イドヘ至る森へ至るイド





「すまぬ、手が滑った」
これが事件の始まりだった。





惜しむらくはそれが彼女の手になるものであったことだろう。しかし彼女にそうさせたのは例の夫が原因であった。
「こんの腐れ下半神が!」
「いや、なんか違うぞ、ヘラ」
オリンポス神殿の廊下を逃げまどうのは王神ゼウス。追いかけ回すのは妻のヘラだ。
金の長い髪をさらりと背中に流し、凛と佇む姿はとても美しいし、母性にあふれた優しい女神であるヘラ様。
しかし彼女は妻として夫の浮気に悩まされていた。
報われぬその愛はいつしか憎しみに変わり、彼女は夫の愛人とその子供を妬み、苦しめてきた。
悪いのは夫で彼女ではない。
これは女性の視点。
男には男の理屈があるんだと男は言うが、女は女であるが故に男の理屈は理解できない。
ヘラ様は夫ゼウスの浮気など疾うの昔に病気なんだとあきらめていた。愛人や子供をいびるのも面倒になった。
そんなときだったのだ、ヘラ様の退屈を解消してくれる出来事が起こったのは。
ヘラ様が敬愛してる兄君――今は弟となったが――冥王ハーデスが人間の娘と娶るという噂を聞いたのだ。
しかもその娘はアテナの聖闘士。さらに冥王が現代の依代にと定めた少女だという。そして一度こてんぱんに振られたのだとも。
けれどハーデスは必死だった。どうしてもその娘がほしくてほしくて。
「まったく、ハーデスの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいほどじゃ」
同じ兄弟のはずなのにとヘラ様はため息をつく。
ハーデスは『結婚を前提に交際してください』とお願いしたらしい。それでその娘も納得したそうだ。
ふたりの交際は順調に進み、先日めでたく婚約したばかりだというのに。
「アンドロメダの姫御にちょっかいを出すなと何度言えばわかる!」
「だから、アテナに会いに行くついでにちょっと挨拶しただけで!」
「たわけが! ステュクス様との盟約を忘れたか!」
冥王の恋人はアンドロメダ瞬。
そしてステュクスとの盟約とは、冥王と瞬の仲をじゃましないこと。
誓いを破れば神であっても罰せられるほどに彼女との契約は絶対なのだ。
今回は特に瞬サイドから苦情は来なかった。
来なかったが、勝手に会いに行ったというのがヘラ様には気に入らないのだ。
「わらわも会いに行きたかった!」
「だったら行けばいいだろう!?」
「問答無用! 最早死ねとは言わぬ!」
そういうとヘラ様、全宇宙をも覆いかねないほどの小宇宙を燃やし、そして。





それはのどかな昼下がりのことだった。
成長期の子供達であふれるため、大量の買出しを済ませた一行が城戸邸の別館にたどり着く。
「ふー、いっぱい買えてよかったね」
「ああ、米が10キロでこの値段は安いな」
10キロの米袋を2つ、3つと片腕に乗せて紫龍が運ぶ。
城戸邸の主婦と主夫が今日の戦果を嬉しそうに語り合っていた。現場ではほとんど役に立たない星矢と氷河は荷物持ちに徹している。
「星矢も氷河もお疲れさま。お茶入れるね」
亜麻色の髪は城戸邸別館の紅一点。瞬の優しい声に氷河が応えた。
「瞬、俺は麦茶にしてくれ。自分で冷やす」
「俺はカルピス! 濃いめにして!」
「はいはい」
はいが2回でも瞬が言うと嫌みがない。まるでお母さんの相槌のようだ。
紫龍が苦笑して言う。
「瞬、甘やかしてやることはないのに」
「でもお茶入れてあげるって言ったのは私だもん」
楽しいからいいのと笑う瞬に、やはり苦笑を隠せない。
だから紫龍もつい甘えてしまう。
「じゃあ俺も、麦茶をもらおうかな」
「はーい」
瞬は本当に楽しそうにグラスをもう一個持ってきて、麦茶を注いだ。
かのように見えた。
紫龍たちはキッチンにいる瞬に背中を向けて荷物を解いていたので気がつかなかったのだ。
ガラスの割れる音、派手な水音がするまでは。
「瞬!?」
手でも滑らせたのだろうかとみんなが振り返る。
しかしそこに瞬の姿はなかった。
声も立てず、静かに消えてしまったかのようだ。
「瞬!? 大丈夫か!?」
3人があわててキッチンに入り込む。
そこは水浸し――正確には麦茶浸しになっていて、ガラスの破片も転がっていた。
そして瞬は――。
瞬、は。




そこにいたのは、瞬によく似た5歳くらいの女の子だった。
呆けたように座り込んでいる。




盛大にこぼれた麦茶とガラスの破片はさておいて、星矢がその女の子に手を伸ばした。
すると女の子はびくっと体をふるわせた。
「お、お兄ちゃんたち、誰? ここはどこ?」
女の子はきょろきょろと周囲を見回し、泣きそうになっていた。
星矢がそっと近づいて女の子を撫でる。
彼女は星矢を怖くないと判断したのか、やっと顔を上げてくれた。
「大丈夫、怖くないからなー。お名前、教えてくれるか?」
さすが星の子学園で子供たちの相手をしているだけのことはある。星矢は怖がっている女の子に名を尋ねた。
すると女の子はある程度、星矢たちの期待通りの答えを返してくれた。
「あたしは瞬っていうの。お兄ちゃんがいるの」
ついでにお兄ちゃんの名前は一輝というそうだ。
「うーん、これは」
いつも冷静な紫龍もこのありがちなようであり得ない光景に困惑しているようだ。
そこに自称クールの氷河がツッコむ。
「あれか、手垢にまみれた現象ではあるが、瞬が幼児化したと」
「それ以外にこの現象を表現できる言葉を、おまえ知っているか?」
「……いや」
誰も持ち合わせてなどいないだろう。
瞬は星矢にもう懐いたらしく、おとなしく星矢の腕に抱っこされていた。
「事情はよくわからないけど、瞬がこーなっちゃった以上はやっぱ沙織さんに連絡しなきゃじゃね?」
超常現象は神様に、戦闘は聖闘士に。
アテナと愉快な聖闘士たちはすっかり住み分けができていた。
「まず、事態をきちんと確認しよう」
紫龍がやっと冷静に言った。
「この子は瞬、なんだな。年はいくつだ?」
「瞬、何歳だ?」
星矢に聞かれて瞬は小さな指を折って数え、ぱっと開いて見せた。
「瞬ね、5歳なの!」
「5歳か。ということはちょうど城戸に引きとられて少し経った頃だな」
「記憶はどうなんだ? 俺たちのことがわからないようだが」
「しっかり5歳まで戻ってる」
彼女の中では星矢もまた5歳なのだろう。名前をいってもなかなか星矢だと納得してもらえなかったらしい。
そんな星矢の胸元を瞬がくいっと引っ張った。
「なんだ?」
「あのね、このお兄ちゃんたち、もしかしてしりゅーとひょーが?」
瞬がそういうと二人はぱちくりと目を瞬いた。
どうやら記憶は5歳で止まったが、洞察力はあるらしい。ふたりがそうだよと頷くと瞬は可愛い声で言った。
「おっきくなったねぇ!」
「ははは、そうか。大きくなったか」
やはり彼女の記憶は6歳の紫龍と氷河で止まっているようだ。
本当はおまえが小さくなったんだよとは言わないあたりが紫龍らしい。
「で、原因は不明だな」
氷河の発言に星矢と紫龍がこっくり頷いた。
「これでまとまったな。この幼女は瞬で、現在5歳、以降の記憶はなしと。じゃあ沙織さんに報告だ」
「話はすべて聞かせてもらいましたよ!」
「うわあ!」
突然の沙織の登場にみなが驚いたのは言うに及ばないだろう。
音も気配も小宇宙も感じさせずにこの部屋に入ってこれるからには、彼女はやはり女神なのだ。
沙織はにこりと笑い、星矢の腕にいる瞬を見つめた。
「あら、可愛い。そうね、5歳の頃の瞬ってこんな感じだったわね」
いじめっ子にいじめられるたびに一輝や星矢がすっ飛んできて守られていた少女。
あの頃の沙織にとって、どこか羨ましかった存在。
この可愛いだけだった少女は7年の時を経て、アンドロメダの聖闘士になる。
「すっかり可愛くなってしまいましたね」
「なんと、アンドロメダの姫御を直撃しておったか」
アテナ沙織の後ろにいたのはオリンポス祖神の一柱にして女王神たるヘラ様だった。
彼女らの会話だけでなんとなく事情が察してしまえるのもなんとなく哀しかったが。
「なぁ、なんで瞬はちっこくなったんだ? ヘラねーちゃん」
女王神を捕まえてヘラねーちゃんと呼んでも怒られないのがペガサス星矢だった。





