共犯者の指 黒衣の彼に後継機、つまり妹ができたのは彼が生まれてから10年後のこと。 いや、もともとその妹を作るために彼は生まれた。 彼は試作品だった。新素材であるMIRAの実用を理論から実証に移すために作られたのだ。 しかし彼は単なる試作品では終わらなかった。試作ですませるには彼はあまりにも高性能だったからだ。 用いた素材の炭素クラスターのせいで、彼はある種の透過装置ではロボットとは見抜かれなくなってしまっていたのである。この思わぬ副産物に制作者たる音井の若先生は一計を案じる。つまり彼を戦闘型として仕上げることにしたのだ。 彼こそ<A-P ver.2.0 PULSE>。 シンクタンクアトランダムが輩出するロボットたち、通称Aナンバーズの中で最初にかつ正式に『戦闘型』を冠したロボットである。 で、彼の妹はその新素材MIRAを用い、動力源に光変軸性結晶SIRIUSを搭載した。 彼女はMIRAとSIRIUSの連動によって行動における諸動作を学習し、記憶できるため、電脳にほとんど負荷がかからない。つまり、空いた容量を自由に使えるようになったのだ。これにより彼女は運動機能に重点を置いたロボットには難しいとされていた電脳空間への機能移行をも実現させることとなる。 その彼女こそ<A-S SIGNAL>。 Aナンバーズの最新作にしていろんな意味で最高傑作。 世界に名立たる音井教授を父に持ち、音井ブランドの末娘としてあらゆる分野に波紋を投げかける。 「手垢にまみれた表現だけどさ」 リビングで男ばかり3人集まって話している様はよほど暇なんだろうなという印象を与えるが、どうして、このメンツのうち、真に暇なのは一人だけである。 話し始めたのはオラトリオ。音井ブランドの長兄だ。 大柄な彼がいうには。 「シグナルちゃんをみたとき、世界がぱーっと変わったね。モノクロの世界にシグナルちゃんだけ輝いて見えたっていうか」 これに渋々同意したのがカルマ。世界初の等身大人間型ロボットである。 「あなたに同意するのは甚だ不本意なんですけど、わかりますよ。シグナルさんは自分を不良品だと思い詰めていた私にも手を差し伸べてくださった……彼女の背中に天使の羽根が見えましたよ」 うっとりと思い出に浸るカルマの脳裏にはやっぱり天使のようなシグナルが見えていただろう。 ところが当の本人はどこでこの話を聞いていたのだろう、血相を変えてリビングに飛び込んできたかと思えば、オラトリオとカルマを引っ張っていったのである。 「おいおい、シグナルちゃん?」 「どうなさったんですか?」 大の男二人をそれぞれ片手で引っ張る彼女も間違いなくロボット。 シグナルはどこか怒ったような表情で研究室を目指した。 「だってふたりとも、視覚がおかしいんでしょう? オラトリオは色覚異常で、カルマ君は幻聴……は耳か、なんていうの?」 「幻視、ですかねぇ」 「とにかく! 二人とも目が悪いんならちゃんと教授に看てもらなわいとだめだよー」 別に異常でも何でもない。 ただ彼女に恋をした瞬間を詩的に表現したらああなっただけのこと。しかしこのシグナルは二人の具合が悪いものと決めてかかっている。 「お願いだから……」 うりゅっと紫水晶の瞳が潤む。泣かれてはまた一大事。 「わーった、わーった。行くから」 「シグナルさんはお優しいですね」 で、二人は仕方なく研究室にいくことにした。 音井教授に『揃ってなんて珍しいのぉ』と言われたのは想像に難くない。 シグナルは残る兄に向き直る。 「パルス兄は? 大丈夫」 「ああ。ちょっとぼんやりしているが、いつものことだ。次のメンテナンスの時にレンズを交換してもらうつもりでいる」 「そう、よかった」 泣くのかと思ったら花のように笑う。 