比率のほうが大きい気がする。 「……あれ? なんでだ?」 手を出されていたのが他の生徒ならこんなに気にかけたりしなかったのに。 名状しがたいこの想いがなんなのかわからなくて、ハーデスはなにやらかゆい気分になった。 ふと、胸ポケットに振動を感じた。 電話がなっている。 面倒くさそうに応じると、ハーデスは声の主に思わず背筋を正した。 『おお、ハーデス。我が愛しい義弟御よ』 「あ、義姉上!?」 『いかにも。ヘラじゃ』 ヘラはハーデスの兄ゼウスの嫁。通称を鬼嫁という彼女はハーデスのことをとても可愛がっていた。 そしてほとんど病気とも思えるゼウスの浮気性にほとほと愛想をつかして現在に至っている。 義姉の声にハーデスは諦め気味にため息をついた。 「ご健勝とお見受けする」 『うむ、重畳じゃ。ところでそなた、エリシオン大学はどうした?』 「……ゼウスに突然男子校の校長をやれと言われて連れてこられた。学長と兼任しておる」 ハーデスがそういうとヘラはひどく驚いた声で答えた。 「では義姉上もこの人事はご存じないと?」 『うむ。そなたをそこの校長に任命した覚えはない。ないが、ほかに適任がおらぬのでな、しばらく我慢しておくれ』 「まあ、義姉上がそう仰るのなら」 それから少し世間話などして、ふたりは電話を切った。 「まったく、ゼウスは何を考えている?」 エリシオン大学の学長の地位が目当てなら単純に交換すればいい話だ。乗っ取る意味が分からない。 ハーレムを作るのなら女子校の方がいいはずなのに。 「女子校は、義姉上が許すまいが……」 そしてもう一つの疑念は編入生の星矢と瞬。 「どうも普通の生徒ではない気がするな」 ゼウスの一件以来、星矢が瞬をいやに庇いすぎているように思えてならない。 もちろん、瞬がゼウスから受けた侮辱のために気落ちしているから、ということは充分に考えられる。 「何がどうなっているのやら」 ふうと息をついて背もたれに身を預ける。 とたん、ハーデスは胸騒ぎを感じた。とてもいやな予感が彼の心をよぎる。 思い浮かべたのは瞬の花のような笑顔。 刹那の沈黙ののち、うへへと気味の悪い笑みを浮かべたハーデスははっと我にかえってぶんぶんと首を横に振った。 「余は、余はゼウスとは違う! あれは男だろうが女だろうがお構いなしだが、余は可愛い女の子の方がいい!」 ハーデスは二十歳をとうにすぎた健康な成人男子。女の子の方がいいというのは(最低年齢に制限があるものの)当然であるといえた。 「はぁ……瞬が女の子だったらなぁ」 呟いてみて初めて気づく、自分の気持ち。 「……余は、もしかして瞬が好きなんだろーか」 しばしの逡巡ののち、ハーデスはため息をついてうなだれた。 とうとう自分もゼウス菌に感染し、発病したかと――すなわち可愛ければ何でもいいという、質の悪い病に。 それが大いなる勘違いだと言うことに気がつくのは実に20分後のことであった。 「あの……城戸君たち」 「ん?」 「なあに?」 放課後に星矢と瞬が昨日のテレビ番組の話題で盛り上がっていたところに、一人の級友が現れた。 休み時間でも教室の隅で本を読んでいるような気の弱い同級生が話しかけてきたのである。あまり親しくないがそれでも級友だ、もしかしたら自分たちの声がうるさかったのかもと瞬が申し訳なさそうに表情を曇らせた。 「あ、ごめんね。うるさかった?」 瞬が謝ろうとすると彼はいいやと手を振った。 「実は今、上級生の人に頼まれて、城戸君たちに校長室に来るように伝えてほしいって言われたんだ」 「僕たちに?」 「なんだろうな」 「理由は知らないけど……」 彼もそこまでは聞かなかったのだろう、ただ伝えたからねといい、彼は教室を後にした。 ――瞬も星矢も油断していた。 校長と言えば先日理事長の魔の手から瞬を助けてくれた人だ。髪の毛の方向性はともかくとして。 