そこで話は振り出しに戻る。
全員がリビングのテーブルを取り囲むようにソファに座る。瞬は星矢の腕からヘラ様の膝の上に移っていた。
温かく柔らかく、そして基本的には母性の固まりであるヘラ様のそばで、瞬はにこにこと微笑んでいる。
安心しきったかのような瞬に、周囲もまた安堵したところでヘラ様が美しい唇を開いた。
「ふらふらと出歩き、女にちょっかいを出すゼウスにいらいらしてな、つい、その」
「子供になる呪いを放ったそうなのですが……」
「ゼウスのやつ、避けおってからに」
ヘラ様から発せられた呪いは本来ならゼウスがかぶるものだったらしい。しかしゼウスが避けてしまったため、その呪いは悲しいかな、同じ軌道上に偶然に居合わせた瞬を直撃したそうだ。
しかし、呪いをかけた本人がそこにいるのなら、事態は早く解決しそうである。
瞬を膝に抱いていたヘラ様はとにかくご機嫌そのもの。
紫龍が礼節を失わない言葉遣いで尋ねた。
「では、呪いをかけた当の本人である貴方様なら、この呪いを解くことは可能なのでは?」
「そーだよ、ヘラねーちゃん。瞬が可哀想だよ」
大人とお兄ちゃん達はなんか怖い顔をしているなと、瞬はヘラ様の服をきゅっと握る。
ヘラ様は瞬の髪を撫でて、そして言ってくれた。
「んー、呪いの解き方なー」
人差し指を頬に当て考える仕草。なんかヤな予感。
「ま、まさかヘラ様……?」
ヘラ様はんふふふふーと笑うと胸を張っておっしゃった。
「解き方など、忘れた!」
えへんとして言うヘラ様に一同唖然と口を開け、お膝の瞬だけが「クッキー食べていいの?」と可愛い声を上げていた。
「え、ええ、好きなだけ食べていいわよ」
「ジュースを持ってきてやろうな」
立ち上がった紫龍が珍しくソファの角に指をぶつけていた。相当痛かっただろうが、それでも痛いと言わないのが龍座の聖闘士なのである。
「けど、忘れたってヘラ様……」
「子供にする呪術など久しぶりに思い出したからな! まあすぐにオリンポスに戻って文献など紐解いてみるつもりじゃ」
姫御をこのままにしてはおけまいとヘラ様は立ち上がり、瞬を沙織に預けた。
瞬は寂しそうにヘラ様を見上げた。
「お姉ちゃん、帰っちゃうの?」
きゅるんと潤む瞳に見つめられ、ヘラ様の胸もきゅんとなった。
「残念じゃが、わらわにも帰る家があるのじゃ。しかしまた遊びに来るから、心配するな」
「また? 来てくれる?」
小さな手を伸ばした瞬。幼子の手に触れ、ヘラ様は約束じゃと小さな小指を自分のそれと結んだ。
そしてこんなことを言った。
「そうじゃ、わらわがおらぬ間にそなたの遊び相手をしてくれるお兄ちゃんを呼んでやろう」
「お兄ちゃん?」
言われて、沙織も彼女の聖闘士たちもそういえばと周囲を見回す。こういう瞬の異変に真っ先に駆けつけてきそうな実兄と恋人がいないではないか。
おかしいなと思っていると、どたどたと駆け込んでくる二つの足音が聞こえてきた。
「ええい、瞬は俺の妹、俺が面倒をみる!」
「いいや、余の妻たる瞬の面倒は余がみて当然!」
どうやら兄と恋人は押しあいへし合いしながら瞬の養育権を主張しているらしい。
「怖い……」
そう言ってぎゅっと沙織に抱きついた瞬を見、ヘラ様はやれやれと兄神と不死鳥なる人間を見た。
「やめんか!」
「ぎゃあああああああああ!」
ヘラ様の一撃でふたりは吹っ飛び、廊下にばったりと倒れ伏した。
「まったく、姫御が怖がっておろうが。空気を読まぬか」
元はといえば姉上のせいなんじゃと思いながら、瞬の夫を名乗る男は立ちあがった。
「瞬の一大事というから駆けつけたのだが」
瞬はどこだという冥王に沙織が幼子を抱きしめした。
「この子です。あなたの瞬は」
「ほえ?」
髪の毛が愉快な冥王ハーデスを見、瞬はこれがお兄ちゃんなのかなあと小首を傾げた。
「お兄ちゃんが瞬と遊んでくれるの?」
全体がぷにぷにと柔らかそうで愛くるしい。
瞬は冥王の現代の依代であったことから、冥王はずっーっと瞬の観察と保護を続けてきた。可愛い可愛いと思い続けてきたあのころの瞬が今ここにいる。
「……」
「あの、お兄ちゃん?」
瞬に声をかけられたとたん、冥王は鼻血を噴いて再び昏倒した。
その隙に回復した一輝が瞬を抱きとる。
「瞬! 俺がわかるか?」
「一輝お兄ちゃん! お兄ちゃんもおおきくなったね」
よしよしと一輝を撫でる瞬が可愛いやら何やら。
「お兄ちゃんがおまえを守ってやるからな!」
「うん!」
「……いつまで倒れておるのじゃ、ハーデス」
「はっ!」
鼻血を拭いてむくりと起きあがったハーデスがやっと瞬を抱っこさせてもらう。
「……お兄ちゃん、誰?」
「余はハーデスという。将来そなたのだんな様になるのだぞ」
「瞬、お兄ちゃんとえっと、結婚? するの?」
「瞬は賢いなー。その通りだ」
があがあわめく一輝をよそに、冥王は瞬を抱っこして明るい未来を示している。
やれやれとヘラ様が首を横に振った。
「ではわらわは帰る。呪詛を解く方法が見つかったらまた来るぞ」
「なるべく早くお願いします」
今のままでは死人がでないとも限らないと沙織が笑えない冗談を言う。
一番賛同したのはもちろん、城戸邸の主夫たる紫龍であったことは言うに及ばないだろう。