これが私の妹なのだ。 パルスはシグナルの紫の髪をなでる。彼が初めて彼女と出会ったとき、彼女はまだ空色をしていた。あの色もとてもきれいだったと、パルスは思う。 空色の妹、知っている人物はロボットも含めてそう多くはない。 あの空色に薄く紅を綯い交ぜて生まれたこの紫――ああ、その紅は誰の色だったのだろう。 私の瞳の色だったのか、それともかの人の。 「……パルス兄?」 呼びかけられて、パルスははっと妹をみた。 彼女は不安そうにそこに立っている。彼の手が届く、その場所に。 「っ、どうした?」 「怖い顔、してる……」 「何でもないよ。シグナル。大丈夫だ」 「本当?」 「ああ」 もう一度、彼はシグナルの髪をなでる。その手がいつもと変わらなくて、シグナルは改めてほっと息をついた。 優しい妹。 可愛い妹。 世界でたったひとりの、私の妹・シグナル。 彼女には生まれながらの伴侶がいる。その伴侶は実はパルスやオラトリオがずっと生まれる前からT・Aに君臨していた。 <A-C CODE>――Aナンバーズの中でも2番目となる古参のメンバーだが、最古参であるアトランダムがボディ、プログラムともにお蔵入りしていたこともあってか、プログラムだけ稼働していた彼を最古参とすることもある。 とにかくコードには誰もが一目おいている。 そんな彼がシグナルの伴侶になったのはシグナルの創作過程で生まれたひとつの事実がきっかけだった。 彼女の学習能力の容量があまりにも膨大であることがわかった。問題は学習の質にある。 たとえば歩くにしても、人間はただ歩いているわけではない。足を動かして前に進み、手を動かしてバランスをとり、目や耳を使って周囲の環境を感じ取っている。 さすがにAナンバーズを冠するロボットにおいては負荷は少ないが、プログラムを少しでも間違うと、人間には簡単な動作でさえもロボットにはできない、ということになりかねない。事実、ロボット工学の黎明期には歩いて踊れるロボットがもてはやされた。 音井教授は娘のために学習を補助してくれる存在を求めた。それがコードだったのである。 新素材で作られる新しい娘――Aナンバーズの最新型。 かつて相棒たる存在をなくしていたコードにとって願ってもない話であった。 コードは自分の姿を鳥にすることを条件に、シグナルの相棒となることを引き受けた。 それが、パルスとシグナルの間を少しだけ変えた。 もちろん、今だってパルスとシグナルは仲のいい兄と妹だ。それはなにも変わっていない。 変わったのはたぶん、想いのベクトル。あるいはその質。 シグナルは最初こそコードの眼光の鋭さにおびえはしたものの、じきに慣れていった。それが今ではコードの恋女房としてちゃっかり収まっている。 面と向かって表に出さないものの、パルスにはそれが何となく気に入らなかった。 いつもパルス兄パルス兄と自分の後を追いかけてきた妹が、彼氏ができたとたんあっと言う間に乗り換えた。 シグナルとコードが同素体で、かつ本機と補助機であるという関係を考えればいたしかたないかとも思う。 しかしやはりどこか納得がいかない。 シグナルがパルスの後継機であり、パルスがシグナルのための試作品であるのなら、二人は同一規格機であるともいえるだろう。 なーんてごちゃごちゃ考えたところでなにも変わらないとわかっていても、パルスはどうしても考えてしまう。 だって、妹を女として愛してしまっていたから。 それは人間における禁忌でも、ロボットにはそうではない。血縁における倫理など、適用するほうが土台無茶な話だからだ。だがロボットとして人間社会への適応を求められる以上、加味しておかなければならないこともまた事実。 こうした垣根を無理矢理越えてしまおうとしているのが<A-O ORATORIO>だ。 