初恋薊 あなたを傷つけよう どこまでも――どこまでも深く、甘く あなたが永遠に私を忘れることのないように 薊の花が咲いていた。 といってもその花が何という名なのか、彼は知らなかった。特に調べようとも、そのときは思わなかった。 もちろん花は美しいとも思うし、観葉や贈答に関しては少なからず知識と理解はあるつもりだった。 だから、彼がその花に興味を覚えたのは、彼にとっては不可思議なことであったと想わざるを得ない。 薊にはとげがある。ふれるときは気をつけなければ。 けれど花そのものは化粧刷毛のように優しい柔らかさを持っている。 知っていれば、触れることは怖くない。 「似ているな」 そうひとりごち、彼は静かに口元だけで笑った。 何に似ているのか、それは彼の心だけが知っている。 彼は<A-P Ver.2.0 PULSE> 世界に冠たる音井信之介と子息・正信の手になるHFRである。炭素素材を多く用いて作られた彼は音井ブランドの次兄であり、彼の存在はやがて生まれくる彼らの妹の試金石となる。 要するに彼は試作品であったのだが、世界最初の戦闘型としての側面のほうがクローズアップされ、彼は単なる試作品ではなくなっていた。正信が改造に改造を重ねた結果である。 そして彼の完成後、10年という時を経て音井ブランドの末娘であるシグナルが完成した。 長兄オラトリオやカルマに匹敵する演算能力、つまりは電脳空間対応機能と、長姉ラヴェンダーやパルスと同等或いはそれ以上の運動能力、すなわち戦闘能力を持ち合わせた高機能さ。それに加えて彼女は新素材であるMIRA とSIRIUSを同時に搭載した高性能なロボットなのである。 しかしそれは彼女の機械的な評価であって、実際のところはそうでもない。 外観的には完璧に美少女の部類。紫水晶のぱっちりした瞳に白磁の頬、偏光紫の長い髪を持つその姿はまるで妖精のよう。しかしながら性格はといえばおてんばそのもの。思い立ったら吉日の猪突猛進型、挙げ句の果てにAナンバーズ史上初と言っていいだろう、バグを抱えたままの正式登録までやってのけた。 よく言えば優しくて元気いっぱいなのだが、悪く言えば考えなしのおばかさん。 とはいえシグナルは世界に冠たる音井信之介を父に持ち、SPとして世界をかけずり回るラヴェンダーを姉に、オラクルの守護者たるオラトリオと世界最初の戦闘型であるパルスを兄にと錚々たる経歴の持ち主だ。 そんな彼女に男たちが惚れない訳がない。 それでなくとも幼い子供には誰もがちやほやするものだが、彼女の場合はそれが顕著だった。 まず最初に彼女に対して愛着を見せたのが誰あろう、コードだったのである。 実質的なAナンバーズの中でも彼は最初の成功作だった。しかしそれもまた彼のみの評価であり、コードは長いことお蔵入りされていたロボットだった。そんなコードが再び日の目を見るのは人格が完成されてからさらに40年経ってからのことである。最初の相棒たるバンドルをなくしてから30年経っていた。 「シグナルの補助ロボットに――」 そう要請されてコードは二つ返事で引き受けた。 こんなおもしろい話に乗らねば男が廃ると、そう笑い飛ばして。 秘密の出会い、乱闘中の邂逅、そしてふたりはあの運命の火に。 パルスの脳裏に浮かぶ白い幻影。 暴発したSIRIUSを止めようとして、迷わずあの光のなかに飛び込んでいったシグナルの背中を思い出した。 わずかに振り返った彼女は白銀の姿からあの艶やかな紫に戻っていた。 逃げて、と囁くような笑顔。 やめろと叫ぶ声も届かない。 シグナルから強引に切り離されたコードを抱き止めて、パルスはただ衝撃に備えるしかできなかった。 「俺だってな、死なせるつもりはないんだよ。シグナルが助かるなら何だってするさ」 シグナルは今、ふたつの眠りの中にいた。 ひとつは体の眠り。