楽しい斉の作り方 〜それぞれのあとしまつ 1時間くらい前から、太公望がだらだらしている。 この機を逃してはならない。 でないと、次にいつ彼女に会えるのか全く見当もつかないからだ。 発は邑姜から抱き受けた子を、だらだらする太公望の上に乗せた。 「なんじゃ?」 「俺と邑姜の子。男の子」 生後半年だという男児がだあと太公望に手を伸ばす。太公望はむくりと起きあがった。 「抱いてよいのか?」 「抱いてやってくれ。あんたの血も、オヤジの血も引いてる子だ」 「そうか、文王の孫だな」 そういって太公望は赤子を抱いた。小さくて柔らくて、不思議な匂いのする赤子。人であった頃の自分が持つことを許されなかった小さな命がここにある。 「可愛いのう。名は?」 「誦って書いて、≪しょう≫ってつけた」 この名を聞き、きょとんとして見せた太公望に、発が困惑した。 「え、なんかマズい?」 「いや。誰がつけたんだ?」 「俺と邑姜と旦で話し合って決めた」 「ならいいか」 誦は太公望を気に入ったらしく、彼女の腕の中できゃあと歓声を上げている。 「何か、問題でも?」 「周公旦、おぬしも気がついておらんのか?」 「はい?」 「おぬしらの父にして、この子の祖父の名はなんと言ったかのう……」 そういってふふと笑った太公望に、発と旦があっと声を上げた。 「オヤジと同じ名前にしちまった」 「字が違うから大丈夫……ですよ、ええ、多分」 「うっかりしてたわ……」 今の今まで誰も気がつかなかったらしい名を付けられたこの子は後の成王誦である。 彼の祖父である文王・姫昌と同音異字の名だった。 「まあ良くあることだよ。それにしてもこの子は生後半年……なのに邑姜、おぬしなんかふっくらしとらんか?」 「ええ、実は二人目が……」 「ほう。めでたいな。武王もやることはやっとったのだな」 「うっせ。子供が産まれるのは俺だけじゃねーや」 そう言ってどっかり座った発が旦を振り返る。 「旦だって嫁もらって、子供が産まれるんだぜ」 「酔狂な女御がおったのじゃな」 「酔狂は余計です」 太公望が誦を抱いているのでツッコむだけにとどめ、旦が薄く頬を染めている。彼の細君の名は残念ながら伝わっていないが、生まれた子は後に魯の君主となる伯禽である。 そして邑姜の胎にいるまだ見ぬ子は成王の弟・唐叔虞、晋という国の宗主になる。 次代を担う子どもたちに、太公望は目を細めた。 「誰もが親と時代に望まれて生まれてくる――誰の種であれ、誰が生んだものであれ、本質は変わらぬ」 「太公望……」 「それさえ忘れぬ子であれば、それでよい……」 太公望は誦にんーと頬を寄せる。 そんな彼女を、誰もが温かい笑みを浮かべて見守った。 「でさ、太公望」 「ん?」 「俺ら、ちょっと考えたんだけどさ。封地を用意したからもらってくれねーか?」 ここから少し離れた、海を臨む東方の地だという。 「封地、だと? わしはそんなもん要らんぞ」 ふえ、と泣き出した誦を邑姜が抱きとって引き上げる。どうやらおむつの替え時らしい。邑姜に抱かれた誦が部屋を去るのを見届けて発と旦が話を続けた。 「そう言うと思ったけどさ。でももらって欲しいんだ」 「別にそういう礼が欲しくてやっとったわけではないぞ」 「わかってる。でもこれは邑姜の願いでもあるんだ」 「邑姜の?」 後の話を引き取ったのは旦だった。 「政治的な理由がいろいろあるのですが封地を作った大きな理由は、姜族を保護するためです」 「姜族の保護……」 太公望がぽろりと呟く。 「遊牧民族は獲物として狙われやすいって聞いたから。太公望もそうだって言ってたろ? 