彼の立場はいろいろと複雑だ。 個体名はAナンバーズを冠しているが、厳密に言えば彼はAナンバーズではない。彼は<ORACLE>のために作られた独立主権のロボット。彼はAナンバーズの型にはまらずに活動している。制作者が音井教授だったこともあって音井ブランドに入れられているが、法的な、あるいは組織的な立場からみれば彼はシグナルの兄とは厳密には言いにくいところがある。 それは同じカシオペア博士に作られながらコードとEシリーズのロボットたちと、オラクルとが兄弟ではないのと同じこと。 シグナルちゃんには難しいかなあとおどけたオラトリオの前に、シグナルがめそめそしだしたのはつい先頃のことだったような気がするなと、パルスは一人思い出す。 兄ではなく他人なら、シグナルを女性として想うことに何ら問題はないのだ、とヤツは堂々と言ってのける。 立場的に面倒なオラトリオが、シグナルに関しては実に自由な立場にいる。しかもパルスでは全く歯が立たない。 さらに質の悪いことに、シグナルには自分は半分くらいは兄ではないといいながらもお兄ちゃんはねと彼女に甘えるのだ。家族や仲間を大事にするシグナルにしてみればオラトリオの立場がどうあれ、たとえ半分でも兄は兄として構う。だからオラトリオが調子に乗るのだ。 セクハラされたと泣かされたときも、もう構うなと言ってやった。それなのに妹は鳥頭なのか、数日後にはのこのこと近づいてまた同じ目に遭っている。 「やれやれ……」 ソファに深く腰掛け、パルスはもう一人の敵を思い出す。 カルマだ。 彼こそ実質的な世界最初のHFRである。ハーモニーをして世界最初とするが、ハーモニーの場合は身長が30センチしかない。体躯は人間のものでも、彼は小さすぎた。 よって人によってはカルマをこそ世界最初のHFRとして扱う傾向にある。 そのカルマは海上都市リュケイオンの市長として期待されていた。が、しかしシステム上無理があると判断され、解任されてしまった。自分を不良品だと思い悩むカルマを救ったのもまたシグナルだった。 「カルマ君が不良品なら私なんかもっとだよ? バグだって抱えてるし、いつまで立ってもひよこひよこって言われるし。でもね、みんな完璧じゃないんだよとも言われるの。できることをやればいいって。いてほしいって望まれてるんだから、カルマ君もここにいればいいよ」 ロボットとしては幼子のシグナルの言葉は、カルマの心の負荷をどれだけ取り除いたのだろう。その日からカルマは目に見えて安定し始めた。その安定が今度は恋という要素の前にまた彼を強くする。音井家のハウスキーパーとしてシグナルの尊敬を集め、パティシエとしてスイーツで彼女の気を引く。セクハラされれば一回りも体格の違うオラトリオとの対峙だって辞さない。 さらにやっかいなことに彼はロボット統括の地位についた。その気になれば彼はシグナルを一日中手元に置いておくことだって可能になったのだ。 「敵が多すぎるな……」 コード、オラトリオ、そしてカルマ。 パルスはふと、自分の唇をなでた。 些細な罪だと自嘲しながら。 パルスの瞳によく似た夕暮れの中で、兄と妹は共犯者になった。 兄は妹を女として愛し、妹は夫のある身でありながら兄のささやかな想いを受け入れた。 ただふれあうだけの、刹那の口づけ。 誰にも内緒だと振り返らずに言ったシグナルの後ろ姿が鮮明に思い出された。 罪の共有ほど、特別なことはない。 そう、あれは単なる口づけではないのだから。 深い傷の痛みから目覚めた彼女への『おかえり』のキスはパルスにとってかなりの勇気を要した。 苦悩するからこそのこの想いを素直に吐き出せない男の、せめてもの表現。 柔らかな唇だったなとほくそ笑む。 