あの暴発に耐えられたとはいえ、彼女の体はぼろ切れのように四散し、無惨な姿をさらしていた。なんとか集めて、なんとか助けて。 これだけボディを損傷していながらプログラムがほぼ無傷というから彼女の並々ならぬ暁幸を思わねばなるまい。 もう一つは、心の眠り。 プログラムの損傷はないが、ボディの修復が行われていることで彼女は目覚めの時を待っている。 現実空間で、電脳空間で。 みんなが彼女の帰りを待っていた。 そんなときだったのだ、パルスがオラトリオを捕まえて彼女の容態を問い質したのは。 「今はまだ寝てる。まあ、しょうがないわ、ボディがあれじゃ……けど、プログラムに支障はない。時がくれば……たたき起こしてでも起こすさ」 「そんなことはわかっている」 「いっとくけど、シグナルが――クエーサーがあそこまでやるのは俺にだって想定外だった」 機先を制され、パルスは少し黙った。 クエーサーに関する事件を解決するために国外逃亡の手引きをしたのはオラトリオだった。 <ORACLE>から奪われたデータを取り戻すために。 けれどオラトリオは通常業務を行わなくてはならなかったし、なによりほかのAナンバーズとともに<ORACL E>預かりとなっていたため、動くことができなかった。そんな彼にできたのはシグナルたちをこっそり解放することだけ。そして情報を与えるという形でバックアップすることだけだった。<ORACLE>のデータを取り戻すというオラトリオの思惑とクエーサーとの決着をつけるというシグナルの決意が利害の一致を見たとき、彼女はオラトリオの手のひらの上にいたことになる。 「こんなことになるなんてわかってたら、誰がかわいい妹をやるかよ」 「だがおまえは<ORACLE>のためなら、妹を捨てることもやぶさかではあるまい」 パルスの唇が棘持つ言葉をはいた。 オラトリオが静かに弟を見つめる。 「計画と結果は別物だ。私にだってそれはわかる。だがおまえはオラトリオである以前に、<ORACLE>だ」 「――そうだ。俺は<ORACLE>だ」 だが、と長兄は深紫の瞳でパルスを睨み返した。 「でもな、こんな俺でもなくせないものができちまったんだよ! シグナルを死なせてしまうことと死んでもかまわないと思うことは別なんだ! 俺は今度の計画を、シグナルの死を前提になんてしなかった!」 <ORACLE>であることの本分を忘れてしまうほどに、いや、忘れさせてしまうほどに、シグナルという存在はオラトリオにとってもはやかけがえのないものになっていた。 パルスは知らないが、オラトリオもまた、シグナルを送り出していたことに苦悩していた。自分の中にあるどろどろとした、感情と呼ぶにはおこまがしいほどの何か、おそらくそれは本能に。 「シグナルがまだ寝てるからって、俺に当たるんじゃねぇ」 「別に、そんなつもりはない」 なら、なんのつもりだったんだろう。 何のつもりで、かなわないはずの長兄にかみついたのだろう。 シグナルが目覚めない原因は、ほかにあったはずなのに。 「……悪かった」 「いや、わかんなくはねーから」 シグナルの修理が行われている研究室を扉越しに見つめ、兄二人はただ佇んでいるしかできなかった。 シグナルが不在、いても会えないという時間が、誰の心にも影を落としていた。変にいらいらして、不安でたまらなくて。 パルスは、シグナルと過ごした時間がほかのロボットよりも少し長い。シグナルが完成した少し後、「なら父さん、暇になったんだよねぇ」と正信がパルスを信之介の元に送り出した。その途中で誘拐されたパルスは洗脳を施され、妹との芳しい邂逅はいきなり戦闘というどたばたぶり。 あのころのシグナルはちょっと思考がほんわりした感じの娘だったが、それでも兄と対峙するにあたり、「もーやめよーよぉ」と泣き出した。信彦の姉としてプログラムされていたシグナルはパルスを兄と認識したとたん、戦う意味などないと感じたからだ。 