「校長先生が呼んでるんじゃ、行くしかないよね」 「でもなんで放送で呼ばないのかな」 「変だよね……!!」 「ま、俺らの教室をじーっと見てるような校長だしって……」 話しながら廊下を歩いていて、星矢はふと何の反応もしなくなった瞬を振り返った。 「おい、なんか言え……って」 一緒に歩いていたはずの瞬の姿がまるで煙のように消え失せていた。 「え? 瞬?」 こんな時にかくれんぼはよせとばかりに、星矢は廊下を駆け戻る。けれど瞬の姿はどこにもなかった。 「くそっ」 瞬を一人にしてはいけないことは星矢が一番よく知っていたのに。おそらく瞬は誰かに浚われたのだろう。 見つからない瞬に業を煮やし、星矢はもともと自分たちを呼び出した校長に問い質すべく、ハーデスのいる校長室に急いだのだった。 「な、なにをするんですか!?」 瞬は廊下を歩いていたところを拉致され、そのまま理事長室に軟禁されていた。 特注のロングソファーの上にその身を投げ出され、両手を拘束されている。柔らかいソファーマットなので身を起こすのに多少手こずったが、瞬はなんとか起きあがった。 そんな自分の頬に楽しそうに触れてくるゼウスを振り払うには首を振るしかない。 瞬は事態の把握につとめた。どうやら自分たちを呼び出したのはハーデスではなくゼウスのほうだったらしい。目的はたぶん、この前のつづきだろう。 ゼウスはいやらしい笑みを浮かべた。 「なにをとはご挨拶だね。君のような可愛い子を放っておく訳はないだろう、と言いたいところだが」 つっと瞬の頬から手を離し、ゼウスは自分のデスクからいくつかの書類を持ってきてソファーテーブルの上に投げてよこした。 その中にいくつかのスナップ写真が添えられている。 そこに写っていたのは瞬自身――そう、女の子の瞬だった。 春らしい可愛いワンピースは星矢と一緒にお出かけしたときの衣装だ。 「な、なにこれ」 「これは俺のコレクション。街で見かけた可愛い女の子たちの写真だ。これは……君だね?」 ずいっと写真を突きつけられ、瞬は刹那沈黙した。 しかしややあって違うと答えた。 「これは僕じゃありません。僕は男だからスカートなんかはきません!」 それだけ言って――それだけ言うのが精一杯――瞬はきっとそっぽ向いた。 ゼウスは写真をテーブルに戻すと瞬の顎をつかんで無理矢理上を向かせた。 「じゃあ、その体に聞いてみよう。身体検査だ」 「なっ……!」 言うなりゼウスは拘束されている瞬の両腕をあげ、ソファーに押しつけた。そして自分は瞬の上に多い被さる。 「い、いやっ!」 「もし君が女の子なら、なぜ男子のふりをしているのか……まあ、君が何の目的でこの学園に来たかなんて、俺にはどうでもいい。君とヤれればそれでいい」 「くっ……」 ゼウスの生温かい息が瞬の首をくすぐる。 触れているのは星矢と同じ「体温」のはずなのにゼウスのそれは身震いするほど気持ち悪かった。 まだ誰にも恋をしていない。キスだってしたこともないのに――! 「や、やめてっ! やめて!」 「逃がすわけないだろうが」 覚悟するんだなとゼウスの唇が瞬のそれに触れそうになった、そのとき。 どがーんと清々しいほどの騒音とともに理事長室のドアが蹴破られた。 「なっ!?」 「星矢!」 瞬に馬乗りになっていたゼウスが振り返る。 そこには星矢と校長のハーデスが怒りをたたえて立っていた。 星矢は今にも乱暴されそうになっている瞬を見、ばっと駆け寄ってきた。そしてゼウスを突き飛ばした。 ゼウスは見事にソファから落下。したたかに背中を打ちつけた。その間に星矢は瞬の両手を解放し、ぎゅっと抱きしめた。 「瞬、ごめんな。大丈夫だったか?」 「星矢……星矢ぁ……」 星矢の体温は優しくて心地いい。 怖かったよと泣きながら星矢にしがみついた瞬の亜麻色の髪を慰めるように撫で、彼は起きあがってきたゼウスを睨みつけた。 