そういう甘美な思い出に浸っているときに限って、共犯者たる妹は、その罪を些細も感じさせぬほどの闊達さで抱きついてくる。口唇よりも柔らかい両の乳房を押しつけるようにそれこそむぎゅむぎゅと。 「ぱーるーすー兄っ」 「な、なんだっ、いちいち抱きつくなと言っているだろうがっ」 「いいじゃない、兄妹なんだし。それよりおつかい手伝って。みのるさんにいっぱい頼まれたの。パルス兄も連れて行きなさいって」 「なんだ、荷物持ちか」 パルスはシグナルの頭をぽんぽんとたたく。シグナルはさっと兄を解放する。言われなくてもわかる、兄妹だけのサイン。 「上着をとってくる」 「じゃあ玄関で待ってる」 紫の長い髪を翻し、颯爽と歩くシグナル。 傷の後遺症はもうどこにも見られないようだ。 安堵しながら、複雑な思いに駆られる。彼女が動けなかった頃は悔しくもあったが、不思議とこのままでもいいと思えた。私を見ない、呼ばない妹。だけど、あのときは誰もがそうだった。誰もが彼女を見つめ、呼ばいながらも、彼女は誰にも応えなかったのだから。 それが今は、誰をも同じように見つめ、応える。 いったいどうしたい――どうしようもないとわかっていても。 パルスは上着を羽織り、玄関に向かった。 玄関ロビーではシグナルがもう一度みのると買い物メモを突きあわせている。 シグナルはパルスに気がつくとにぱっと笑って見せた。 「パルス兄、早く」 「ごめんねぇ、パルス君」 みのるがパルスに手を合わせた。戦闘型をおつかいに使うなど、音井家の人間でなければ思いつきもしないだろう。 パルスは気にしないでくれと手を振った。 「いいえ、暇ですから」 「シグナルちゃんの護衛もよろしくね」 「は……」 少しからかうようなみのるの科白にパルスは思わず返答に困った。 本来戦闘型であるはずのシグナルにはそういう意味での護衛は必要ない。ただ当の本人がぽえぽえの天然なせいで、ナンパされたり誘拐されたりする。ソーシャルな部分には滅法弱いのだ。とはいえ、いつもいつも誰かがついているわけではない(まあたいていの場合はコードが上空から見守っている)。今日は買い物の量が多かったので荷物持ちができるパルスがシグナルによって指名されたにすぎない。 (ということはどこかでコードが……) 戦闘型ゆえなのか、パルスはとっさにサーモグラフィに切り替えた。どんなにコードが木陰に隠れていようとも彼にはその存在がわかる。 コードらしき熱源が木陰に隠れている。ほかの鳥と間違うはずもない、彼は大型の猛禽なみに作られている。 「パルス兄? どうしたの?」 パルスはさっと視覚を通常モードに切り替えた。 黒と熱源色だけだった彼の世界がシグナルの声によって極彩色に生まれ変わる。その中でも妹はひときわきらめいて見えた。 それがMIRAによる煌めきのせいだとわかっていても、パルスはしばらく目を離すことができなかった。 「パルス兄?」 「すまん。なんでもない。行こうか」 「……うん」 射干玉の髪をさらりとゆらし、パルスは歩く。 紫苑色の髪をふわりとなびかせ、シグナルはほんの少しの後を追う。 「パルス兄は、優しいよね」 「何だ、藪から棒に」 「だって、おつかいにつきあってくれるもん。オラトリオもカルマ君もなんだかんだって忙しそうだし、コードじゃ荷物持てないし」 なんだそんなことかとパルスは小さくため息をこぼす。 優しいわけじゃない、ただ暇なんだ――戦闘型だから。 でも優しくしたくないわけじゃない――だって兄妹だから。 「ちびちゃんもいつも言ってるの。最後まで遊んでくれるのはハーモニーとパルス兄だけだって」 それが、どうした。 パルスの中で一瞬だけ目覚めたあの衝動。 私が優しくすれば、お前はその代償に、私に何を与えてくれるんだ。 