さて、瞬の面倒を見るに当たって、早速問題が起こった。
それは夕飯のメニューでも着せる服でもなかった。
それでなくとも瞬は「お部屋に帰らなきゃ」と連呼して周囲を困らせた。
『お部屋』とは瞬たち100人の孤児が集められていた施設のことで、今は更地になっている。
今回は特別にお泊まりなんだよと紫龍が諭して、瞬はやっとここにいると納得してくれたほどだった。
兄一輝がいるから、というのも理由だったらしい。
「けど、なぁ」
一輝とハーデスのわけの分からない争いなどどうでもいい。
問題は。
「なんでこんなに人が増えているのだ?」
瞬が幼児化したという噂をどこから聞きつけたのか――おそらく沙織が言って回ったのかもしれないが――聖域、海域、そして冥界からぞくぞくと人が集まってきたのだ。
「そう、その女神でなければ呪いを解く方法はご存じないのね」
「そうなんだ。それまで瞬はあの姿で……」
シュラの問いに紫龍が答える。その横でアフロディーテが嬉々として瞬を抱き、ほおずりしていた。
「やーん、瞬って子供の頃から可愛かったのねー」
「これ、アフロディーテ。ひとり占めしておらんでこちらにも貸すのじゃ」
「そ、そのあとは是非私めにも!」
わいわいと、瞬はあっと言う間に見知らぬお兄ちゃんお姉ちゃんに囲まれた。
最初は知らない人ばかりだったので怖がって紫龍の後ろに隠れたが、大丈夫だよと言われておそるおそる進み出た。
そして今の有様なのである。
瞬を抱っこしたい、かまいたい連中で行列ができており、中には子供服におもちゃ、お菓子持参の連中もいた。
さらにかこつけて飯をたかりにきたデスマスクもいたが、これはあえて無視した。
一種パーティーの様相を見せている。
順番が回ってきてようやく瞬を抱っこできたサガは滂沱とむせび泣いて瞬をびっくりさせたし、アルデバランは高い高いをして天井にぶつけかけたし、パンドラは何か琴線に触れたのかこれまたよよよと泣き出した。
「いやー、姉上もなかなかおもしろいことをなさる」
ハーデスの隣に座っていたポセイドンは差し入れだと言って魚とスイカ、そしてイルカのぬいぐるみを持ってきてくれた。
「で、ゼウスは無事なのか?」
「知らぬが無事ではすむまいな」
ギュウギュウ詰めのリビングに騒ぐ声が響いている。
「まあ、早く元に戻ってもらわないと、おまえ的には困るよな」
「……なにが言いたい」
昔から小生意気で、機会があれば懲らしめてやりたいと思っていたハーデスがちらりとポセイドンを睨む。
ポセイドンは呵々と笑った。
「なにって、あのままだとする事もできないだろうと言っているのだ。また15まで待てるのか?」
「そうか、そんなに早死にしたいと。気づいてやれずに済まなかったな、ポセイドン」
「落ち着け、姫の前だぞ」
ふと瞬をみると、彼女は哀しそうな瞳でじーっとこちらを見ていた。
「お兄ちゃんたち、けんかはめーなの……」
うるうると瞳を潤ませて喧嘩の仲裁をする瞬にまた可愛いの大合唱。
盛り上がりを見せていた一同に、紫龍がぱんぱんと手を打った。
「たけなわのところを申し訳ないが、そろそろ瞬を風呂に入れて寝かせなければならない」
時計はそろそろ8時を示していた。
昨今の5歳児が何時に寝るのか知らないが、とにかく寝かせようと言うと、またひと悶着起こる。
誰が瞬を風呂に入れ、寝かせるのかという問題。
「俺は兄だぞ! 俺に権利がある!」
「いいや、余だ!」
「なに言ってるの、ここは同じ女性である私が!」
「ハーデス様には申し訳ございませんが、私も姉として権利を主張いたします!」
最初は瞬に決めてもらおうと思ったのだが、それは余りに酷だろうし、みんなで入ろうとか言い出しかねない。
「じゃあここはくじでいいだろうか」
「望むところ!」
名乗りを上げた一輝とハーデス、アフロディーテとパンドラが紫龍作の割り箸くじをひいた。
「先が赤い奴が風呂に入れて、青い奴が寝かせるのだが……」
赤を引いたのは魚座のアフロディーテ、そして青を引いたのは冥王ハーデスだった。
一輝はやり直しを要求したが、紫龍は却下した。
「これ以上長引かせて瞬に夜更かしをさせるわけにはいかん」
一輝と紫龍、どちらも瞬にとっては実兄と異母兄、つまり兄。しかし突き抜けていないぶん、紫龍の方が兄らしく見えるから不思議だ。
というわけで瞬をお風呂に入れる権利を獲得したアフロディーテが意気揚々と瞬をつれてお風呂に向かう。
「さ、アフロディーテお姉ちゃんとお風呂に入ろうね」
「あふ、まふ」
アフロディーテが言いにくいのか、瞬はあふあふ言っていた。
そんな舌足らずなところも可愛いとアフロディーテが微笑む。でも相手のお名前がちゃんと言えなくて困った瞬はおずおずとアフロディーテに、必殺上目遣いでお伺いを立てた。
「あっちゃんって呼んでいい?」
アフロディーテお姉ちゃん、略して“あっちゃん”。
なんて素敵な響きかしらとアフロディーテの背後に薔薇と点描が舞っている。
「なんかさ、武勇伝をいっぱい持っていて意味はないけど命の恩人をビンタしそうな響きだよな」
星矢の微妙なツッコミも今のアフロディーテには聞こえていなかった。
一輝はと言えばまだ地団太を踏んで悔しがっていたし、パンドラもまた同じ。
ハーデスは瞬を寝かす権利を得たため、瞬に着せるパジャマと抱っこさせるぬいぐるみを吟味中だった。
「うさぎさんか、くまさんか……」
「イルカはどうした」
「抱きにくいだろうが」
「意外と抱きやすいんじゃないか?」
ほらとポセイドンが抱いてみせれば、なるほど抱き枕に似た形状なので抱き心地はいいだろう。
「だが可愛くない。瞬が抱いたらカツオの一本釣りのようではないか。ここはやっぱりうさぎさんかくまさんを推すぞ!」
「推すぞって言われてもねぇ……」
弱冠5歳の女の子の就寝に対して喧々囂々と議論するギリシア神話の神々。
「では瞬が好んだ方で、と言うことで」
「では今度はパジャマですが」
どこからともなく現れたアテナ沙織が数点のパジャマを広げた。
ピンク、パステルブルー、バナナイエロー。
どれも半袖のチュニックに7分丈のズボンという構成で、リボンやフリルを使って可愛く飾られている。
「余としてはやはり瞬にはピンクだと思うがな」
「いや、ここは意外性をとってブルーだ、永遠ブルーだろう」
「アテナとしてはこの黄色も可愛いと思うのです」
わいわいと言い合うのは以下略。
しかしここでサガがあいやしばらくとばかりに持参した紙袋を差し出した。
「差し出がましいのは重々承知で、アテナ。私めはこれを持参いたしました」
そう言ってサガがいそいそと差し出したのは真っ白なワンピース状のパジャマ。お姫様をイメージしたというサガのセンスは決して悪くはない。
「なかなかやるな、シードラゴン」
「いえ、私は双子座のサガです」
カノンならさっき風呂を覗きに行こうとしたので異次元に飛ばしたとサガは晴れ晴れと笑っていた。
「で、ではパジャマはこれにしましょう」
「ありがとうございます」
サガがやったとガッツポーズ。
「では、届けて参ります」
彼はやはりいそいそとパジャマを持って風呂場に向かうのだった。