「……!」 ああ、これだったのか、と。 パルスは壁に拳をつき、がっくりとうなだれた。 シグナルを壊そうと――殺そうとしたのは、私だったのだ、と。 今はもう、殺そうなんて微塵も思わない。 シグナルは不肖ながらも可愛い妹で、愛しい女性だから。 それなのに、消去されたはずの破壊プログラムがじわりとうごめき出す。 破壊の限りを尽くして、満たされるそのプログラム。 パルスの手で――そうだ、彼女を止められなかったのだから、壊したも同じことだ。 シグナルがひどい傷を負って眠り続ける今、パルスのなかに広がるのは黒い衝動ばかり。 殺していないと、自分は殺していないのだと自覚したくて、犯人を捜していたのか? 死んでもかなわないと願うことと、死なせてしまうことの違いは、壊そうとすることと、壊れてしまったこととの違いと同じなのだろう。 手を下したのは私ではない。 それなのに、それなのに。 「なぜ、満たされる……っ!」 今頃になって、何故。 彼女が戻ってきたとき、私は。 安堵できるのだろうか、それとも、再び彼女を壊したくなるのだろうか。 壊したいと思うほど、愛しいと感じられるだろうか。 はっと、目を覚ます。 死にたくない、生きていたいと願ったシグナルは何事もなかったかのように目を開けた。 「……ほぇ」 「目が覚めたかい?」 教授の優しい声に、シグナルがぼんやりしたまま頷いた。しかし、目は覚めたが状況がわからない。 「ここ、どこですか?」 「わしの研究室だよ。おまえさんは大けがをして戻ってきたんじゃ。覚えとるか?」 シグナルはぼーっと記憶をたどる。 クエーサーが暴発させたシリウスの光。その中に飛び込んで暴れる天狼を抱きしめたところまで、覚えている。 シグナルは不安そうに首を横に振り、教授を見つめた。 「大けが、だったんですか?」 「そうじゃよ、シグナル。おまえさんの修理にみんなかかってくれたんじゃ」 「そう……ですか」 と言うことはだいぶ迷惑をかけたんだろうなと、シグナルはうなだれていた。 そんな娘の髪を、教授は優しく撫でた。 「言いたいことはいっぱいあるが、お説教は後にしよう。まずは、おかえり……」 「教授……」 ふぇと小さくつぶやいて、シグナルは教授にしがみついた。お説教は後だと言われたのに、ごめんなさいと泣きながら何度も謝っている。 それを、彼女の兄姉がそろって少し遠くから見つめていた。 「帰ってきたな」 「ああ。私の妹だぞ、頑丈でなくてどうする」 「姉さん、そういう問題じゃないと思いますけどね」 パルスは泣きじゃくるシグナルを見つめていた。教授はシグナルの髪を撫で、背を撫で、落ち着きなさいと宥めている。 「シグナルちゃんのおかげで、<ORACLE>にデータも戻ったし」 俺もちょっと行ってこようとオラトリオが一歩踏み出す。 その足下をパルスが睨む。 自分の足はあんなに素直に動かない。 姉から数拍遅れて、彼の足はやっとシグナルに向かっていた。 オラトリオはシグナルをねぎらい、<ORACLE>として礼を言った。ラヴェンダーは腹にあいた穴もすっかりなおって元気だと言い、今度はもっと鍛えてやると言ってくれた。 そして、パルスは。 ただ黙ってシグナルの髪をぽんぽんと撫でた。 一番近くにいて、シグナルを止められなかった彼に言葉はなかったのだろう。けれどシグナルには言いたいことが、聞きたいことがたくさんあった。 「パルス兄、信彦は? クリスは?」 「みんな、無事だ――コードも」 「……そう、よかった」 彼女の気がかりは、そこ。私じゃない。 もちろん、見れば無事にそこにいることがわかるためなのだろう。 そんな次兄の意を汲んだわけでもないだろうが、シグナルはやっぱり妹だった。 「パルス兄は、元気?」 「――ああ、問題ない」 パルスは無理矢理笑って見せた。