ただ望むままにそばにいてくれるというのか。 ありえない思いを抱いて、しかもそれと気取られぬようにパルスは歩く。 そんな彼の手を、シグナルはそっととった。 「……なんだ?」 「……ごめんね。私、やっぱりコードが好きなの」 ほんのわずか、刹那より短い刻。 パルスの動きが止まった。 しかしそれがわからないシグナルでもない。 「もちろん、パルス兄のことも大好きだよ。でも……たぶん、違うの。コードへの好きと、パルス兄への、好き」 コードは伴侶で、パルスは兄だから。 近親者を他人のように愛してはいけない。 近親者への愛はあくまで近親者へのそれであるべきなのだ。 わかっている、狂おしいほどに。 「パルス兄」 「ん?」 「だけど私たちは、共犯者なの」 通わせてはならない想いに揺られながら、あの日。 兄の瞳の色によく似た空間を二人で歩いた――何も考えずに。 だからあの日のように、今も歩けばいい。 何も考えずに。 俺様が何も知らないとでも思っているのか。 コードにとってパルスはほぼ他人に近い存在だった。音井教授と正信が手がけたロボットだったし、彼の心理プログラムについては、妹のみのるが育児休暇中だったため、教授自らがみのると相談しながら組んでいたはずである。 また、パルスの制作におけるコンセプトが『新素材適用への実証確認』だったためか、コードの関心は希薄だった。 完成し、起動してみてからも電脳空間に住まうコードと現実空間に暮らすパルスとでは、最初の顔合わせ以来、ほとんどあったことも会話したことすらもなかった。 そんな彼らを結びつけたのは、やはりシグナルという存在である。ただ、深くて暗い溝を作ったのも彼女であると言わざるを得ないだろう。 それが、たとえ男同士の自然で、しかし意味不明な嫉妬が原因だったとしても。 パルスを兄として慕い、体術の特訓をねだるシグナルは妹の顔で彼に近づく。他方、コードを夫として愛するとき、彼女は弟子であり、幼な妻だ。 しかし、最近パルスの顔が違う。シグナルに、兄として近づいていない。そしてシグナルは、ほんの少しだけ女の顔をした。女の顔で、彼を唇に受け入れた。 『私たちは共犯者なんだよ……』 罪の意識はあるのだろう、あれ以来、シグナルはパルスに女の顔を見せない。 パルスは努めて兄の顔をしている――あくまで『努めて』。 白い布団の上でシグナルを抱きながら、コードは思う。 どこにも行かないでほしい、この手を離したくはない、俺様のほかは、誰も男として愛さないでほしい、と。 欲が深いと笑ったのはかつての自分。 まだシグナルを失うことに怯えていなかった頃。 「シグナル……」 白い肌に唇を這わせながら名を呟けば、くすぐったいと笑うシグナル。それでもなあにと優しい声音で応えてくれる。コードはただゆるりと微笑んで、また肌に触れた。 「なんでもない」 「気になるよ」 「呼んでみただけだ」 シグナルの体がきゅっと縮んで、薄紅色に染まり始める。こんな彼女を知っているのは、自分だけでいい。 現にシグナルは今日もオラトリオに理不尽に体を触られたといって半泣きでロケットランチャーをぶちかましていた――しかも<ORACLE>で。まあオラクル公認だったからいいんだろうなとは、コードも何となく思っていた。 それほどまでにシグナルの操は堅い。 パルスにだけ。 そう、あいつにだけだ。 コードの脳裏に一つの計画が浮かんで消えた。 共犯者は一人ではないから、共犯者なのだ。 (今回限りは俺様、口を噤んでいよう) 心地よい疲れに抱かれて眠るシグナルの髪を梳き、コードは苦笑した。 下手に彼女を傷つけ、失う契機を自分で作ってどうするというのだ。それこそ下衆の勘ぐりというもの。 シグナルの伴侶は自分だけでいい。伴侶として思われていれば、それでいい。