その頃、風呂ではアフロディーテが瞬の髪を洗ってあげていた。亜麻色の柔らかくて細い髪を丁寧に洗ってやると瞬は気持ちよさそうに笑っていた。
「かゆいところはない?」
「あのね、お耳の後ろも洗いなさいってお兄ちゃんが言うの」
「お耳の後ろね」
小さな耳の後ろをアフロディーテの長い指がこちょこちょと動く。瞬はくすぐったいと身をよじった。
「あっちゃん、くすぐったいよ」
「だーめ、我慢するのー」
いやんと動く、泡まみれの瞬の髪をアフロディーテがまとめて遊ぶ。
「ほら、ソフトクリームみたいね」
「おおー、すごーい」
もっとやってと瞬がおねだり。アフロディーテも楽しくなってきたのか、二つに分けてうさぎさんとか、まるめてくまさんとか、とにかく遊んだ。
「うふふ、おもしろーい」
「そろそろおしまいね」
「はーい」
瞬は満足したのか、もっと遊ぶとは言わなかった。聞き分けのいい瞬の髪の泡を流そうとアフロディーテがシャワーを構える。
「ちゃんとおめめ閉じててね」
「うん」
シャンプーハットを用意すればよかったわと思ったが、瞬はなくても平気なようだ。
しっかりと目を閉じ、耳もふさいでいる。
「じゃあ流すわよー」
「はーい」
蛇口を捻って水量と温度を確認し、頭のてっぺんからお湯をかけた。動いちゃだめよというと瞬はうんとお返事だけ。しゃわしゃわと湯をかけ泡を流しきる。
「はーい、もういいわよ」
「ふはあ〜〜」
ふるふると頭を振って、瞬は顔を上げた。水が気になるのか、小さな手で何度も顔をこすっている。アフロディーテが乾いたタオルで拭いてあげると気持ちよさそうに目を細めた。
「ありがと、あっちゃん!」
「どういたしまして。さ、湯船につかろうか」
「うん!」
小さい瞬にこのお風呂は深すぎるので先にアフロディーテが入って、それから瞬を抱き入れた。
膝の上に座らせ、向かい合わせになる。
すると瞬がじーっとアフロディーテを見つめて言った。
「あっちゃん、おっぱい大きいねぇ、すごいねぇ」
「ふふふ、ありがとう」
「瞬も大人になったらあっちゃんみたいになれるかなー?」
「きっとなれるわ。そのためにもたくさん遊んで、たくさんお勉強して、たくさん寝て、たくさん食べなくちゃ」
この子の未来は、もう決まっている。
遊ぶことも、場合によっては食べることさえ事欠くような聖闘士の修行に出る。そして成長した彼女はやがて信じる神と愛した師のために私を殺しにやってくるのだ、と。
瞬は過去に戻ったわけではないから今更どうしようもないのだけれど。
だけど今だけは子供。
「触ってみる?」
「いいのぉ!?」
嬉しそうな瞬の小さな手をアフロディーテは自分の乳房に触れさせた。
「うわあ、ふわふわしてるー。柔らかくてあったかーい」
その感触が気に入ったのか、瞬はアフロディーテの胸をさわさわと撫でていた。





瞬がお風呂を出てきたときには8時半を回っていた。
「しりゅー、お風呂出たー」
「そうか。お、髪も洗ってもらったのか。よかったな」
「うん! あっちゃんがね、乾かしてくれたの」
よかったなーと紫龍が瞬を撫でる。瞬はえへへと嬉しそうに笑った。きれいなパジャマにも満足しているらしい。
そんな瞬の後ろからアフロディーテがよろよろとした足取りでやってきた。
今にも崩れ落ちそうになったアフロディーテをサガが慌てて抱き止める。
「あ、アフロディーテ! いったいどうしたんだ!?」
「サガ……もうだめ、瞬……可愛すぎる……がくっ」
「アフロディーテ!!」
自分でがくって言ったんだから余裕だよなと黄金たちはアフロディーテの茶番をみていた。
びっくりした瞬には紫龍が『アフロディーテはおねむなんだ』と説明する。
「しりゅー、瞬もねんねしなきゃだめ?」
うりゅんとした大きな瞳で夜更かしをねだられる。
大人がいっぱいいて、いっぱい遊んでもらったからもう少し遊びたいのだ。興奮状態で眠れないのかもしれない。
しかし頼んだ相手が悪かった。
紫龍は瞬をゆっくり抱き上げて、こつんとごく小さいげんこつをあげた。
「だめだ。夜更かしをすると大きくなれないぞ」
「あっちゃんみたいになれないの?」
とたん、復活したアフロディーテがそうよーと瞬に笑顔を向けてきた。
「そうよ、たくさん寝ないとあっちゃんみたいな美人にならないわよ?」
そう言ってアフロディーテが瞬の頬をつんとつついた。
瞬はしょんぼりして、でも大きくなりたいから諦めて寝ることにした。
「じゃあ、瞬、ねんねするー」
「待ってましたぁ!」
いよいよ自分の出番だと、ハーデスがはいはいっと手を挙げる。パンドラや冥闘士たちが『頑張れハーデス様』の横断幕を掲げているあたりが意味不明だ。
騒ぐ大人たちをよそに、瞬は一輝お兄ちゃんとの約束だからと寝る前にもう一度トイレに行くという。
「じゃあ、トイレには俺が連れていく!」
そう言って一輝が半ばさらうように瞬をトイレに連れていったので周囲からはブーイングの嵐だ。
ややあって再び戻ってきた瞬はすっきりした顔で一輝に手を引かれていた。
「よしよし、瞬は余と一緒にねんねしようなー」
「瞬、ハーデスお兄ちゃんと寝るの?」
「そうだぞ。うさぎさんとくまさんも一緒だぞー」
どちらがいいかと聞かれ、瞬は迷っている。
ピンクのうさぎさんと茶色のくまさん。
そしてハーデスお兄ちゃんも嬉々として選ばれるのを待っている。賢明な読者の方には『アンタはぬいぐるみか!』と冷静に突っ込んでほしい。
「えっと、えっと、かわいそうだから両方連れて行っちゃだめ?」
選ばれなかった方はひとりぼっちでしょうと瞬が心配するから、もうどっちも持っていけとハーデスは右手にうさぎさんを、左手にくまさんをだっこさせた。
瞬はうふふと嬉しそうに笑う。
「さ、みんなにおやすみなさいして」
実の兄より兄らしい紫龍に言われ、瞬はうんと頷いた。
「おやしゅみなしゃい!」
「はい、おやすみ」
「また明日ね」
アフロディーテから頬にキスを受け、瞬はくすぐったいと微笑んだ。
「ばいばーい、また明日ね〜〜」
瞬がみんなに手を振っている。サガはほわわんと相好を崩し、アフロディーテは再び昏倒しかけた。
ハーデスがよいしょと瞬を抱きなおし、勝手知ったるなんとやらで部屋に連れていく。
ふたりがいなくなったリビングではみんながほうとため息をついていた。
「あーあ、もう、可愛いったら」
アフロディーテがうっとりと回想に浸る。
ドライヤーで髪を乾かしているときもじっとして、実に聞き分けのいい子だった。お着替えさせているときも自分でできるもんと言いながらもしょもしょと頭を出していた。
やっと頭を出したと思ったら前後逆で、あれって顔をしていた。
それもこれも口に出して言うもんだから、世話をできなかった面子が羨ましそうにアフロディーテを見つめた。
けれど、楽しそうな口調が不意にかげる。
「でも、あんなに可愛い子だったのに、運命は残酷よね……」
生まれつき神に愛されていたのではないかと思わせるほど(まあ実際にはそうだった)可愛くて優しかった瞬は聖闘士になり、敵を倒し、そして冥王となり。
けれど成長した瞬が優しさも可愛さもそのままであることは周知の事実。
今は恋する乙女座、強く美しいアンドロメダの聖闘士だ。
その幸せそうな笑顔をアフロディーテはしみじみと思い浮かべる。
「ああ、今も可愛いけど、元に戻っても可愛いしっ」
アフロディーテの意見に賛同する連中の多いこと。
一部の面子は「どうして瞬はあんなに可愛いのか」について夜通し語り合うつもりらしい。
今夜は眠れるんだろうかと、紫龍は切なくため息をつくのだった。