シグナルがほっとしたように微笑み返す。 教授がさあとシグナルに向き直った。 「もう少し、メンテをしようかね。起きたばかりでいろいろ混乱しておるじゃろう」 「はい、教授」 「じゃ、俺たちは。またあとでな、シグナルちゃん」 「うん!」 シグナルはしっかり頷くと、教授に促されてまた横になった。 研究室から出たパルスは、信彦にシグナルが目を覚ましたことを伝えようと、棟外に出た。 外は明るい。シンガポールの日差しは日本のそれよりきつく照りつける。 もう心配する事はなにもない。 クエーサーもクオータもこの世にはなく、シグナルもちゃんと戻ってきた。 そうと自覚したとたん、パルスの衝動がまた走り出す。 コワレテイナイ 「――!」 やめろと、誰かに向けて叫ぶ。 シグナルは戻ってきた、それでいいじゃないかと自分で自分に告げる。 壊れたままでいさせて、死なせてしまうことなんて望んでいないのに、この声は何なんだ! 天狼の牙に切り裂かれた柔らかい肌と肉は機械の塊だった。 「ああまでしなくても、よかったものを」 シグナルの生還を素直に喜べない、この心はなんなのだ。 彼女を破壊したいというプログラムは正信のメンテによってかなり以前に除去された。しかしプログラムの改編によって生じた性格の変化には手を着けられることはなかった。戦闘型として日常を暮らす上で支障はないと判断されたためだった。 まだ、気づかない。 この心の正体を。 コードの存在はシグナルにとって広い意味でかけがえのないものであった。シグナルの経験不足を補うための補助としての存在であり、また、彼女の伴侶でもある。 二人がなにを望み、どんな想いで結ばれているのか。 周囲はそれをよく知っていた。 シグナルの生還を、コードは強く待ち望んだひとりだ。 羽根でくるみ、腕に抱き、永久に守りたいと、コードはシグナルを愛していた。 なくしたバンドルの代わりとしてではなく、彼女自身を。 そんなコードの手でシグナルは女になり、手に手を取って未来へ進むと誓いあった。 シグナルがクエーサーと対峙すると決めたとき、真っ先に彼女に従ったのはコードだった。 「俺様と細雪はおまえとともにある」 これ以上の言葉があるだろうか。 なにがあろうと一緒だと捧げられた想いにシグナルの胸は熱くなったに違いない。 だから、あの白光の中で強引に切り離されたコードの苦悩と怒りは計り知れない。 「俺様はおまえと一緒なら、どうなってもかまわないと言ったはずだ!」 パルスに、コードの声は聞こえない。 コードに抱きつき、涙ながらに詫びるシグナルの声も。 そして二人が睦みあう、その姿も。 見えるはずもない。知るはずもない。 自分は電脳空間にはいけないのだから。 けれど容易に想像できてしまう――コードに抱かれ、鮮やかに乱れる妹の姿が。 次に会うとき、シグナルはよりいっそう華やかに「女」としてそこにいるのだろう。 パルスの足が、止まる。 太陽を背に、己の影を見つめて。 葉を揺する風に彼の黒髪も踊った。 その瞬間、時が凍えた。 「……コード」 「なにも言うな」 言わなくてもいい、わかっているから。 けれどシグナルは言わずにはいられなかったのだろう、彼をまた怒らせるとわかっていても。 「あのときの私には、なくすことがわかってなかった」 シグナルは目を潤ませながら言う。 「私はまだ、作られて間もないから、きっと……って」 なくすものも、悲しむ人も少なくて済むだろう、と。 「でも違った。そうじゃなかった。私にはなくしていいものなんてなかった。私がいなくなったら悲しむ人はどのくらいいるんだろうって、考えてた」 いつ、と、コードは問わなかった。 シグナルは続ける。 「いっぱいいたの。私が死んだら悲しむ人がいっぱいいるって気がついたの」 「俺様を死なせなかった理由も、それか?」 「うん。