子供の頃ひどい目にあったって。だから」 「バラバラになっている姜族が一つにまとまって国を作ったらよろしいのではないかと思いまして。まあ流浪の民が定住を好むかどうかという問題はあったのですが」 「邑姜に聞いたら、姜族もそろそろ転換期に入らないとっていうし」 「しかし、ならばわしが宗主でなくともよかろう」 太公望がそう言うと発と旦は顔を見合わせて笑った。こういうところは顔に似ていなくても兄弟だ。 「だって、姜族の中で一番年長なの、おまえだし」 「どーせわしは婆だよ」 「邑姜殿は王后なので宗主にはなれないのです。また、武王もお持ちでない直轄領を持つことも憚られましたのでやむなく」 「……そういうことなら、遠慮なく貰うておこうかの」 姜族の未来のために。 このあと、流浪の民による羊の国はどんなふうにかわっていくのだろうか。その変貌が楽しみだ。 「では、あとはわしの好きにしてよいのだな?」 「ああ、かまわない」 「なるべく長持ちさせてくださいね」 太公望はこっくりと頷いた。 彼女が武王から下賜された封地の名は≪斉≫――等しい、という意味を持つ国号である。 太公望は楼閣から外を眺めた。 まもなく都が移される。殷の朝歌から周の鎬京へ、時代とともに都も移る。 ふと楼閣の下に目をやると、一人の青年がこちらを見上げているのに気がついた。 太公望は何気なくひらひらと手を振る。すると青年はぺこりと頭を下げ、足早に去ってしまった。 残念ながら遠すぎて表情は見えない。 「ふふ、可愛い若者だな。あの方は召公殿か」 「そうです。あなたがお空で戦っている間に周に協力してくださることになった方です」 その名を爽(せき)という、召族の青年だ。彼もまた幼い王を補佐して歴史に名を刻む。 太公望とはまた後に出会う青年との、これが最初の邂逅だった。 「そういえば、その後の仙人界はどうですか? 伯邑考の兄上や、雷震子は、いかがしておりましょうか」 「ふたりとも変わりなくやっておるよ。あっちで元気に、というのも変なものじゃがな」 「そうですか……」 旦は太公望の隣で街を見下ろした。 ここにいると、殷がいかに腐敗したのかが分かる。 そして、新たな国を作る重責も。 「小兄様と私と邑姜殿……今のこの世界で≪仙道の居た時代≫を知る者は少なくなってしまいました」 「周公旦」 「あなたも去ってしまって……私は誰にハリセンを向けたらよいものやら」 「年寄りは労われと父に言われんかったか?」 旦は構えていたハリセンをそっと降ろした。彼はこのハリセンでのちに成王の教育の為と称して我が子・伯禽を殴る。 「神話は終わったのだよ。これからは人の、祈りと努力の時代だ……おぬしがその先駆けとなれ」 「……とても、重いですね」 「おぬしならできるよ」 そういって太公望は旦の肩をぽんと叩いた。 夜風が回廊を突き抜ける。 四畳半の畳の上で、神話の人はぼうっと空を眺めていた。 「太公望さん、部屋を用意しましたからそちらに移ってください。そこは寒いでしょう」 背後からの声は邑姜のもの、太公望はああと振り返った。 「ここでかまわんかったのに。手間を取らせたの」 「いいえ。お年寄りは労わらないと」 「妊婦も労わらんとな。産み月まで体を労わるのだぞ」 「はい……」 邑姜は頬を染めて頷いた。 「腹をなでても良いか?」 「ええ、どうぞ。まだ何も感じないんですけど」 「でも確かにそこにおるのだよ」 太公望は邑姜の腹にそっと触れた。彼女だからこそ感じる胎動がそこにある。 「元気に育つのだぞ。あ、でも慌てて出てこなくていいからな。