姉であるヘラの、的をかなり間違えた(というより的が動いた)せいで子供になってしまった瞬は、翌朝になれば元に戻っているという保証はまったくなかった。
瞬が普段浸かっているベッドは冥王が贈ったマホガニーで作られた特注品。真っ白な薄布の天蓋が降りているそれを、瞬は絵本の中でしか知らなかった。
「ほえー、おっきいベッド! これに寝ていいの?」
お泊まりだと聞いていてもこれではお姫様のようだ。瞬がいいのかなとハーデスを見上げた。
ハーデスは瞬がどのような幼少期を送ってきたのか、知っている。彼は遠く近く彼女を見守ってきたのだ――大事な、器だったから。
でも今は器じゃなくて、恋人として大切な存在。
なにがあろうと守り抜くと誓ったから。
ハーデスは瞬をベッドに降ろした。柔らかいベッドマットに瞬がふんわり沈む。
「ふわふわー」
うさぎさんとくまさんと一緒にふわふわしていた瞬にハーデスは暖かい笑顔を向けた。
「さ、ねんねしないと」
「うん!」
うさぎさんとくまさんは枕元において、瞬はもそもそと布団の中に潜った。
「ハーデスお兄ちゃんも、一緒にねんね?」
「うん、一緒だ」
ハーデスがおいでと手を差し伸べる。瞬は迷わず彼の腕に飛び込んだ。
「瞬ね、いつもは一人で寝てるの。でも本当はね、一輝お兄ちゃんと一緒がいいの……」
この城戸邸に来るまで、一輝と瞬はいつも一緒だった。こちらに引き取られてからは瞬が女の子だからということで就寝時は引き離されていたのだ。
一人で寝るのは怖くて、しくしく泣いていたら同じ部屋の女の子にうるさいと怒られた。それから、瞬は声を殺して泣き、そのまま眠るようになっていた。
泣かなくなったのは灼熱と極寒の島・アンドロメダ島へ送られてからだ。
「今日はお泊まりだから、ハーデスお兄ちゃんと一緒なんだね。誰かが一緒って、いいね」
「ああ、そうだな」
「おやすみなさい、ハーデスお兄ちゃん」
「おやすみ、瞬」
冥府の神は瞬の額に口づけを施した。
穏やかで刹那の眠りを君に――そう、願って。





さて、ほとんどの人間(一部・神)が明日も仕事だという理由で三々五々と帰っていく中で、リビングでは紫龍の予感通りに一部のメンバーが討論会という名の宴会に突入していた。
「本当にごめんなさいね、ダメな大人で……」
申し訳なさそうにつまみづくりを手伝っていたのはシュラと、シュラが残るのならと居座っていたデスマスクだった。
残ったのはカノン、シオンを含む黄金聖闘士全員とパンドラ、(紫龍目当ての)クイーンや三巨頭だ。
「いや、瞬が子供になってしまったとアテナから伺ったときは驚いたが……」
とか言いながら真っ先に荷造りしていたのはサガで、とっさに子供用品店をネット検索していたのはアフロディーテで。
「私、氷河の小さい頃を思い出したわ」
氷河がカミュに師事し始めたのは今の(呪いで小さくなった)瞬よりも少し大きい。
「小さい頃の氷河はちょっとしもぶくれで目もくりくりしてて、とっても可愛かった……」
しみじみとつぶやいたカミュにミロがうんうん頷いた。
そんな二人に童虎がわしもじゃと反応する。
「紫龍も小さい頃はのう、なんでも素直に信じる子であった。今もあんまり変わらぬかのう」
心身ともにしっかりと成長した愛弟子を見つめ、童虎はうんと頷いた。
それにシュラとクイーンが食いついた。
「老師、そのころの写真などお持ちでしょうか!?」
「おお、持ってきたぞい」
ごそごそと童虎が懐から取り出したのは2冊のアルバム。いつの間に撮ったとか、どこに持っていたとか、そういうつっこみは童虎に対して無粋であると言わざるを得ない。
とにもかくにも童虎はシュラとクイーンが暴れないようにそれぞれに用意していたのだ。そういうことなのだ。
シュラとクイーンがうっとりとそれぞれのアルバムを眺めていたその横でアイオリアがそう言えばと思い出す。
「私、魔鈴と仲良しだからけっこう星矢の面倒をみたけど、星矢は昔っからやんちゃだったんだよねぇ」
「聖衣を授けたのはサガじゃったよな?」
シオン様のさりげない嫌味にサガがうっと唸る。
そのころシオン様はすでに死んでいて星矢にペガサスの聖衣を授けていないのだ。
「ということは小さい頃を知らないのって瞬と……あんまり考えたくないけど、一輝だけなのよね」
「う……」
2歳にして生まれて程ない赤子の瞬を抱き、かなり疾走した後で『バカな! 宇宙だと!?』と叫んだ彼をどうして幼児と呼べただろう。
しかし不可思議にもほどがあるだろっていうくらい、一輝にも乳幼児期があったのだ、たぶん。
「そ、想像できないわね……」
「てか、触れちゃなんねー話題だったんじゃね?」
「…………」
一同を深い沈黙が包む。それはその場に残っていた紫龍も同じことだった。彼が一輝と出会ったときには彼はもう6、7歳になっていて、すでに辰巳をもビビらす貫禄を持っていた。紫龍が知るのはそんな一輝だけなのである。
「ま、まあ一輝に似ないで、瞬はとっても可愛いわね!」
「そ、そうだな!」
「瞬は……そう言えば瞬はよく俺の妹に間違えられていた。似ているだろうか」
紫龍の告白に一同驚愕とともに押し黙る。一輝の、というより紫龍の妹と言われた方がどれほどの説得力があるか分かりゃしない。
ミロが『すっげぇ説得力!』と口にした途端、全員が頷いた。