コードは私より長く生きてるから、たくさん思い出があって、たくさんの人がいるんだろうって思ったから」 彼の鳥型のボディが耐えられない。 それも考えないわけではなかったけれど。 「本当は一緒にって言ってくれて、すごく嬉しかったの。でも、私が言い出したことでコードを巻き添えにできないって、それも考えてた」 そう言い終わる前にコードがシグナルの上に覆い被さっていた。 「やぁっ、コード……」 「もう一度言う」 コードが耳元で、囁く。 「死ぬな」 「あ……」 「俺様を置いて、死ぬことは許さない」 「ああっ!」 コードの少し乱暴な愛撫に、シグナルの唇から悲鳴にも似た嬌声が漏れた。 オマエヲコワスノハ 自分ではないと、信じたい。 そうだ。ガラクタのように無惨に四散した彼女の姿を見たとき、自分の中に溢れたのは悔恨と苦痛だった。 何故、彼女を守ってやれなかったのか。 そのことばかりが渦巻いて、現実を直視するのを忘れかけたほどだったのに。 今はコードとともに変わらず陽光の下を闊歩するシグナルを見るにつけ。 コワシタクナル ショウドウ 何かを変えられるのならそれはきっと私と彼女の関係。 あの白銀の鎧を毟りとり、翼をもいでしまえば。 翼を失った彼女はこの腕の中に墜ちてくる。 パルスは静かに、木陰に佇んでいた。 一見すれば黒衣の彼が日光を避けて涼んでいるようにも見えるだろう。事実そうだった。 体温が異常に高かった。 外気温と、迫りくる衝動に彼は実に静かに耐えていた。 何も知らない妹とその恋人に、この――おまえたちを壊したいという、衝動に耐えているという事実を突きつけられたら。 どんなにいいだろう。 そうしたら、きっと彼女はもう一度壊れてくれる。 体がぐらついた。 立っていられなくなった。 気がついたら、もう遅かった。 地面がとても近く、聞こえてきたのは妹の悲鳴と足音だけだった。 フカイフカイ――イドノソコ ヲチテ逝クノハ誰ダ 最後に見たのは地面だったはずなのに。 わずかな不快感を残したまま、パルスはそっと目を開けた。 目の前に広がっているのは淡く青く、白い天井。 「目が覚めたかい、パルス」 「あ、若先生……」 若先生と呼ばれた正信は、自分と同じ顔をしたパルスを見つめて苦笑した。 「君がいきなり倒れたって、シグナルが泣きながら駆け込んできてね」 戦闘型たる妹は倒れたパルスを発見、おろおろ泣きじゃくる前に彼を剛胆にも肩にかつぎ上げると、そのまま正信のラボを目指したという。 そばにいたコードがそう助言していたそうだ。 「ヒートストレス……だよ。まあ、君にしては珍しい、かな?」 元来頭に血が上りやすいのは音井のロボットの宿命らしい。それでも戦闘型として作られたパルスやシグナルはほかのロボットに比べると格段にヒートストレスに対する対策がとられていた。長い髪はその一例だ。 正信が資料を見ながら言う。 「とりあえず今は落ち着いてるからもう大丈夫だと思うけどね。異状があったらまた来なさい」 「はい、ありがとうございました」 礼を言って、パルスは正信のラボを出た。廊下で待っていたのだろう、シグナルの不安と歓喜が混ざる声が聞こえてくる。 シグナルは本当に家族思いのいいロボットだなあと思いながら、正信は背後を振り返る。 「――どう、見ますか? みのるさん」 正信は黒髪の妻を見つめる。彼女はロボット心理学者だ。 みのるはつぶやくように夫に告げた。 「もう一度、メンテナンスの時にでもパルス君の精神プログラムをみたいわ」 「同意見です。今はまだいいかもしれませんけど、そのうち……」 パルスが壊れるか、あるいは。 「パルスは元々ここの生まれです。それに戦闘型だ、自分の身をどう律すればいいのかくらい、生まれたときから心得ています。それさえ忘れるほどの何かが」 「たぶん、シグナルちゃん」 こともなく言ってのけたみのるを正信が声もなく見つめる。 