時満ちて生まれてくるのだぞー」 「太公望さんたら」 「子供のしつけは最初が肝心らしいからの」 それは優しい祈りの言葉。 「さ、おぬしも部屋へ戻れ。武王が心配していよう。わしは女官にでも案内してもらうよ」 「はい。ではお言葉に甘えて」 邑姜はおやすみなさいと低頭して、太公望に背を向けた。 しかしいけないと思い直して振り返る。まだ言うことがあったのに忘れていた。 くるりと振り返った邑姜、太公望の背中を視界に入れて驚く。 「え……?」 太公望の背後に、緋色の炎が見えた。 ゆらゆらと揺れるその炎は、太公望が客室に入るにいたり、ようやく人型をなした。 その姿を見つめ、太公望は苦笑する。 「おぬしは、これでいいのか?」 闇夜の豹もかくやの瞳で、けれど彼は優しく太公望を見つめる。 「俺は、伝えるべきことはすべて伝えた。語り継ぐのはあの子たちの役目……」 だからもういいんだと、それでも男は寂しげに笑う。 「望のおかげで、ここまで来れた」 父と息子を失ったこの朝歌は、すでに死んだ都。 武王たちはやがてここを引き払い、鎬京に遷都する。 望は揺らめく昌に向って笑いかけた。 「わし一人の力ではないよ」 「だけど俺が信じて託したのは望――あなただけだ」 「……昌」 太公望の体が炎に包まれる。 そのまま寝台に倒れ込み、恍惚とした表情で静かに焼かれ続けた。緋色の炎は望だけを甘く焼き焦がす。 ふと、昌が思いついたように言った。 「……夢枕にでも、立ってやるかな」 「なんだ、まだ言い足りぬのではないか」 「人の業、なのかな……」 「かもしれん」 太公望の言葉に昌は微苦笑を返す。 「ちょっと行ってくる」 「うむ」 ふわりと触れたのは互いの唇、太公望は自分の唇をそっと指で撫でた。 その日、邑姜は夢を見た。 彼女の前に、緋色の衣を纏う青年が立っていた。夫の武王かと思ったら、一緒にするなと叱られた。じゃあ誰なのかと問うても、彼は内緒と笑うだけ。 青年は言った。 「太公望と血を同じくするあなたに、贈り物をしよう」 「贈り物?」 「そう――あなたの腹の子に、名を」 青年の唇から小さな珠玉が生まれた。燃えるように赤いその玉がすっと邑姜の体に入っていくと、まるで溶けていくかのように邑姜を満たした。 「この子の、名を……」 「そう。虞と名付けられよ」 「虞……」 古代の聖帝の名を持って、彼は生まれてくる。邑姜は小さく微笑んで腹を撫でた。 「ありがとうございます」 「いいえ、こちらこそ」 「どういう意味ですか?」 「……内緒です」 なにを聞いても青年は肝心なことを教えてはくれない。何でも内緒なのだ。 「でも、太公望さんと私の関係をご存じということは、やはり関係者では?」 「……鋭いお嬢さんだ」 青年は一つ笑みをこぼす。 「俺のことはいずれ教えて差し上げる」 いつかあなたが、この世界を離れるときに。 それまでどうか、息子たちを、孫を、そして生れたばかりの周を。 「では」 青年は邑姜の前に会釈すると、そのままふわりと消えていってしまった。 邑姜は呆れたようにため息をついた。 「無責任な人……武王みたい」 自分で呟いて、邑姜ははっとした。 武王によく似ていて、夢枕に立てるような人物はあの方くらいしかいないではないか。 どうしてすぐに気がつかなかったのだろう。 「――義父上、文王・姫昌様?」 答えは返らない。 邑姜はそっと腹を撫でた。 「よかったわね。お祖父様があなたに名をくださったわよ」 何一つ確信なんてなかったけれど。 これは夢なんだけれど。 「あなたは、虞よ」 母だけがわかる胎児の言葉。彼が喜んでいるように、邑姜には思えた。 次の日。 朝歌から少し離れた平原に姜族の主立ったものが集められた。 