その頃、瞬は夢を見ていた。
真っ白な天蓋が降りたふわふわのベッドで寝ていたと思ったのに、なぜか彼女はひとりで――お供のうさぎさんもくまさんもいなくて――井戸のそばに素足で立っていた。
「なんで瞬、こんなところに?」
誰もいないのと、瞬は誰かを呼んでみた。
一輝も、星矢も、紫龍も、氷河も、沙織も。
でも誰も瞬の声には答えてくれなかった。
「瞬、ひとりぼっちなの?」
寂しさに気づいてしまった瞬の瞳から、ぽろりと涙が落ちる。ここがどこなのかも分からない、自分は捨てられてしまったのだろうか。
「うえええ〜〜お兄ちゃ〜〜〜ん」



……ち



「ほえ?」



……こっち



「ほえ? この井戸から聞こえる?」
泣きかけていた瞬がつま先を伸ばして井戸の中をのぞき込んだ、そのとき。
何かが――恐らくは誰かが、瞬の小さな背中を押した。途端、瞬は井戸の中へ真っ逆さま。
「きゃああああああああああ!」
それは長い長い自由落下だった。いつまで経っても底につかない。
「ふえっ……」
落ちながら泣いていた瞬を、誰かがはっしと捕まえた。
「えっ?」
瞬を助けてくれたのは逆巻く黒髪の、綺麗な男の人。その背に六枚の黒い翼を持っている。瞬は知っているはずなのにどうしてもその人の名前を思い出せなかった。
「お兄ちゃんは誰?」
幼子の問いに、けれど男は答えを返さない。代わりににこりと笑って言った。
「――ようこそ、ヘルミオネの井戸へ」
「へ、へる?」
「ヘルミオネの井戸だ。この井戸は深い深い場所に続いているのだよ」
「ふ、深い場所?」
5歳の瞬にはわからないことだらけ。
でも自分をそっと抱きしめてくれるこの黒衣の男が言うことは不思議とすっと入ってきた。
「姫君はどうしてここに?」
「あたし、瞬っていうの。瞬ね、井戸のそばに立っててね、誰か呼んだような気がしたから井戸をのぞいてたら、落っこちちゃったの」
「さようか。ならば余が元の場所まで届けてやろう」
「お兄ちゃん、瞬のおうち知ってるの?」
「ああ、そなたのことならなんでもな」
男は瞬のことを知っている。それなのになんで?
どれくらい落ちたのか分からなかった。
男の足がすとんと井戸の底につく。そこで瞬も降ろされた。ふと男を見上げれば彼の背にもう翼はなく、白い横顔が凛と、けれど切なく前方を見据えているようだった。
薄明るいこの場所は、今は幼い瞬には怖い場所のように思われた。
静寂が支配する――ここは奈落の入り口。
「さあ、行こう」
「う、うん……」
男は瞬の手を引こうとした。しかし身長差があって瞬が背伸びしなければ届かない。それにこの光景に瞬がおびえていることにも気がついて、男は瞬を抱き上げた。
「いいかな?」
「うん」
男は瞬を抱き上げてゆっくりと歩いていった。
かさり、かさりと落ち葉を踏みしめる音だけが聞こえる。
「ここは、深い深い場所?」
「その入り口だ。ここは黒いポプラの森だ」
かの昔、冥王が地上を懐かしんで作ったと言われるポプラの森。深い場所故にポプラはみな白い幹に黒い葉をつけるようになっていたが、それでも季節の移り変わりを忘れぬかのように葉をつけては落としていた。
白と黒、恐ろしいほどのモノトーンの世界に色を持っているのは瞬と男だけだ。
「ここは、寂しいね」
「……怖くはないか?」
「怖い……だって、誰もいないもん。でも今はお兄ちゃんと一緒だから平気。だけどここは、色がないんだもん。それって寂しいよね」
色があったら、きっと寂しくないよと、瞬は小さな手で男にきゅっと抱きついた。
そんな瞬の背中を男がぽんぽんと慰めるように叩いた。
「そうだな、ここにも色がほしいな。だが……」
男は突然歩くのをやめ、瞬を降ろした。
そして瞬の前に膝を突いた。
「この黒いポプラの森に色を付けるのは、一人では無理だ。とても広くて木の数も多いからな。だがな、瞬――余の愛しい姫君。もしよければ、手伝ってもらえるだろうか」
愛しいと思えるものがあれば、どんな世界も色鮮やかに見えるだろう。
それが今の君に望むこと。
何度でも何度でも、誓うから、何度でも聞かせて。
男は瞬の小さなの甲に口づけた。
瞬はびっくりしたが、男が顔を上げてにこりと微笑んだのでじゃあねと、瞬は言った。
「瞬は小さいから、まだお手伝いは無理かもしれないけど……」
「けど?」
「大きくなったら、お兄ちゃんと一緒にここに色をつけてあげる!」
絶対だよと、瞬は小さな手の小さな小指を差し出した。
男は微苦笑して、自身のそれを瞬の指に絡ませた。
それをみた瞬は喜んでゆびきりげんまんと元気よく歌いだした。
そして指を切ると、約束だからねとぎゅっと男に抱きついた。
「ああ、約束だぞ」
男は抱きついてきた瞬の、その白く柔らかい頬に自分の唇をそっと押しつけた。
黒髪が瞬の肌をこすり、彼女はくすぐったいと笑った。
「さあ、行こう、瞬のおうちにな」
「うん!」
「大きくなったら必ず余を手伝ってくれよ」
「うん、約束だもん」
幼い自分を抱いて歩く男の名を、瞬はとうとう知ることはできなかった。
揺られて歩くうちに瞬はうとうとと睡魔におそわれ、とうとう眠ってしまっていた。
「……寝たか」
すぴすぴと寝息を立てるこの幼い少女に、求めるのは。
「そなたこそ、余の希望の色なのだ」
眠っている少女の唇を奪うのは卑怯なことだから。
男は眠る瞬の手を取り、軽く握られた拳にそっと唇を寄せるのだった。