たとえ誰が彼女を愛そうとも、それだけが変わらなければいい。 それは王者の余裕。 コードだけに許された藤色の冠だった。 シグナルのことを、女性として愛した。 そう自覚してからも、パルスはオラトリオのように露骨に彼女に迫ったりはしなかった。 彼はあくまで兄としてシグナルのそばにいることを望んだ。そうしたほうが、幾分楽だったし、なによりも傷が浅くて済んだ。 そう、嫌われるよりも兄としてでも愛してもらう方が楽しくもあった。 オラトリオにセクハラされたと泣きじゃくる彼女をなだめる、現実空間での特権は実はパルスのもの。 コードは彼女を抱く腕も胸も持っていない。 よしんばあったとしても彼はそう易々とシグナルを腕に納めたりはすまい。コードはそういう男なのだ。 リビングのソファで、シグナルが泣き疲れて眠っている。 オラトリオにセクハラされたと訴え、いつものように男3人(うち鳥1羽)が彼を成敗した。 それと知ってか知らずか、シグナルは涙に濡れた顔のまま、すぴすぴと眠っていた。何とものんきなものだと思いながら、誰も彼女を起こさない。 男たちも、至ってのんきだ。 起こさないように顔を拭くのはカルマで、見守るのがコードとパルス。 そのカルマが別の用事で席を外すと、残されるのはシグナルの兄と夫。 恋しい少女を挟んで、けれどにらみ合うことはなく。 なぜなら二人がシグナルに捧げる未来も、シグナルから与えられる未来も、全く異質だったからだ。 パルスがシグナルの伴侶たり得ないように、コードもまたシグナルの兄になることはできない。 ならばいっそいがみ合うよりは彼女とともに未来を過ごす方が有益に決まっている。 そんな話などしたこともなかったのに、男二人の内情が一致したのは偶然か、それとも。 「ふみゅ……」 猫のような声を上げて、シグナルが目を覚ました。 兄と夫はそれぞれに寝起きの彼女を見守る。 「ほえ、私どうしたんだっけ」 「オラトリオにいじめられたといって泣きついてきたんだぞ、覚えてるか?」 しばしの逡巡の後、シグナルがこっくりうなづいた。 それはちゃんと覚えているらしい。 「オラトリオは俺様たちで成敗しておいたからな」 「うん、ありがとう」 にっこりと微笑んでお礼を言うシグナルにどこかほんわかしながらも、けれど二人がシグナルを徹底的に甘やかすことはない。 「だからオラトリオには近づくなと言っている」 「ロボットのくせにとんだ鳥頭だな、お前は」 慰めてくれるのは嬉しいけど、二人は容赦ない。シグナルはふみゅみゅと身をすくめ、けれど反論を試みる。 「だってオラトリオの方から近づいてきたんだもん。逃げたけど、捕まっちゃって……」 「逃げ方が足らん」 「三十六計、逃げるが勝ちだぞ」 「だから逃げたんだってばー」 敵に背を向けることを潔しとしないシグナルが信念を曲げて逃げ出したのはやはり戦略上のこと。 コードやパルスの教えでなければ実行していない。 むすうとすねて見せたって彼らにはどこ吹く風。 なんたってコードはAナンバーズの古参にしてロボットの生き字引(かつてシグナルは生き地獄といって彼を怒らせた)。パルスはAナンバーズ唯一の歩く兵器。 戦闘に関してはエキスパートと呼んでも差し支えのない二人なので、たとえシグナルがどんなにむくれようとも関係ない。未熟者は未熟者なのだ。 乳ばっかり熟しても(戦闘型としては)しょーがないのである。 「とはいえコード、一生……というか、未来永劫シグナルがオラトリオに近づかないですむとは思えないが」 なんだかんだいってもオラトリオとシグナルは親を同じくする兄と妹。また、戦闘型でありながら電脳空間転移機能を持つ彼女だから、各種プログラムを扱うオラトリオとはどうしても接点を持ってしまう。 