「これでも100人もおるのか、うーん」 「言われたとおりに集めましたけど、いったいなにをなさるんです?」 妊婦である邑姜に代わってやってきたのは周公旦と弟の康叔封。集まった姜族の青年たちも何事かとざわついている。 太公望はあらかじめ作ってもらった台によいしょと乗り上げると、手にしていた拡声器で話しかけた。 「あーあー。皆聞こえるかのー」 「聞こえてまーす!」 誰かが返事をして、どっと笑いが起こる。 よしよしと太公望は満足げに笑った。 「皆、聞いていると思うが、このたびわしら姜族は武王陛下から封地を授かった。ここからとんでもなく東の未開の地だ!」 今度はどよどよとざわめきが起こる。 中原の西に位置していた西岐改め周はこの時点では朝歌まで東進していたに過ぎず、未だに東海には達していなかった。周公旦が言った政治的な配慮とは、この東海を平定することにある。 要するに弓矢斧鉞を授けるから――つまりは軍事権を容認するから自分たちでぶん取れということだ。 「武王め、無精しおってからにー!」 「武王だけになー!」 「さらにメンドくさいことにわしが宗主となった!」 「姜太公様ばんざーい」 ばんざーいと声が挙がる。が、太公望は拡声器の音量を最大にして叫んだ。 「いちいち茶々を入れるでない! 話が先に進まんではないか!」 「そりゃそーだ」 話を聞こうぜと誰かが言い、皆が太公望を見つめる。 気を取り直して、太公望は先を続けた。 「宗主として、まず国号を定める。わしは皆に、誰もが安寧とした暮らしをしてもらいたいとも思う。故に、嬉しいことも悲しいことも、楽しいことも苦しいことも、みんなで分かちあえる国にしたいと……そういう意味を込めて≪斉≫と名付けたいが、どうであろう」 太公望の提案に反対する者はいなかった。逆に賛同の拍手が鳴り響く。 彼女はにこりと笑った。 「……ありがとう。では宗主としてここに≪斉≫の創設を宣言するっ」 勝ち鬨の声が草原を満たす。 定住を嫌い、農耕を厭うた姜族の転換がここにある。 「そして、ここで引退宣言! わしは普通の女の子に戻るっ」 「……今更!?」 拡声器をおいて壇上を去ろうとした太公望に旦のハリセンが飛んでくる。 「太公望……」 「ぎゃーっ」 「なにが今更普通の女の子に戻るですか、ご自分がいったい何歳だと。もうすぐ米寿でしょうが」 「米酒?」 「米寿です。そりゃ、あなたは仙道の身、人の歴史に関わるのはいろいろあるでしょうが、せめて彼らだけは導いてくださいよ」 できれば、もっといてほしい。 そう願うのは誰もが同じことなのだけれど。 甘えてはいられない。 仙道の歴史は終わったのだと、そう言ったのは紛れもなく自分なのだから。 周公旦はさあと太公望を壇上に戻す。 太公望は拡声器をしぶしぶ拾い上げた。 「普通の女の子に戻りたかったー。だが先ほど周公旦も言われたとおり、おぬしらを導かねばならぬ。故に後継を決めておきたいと思うのだが」 「異議なし!」 太公望は仙道。そしてこれから作られるのは人の歴史。 いろいろ教わりたいことはたくさんあるけれど、これからは自分たちでやらなければ。 姜族の男たちは≪斉≫の宗主たる望の前に叩頭した。 「新たなる者に道をお示しください。徳をお教えください」 「……うむ。では、後継を定めよう。皆立て」 太公望の言葉に従って皆が立ち上がる。 「どうやって決めようか、いろいろ考えておったのだが……ここはひとつ、じゃんけんで雌雄を決することにする!」 「うおおおおおおおおおお!」 じゃんけんと聞いて異様に盛り上がる姜族のみなさん。