気がついたら、瞬は真っ白なベッドの上にいた。
「あれ……?」
寝たまま首を動かすと枕元にはうさぎさんとくまさん。隣にはハーデスが寝ていた。
「あのお兄ちゃんに似てる?」
うんしょと体を動かし、瞬がハーデスのそばによる。
よく分からなかったけど、なんとなく似ている気がした。
「ゆめかな……」
「なにがだ?」
瞬の耳に聞こえてきたのは、ハーデスの声。うにゅと瞬はハーデスを寝たまま見上げた。
「あ、あのね、ハーデスお兄ちゃん。瞬ね、井戸に落っこちる夢を見たの」
「ほう、井戸にか。大丈夫だったのか?」
「お兄ちゃんによく似た人が助けてくれたの。名前は……教えてくれなかったけど」
瞬が残念そうに俯くとハーデスは瞬の髪を優しくなでた。
「それは夢だろうな。余は夜通し――夜中ずっと一緒にいたぞ。途中でドラゴン……紫龍お兄ちゃんも様子を見に来ていたからな」
だから瞬は夜中にどこかに、ましてや井戸には行っていないと、大人の彼に言われれば瞬はそれを信じるのだ。
「そっかぁ、夢かぁ。約束したのになぁ」
「どんな約束をしたのだ?」
「あのね、広くて暗い森をきれいにする約束!」
横になったまま、瞬は両手を広げて大きさや広さを説明して見せた。そのたびにハーデスはそうかそうかと頷いた。
「すてきな夢を見たのだな」
「うん!」
にっこりと嬉しそうに笑う瞬にハーデスも同じ笑顔を返すのだった。





「おはよーございます!」
瞬がパジャマのままリビングに来ると、そこには紫龍と氷河がいて、優しく瞬を迎えてくれた。
「おはよう瞬」
「よく眠れたか?」
「おっはよー、瞬!」
ぐりぐりと髪をなでたのは星矢。珍しく早起きだなと氷河にからかわれ、星矢はうるさいと返す。図星だったらしい。
ちなみにダメな大人たちは瞬が起きてくる前に紫龍たちが隣の部屋に運び隠した。アフロディーテとサガ、それにパンドラは瞬の朝のお世話をするために早めに切り上げて就寝したため、現在も転がっているのはごく僅かだ。
そのアフロディーテとパンドラは早速瞬が今日着る服をあーでもないこーでもないと選んでいる。
「あっちゃんとぱんちゃんだー」
「あら、瞬。おはよう」
「おはようございます、瞬様」
「おはよーございます」
瞬がぺこりと頭を下げると早速アフロディーテは可愛いとその乳房に瞬を埋めた。
「あっちゃん苦しいよぉ」
「ふふふ、じゃあお着替えしましょうか。どのお洋服がいいかなー?」
ふりふりの可愛いものから、動きやすいものまで。
瞬はちょっと裾にフリルのついた薄いピンクのTシャツに七分丈の黒いレギンスを選び、アフロディーテに手伝ってもらって着替えた。
「あら、可愛い。元気な女の子って感じね」
「よく似合っているよー」
その横でサガがめいっぱい写真を撮っている。
「瞬、おいで。ご飯にしよう」
「はーい」
起きている連中だけで、ということで食卓に着いたのは瞬を含む青銅一軍の5人に、サガとアフロディーテ、ハーデスとパンドラという総勢9人の大所帯だ。
座りきらないのでダイニングテーブルはサガたちに譲り、少年たちはすぐ横にあるリビングの低いテーブルで朝食をとった。なんのことはない、瞬がダイニングテーブルのいすに座れなかったのである。それでも少し高いのでクッションをお尻に敷いて、瞬はやっと届くくらいだ。
朝食はご飯と味噌汁、それに目玉焼きとシンプルにした。瞬が子供の身体であることを考慮して、あまり多く作らなかったのだ。
きれいな朝食に瞬は目を見張る。
「これ、食べていいの?」
城戸邸とは名ばかりの収容所にいたころには考えられないような世界が今の瞬の前に再び広がっているのだろう。
紫龍がそっと瞬を撫でた。
「いいんだよ。はい、じゃあお箸持ってな」
「はーい」
紫龍が渡したのは沙織が昨日の夕飯で必要だろうとさっそく手配してくれた子供用のお箸だった。
瞬はきちんと手を合わせ、いただきますと元気よく言ってからまずご飯に手をつけた。
「おいしい!」
「よかったな。いっぱい食べるんだぞ」
「うん! 瞬ね、早く大きくなってあっちゃんみたいになってね、そして世界を綺麗な色でいっぱいにする人になるの!」
ご飯粒をほっぺにつけたまま、将来の夢を語る瞬に誰もが笑みを浮かべていた。
瞬は聖闘士になって、敵と戦う。
そこはモノトーン――憎悪、怨嗟、嫉妬、畏怖、卑屈、卑怯などの負の感情が黒く染まった血によって上塗りされた世界だ。
けれど、亡骸の上に築かれた平和だと知っていても、人は暮らし、文明と世界は存続していく。
瞬がほしい世界は、きっと綺麗な色であふれているのだろう。そしてそんな世界を作るために、今は。
分かっているから、知っているからこそ、誰も何も言わなかった。
だって今のこの姿こそ、仮初めなのだから。
「しかし、ヘラねーちゃん、呪いの解き方見つかったのかな」
「見つかったらすぐにでも解呪するとおっしゃっておいでだったが……」
ずいぶん古い術だとごまかすように笑っていたヘラを思い出し、紫龍は人知れずため息をついた。
聖闘士としての瞬の能力は黄金聖闘士のそれに勝るとも劣らない。故に彼女を含む5人を青銅一軍とさえ呼ぶのだ。
しかし紫龍の心配は子供の姿故に戦うことのできない瞬のことではなかった。
瞬の世話をしているほうが楽だし、人手はいくらでもあった。問題は隣の部屋から聞こえてくる二日酔い連中のうめき声。そっちの世話の方がはるかに大変で面倒だし、誰も(自発的には)手を貸してくれない。いっそのこと廬山昇龍覇で全員吹っ飛ばしてやろうかと思うほど、紫龍は微妙に疲れていたのである。