「瞬になにするんだよ!」 「なにって、可愛いから」 こともなげに言ってのけたゼウスにつくづく呆れ果て、ハーデスは兄の襟元を掴んだ。息の詰まる感覚にゼウスは背後を振り返る。 「こら、何のまねだ」 「ゼウス、おまえに客人が来ている。校長室に通しておいたからな」 そういうとハーデスはゼウスをずるずる引きずって向かいの校長室に兄を放り込んだ。 それと同時にハーデスは理事長室のドアを何となく閉めた。壊してしまったのでうっすら聞こえたかもしれない――校長室から聞こえてくる怒声と悲鳴と断末魔が。 ふと星矢と瞬はと見れば、瞬は星矢の腕に抱かれてうえーんと泣きじゃくっていた。 無理もない。ハーデスはエリシオン大学の学長だった頃からゼウスの毒牙にかかりかけた学生たちを何人も救ってきた。そのたびに学生はそのほとんどが恐怖で泣いていた。 瞬はまだ10代前半。 ハーデスは泣いている瞬にそっと近づいた。 「すまぬ、またゼウスがそなたにちょっかいを出したな。余からも詫びる」 そう言って頭を下げたハーデスに瞬はいいえと首を振った。 「この星矢が校長室に怒鳴り込んできたから、わかったのだ」 ハーデスはそのとき、本当に来客の応対中だった。 そこに星矢がノックもせずに怒鳴り込んできたのだという。何事かとハーデスが叱る前に喚き散らしたその様は本当に子供だったが。 やっと落ち着いてきた瞬に、本当はあれこれ聞きたい気分だった。ゼウスの言ったとおり、瞬と星矢は何者なのか。 なにが目的でこの学校にやってきたのか。 そして。 この、名状したがいこの心は。 「瞬、立てるか?」 「うん、大丈夫」 どこも怪我はしていないからと瞬は星矢の肩を借りてゆっくりと立ち上がる。 「瞬、星矢。余が送っていこう、今日はもう帰るがいい」 「あ……」 このまま学校にいてもしょうがない。 でもと瞬が星矢に向き直った。どうしようと問う瞬の表情を読みとった星矢がうんと頷いた。 「もう無理だよ、瞬。俺はおまえをこんな目に遭わせたくない」 「うん、ありがとう」 瞬は星矢の手をぎゅっと握った。 そして二人揃ってお願いししますと頭を下げた。 ハーデスが運転する黒塗りの車がたどり着いたのはグラード学園だった。 来賓用の駐車場に車を止め、ハーデスは星矢と瞬に案内されるままに歩いていた。 ふたりがこの学園の生徒であることはもはや疑いようもない事実だ。なぜなら二人は迷うことなくまっすぐに理事長室にたどり着いたからだ。 「そなたたちは……」 「すべては、理事長から伺ってください」 瞬がドアをノックすると中から聞こえてきたのは少女の声。開かれたドアの向こうにいたのは瞬とはまた違った印象の一人の少女の姿だった。 灰褐色の長い髪を揺らしながら、その少女はにこりと笑った。 「お待ちしておりました。エリシオン大学学長、ハーデス様」 「そういうあなたはグラード学園理事長、城戸沙織嬢」 ハーデスはそういうことかと沙織を冷ややかに見つめた。 「この二人はあなたの差し金か」 ハーデスの断定に沙織は否定をしなかった。 話をする前に席を勧め、ハーデスは迷わず着座した。 瞬と星矢も同席する。 「なにが目的で二人を学園へ送り込んだ?」 「もちろん、校風を探ってもらうため、と言いたいところなのですが」 「もったいぶらずに早く言え」 すでにいらいらし始めたハーデスを見、沙織がうふふと笑った。 「実はヘラ様のご依頼なのです」 「なんと、義姉上の……」 なぜこの一件にヘラが関わっているのだろうと、ハーデスはわからなかった。 今は名ばかりの夫婦とは言え、ふたりは二男二女をもうけているほどに仲はよかったのだ。 ところが結婚前からゼウスは。 「そうか、義姉上から受けたい依頼とは、ゼウスの学内での素行調査か」 「その通りです、ご明察ですわ」 そのために沙織はゼウス受けの良さそうなそうな瞬を選び、護衛に星矢をつけて送り出したのだ。 