逆に旦と封は驚いて太公望に尋ねる。 「じゃんけんなんてなにを考えてるんですか! 後継決めですよ!」 「しかし、姜族では昔からじゃんけんで物を決めておって……文武の才に関係ない、平等な方法じゃから……」 「早く始めましょうよー」 「おーう」 周の幹部を完全に無視した形で、斉の後継を決めるじゃんけん大会が始まった。 「規定を説明するぞー。全員でわしとじゃんけんをして最後まで勝ち残ったひとりが後継者となる。なお、あいこは負けと見なす。それからチョキは必ず食指と中指で作るように。拇指と食指でチョキを作っておきながら必ず本当はグーだのパーだの言い出すのがおるからな」 「いるいるー」 「それから不正を働いたものは即刻退場っ! 負けた者は……そうだのう、その場に腰を下ろしてもらおうかの」 じゃんけん大会のはずなのになぜか柔軟運動を始める者も居て、しかも大会自体はまだ始まっていないにも関わらずこの盛り上がり。これが姜族の民族性なんだろうか。始まったらいったいどうなるんだろうか。 周の首脳陣の心配をよそに、一人の青年が手を挙げた。 「姜太公様! 質問があります!」 「何かのう」 すっと手を挙げた青年に太公望は発言を許す。青年ははっきりした声で言った。 「あいこも負けということですよね? では全員が太公様に負けた場合はどうなるのでしょうか」 「全員負けた場合だな? その場合は一からやり直しとするっ」 敗者復活の可能性もアリだとわかると、一同俄然やる気になって、またしても盛り上がってきた。とても後継を巡る争いには見えない。 「じゃんけん大会……なんですよね?」 封が自信なさげに問う。周公旦はすでに遠くを見つめていた。 太公望が拡声器で叫ぶ。 「斉の次期宗主になりたいかーっ!」 「うおおおおおおおおおおおおおーっ!」 「それではいっくぞー!さーいしょーはぐー! じゃあんけぇん、ぽーんっ」 うおりゃあと繰り出される男たちの手、悲喜こもごもな叫び声。 「ぐああああああ、負けたあああ」 一人、また一人と負けて座りこむ。 「おい、負けたんなら座れよ」 「分かってるけど、気になるじゃん。ここからじゃ見えないし……誰が勝ち残ってるんだ?」 そう言うと負けた人々は見える位置まで移動して再び腰を下ろした。 姜太公の前にはまだ十数名、残っている。 じゃんけんなのにすでに男たちは死闘を繰り広げたかのように気迫にあふれている。 望の前にいた一人の少年がきっと顔を上げた。 「僕は家族を殷の人狩りでなくしたんだ。残った兄は牧野の戦いで僕を庇って死んだ。僕はもう、あんな思いをするのはいやだ! だから絶対に勝って、僕は姜族の国の旗になりたいんだ!」 きっとここにいる皆が同じ思いだろう。それほど姜族は他民族から虐げられてきた。 この少年の瞳には力がある。 太公望はそのまっすぐな瞳にふわりと笑いかけた。 「……よく言った。ならばまずわしに勝ってみよ」 「はい、姜太公様」 「そろそろ大詰めと行きたいのう。では行くぞ! じゃーんけーんっ」 ぽーんっ! 2時間に及ぶ激闘の末、勝者はこの扱という少年に決まった。 太公望は扱を手近に招いた。 「名は何という?」 「扱と言います」 「まだ若いのう」 「17歳です」 「なんと、本当に若かったか。まあよい」 そういうと太公望は後継たる少年に言祝ぎを捧げる。 「姜の一姓にしてわしの姓たる呂を冠し、斉太公となれ。おぬしがこれから姜族を率いよ」 「……はい」 この少年こそがのちの丁公呂扱である。 望は自分のそばにいた多くの少年たちを思わせるような、日に焼けた扱の肌を愛おしそうに撫でた。 