そうして、瞬が子供の姿のまま3日が過ぎた頃、金色の髪持つ美貌の女神ヘラ様が一枚の羊皮紙を持って城戸邸にやってきた。
「待たせたな、姫御の呪いを解く方法が見つかったぞ!」
「あー、ヘラおねーちゃん!」
今朝の瞬はピンクのキャミソールに白いプリーツスカートをはき、足下はスニーカーソックスだ。
ヘラ様はとたたとやってくる瞬に相好を崩し、早速抱き上げた。
「おはようございます、ヘラおねーちゃん」
「うむ、おはよう。姫御は今日も元気だのう」
「はい!」
瞬のしっかりしたお返事にヘラ様はうんうんと頷いた。
「姉上、ようやく瞬を戻せるのですか」
「うむ。いやあ、解呪の方法を探すついでにゼウスをボコるのに時間がかかってな」
「あ、姉上……」
オリンポスの神々で誰よりも怖いのは主神ゼウスではなく、その妃であるヘラ様その方なのである。ハーデスもその席は常時空席であってもオリンポスに繋がる神の一人、故にヘラ様は姉でありながら――いや、姉であるがゆえに怒らせれば怖かった。怒らせなければ実に温厚な神なのだが。実際、瞬を抱いている今の姿は慈愛に満ちた母そのものだ。
「まあ、ヘラ様。瞬を元に戻す方法が見つかったのですね!」
「うむ、今の姿も可愛い故、とどめておきたい気もするが、やはりそうはいかぬでの。では、始めようか」
「なにか必要な道具がございますか?」
アテナ沙織が問うと、ヘラ様はそうじゃのうとつぶやいてきょろきょろと周囲を見回した。
「おお、あれじゃ」
ヘラ様は瞬を抱いたまますたすたと歩き、そしてティッシュの箱を手にした。
「ティッシュがいるのか?」
星矢が聞けばヘラ様はうーんと唸った。
「いや、なくても大丈夫じゃがあったほうがな。偶然を待つわけにはいかんじゃろ。それとアテナ、姫御の服を脱がせ、なにか身を覆う布を用意しておくれ。戻ったときに破れるから姫御が恥ずかしい思いをするじゃろう」
「は、はい。わかりました」
「沙織さん、そこにキルトケットがあるから、身を覆うくらいならそれで」
「ありがとう、紫龍」
沙織が瞬の服を脱がせ、キルトケットに包んだ。
「沙織ちゃん、何するの?」
「あのね、瞬を大きくするのよ。瞬は13歳になるの」
「13歳って大きいの?」
「ちょっと大きいわね」
ここ数日早く大きくなりたいなと言っていた瞬の願いが叶うのだ――元に戻るだけだけど。
けれど瞬には大きくなれるということのほうが大事だったようだ。
「瞬、早く大きくなりたい! 約束したの!」
早く早くとはしゃぐ瞬を沙織は落ち着いてとなだめた。じっとしていてねと言えば瞬はじっとする。
そして沙織は静かにそばを離れた。
「では、始めるぞ」
どんな解寿の方法なのか、誰も知らなかった――神話の時を生きるハーデスさえも知らぬ魔法を。
ヘラ様は一枚のティッシュをつかむとするするとこよりを作り、そして。
「はっくしょん!」
「……へ?」
なんとヘラ様は瞬に向かってくしゃみをしたのだ。すると瞬はぽわんと軽い音とともに煙に包まれた。
一同はらはらと見守る中、はれた煙の向こうには。
「――瞬!」
ヴィーナスの誕生の再現か。
13歳の瞬が呆けたようにキルトケットを纏ってそこに立っていた。





「なんか、みなさんに迷惑をかけたみたいで……」
13歳の服に着替えた被害者の瞬が、周囲にぺこりと頭を下げた。
しかしみんなは今回の事件にほとんど満足していたようで、誰もが瞬の謝罪は必要はなく、むしろこちらこそありがとうとの声が帰ってくる。
「いや、今回は本当にわらわが……というよりもゼウスが悪いのじゃ。ほんにすまなんだのう」
「いいえ、ヘラ様そんな」
とんでもないと手のひらを振る瞬はまさに13歳の振る舞いそのもの。
よかったなとハーデスの肩を叩くのは海皇ポセイドン。瞬が戻ったと聞いて(本当は慰問の旅の最中のはずなのに)どこからともなく現れた。
「おまえとしてはもう少し構いたかったか?」
「――いや、余はどうあれ瞬を愛したのだからな」
「何だ、つまらんな。まあ13歳の彼女の方がおまえも待ち時間が短くて……冗談だ、冗談」
これまたどこからともなくハーデスが愛用の剣を持ちだしてポセイドンを斬ろうとしたので、海皇は思わず白刃取りで交わす。
「けどさー、くしゃみで元に戻るなんて……もう一回くしゃみしたらまた瞬は小さくなるとか?」
あり得なくはない可能性を口にした星矢にヘラ様がほほほと笑った。
「それはない。そもそもギリシア神話における神の呪いとは解けぬも多いし」
だいたいその呪いをかけられた者は解いてやる前に死ぬか星になるかのどちらかなのだ。
「この呪いはかけ方と解き方が違うからの。だいたい、わらわがまたくしゃみをして姫御が小さくなったらマンガがかわるではないか」
「そりゃそーだな」
はははほほほと笑う天馬星座の聖闘士と女王神様。
「ところで瞬、今日が何日かわかるか?」
紫龍の問いに、瞬はいいやと首を振った。
「ということはここ数日の記憶はないのか」
「うん――何があったのかわからなくて……」
「そうか、いや、それを確かめておきたかったんだ、気にしなくていい」
「うん、いろいろありがとう」
瞬の笑顔はどんな年齢でも変わらないな、と瞬の兄弟たちは優しく瞬を見つめるのだった。





自室に戻って見知らぬぬいぐるみに出会う。
枕元のうさぎさんとくまさんはきっと誰かが子供の自分のために用意してくれたのだろう。
「ハーデスは、寂しかったですか?」
今は恋人の瞬。幼い私はあなたをちゃんとわかったのだろうかと、瞬はそれを心配していた。
ハーデスは小さく笑い、言った。
「余はどんな瞬だろうと愛しているからな。たとえそなたにそのときの記憶がなくとも、余がちゃんと覚えておるから、寂しくない」
「そうですか? それならいいんですけど……」
「そなたはな、早く大きくなって世界を綺麗な色でいっぱいにする人になりたいと、そう言っておったぞ」
「え、そんなことを……?」
「すてきな夢だと思ったぞ」
「ハーデス……」
願わくは、これから先の未来を。
「なんにせよ、やっと元に戻ったのだから」
ハーデスは瞬を抱き寄せ、『13歳の瞬』との間に失った時間を取り戻すかのように熱烈に口づけた。




その夜、瞬は夢を――たぶん、夢を見た。
ひとりで、素足で歩いている。
そして古い井戸の前で立ち止まった。
「――ヘルミオネの井戸、だ」
深い深い場所――冥界へと続く道。その井戸のそばにぼんやりと黒い影が浮かぶ。
瞬はその影にそっと手を伸ばした。
「……ハーデス」
「……待っていた、瞬」
ふたりは穏やかに微笑むと手に手を取って井戸の中へと降りていった。
黒いポプラの森を鮮やかに染めるために。
君となら、できると信じて。



さあ、麗しい恋愛劇の再開だ




≪終≫




≪5周年企画その2でした≫
サイト5周年企画で書かせていただきましたその2です。
今回は『こども瞬の子守をするハーデス様』というM様のリクエストでした。
ちゃんと子守できているでしょうか、(*゚д゚)ドキドキ。
タイトルはもちろん、サウンドホライズンのアルバム『イドへ至る森へ至るイド』からそのまんま。
今度は誰を子供にしようかなあとか、スピンオフとかできないかしらと考え中。
ちなみにヘラ様が仰った『マンガが変わる』というのは『TWIN SIGNAL』のことです。
M様、リクエストありがとうございました。
お気に召さなかったらお気に入りの技で如月を吹っ飛ばしてくださって結構ですw
注: 文字用の領域がありません!

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