沙織からその事実を聞き、瞬は一度は渋った。我が身を餌にするなんて本当はイヤだ。 けれど、ほかに適任がいないと言われて、瞬は了承したのだ。 紫龍も氷河も学年で一二を争う美形だがゼウスの好みかと言われれば否としか答えられない。 瞬の兄である一輝は問答無用。 そして沙織の狙い通り、ゼウスは瞬にちょっかいを出した。 「瞬には酷なことをしたと思っています。本当にごめんなさいね」 「いいえ、私は無事ですから」 「よく言うぜ、俺が助けなかったらあのおっさんにちゅー以上のことされてたかもしれないんだぜ?」 「まあ、そんなことが」 瞬の貞操の危機だったと知らされ、沙織はさっと顔色を変えた。彼女が知っているのは瞬がゼウスに目を付けられ、キスをされそうになったことだけで、今日の一件はまだ報告していなかったのだ。 沙織は瞬を不安そうにまじまじと見つめた。 「本当に、無事なのね? お嫁にはいけるわね?」 「はい、本当に大丈夫ですから」 「嫁?」 沙織の一言一句を微妙にとらえたハーデスはまさかという思いで瞬を見やった。 答えたのは瞬だった。 「いろいろ騙していてすみません。私は女の子なんです……」 証拠と言われると困るんですがと言い、瞬ははにかんだように俯いた。 仕草を改めてみれば女の子のもので、ハーデスは瞬くことさえできないほどに驚いていた。 「お、女の子で、下手をすればゼウスに手込めにされる可能性があると知っていて何故……」 弱冠13歳の少女が何故理事長の命令を実直にこなすのか。 ハーデスにはわからなかった。 ただ、瞬がとても健気で優しい少女であることだけはよくわかった。 ハーデスの問いに瞬は静かに答えた。 「それは私が」 「瞬!」 沙織の制止を振り切るように、瞬は切なげに微笑んだ。 「いいんです、沙織さん」 「でも……」 瞬はゆるく目を閉じ、しかし意を決したかのように、今度はハーデスを見据えた。 「私と沙織さんは叔母と姪の関係にあるんです。私は先代理事長・城戸光政の娘です――妾腹の」 「な……」 その事実を、ハーデスは知らなかった。 話のあとを引き取ったのは沙織だった。 「瞬だけではありません。星矢も――ここにはいない瞬の兄も、紫龍も、氷河も――」 あんまりおもしろくない話だと星矢はそっぽ向いている。 一輝と瞬だけが同母だが、ほかの3人はそれぞれ母親が違うのだ。彼らは孫娘である沙織と前後してこの世に生を受けた。年の近い妾腹の叔父叔母と嫡出の孫娘に、親戚の誰もがいい顔をしなかった。しかし光政にはやはり親として情が少なからずあったらしい。彼は生まれた我が子たちを認知こそしなかったが、ときどき様子は見に来ていたらしい。そして成人するまで困ることのないようにそれぞれに莫大な資産を残してくれていた。 「その祖父も5年前になくなりました。私は星矢たちを捜し当てて、そして」 「この学園にいられるようにしてくださったんです」 当時小学生――星矢と瞬にいたっては1年生――だった彼らをこの学園の初等部に移し、そして6年がすぎていた。 「それだけで、そなたは……」 「それが私にできる恩返しなんです」 「気にしなくていいって言っているんですけど」 でもどうしても沙織はそんな瞬に甘えてしまうし、瞬も沙織の願いを聞く。 優しすぎる少女たちの姿。 ハーデスは瞬から目を離せなくなっていた。 ハーデスがすべての事実を知ってオリンポス学園に戻った頃、校長室から義姉のヘラが実にすっきりした顔で出てきた。 「おお、ハーデスではないか。沙織嬢にお会いしたかえ?」 「ああ。すべてを聞いてきた。あのように年端もいかぬ子供になんという無茶を」 「まさか女子を寄越すとは思わなんだがな」 まあすっきりしたというヘラの背後は校長室。