「わしはおぬしの後見となり……そうだな、5年くらいは面倒を見てやるか」 「たった5年ですか?」 「5年でも過剰だぞ。武王のそばにもその程度しかおらんかったからのー。それにわしは人妻なので、夫の面倒も見らんといかんし」 「人妻!?」 これには流石の旦も封も驚いて目を見張る。いつの間に、誰と結婚したのだろうか。 一向に答えないままにょほほほと笑う初代の斉太公・望に誰もが唖然としている。 「……一緒には居てくださらないのですか」 「うっ……」 「夫君がおられてもかまいませんから、どうか僕たちのそばにいて下さい」 扱がきゅるんと子犬のような眼差しで見つめてくる。太公望は、実はこういう視線に弱い。が、何とか振り切って逃げた。 「わしは一応仙道ゆえ、もう人の歴史には関わらぬと決めたのだ。だがおぬしらが困ったときには呼んでくれ。そうすれば必ず、わしはおぬしらを手助けするよ」 「望様……」 「そばにおらんくても、心は常におぬしらとともにある……」 「はい」 扱はしっかりと頷いた。 そうして彼らはのちに斉にむかって旅立っていった。 東海を臨むその土地にはまだ蛮族が蔓延っていたが、扱の率いる姜族の師団がこれを撃退、営丘を死守し、これを斉都となした。 こののちも太公望は周や斉に何かことがあるたびに、手伝え助けてと呼びつけられた。 『いい加減にせんかいダアホ!』と怒鳴りつけて完全に手を引いたのはなんと30年後――周公旦も世を去ったあとのこと。一説には成王誦の没後に太公望が亡くなったとも伝えられている。 仙道たる太公望は変わらぬ姿のまま、しかしなんと御歳百歳はとうに越えていた。 彼女は≪悪の政治経済学≫全6巻を置いて去ったのち、周にも斉にも、二度と現れることはなかったという。 扱は二度と会えぬ太公望を偲んだが、泣くことはなかった。 彼女はいつも姜族とともにあるのだと、そう言ってくれたから。 後継決めから数日後、太公望はまたふらりと朝歌を出て行った。 四畳半の畳と置手紙を残して。 揺らめく炎が太公望に話しかけた。 「これであとしまつは終わり?」 「人間界のほうは一応な。まだ波乱は続くだろうが、あとは自分たちで乗り越えていくだろうよ」 ふたりはすでに遠くなった朝歌を見つめて目を細めた。 「そうだな……乗り越えていけるだろう」 「おぬしの子等だからのう」 文王のかわりに武王が。 太公望のかわりに周公旦と邑姜が。 そして多くの仙道のかわりに召公爽をはじめとする諸侯たちが。 「人が歴史を作っていく……」 「そういうことだ」 足元の草が、風に触れて清かな香りを立てる。 「しかしまあ、旦のセリフじゃないけどびっくりしたよ。じゃんけんで後継者を決めるなんて……」 「ほかに方法思いつかんかったしな」 「じゃんけんやくじ引きで王様も決められたら本当に平和なのにな」 「本当にのう……」 そういってけらけら笑いながら、二人はあてもなくのんびりと世界を歩いた。 殷周易姓革命は、確実にこの中原に騒乱をもたらした。落ち着くまでもう少しかかるだろう。 ≪歴史の道標≫から脱却したとはいえ、その影響はまだ薄れてはいない。 しかし人は歩き出したのだ――誰にも指図されない、自由な歴史を。 風が望の黒髪を揺らし、耳元でくすくす笑う。 望もそれに笑ってかえした。 「いーい風だのう……」 「本当に。で。俺たちはこれからどうする?」 「そうだのう。一週間近くも堂を開けておったからのう……」 居すぎたかなと太公望は思う。 でもできるだけのことはしてきたから。 「神界のことも、考ええねばなぁ……」 そう言って望は手褄のように、手元に八稜鏡を取り出した。 