「パルス君はもともと、シグナルちゃんが生まれると決まったときにも少し悩んでたみたいだった」 「ちょうど僕が改造を施していたときです」 そうだったわねとみのるがやっと微笑んだ。 「私は信彦が生まれたばかりだったから、あんまりパルス君を看てあげられなかったわ」 ロボット心理学者として、彼女はパルスを看ていない。しかしそばにいた者としては見ている。 「戦闘型として強くあろうとしたパルス君に、新しい妹ができる。しかも戦闘型。パルス君の葛藤は終わらなかった」 「しかも変なプログラム入っちゃいましたしね」 解除した洗脳プログラム。変なところに入り込んでしまって完全な除去は正信でも無理だった。強引に剥がせば今度はパルス自身が壊れてしまう。 「そこにシグナルちゃんが現れた――ううん、出会ってよかった二人なんですもん。出会うべきだったんだわ」 そして出会った運命の兄妹。 パルスの洗脳プログラムを解くきっかけになったのはシグナルだろうが、押し込めてしまったのもまた彼女なのかもしれない。 「とはいえ、誰にも責任はありません。問題はこれからどうするかです」 今更、どうしようもないことには手を出さない。 運命の輪は闇と光を綯い交ぜて回り始めてしまったのだから。 みのるは正信を見つめ、正信はみのるを見つめた。 大事な兄妹を、子供たちを。 「壊したくはありませんからね」 「ええ」 そうよ――みのるが言う。 私たちは『人』なんだから、と。 「パルス兄ぃ」 「すまない、少し寝る」 カフェテリアの涼しいエリアはもう人でいっぱいだった。しかたなく外の、それでも木陰を選んでシグナルはパルスとともに席を取った。 席に着いたとたん、パルスはがくんと首を折る。 「みゅー……」 パルスは一度寝るとなかなか起きない。 額をテーブルに押し当てたままの兄だから、顔も見えない。正信は大丈夫って言ってくれたけど、本当に大丈夫なんだろうか。 「パルス兄ぃ」 ふと、シグナルの指がパルスの黒髪に触れた。ひんやりとして冷たい感触だった。これなら大丈夫なんだろうと思う。あのとき触れたパルスは髪の一筋さえ熱かったから。 この兄がヒートストレスで倒れたのを、シグナルは初めて見た。寝ぼけたりエネルギー切れでへこむところはしょっちゅう見ていたのに。 強くて優しいこの兄は、いつも自分をこき下ろしながらも、それでも一緒に戦ってくれた。一緒にいてくれた。 優しい、私のお兄ちゃん。 「――ありがとう」 シグナルが呟く。優しい声で。 だからこそ、うずく傷がある。 眠りの淵で彼は夢を見る。 思うままに妹を犯す夢を――忌まわしいほどに。 泣き叫ぶ彼女に強引に楔を打ち込み、欲望を走らせる。 何度も何度も貫いて、恐怖がこみ上げる悲鳴を抱く。 おびえた瞳が濡れて写す、鬼の顔をした自分。 彼女が壊れていくたびに満たされる、本能。 ぱるす、と名を呼ぶ唇を自分のそれで塞ぎながら飢えの恐怖とせめぎあう。 「殺してもいいよ」と妹が囁いた。 彼ははっとして顔を上げた。 彼女は紫苑の髪でその身を包みながら、薄く笑った。 「このまま、抱き殺してもいいよ――でもそのとき、パルス兄も死んじゃうんだから」 妹はくすくす笑いながら、彼の首に腕を絡めてきた。 紫の彼女は兄を死へと誘い、笑う。 「ねぇ」 その紫の瞳に写るのは。 「一緒に逝こう?」 おびえきった自分の顔だった。 がばっと起きあがったパルスに驚くことなく、シグナルはのんびり飲んでいたアイスティーから唇をはなした。 「あ、起きた?」 「ん、どのくらい寝ていた?」 「一時間くらい」 パルスは自分が眠る寸前の記憶を紐解いた。木陰が微妙に移動しているから、やはり一時間程度は経過したのだろう。混濁した意識を振り払うように、パルスは頭を振った。目の前の妹はやはり優しく笑っている。 「なにか冷たいもの買ってこようか?」 