なにやらうめき声が聞こえるが……。 「あ、義姉上。ところでゼウスは?」 「……惜しい男を亡くしたものじゃ」 「あ、義姉上ー!?」 しかしハーデスは敢えて(たぶん)ゼウスの生死は確認しなかった。なぜならハーデス自身が実兄のことなど、ほとんどどうでもよかったからだ。むしろ死んでもらった方が学校経営もスムーズにいく、と思う。 ヘラはこれでゼウスから学校に関するすべての権限を剥奪することを決定したわけだが、それでも。 なんとなく寂しさを感じずにはいられないハーデスがそこにいた。 自分でドアをぶちこわした理事長室に入り、据えられた椅子に座った。 すべてが終わったのなら、瞬がこの学校に来る必要はもうない。 「エリシオンに戻ろうかな……」 ハーデスの元来の職務はエリシオン学園の学長なのである。オリンポス学園男子校の校長の職務はあくまで副業でしかないはずだ。 自分にとってもいいことのはずなのに。 机の上に突っ伏し、ハーデスは何故か泣きたい気分だった。 やはり気がかりなのは名状しがたきこの想い。 「――瞬」 つぶやいてみて、ハーデスはぽろりと涙をこぼした。 諸手続きを終え、星矢と瞬はオリンポス学園男子校からグラード学園中等部へと戻ってきた。 相変わらず星矢はサガに成績のことをがみがみ叱られていたし、ここには瞬を襲う狼もいない。 女の子の友達もふつうにいる。 だけど。 「瞬、大丈夫か? なんか元気ないよな?」 「え? そんなことないよ」 その証拠に瞬は自分のお弁当から唐揚げを盗もうとした星矢の手を、彼の手元を見ずに叩いていた。 「いったー」 「心配した隙に唐揚げとらないでね。食べたいならあげるから。はい」 「やった!」 瞬お手製の唐揚げを頬張りながら、それでもやっぱり元気のない瞬が、星矢には気になっていた。 「瞬、やっぱ元気ないよ。ゼウスのおっさんにされたことが気になるのか?」 「ううん。未遂だったし、星矢が助けてくれたもん」 「そっかー?」 でも気になるなら沙織さんに言えよと星矢はいつでも瞬を気遣ってくれる。 瞬にとって星矢はかわいい弟でもあるのだ。 「――元気、ないのかなぁ」 そんなつもりはないんだけどと、瞬はとぼとぼと廊下を歩いていた。 ここをまっすぐ行けば昇降口、その左側には来賓用の玄関がある。 家に戻ろうと瞬が昇降口へ向かったそのとき。 「あ……」 男性の声がして、瞬は声の方を振り返った。 そこにいたのはオーダーメイドのスーツに身を包んだハーデスが立っていた。 オリンポス学園ではいつも瞬をゼウスの手から守ってくれた彼は今日も愉快で美しい漆黒の髪をしていた。 「ハーデス先生、お久しぶりです」 「ああ。瞬――か。そうしていると本当に女の子なのだな。そっちのほうが可愛い」 「そんな……」 瞬は薄く頬を染め、照れた。やはり元来は女の子、可愛いと言われれば嬉しいのだろう。 ハーデスはそんな瞬をやっぱり可愛いと思う。 思ったから、彼はやっと名状しがたい想いに名前を見つけることができた。 しかし想いに名を付けても、それは満たされてこその想い。 ハーデスは瞬に尋ねた。 「瞬、そなたはいくつだったかな」 「私は13歳です」 「13歳、か。余は26歳だから……ちょうど半分だな」 「そうですね」 瞬が笑顔で答える。 ゼウスは怖かったが、このハーデスは不思議と怖くなかった。むしろ彼といるとなんとなくほっとできる自分に気がついた。 (――あれ?) 瞬が自分の気持ちを不思議に思っていると、ハーデスが呟くように言った。 「あと3年待てばいいな」 「はい?」 その呟きの意味が、瞬にはよくわからなかった。 しかし彼女がその真意を知るのにそう時間はかからなかった。 ハーデスは瞬をじっと見つめ、言った。 「あと3年待てばそなたは16歳だ。16歳といえばこの国の女子は婚姻が可能だな」 「え? そうなんですか!?」 