「そういえばシグナル、お前この間<ORACLE>でロケットランチャーをぶっ放してたが、誰に習った?」 「パルス兄から、一通り教わった」 もっともさすがのパルスもロケットランチャーなんて所持していないから、映像を用いた理論指導だった。しかしそれでも、たとえ電脳空間でとはいえ、ロケットランチャーを使用できたとは、シグナルの戦闘センスには舌を巻くものがある。 「というか、<ORACLE>でか?」 「オラクルがいいって言ったんだもん」 電脳空間でのことは、機能を持たないパルスにはよくわからないが、<ORACLE>の特殊性と重要性はわかる。 そんなところで痴漢な長兄をロケットランチャーでお仕置きとは、シグナルは相当なお怒りだったのだろう。 「まあ、とにかくシグナルには訓練を積ませるよりほかないな」 「そうだな」 現実空間ではパルスが、電脳空間ではコードが彼女を戦闘型として導く。 そう、彼らには彼らなりの密約とも言える関係がある。 「体術を基本にした方がいいだろうか」 「いや、それだとオラトリオに近づかなければならなくなる。やはり飛び道具を基本にしてだな」 「飛び道具を押さえられたときのことも考えておかねばならないだろう」 「ふむ、それもそうだな」 そうだ、これでいいんだとパルスは思う。 愛しい彼女のために自分ができることは、これしかないんだと知っているから。 空が朱色の滲んでくる。 西の空が大きな虹のように揺らめき始めた。 「……日没、か」 太陽が死んで夜が生まれ、夜が死んで朝が生まれる。 世界は幾度となく生まれ変わりながら、生まれてくるに足る浪漫を求めて。 愛しいと叫び、奪うことを抑制した彼。 漆黒の髪が、赤い瞳が目したまま立ち尽くす。 未来を捧げた代償に、何を願うことが許されるだろう。 東の空に浮かんだ月は淡く白い。 彼の唇は何も紡がず、歌うこともしない。 ただあの日のことを思い出すのみ。 「共犯者……」 共に罪を犯せし者――私と、彼女は。 そう、それは私と彼女だからこそ、できたこと。 コードでは、やはり無理なのだ。 そんなほんの少しの優越感、パルスはそれを静かに胸に抱く。 そして自嘲した。 破壊願望を乗り切ったかと思えば今度は共犯者思考に微笑む自分。しかも相手は世界で一番やっかいな女性。 波瀾万丈なんて望んじゃいなかったけれど、しかしまあ。 パルスは静かに赤瞳を閉じた。 「パルス兄ー!」 「ん、シグナル」 振り返ればそこに、買い物袋(当然エコバッグ)を持ったシグナルが現れた。聞けばおつかいの帰りらしい。 「そこ歩いてたらパルス兄が見えたから。お散歩なんて珍しいね」 「そんなことはない。私だって散歩くらいするさ」 わしわしとシグナルを撫でる手は、兄の手で。 けれど彼女を見つめる瞳は、恋する男の目で。 このことに彼女は気がついているだろうか――できれば、気がつかないでほしい。気がついても、素知らぬふりをしてほしい。 そうでなければ、また彼女を巻き込んで罪を犯してしまいそうになるから。 「……帰ろう、パルス兄。みんな待ってるし」 「そうだな」 そう、それでいい。 私はお前の兄でいいんだ。 並んで歩く後ろ姿がよく似ていた。 ある日の黄昏、共犯者たる兄と妹 ≪終≫ ≪お待たせしました≫ あんまりすごくないですけど。えっと、確かこれは……そう、サイト開設6周年記念でリクエストを受け付けたものです。今がいつかなんて言えないっ! F様、お待たせしすぎてすみませんでした(土下座)。 前作『初恋薊』の続編でもありますが、独立した作品として読んでも一応大丈夫なように書きました。 やっぱあれですよね、パルシグもいいですよねぇ(うっとり)。 というわけで超絶遅刻。 ちょっと至近距離から攻撃されてきます。 |