「いや、いい。そこにいろ」 「うん」 パルスは寝起きもあまりよくない。まだ覚醒がしっくり来ないのだろうかと、シグナルはパルスを覗き込む。 「……シグナル」 「なあに?」 テーブルに顎を載せただらしのない姿勢で、パルスはシグナルが持っていたグラスを指さした。 「それをよこせ」 それは先ほどまでシグナルが飲んでいたアイスティーだ。もう3分の1ほども残っていないし、氷は全滅。 「これ? 飲みかけだよ?」 「いいから、よこせ」 それでもパルスはそれをよこせという。仕方なくグラスを渡すと、パルスは中身を一気にあおった。 「……ぬるいな」 「だから飲みかけだって言ったじゃない」 新しいのを買ってこようかと再度問えば、やはりパルスは要らないと言う。そばにいろと言う。 かと思えばいきなり立ち上がる。 「……帰るぞ」 「え」 無駄のない動きで席を立ち、黒髪をなびかせてパルスはさっと歩きだした。シグナルはあわててテーブルを片づけ、後を追う。 「パルス兄ぃ、待ってぇ!」 勝手に帰らないでよぉとぷんぷん怒りながら、シグナルはパルスを追いかけた。正直に言って、パルスと一緒でなければこのTAの敷地から最短で出ることもままならない。 「パルス兄ったらー」 彼の歩行がゆっくりだったのか、シグナルが早かったのか。 彼女はとある曲がり角でやっとパルスに追いつくことができた。 「もー! パルス……に」 一言ならずとも文句を言ってやろうと思っていたシグナルは言葉をなくす。 角を曲がったはずのパルスが待ちかまえていて、その漆黒の腕に紛うことなく彼女を抱きしめたのだから。 驚いたシグナルは身じろぎ一つできずに兄の腕の中。 「ちょっと、やだ、何の冗談」 「冗談じゃない」 「じゃあ何の意地悪?」 「意地悪でもない」 じゃあなんなのと、問うことさえシグナルには出来かなった。 兄が、兄の腕が。 あまりにも切なかったから。 「パルス兄……」 「おかえり」 彼女の耳元に囁く兄の唇。その優しげな声にシグナルは思わず身を振るわせた。 「おかえり、シグナル」 「パルス兄……」 シグナルは兄の胸に呟く――ただいま、と。 ああ、これだとパルスは胸の中で呟いた。 欲しかったのは、壊れない彼女の心。 どんなにその身を天狼の牙でかみ砕れようとも、心までは壊れない、私の妹。 「シグナル……」 「パルス兄」 それは、小さな罪だった。 とてもとても、小さな罪だった。 わずかに体を離し、パルスはシグナルの頬を片手で包み、シグナルはそっと眼を閉じた。 ふたりは共犯者になった。 「内緒、だからね」 「もちろん」 「ばれたら、ふたりともコードに殺されちゃう」 「それは困る」 「だから内緒」 「ああ」 シグナルはパルスの少し前を歩いていた。 日が落ちる、その世界を二人でゆっくり歩く。 「シグナル」 「なあに?」 「そっちだと、遠回りになる」 こっちにおいでとパルスが手招く。シグナルは素直に兄のそばに近づいた。 紫の髪が夕日をはらんで赤く燃える。 シグナルは兄を見つめた。 兄の瞳が夕陽を溶かしてさらに緋く光る。 行くぞと兄の足が動いた。 シグナルもついていった――兄の足跡を追うように。 薊の花に似た妹は、初恋だった。 どんなに棘があっても欲しいと思った。 だが願わなくても彼女はそこにいたのだ――妹として。 優しい色を抱いて、ただそこに。 この心、欺き続けてでも 私はその花を摘むことはしないだろう パルスは静かに自分の唇を撫でた。 ≪終≫ ≪お待たせしました≫ ブログ拍手1000ヒット記念SSです。長らくお待たせしてまことに申し訳ないです。 リクエストいただいていたF様へ贈呈します。 パルシグに、ちゃんとなっているかどうか疑問ですが(なんせ本業?はコーシグ書き)楽しんでいただければ幸いです。 本当にごめんなさい……吊ってきます。 |