どういうことと問い質す前に瞬の華奢な体はハーデスにすっぽり包み込まれていた。 放課後の昇降口にはまだ多くの生徒がいた。 学年一の美少女である瞬が見知らぬ美青年と抱き合っている姿はまるで一枚のきらきらしい絵画のようであり、黄色い声を上げるには十分すぎるほどドラマチックだった。 「あ、あの……」 瞬が困惑している理由をしっかり履き違えて、ハーデスはなだめるように言った。 「そうか、中学1年生ではまだ公民はやらぬか。ならば教えておこう。民法という法律があってな、それによると日本の女子は満16歳で婚姻を結ぶことができるのだぞ」 「は、はあ」 「というわけだ。余はそなたが好きだ。是非余の嫁になってほしい」 「……はい?」 まだ13歳なのに、いきなり嫁に来いとは。 それ以前に交際をすっ飛ばしている気もする。 「あの、ハーデス先生?」 「何か、間違えているだろうか」 「えーっと」 いろいろ間違えていると思う――タイミングとか、順番とか。 でも、でも。 ハーデスは瞬にとってとても優しい人だった。 学校には慣れたかと声をかけてくれたし、内緒だと言っていちごみるく味の飴をくれたりもした。 ゼウスに襲われかけたときだって、周囲が彼を畏怖してなにもできずにいたときに、ハーデスだけは毅然として瞬を守ってくれた。ハーデスとゼウスは身内同士だから、怖くなんてなかったのかもしれない。 それでも、ゼウスから自分を引き離してくれたときの手の熱さ、庇ってくれた背中の広さに、瞬は自分の中に新しい気持ちが生まれているのを何となく感じていた。 それはたぶん、ハーデスも同じなんだと思う。 「あの……」 「うん?」 「結婚はまだ無理ですけど、まずお友達から……というのは」 13歳の少女と26歳の成人男子の間に友情が成り立つかについては、男女間の友情成立に関する命題ほどに難題であるといえよう。 しかし瞬を困らせることは、それは愛じゃないとわかっているハーデスはこっくり頷いて見せた。 「わかった。お友達から始めよう」 それでも瞬との縁が切れないのならいいと、ハーデスは瞬をぎゅっと抱きしめた。 「きゃあっ」 どさくさに抱きついてくる星矢のそれとは違う、大人の男からの包容に瞬は思わず悲鳴を上げた。 その声にハーデスがそっと瞬を離す。 「ああ、すまぬ。日本には挨拶レベルのハグやキスの習慣はないのだったな」 ならば握手ならよいかなと、ハーデスはそっと手を差し伸べた。 それならいいですよと、瞬はそっと彼の手を取った。 大きな青年の手が小さな少女の手を包むように握ったその瞬間から“ふたり”が始まった。 「どう? お友達は楽しい?」 「はい。とっても」 エリシオン学園の学長先生とグラード学園の女子中学生とのお友達としての交際は沙織も知るところとなり、現在は円満な関係を築いているようだ。 「最近はメールのやりとりをしてるんですよ」 「まあ、そうなの」 見せてもらえるのなら見てみたいわと沙織のお願いに瞬はこともなげに自分の携帯電話を沙織に差し出した。 瞬の携帯電話はノーブルスカーレットのシンプルなもので、ゴテゴテしたデコレーションはない。ストラップもいちごみるく色の可愛いものだ。 あのハーデスがどんなメールを送ってきているのか興味のあった沙織はわくわくしながらメールボックスを開いてみた。 とたん、沙織の顔がきょとんとする。 受信ボックスの9割がハーデスからのメールだったのだ。 残りの1割は電話会社からのお知らせだったり、星矢からだったり。 「え、えーっと、瞬?」 「ハーデスって結構筆まめなんですよ」 一見すればストーカー並のメールの量を筆まめで済ませられる瞬もすごいと思う。 沙織はふと受信メールを開いてみた。 そのメールは時候の挨拶から始まり、瞬の健康を気遣い、友人としての思いを切々と綴っていた。