その鏡面が揺れて、どこかが映る。 八稜鏡に映し出されたのは神界の様子だった。必死に自分を探してくれている親友や仲間の顔を眺めながら、望はどこか懐かしそうで。 「また覗いてる。そんなに気になるなら自首すればいいのに」 「自首ってなぁ……せっかくおぬしと一緒に居られるのに、神界になぞ行ったら帰って来れなくなってしまうではないか。わしはそんなのごめんだー」 「ああ、そうなると俺も困るな。きっと寂しくて壊れてしまう……」 出会ってから、ずっと実るはずのない恋だと思っていた。 歴史の闇の中に葬られるはずだったこの想いは、≪道標≫の終焉とともに新たな可能性を指し示した。 一体誰がこんな結末を予想し得ただろう――運命というものがあるのなら、今この瞬間だけを感謝したいと、望は涙ながらに思ったその日を思い出す。 「おぬしに壊れられたら、わしは困る。だから神界には行かぬ」 「でも望はそんな顔をしてないよ。本当はみんなに会いたくてたまらないんだろう?」 「昌……」 彼に名を呼ばれた瞬間から彼女は≪太公望≫から≪望≫に戻る。 そして彼女も揺れる炎を名で呼んだ。 望はゆっくりと振り返る。 昌は何も言わずに、ただ笑顔で返す。 「でものう、本当に行けぬのだ。あんなふうに消息を絶ってしまったし」 のこのこと出て行けば袋叩きに会うのは分かっている。どの面提げて戻ればいいのか、流石の軍師にも分からないらしい。 「だから自首って言ったんだよ。逃亡犯の望ちゃん」 「逃亡犯って……」 それなら一緒に居る昌だって逃亡幇助犯に違いない。望がそういうと昌は自分は始祖様に誘拐されたことにすると言い張った。ズルい聖人君子もあったものだ。 しかしやっぱり賢い男は賢いもので。 「それとも逆におびき寄せる?」 「おびき寄せる……か」 「まあどっちにしても望はものすごーく怒られるだろうけどねぇ」 「おぬしは……わしをどうしたいのだ」 くつくつと喉の奥で笑う昌は、次の瞬間にはとてもまじめな顔で言った。 「望が素直にこれでいいと思う道があるのならその道を行けばいいと思う。会いたいけどまだ気持ちの整理がつかないっていうのなら、焦ることはない」 「昌……」 「俺がいる」 そういって昌はその逞しい腕にくるりと望を包み込んだ。 背の高い彼の、熱くて優しい腕。 「会いたくなったらそのときに会えばいい。俺も望と一緒に叱られてあげるよ」 「……うむ」 望は泣きそうな顔で、でも嬉しそうに昌の胸に甘えた。 昌は小さく笑って太公望の耳元に囁いた。 「とりあえず堂に帰って掃除して、それからお茶にしよう。望が好きなのを淹れてあげるから」 「そうするかの」 乗った、と望は咲った。 「昌」 「んー?」 「何分にも不束なわしじゃが、末永くよろしく頼む」 「こちらこそ」 ふたりは楽しげに笑って、望がじぇいっと作り出した亜空間に飛び込んだ。 そう、この時代の風は≪革命≫の名を持っていた。 やがて望は、親友の普賢だけに分かるように居場所を示してみせる。 果たして気がついた彼女と再会を果たすのは、そう遠くない日のことだった。 男の名は周文王・姫昌。 女の名は姜太公・望姜。 今日も山頂の八稜堂から夫婦で静かに世を見守る。 ≪終≫ ≪あとしまつということで≫ 『楽しい斉の作り方』ということであとしまつ・人間界編です。 これに引き続いてあとしまつ・神界編があります。 斉の後継は太公望の子孫なんですが、いったいどうしたんだろうなーと思いまして、まあ養子はよくある話ですから、その養子をどうやって決めよう、とたどり着いた先がじゃんけん大会でした。 望ちゃんならこうやって決めた気がするw |