途中で途切れているのは制限字数をオーバーしたかららしい。次のメールはその続きになっていて、明日も元気でと締め括られていた。 「瞬……これってメールよね? 私、ケータイ小説を読んでるんじゃないわよね?」 「やだなぁ、沙織さん。これはちゃんとメールですよぉ。でも最近は忙しいみたいで、メールが減ってて……」 それで減っているのと沙織は驚愕で目を見開いた。 メールってもっと簡素なものなんじゃという沙織の認識は 瞬によって崩壊させられたのだった。 減少するメールに寂しそうにしていた瞬がでもと明るく顔を上げた。 「今度の週末に一緒に遊ぶ約束をしてるんですよ」 「そ、そう……」 13歳と26歳でどうやってなにをして遊ぶのか。 気になった沙織は後悔覚悟で聞いてみた。すると返ってくるのは当たり障りのない答え。 「えっと、この前はテスト前だったから図書館に行ってお勉強を見てもらいました。その前は映画に連れていってもらって」 「あら、意外とふつうね」 「お友達ですから」 このとき沙織は、瞬が意外なほど天然であることを知ったのだった。ハーデスは彼女の恋人でありたいと願っているだろうに。彼の前途は容易ならざるものだろう、それでも相手が瞬なら、あるいは。 「お友達って素敵ですよね」 「そうね……」 にっこり笑った瞬に対し、沙織はどこか遠くを見つめながら薄く笑うことしかできなかった。 今日も嬉々として出かけていくハーデスの姿を見止めて、ゼウスがわめいた。 「なんで俺はだめであいつはいいんだよ!?」 「純愛だからに決まっておろう。会えて嬉しい、手をつないで幸せとはなんと微笑ましい」 26歳の成人男子がそれでいいのかと思うが相手が13歳なので仕方がない。むしろいろんな意味で頑張っている方だと思う。 「頑張るのじゃぞ、義弟殿……」 金色の髪を鮮やかに揺らしながら、ヘラは窓の外を静かに眺めていた。 「瞬、待ったか?」 「いいえ、今来たところです」 いつもの学長じみたスーツじゃなくてカジュアルなジャケットで。 いつもの制服じゃなくて、可愛さ満点のふわふわワンピースで。 最寄りの駅前で待ち合わせて、今日はふたりでショッピングモールへ遊びに行くのだ。 「では行こうか」 「はいっ」 二人で並んで、手をつないで。 今はまだ年の離れたお友達で、どう良く見ても兄妹ってあたりだろうけれど。 でもいつか、恋になる日が来るのなら。 「……なぁ、瞬」 「はい?」 「もうちょっと、そっちに寄ってもいいか?」 大して混んでもいない電車の中、瞬のそばに寄りたいと言い出したハーデスに、瞬はなにが言いたいのかよくわからなかった。 でも、断る理由もなくて。 「いいですよ」 「ん」 きっと、お互い同じことを思っているはずだから。 肩に触れたり、腰を抱いたりなんてしなくても大丈夫。 指と指を絡ませて――そう、恋人繋ぎで。 「今この瞬間から、お友達は止めだ」 「……えっと」 「余はそなたと恋人同士になりたい」 「……はぃ」 がたんごとんと揺れる電車の中で、瞬の心もちょっと揺れて。 「私で、よかったら」 瞬がハーデスの手をぎゅっと握る。 「……ありがとう。大事にする」 ハーデスが瞬の手をぎゅっと握り返す。 そしてまた“新しいふたり”が始まった。 恋に落ちるときは1・2・3。 それを「マジックナンバー」っていうんです。 ≪終≫ ≪5周年記念その1でした≫ サイト開設5周年記念で書かせていただきました。 『冥瞬で、学園もの、瞬が女の子なのに男子校潜入!』というGっち様からのリクエストでした。 ちゃんとクリアできているか心配ですが……。 リクエストいただいた要素はちゃんと盛り込まれているはずです。 お気に召さなかったらお気に入りの技で如月を吹っ飛ばしてくださって結構です。 個人的にはとっても楽しく書かせていただきました。 ありがとうございました。 |